どんなに孤独なときも ひとりではないのです
私が歩んでいる道は、誰かが歩いた道。
私が歩んだ道は、誰かが歩く道。
先に誰もいなくても、振り返っても誰もいなくても、私はひとりではない。
私に先立って道を示してくださった方がいる。だから道が道として私の前に開かれる。私が歩んだその道が、後の人が歩む道となる。
「白道(びゃくどう)」
西に向かって歩む旅人の前に、大きな河が立ちふさがります。河の南側は火が燃え盛り、河の北側は水がうねりを上げて荒れています。よく見ると、河に一筋の白道が西の岸まで のびています。幅はわずか四五寸ばかり。火と水の勢いは激しく、とても白道を渡れそうもありません。そんな旅人に、盗賊や獣が襲いかかろうとしています。
旅人は西に体を向け、「引き返しても盗賊や獣に殺されてしまう。ここにとどまっても死んでしまう。水火の河を渡っても死んでしまうだろう。いづれにしても死を逃れられないのならば、私は西に向かって、この白道を歩む」と決心します。
その瞬間、東の岸より勧める声がします。
「仁者(きみ)、決心してこの道を渡りなさい」
また、西の岸より喚(よ)ぶ声がします。
「汝(なんじ)、決心してこちらへ参りなさい」
旅人は決心して歩き出します。その姿を見て、盗賊は呼び止めます。「この道は危険だ。帰ってきなさい」と。
盗賊が引き止める声に振り返ることなく、旅人は白道を渡り、西の岸にたどり着きます。旅人は、自分を導くよき師よき友に出遇い、空しくない人生を送りました。
「東の岸」は、私たちが住む現実娑婆世界。「西の岸」は浄土の譬え。
「水の河」は、貪り(むさぼり)のこころ。「火の河」は、瞋り(いかり)憎しみのこころ。煩悩を持つこの私の姿です。「白道」は、そんな私のこころに生じた「すくわれたい」という願い。
東の岸で「渡りなさい」と勧めるのはお釈迦さま。西の岸で「来なさい」と喚ぶのは阿弥陀如来。「引き返せ」と叫ぶ盗賊の声は、私を惑わす甘い誘い。
「旅人」は私自身。勧め、喚ぶ声・願いが、この私にかけられています。
旅人は孤独な旅を続けています。けれど、ひとりではないのです。私が気付こうが気付くまいが、既に常にお釈迦さま、阿弥陀如来の声がかけられている。
誰の目の前にも、白道が開かれています。お釈迦さまの勧める声と、阿弥陀さまの喚ぶ声が聞こえてきませんか?
「骨道(こつどう)」
私は今、砂漠を歩んでいます。獣さえも通らない、目印となるものが何もない灼熱の砂漠を。足元を見ると骨が無数に転がっています。それは、私に先立って生きていかれた方々の骨です。この道を「骨道」といいます。
私に先立って、教えを求めて生きられた方の姿がここにはあります。教えを求め、教えに出遇い、楽な道を知って平穏に歩めるのではありません。この灼熱の砂漠を、一歩一歩踏みしめながら歩くほかに道はない。そこにこころ落ち着いた、教えを求め、出遇った人の姿です。
私が歩んでいる道は、私だけが苦労して歩む道ではない。私に先立って、苦労された方の歴史がある。私も、その歴史の一骨となり、後から来る人の導きとなる。
私は今、砂漠を歩んでいます。獣さえも通らない道だけれど、孤独だけれど、でも、ひとりではないのです。
「白道」も「骨道」も、きれいに舗装された道ではない。平坦で安全で安心で楽な道ではないけれど、だからこそ一歩一歩を大事に歩む。だからこそ支えとなってくれるはたらきがこの私に届いている。
どんなに孤独なときも ひとりではありません。