5.無用なるもの
忙しく生きる、いや、生きることに忙しくしている現代の私たちにとって、「無用の用」を忘れています。
有用なもの、必要なもの、使えるもののみを必要とし、無用なものに見向きもしません。
無用なものといっても、必要がないという意味ではありません。忙しく生活する中で、気にも留めなくなっているものがあります。だからといって、必要がないと言い切れるかというと、そうでもありません。「無用の用」ということがあります。
そういう意味では、宗教も無用なものかもしれません。
仏教を信仰したからといって、生活が楽になるわけではないでしょう。人間の当面の生活からいえば、宗教は無用なのかもしれません。「私は無宗教ですから」と平気な顔をして言う人に対して、反論の言葉はありません。
しかし、宗教を無用なものとして捨ててしまったとき、人間生活そのものはどうなるでしょうか。無用なものが用をなせばこそ、人間生活も人間生活らしくなってきます。
生活に無用だからといって、人間に無用だとは言い切れません。考えても見れば、私たちは生活に無用なものを多く持っているのです。
「死」について悩むということ。いかなる動物にもなく、ただ人間にのみあることだそうです。
すなわち、人間は「死」について悩むという、無用なものを持っているのです。生きるだけが目的ならば、「死」についての悩みなど捨てて、生きることに専心すればよいのです。しかし、それが出来ないということは、無用と思われることの中に、なにか用をなすものがあるのです。
「死」についての悩みがあればこそ、生の意味を考えることとなります。それこそが、人間が人間として生きることとなります。
当面の生活のためには、宗教感情など邪魔になるのかもしれません。しかし、その感情自体は人から離れることはありません。無用の用をなさんとしているのです。
人間自身も、有用・無用(使える・使えない、必要・不必要)と振り分けた目で見られてしまいます(いや、「見ています」かな)。
有用であるとされれば、頑張る力となる場合もあるかもしてませんが、「私がいなければ」という、うぬぼれへと変わっていきます。
無用であるとされても、用はあるのです。期待もなにもない分、ますます力を発揮する場が与えられているともいえます。無用とされる位置に身を置いて、無用であるとする人々のために、無用の用を成すべきではないでしょうか。無用の自覚において、用をまっとうする。こうは言ってみても、自分を無用のものであるとする自覚は、淋しいものがあります。しかし、その淋しさの自覚において、既に自分を見つめ、守ってくださっていたはたらきがあることが感じられます。それを阿弥陀如来と表現します。
無用の自覚に立つ。これが真宗の教えなのかもしれません。