坊守のアフォリズム

2019年10月28日 (月)

年を重ねる 今・今・今の積み重ね 

昨日(2019年10月27日)は、住職・坊守(父・母)の50周年結婚記念日

「お祝いに外食でもする?」と、昼間に尋ねたものの、
毎土・日曜日はお寺で法事があり、法事と片付けを終えると、いつも2時や3時からの昼食になる。
結局、3時からの昼食でお腹も落ちついてしまい、外食(お祝い)は延期。

昼食を終えてから、娘とケーキを買いに行った。
「ジィジ バァバは、どのケーキがいいかなぁ」と選んできたケーキを、夜にみんなで食べた(それが夕飯になった(^∀^))。

(坊守)    「結婚して50年ね」
(長女(孫)) 「50年なの?」
(私)      「息子が48歳だからねぇ」
(妻)      「金婚式ですねぇ」
(長女(孫)) 「あと50年で100だねぇ」
(住職)    「100回忌だね」 (^∀^)
(坊守)    「私は、今が一番幸せだわ♪」

いろいろな含みのある「今」。
現在の「今」もあるけれど、
その瞬間(とき) その瞬間(とき)が「今」でもある。
今、今、今の積み重ねが今であり、「今」と言った瞬間に、その「今」は過去となる。未来においても「今」という。
現在・過去・未来を含んだ「今」もある。

(住職) 「ジィジは、みんなでケーキ食べてる“今”が幸せです」(⌒▽⌒)

次女は、大好きなチョコレートケーキを黙々と食べていました。

2008年2月21日 (木)

やくどし

「やくどし」って、お役に立つ年ってことよ。
やっと人の役にたてるような年になったってこと。
素敵なことじゃない

と、坊守が申しています。
 
限られた寿命のうちで、「厄年」とか「日が悪い」とか言って、自分の生命活動を控える・抑える・限定する。なんてもったいないことでしょう。
そもそも いのちの営みの中で、いい日悪い日がありましょうか。
自分のこころで作り出しているに過ぎません。
常に「やくどし」…人さまのお役に立つ日々を生かさせていただいているのです。

2007年10月 6日 (土)

幸せって…

幸せって、いいことばかり起こることじゃないわよね
 
考えることがあります。 
「幸せを求めることが人生の目標じゃないの?」って問われたことがあるけれど、
それっていったい何を求めているんだろう?
どうなることが幸せなんだろう?
 
いいことばかり起こること?
ずっと楽しい時間であること?
なにもかも自分の思いどおりになること?
 
仮にそれが幸せなんだとしても、
そうなればなったで、そのことを幸せなんて感じなくなることでしょう。
いいことばかり起こっていれば、そのことがいいことだなんて思わなくもなるし、
楽しい時間が続くことも苦痛かもしれないし、
自分の思いどおりになった結果は孤独です。
  
笑顔の素敵な人っていますよね。 
単に笑顔なのではない。
生まれつき素敵な笑顔なわけでもない。
笑顔の背景には、どんなにつらいことがあったことでしょう。
 
いろいろな経験をして、人の顔やこころってつくられていくものだと思います。
そのときは苦しくても、決して無駄なこと・無意味なことではないと思う。
幸せが苦痛や苦悩を取り除いたものであるならば、幸せになったら人の表情から笑顔は失われていくんだろうな。
 
「幸せってなに?」って問いをひっくり返すと、
「不幸ってなに?」って問いも存在します。
 
「不幸ってなに?」
もしね、苦しい出来事が肥やしとなって笑顔となる日が来るのなら、不幸(と思われていること)も不幸ではありません。
 
幸せとか不幸とかって、外的な出来事ではなくて、自分のこころの問題です。

いいことばかり起こって、そのことに喜びを感じなくなる。なんて不幸なことでしょう。

2007年2月14日 (水)

じゅうえん

坊守と私(かつ)との会話です。
  
(坊守)「夫婦って不思議よねぇ。ある人とある人が出会って、結婚して。出会いも不思議だし、そこから結婚に至るなんて、もっと不思議よねぇ」
  
(かつ)「ご縁だねぇ」
 
(坊守)「お父さんとお母さんは“じゅうえん”よ!!
 
(かつ)「そうだねぇ^^」(相変わらず口数少ないなぁ)
 

 
私の「ご縁だねぇ」を受けて、母は、五円と十円をかけて、“じゅうえん”と表現したのでした(説明するまでもないですね)。
住職との「ご縁だねぇ」では言い尽くせぬほどの出会いを経て、こんにちに至るまでの出来事をすべて含ませた重い重い“じゅうえん”と受け取りました。
“じゅうえん”の響きがリアルに感じました。息子として、副住職としてふたりの苦楽を見てきたし、共に生活してきたので。 (“ひゃくえん”とか“ごひゃくえん”なんて言われてたら、「つまらないシャレだねぇ」なんて悪態ついてたかもしれませんが^^;)。
 
ご縁ご縁、ふたりのご縁で重縁ですね。
  

  
今日はバレンタインーだそうですね(他人事!?)。
本命にしろ、義理にしろ、チョコを渡す(渡される)ご縁をいただいているのです。
いつの日か「“じゅうえん”の出会いだったなぁ」って述懐するおふたりもいるかもしれませんね。
 
チョコをもらう前に、阿弥陀さまから“じゅうえん”をいただいているのでした。
 

2006年11月20日 (月)

目と目で通じ合う

ボソボソっとした話し方をする私。
今朝も朝食時にいつものようにボソボソっとした話し方をしていました。
すると、いつもハキハキ坊守が

もっと口を大きく開いて、相手の目を見て、ハッキリしゃべりなさい^^

「うん」って、ボソッと応える私。

「いつも法話会の時は大きい声でハキハキしゃべってるじゃないの。あんな感じでしゃべりなさいよ」

「法話会の時はスイッチを入れてるから…」ってボソッと。

「常にONにしておきなさい!!」
      
    
そうは言うけれど…  
数日前、友人と話している時にON状態になり、いつもと違うテンションで話していたら、
「そんなの かっちゃんじゃない!!」
と言われてしまいました。ボソボソってイメージが定着しているようです。
   
   
でも、相手の目を見て話すということは大事ですね。特に、伝えたい何かがあるときは効果的です。
先日、よそのお寺さんの報恩講でお話をするご縁をいただきました。法話をするときは、出来るだけ聴衆ひとりひとりの目を見るように心がけています。
伝えたいことがちゃんと伝わっているかどうかは分かりませんが、場の共有が出来ているかなって感じます。
話すほうが一方的に話すのではなくて、聞いてる方の目を見て、「あっ、今のところ伝わらなかったかな」って思ったら また丁寧に話したり、例え話や脱線話が「つまらなそうだな」って感じたら話を元に戻したり。
向こうももしかしたら「分からない」「面白くない」って視線を送っているのかもしれませんね。

目を見て話す。
話す方も聞く方も緊張感が生まれます。

2006年5月31日 (水)

あなたは本当に…

食器を洗っていて、また割ってしまいました(><)
 朝食時に ヨーグルトを入れてた青い器
 家族の人数分しかなかった器
 お気に入りの器
 高価な器
   
私 「ごめんなさい。また割っちゃいました (ToT)」
坊守「あなたは本当に よく食器を洗う子ね (^∇^)」

冗談で「弁償ね」とは言われましたが、それだけでした。
内心は(^-^;)だったかも。
 いや、∑(゚∇゚|||) ぐらいだったんじゃぁ…。


割れた器を集めて、燃えないゴミ用のゴミ箱に捨てました。
「ごめんね、青い器さん (-人-)」

2006年5月30日 (火)

自分で自分を…

自分で自分をほめたいと思います
というのは、アトランタオリンピック(1996年)で銅メダルを獲得したときの有森裕子さんの名言として有名です。ことば と、ことばを発する人のやってきたことがピタリと合っていると、ことばも人も輝きを増しますね。
         
         
     
朝食時の会話
坊守 「私、まだまだ若いからね^^」
住職 「自分で言っちゃうからなぁ」
坊守 「あら、自分で自分をほめてあげなきゃ

自分で自分をほめてあげないと、誰もほめてくれませんからねぇ。

自分を追い詰めて 追い詰めて、しかも結果を出して、自身を持って「自分で自分をほめたいと思う」って言えることも凄いし、素敵だし、そんな人は稀です。
でも、生きていること自体凄い経験。そんな日々を過ごしている私を、こころの底からほめてあげられるのって、実は自分だけかも。自分で自分をほめてあげないで、誰が私をほめてくれますか?

誰もほめてくれない?
誰も認めてくれない?
自分がやっていることに迷いがある?
このままでいいのだろうか? 

先ずは自分で自分をほめてあげてください!!
自分で自分をほめてあげなきゃね^^


2005年12月30日 (金)

あなたがよくないからよ

坊守(母)がタクシーに乗ると、たいていの運転手さんがお話好きで、乗車から降車まで楽しい会話が続くそうです。

食事の時に、運転手さんとの会話の内容を話して聞かせてくれます。
「運転手さんと意気投合しちゃって、話しすぎちゃって、降りる所間違えちゃった」なんてことも。
「この運転手さんは嫌だった」なんて話はほとんど聞いたことがありません。

私「お母さんは、いい運転手さんにばかり当たっていいね。
  僕はいい運転手さんに当たらないなぁ」
   (滅多にタクシーには乗らないですけどね)
母「それは、あなたがよくないからよ

辛辣です。でも、当たっているのでしょう。運転手さんがどうとかではなく、私自身の問題です。
人に対して、「いい」とか「わるい」、「好き」とか「嫌い」と言う時、それはまったく同じことを相手も感じていると思ったほうがいいですよ。
気をつけよっと。

2005年12月29日 (木)

親指に感謝

右手親指がアカギレてしまいました。
爪から指の腹にかけてパックリと割れています。
なにかに触れるたびに、脳にまで痛みが響いてきます(ズキッッ!!)。

 箸をうまく使えない(美味しく食べられないものですね)。
 雑巾を絞ることが出来ない(痛くても掃除はしなきゃ)。
 携帯のメールが打てない(左手使ってます)。
 本をうまくめくれない(経本がめくれんとです)。
 ズボンのチャックが下ろせない(トイレが!!)。

指一本怪我しただけで、なんと生活が不便なことか!!!!
そういえば、
小さな小さなトゲを刺しただけでも、とても痛いし気になりますよね。
目にまつ毛が入っただけでも、とても痛いし気になりますよね。

私「親指をちょっと怪我しただけで、とても不便だねぇ」
母「親指に感謝する気持ちがなくなってたんじゃないの」
私「そうかもしれないね」
母「そう、指に感謝しなさい」

…なんか、変なとこ強調しませんでしたか?

(注)
「坊守(ぼうもり)」…真宗寺院における、住職の奥さんのこと。
坊(寺)や坊主を守るという意味から「坊守」と呼び習わしてきました。
だから、真宗寺院においては、住職よりも坊守の存在がとても大切。
真宗寺院が成り立つも成り立たないも坊守しだいです。

フォト
2025年5月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ