2006年10月14日 (土)

生きんとする生命

私は
生きんとする生命にとりかこまれた
生きんとする生命である
          
            アルベルト・シュヴァイツァー

「瑞々しい花を見て、散りゆく花を見て、いのちを感じました」なんて書いてきたけれど、私が感じても感じなくても、私のいのちは、生きよう生きようとしているのですね。
   
「なぜ生まれてきたんだろう」
「生きていてもつまらない」
「生きることの意味がわからない」
すべて私の想いにすぎない。
私の想いがどうあろうと、このいのちは生きよう生きようとしているのです。

生きることに傲慢になっていたかもしれません。
生きることに思い上がっていたかのかもしれません。

いのちは、
それを愛そう、愛そうとしている者のものであって、
それを傷つけよう、傷つけようとしている者のものではない。

                         お釈迦さま「白鳥の話」より
   
   
(追記)
今日のことば「私は 生きんとする生命にとりかこまれた 生きんとする生命である」。
前から知っていたのではなくて、昨日、本を読んでいて目に飛び込んできたことばです。
最近“花”について書き綴っていましたが、だからこそ飛び込んできたのでしょう。本を読んでというよりも、パラパラとめくっていただけなのです。それなのに、このことばが目に留まりました。
「お前なぁ、いのちを感じるなんて書いてるけど、お前の周りには生きんとする生命がいっぱいあるんだぞ!! 生きんとする生命にとりかこまれて生きているんだぞ!! お前自身の生命も生きんとしているんだぞ!!」
って呼びかけられているように感じました。
有り難いことです(;人;)

2006年10月13日 (金)

花のいのちはけっこう長い♪

東京の寺では、ご法事は寺に集まってもらってお勤めします。門徒さんのお家にお邪魔するのではなくて。(だから門徒さんのお家やお内仏の様子がまったく分からないのです)。
法事のために有縁の方々に集まってもらうので、ほとんどの門徒さんが土・日曜日に法事をされます。そのため、本堂のお花は金曜日に挿し換えています。

住職が留守だったので私がお花を挿していました。
陽射しも和らぎ、気温が下がってきました。お花の持ちが違いますね。夏場は、金曜に挿しても、土・日持つかなってヒヤヒヤしますが、涼しくなってくると一週間くらいは軽くもちます。寒いときは二週間はもちます。
そうなると、挿し換えなくても大丈夫かなぁって思うときもあるのですが、やはり本堂のお荘厳です。キチンと一週間ごとに替えています。
遠目に見ると まだ大丈夫かなってお花も、華瓶(花瓶)を手に取ると、水がにおったり、葉に元気がなかったりします。

お花屋さんで買ったばかりの、瑞々しい花束を見ていのちを感じたと書きましたが、若いだけがいのちではない。徐々にしおれて、枯れていく様もいのち。
本堂の古いお花を一本一本抜きながら、また花から教えられました。

でも、まだまだきれいに咲いているお花ですから、墓地に挿しに行きます。
観音さん(なぜか観音さんがある真宗寺院)・永代供養墓・西蓮寺のお墓・もうすぐ命日だったなぁって思い出した方のお墓など。
水切りをして お墓の花立に挿すと、花がまた生き返ります^^

2006年10月12日 (木)

花のある生活

以前、お内仏(お仏壇)に供えるお花について書きました(こちら)。その際、お墓に供えるお花についても書きました。

お墓の花立に花を挿し、手を合わせ、お参りする。そしてそのまま帰ります。
でも、そのお花を家に持って帰って飾るのが、元々の習慣なんです。とはいっても、村の中に寺があって、誰もが歩いて寺にお参りするような環境での習慣ですけどね。
「お花を私の方に向けて挿すのは、亡き人から私へ向けられているんです」と書きましたが、家に持って帰って飾るということも、そういうことを含んでいるのかもしれません。

前の文章で、花を見て いのち を感じたと書きましたが、
お墓参りのためにお花を手にする、それを家に持って帰って飾るというのは、やはりそこに何かを感じて欲しいという亡き人からの呼びかけがあるのではないでしょうか。

お墓参りの際、墓石だけではなく、手にしたお花と向き合ってみてください。なにも感じないかもしれないけれど、何か感じるかもしれません。人それぞれ。
  
  
(おまけ)
お墓にお供えしたお供物は持ち帰っていただいてます。ずっとお願いし続けてきたので、今ではみなさん持ち帰ってくださるのですが、一件だけ、ご丁寧にたくさん供えてそのまま置いていく方がいます。
供えて帰るまでは、その方が墓前にいるわけだから きれいに供わっています。でも、人の気配がなくなると、すかさずカラスが食べ散らかしに来ます。お墓を離れてから30分ほどしてから戻ってみてください。きれいに掃除したお墓が、お供えでグチャグチャになってますから。そのお墓だけが汚れるのならまだしも、周りのお墓にも被害が及びます。どうかお供え物はお持ち帰りください。

2006年10月10日 (火)

いのちが見えてくる

師の誕生会があり、花を買って会場に向かいました。
花束を手に電車に乗り、駅に着くまで花と真向かいになっていました。

考えてみれば、花の一本一本をこんなに凝視することってないなぁ。
生け花を習っていた頃は、お花をどのように生けるかを考えるから、生けた全体でしか見ない。
本堂にお飾りしてある花は、お経中に目に入るぐらい。
墓地花を集めるときには、お花は枯れているし…。

花の一本一本、花弁の一枚一枚、葉の一枚一枚をジッと見たことってあるだろうか。
こんなにもきれいで、こんなにも瑞々しいんですね。驚きました。
いのちだなぁ、生きてるんだなぁって手元の花から伝わってきました。電車の中、ひとり感動していました。

花束にするということは、切られているわけですから、いのちを絶っているという見方もできます。でも、生きています。花瓶に挿して、お水をあげれば、水は減ります。ちゃんと水を吸収しているし、呼吸もしているのです。生きよう生きようとしているのです。
聞いた話ですが、ウナギを輸送する際、生きたまま輸送すると目的地に着く頃にはすべて死んでしまいます。でも、少し傷をつけると、ウナギはその傷に耐えて生きよう生きようとするので、目的地に着いてもまだ生きているそうです。
人間も、大事に大事に育てられるよりも、傷を負った方が生きよう生きようと思えるのかもしれません。

話が逸れましたが、
花を見て感じたのは、いのちって見られるんだなぁ、感じられるんだなぁって強く思ったのです。
花を部屋に飾る、植物を育てる、動物を飼う、子供を育てる。そこから何を見るか、感じるか。
「いのちを大切に」という掛け声からは、「いのち」が見えてこないのです、感じられないのです。ことばにいのちがないからです。いや、発する人間に いのち がないのです。
見る、聞く、触る、匂いをかぐ、感じる…そこにいのちが伝わってくるのです。その作業を通して、自分自身が生きてる実感が湧いてくるのです。
    
傷は、付けた方は痛みを感じない。でも、痛がっている人がいるという事実を見つめることはできる。
傷は、付けられた方はいつまでもその痛みを忘れない。その痛みを復讐という形で返すのか、他の人にはこの痛みは感じて欲しくないと思えるのか。
 
頭から いのち を叫んでも、いのちをいのちと認識できないのです。
花を見て、傷を負って、いのちを知る。いのちを感じる。
  
  
師の誕生会
プレゼントするつもりの花束から、大事なメッセージを受け取りました。

   
自分自身の肌で感じるものが
こころの中に届くからこそ
いのちが見えてくる

  大河内 祥晴さんの言葉から(大谷派「同朋新聞」2006年10月号より)

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