2006年1月29日 (日)

わたしは傷を持っている

わたしは傷を持っている
でもその傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる

                 星野富弘

やさしさがしみてくるのは、傷があるからこそ
やさしくされる人だけでなく、やさしさの主こそ傷ついている。
傷があるから、人が見える。

「私は傷をもっている」という自覚は、
視界が開けるということ。
周りが見えるということ。
自分自身が見えるということ。
    
    
「鬼」と聞いて どんな想像をされますか?
怖いというイメージで語られることが多い「鬼」
(昔話では愛嬌がある存在として語られることも多々ありますが)。
厳しい人や環境や状況を「鬼のような」と形容することもあります。
怖い・厳しいものとして「鬼」が語られる。
でも、ある時ふと想ったのです。鬼の厳しさの背景には、どんなにつらいことがあったのだろうかって。
鬼の厳しさというものは、自身がつらさ哀しさを経験しなければ生まれてこないのではないか。
どれだけの傷が、その心身に刻まれているのだろう。
傷を受けたから他に対して厳しいということではなくて、傷があるからこそ他に対する厳しさを持ち続けられる。
厳しさとは反対に、愛嬌をもった存在として語られる鬼にだって、その背景にはどんな出来事があったのだろう。傷のない心身で他に愛嬌を振りまくことは、厳しさを保つこと以上に難しい気がする。
厳しい存在であるにしろ、愛嬌のある存在であるにしろ、その背景には想像を絶する物語が込められているのではないだろうか。

身の回りの、厳しくて嫌な奴 笑顔の素敵なあの人…その背景には、なにがあったのだろう。  

厳しさはやさしさの裏返し
愛嬌は哀しみの裏返し 
   
わたしは傷を持っている
でもその傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる

やさしくされる人にも、する人にも傷がある。
傷がなかったら、やさしさの関係は生まれない。
傷があるからこそ、やさしさがにじみ出てくる。しみこんでくる。

2006年1月26日 (木)

傷ついたのは…

傷ついたのは、生きたからである。
                     高見 順

人と接するということは、
 誰かに傷つけられることでもあるし、
 誰かを傷つけてしまうことでもある。

誰かに傷つけられる
 こころの傷は、簡単に癒えるものじゃない。

誰かを傷つける
 意図的に傷つける人もいるかもしれないけど、
 自分でも気付かないうちに人を傷つけていることがある。
 いや、そっちのほうが遥かに多い。
 他人の刃には敏感でも、自分が持っている刃には鈍感なもの。
 
誰かに傷つけられ、誰かを傷つけ、それが怖いからと人と接することを遠ざける。
しかし、ひとりぼっちという孤独が私を傷つける。

私を傷つけるのが人ならば、
私を助けるのも人。

「傷つける」と「助ける」
「傷つける」人ばかりでもないし、「助ける」人ばかりでもない。
「傷つける」があるから「助ける」が成り立ち、
「助ける」があるから「傷つける」が生まれる。
矛盾するものが、必然として存在する。

「キズ」という響きが、つらさ哀しさを連想させる。

自分を奮い立たせる ことば や音楽。
自分を省みた想い。
それらを“胸に刻む”。

感動的な景色や場面。
それらを“目に焼き付ける”。

刻んだり、焼いたり…ことば を変えれば“傷”ということ。

つらさ 哀しさだけじゃない、自分の身に起こるすべての出来事が“傷”として私に刻み込まれていく。
傷ついたのは、生きているから。

2006年1月25日 (水)

傷つけないやさしさなんて…

傷つけないやさしさなんて偽物じゃないやろか
                     森 毅

真実を知るということは、苦しむということなのかもしれない。

大切な人を 苦しめたくないから嘘をつく。
嘘は嘘を呼び、雪だるま式に大きくなっていく。
大きくなった“嘘”という雪だるまは融けることなく、本来進むべき険しい道をふさいでしまう。
大切な人は、きれいに舗装された道を進んでいく。本来進むべきはずのない道を。
どんどん どんどん進んでいく。
なんの変化もない道は、視覚を奪い、思考を奪う。
人生という景色を眺めることもなく。
生きていると言う実感を味わうこともなく。
次第に、あなたのことも忘れて行ってしまうだろう。
いつか障害にぶち当たった時、大切な人は、その障害を乗り越えられるだろうか。
それともまた きれいに舗装された道をさがすのだろうか。

      
真実を知らせるべき時がある。
いや、わざわざ知らせなくても、自然と身につけていくはずなのだ。
生きるということは、苦難の連続であるということを。
人は老い、病気になり、いつか死ぬ。
“苦難”といったけれど、“必然”なこと。
すでに用意されていた道なのかもしれない。

やさしさ…相手のことを慕ってのこと。
その“やさしさ”によって、大切な人は
 きれいに舗装された道を歩んでしまうのか、
 すでに用意されていた道を進めるのか。

傷つけないやさしさ…誰を傷つけないのか。
“大切な人”かと思ったけれど、この私自身のことかもしれない。
自分が傷つくことなくやさしくしても・・・
 いや、自分が傷つくのが嫌だからやさしくするのか。
「人の為と書いたら、“偽”という字になりました」
自分を傷つけないやさしさなんて偽物じゃないやろか。

2006年1月24日 (火)

傷つけられるのは…

人間は起こることによって傷つけられる以上に、
 起こることに対する意見によって傷つけられる

                   モンテーニュ

傷つく時って、ある出来事が起きて、その出来事によって傷つくものと思っていた。
だけど、出来事そのもので傷つくことってないのかもしれない。ショックは受けるけれど。
身の回りになにか起これば、それについていろいろな声が聞こえてくる。
同情もあれば、非難もある。無関心という反応だってある。
出来事そのものに傷つけられるのではなくて、それぞれの意見によって傷を負うのかもしれない。

励ましてくれる意見もあるけれど、傷つく意見の方が より深く こころに刻まれてしまう。

励まそうと思って声をかけてくれる人がいても、それが余計にツライ時もある。「がんばれ!!」がそうかな。
非難されれば、いい気はしない。それが自分の目を覚まそうとしてくれている声だとしても。
無関心…実は一番キツイかもしれない。「誰にも干渉されたくない」なんて口では言うけれど、本当に誰からも干渉されなくなることほど怖いことはない。

人間は
起こることによって傷つけられる以上に、
起こることに対する意見によって傷つけられる。

でも、
だからといって、傷つけた意見の主を恨んでもいけない。恨みたくもなるけれど。

吾人は他人の為に苦しめらるるものにあらず
                        清沢 満之

起こることに対する意見によって傷つけられ、苦しめられているように感じてしまうけど、私が苦しむのは、私の“想い”による。
もし私が傷ついたのなら、それは、その意見が正しいから。的を射ているからこそ、腹も立ち、傷つき、苦しむ。それならば、反省し、自分の身を正さなければいけない。
もしその意見がまったく的はずれならば、傷つくことも苦しむこともない。そんな意見を述べた相手を哀れんでおやりなさい。決して怒るべきではありません。そんなことで怒り苦しんでしまうということは、それは他人によって苦しめられるのではなく、私が私を苦しめているのですよ、と教えてくださっています。


怒りにまかせてしまって、励まそうとしてくれている想いや、目を覚まそうとしてくれている気持ちが見えなくなってはいないだろうか。

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