折々のことば

2020年7月18日 (土)

傷ついたのは、生きたからである(高見 順)

『週刊金曜日』 2020年7月24日号 1289号

特集 新型コロナ時代を生きる

インタビュー 奥田知志(おくだ ともし)さん 「命に意味がある」ことを共有する

今問題となっているウイルス自体はたしかに新型でしょう。ワクチンや治療薬などの対処法がまだないので新たなフェーズ(位相)かもしれません。
しかし、噴出しているのはコロナ以前からあった課題です。災害時には、社会の矛盾や脆弱性(ぜいじゃくせい)が拡張して露呈するのです。「新しい生活様式」という言葉が飛び交っていますが、これまでの宿題をすませないと夏休みは明けないわけですよね。
給付金の支給は必要ですが、目先小手先の対応にとどまってはだめです。「テレワーク」「ネット会議」などはあくまでも一つの様式にすぎません。社会システム自体を新しくしないと、第2波や新種のウイルスが襲ってきたとき、同じ危機を迎えるだけです。

―替えるべき社会の構造とはなんでしょうか。
不安定な就労状況の改善ですね。12年前のリーマン・ショック時よりもさらに悪くなっています。日本では労働人口の約4割にあたる約2000万人が非正規雇用で、不景気になると雇い止めになる、景気対策の安全弁として使われています。
(中略)
「住み込み型の非正規就労」だと、仕事を失うと同時に住むところも失うわけです。会社の住み込み寮の位置づけは「会社の福利厚生」の一環。住居という概念にあてはまらず、居住権がないのです。
(中略)
「住み込み社員寮」は好景気の時は利点もありました。敷金や礼金、保証人が必要ではなく、また家財道具も寮に備わっています。特に単身者は、仕事と同時に住むところが手に入ったのです。
しかし、会社側は不景気になると経費削減のために簡単にクビを切る。この「仕事と住まいを同時になくす」問題は、リーマン・ショック時にもありましたが、いまはさらに拡大しているはずです。

(中略)

コロナ禍以前に「助けて」と声をあげると、「何を甘えている」「努力しなかったお前が悪い」などと非難する空気がありました。みんなが心細くなったいま、「助け合おう」の機運が出てきたのは大切です。
東日本大震災の時も被災地に寄付や支援が集まりました。それはとても感謝したいことだけど、あえていえば、災害時で生じたマイナスを埋める行為では、“かわいそうな人”を助けるという上下関係が寄付をする側とされる側にできてしまいかねません。被災しなかった人たちが、被災者をどう助けるかが「絆」だったと感じます。
今回、抱樸(NPO法人 「ひとりにしない」という支援)が取り組むクラウドファンディングは違います。日本中、世界中が被災したわけですから。寄付をしていただいた人からのメッセージも「自分も頑張りたい」という趣旨が多い。「かわいそうな人のために使ってください」というのはむしろ少数です。

(後略)

奥田知志さんは、牧師であり、ホームレス支援をされています。

インタビューを読み、いつかどこかで この雰囲気のメッセージに触れたなぁと感じて、今日はその記憶をたどっていました。

やっと思い出しました。「同朋新聞」2020年5月号(東本願寺 真宗大谷派宗務所発行)でした。

奥田知志さんインタビュー 他者と共に生きる

自分のことを考えてくれている人、自分を支えてくれている人がいるからこそ生きていけるのです。そのような中で、私たちは「ホームレス」と「ハウスレス」を区別しました。一般的には、住む家や仕事がなく路上生活をしている生活困窮者のことを「ホームレス」と言いますが、私はこれを「ハウスレス状態」と言っています。では、「ホームレス」とは何かというと、他者との関係や絆を失っている人のことです。
以前、若者の路上生活者に対する暴行事件が起こりました。その際、被害者の野宿者が「ホームレスを襲いに来ている若者は、家があっても帰るところがないんじゃないか。親がいても、誰からも心配されていないんじゃないか。そういう人の気持ちは、自分はホームレスだからわかるけどな」と言ったのです。私はその話を聞いて、問題は住む家とか仕事、つまり「ハウス」が無いだけではなく、人との関係、つまり「ホーム」が失われていることが問題だと気づいたのです。

(中略)

他者と共に生きるということにおいて一番大事なことは、実は私たちにとって都合のよいことばかりではなく、辛くて苦しいこともあるという認識をもつことなのです。
東日本大震災後にも「絆」という言葉が注目されました。ただ、麗しい助け合いの精神のように美化されすぎたのではないかと私は思います。「絆」とは、決してそのようなきれいごとばかりではなく、自分にとって不都合なことも覚悟しないといけないものなのです。しかし、だからこそ生きているという実感にもつながるのではないでしょうか。
「絆」とい字は、平仮名で書くと「きずな」です。この「きずな」には「きず」、つまり「傷」が含まれているのです。例えば、被災地へのボランティアも「絆」という言葉とともに美化されがちですが、決してよいことばかりではありません。ボランティアに行った方も何か嫌な思いを市、二度と来たくないと思って帰らざるを得ないこともあるでしょう。一方受け入れる方も、たくさんやってくるボランティアの受け入れに苦慮し、歓迎できないこともあるでしょう。そのような本質が見えてきた時に、自分がどれだけ上から目線で助けてやろうとしていたのかとか、よかれと思いやったことが逆に傷つけてしまっていたということに気づかされるのです。ですから、「きず」を恐れ自分に都合のよいことだけを求める関係では、本当の「絆」を結べていないのだと思います。
東日本大震災という未曽有の危機をとおして、私たちはあらためて「絆」を確かめ合いました。しかし、あれから9年がたち、また、人との関りを避ける時代になってしまっています。私は長年のホームレス支援の活動をとおして、人と人との関わりの中で共に生きることの大切さに気づかされました。今後ますます人間関係が希薄化する時代にあって、私たちは今一度そのことを問い直さなければならないのではないでしょうか。

住む家や仕事がなく路上生活をしている生活困窮者を「ホームレス」と一般には言うけれど、奥田さん曰く、そのような方は「ハウスレス」である。本当の意味での「ホームレス」とは、帰る場所を失っている人。たとえ家が、親が、仕事があったとしても、そこが私の居場所として感じれないならば、そういう状態を「ホームレス」と言うのだと思う、と。

 ☆

(以下、所感)

居場所を喪失している人は、現代(いま)、たくさんいます。

居場所とは、物理的な居場所ではなく、精神的な居場所。

人と人との関係に居場所を見出そうにも、それもまた難しい。

人と人とが接点を持てば、そこには温もりが生じるし、好き嫌いも生じる。

自分にとって都合のいいことだけを求めていても、見つからない。

「絆」しかり、「ボランティア」しかり、助け合いの気持ちと傷つけ合いの気持ちは、同居しているのかもしれない。

そういうことを、奥田さんはホームレス支援に携わる中で痛いほど感じておられるのだと思います。

でも、それでも支援から離れはしない。

奥田さん自身の居場所が、そこにあるからなのかもしれません。

『週刊金曜日』のインタビューでは、このコロナ禍における社会状況を語っているので、精神的な居場所の話ではなく、現実生活における「住居」のお話をされています。けれど、それもまた、住居だけの話ではなくて、仕事も、人と人との関係も含めての住居。やはり“居場所”です。

現在のコロナ禍の収束を願ってやみません。けれど、収束した後に、今のままでは、また同じことを繰り返してしまう。

仕事と住居のあり方

絆を結ぶということの本当の姿や意味

わたし自身の“居場所(よりどころ)”はなんなのか?

社会状況も変化を求められているけれど、私たちひとり一人も、変化を求められている・・・というか、足元を見つめる時間のただ中にいるのかもしれない。

「命に意味がある」ことを共有する

他者と共に生きる

そこに、私の居場所を見出す。

ふたつのインタビューのタイトルは、同じことを伝えているように感じられます。

2020年7月13日 (月)

擬人化されたものには見えていて、人に見えていないわけはない

2020年7月13日(月) 東京は、お盆の時期を迎えています。

毎年お盆の入りの日には、多くの方がお墓参りにみえます。

私は、毎年7月13日は一日中外参りに出ているので、お寺の様子を知りません。

けれど今年は、コロナのことを考えると、門徒さんのお宅にお邪魔する時期ではないと思い、すべてお断りしました。

よって、7月13日に一日中お寺にいるという、私にとっては珍しいお盆の入りの日を過ごしました。

春のお彼岸のお墓参りを見合わせた方が けっこういらっしゃって、「春に来れなかったけど、今日は思い切って来ました」(^▽^)

と、みなさん口をそろえたかのように、お参りできた喜びをお話しくださいました。

私も、久しぶりにお目にかかる門徒さんがいて、お話ができてとても嬉しかったです。

秋のお彼岸や報恩講の頃には、コロナを気にせずお参りできるといいですね(‐人‐)

さて、お参りに見えた方から、「これ読んでください」と、プリントをいただきました。

ヴィヴィアン・R・リーチさんという方が、新型コロナウイルスを擬人化して、ウイルスからの呼びかけの体で書かれた文章です。

ヴィヴィアン・R・リーチさんが、どのような方なのかは分かりませんでした。

書いてある内容は、ウイルスの擬人化という手法をとってはいますが、決してウイルスだけに見えているものではなくて、私たち自身が見ている風景(現実)です。

けれど、その現実に私たちは目をつむって生きています。

起きたまま寝ている私のことを、「起きて、起きて」と揺さぶっている文章に感じました。

ネットで調べると何種類もの和訳がありました。私がいただいたプリントの文章を書かせていただきました。

 ☆ ☆ ☆

コロナウイルスから人類への手紙

地球は囁いたけれど、あなたには聞こえなかった。
地球は話したけれど、あなたは聞かなかった。
地球は叫んだけれど、あなたは耳を塞いだ。

そして、私は生まれました。

私はあなたを罰するために生まれたのではありません。
私はあなたの目を覚ますために生まれたのです。
地球は助けを求めて叫んびました。

大規模な洪水。しかし あなたは聞かなかった。
厳酷な火災。しかし あなたは聞かなかった。
猛烈なハリケーン。しかし あなたは聞かなかった。
恐ろしい竜巻。しかし あなたは聞かなかった。
それでもまだ、あなたは地球の声を聞こうとしない。
海の生き物が、水中の汚染物質によって死んでいきます。
氷山は、すさまじい速さで溶けていきます。
厳しい干ばつ。
どれだけ地球がひどい危機にさらされていても、
あなたは聞こうとしなかった。

終わりのない戦争。
終わりのない貪欲。
あなたはただ自分の生活を続けるだけだった。
どれだけそこに憎しみがあろうと
毎日 どれだけ人が殺されようと
地球があなたに伝えようとしていることを心配するより
最新のiPhoneを手に入れることのほうが
あなたには大切だった。

だけど今、私がここにいます。
そして、私は世界を一気にストップさせました。

やっと私はあなたに耳を傾けさせました。
私はあなたに避難を余儀なくさせなした。
私はあなたに物質本位な考えをやめさせました。
今、あなたは地球のようです。
あなたは自分が生き残ることだけを心配しています。

どう感じますか?

私は あなたに熱を与えます。
地球で起こる火災のように。
私は あなたに呼吸器障害を与えます。
地球の大気汚染のように。
私はあなたに衰弱を与えます。
地球が日に日に衰弱していっているように。
私はあなたの安らぎを奪いました。
あなたの外出。
あなたのいる地球と、地球が感じている痛み
そして私は世界をストップさせました。

そして今・・・
中国の大気質が改善しました。
工場が大気に汚染を吐き出さなくなったことにより、
空が澄んだ青色です。
ベニスの水が澄んでイルカが見られます。
水を汚染するゴンドラを使っていないから。
あなたは 自分の人生で何か大切なのか
深く考える時間ができました。

もう一度言います。
私は あなたを罰しているのではありません。
私は あなたの目を覚まさせるために来たのです。
これが全て終わり、私がいなくなったら、
どうか これらの時を覚えていてください。
地球の声に耳を傾けてください。
あなたの魂に耳を傾けてください。
地球を汚染するのをやめてください。
争いごとをやめてください。
物質的なものに執着するのをやめてください。
そして、あなたの隣人を愛し始めてください。
地球と、その全ての生き物を大切にし始めてください。

なぜなら、次回、私はもっと強力になって
帰ってくるかもしれないから・・・

          コロナウイルスより

2020年5月27日 (水)

南無阿弥陀仏をとなうれば

お朝事、繰り読みの「和讃」は「現世利益和讃」でした。

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
この世の利益きわもなし
 
流転輪回のつみきえて
 
定業中夭のぞこりぬ

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
梵王帝釈帰敬す
 
諸天善神ことごとく
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
四天大王もろともに
 
よるひるつねにまもりつつ
 
よろずの悪鬼をちかづけず

南無阿弥陀仏をとなうれば
 堅牢地祇は尊敬す
 
かげとかたちとのごとくにて
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
難陀跋難大龍等
 
無量の龍神尊敬し
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
炎魔法王尊敬す
 
五道の冥官みなともに
 
よるひるつねにまもるなり

傍らで聞いていた妻から、「お念仏は除災招福のためのものではないのに、親鸞聖人はどうして “南無阿弥陀仏をとなうれば” の和讃をたくさん書いてるの?」と質問を受けました。

親鸞聖人の「現世利益和讃」は15首あります。そのうちの上記6首を読みました。
原文だけで、現代語訳までは書きませんが、それでも「お念仏を称えたらこうなる!」的なことが書いてあるんだなぁってことを感じられるのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏をとなうれば」の響きは、「念仏を称えたならば」、つまり「もし念仏を称えるという条件を満たしたならば」と、聞こえるのではないでしょうか。

でも、それならば「南無阿弥陀仏をとなえれば」と書かれるはずです。

南無阿弥陀仏をとなうれば」は、条件や仮定としての「ば」ではありません。
「~するときは いつも」とか「~するときは きっとそうなる」という確定の意味を持つ「ば」なのです。

「住めば都」という言葉がありますが、「もし住んだならば都となる」という仮定の話ではありません。
「住むと きっと都(住みやすい場所)となる」という確定を表わします。

親鸞聖人が著わされる「南無阿弥陀仏をとなうればもまた、確定を表わしています。

つまり、「南無阿弥陀仏をとなえるということは、諸々の神々がお守りくださり、諸々の悪鬼はひれ伏す」といったことを聖人は詠まれています。

文章にすると仮定と確定のニュアンスが分かりづらいですが💧

だとしても、現世利益を、念仏申した後のご利益を詠んでいるように聞こえるかもしれません。

親鸞聖人が言われる“現世利益”は、「お念仏申したら、こんないいことがあるよ」ということではありません。

「念仏申すご縁をいただいたこと、そのことがご利益なのです。すでにしてご利益をいただいているからこそ、念仏申すことができるのです」と仰っているのです。

「諸々の神々がお守りくださる」とか「諸々の悪鬼がひれ伏す」ということも、「念仏称えた者に訪れる良いこと」として挙げているのではありません。

念仏称えるということと同時に、神々に守られ、悪鬼がひれ伏すということも起こっているのです。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を頼りとし、ただ念仏申せと説かれましたが、「阿弥陀以外の諸仏諸神は信じるに値しない」と言ったり、土地土地で崇められている神々を否定されたり、私を迷わせる悪鬼を追い払えと言ったりということはありません。

それら諸仏諸神、悪鬼もまた、念仏申すご縁をくださった阿弥陀如来に収まるものとみておられたことと思います。

自分の欲望が叶った!ということが現世利益ではありません。

自分の思い通りに生きようとするけれど、ご縁をいただいてある身であることに気づけば、自分の思い通りになるものではないこと。私が生きるということは、そこにさまざまな人々のいのちとのご縁があるということ。

そのことを目覚めさせてくださるのが、南無阿弥陀仏のご利益です。

念仏申すそのときに、目覚めのご縁もいただいています。

南無阿弥陀仏

2020年5月26日 (火)

生かされてあることに感謝し念仏することである。

今週のことば 中村薫

「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりて初めて死するにあらず。」
蓮如上人『御文』

 蓮如は、人は疫癘で死ぬのではないという。生まれた時から死は定まっており、驚くことではないと。それは道理としては納得できるが、現実に自分たちに係わってくるとそうはいかない。それが情の世界である。
 そんな中、疫病は何度も人類に襲いかかってくる。有史以来手を替え品を替え襲ってきた。蓮如はその都度、静かに受け容れていった。今日のように医学の治療はなかったので、ただ念仏して耐えることしかなかった。しかし耐えながら辛抱することは、とても大変なことであった。ご承知のように、念仏は決して祈祷ではない。さりとて、諦めて生き方を放棄するものではない。むしろ、どうすることも出来ない身の事実を引き受けていったのである。
 阿弥陀如来は、無自覚な罪深い人間でも必ず救うといわれる。生かされてあることに感謝し念仏することである。
〔「東京新聞」2020年5月25日(月)朝刊〕

 

2020年5月8日に還浄された中村薫先生への追悼の文章を、5月16日のブログで投稿しました。

昨日の「東京新聞」朝刊に、中村先生の文章が掲載されていました(中村先生は、複数の執筆者と、「東京新聞」こころのページの「今週のことば」を執筆されていました)。

その文章が上記の文章です。

亡くなる前に書き上げていらっしゃったのですね。

先生は長患いをされていたので、常に「明日とも知れぬいのちを生きている」自覚を持ちながら、日々を過ごされていたことと思います。

いつ書かれたのか分かりませんが、このコロナ禍に際し、先生はご自坊の掲示板に、

「コロナウイルスに負けないように落ち着きましょう 南無阿弥陀仏」

と書き記されていました。

上記「東京新聞」の文章を読んでも感じますが、一生を通して「南無阿弥陀仏」と念仏申すことを大切にされた先生でした。

先生の遺言と受け止め、南無阿弥陀仏とともに生きてまいります

南無阿弥陀仏

2020年5月19日 (火)

いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

2020年5月、外出自粛が要請され、県をまたいでの移動は極力控えるようにアナウンスされるなか、ゴールデンウイークを迎えました。

そんな5月も、早くも下旬を迎えるころとなりました。

4月は、慣れない生活に一日一日の経過を遅く感じたような気がしましたが、この慣れない生活が習慣となってくると、一日一日の経過が早くなってきた気がするから不思議です。

真宗教団連合が発行している、月めくりの「法語カレンダー」があります。

その「法語カレンダー」の毎月の法語を受けて、真宗大谷派では独自に『随想集』を発行しています。

5月のことばは、九條武子さんの

いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

です。5月の随想を書かせていただいていました。

真宗教団連合のHPに文章が載っていました。お読みいただければ幸甚です。

 

 

関東大震災の折、九條武子(くじょうたけこ)は、自身も被災者でありながら、負傷者や孤児の救援活動に当たられました。

 九條武子は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えに基づいた教育活動や救援活動に尽力された方です。その活動の最中(さなか)には、阿弥陀如来(あみだにょらい)や親鸞聖人への信順以上に、「どうして人間はこれほどまでに苦しまねばならないのでしょうか」という迷いや不審(ふ しん)が彼女の心を覆(おお)うこともあったことでしょう。

 そのことを思う時、親鸞聖人の姿が思い起こされます。親鸞聖人も念仏をよりどころとしながら、時には心揺らぐことがありました。越後から関東(茨城県)の地へ向かう道中、天災や飢饉(ききん)に苦しむ民衆の姿を目の当たりにしました。苦しむ人びとの救済のため、佐貫(さぬき)の地で「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」の千部読誦(どくじゅ)を思い立ちます。しかし、読誦を始めて四、五日経った時、自分のしていることに疑問をもちます。「阿弥陀如来にすべてをおまかせし、ただ念仏の教えを法然上人(ほうねんしょうにん)よりいただいたというのに、自分の思いはからいで念仏を称(とな)えていた……」。親鸞聖人は「浄土三部経」の読誦を中止し、その後関東へと向かわれました。

 「阿弥陀如来より大いなる慈悲(じひ)をいただいているのに、これ以上何を求めようというのか」。親鸞聖人は、阿弥陀如来を信じると誓いながらも疑義が生じた自身の心に迷いを感じました。九條武子も救援活動を続ける中で、親鸞聖人と同様の疑問や迷いを感じられたことでしょう。

 成長過程において「反抗期」と呼ばれる時期があります。けれど、「反抗」とは、親の目から見ての言葉です。子どもにしてみれば「反抗」ではなく「自己主張」であり、成長過程において欠かせない時期です。九條武子が「われ反抗す」と表現した自身の姿は、阿弥陀如来の眼(まなこ)には衆生(しゅじょう)の自己主張に見えたことでしょう。悩み苦しみの中にありながら「わたしはここにいます」と自己主張している衆生の声を聞き、阿弥陀如来は憐愍(れんみん)してくださっています。

 宗教の信仰・信心といえば、「私は、あなた(本尊や信仰対象)のことをこれほどまでに信じています」と、一般的にはその本気度や深化が求められます。けれど一方で、「私はあなたのことを信じています」と、自分を疑うことなく言えてしまうことの恐さもあります。

 真宗の信仰・信心は、大いなるみ手に反抗する自覚をとおして、阿弥陀如来と出遇(であ)えるということがあります。「反抗」の自覚は、「おろか」な私の自覚です。そして実は、大いなるみ手にいだかれてあることの自覚でもあるのです。

 東京の築地本願寺境内(けいだい)の「九條武子夫人歌碑」には、彼女の歌が彫(ほ)られています。

 おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや

 「自身で振り返る人生の足跡はおぼつかないものだけれど、他力(たりき)に導かれた生涯でした」。反抗をとおしてこそ紡(つむ)がれた言葉です。親鸞聖人の「恩徳讃(おんどくさん)」に感じられる懺悔(さんげ)と讃嘆(さんだん)の響(ひび)きがあります。

「九條武子さんのことばを受けての随想をお願いします」と執筆依頼を受け、築地本願寺にお参りに行ってきました。

本文にもありますが、築地本願寺の境内に九条武子さんの歌碑がありました。

南無阿弥陀仏  

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2020年5月10日 (日)

母なる大悲

曜日の感覚を、ゴミ出しの日で保っています (+_+)

2020年5月10日(日)

あ、今日は「母の日」なのですね。失念していました。

例年なら、アレンジ花を買ったり、母が欲しがっている本を買ったりしているのですが、現在(いま)は極力外出を控えています。

「う~ん、お花も買いに行けないなぁ・・・」

なんて思っていたら、娘が折り紙で作ったお花をママ(妻)に渡していました。

おぉ‼ 買ってすまそうとする根性がこびりついていました💧

気持ちのこもった手作りの品もいいですね♪

私も折り紙で花を作ろう(〃▽〃)ポッ (←多分、それは違うと思う)

母の日にちなみ、「母」という字について

以前書いた文章ですが…

 

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親鸞聖人は「母」という字を、上記のように書かれます(上記の字は、住職の筆です)。
「母」の字の中に「子」がいます。生命の源、母に対する敬いの気持ちでもあり、母が子にかける愛情を表わしてもいるのかもしれません。
しかし、聖人の書かれる「母」からいろいろ考えていると、敬意や愛情のみを表現されたのではないように感じてきました。
母の、子に対する愛情は計り知れません。しかし、愛情ばかりを注げられないのも、人間です。愛しているけれど、愛に徹底できない。愛したいのに、愛せない。愛しているゆえに、憎い。子もまた、母に敬いの気持ちだけを持つことはできない。敬ってはいるけれど、腹が立つ。大切なんだけど、鬱陶しい。人間の持つ愛情には、複雑な感情が入り混じっています。
このような気持ちになるということは、関係が近いということ、大切な人であるということの表われでもあるのですが。

聖人が、「母」の字をこのように書かれるのは、人間の想いを超えた、大いなるはたらきとの出遇いがあったからだと思います。
聖人が書く「母」は、「母」なるものを表わしているのと同時に、「子」なるものをも表現しています。母に包まれ守られながら生きている存在。それが「子」。
生きとし生けるもの すべてを「仏(ほとけ)の子」と表現することがあります。老少男女、たとえ国が違っても、たとえ信じる教えが違っても、生きとし生けるもの、みんな「仏の子」です。仏が子を想う慈しみのこころに、差別や区別はありません。
「母」の中の「子」…それは私。仏の子です。人間の哀しみを抱えながら生きる私を、慈悲のこころで包んでいます。私は、すでに仏の慈悲に包まれながら生きているのです。
聖人も、人間の持つ哀しさをなんとかできないかと思い悩んだことでしょう。しかし、それは無理なこと。関係が近ければ近いほど、人と人との出会いがあればこそ、愛情も憎しみも深くなるのですから。そのことに目覚めたとき、哀しみは哀しみとしての必然性があり、だからこそ自身を包み込む大いなるはたらき、「大悲」を感じられたのだと思います。

親鸞聖人は、
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
(私親鸞は、父母の供養のために念仏を申したことは、いまだかつて一度もありません)
『歎異抄』

と、言われました。
このセリフを受けて、「なぜ両親のために供養したことがないのですか?」とか「親鸞聖人は冷たい人ですね」などと言われることがあります。

私たちは、「亡き人のため」と言いながら、自分のための供養をしてはいないでしょうか。
親鸞聖人は、父母の縁によってある いのちを感じ、そのいのちは大いなるはたらきに包まれていることを感じ取られました。我が身を生かすはたらきを感じ、今、私にまでつながるいのちの流れを受け止められたのです。ですから、「父母の孝養のため」の念仏はしたことがないのです。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、「大悲」より私に与えられた いのち感覚の告白のことばです。
今も、昔も、これからも、「大悲」を受けながらこの身がある。その喜びを、聖人の「母」の字から感じました。
南無阿弥陀仏
 

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2020年4月28日 (火)

罪の自覚

目についた新聞記事を勝手にポストに入れていく「勝手便」だから、気が向いたら読んでください👋と、お手紙をくださる方がいます。いつもありがとうございます。

最近いただいたお手紙の中に、マハトマ・ガンジーの「7つの社会的罪(Seven Social Sins)」が書かれていました。

 ①理念なき政治 (Politics without Principle)

 ②労働なき富  (Wealth without Work)

 ③良心なき快楽 (Pleasure without Conscience)

 ④人格なき学識 (Knowledge without Character)

 ⑤道徳なき商業 (Commerce without Morality)

 ⑥人間性なき科学(Science without Humanity)

 ⑦献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)

(英語のつづりを間違っていたら、ごめんなさい。日本語訳は、見る資料によって多少の違いがあります)

ガンジーが連載を続けていた『Young India』(1925年10月22日付)に綴った言葉のようです。
(ガンジーの言葉はいろいろ見てきましたが、「7つの社会的罪」のことは知らなかったです。ガンジーの慰霊碑にも刻まれているそうです。教えていただき、ありがとうございます。)

100年ほど前の言葉ですが、今に通じる言葉です。もしかしたら、今を予言する言葉だったのかもしれません。

上記「7つの社会的罪」を読みながら、それぞれに連想した物事や顔があるのではないでしょうか。
政財界に置き換えて批判することは簡単です。
けれど、それはそれとして、自分に置き換えて読むことも大切だと思います。ガンジーも、そこを求めていたのではないでしょうか。コロナ禍収束の後、コロナ以前に戻り、また同じ生活を繰り返すのか。それとも、コロナ禍のなかで感じたこと、学んだこと、直したいなと思ったことを忘れずに生きるのか。
合わせる手の中に、どれだけの罪業があることだろう。その重さを忘れずに。

南無阿弥陀仏

2020年4月24日 (金)

先往く人に学ぶ

2020年4月23日 女優の岡江久美子さんが、新型コロナウィルス感染症による肺炎のため還浄されました。
入院されていた情報がなかったので、いきなりお亡くなりになられた情報を知り驚きました。
けれど、娘さんの美帆さんは、お母さんのことは伏せつつも、新型コロナウィルスの恐ろしさを訴え続けてくださっていたのですね。胸が張り裂ける想いだったことでしょう。大切な人を苦しめたくない、それは他の人も同じ。だから伝えるべきことを伝えなければ、と思われたことでしょう。

旦那さんの大和田獏さんと 娘さんの大和田美帆さんがコメントを発してくださっています。

「岡江久美子が4月23日5時20分に新型コロナによる肺炎の為、永眠いたしました事をご報告いたします。今はただ残念で信じがたく、悔しくて他は何も考えられない状態です。どうかそっと送って頂きたいと願っています。仕事関係者の方々、ファンの皆様、ご友人の皆様、長いお付き合いを感謝致します。また、全力を尽くして治療にあたって頂いた医療関係者の皆様に心から感謝いたします。ありがとうございました。皆様、コロナウィルスは大変恐ろしいです。どうかくれぐれもお気をつけください」

愛する人、大切な人を亡くされた方が、私たちのために発してくださったメッセージです。
今は、この言葉を自分事として受け止めるときではないでしょうか。

長引く外出自粛。買い物の制限。日々発表される感染者と死亡者数。誰もが気がめいってくるときです。そうすると、少しでも気持ちがホッとする情報、悪者を見つけ出して叩く情報に寄りすがりたくなります。
ネットや新聞・テレビで目にする情報が、「コロナウィルスとはこういうもので。だから行動を控えてください」というウィルス情報と罹患しないための情報から、「いついつには(近いうちに)収まるだろう」という楽観論や「外出規制してもしなくても成果は同じ(それならば外に出てもかまわない。外出自粛要請なんてナンセンス)」という反外出自粛論や「今回のウィルスは人工物であり、自然に発生したものではない(人口ウィルスを作った〇〇はけしからん」という真偽の分からぬ情報で誰かを叩く論調が目につき始めました。
ガス抜きのようです。
疫学や製薬に携わる方ですら正体をつかめ切れていない未知のウィルス。今、必死でウィルスの正体を解明し、ワクチン開発に取り組まれています。そうしたなか、ホッとするため、誰かを叩かんがために都合のいい情報ばかりを取り上げて説を作って流す人がいて、さらに、その根拠のない説をうのみにして、「そんなに気にすることない」と言ったり「〇〇の仕業なんだって」とのっかったり…。耳の痛い情報より、そういう情報の方が気持ちは楽なのでしょうね。より厳しい現実が身の回りに起きているのに。

思ったより早く収束するのか、それほど外出規制をするまでもないことなのか、誰かが人工的に作ったウィルスなのか…現状、まるで分からないことです。ということは、危機感を弱めて生活をするのではなく、危機感を持って生活をしておかなければならないのが現状です。
収束の時期や、対処法、人工物なのか自然物なのか…それは、専門の方が既に調べていることと思いますが、今のウィルス禍が収まってから検証・周知・理解すればいいことです。
結果、「あれほど騒ぐ必要なかったね」というところで落ち着けば、それはそれでよかったじゃないですか。
でも、4月24日時点で、世界中で18万人を超える方が亡くなっています。そのことは事実としてあります。

確定した情報がないなか、気持ちを落ち着かせる情報、誰かを悪者とする情報に流されるのではなく、大切な人を亡くされた方々のメッセージをしっかり受け止めることが、今、私たちがすべきことではないでしょうか。

「岡江久美子が4月23日5時20分に新型コロナによる肺炎の為、永眠いたしました事をご報告いたします。今はただ残念で信じがたく、悔しくて他は何も考えられない状態です。どうかそっと送って頂きたいと願っています。仕事関係者の方々、ファンの皆様、ご友人の皆様、長いお付き合いを感謝致します。また、全力を尽くして治療にあたって頂いた医療関係者の皆様に心から感謝いたします。ありがとうございました。皆様、コロナウィルスは大変恐ろしいです。どうかくれぐれもお気をつけください」

南無阿弥陀仏

2020年4月23日 (木)

こころのなかで閉じているものが、ひとつ ひとつ ひらいていった

境内の牡丹(ぼたん)の花が咲きました。
毎年4月29日の永代経法要の頃に花を咲かせ、お参りの方の目を和ませてくれるのですが、今年の法要は中止です。
牡丹を見ながら、その匂いを感じながら、坂村真民さんの「念ずれば 花らく」を思い出しました。
 念ずれば 花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花が
ふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
牡丹の花が咲き、芳しい匂いも漂っています
花が咲くためには、多くの縁が必要なように
私が念ずることができるのも、多くの縁があってこそ
匂いに、姿形はないけれど、
確かに私に届いています
確かに私のこころを動かしています
縁によって念仏となえ
こころのなかの花が
ひとつ
ひとつ
咲いてゆく
私が称えることによって、
念仏の薫り漂い
また誰かの手が合わさります
南無阿弥陀仏
Dsc00032   

2020年4月11日 (土)

娑婆永劫の苦をすてて

今朝、お朝事の際に読んだご和讃。
この娑婆世界にあって、先の見えない辛苦困難を“すてる”とは、
正に“捨て去る”、さとりの境地に達するか、
この辛苦困難あっての娑婆世界こそ私の生きる世界だ、と“逃げ切れるものではないというところに立って生きる”ものとなるか。
そのどちらかであり、凡夫の身が立ちうるのは後者しかない。

今起きていることをなかったことにしたり、今起きていることをすべて解決させたり、そういうことはもはやできない。
今起きていることのうえ(道)を歩むしかない。
この道を、念仏と共にあゆまん(‐人‐)
そんなことを想いながら、お朝事で善導大師のご和讃をいただきました。南無阿弥陀仏

 

親鸞聖人「高僧(善導)和讃」

○弘誓のちからをかぶらずは
 
いずれのときにか娑婆をいでん
 
仏恩ふかくおもいつつ
 
つねに弥陀を念ずべし
○娑婆永劫の苦をすてて
 浄土無為を期すること
 本師釈迦のちからなり
 長時に慈恩を報ずべし
阿弥陀如来の本願力をこうむることなくして、
 
いついかなるときに、この悩み多き娑婆世界から出ることができましょうか。
 阿弥陀如来の本願力のご恩を深く長く思いめぐらして、
 つねに称名念仏するばかりであります。

いつ果てるともわからぬ娑婆世界の苦難の歩みをしながら
 阿弥陀のひらかれた浄土に生まれられることを喜ぶ身となれたことは、

 釈尊のさとりをひらかれ、法をお説きくださったおかげです。
 長きにわたり、釈尊の、阿弥陀如来の恩徳を想い、称名念仏いたします

 

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