2006年10月 9日 (月)

月光浴

月かげのいたらぬ里はなけれどもながむる人のこころにぞすむ
                           法然上人

月の光がいたらない里はない
 仏の慈悲も届かぬ人はいないのです

月を雲が覆ってしまえば、「月が見えない」と思ってしまう。
「無宗教ですから」「無神論者ですから」と言う人は、仏を頼りともしないのでしょう。

でも、
雲で覆われていても、月はある。
「無宗教ですから」「無神論者ですから」と言っても、仏さまの慈悲のこころは すべての衆生にかけられている。

「ながむる人」・拝む人・頼りとする人にのみ慈悲がかけられるのではない。
私のこころがどう思おうが、慈悲の光に照らされている。

真(まこと)のこころに照らされている。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

2006年10月 8日 (日)

つきとくも

つきづきに つきみるつきは おおけれど つきみるつきは このつきのつき

誰かの辞世の歌と教えてもらった記憶があるのですが、どなたなのか分かりません。
でも、初めて聞いたときから(小学生高学年だったかな)耳の奥底にとどまっています。

この世を去る最後に見たお月さん、きれいだったんだろぉなって思います。
(辞世の歌なのか真偽は分かりませんが)
あっ、この短歌を誰が詠んだのか調べてて教えていただいたことなのですが、この短歌の中に「つき」は8つ。そのほかの語が15あります。8と15。8月15日、つまり中秋を表わしているんですって。
そこまで意識して詠むなんて凄いですね。もし辞世の歌だとしたら、余裕さえ感じてしまいます。
 
《思い出話》
中学生のとき富士山に登り(林間学校だったかなぁ?)、その感動を短歌で詠みなさいと国語の授業で課題が出ました。
「つきづきに~」が好きだったものですから、富士山から雲を見下ろした感動を(何合目まで登ったんだっけ?)
「くもぐもに くもみるくもは おおけれど くもみるくもは このくものくも」
なんて詠んでみました。
自分としては半分まじめ半分おふざけだったのですが、優秀賞をもらってしまい、「盗作ですので」と辞退したことを覚えてます。
国語の先生は「そうなの? どっかでみたような気はしたけど。でもいいじゃん。優秀賞っていっても20人もいるんだから」
チャンチャンって感じです^^;
   
   
昨晩、東京では満月がきれいに見えました。
みなさんのところでは見えましたか?

2006年10月 7日 (土)

今日は満月

今日は満月ですね。
中秋イコール満月、だから「中秋の名月」というのかと思っていましたが、必ずしも中秋の日が満月とは限らないのですね。
中秋は「旧暦の8月15日」のこと。満月は地球と月の公転の関係で周期があります。ですから、中秋と満月の日が一致するとは限らないのです(むしろ一致しないほうが多いのです)。
でも誤差はそんなにありません。今年は中秋が10月6日、満月が7日。

昨日は荒れた空模様でしたが、今日は快晴でしたね。風は強いけれど。
さて、今晩満月はきれいに見られるでしょうか。
  
去年、
「満月とはいっても、月自身は常に満月なんですよね」
と書きました(こちら)。
月の見え方は日々変わります。でも、どんなに見え方が変わっても、月自身はいつも まん丸お月さん♪
  
  
さて今年感じたこと。
満月の日は、月が見えるかどうかを気にする人が多いと思います。普段は気にしないけれど。でも、見えても見えなくても、月自身は常に存在してるんですよね。
雲が覆って月が見えなかったとしても、月は輝いている。
まだ明るい昼間だって、月は地球に寄り添っている。
そういえば、小学生の頃、昼間に月が見えて「昼なのに月が見えるぞ!!」って、みんなで空を見上げたことがあります。大人になれば、そんなの当たり前だろって片付けてしまうことでも、小さい頃は驚きがある。あんな驚きって、今ないなぁ。ないんじゃなんいだ。感じないだけなんだなぁ。
   
「雲が覆って月が見えなかったとしても」と書きました。
「雲が覆って」と書くと、雲が月を覆っているようだけど、実際に覆われているのは私なのかもしれない。
見えるものが見えない。感じるべきことが感じられない。驚くべきことが驚けない。
自分のこころの闇が、理性が、知識が、自分自身を覆っているのかもしれない。
見えないんじゃない、見えてないだけなんだなぁ。

2006年10月 6日 (金)

今日は中秋

今日は中秋。
残念ながら東京は大雨で、月を拝むことができません。

5日「沖縄県平和祈念資料館より」という記事を載せたことでお分かりかと思いますが、沖縄に行ってきました。
4日から6日まで、坊さん仲間7人と。私だけ初めての沖縄でした。

昨日の文章は、沖縄県平和祈念資料館の展示場内の壁に書かれていた文章です。場内は撮影禁止なので、文章を書き写し、後でメールでブログに投稿しました。
5日は「沖縄県平和祈念資料館」と「ひめゆり平和祈念資料館」に行って来ました。
長崎を通して見た戦争のことは何度か書いてきましたが、沖縄についてのことはほとんど知らないに近い状態で恥ずかしかったです。
おいおい感じたことを書いていこうと思います。
  
  
沖縄に行く前は台風が心配されましたが、滞在中は瞬間的に雨が降る程度で、天気に恵まれました。6日も快晴。みんなして帰るのを惜しんでました。
でも、今日(6日)関東は大雨だったのですね。那覇空港に着いてから状況を知りました。
成田も羽田も飛行機の着陸が滞り、定刻より遅れての出発となりました。
一度飛行機に乗り込んだのですが、40分ほど遅れて離陸せよとの羽田管制塔からの指令により、乗客は全員一旦降ろされました。こんな体験は初めてでした。おかげで、待っている間に沖縄最後のソーキそばを食すことができました。美味しかったです。
待機中、出発しても別の空港に緊急着陸なんてことになったらどうする? なんて話していたのですが、「○○空港なら誰々、△△空港なら誰々に世話になろう」なんてリストアップしていました。坊さんネットワークは全国的です。でも沖縄に大谷派のお寺は一ヵ寺だけなんですね。このことも初めて知りました。
結局 誰の世話にもなることなく、無事に羽田に着きました。よかったよかったです。

2005年9月18日 (日)

中秋の名月

中秋の名月。満月が綺麗ですね。
月を眺めながら ふと思ったこと。

「満月というけれど、月自身は常に満月だよなぁ」
 月が実際に欠けたり満ちたりしているわけではありません。
 月自身は常に満月なわけです。

太陽の光の当たり方や、地球の傾きや、自分が立っている場所などなど、いろんな要素が集まって、月の見え方が変わっているわけです。
それに、人によっても見え方は様々。
満月が綺麗だなぁって感じる人もいれば、
何も感じない人もいるだろうし、
不快に感じる人だっているかも。
満月より三日月が好きって人もいるだろうし、
曇り空の中、時折顔を出す月がいいってこだわりがある人もいるでしょう。

月の実体はひとつだけれど、
見え方・感じ方は、見る人の数だけある。
   
「満月というけれど、月自身は常に満月だよなぁ」
って ふと思った瞬間は、「物事の本質が見えてないですよね」ってことを書こうと思いました。
でも、
物事の見方・捉え方は、人の数だけある。
そのどれもが正しくて、間違いなんてない。

本質が見えてないんじゃない。
見ようとしていないだけ。
感じるこころ、想像するちからが希薄になっているだけ。

何を見ても、何も感じないっていうのはつまらない。
感じるこころ、忘れずに。
想像するちから、大切に。

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