蜘蛛・クモ・クモ

2006年7月31日 (月)

自己肯定=自我崩壊

前述の高浜虚子の俳句の こころ を受けて、種田山頭火は次のように詠います。

  クモは網張る私は私を肯定する

自分が生きるために網を張り、他の いのち を捕まえ、いただかなければならない。クモだけの話ではない。他の いのち を犠牲にして成り立っている私の話。

私は私を肯定する
そんな生き方を「仕方ないじゃないか」「みんな同じことをしている」「なにが悪いんだ」と肯定して生きるということではありません。
かといって、そんな生き方を否定しようというのでもない。「生き物の いのち を奪うのはかわいそう」「水と野菜だけで生きていきます」という傲慢。生態系の中を、食物連鎖の中を生きていることを無視して生きようとする私のせいで、すべての関係性を崩してしまう。

どれだけの哀しみを持っていても、避けられない生命の現実。
いや、生命の現実に哀しみを持って生きているだろうか。
この現実に対する哀しみが「私は私を肯定する」姿。
   

自己肯定=自我崩壊   
自己肯定とは、「私は正しい」ということではない。
私が「正しいこと」「悪いこと」と判断していることが、思い込んでいることが、足元からひっくり返されること。
「仕方ないじゃないか」「みんな同じことをしている」「なにが悪いんだ」「生き物の いのち を奪うのはかわいそう」「水と野菜だけで生きていきます」という我執が崩壊すること。
私が「正しいこと」「悪いこと」と判断し、思い込んだりするまでもなく、いのち の歴史の中を生かされている。いのち の歴史の中で、我執なんてちっぽけなこと。私の想い・自我に関係なく、いのち の歴史は流れている。その流れの中を生かされている。
自我が崩壊してこそ、私は私を肯定できる。

2006年7月29日 (土)

クモの網

クモに生まれ網をかけねばならぬかな
                  高浜 虚子

昨日は 芥川 龍之介の『蜘蛛の糸』を思い返し、蜘蛛の糸に自身をさらけ出してしまう
カンダタ(私)のことを思ってました。
今日は、高浜 虚子の俳句を思い返しています。

クモは糸を出し網を張り、他の昆虫を捕まえて、その いのち を ちょうだい しています。
「クモ」とは、私のことです。
人として生まれ、人として生きるために、さまざまな方法で 他の いのち を ちょうだい している。生きていくうえで避けることが出来ないことです。
   
   
クモ網を張るが如くに我もあるか
                   高浜 虚子

虚子は、このような人間の姿をクモになぞらえて俳句を詠んでいます。
クモが網を張って 他の いのち をいただくように、私も他の いのち をいただかずには生きられない存在なのだ、と。
でも、蜘蛛は必要以上に いのち を奪うでしょうか。他の生命体もそうです。自分が必要とする以上に食料を確保する、他の いのち をちょうだいすることはなかったと思います。
あまるほどに食料を確保する。そして、そのほとんどを無駄にしてしまう。
「もったいない」の記事でも書きましたが、ものが足りないときに有り難さを感じるのは簡単なこと。あまっているときに 有り難さを感じられますか?
少しでも多くの餌が捕れるように網を強くしたり、大きくしたり、そんなことに腐心してしまいそうですね。ヒトクモは。

それから、同種の いのち を奪う生き物が ヒトの他にいるのでしょうか?
網に引っかかって もがいているのは、実は私自身なのかもしれない。

2006年7月28日 (金)

蜘蛛の糸

午前中、境内の植木の剪定をしていました。70ℓのゴミ袋5袋分切りました。通路や庭がスッキリしました。
勢いよく木を切りまくっていたら、蜘蛛の巣に思いっきり突っ込んでしまいました。
蜘蛛の巣って、なかなか取れないものですね。いつまでもくっついてる感じがします。
せっかくの芸術作品なのに、蜘蛛さんごめんなさいね。

剪定を続けながら思い出したのが芥川龍之介の『蜘蛛の糸』

人殺しの罪で地獄に堕ちて苦しむ カンダタ。
彼は生前あらゆる罪を重ねてきましたが、一匹の蜘蛛を助けたことがある。その行いに免じて、お釈迦さまはカンダタを極楽へ導いてあげようとします。そして極楽に住む蜘蛛の糸を地獄に向けて垂らします。
彼の目の前に極楽から蜘蛛の糸が一筋垂れてきます。
カンダタは糸を握り締め、のぼり始めます。高いところまでのぼってきてふと下を見下ろすと、地獄で一緒だった罪人が我も我もとのぼってきます。
驚いたカンダタは叫びます。
「この糸は俺のためのものだ。誰にことわってのぼってきてんだ!!」
その瞬間、蜘蛛の糸はカンダタの手元からプツッと切れてしまい、カンダタや罪人たちはまた地獄へ堕ちてしまいました。
  
こんな内容でしたよね。私が小学生のときの国語の教科書に載っていました(今はどうなんだろう?)。
で、感想文を書かされると、ほとんどの生徒が「カンダタは自分だけ助かろうとするなんてひどい奴だ」って書くわけです。私もそのように書いたのを覚えています。
そこで先生は言います。
「でもね、自分がカンダタと同じ立場になったとき、みんなならどうする? 今にも切れそうな蜘蛛の糸を、みんなで一緒にのぼろうって言える? やっぱり、自分だけ助かろうって考えてしまうんじゃないかなぁ。自分がその立場になったとき、なにをしてしまうかわからないものですよ。カンダタだけを責められないですよ」
(授業のこの光景は よく覚えているのです。何ででしょう?)

出会う縁によって、人はなにをしてしまうか分からないもの。
よくないことと思っていても、そうせざるをえないときには してしまうもの。
いいことだと思ってはいても、縁がなければ しないもの。
自分の こころ が正しいから 悪いことをしないのではない。

昨日の「なぜ人を殺してはいけないのですか?」が頭の中に残っていたので、剪定・掃除をしながら、『蜘蛛の糸』を思い返していました。「なぜ?」に応えるものではないでしょうか。
 
 
『蜘蛛の糸』を読み返してみようと本棚を探したのですが見つからず、ネットで検索してたら「青空文庫」で読むことが出来ました。ありがとうございます。


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