対極にあるようだけど、ひとつなのです

2007年6月 1日 (金)

2007年6月のことば

Dscf0341
  天命に安んじて 人事を尽くす
                    清沢 満之

「人事を尽くして天命を待つ」という方が耳なじみのことと思います。
「私が出来ることは、すべてやりつくしました。私に出来ることはもうありません。後は天にお任せします」
そのように言うしかない状況なのかもしれません。その悲しみ苦しみは、他人には分かりません。まさに天命を待つしかない心情・状況なのでしょう。
しかし、天命を待つと言いながら、そこに安心できない、良い結果を求めてしまう私の想いがあります。これだけ頑張ったのだから、これだけ耐えたのだから、これだけ苦しんだのだから報われて当然だ、と。
そのような想いを抱くことがいけないのではない。もう出来ることはやり尽したのに、それでも安心が得られない。それでは、人事を尽くすことの、生きることの意味が見えなくなってしまいます。
 
真宗は他力の教えです。阿弥陀如来の救いに任せて、私はただ南無阿弥陀仏と口にすればいい。ただ念仏、それだけのこと。だけど、たったそれだけのことが出来ない。任せられない。信じられない。念仏できないのです。
努力しなければ結果が付いてこないとお考えの方は、「他力はダメだ。自力でなければ」と言う。
真宗では「他力」を強調するあまり、「自力はダメだ。他力でなければ」と考えがちです。考えがちですが、任せるも信じるも念仏称えるも結局は自力。どうすれば他力の信心を得られるのかと疑問を持ちます。
信じることに他力と自力があるわけではありません。任せることに他力と自力があるわけではありません。念仏に他力と自力があるわけではありません。
私がすることはすべて自力。どんなに 信じても、どんなに任せても、たとえ心が清浄でも、たとえ動機が純粋でも、自力は自力。
しかし、それら自力とともに他力が存在しているのです。
  
他力と自力は、イコールなのだと思います。同質という意味ではなく、他力があるから自力があり、自力があるから他力があるという意味で。どちらかだけでは成立しません。
イメージしてください。振り子が、右・左・右・左・・・と振れています。その振り幅は、右も左も同じ大きさです。どちらかが大きくて、どちらかが小さい振り子は存在しません。
他力と自力は、互いに手を差し延べあい、手をつなぎ、同じ力で引き合っています。そのような意味で、他力と自力はイコールなのです。
つまり、私が成すことはすべて自力でも、そこには他力がある。私が生きているということは、既にそこに阿弥陀如来の救いのはたらきがある。
今、阿弥陀如来の救いの中を、私は生きている。だからこそ、人事を尽くせる。
生きている事実とは、阿弥陀如来。阿弥陀如来の手の中に包まれて生きている私。それ以上、どのような安らぎ・安心・安住があることでしょう。だからこそ、私は人事を尽くせる。
自力と他力とは、相反するものではない。自力を捨て、他力に身をゆだねるのではない。他力があるから、自力を生きられる。自力があるから、他力を感じられる。だからこそ、「天命に安んじて 人事を尽くす」ことができるのです。
 

 
清沢満之(1863~1903)
真宗大谷派僧侶
明治期の宗教哲学者
西洋哲学を学び、親鸞聖人の教えを近代の言葉で表現されました。
6月6日がご命日です。
  
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(付記)
掲示板に飾ってある6月の人形は、カエルさん2匹とオタマジャクシ君です。なぜかオタマジャクシの方がデカイです。ちなみに、名前を「タマオさん」と申します。
今月の人形は、渡部 美晴様より頂戴致しました。ありがとうございます。

2007年5月31日 (木)

バベルの塔

善と悪
失敗と成功
好きと嫌い
強いと弱い
出会いと別れ
幸せと不幸
闇と光
 
対極にある(と思われる)ものを思いつくままに挙げ、その深層を探ってきました。
〔カテゴリー「対極にあるようだけど、ひとつなのです」〕
 
なぜそんなことをしてきたのか。
そうすることによって、阿弥陀如来(真実)が見えるかなと思ったのです。
相反するものを見つめることによって止揚していくのではなく、
相反するものって、実はイコールなのではないだろうかという見方で、
阿弥陀如来(真実)が垣間見えるのではないかと思ったのです。

実際に見えたり、それで満足するものではありませんが、ひとつの方法論として考えられるのではないだろうかと、ひらめいたのです。
書いてる私としては、ワクワクしながら書いていたのですが、ついに表現力・文章力が破綻をきたしました。
読んでくださっている方は、余計訳が分からなくなっていたことでしょう。申し訳ございません。
 
で、明日アップの文章で(懲りてない!?)「対極にあるようだけど、ひとつなのです」は一応の結末と致します。
さて、どんな“対極にあるもの”で〆たのでしょう。お楽しみに。
(答え)
他力と自力で、「対極にあるようだけど、ひとつなのです」を〆てみました。
思索にお付き合いいただき、ありがとうございます。

2007年5月26日 (土)

闇あるがゆえに光あり

表面光明煥然たれども、裏面には限りなき悲痛を包含する。
裏面の闇黒あるが故に、表面の光明が現はるる。
如来は尽十方の無碍の光明である。しかも深くその御胸に入る時に我は無限の闇黒を見る。
我々は自己の闇黒の存在を以て常に如来の存在を否定せんとした。
誠に如来を以て単なる光明としたならば勿論爾くなければならぬ。
しかも如来は無限の光明なると共に無限の闇黒である。
故に我等の闇黒はかえって如来を肯定する所以となる。
然らば如来の闇室とは何ぞや。
我惟うに如来は無辺の蝋燭である。
彼は尽十方の光明を以て外十方を照らす。
而も光の中心は又無辺の闇黒である。
この無辺の闇黒とは大悲の本願である、修行である。
智慧を以て光明とせば慈悲は闇黒である。
如来は外面より見れば光明にして、内面は闇黒である。
この如来の闇黒は誠に如来光明根本原動力にして、如来の真生命はここにある。
如来の本願はこの闇黒の御胸より涌き出でた。
  
            曽我量深「大闇黒の仏心を観よ」
   
   
聖なる者・救い主に闇があるなんて、普通は思いもしない。「心の清さが、迷いの衆生を救わしめる」と、思っているのだから。
しかし、曽我量深師(明治期の真宗の教学者)は、阿弥陀如来が大きな闇を抱えているという。
その闇があるからこそ、衆生救済の願いを立てることができた。
我々衆生も、闇を持つからこそ、如来の慈悲を感得できる。
持っていてはいけないもの、捨てなくてはいけないものと思われている「闇」こそが、救いには欠くことが出来ないものである、と。
  

 
先日輪読会に参加し、曽我先生の「大闇黒の仏心を観よ」を読みました。如来にも闇があるなんて、ビックリしました。ちょうど「闇」について考えているときに、「大闇黒の仏心を観よ」を読むご縁をいただきました。
数年ぶりに参加した輪読会で、こんなビックリに出会えるなんて。以前にも「大闇黒の仏心を観よ」は読んでいるのに。「闇」について考えてなければ、こころに引っかかりもしなかったことでしょう。「ここをお読みなさい」という呼びかけだったのかもしれません。
 
教えは、問題意識なく聞いていても、なにも響かないことでしょう。
問題意識を持って仏法聴聞していると、何かしら響いてくるものです。
 

 
輪読会で、
「“闇”を持つ者が衆生救済できるわけがないではないか」という意見が出ました。
反面、
「“闇”があるからこそ、衆生を救済できるんだと思います」という声も聞かれました。
   
如来の本願はこの闇黒の御胸より涌き出でた
何気なく読み飛ばしてしまいそうだけど、実はとても大変なことを教えてくださっています。
  
闇があるから、光がある。
闇を持つから、光を感じる。

2007年5月21日 (月)

闇(やみ)

「闇」は、「もんがまえ」と「音」から成る。

「門」は、内側から閂(かんぬき)をかけます。つまり、開けるも閉じるも、中にいる人がすること。

「音」は何を表わすのだろう。「声」ではないでしょうか。
私の心の奥底にある想い。楽しいことも嬉しいことも、辛いことも哀しいことも、声に出さないと周りには伝わらない。声に出すことによって、実は誰よりもこの私自身が、今、自分が何を想っているのかを知ることができる。

さて、私は「門」を開けているだろうか。自分の想いを表に出しているだろうか。
門を開けることを忘れている人、恥ずかしがっている人、恐れている人、抵抗がある人、必要を感じない人。いろいろな人がいることでしょう。でも、閉じたままでいいのなら、壁でいいはず。なぜ「門」なのでしょう。
 門を閉じて、自分ひとり、物事を見つめる時間も大切。
 門を開いて、自分の想いを発することも素敵なこと。
 閉じたままでは、こころが錆びついてしまう。
 開けたままだと、自分を省みることがない。
   
理解しがたい事件があれば、犯人の「心の闇」と騒ぎ立てる。
「心の闇」…誰もが持っているし、特定の人が持つものではない。
多くの人が、「心の闇」の門の開閉が出来て、声を発している。器用不器用はあるけれど。
でも中には、門の開閉が、いや、開くことが出来ない人がいるのだと思う。開くことが出来ないから、声が出せない。閉じた門の中で声は、想いは、どんどん膨らむ。その表に出せない想いが、どんどんどんどん膨らんで、ある日突然暴発してしまう。門は壊れ、周りにいる人も巻き込んでしまう。
  
門の外にいる者が、門を開けることはできないけれど、「元気?」「どっか行こうか♪」って、門の外から呼びかけることはできる。門が壊れて、巻き添えを食う覚悟で、門の前に居続けてあげることもできる。というより、周りの人間に出来ることはそれだけ。門を開けるも閉じたままも、決めるのは門の中に居る者、つまり私自身なのだから。

閂を外してみませんか!!
外の世界も、そんなに悪いところではないですよ。

2007年5月17日 (木)

心の闇

少年による母親殺害事件が起きました。
今回の事件に限らず、原因がハッキリしない、納得できない、不可解な事件があると、犯人を凶行に向かわしめた原因を、報道では「心の闇」と表現します。

森 達也さんのお話を聞きに行ったときに、次のようなことを教えていただきました。

オウムの事件が起きたとき、人々は不安や恐怖を感じた。それは、事件そのものに関する不安・恐怖でもあるけれど、なぜオウム信者が地下鉄にサリンをまいたのか動機がハッキリと分からないという不安・恐怖なんです。

動機・理由がハッキリしていれば納得できるというわけではないけれど、オウムの事件までは、ハッキリした動機・理由あって犯行に及んでいた。ところが、オウムの事件は、動機・理由とされるものが言われはしても、とうてい納得できるものではなかった。それゆえ、人々は余計に恐怖感を覚えた、と。


 
今回の母親殺害の事件にしても、「殺すのは誰でもよかった」と少年は言う(言っているらしい)。
やはり、納得できる理由ではない。
そこで、この少年は人とは違う何かを抱えているのではないかということが考えられ始める。「心の闇」という表現で。
確かに、「心の闇」の部分もあるのかもしれない。しかし、「心の闇」とは、この少年だけが持つものだろうか? ハッキリした動機・理由もなく罪を犯す者だけが抱えるものだろうか?
いや、誰にだって「心の闇」はある。誰にだって心当たりはあることでしょう。「自分は、なんて恐ろしいことを考えるんだ」「(自分に対して)嫌な奴だな」って思うことありませんか?
 
「心の闇」が犯罪を発動させるわけではない。「心の闇」の導火線に火をつけてしまう何かに、出会ったか出会わなかったかの違いではないだろうか。誰もが「心の闇」があるのだから、そこに火がついてしまうことも、誰にでも有り得ること。
  
動機・理由・原因が知りたいというのは、自然な欲求。でも、全てがハッキリ分かるものではない。
「自分のことは自分が一番分かってる」と言う人もいるけれど、実は一番訳がわからないのは自分自身。自分の「心の闇」すら見えていないのだから(見えてしまうことこそ、一番の恐怖かもしれないけれど)。
 
知りたいという欲求を満たす、仮に満足させるために、「心の闇」を他者に当てはめるのは、かえって何も見えなくしてしまいます。
 
森 達也さんに教えていただいたことです。
日本では犯罪は減っているんです。特に、少年による犯罪は。
しかし、報道する側からすると、「犯罪は減っている」「日本は安全です」と言っても視聴率や新聞雑誌の売り上げは伸びない。「犯罪が増えている。特に凶悪犯罪が」「日本はもっとセキュリティに力をいれなければいけません」と、不安を煽った方が民衆は興味を持つ。それが、今の報道の姿です、と。

「心の闇」のせいにして何も見えなくしてしまった結果、余計に闇の中を彷徨っているのが現代日本人のようです。 

(付記)
「心の闇」という表現、ここ最近作られた言葉だろうと思っていましたが、平安の昔からある言葉のようです。
しかし、本来「心の闇」とは、「愛しい人を想う」「親が子を(子が親を)想う」気持ちを指していた言葉だそうです。
今では正反対の使われ方をしていますね。でも、愛しい気持ちが強ければ強いほど、その想いは憎しみに変わることがある。憎い相手だと意識することから、相手を認めることに変わることもある。
「心の闇」という言葉から、人間の複雑な心の移ろいが見えてきます。

2007年5月 9日 (水)

思い上がり

自分だけがこの苦しみを引き受ければ、みんなは幸せでいられる。

こんなつらい思いをするのは、自分だけでたくさんだ。

自分だけが耐え忍んでいるつもりだった。

自分が耐えている苦しみを、みんなも受けているというのに。

幸せを享受している背景には不幸を背負っている人が
不幸の渦中にあるとき、幸せを感じている人がいる
と、書いた。そういうこともあるけれど、違う面もある。
 
私の幸せな姿を見て幸せを感じてくれるひともいる。
自分だけが苦悩を背負えばいいと頑張る姿…その姿を見て涙こぼす人もいる。
関係性を生きている。こういうことでした。

2007年5月 8日 (火)

幸せという傷を背負って生きる

(昨日のつづき)
出会いがあって、別れがある。
一対一の関係として考えると、出会いと別れのストーリーにすぎないけれど、
関係性の中を生きていることを考えると、出会いの背景には同時進行で別れがあり、別れの背景には同時進行で出会いがある。
そんなことを昨日は書きました。
 
そのような思いから、更に想ったことがあります。
「幸せ」についてです。
「出会いと別れ」を、「幸せと不幸」に入れ替えても同じだなぁって、痛感したのです。

幸せな出来事があったとしても、それもいつまでも続くものではありません。
幸せな想いが薄れていったり、更に幸せを求めたり、状況が変わって不幸になることもあります。
でも、自分ひとり(あるいは狭い仲間内)のことで考えると、幸せの果てには不幸が訪れるストーリーでしかありません。
やはり、関係性の中を生きているということを思うと、私の身に幸せ(と思える出来事)があった時、その背景には不幸を味わっている人がいるのです。その逆もあります。不幸な目に遭っているとき、幸せを享受している人がいるのです。
幸せから不幸へ(不幸から幸せへ)と移行するのではなく、幸せと不幸は混在しているし、不幸と幸せも混在しているのです。
 
その事実を想うと、「幸せになりたい」と思うことは、とても傲慢なことなのです。他人を傷つけることを望んでいるようなものなのですから。たとえ私にその気はなくても。
不幸だから幸せになりたいのではない、幸せになりたいという思いが不幸なのです。

幸せを望んではいけないと言ってるのではありません。幸せの背景には、不幸とまでは表現しなくても、つらい思いをしている人がいます。誰もが同時に幸せなことなどありえないのです。そのことを忘れてはいけないと思うのです。

 自分の幸せ願うこと わがままではないでしょ
 それならあなたを抱き寄せたい できるだけぎゅっと
 私の涙が乾くころ あの子が泣いてるよ
 このまま僕らの地面は乾かない
  
     宇多田ヒカル「誰かの願いが叶うころ 」

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる」ことを考えていたら、
私の涙が乾くころ あの子が泣いてるよ」ということに行き着きました。             
自然のことわり(自然の道理)なのですね。
 
「対極にあるようだけど、ひとつなのです」というカテゴリーを設けました(↓)。

2007年5月 7日 (月)

ともない、はなるる

つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるる
                          『歎異抄』

親鸞聖人のことばです。
“人は縁によって生かされている”という身の事実を受け止めて生きられた方のことばです。
“人は縁によって生かされている”…なかなか受け容れられないものです。でも、事実です。

ことばの表面的な意味だけとれば、「出会いがあれば別れもある」ということなのでしょう。
好きな人、大切な人との出会いは私の人生の支えとなる。しかし、出会いがあれば別れも付き物。どんなに好きな人とでも、自然と距離が離れることもあれば、意見が合わなくて喧嘩別れすることもある。大切な人との死別だってあり得る。
なぜ“別れ”というつらい出来事があるのか。それは、出会ったから。
それならば、出会わなかった方が良かったのか。いや、出会いに対する感謝・感動があるのは、別れがあるからなのかもしれない。別れのない出会いに、感謝・感動はないことでしょう。
それに、出会いが人生の支えとなったのならば、別れだって、人生の支えに成り得るはず。支えが折れてしまうわけではない。

親鸞聖人のことばに出会い、ずっとこの程度のことを考えていました。「大切な人とのご縁をいただく。その先には別れという縁も必ずある」って。
でもそれは、独りよがりな考え方でした。
私たちは、関係の中を生きています。
つまり、私が大切な人(以下Aさん)と出会ったときには、Aさんと別れている人がいるのです(「別れ」と言っても、会うことが全くなくなるというほどの意味ではなくて、精神的に離れるとか、距離的に遠くなるとか、そういう意味も含めての「別れ」です)。
Aさんが亡くなったとして、でもAさんは先立たれた人々と出会っているのかもしれない(死後の世界があるとかないとかいう話ではなくて、そう思うことによって、気持ちを落ち着かせてきた智慧があります)。

一対一の関係でしかなかったら、私とAさんの出会いと別れのストーリーでしかありません。
でも、たくさん人間がいる中での「出会いと別れ」なのです。出会いという縁の背景には別れという縁が付き物なのです。

「信じられるものは己ひとりのみ」なんて粋がっていた頃は、このような事実に気付きもしませんでした。
「自分ほど頼りにならないものはないなぁ」って思うようになり、このような事実が私の前に開かれてきました。
開かれてきたといっても、事実は事実としてずっと前からあること。ずっと前からあることに、やっと気付きました。

気付きという「出会い」は、別れがあったから。
離れる縁があるということは、つくべき縁があるということ。

2007年4月26日 (木)

つよよわい

4月になり、学校・仕事、新たな一歩を踏み出した皆さん、いかがお過ごしですか? もう慣れましたか?

新たな一歩を踏み出した方に限らないですが、生きているといろいろなことが起こります。いろいろな人がいます。
そこを我慢して、努力して、気にしないで、うまく対処して乗り越えていく人もいます。
そこでつまづいて、挫折して、気持ちが萎えて、どうしようもなくなってしまう人もいます。
どっちが良くて、どっちが悪いという話をしようというのではありません。
物事を乗り越えた人をこころの強い人、挫折してしまう人をこころの弱い人と分類する人がいます。果たしてそうなのでしょうか?
  
強い弱いって、なにが基準なんでしょうか。
頑張れたら強くて、へばってしまったら弱いのでしょうか。
 
なぜ「強い弱い」について書こうと思ったのかというと、「自殺する人はこころが弱いからだよね」って面と向かって言われたのです。生きてる者からすれば、そういう見方をする人もいることでしょう。でも、強かったら何があっても生き、弱かったら壁にぶち当たったときに自ら死を選ぶのでしょうか。
  
仮に「強い弱い」という表現を使わせてもらうと、
強いからこそ、壁にぶつかったときに、こころがポキッって折れてしまうことがあります。
自分の弱さを知るからこそ、どのように対処したらいいのか考え、慎重に物事を乗り越えることもできます。
「自分はこころが強いから」という意識で、「なぜ自殺するんだろう。それはこころが弱いからだ」と言い放ってしまう方、ポキッと折れないようにご注意を。 
自殺しない人を強い人というのではない。自分の弱さを知る者を強い人というのではないだろうか。弱さ知るゆえに、どのように生きたらいいか考え、どのように生きたらいいか考えるがゆえに、自分の選んだ道を突き進む。その道の中には、死という道もあるのかもしれない。

確かに、先進国と言われる国の中でも、日本の年間自殺者数は群を抜いています。その理由を探り、対処法を考えなければいけない現実はあります。
でも、こころの強い弱いが問題なのではないのです。もっと言うならば、人間はこころ弱い生き物なのです。それゆえ誰かを必要とし、誰かと一緒に歩み、時には大事な誰かをも傷つけてしまう。

「自殺した人と、してない人の違いはなんだと思いますか? それは、自殺したか しなかったかの違いでしかないんです。強い弱いの問題じゃないんです!!!!」
珍しく喝破してしまったじゃないですか。失礼しました。

2007年4月25日 (水)

愛憎会苦 

「好き」を口にするのは、こころの底からの叫びなのでしょうが、
「嫌い」を口にするのは、どういう心境かな?
わざわざ言わなくてもいいと思うのです。

この人は好き あの人は嫌い
このチームは好き あのチームは嫌い
このお店は好き あのお店は嫌い
この食べ物は好き あの食べ物は嫌い

まぁ、時と場合によりますね。
面白いなぁって感じたのは、好きも嫌いも「意識している」ってことだなぁって思ったのです。
意識している。関心がある。無視はできない。
好きも嫌いも、根っこは同じなのかもしれないですね。
  
マザー・テレサは言いました。
愛の反対は憎しみではありません。無関心です」と。
好きの反対も嫌いではなく、やはり無関心。
「意識している・関心がある・無視はできない」という意味では、嫌いな○○も、「好きではない」ということではないようです。
 
それに、「これは好き あれは嫌い」という書き方をしましたが、
「これは好きだったけど 今は嫌い」
「あれは嫌いだったけど 今は好き」という、こころの変化は人間には日常茶飯事。
好きな対象をずっと好きで、嫌いな対象をずっと嫌い続けるとも限らない。
好きなものが嫌いにもなるし、嫌いなものが好きにもなる。それは、関心を持っているから。
関心がある対象は、好き嫌い、つまり感情のすべてを導入して接しているのかもしれません。
 

 
仏教では、苦を「八苦」で代表される。
生苦・老苦・病苦・死苦の四苦と、
愛別離苦(愛する者とも別れる苦)
〔あい・べつ・り・く〕
怨憎会苦(憎い者とも出会わなければならない苦)
〔おん・ぞう・え・く〕
求不得苦(求めるものが得られない苦)
〔ぐ・ふ・とく・く〕
五蘊盛苦(存在にそなわっている苦)
〔ご・うん・じょう・く〕

そのうちの「愛別離苦」と「怨憎会苦」について一言
先日なぜか頭の中で「愛憎会苦」という言葉に置き換わってしまいました(単なる記憶違いなのですが)。
  〔「愛別離苦」・「怨憎会苦」→「愛憎会苦」〕

「憎い者と会う苦しみは説明つくけど、愛する者と会うことも苦しみだなんて、お釈迦さまも感傷的な方だったんだなぁ」って、自分の記憶違いを棚に上げて思ってました。

でも、「愛憎会苦」…
「愛する者と会う苦しみ、憎い者と会う苦しみ」と分けて考えるのではなく、
「愛憎する者と出会う苦しみ」と解釈できるなぁ、なんて勝手に味わってました。

人生に愛する者と憎しむ者とが、別々にいるのではなく、
出会う者のすべてが、愛憎含めた対象であるということ。
その「苦」は、現代的な「苦しみ」という意味での「苦」ではなく、「事実」という意味での「苦」なのです。

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