大悲無倦常照我
(続きもの…最終回です)
阿弥陀如来の救いとは…既にその救いの中にいる私たち。
阿弥陀仏国に満足できない
理想郷(欲望成就の世界)を求める
救いの対象を限定してしまう
人間こそ生物の長であると主張する
人間に限定した上に、さらに限定する
生きていることが“いのち”と勘違いしている
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
(親鸞聖人「正信偈」より)
このような私だけれど、阿弥陀如来は常に見捨てずに、常に慈悲の光明で包んでくださっています。
「無倦(むけん)」とは、「あきることなく」ということ。
「あきる」といえば、「飽きる」という字を思い浮かべると思います。
「飽きる」とは、満足して「飽きる」ということ。食べ物が満ち足りていることを「飽食」といいますよね。
「倦(あぐむ)」にも「あきる」という意味があります。
「倦」という字の「あきる」とは、ものごとを為すことが出来ずに「あきる」ということ。ものごとを成就できずに「投げ出す」ということ。
つまり「無倦」とは、阿弥陀如来は、「阿弥陀仏国に満足できない」「救いの対象を限定してしまう」「人間に限定した上に、さらに限定する」私のことを、「もういいよ!!」なんて言わずに、見捨てることなく救ってくださっているということ。
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阿弥陀さまを信じれば信じるほど、救いを望めば望むほど、それらの想いが純粋であれば純粋であるほど、
「救いってなに?」
「阿弥陀さまの世界なんてあるの?」
「こんな世界、もう嫌だ!!」
と、思ってしまいます。
そう、私たちの方が「倦きて(あきて)」しまうのです。諦めてしまうのです。他に拠り所を求めてしまうのです。
阿弥陀さまは、そんな私を見捨てません。だからこそ、私は今、阿弥陀仏国にいるのです。
南無阿弥陀仏
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長~い「つぶやき」に付き合ってくださってありがとうございます。「念仏衆生摂取不捨」というカテゴリーでくくらせていただきました。