新盆法要でお話したこと

2009年7月 6日 (月)

泣きたいときは 泣いてほしいのです

2009年7月4・5日(土・日) 西蓮寺新盆法要をお勤めいたしました。
この一年の間に、大切な方を亡くされたご門徒さんにお集まりいただき、合同の新盆法要をお勤めいたしました。
法話は、私がさせていただいています。
  
   
     
お盆の由来
『仏説盂蘭盆経(ぶっせつ うらぼん きょう)』というお経があります。
お釈迦さまのお弟子さんの目連さんのお話です。目連さんはある日ふと、亡くなられたお母様がどうされているか心配になりました。神通力を使い、お母様を探されます。
ところが、どれだけ探しても、お浄土にお母さんがいません。もしやと思った目連さんは、餓鬼道という地獄に行ってみます。すると、飢えに苦しみ、痩せ衰えたお母さんがいました。目連さんは食べ物を渡すのですが、お母さんが、その食べ物を口に運ぼうとすると、食べ物が炎に変わってしまい、口にすることができません。
困った目連さんは、お釈迦さまに相談します。「どうしたら母を救えるのでしょうか?」
お釈迦さまは言います。 「多くの修行者の力を借り、お供え物をし、母が浄土に行けるように念じなさい」と。
お釈迦さまが言われた通り、お供え物をし、多くの修行者と共に、餓鬼道に堕ちた人々が浄土に行けるように念じました。すると、目連さんのお母様だけでなく、餓鬼道に堕ちたすべての人々が、浄土に行く姿が、目連さんの目に映りました。 
この『仏説盂蘭盆経』のお話が由来となって、日本ではお盆(盂蘭盆)の習慣ができたと言われています。
 
 
 
毎年お盆にお話をしていて、基本的には同じ話をしているのですが、毎年ちょっとずつ変わってはいます。そのときの私自身の想いの違いもありますので。
明日話すという晩、つまり3日の晩、話す内容について考えていました。
 
で、思ったのです。新盆法要に集まられる方は、この一年のうちに大切な方を亡くされ、つらい想い、悲しい想いをされた方々です。そういう方々が新盆法要にお集まりになって、その法話で聞きたいこととは、こういう話なのだろうか?と。 
身近な人を亡くして、「なぜ死んでしまったのだろう」「限りあるいのちをどのように生きればいいのだろう」「なぜ生まれたのだろう」…いろいろなことを考えたはずです。 
とりあえず、話の導入として『仏説盂蘭盆経』の話をしてから、声を聞くことにしました。「大切な方を亡くされて、なにか感じられたことはありませんか」と。
 
おひとり、手を上げてくださいました。
「亡くなった人のことを思い出して、今でも涙が出ます。でも、亡くなった人が心配するから、いつまでも泣いていてはいけないと諭されて…。でも、涙が出るんです。泣いてはいけませんか?」
 
つらい想いをされたうえに、さらにその想いに蓋をさせられて、余計につらい思いをされていたのですね。
泣きたくなったら泣いてください。声を出して泣いてください。
どんなに涙流しても、涙は枯れることがありません。不思議なものです。もう涙は流れないと思うほど泣いても、また、涙は溢れてくるのです。それを我慢することはありません。
  
身近な人が亡くなると、いろいろな迷信を言う人がいます。
「亡き人が心配するから泣いてはいけない」
「いつまでも亡き人のことを想い続けてはいけない」
「不幸が続くのは、亡き人が迷っているから」
そのようなことを言う人は、本人としては相手を心配してのことかもしれませんが、そのようなことは言ってはいけません。
物事を亡き人のせいにしてはいけません。 
亡き人は、迷いもしないし、生きている私たちを呪ったりもしません。
 
私たちは、縁を生かされて生きる身です。
我が身に起こることは、すべて縁によります(自分にとって都合がいいことであっても、悪いことであっても)。
亡き人のことを想って涙流すということも、亡き人との縁があるからこそ、流れるのです。  
涙によって、亡き人に出会う。亡き人を想うことを通して、私自身を見つめることとなります。 
  
身近な人との別れを通して、我が身に沸き起こる様々な想い。
その想いは、亡き人から与えられたもの。
与えられた想いは、私がこれから歩む人生に、なんらかの道標となる。その想いを打ち消す必要も、隠す必要もなありません。

法話・法要を勤め、食事の時間…お参りされたすべての門徒さんと話すように努めています。すると、「手を挙げられてお話された方の気持ちがわかります」「私も同じようなことを言われた経験があります」と、たくさんの方が同じような苦しい経験をされていました。それだけ、想いを封じ込める迷信が蔓延しているのですね。泣きたいときに泣くことを許されないで、いつ泣けばいいのでしょう。泣きたいときは、泣いてほしいのです。

2007年7月17日 (火)

新盆法要でお話したこと⑥(完)

新盆法要でお話したこと 「毎日がお盆」
 
「南無阿弥陀仏」とお念仏申してください。
でも私は、そのたった六字の名号を称えることすら忘れて、日常を生きています。
「お念仏称える、それだけでいいのですか?」
その、たった「それだけ」のことが出来ないのです。
 
今日は新盆法要ということでお集まりいただきました。通夜葬儀・納骨法要を勤められ、新盆法要があり、これから、ご法事を迎えることとなります。
それら仏事は、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す場を、私がいただいているのです。私が、亡き人のために勤めるのではありません。
「お念仏申す生活を送ってくれよ」…亡き人からのメッセージです。
 
お盆だからといって、迎え火・送り火、ナスやキュウリでのお飾りなど、特別なことは何もしなくていいと言いました。でもそれは、文字通り「なにもしなくていい」ということではありません。
「南無阿弥陀仏」と念仏申す。それで充分なのです。常に南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。
そういう意味では、毎日がお盆であり、お彼岸であり、ご法事なのです。なにもしなくていいから楽なのではありません。お念仏は、老若男女・行住坐臥(何かしていようが休んでいようが、座っていようが寝ていようが)、誰でもいつでもできる行です。忙しいのです。

亡き人から、聞法により私を見つめなおす機会をいただく。これからの私の歩みが問われる。お念仏申すご縁をいただく。
それが、本来のご供養だと思います。
 
最後に、皆さんご一緒に「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

以上、「新盆法要でお話したこと」のダイジェストです。お盆前に書き終えようと思っていたのですが、7月盆が終わってしまいました。でも、8月盆はこれからですから、ご勘弁ください。
ダイジェストのつもりが、かなり詳しく書いてしまいました。書いているうちに、話した内容から だいぶ加筆してしまいました。新盆法要に参加された方、「あれ! 副住職、そんなこと言ったかなぁ?」ってところもあるかもしれません。それもまたご勘弁を。
これでネタバレですね。来年の新盆法要は、お話の内容を考え直さなくては。

2007年7月16日 (月)

新盆法要でお話したこと⑤

新盆法要でお話したこと 「真宗の供養」 
 
亡き子を生き返らせようとするお母さんに、お釈迦さまは、
「亡き人は生き返りませんよ」と、いきなり真実を突きつるのではなく、「私が生き返らせましょう」とおっしゃいます。
聞きようによっては無責任に聞こえるかもしれません。
お釈迦さまは、一人ひとりの状況に応じて教えを説かれました。
このお母さんに出会い、最善の方法で教えを説かれたのです。だからこそ、このお母さんは、真実に出会い、受け止められました。もしお釈迦さまが初めから「亡き人は生き返りませんよ」と言っていたら、そのお母さんは、我が子を生き返らせてくれる誰かを探し続け、いのちの真実に出会えずにいたことでしょう。
 
すぐに答を求める風潮がある現代。法話を聞いて、「分からない」「難しい」「答を聞かせてほしい」と思う人もいるいことでしょう。しかし、答えはないのです。自分で気付く以外に。しかも、答に気付いたからといって、いつまでも納得できるものではありません。
お子さんを亡くされたお母さんも、いのちの真実に気付いたとはいえ、時には子どものいない淋しさに押しつぶされたことでしょう。でも、もし気付いていなかったら押しつぶされきっていたことでしょう。気付きがあったからこそ、押しつぶされても、なにか自分を生かすはたらきに支えられたのです。

大切な人を亡くされた皆さん、どうか哀しみで止まるのではなく、或いは亡き人の安心を願うのではなく、亡き人は私にどんなメッセージを遺してくれたんだろうと、考えてみてください。
答えは出ないかもしれません。しかし、亡き人を縁として、自分が生きる道を考えるようになる。そのことこそが、本当の意味でのご供養ではないでしょうか。
そういうことを考えながら、手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏申してください。

2007年7月15日 (日)

新盆法要でお話したこと④

新盆法要でお話したこと 「芥子の実」

お釈迦さまと、幼いお子さんを亡くされたお母さんのお話です。
可愛い我が子を亡くしたお母さんは、子どもを生き返らせてくれる人を、必死で探し回ります。
 「どうかこの子を生き返らせてください!!」
 「誰かこの子を生き返らせてください!!」
                    
「私が生き返らせてあげよう」と言う人はいました。
が、でたらめなことを言っては、そのお母さんから金品を奪っていくのでした。
それでもお母さんは、子どもを生き返らせてくれる人を探し続けます。
そして出会ったのがお釈迦さまでした。
      
で、お釈迦さまも言うのです。
「私が生き返らせてあげよう」と。
「ありがとうございます」
「その子を生き返らせるためには、芥子の実が一粒必要です。どこかのお家から、譲ってもらってきてください」
「はい、分かりました」
「ただし、条件があります。まだ誰も死者を出したことがないお家の芥子の実でないと、その子を生き返らせることはできません」
「分かりました。まだ誰も亡くなられたことがないお家を探して、芥子の実をもらってきます」
  
お母さんは、芥子の実を求めて家々を訪ねます。
どこのお家でも、芥子の実を譲ってくれました。しかし…
「ありがとうございます。ひとつお尋ねします。お宅では、まだ誰も亡くなられたことはありませんか?」
「いえ、うちは○○が亡くなっております」

そうです。どこのお家でも、誰かが亡くなっているのです。
お母さんは、何件も何件も訪ね歩き、結局芥子の実を手に入れることはできませんでした。そしてお釈迦さまの元に戻ります。
 
お釈迦さま「お帰りなさい。芥子の実は譲っていただけましたか?」
お母さん「いえ、誰もが芥子の実を譲ってはくれましたが、誰も大切な人を亡くしてないご家庭はありませんでした」

お母さんは続けます。
「お釈迦さま。お釈迦さまは、私にいのちの真実を知らせようとしてくださったのですね。いのちある者は、いつかいのちを終える日が来る。そんなことは、分かったつもりでいました。でも、いざ私の可愛い子が亡くなると、その事実を受け止めることができませんでした。生き返らせたい、生き返らせたい、その一心でした。でも、その想いは我が子のためではなく、私自身のエゴでした。亡くなった我が子のためのつもりが、私自身の満足のためでしかありませんでした。亡くなった我が子は、私にいのちの真実を伝えてくれる先生でした。そのことに気付かず、危うく子どもの死を無駄にするところでした。可愛い我が子は、生きていなければ可愛くないのか。いえ、たとえ亡くなっても、私にとって可愛い我が子に変わりはないのです。お釈迦さまのおかげで、私は大切なことに気付きました」

お釈迦さまは微笑んで言われます。
「私はなにもしてませんよ。もし、あなたが大切なことに気付いたというのなら、それは、あなたの可愛いお子さんのおかげですよ」

お子さんを亡くされたお母さんは、いのちある者は、いつかいのちを終える日が来るという真実に出会われました。そう、そういう意味で、誰もが同じいのちを生きているのです。そのようないのちに、尊いも卑しいも、富めるも貧しいも違いはありません。
誰もが同じいのちを生きている。その意味において人間は、いや、生きとし生けるものはすべて平等なのです。

誰もが同じいのちを生きられる。そういう場を、「倶会一処(くえいっしょ)」と言います。「ともに、一つ処で会す、会う」。どこか遠くにあるわけではありません。亡くなってから行く場でもありません。今、私が住んでいるこの場こそ、「倶会一処」なのです。

2007年7月14日 (土)

新盆法要でお話したこと③

新盆法要でお話したこと③ 「坊…聞法の場」

新盆法要の案内が来て、お寺に集まられて、お坊さんが読経するものと思われたことと思います。
でも、読経の前に、私(副住職)が法話をする。
「あれ?」って思われた方もいるのではないでしょうか。
 
浄土真宗のお寺って、本来、仏教のお話を聞くところなのです。
ちなみに、お話を聞くところを「坊(ぼう)」と言います。そこで中心になる人、坊の主(あるじ)が必要です。その人を「坊主(ぼうず)」と言います。また、浄土真宗のお寺では、住職の奥さんを「坊守(ぼうもり)」と言います。坊を守り、坊主を守り、法を守る。大切なお役目を担っています。浄土真宗のお寺を本当に支えているのは、「坊守」さんなのです。
話が逸れましたが、法要(お経)に先立って法話があっても不思議なことではないのです。いや、法話なしに法要は成り立たないのです。
 
では、仏教のお話聞いてどうするのか? どうなるのか?
迷っている自分の姿が知らされます。
自分の迷いを他のせいにして生きている、私の姿を。
そのように、知らないうちに他を傷つけ、他のいのちを奪い、生きている私。
そのような者が、どうして生きていられるのか。救われるのか。
 
浄土真宗のご本尊は、阿弥陀如来です。
阿弥陀如来は、そのような私を救いたいと、遥か昔に願いを立てられました。
阿弥陀如来の、衆生を救いたいという願いがあるからこそ、今のままの私でいられるのです。

「南無阿弥陀仏」
「南無」は「頼りとします」「よりどころとします」という意味です。
「南無阿弥陀仏」阿弥陀如来を頼りとして、人生を歩みますという想いが、手を合わさせ、頭を下げさせる。

「坊」
聞法し、自分を知り、自分を見つめ、そこで初めて「南無阿弥陀仏」とお念仏が出てきます。
「南無阿弥陀仏」…亡き人に安らかに眠っていただく呪文ではありません。私を目覚めさせるお念仏。
亡き人は、阿弥陀如来の願いに気付け気付けと呼びかけています。眠ってなんかいられません。忙しいのです。
眠っている私を起こすために。

2007年7月13日 (金)

新盆法要でお話したこと②

新盆法要でお話したこと② 「追善供養」

(生きている)私が、(亡くなった)あの人のために…

そのような想いで手を合わせている人がほとんどではないでしょうか。
お寺やお墓にお参りしたり、お内仏を飾ったり、お坊さんにお経を読んでもらったりします。ご供養のつもりで。
でも、そのような「(生きている)私が、(亡くなった)あの人のために…」という意識で勤めるご供養は、「追善(ついぜん)供養」といいます。
「追善」…善を追いかける、追加する。さて、どんな善でしょう? 
亡き人が生前為し得なかった善い行いを、生きている私が亡き人に成り代わり致します。ですから、その善い行為を、亡き人のためにさしむけてください。
追善供養って、そういうことなのです。驕り高ぶったご供養ですね。亡くなった方というのは、そんなにそんなに悪い人だったのでしょうか。善い行いをしてこなかった人なのでしょうか。私を生んでくれた。育ててくれた。影響を与えてくれた…。そのご恩は、数え上げれば切りがありません。亡き人が生前為し得なかった善い行いなんてないのです。
もちろん、そんな追善のつもりで手を合わせている人は少ないと思いますが、知らないうちに亡き人を貶めて(おとしめて)いる、蔑んで(さげすんで)いるのかもしれないのです。

2007年7月12日 (木)

新盆法要でお話したこと①

新盆法要でお話したこと① 「迎え火 送り火」

お盆といえば、「迎え火送り火」を思い起こされる方もいるのでは。
でもご葬儀の際、「安らかにお眠りください」って言っておきながら、お盆になると、なぜ亡き人(亡き人の魂)を迎えたり送ったりするのでしょう。
しかも、お盆の帰省ラッシュで混んでそう。とても「安らかに」していられないですよね。
 
身の回りに不幸が続けば、「(亡くなった)○○が迷っているのでは…」
嬉しいことがあったときでも、「(亡くなった)○○に報告しなくちゃ♪」
 
「迎え火送り火」は、地域の習慣と化してる場合もあるので、それを否定するわけではありません。
自分の身の回りの出来事を、亡き人とお話したくなる気持ちもよくわかります。いや、そういう場(お内仏やお墓)ってとても大切です。どんどんお話して、自分の思いを吐き出して、「あぁ、私ってそういうこと考えてたんだ」って気持ちの整理をしてください。
 
気をつけたいことは、亡き人は迷ってないってこと。
もし、なにか不安になることがあっても、それは、私自身の問題なのです。亡き人のせいではありません。
それどころか、「自分を見つめよ見つめよ、南無阿弥陀仏とお念仏申せ申せ」と、亡き人は今現に、私に呼びかけてくださっています。忙しいのです。

亡き人が迷っているのではない。
私が迷っているだけ。

 

 
7月7・8日、西蓮寺新盆法要が勤まりました。
この一年の間に身近な亡くされた方々にお集まりいただき、合同の新盆法要をお勤めさせていただきました。
法要に先立ってお話させていただいたことを少々…

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