自己肯定=自我崩壊
前述の高浜虚子の俳句の こころ を受けて、種田山頭火は次のように詠います。
クモは網張る私は私を肯定する
自分が生きるために網を張り、他の いのち を捕まえ、いただかなければならない。クモだけの話ではない。他の いのち を犠牲にして成り立っている私の話。
私は私を肯定する
そんな生き方を「仕方ないじゃないか」「みんな同じことをしている」「なにが悪いんだ」と肯定して生きるということではありません。
かといって、そんな生き方を否定しようというのでもない。「生き物の いのち を奪うのはかわいそう」「水と野菜だけで生きていきます」という傲慢。生態系の中を、食物連鎖の中を生きていることを無視して生きようとする私のせいで、すべての関係性を崩してしまう。
どれだけの哀しみを持っていても、避けられない生命の現実。
いや、生命の現実に哀しみを持って生きているだろうか。
この現実に対する哀しみが「私は私を肯定する」姿。
自己肯定=自我崩壊
自己肯定とは、「私は正しい」ということではない。
私が「正しいこと」「悪いこと」と判断していることが、思い込んでいることが、足元からひっくり返されること。
「仕方ないじゃないか」「みんな同じことをしている」「なにが悪いんだ」「生き物の いのち を奪うのはかわいそう」「水と野菜だけで生きていきます」という我執が崩壊すること。
私が「正しいこと」「悪いこと」と判断し、思い込んだりするまでもなく、いのち の歴史の中を生かされている。いのち の歴史の中で、我執なんてちっぽけなこと。私の想い・自我に関係なく、いのち の歴史は流れている。その流れの中を生かされている。
自我が崩壊してこそ、私は私を肯定できる。