シーン(情景)

2005年10月27日 (木)

なにを急いでいるの?

《シーン》
京王線に乗っていて、
お母さんと娘さんが乗ってきました。

娘「この車両、何号車?」
母「4号車よ」
娘「よかった。電車がぶつかっても死なないね。
  死ぬのは1・2両車に乗ってる人だもんね」
       
聞くともなしに耳に入ってくる母娘の会話。
「えっ!そんなこと言うの?
 まぁ、子どもらしい素直な感覚なのかなぁ…。
 お母さんは諌めないのかなぁ」
なんて思いながら聞いていると、

母「バカねぇ。横から突っ込まれたら4号車だって死ぬわよ」

「えっ!!」(心の中の叫び)

娘「じゃぁ、いちばん後ろの車両なら大丈夫だね」
母「後ろから突っ込まれたら死ぬでしょうが」
娘「そっかぁ」

母娘の、この件に関する会話はここで終わり、まったく違う話題に変わりました。
お母さんは、娘さんの他の話しかけはほとんど無視してたのに、その話しかけにだけ丁寧に(?)応じてました。
    
《考えたこと》    
この会話の根底にあるものは何なんだろう。
事故が起きるはずがないという、根拠のない思い。
自分たちが事故に遭いさえしなければいいという、自己中心的な思い。
そんな思いが見えてきます。

JR西日本福知山線の事故から半年経ちます。
JRはさんざん叩かれました。JRは安全運転に努める義務があります。事故が起きたら、責任も取らなければいけません。
しかし、事故が起きた背景を見直すと、1分1秒の遅れも許さない私たちの責任もあると思います。しかも列車は過密ダイヤ。普段事故が起きないことのほうが不思議です。でも、事故が起きないことは当たり前だと思っているから、感謝の気持ちなんてないでしょう。で、ダイヤが乱れたり、事故が起きたりしたら、責任追及。自分には責任がないとでも思っているのでしょうか。
   
少しのタイムロスも許せず、便利さばかり追求し、それが崩れたら責任転嫁。
そんな私の姿を省みず、他に責任を押し付ける。
「自分を省みず、他人のせいにする」
列車事故の件に限らず、日常の私の姿です。
           
               
不思議に思うこと…        
交通の便が良くなれば良くなるほど、時間に追われている。
電車やバスに乗り遅れても、すぐに次が来るのに。
閉まるドアへ駆け込み乗車。ダイヤの乱れにイライラ。乱れてなくてもイライラ。

交通の便が良くないところへ行っても、イライラしている人は見かけない。
電車やバスに乗り損ねると、次までかなり待つのに。
次の電車(バス)を待ちますか。ダイヤが乱れても気にならない。
電車やバスの運転手さんが待っててくれることもある。
    
交通の便が良い方が、イライラする必要はないのに。
交通の便が悪い方が、乗り遅れまいと必死になりそうなのに。
おもしろい現象です。

2005年7月29日 (金)

ムシできない

《シーン》
今朝テレビで、輸入されてくる昆虫について放送していました(番組名は分からないです)。今年は昆虫の売れ行きがいいそうです。
で、番組から注意をひと言。
「輸入された昆虫は、日本の種と混ぜないために、逃がさず最期まで育ててください」

テレビを見た後、出かけて、近所の公園で虫捕りをしている親子(パパとボク)がいました。
蝉を捕まえて、
「かわいそうだから逃がしてあげようね」

《考えたこと》
輸入されてくる昆虫は、逃がしちゃいけないものなんだよなぁ。
本来そこにあるものじゃないんだから。不自然なことをしているんだなぁ。
輸入だけじゃなく、国内でも他の地域に移すことはやめるべきだって聞いたことがある。
例えばホタル。西と東で、光る周期が違うんだって。だから国内でも移動しないほうがいいらしい、と。

昆虫に限ったことじゃないなぁ。魚も動物もおなじだよなぁ。そう考えると、人間もかな。
手軽に海外に行ける時代(宇宙にも行けちゃう)、グローバル化・異文化交流とかいうけれど、本当の意味でのグローバル化・異文化交流って、自国の文化・慣習を知り、守ることかもしれない。

よその国の文化や慣習に精通している人って、自国の文化・慣習を熟知していると思う。
映画の翻訳家の戸田奈津子さんも、
「英語や、その国の文化を学ばなければいけないのは当然だけど、なによりも日本語と日本の文化を知らないと、上手な訳はできません」
というようなことを語られていました。

国を越えた行き来が簡単に出来る時代、相手のことが理解できない、認められないという想いが起こるのは当然のこと。アメリカやイギリスでテロが起き、アジアの国々がギクシャクするのも、当然の成り行きなのかもしれない。自国に関する無知というものが根底にあるのだから。
交流の前に、自分を知るということが先。
国際問題に限らず、日々の生活の人間関係においても同じこと。

昆虫の話から国際情勢、人間関係にまで話が膨らんでしまいました。

2005年7月19日 (火)

盆踊り会場にて

《シーン》
盆踊り会場の出店の賑わいから外れた場所で氷イチゴを食べてました。
そばには仔犬が木につながれています。
そこに幼稚園くらいの男の子が近づいてきました。出店で当たったであろうピストルを持ちながら。
男の子は仔犬にピストルを向け引き金を引きました。「パンパン」と口で言いながら。
弾が入ってなくて幸いでした。

《考えたこと》
この男の子は、誰に教わるでもなく、仔犬を自分より弱い存在だと認識しているんだろうなぁ。

人間が、生きとし生けるものの長であるように思っている人がいる。火を使えるから、道具を使えるから、言葉をしゃべれるからなどということを理由に。
すべての生物は食物連鎖の中を生きている。人間は他の動植物を食べることはあっても、食べられることはない。だから長であると勘違いしてしまうのか。でもそれは、食物連鎖のトップに立っているということではなくて、連鎖から外れているってことじゃないのかな。つまり部外者。部外者って威張り散らすもの。ヒトってそういう存在なのかな。

小さい子って、虫や小動物にちょっかいを出してしまうもの。アリの巣に水をかけたり、虫の羽や足をもいだり、カエルの皮を剥いだり。残酷だけど、そういう経験を通して、いのちの大切さを学ぶという事実もある。だからこの子がとっている行動も、必然なのかもしれない。
でも、この子の身になにも変化がないならば、なにも学習しないか。
 アリの巣に水をかけると、巣からアリがワラワラ出てくる。
 虫の羽や足をもぐと、動きがおかしくなる(当然)。
 カエルにちょっかいをだすと、カエルの体から脂汗のようなものが出る。
こういうものを見たり触ったりして、してはいけないことをしてしまったという焦りや罪悪感が出てくるもの。
でも、仔犬に咬まれるとかいうことがないと、この子は何も学習しないんだろうなぁ。

暴走族の高年齢化が新聞に書いてあったなぁ。社会に馴染めなかったり、いつまでも遊んでいたいという思いから暴走族を引退しないらしい。
非行にはしることをいけないことのようにいうけれど、そういう経験だって、必要なことだと思う。そういう経験を通して、人の痛みを知ったり、していいことといけないことの区別がつくということもある。
でも、暴走族の高年齢化って、その時期に学ぶべきことを学んでないということなんじゃないかな。無駄に暴走している。

「これはいい」「これはダメ」って押し付けるのはナンセンス。自分で経験しなきゃ身に付かないことってたくさんある。でも、今はなんでも押さえつけようとしてしまう。他を傷つけるDNAって、誰にでもあると思う。自分で学習することによって、それを抑える術を身につけるのに、押さえつけてしまうから、あるとき突然爆発する。
暴走行為に走ることができた恵まれた(?)子も、そこからなにも学ばないから、いつまでも現実からの逃避という甘えの世界から抜け出せない。

仔犬が繋がれているヒモを解いたら、仔犬は男の子に襲い掛かるだろう。そうなったとき、この男の子に、なにか変化が訪れるだろうか。


《シーン》から、そんなことを考えてしまいました。あなたはこの《シーン》から何か感じますか?

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