『人生のゆくえ』

2005年8月24日 (水)

5.無用なるもの

忙しく生きる、いや、生きることに忙しくしている現代の私たちにとって、「無用の用」を忘れています。
有用なもの、必要なもの、使えるもののみを必要とし、無用なものに見向きもしません。
無用なものといっても、必要がないという意味ではありません。忙しく生活する中で、気にも留めなくなっているものがあります。だからといって、必要がないと言い切れるかというと、そうでもありません。「無用の用」ということがあります。
そういう意味では、宗教も無用なものかもしれません。
仏教を信仰したからといって、生活が楽になるわけではないでしょう。人間の当面の生活からいえば、宗教は無用なのかもしれません。「私は無宗教ですから」と平気な顔をして言う人に対して、反論の言葉はありません。
しかし、宗教を無用なものとして捨ててしまったとき、人間生活そのものはどうなるでしょうか。無用なものが用をなせばこそ、人間生活も人間生活らしくなってきます。
生活に無用だからといって、人間に無用だとは言い切れません。考えても見れば、私たちは生活に無用なものを多く持っているのです。
「死」について悩むということ。いかなる動物にもなく、ただ人間にのみあることだそうです。
すなわち、人間は「死」について悩むという、無用なものを持っているのです。生きるだけが目的ならば、「死」についての悩みなど捨てて、生きることに専心すればよいのです。しかし、それが出来ないということは、無用と思われることの中に、なにか用をなすものがあるのです。
「死」についての悩みがあればこそ、生の意味を考えることとなります。それこそが、人間が人間として生きることとなります。
当面の生活のためには、宗教感情など邪魔になるのかもしれません。しかし、その感情自体は人から離れることはありません。無用の用をなさんとしているのです。

人間自身も、有用・無用(使える・使えない、必要・不必要)と振り分けた目で見られてしまいます(いや、「見ています」かな)。
有用であるとされれば、頑張る力となる場合もあるかもしてませんが、「私がいなければ」という、うぬぼれへと変わっていきます。
無用であるとされても、用はあるのです。期待もなにもない分、ますます力を発揮する場が与えられているともいえます。無用とされる位置に身を置いて、無用であるとする人々のために、無用の用を成すべきではないでしょうか。無用の自覚において、用をまっとうする。こうは言ってみても、自分を無用のものであるとする自覚は、淋しいものがあります。しかし、その淋しさの自覚において、既に自分を見つめ、守ってくださっていたはたらきがあることが感じられます。それを阿弥陀如来と表現します。
無用の自覚に立つ。これが真宗の教えなのかもしれません。

2005年8月23日 (火)

4.不思議の因縁

  自分は父母から生まれたのではない。
  実に父母に縁(よ)って生まれ出たのである

もし、親から子が生まれたものであるならば、子の生涯は親の生涯の連続にすぎない。生まれた子にしても、親の第二の存在としての意味よりほかないものとなってしまいます。
親から子が生まれというだけでは、親子の一体感はあっても、親子の因縁ということにまで想いが及びません。
互いに親と呼び、子と呼び、親子となった深い因縁があります。
子は、その親を親として生まれる因縁があったのです。親は、その子を子としてもつ因縁があったのです。
親子の因縁を考えると、それは、全く私たちの思いを超えたもの、不思議なものであります。

不思議の因縁ということは、偶然と必然の交わったものです。
出会う前ならば、無数の出会いの可能性がある中から出会えたわけですから、偶然です。
出会ってしまうと、なるべくしてなったわけですから、必然と思わずにはいられません。
“現在”は、偶然と必然が一致したものです。
現実を生きるとは、偶然と必然の一致という、思議を超えた因縁の感覚を持つことではないでしょうか。

親子の出会いで、不思議の因縁を語りましたが、
いついかなる事象に出会っても、それらを「不思議の因縁」であると受け容れることが、私の一生を広大なものにします。
その場その場での、偶然の出会いではないのです。
遠い昔、深い意識のところで、既に出会っていたのです。その「不思議の因縁」があったからこそ、今出会えたのです。
「不思議の因縁」を想うとき、すべてのものは私に与えられたものであることが感じられます。

日々の生活の中、「不思議の因縁」を感じる余裕なく、生きているのかもしれません。
しかし、自然に感じられる感覚だと思います。また、感じなくてはいけない感覚でもあります。
そのような感覚が、忙しく生きる、いや、生きることに忙しくしている現代の私たちの生の助けとなるのです。

2005年8月22日 (月)

3.ある航海者

「人生」と名づけられた大海を航海する者がいます。
さまざまな苦難が待ち受ける大海原ではあるけれど、そこを渡った者のみが手に入れられる宝を目指して、航海を続けます。

ある日、不安の雲が天を覆い、あたりは真っ暗になりました。
そして、今まで見たこともない恐ろしい姿をした魔物が海中より現われました。
「俺はこの海で最も恐ろしい魔物である。貴様を食ってやる。それとも、俺以上に恐ろしいものを見たことがあるか?あるなら言ってみろ」
航海者は言います。
「見たことがあるぞ。人間の心の奥底に潜む、欲に狂い、怒りに燃える化け物を。それに比べれば、お前などまだまだ優しいものだ!」
それを聞いた恐ろしい魔物は消えてしまいました。

またある日、風が強く吹き、波が大きく、船が揺れ出しました。
そして、今まで見たこともない醜い姿をした魔物が海中より現われました。
「俺はこの海で最も醜い魔物である。貴様を食ってやる。それとも、俺以上に醜いものを見たことがあるか? あるなら言ってみろ」
航海者は言います。
「見たことがあるぞ。人間の奥底に潜む、羨み・恨み・嫉み・不平・高慢の化け物を。これらの醜さに比べたたら、お前などまだまだ美しいものだ!」
それを聞いた醜い魔物は消えてしまいました。

魔物も消え去り、平穏な航海が続いたある日、美しい姿をした魔物が姿を現しました。
「私はこの海に住む最も美しい魔物です。私にはあなたに対して何の害心もありません。どうか私の住む島へおいでください。あなたの求める宝を差し上げましょう。もう航海を続ける必要はないのです」
航海者は言います。
「ありがとうございます。私はあなたの美しさに疑いを抱いています。そして、あなたの美しさは見かけだけであることに気付きました。あなたの美しさは、飾っただけの美しさであって、生活の美しさではありません。本当の美しさは、生活の中にこそあるのです。生きている中にこそあるのです。航海をやめてしまったら、真の美しさを手に入れることはできません。ですから、私はあなたの島に行くことはできません」
この応えに満足した魔物は消えてしまいました。

航海者は「人生」という名の大海を航海し続けました。穏やかな日も、波の高い日も、嵐の日も。
航海を続ける中で、航海者は真の宝を見つけ、帰路についたということです。

魔物以上に恐いもの、醜いものの姿を思い浮かべてみてください。
そして、真の宝とはなんなのでしょうか。

航海者とは、実は私自身です。今現に「人生」という大海を航海しているのです。
どんな海が見えますか?

2005年8月20日 (土)

2.唯だ念仏して

「南無阿弥陀仏」と念仏する衆生を、阿弥陀如来が救ってくださる。
このことは、人生の体験、もっと言うならば、人生の苦しみを通してしか了解されません。知識・知恵として阿弥陀如来を学んでも、分かりません。
人生の業苦を経験するにしたがって、如来の教法の真実なることが了解されます。

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」と唯だ(ただ)念仏することのみを教えられました。真宗における行は唯だ念仏のみです。
…それだけでいいのだろうか、もっとすべきことがあるのではないだろうか。
…親鸞聖人ほど他の行を極め、智慧勝れた人ならば念仏だけで救われる
 であろうが、そうでない者が念仏だけで良いわけはない。
いろいろ考えてしまいます。

「南無阿弥陀仏」と念仏する行を易行(いぎょう)と言います。
「南無阿弥陀仏」と口で言うのは易しいことだから易行、易しい行というのだと勘違いされていますが、そうではありません。
「ナ・ム・ア・ミ・ダ・ブ・ツ」…誰でも、どんな状況でも称えることができるから、易行というのです。

念仏だけじゃ物足りないとか、単に易しい行と思ってしまうのは、自分の苦悩から目を逸らしているから。
もし、親鸞聖人と私の念仏に違いがあるとするならば、それは、苦悩の人生の自覚の有無のほかありません。

海のように広く深く際限のない苦悩の人生を生きるからこそ感じられる、
阿弥陀如来の慈悲のこころ。
私は、苦悩の人生を生きながら、気休めの融通をつけて過ごしています。

そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(『歎異抄』第2章)
(たくさんの苦悩をもつ衆生を助けずにおれないという如来の慈悲のこころのかたじけなさよ)
という親鸞聖人の述懐は、われら苦悩多き衆生に振り向けられている阿弥陀如来の慈悲のこころを感知してのことです。

しかも驚くべきことに、親鸞聖人は念仏して地獄に堕ちても後悔はないと言います。念仏してどうなるかはわからない。わからないけれど、弥陀の慈悲のなかを、唯だ念仏して生きていくのです、と。

念仏が正しいだの真実だのを気にするのは、学者(知識として念仏や阿弥陀を理解しようとするもの)の自慢にほかありません。人生の悩みを受け止め、念仏に出会った者にとって、念仏が正しいだの真実だのを言う必要はないのです。自分の苦悩の奥底から出てきたものが念仏なのですから。

今日の話は、言いふるされたもので、知識としては古いものかもしれませんが、人生の体験を通して出てきたものならば、いつまでも瑞々しい話であり、人生が展開されていくものです。

2005年8月18日 (木)

1.人生のゆくえ

人生は諸行無常です。
だからこそ子も生まれ、孫も生まれ、花も咲き実も結ぶ。
諸行無常といっても、冬枯れの悲しさのみでなく、春の日の喜びなのです。

諸行無常
知識として知ってはいても、諸行無常の生をどう生きるかが明らかにならないと、本当に諸行無常の生を生きるということを知ったことになりません。
諸行無常の道理を知るには、生涯の体験をもって知るしかありません。
自身の生涯をかけての体験が、「諸行無常」という教えをからだに沁み込ませます。

浄土
死んでから生まれる、安心の世界ではありません。
私たちは、心の奥底で、浄土に生まれたいという願いを抱えて生きています。
浄土に生まれたいと願うこころが、日々の生活で生じる怨み・妬み・羨みなどのこころを消滅させてくれます。
消滅させてくれるはたらきを阿弥陀如来といいます。
そのようなはたらきの中を生きているからこそ、悩みは悩みのままに、柔順に悩みを受けて生きていくことが出来るのです。
浄土とは、死んで後に行くところではなく、浄土を願うこころにおいて、
今生きる世界として開かれていくのです。
言い換えれば、今、私が生きている場所こそ浄土なのです。

そんな浄土、嘘だ、あるはずないというのは、知識として、理想郷として浄土をとらえているからです。
私たちが否定している浄土は、私たちのこころの奥底で願っている浄土とは、まったく違うものなのです。

阿弥陀如来の呼び声を聞きつつ、良き出来事も悪い出来事背負って、
諸行無常の世を生き抜くことが、人生のゆくえなのではないでしょうか。

   色は匂えど散りぬるを
    我が世誰ぞ常ならむ
     有為の奥山今日越えて
      浅き夢見じ酔ひもせず

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