念仏衆生摂取不捨

2007年2月23日 (金)

大悲無倦常照我

(続きもの…最終回です)
阿弥陀如来の救いとは…既にその救いの中にいる私たち。
 
 阿弥陀仏国に満足できない
  理想郷(欲望成就の世界)を求める 

 救いの対象を限定してしまう
  人間こそ生物の長であると主張する 

 人間に限定した上に、さらに限定する
  生きていることが“いのち”と勘違いしている
 
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
         (親鸞聖人「正信偈」より) 
このような私だけれど、阿弥陀如来は常に見捨てずに、常に慈悲の光明で包んでくださっています。

「無倦(むけん)」とは、「あきることなく」ということ。
「あきる」といえば、「飽きる」という字を思い浮かべると思います。
「飽きる」とは、満足して「飽きる」ということ。食べ物が満ち足りていることを「飽食」といいますよね。

「倦(あぐむ)」にも「あきる」という意味があります。
「倦」という字の「あきる」とは、ものごとを為すことが出来ずに「あきる」ということ。ものごとを成就できずに「投げ出す」ということ。
つまり「無倦」とは、阿弥陀如来は、「阿弥陀仏国に満足できない」「救いの対象を限定してしまう」「人間に限定した上に、さらに限定する」私のことを、「もういいよ!!」なんて言わずに、見捨てることなく救ってくださっているということ。
 
☆ 

阿弥陀さまを信じれば信じるほど、救いを望めば望むほど、それらの想いが純粋であれば純粋であるほど、
 「救いってなに?」
 「阿弥陀さまの世界なんてあるの?」
 「こんな世界、もう嫌だ!!」
と、思ってしまいます。
そう、私たちの方が「倦きて(あきて)」しまうのです。諦めてしまうのです。他に拠り所を求めてしまうのです。
阿弥陀さまは、そんな私を見捨てません。だからこそ、私は今、阿弥陀仏国にいるのです。
南無阿弥陀仏
 

長~い「つぶやき」に付き合ってくださってありがとうございます。「念仏衆生摂取不捨」というカテゴリーでくくらせていただきました。

2007年2月22日 (木)

願いは叶う 願うからこそ叶う

(まだ続きます)
「今生きていることが、阿弥陀如来の救いです」と、書きました。
そのように書いてしまうと、お腹の中で生きている子・既に亡くなられた人は救いから外れた者なのかという疑問を持たれてしまうかもしれない。
でも、ちょっと待ってください。そこには、確かにいのちがあるのです。「あった」ではなく、「ある」です。
現代は「生と死」を分けて考える癖がついているので、先のような疑問につながってしまうけれど、「生と死」はひとつです。生の果てに死があったり、生をいただけなかったことを死と言うのではありません。「生死一如」です。
「生と死」を別物として考えるから、「人間死んだらゴミと一緒だ」と言う人がいたり、亡き人があの世で迷っているという想いに囚われてしまう。
医学的・社会的に、どこかで「生と死」をハッキリ分けなければいけないのでしょうが、“いのち”は区切って考えられるものではないのです。
お腹の中で生きていたとしても、何歳で亡くなろうとも、すでに亡くなっていようとも、そこには“いのち”が連綿と受け継がれ、この阿弥陀仏国にあるのです。
発想の飛躍と思われるかもしれませんが、お子様に恵まれないご夫婦の元にも、子どもがいるのです。だからこそ「授からない」「生まれない」という慕い(おもい)が湧いてくるのです。そこに、実体はなくても、“いのち”があるのです。
 
「いのちを大切にする」ということが、「人(自分も含む)を傷つけない・殺さない」ということだけになってはいないでしょうか。
先に述べた、誰もが阿弥陀仏国を生きているという事実を見つめることが、「いのちを大切にする」ということではないでしょうか。
 

   
阿弥陀如来が救いたいと願ったのは、人間ではなく、衆生。「衆生」とは、「生きとし生けるもの」のこと。すべての生きとし生けるもの。人も、動物(便宜上分けました)も、植物も、もっと言えば天候や天体など自然界すべてひっくるめて衆生なのでしょう。
人間だけでも生きて生けないし、犬やネコだけでも、牛や豚や鳥だけでも生きて生けない。特定の生物だけでは生きてはいけない。みんながいるから私がいる。私がいるからみんながいる。
もし阿弥陀如来の救いの対象が、特定の生き物だけならば、それは、はじめから叶わぬことを意味する。
 
ありとあらゆる生き物がいるのに、人間は生物の長だから救われるという人がいる。
「南無阿弥陀仏」と称えることができるのは人間だけだから、衆生とは人を指すという人がいる。
赤ん坊は「南無阿弥陀仏」と称えることができないから救われないという人もいる。
ありとあらゆる生き物に、すでに阿弥陀如来の救いが成就しているのに。
もし阿弥陀如来の救いの対象が、特定の生き物だけならば、それは、そのように言ってあげなければ気付いてもらえないから(言っても気付いてもらえないか)ではないだろうか。


 
阿弥陀如来という大きい存在があって、阿弥陀さんの救いの対象として衆生がいるように想像してしまいます。
阿弥陀如来の作った救いの国に生まれているかのように書いていました。
 
阿弥陀さんと私(衆生)を分けて考えていました。
阿弥陀さんが私の“いのち”なのですね。
阿弥陀仏国とは、“いのち”をいただいている私そのものだったのです。

2007年2月21日 (水)

阿弥陀仏国

(まだ、昨日の続き)
阿弥陀如来は、生きとし生けるものすべてを救いたいと願います。そして、「南無阿弥陀仏と念仏申す衆生を救おう」と誓いを立てられます。
 
さて、生きとし生けるものすべてを救いたいと願いながら、念仏申す衆生を救うとは、矛盾しているようにも、対象を限定しているようにも受け取られます。どういうことでしょう。
 
念仏申した衆生(生きとし生けるもの)は、阿弥陀如来の国へ生まれることが約束されます。
 では、念仏申さぬ衆生は救われないのか。
 念仏申すといっても、どのように申せばいいのか。
 阿弥陀如来の国とはどういう国なのか。
いろいろと疑問点・不審点が湧いてくることでしょう。
 
昨日、「浄土」について書きました。。
浄土とは、今私が生きているこの世界である、と。
念仏申す衆生が生まれる阿弥陀仏の国、浄土が、今私が生きているこの世界であるならば、私はすでに阿弥陀仏の国に生まれているのではないでしょうか。
そう、すでに阿弥陀如来の救いが、私の身に成就しているのです。私は既に救われているのです。 

人として生まれ育ってきた私。そうすると、人として生まれたことは当たり前のことになってしまう。なんの感慨も感動も感謝もないことでしょう。

人身(にんじん)受け難し、いますでに受く
              (三帰依文より 典拠『阿含経』)

人ととして生まれることは、とても難しいこと。はっきり言って、生まれることすら有り得ないことのに、今私は人としてのいのちをいただいている。
 
阿弥陀仏国のこの地に、人としていのちをいただいた。それは、どれだけ稀なことであろうか。
私が今ここに生きているということは、阿弥陀如来の願を受け、その願いが成就したから。

お念仏申すことに、効果や意味を求めてしまう。 
 阿弥陀如来や阿弥陀仏国の有無
 南無阿弥陀仏と念仏申したらどうなるのかという問い
 宗教なんて信じないよと言う無関心
それらの思いは、すべて私の我執の産物。
今私が生きている。そこに阿弥陀如来がいらっしゃいます。
南無阿弥陀仏と称える者のみ救おうと願われたのではない。すでに南無阿弥陀仏と称えていたから、生きとし生けるもの すべてが いのちをいただいている。
前世でお念仏称えていたと言っているのではありません(勘違いしないでくださいね)。
すでに誰もが、阿弥陀如来の救いの中を生きているということ。
阿弥陀如来が「すべての衆生を救いたい」と願われた。「念仏申す衆生を救おう」と誓われた。
矛盾でも限定でもない。
生きとし生けるものすべてが、念仏申す衆生であった。
   
  
光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨
                『観無量寿経』

阿弥陀如来の慈悲の光明は、世界中の生きとし生けるものを照らしている。「南無阿弥陀仏」と念仏申す衆生を救いとり、見捨ててしまうことはない。

2007年2月20日 (火)

浄土

(前の文章の続きです)
なんてことを書いたけど、環境・境遇を愚痴りたくなるのは、仕方がないこと。なにかしら言いたくなるものです。
愚痴を無理に押し殺すよりは、吐き出してしまった方がいいですよ。吐き出せるお友達、いますか? 友達がなにか吐き出したそうにしているとき、「一緒にご飯でもたべようか」って誘える私ですか?
 
さて、愚痴も出て、文句も言いたくなるこの世ですが、果たして愚痴や文句の正体ってなんでしょう?
前の文章でも書きましたが、愚痴や文句の正体・根拠は、実は私なのかもしれません。
じゃぁ、私が身を律すればいいのか。私が行いを正せば環境・境遇は良くなるのか。
そこに徹底できればいいけれど、出来ないのです。「私がこれだけやってるのに」「やっぱり、どうにもならないや」と、また愚痴が出てくることでしょう。
環境・境遇のせいにしていては、何も変わらないのです。
 
愚痴・不平不満のない世界を求めます。
そういう世界を浄土と言います。言いますが、私たちが求めているのは理想郷です。浄土や極楽を、自分の欲望が成就した国を想いがちですが、そんな世界は浄土とは言いません。
自分の欲が見えずに愚痴をこぼしている私が、愚痴の出ない世界を求めても、その世界が叶わないとまた愚痴をこぼし、願いが叶ったところで、またその世界で愚痴をこぼすことでしょう。
 
経典には、様々な形で浄土や極楽世界が描かれています。ひと言で浄土と言っても、その描写はいくつもあります。
そんなに勉強しているわけではないので、様々な浄土の様子を語ることも出来ませんが、浄土の説明を聞いたときに、私が「ぜったいその世界に違いない!!」と、目からウロコの話があります。
 
浄土…今私たちが住んでいる世界のことです。
今私達が住んでいるこの世界が、この世界のままで浄土となるのです。でも、唯一違うのは、私のこころ。
「愚痴・不平不満のこころが、もったいないと想えるこころになる」
足りないと愚痴っていたけれど、“ある”だけでも有り難いこと。
食べ物も着る物も足りない、それを足りない足りないと言い続けるのか、足りなくても人に譲れるのか。
不思議なもので、「足りない足りない」と言ってるうちはいくらあっても足りないのです。あること自体を有り難いことと喜べれば、「足りない」という愚痴は出てこないものです。

今の世界となんら変わらないのだけど、
「足りない」と愚痴るのか、
「どうぞ どうぞ」と譲り合えるのか。
それだけのことで、今の世界が、そのまま浄土となるのです。
 
そんなふうに「浄土」の説明をしていただいたとき、感動したことを覚えています。
「浄土」って、死んでから往く世界でも、どこか遠くにある理想郷でも、お経の中だけの物語でもありません。
今のこの世なのです。 
 
そんな浄土じゃご不満ですか?
それこそ浄土と喜べますか?

(余談)
「お前さぁ、人間を良い物と思いすぎだよね」なんて言われことがありますが、こんな浄土観が私の中にあるからなのかもしれません^^

2007年2月18日 (日)

鏡に映る私

上に立つ者が、そこに集う人々を見るとき、どうしても負の部分が目につく。
何が不満なんだろう。何が気に入らないんだろう。何が嫌なんだろう。
そのように思ったとき、その思いの背景に、「私がこれだけのことをしているのに」という思いがないだろうか。
「こんなにいい環境なのに」「こんなにお給料がいいのに」「こんなにあなたに合わせているのに」
「いったい何が不満なのさ!!」 そんな愚痴が出てしまうのは、正直な気持ちなのだと思う(中には、自分のことを棚にあげている人もいるだろうけど)。
 
そこで、ちょっと見方を変える。自分に非がないと思っているかもしれないけれど、でも思い切って違う視線で物事を見てみる。
「いい環境を作っているだろうか」「お給料は足りているだろうか」「相手のことを思っていただろうか」
果たして、私はこの人(自分)と一緒に居たいと思うだろうか。
  
立場変われば思いも変わる。

育ててもらっている。雇ってもらっている。そばに置いてもらっている人が、その長を見るとき、どのように見ているだろうか。
心底感謝している人もいることでしょう。
恨みを抱いている人もいることでしょう。
「住みにくいなぁ」「もっと金出せ」「付き合ってらんねぇよ」
「鬱陶しいなぁ」 そんな叫びは、正直な気持ちなのだと思う(叫びを押し殺す必要はないけれど、言っていいことか悪いことかは、考えなくてはいけない)。

そこで、ちょっと見方を変えてみる。自分は悪くないと思っているかもしれないけれど、でも思い切って自分自自身を見つめてみる。
「雰囲気を悪くしているのは自分じゃないだろうか」「お金に見合ったはたらきをしてきただろうか」「私に付き合ってきてくれたんだなぁ」
果たして、自分で自分がうざくないだろうか。

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