東京は7月盆ですが、全国的には8月盆が多いです。
それに、お盆というと、夏の暑さが似合う感じがしますね。
「お盆(盂蘭盆…うらぼん)」とは、「ウランバーナ」というサンスクリット語(インドの言葉)の音訳で、「逆さ吊りの苦しみ」という意味です。
一般的には、このように「お盆」の説明がされていますが、私には分かりませんでした。どうして「逆さ吊りの苦しみ」が「お盆」なのか。さて、なぜでしょう?
「お盆」は、「仏説盂蘭盆経」というお経に由来します。そこには、お釈迦様のお弟子さんの目連さんと、亡くなられたお母様のお話が説かれています。
亡き母の身を案じた目連さんは、神通力という不思議な力でお母様を探し回ります。しかし、お浄土のどこにも母の姿は見当たりません。そこで、餓鬼道という、飢えに苦しむ地獄に行きました。すると、そこにお母さんの姿がありました。飢えに苦しむ地獄です。お母さんはゲッソリやせ細っています。見かねた目連さんは、食べ物 飲み物を母に手渡すのですが、それらはすべて炎に変わり、口にすることはできません。なんとか母を助けてあげたい。そう思った目連さんは、お釈迦さまに相談します。「母だけではなく、餓鬼道に堕ちたすべての人々のことを想い、供養なさい」と言われ、供養しました。母を助けたいと念ずる目連さんの目には、お浄土に行かれるお母様の姿が見えたということです。
このエピソードから、「お盆」には亡き人のためのご供養をする習慣が生まれたらしいです。
お盆には、迎え火送り火に代表されるように、亡くなられた方が、あの世とこの世を行き来するらしいですね。
通夜葬儀の際は「安らかにお眠りください」と見送り、身の回りに不幸が起これば、「亡き人が迷っているのでは」と気にする。さて、安らかでないのは誰でしょう? 迷っているのは誰でしょう?
目連さんのお母さんは、生前、わが子に貧しい思いをさせないために、他者の食物や衣類を奪ったといわれています。目連さんのお母さんが、物が手に入らない地獄、餓鬼道に堕ちたのは、そのためです。どのような理由があっても、人の物を奪うことは許されません。許されませんが、目連さんのお母さんを責められる人は果たしているでしょうか。誰もいません。
縁あれば、人のものを奪い、殺してしまうこともある。人のものを奪っていない、人を殺したことがないのは、そうしてしまう縁に出遇ってないから。
自分の迷いに無自覚で、亡き人を迷わせている私。自分を良いものとして、他を責めてしまう私。
私自身のあり方がまったく「逆さま」なのです。しかも、その逆さまな状態に気付いていない。「逆さ吊りの苦しみ」に気付かずに生きているのです。
そのような私の姿に気付くということ。なかなかあることではありません。「お盆」は目覚めのきっかけを与えてくれる行事であり、もっと言えば、仏事全般が、私を映し出す鏡なのです。
「逆さま」な私を正しい姿に戻しましょうというのではありません。逆さまの苦しみを常に感じている私でいてほしい。苦しみ・痛みのないところに、人を想う気持ちは生まれません。
(7月号の寺報に載せた文章ですが、8月のお盆を迎えてブログにも掲載しておきます)