説法は、説く人と聞く人がいて、成り立つ
法話配信のピンチヒッターを頼まれ、明日収録。
流石に1回通しで話しておこうと思い、本堂でリハーサル。
誰もいない本堂で、法話開始。
思っていたよりも・・・緊張する。
緊張は、誰かが居るから、見てるから、聞いているからするものだと思っていたけれど、誰もいなくても緊張するんだなぁ。
☆
2020年のプロ野球が開幕した。
当面 観客を入れずに試合が行われる。
気が抜けるだろうなぁと思っていたけれど、いやいや、今まで味わったことのない緊張を感じているのではないだろうか。
この雰囲気に慣れた選手から、成績が上がっていくだろう。
この雰囲気に馴染めなかったら、たとえ昨年まで主力であった選手でも、成績を残すのは難しいだろうなぁ。
観客がいようがいまいが関係なければ、わざわざ “無観客試合” であることを書き立てる必要もない。
“無観客試合” であることが注目されるということは、試合する側と見る側(観客側)は本来一体であることの表われ。
見る人がいての試合なんだなぁ。
選手の皆さん、お怪我ありませんように。
☆
法話も、聞く人がいてこその法話。
聞く人がいなければ、お釈迦さまがどんなに素晴らしいお話を説かれても、現代(いま)に教えが伝わっていない。
世が世なら、お釈迦さまも、親鸞聖人も、ユーチューバーになっていただろうか。
南無阿弥陀仏