悪人

2006年5月27日 (土)

阿弥陀如来

真宗の基礎的なことに立ち返ったのは、“悪人”について考えたかったのではなくて、阿弥陀如来のことを想ったから。

如来…“如”より来るもの。 “如”とは真実なり。

真実は分からないもの。分からないものだけど、実は私自身。
 私…縁によって生かされる身。必然の生と死を生きる身。

阿弥陀如来は、この私自身だった。
    
    
真宗の教えで、
“悪人”を他者に見るのではなく、
私こそ“悪人”でしたと感得する自己内省が大切ですと教えられる。
でも、阿弥陀如来を外に見た自己内省は反省にすぎない。    
自分自身が内省(反省)するのではない。
内なる阿弥陀如来が呼びかけてくださっている。ずっと前から。これからもずっと。
そんな大きなはたらきを受けながら、私は生かされている。
すでに自己内省のいのちを生きている。
私がするのでも、感得するのでもなかったんだなぁ。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

2006年5月26日 (金)

悪人

悪人正機・悪人往生と表現される親鸞聖人の教え。

悪人こそが正しく救われる機(人)である。
悪人こそが往生できる。

初めて聞いた人はビックリする。
「えっ、悪人こそが救われる?」
「善い行いをする必要がないじゃないですか。みんな悪いことをしてしまいますよ」

親鸞聖人の名をかたって、悪事を勧める人もいる。
「親鸞聖人は悪人こそが救われるとおっしゃっています。みなさんも、気にしないでかまわないのです」

浄土真宗のお話を聞いた人は、
“悪人”とは、罪をはたらいた人のことではないことに気付く。
“悪人”とは、煩悩盛んな者を意味することを教えられる。

ちょっと聞きかじっただけの人は、
煩悩盛んな者を、他者に見てしまう。

「煩悩盛ん」と聞くと、性欲・食欲・睡眠欲などの欲求が盛んな人を連想する。
でも“煩悩”と言ったら、妬み(ねたみ)・腹立ち・嫉み(そねみ)を含む。
喜んだり、笑ったり、泣いたり、悲しんだり…それらすべて煩悩のなせる業。

ここまで読んでいただけた方はもうお気づきですね。
“悪人” “煩悩盛んな者” つまり、私自身ということを。

親鸞聖人の「悪人正機」「悪人往生」のおしえとは、「悪人こそ救われる」という教えではなく、
生きとし生けるもの、すべての衆生が救われるということ。

そんな“悪人”を救ってくださるのは、阿弥陀如来。

2006年5月25日 (木)

真実

「生は必然 死も必然」という内容の記事を前回書きました。
書いてから いろいろと考えてます。

子供が犠牲になる事件・事故が増えています。
ニュースを目にしたり、悲しみを感じている人の話を聞くと こころが痛みます。

「生は必然 死も必然」
そう書いた想いに偽りはないし、
人間の、いや、生きとし生けるものすべてが背負っていることだと思います。

そうなんだけど、このような事件・事故を見聞きすると、ユラユラしてしまう。
悲しいのは 子供に限った話ではない。
誰が亡くなっても、どのように亡くなっても、悲しいし つらい。
でも「生は必然 死も必然」。

生まれたのだから、いつかは死ぬ。分かりきっていること。言ってしまえば、“真実”。
でも、その分かりきっていることで、人は悩む。
“真実”が分からない。 いや、“真実”だからこそ分からない。

事件・事故の被害に遭われた方は「真実が知りたい」と切望する。
報道する方は「真実を伝えるのが仕事」と言い切る。
真実を知り、真実を伝えることが出来たとして、それで満足出来るかといえば、そういうものではない。真実を知ってしまったがために、今まで以上に苦しむことがある。真実とは、そういうもの。

でも、私たちが知りたがっているのは、“真実”というよりも“事実”。
“事実”は調べれば分かるけれど(分からないことだって ありますが)、
“真実”は人知を超えたところにあるもの。分かるとか分からないといった次元をはるかに超えている。

人知の次元をはるかに超えているからといって、果てしないところにあるものなのか、考えなくてもいいことなのか、理解不能のことなのか。
いや、私の目の前にあって、考えるまでもなく、理解しようと試みなくても既に私に身についていること。
 それが「生は必然 死も必然」。
  それが 避けられないもの。 
   それが “真実”。

でも、ユラユラしながら生きていくのが私。

2006年5月22日 (月)

避けられないもの

死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ
                            チャップリン

生は偶然 死は必然 

うん、そうなんだけど 私は、この世に生まれてきたのは、「生まれたい!!」っていう自らの意思があったからだと思っています。
「おかしなことをいうなぁ」って思われましたか?
そうですね。以前、そういうことを公の場で言ったら、「あなたは面白いことを言いますね。生まれる前に意思があるわけないでしょう」と言われたことがあります。
うん、常識的に考えればその通りかもしれない。
それでも私は、生まれて、生きていることは自分の意思なんだと思っています。
避けられない現実。だけど、自分で望んできたこと。望んで生まれてきた。
それなら、「死」も望んでいいのか?
いや、「死」は望むことではない。望まずともいつか「死」はやってくる。
「生」は、望んだからこそやってきた。

生は必然 死は偶然

「偶然」って表現すると、軽く感じられてしまうかもしれない。
でも、偶然の出来事は、必然を含んでいる。
結局は

生は必然 死も必然

私にとって必然の出来事は、避けることができない。
私を成り立たしめるために起きた出来事なのだから。

「避けられない」
逃げたい出来事から逃げられないという意味ではない。
私の身に、起こるべくして起こる出来事。
うん、それじゃぁ避けられないですね。

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