真宗の救い
イダイケに愚痴られ、なじられても、お釈迦さまは黙って聞いておられます。
説法するでもなく、なだめるでもなく、反論するでもなく、いつまでも いつまでも、黙ってイダイケの想いを受け止めています。
ひとしきり愚痴った後、イダイケは、苦悩のない世界を求めました。
すると釈尊は諸仏の世界をイダイケに見せます。諸仏の世界は数限りなくあります。その数限りなくある諸仏の世界の中から、イダイケは阿弥陀仏の世界を選びました。
ここで勘違いされることは、釈尊が「選択肢としていくつもの諸仏の世界を見せた」と思われてしまうことです。
ある仏さんの世界はこんな感じ、他の仏さんの世界はこんな感じ、また別の仏さんの世界はこんな感じ…さぁイダイケよ、どの世界に生きたいですか? と、尋ねたのではないのです。
釈尊が見せた世界は、現実世界と変わらない世界だと思います。ただ、阿弥陀仏を頼りとして生きるか生きないか、南無阿弥陀仏とお念仏申す生活をするかしないか。
悩み苦しみ、もうこんな生活は嫌だ!! と思った現実世界。でも私たちが生きるのは、この世界以外にないのです。そこから離れて、悩みも苦しみもない、楽しみだけの世界はないのです。ただ大きく違うのは、阿弥陀仏が生活の中にいるかいないか。
イダイケは、今の苦しみを他人のせいにしていました。しかし 釈尊を前にして、すべては私に原因があることに気付いたのです。
幸せを求めていたけれど、私が求めている幸せとは 本当の幸せではないことに気付いたのです(こちら)。
その気付きによって、このような私は阿弥陀仏を頼りとして生きていくしかない、いや、このような私でも阿弥陀仏は慈悲をかけてくださっているということに目覚めたのです。
阿弥陀仏の世界に生まれたいと願ったイダイケは続けて言いました。
「阿弥陀仏の世界に生まれたいと思えた私は救われました。しかし、お釈迦さま亡き後、苦悩の世界に苦しむ衆生は、どうしたら阿弥陀仏の世界に生まれたいと思うことができるのでしょう?」
自分のことでいっぱいいっぱいだったイダイケが、後の世の衆生のことを気にかけています。
このように想える人の誕生が、阿弥陀仏の世界の相続になるのです。そう、たとえお釈迦さまの身は滅んでも。お釈迦さま滅後約2500年、今も阿弥陀仏を想う人、南無阿弥陀仏と念仏申す人がいます。この私に阿弥陀仏の慈悲の光がかけられている証拠です。そして、私がいるということは、これからも相続されていくのです。ここに「真宗の救い」の伝統があるのです。
諸仏の世界・浄土とは、今生きている世界とは別に どこかに楽しい世界があるというのではありません。国土の問題ではないのです。私がどのような生き方をするかという問題なのです。
この悩み多き人生を 嫌だ嫌だと言いながら生きていくのか、悩み多き人生だけど この人生こそ私の人生と歩んでいくのか。南無阿弥陀仏と念仏申しながら。その違いが、この世を穢土として生きていくのか、浄土として生きていくのかの違いになるのです。
浄土とは、死んでから行く世界ではありません。今、私がこの世を浄土として生きていけるのか、生き方を問われているのです。
「一楽先生の話より先に光が丘公園で感じたことを書いてしまいました。順番が逆でしたね^^;」なんて書きましたが(こちら)、実は浄土についてのお話をいただいた後だったので、公園に身を置きながら浄土について考えていたのです(こちら)。だから、私的には順番どおりのこと。
一楽先生のお話を聞いて、感じたことを書いてきました。かなり長くなってしまいましたが、お付き合いしてくださり、ありがとうございます。