泣きたいときは 泣いてほしいのです
2009年7月4・5日(土・日) 西蓮寺新盆法要をお勤めいたしました。
この一年の間に、大切な方を亡くされたご門徒さんにお集まりいただき、合同の新盆法要をお勤めいたしました。
法話は、私がさせていただいています。
お盆の由来
『仏説盂蘭盆経(ぶっせつ うらぼん きょう)』というお経があります。
お釈迦さまのお弟子さんの目連さんのお話です。目連さんはある日ふと、亡くなられたお母様がどうされているか心配になりました。神通力を使い、お母様を探されます。
ところが、どれだけ探しても、お浄土にお母さんがいません。もしやと思った目連さんは、餓鬼道という地獄に行ってみます。すると、飢えに苦しみ、痩せ衰えたお母さんがいました。目連さんは食べ物を渡すのですが、お母さんが、その食べ物を口に運ぼうとすると、食べ物が炎に変わってしまい、口にすることができません。
困った目連さんは、お釈迦さまに相談します。「どうしたら母を救えるのでしょうか?」
お釈迦さまは言います。 「多くの修行者の力を借り、お供え物をし、母が浄土に行けるように念じなさい」と。
お釈迦さまが言われた通り、お供え物をし、多くの修行者と共に、餓鬼道に堕ちた人々が浄土に行けるように念じました。すると、目連さんのお母様だけでなく、餓鬼道に堕ちたすべての人々が、浄土に行く姿が、目連さんの目に映りました。
この『仏説盂蘭盆経』のお話が由来となって、日本ではお盆(盂蘭盆)の習慣ができたと言われています。
毎年お盆にお話をしていて、基本的には同じ話をしているのですが、毎年ちょっとずつ変わってはいます。そのときの私自身の想いの違いもありますので。
明日話すという晩、つまり3日の晩、話す内容について考えていました。
で、思ったのです。新盆法要に集まられる方は、この一年のうちに大切な方を亡くされ、つらい想い、悲しい想いをされた方々です。そういう方々が新盆法要にお集まりになって、その法話で聞きたいこととは、こういう話なのだろうか?と。
身近な人を亡くして、「なぜ死んでしまったのだろう」「限りあるいのちをどのように生きればいいのだろう」「なぜ生まれたのだろう」…いろいろなことを考えたはずです。
とりあえず、話の導入として『仏説盂蘭盆経』の話をしてから、声を聞くことにしました。「大切な方を亡くされて、なにか感じられたことはありませんか」と。
おひとり、手を上げてくださいました。
「亡くなった人のことを思い出して、今でも涙が出ます。でも、亡くなった人が心配するから、いつまでも泣いていてはいけないと諭されて…。でも、涙が出るんです。泣いてはいけませんか?」
つらい想いをされたうえに、さらにその想いに蓋をさせられて、余計につらい思いをされていたのですね。
泣きたくなったら泣いてください。声を出して泣いてください。
どんなに涙流しても、涙は枯れることがありません。不思議なものです。もう涙は流れないと思うほど泣いても、また、涙は溢れてくるのです。それを我慢することはありません。
身近な人が亡くなると、いろいろな迷信を言う人がいます。
「亡き人が心配するから泣いてはいけない」
「いつまでも亡き人のことを想い続けてはいけない」
「不幸が続くのは、亡き人が迷っているから」
そのようなことを言う人は、本人としては相手を心配してのことかもしれませんが、そのようなことは言ってはいけません。
物事を亡き人のせいにしてはいけません。
亡き人は、迷いもしないし、生きている私たちを呪ったりもしません。
私たちは、縁を生かされて生きる身です。
我が身に起こることは、すべて縁によります(自分にとって都合がいいことであっても、悪いことであっても)。
亡き人のことを想って涙流すということも、亡き人との縁があるからこそ、流れるのです。
涙によって、亡き人に出会う。亡き人を想うことを通して、私自身を見つめることとなります。
身近な人との別れを通して、我が身に沸き起こる様々な想い。
その想いは、亡き人から与えられたもの。
与えられた想いは、私がこれから歩む人生に、なんらかの道標となる。その想いを打ち消す必要も、隠す必要もなありません。
法話・法要を勤め、食事の時間…お参りされたすべての門徒さんと話すように努めています。すると、「手を挙げられてお話された方の気持ちがわかります」「私も同じようなことを言われた経験があります」と、たくさんの方が同じような苦しい経験をされていました。それだけ、想いを封じ込める迷信が蔓延しているのですね。泣きたいときに泣くことを許されないで、いつ泣けばいいのでしょう。泣きたいときは、泣いてほしいのです。