8月も終わりに近づいていますね。
毎月1日に出している寺報(あぁ、9月号が出来ない…)に感想が寄せられます。
今月の文章中、私見として次のように書きました。
私が生まれるためには、父と母、そして私自身の「生まれたい!」という強い願いがなければ、この世に生まれ出ることはできないと思っています。そう、なぜ私が生まれてこられたのか。私自身が強く願ったからなのです。
ブログでも何度か書いてきましたし、法話会や仏教青年会などでも、機会があれば語ってきました。
今月いただいた感想で、「それはおかしい」「生まれる前に意思があるわけがない」などなど、感想をいただきました。今まで語ってきたときも、賛同されるよりは、そのような感想を言われることの方が多かったです。
みなさんはどう思われますか?
☆
相田みつをさんの本をパラパラめくっていたら、こんなことばに出会いました。
いのち
アノネ
にんげんはねぇ
自分の意思で
この世に生まれて
きたわけじゃねんだな
だからね
自分の意思で
勝手に死んでは
いけねんだよ
みつを
☆
一見すると、私の「私見」と反対のことを言っているように感じられることでしょう。
でも私は、「あぁ、同じことを感じている人がいる」って思ったのです(ご都合主義?)。
仮に、みつをさんのことばに「私見」を重ね合わせたら、
「自分の意思で生まれてきたんだなぁ
だから
自分の意思で死んでもいいんだよ」
なんて読まれそうですが、そうではなく、やはり、
「自分の意思で生まれてきたんだなぁ
だから
自分の意思で死んではいけねんだよ」
なのです。
あれ、おかしいですか?
でも、そうなのです。
☆
今日の文章はですね、
「私見」を否定されたから、賛同者を探しているのではないのです。
極端なことをいうと、
自分の意思で生まれたのであろうが、自分の意思でなく生まれたのであろうが、どっちでもいいのです。
私がこの「私見」を主張するのは、「自分の生まれについて、もっともっと考えてほしい」という願いがあります。
もっともっと考えた結果、「自分の意思で生まれた」と思っても、「自分の意思でなく生まれた」と思っても、どっちでもいいのです。
でも、考えるという作業を通して、「だからね 自分の意思で 勝手に死んでは いけねんだよ」に行き着くと思うのです。
だから、相田みつをさんのことばを読んで、「あぁ、同じことを感じている人がいる」と思ったのです。
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