一味ということ
尽十方無碍光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしおに一味なり
親鸞聖人 「曇鸞和讃」
阿弥陀如来は、悩み苦しむ衆生を、とても大きな慈悲のこころで包んでくださっています。
阿弥陀如来は、救われなくても仕方なのない衆生を、「救いたい!!」という大いなる願いを立てられました。
悩み・苦しみ・やましいこころによってドロドロに濁った われら衆生の煩悩という川も、
阿弥陀如来の温かな慈悲・大いなる願いという海に流れ込んでいます。
どんなに濁っていようとも、阿弥陀の海の中に流れ込めば、たちまち清浄のこころと一味となります。
手を取り合う、仲良くする、協力する
…人間がそういうことをしようとするときは、損得勘定がつきまとう。多かれ少なかれ。
誰かが中心になる。求心力があるうちは、目標があるうちはまとまるけれど、期待通りじゃなかったり、目標を達成したり、より魅力的な人が現れたら、サッサと乗り換えてしまう。
どこで「手を取り合う、仲良くする、協力する」ということが成り立つんだろう。ヒトがしようとしてできることじゃないのかもしれない。
個性を認めあってお互いを尊重して生きていけるのは、
私がそのように思ってするのではなくて、
すでに そのはたらきの中を生かされている私であったという自覚においてなのかもしれない。
大悲大願のはたらきにおいて、われらは一味となる。
グレープフルーツジュースから いろいろと考えてしまいました。