グレープフルーツジュース

2006年4月27日 (木)

一味ということ

  尽十方無碍光の
  大悲大願の海水に
  煩悩の衆流帰しぬれば
  智慧のうしおに一味なり

         親鸞聖人 「曇鸞和讃」

阿弥陀如来は、悩み苦しむ衆生を、とても大きな慈悲のこころで包んでくださっています。
阿弥陀如来は、救われなくても仕方なのない衆生を、「救いたい!!」という大いなる願いを立てられました。
悩み・苦しみ・やましいこころによってドロドロに濁った われら衆生の煩悩という川も、
阿弥陀如来の温かな慈悲・大いなる願いという海に流れ込んでいます。
どんなに濁っていようとも、阿弥陀の海の中に流れ込めば、たちまち清浄のこころと一味となります。


手を取り合う、仲良くする、協力する
…人間がそういうことをしようとするときは、損得勘定がつきまとう。多かれ少なかれ。
誰かが中心になる。求心力があるうちは、目標があるうちはまとまるけれど、期待通りじゃなかったり、目標を達成したり、より魅力的な人が現れたら、サッサと乗り換えてしまう。
どこで「手を取り合う、仲良くする、協力する」ということが成り立つんだろう。ヒトがしようとしてできることじゃないのかもしれない。

個性を認めあってお互いを尊重して生きていけるのは、
私がそのように思ってするのではなくて、
すでに そのはたらきの中を生かされている私であったという自覚においてなのかもしれない。

大悲大願のはたらきにおいて、われらは一味となる。
    
   
グレープフルーツジュースから いろいろと考えてしまいました。

2006年4月26日 (水)

ペルソナ(仮面)

人は誰もが“想い”を持っている。
“想い”を持った者どうしが出遇うのだから「衝突」が起こる。
「衝突」といっても、意見が合わないという意味だけでなく、手を取り合うという意味も含めて。

 真っ向から対立する
 部分的に認め合う
 すべて意見が合う
 対立してはいるけど、相手のことは認めている
 考えてることは似てるけど、相手のことは大嫌い
 自己を主張して 話し合う気すらない
 自分を殺して 相手に合わせる
 衝突から 新たな衝突が生まれることがある
 衝突から 新たな発想が生まれることもある
 目標を達成するまでの間 手を取り合うこともある
 いつまでも手を取り合えることもある


“想い”を持った者のどうしが出遇うのだから、「衝突」が起きて当たり前。
「正義と悪の対立」とか、「正義と正義だからこそ対立する」とか言うけれど、正義とか悪なんて定義付けするまでもなく、“想い”と“想い”が衝突しているということなんだなぁ。それが生きているということかもしれない。

目標が同じならば協力し、意見が合わなくなったら解消する。
それが自然の成り行きかも。
協力し合ううちに、いつまでも手を取り合えるようになることもある。
解消してベクトルが正反対を向いてしまっても、いや、正反対を向いてしまった方が引き合うということもある。

束ねられた矢だからこそ、その後も融通が利く。束ねられたままでもいいし、また別れることもできる。
完全に混ざり合ってしまったら、個が消えてしまう。混ぜ合わされたグレープフルーツは、二度とそれぞれの味には戻らない。グレープフルーツを混ぜ合わせて、一度不味くなってしまうと、その後どんなに美味しいグレープフルーツジュースを混ぜ合わせても、美味しくなることはない。
絵の具を混ぜ合わせたときも、何色も混ぜれば黒になる。黒になったら、もう戻れない。
手を取り合う、同じ方向を向く…いいことのようだけど、実は怖いことも。
間違っていると思っても、白を黒と言うヒトに、右を左と言うヒトにねってしまうことも。いや、「間違っているとは思うけど」と認識できるだけいいのかもしれない。なんの疑いも持たないヒトになってしまうかもしれない。
お手々つないで仲良くを望むということは、「衝突」を避けようとすることは、みんなが無表情の仮面をかぶるということかもしれない。

“想い”を持ったものどうしなのだから「衝突」して当たり前。だからこそ泣けるし、だからこそ笑える。表情が出てくる。
「衝突」から何が見えるか、何が生じるか、どんな表情が現われるか。
   
   
何を笑うかによって、その人の人柄がわかる
                        パニコル

2006年4月25日 (火)

サンフレッチェ(三本の矢)

毛利元就の「三本の矢」

一本では簡単に折れてしまう矢も、三本束ねると折れない。
三人の息子に力をあわせることの大切さを説いたといわれる逸話。

矢が三本合わされば、折ることは容易ではない。
しかし、より強力な力の前では いとも簡単に折れることも。
 強ければ強いほど、実はもろい面もある。
しかし、一本一本は独立したまま。いつ分裂するとも分からない。
 三本をひとつにまとめる求心力が必要。 

より合わさって作られる縄のように、矢もあざなわれたら より強くなるのかも。
数種類のグレープフルーツを混ぜて作ったジュースのように、一味になればより濃厚な味がでるかも。
    
   
なにを言いたいんだって思われてるかも…。
どうすれば強く結束できるのかということを考えているのではなくて、人間は元々はバラバラなんだなということを思うわけです。
人それぞれ自分の想いを抱えて生きている。だから、衝突して当たり前。同じ想いを抱えたものどうしは、強く結びつきそうだけど、そんなに簡単なものではない。同じ想いを抱えているからこそ、余計に反発することもある。まったく正反対の想いを抱えたものどうしが意気投合することもある。
想いを抱えたまま、束になったり、あざなわれたりする。するけれど、妥協であったり、同じ目標に向かっているから ひとつになっているにすぎない。意見が合わなくなったり、目標を達成してしまえば、いとも簡単に解消されてしまう。

ジュースのように一味になれたら。
一度混ざれば、またバラバラになることもない。
混ざってからもそれぞれが自己主張をすることはない。
 でも、訳が分からない味になる…なにをしたいのか分からなくなることはあるか。

毛利元就が三人の息子にジュースを作ってあげる絵は微笑ましいけど^^

2006年4月24日 (月)

グレープフルーツジュース

グレープフルーツを搾ってジュースをつくるとき、
一種類のグレープフルーツだけを搾っても、コクも深みもありません。
搾りたてだから それなりに美味しいけれど、なにか物足りない感じ。

種類の違うグレープフルーツや柑橘類を搾って混ぜると、甘さ・コク・深みが出て、何倍も美味しくなります。

いろいろなものが混じって、味がでる。能力を何倍にも引き出してくれる。
    
    
いろいろ混ぜすぎて 味がゴチャゴチャになって、かえって不味くなってしまうこともあるけれど…

グレープフルーツに限る話でもないのだけれど、グレープフルーツジュースが好きなものですから。

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