昨日の記事で書いたとおり、イメージで物事を見ている、決め付けている自分に気付きました。
そういう想いを、三田にあるお寺の仏教青年会で発題してきました(誕生日を祝ってくれたお寺とは別のお寺の青年会。月に2ヵ寺の青年会に参加させていただいているのですが、今月はその2ヵ寺とも発題当番でした。ありがたいことです)。
夜遅くに子供を連れた親を見て、「あ~ぁ、こんな時間に子供を連れてコンビニに来ちゃだめだよ」と思うことと、
僧侶が××したら「僧侶のくせに××するなんて!!」という批判が出ることは、根っこの部分は同じだなと思いました。
世間が僧侶を見る目も、私が子を持つ親を見る目も、イメージで物事を見ているにすぎない。他者をイメージで見て、「らしさ」を求める。イメージから逸脱したときには非難の目で見てしまう。
イメージで物事を見るということは、自分勝手な固定観念を生み出す。このようなものの見方が差別を生み出す一因なのかもしれない。
☆イメージで物事を見ていたなぁってこと、ありませんか?
☆そもそも、イメージの元ってなんでしょう?
「イメージで物事を見てませんか?って発題だけど、誰だって見てるでしょ。第一印象なんて、イメージが先だよ」
…その意見を聞いて、目からウロコでした。そうですよね、誰を見るにも、何をするにも、先ずはイメージからですよね。
「かっちゃんはさぁ、“イメージ”をマイナスのものとして見ているよね。固定観念とか偏見とか先入観って意味で。
でも、“イメージ”には想像力というプラスの面もあるよ」
…そうなんですよね。“イメージ”のマイナスの面にばかりに意識が行ってしまい、想像する力・考える力という面での“イメージ”を見落としていました。イメージする力があるから、ゼロから出発しても、歩いていけるんですよね。
「“イメージ”は自分を変える力を持っています。人間は“イメージ”を駆使して生きている生き物なんです。
持論ですが、戦争はなくせないと思っていました。でも今日の発題によって、平和な世界をみんなが想像すれば、みんなが戦争をなくそうと想えば、戦争はなくなるかもしれないと思いました。
“イメージ”には、人間を幸せにする力が込められています」
…その方は、私が“イメージ”と表現したものを、“物語(ファンタジー)”と表現され続けてきました。
人間には物語があり、その物語が生きる力となる。それなのに、現代ではその物語が希薄になっている。
物語(ファンタジー)の話、今まで何度も聞いてきたことなのに、初めて自分の中にスッと入ってきたような気がしました。
想像し、創造する。イメージする力が生きる力となる。
良くも悪くもイメージしてしまう私だけれど、なにごともイメージから始まる。
いろいろなこと、イメージしてみていいんだ。そこが出発点なのだから。
自分ひとりで考えていると、自分の考えの中に閉じこもってしまう。
自分の考えだけが正しくて、自分が正義で、他者が見えなくなってしまう。
発題することによって、視野狭窄になっていた自分に気づかされました。