循環彷徨
今、砂漠に立っています。
周りには山も丘も木も池も、目印になるものは何もありません。
どこを見ても一面砂漠です。
さぁ、まっすぐに歩き出してみましょう。
ザッ ザッ ザッ ザッ…
疲れましたねぇ。
どれくらい歩いたことでしょう。
まっすぐ歩いてきたつもりでしょうが、実はまっすぐじゃないんですよ。
利き足の方に流れていくらしいのです。
だから、もっともっと歩き続けると、円を描いてしまうので元の位置に戻って来てしまうのです。
これを「循環彷徨(じゅんかん ほうこう)」と言うそうです。
一生懸命に歩いてきて、「ずいぶん歩いたなぁ」って気付いたらスタート地点だった。
一生懸命に頑張ってきて、「頑張ったなぁ」って振り返ったら何も変わってなかった。
自分の感覚だけを頼りに歩いていると、自分が正しいと信じて頑張っていると、物事何も先に進まないものです。
「自分はいったい何をやってんだろう」と愚痴が出るのも、自分だけを頼りとしてきた結果なのかもしれません。
努力が無駄というわけではなく、人生何か目印が必要なのです。自分が間違った方に進んでいないかを教えてくれる目印が。
それが阿弥陀さまなわけです。「こっち こっち」って呼んでくださっているのに、それに気付かず自分の思いのままに突き進んでいく。だから、どれだけ進んでも元のままであったり、他の人とぶつかってしまったりするのです。
「自分の人生、自分の思うままに生きて勝手だろ!!」
「はい、勝手です。でも、グルグル同じところを歩くことがあなたの思いなんですか?」
「こっち こっち」と呼んでくださっている“阿弥陀”さんとは、“無量のいのち”ということ。
数限りない“無量のいのち”が、私の人生の目印になってくださっているのに、それを無視して生きている。“いのち”を自分だけのものと勘違いしながら。
戦争から61年後の夏、循環彷徨している私たちの姿が浮き彫りになりました。
目印なく歩んできた結果ですね。