2007年6月のことば
「人事を尽くして天命を待つ」という方が耳なじみのことと思います。
「私が出来ることは、すべてやりつくしました。私に出来ることはもうありません。後は天にお任せします」
そのように言うしかない状況なのかもしれません。その悲しみ苦しみは、他人には分かりません。まさに天命を待つしかない心情・状況なのでしょう。
しかし、天命を待つと言いながら、そこに安心できない、良い結果を求めてしまう私の想いがあります。これだけ頑張ったのだから、これだけ耐えたのだから、これだけ苦しんだのだから報われて当然だ、と。
そのような想いを抱くことがいけないのではない。もう出来ることはやり尽したのに、それでも安心が得られない。それでは、人事を尽くすことの、生きることの意味が見えなくなってしまいます。
真宗は他力の教えです。阿弥陀如来の救いに任せて、私はただ南無阿弥陀仏と口にすればいい。ただ念仏、それだけのこと。だけど、たったそれだけのことが出来ない。任せられない。信じられない。念仏できないのです。
努力しなければ結果が付いてこないとお考えの方は、「他力はダメだ。自力でなければ」と言う。
真宗では「他力」を強調するあまり、「自力はダメだ。他力でなければ」と考えがちです。考えがちですが、任せるも信じるも念仏称えるも結局は自力。どうすれば他力の信心を得られるのかと疑問を持ちます。
信じることに他力と自力があるわけではありません。任せることに他力と自力があるわけではありません。念仏に他力と自力があるわけではありません。
私がすることはすべて自力。どんなに 信じても、どんなに任せても、たとえ心が清浄でも、たとえ動機が純粋でも、自力は自力。
しかし、それら自力とともに他力が存在しているのです。
他力と自力は、イコールなのだと思います。同質という意味ではなく、他力があるから自力があり、自力があるから他力があるという意味で。どちらかだけでは成立しません。
イメージしてください。振り子が、右・左・右・左・・・と振れています。その振り幅は、右も左も同じ大きさです。どちらかが大きくて、どちらかが小さい振り子は存在しません。
他力と自力は、互いに手を差し延べあい、手をつなぎ、同じ力で引き合っています。そのような意味で、他力と自力はイコールなのです。
つまり、私が成すことはすべて自力でも、そこには他力がある。私が生きているということは、既にそこに阿弥陀如来の救いのはたらきがある。
今、阿弥陀如来の救いの中を、私は生きている。だからこそ、人事を尽くせる。
生きている事実とは、阿弥陀如来。阿弥陀如来の手の中に包まれて生きている私。それ以上、どのような安らぎ・安心・安住があることでしょう。だからこそ、私は人事を尽くせる。
自力と他力とは、相反するものではない。自力を捨て、他力に身をゆだねるのではない。他力があるから、自力を生きられる。自力があるから、他力を感じられる。だからこそ、「天命に安んじて 人事を尽くす」ことができるのです。
☆
清沢満之(1863~1903)
真宗大谷派僧侶
明治期の宗教哲学者
西洋哲学を学び、親鸞聖人の教えを近代の言葉で表現されました。
6月6日がご命日です。
(付記)
掲示板に飾ってある6月の人形は、カエルさん2匹とオタマジャクシ君です。なぜかオタマジャクシの方がデカイです。ちなみに、名前を「タマオさん」と申します。
今月の人形は、渡部 美晴様より頂戴致しました。ありがとうございます。