折々のことば

2008年4月10日 (木)

人間関係という贅沢

春、新しいことに踏み出す季節ですね。
昨日(4月9日)は西蓮寺聞法会でした。聞法会で紹介させていただいた ことば をひとつ。

職業の偉大さとは、おそらく、なによりもまず、人間たちを結び合わせることだ。
真の贅沢というものは、ただひとつしかない。それは人間関係という贅沢だ。

  サン=テグジュペリ『人間の土地』より
 
新しい職場、新しい学校、新しい環境
望みどおりの場に身を置いている方もいることでしょう。
あるいは、自分の望んだものじゃない、自分には合わない、すぐに辞めてやる・・・などと思いながら、取りあえずその場にいる方もいることでしょう。
どのように思っていても、そこでは、人との出会いがあります。出会いとは、有り得ないはずの出来事が起こった事実。今の場で頑張る人にとっても、新たな場を求める人にとっても、かけがえのない、大切な人との出会いがあるはずです。
特に、今の場に満足できないでいる方。不平不満で何も見えなくなってしまわないでください。目の前に、人生においてかけがえのない人との出会いがあるはずですから。

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2008年1月26日 (土)

白骨の御文(はっこつのおふみ)

「白骨の御文」 本文(改行は副住職)

それ、
人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、
おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、
まぼろしのごとく なる一期(いちご)なり。
されば、
いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。
いまにいたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。
我やさき、人やさき、
きょうともしらず、あすともしらず、
おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。
されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、
すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、 
ひとつのいきながくたえぬれば、
紅顔むなしく変じて、
桃李(とうり)のよそおいを うしないぬるときは、
六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、
更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、
野外(やがい)におくりて
夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、
ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々(なかなか)おろかなり。
されば、
人間のはかなき事は、
老少不定(ふじょう)のさかいなれば、
たれの人も
はやく後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)を心にかけて、
阿弥陀仏(あみだぶつ)をふかくたのみまいらせて、
念仏もうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
 
   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
「白骨の御文」 現代語訳(副住職試訳)
 
さて、
私たち人間の無常な生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、
この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、
まるで幻のような一生であります。
この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、
いまだかつて聞いたことがありません。
一生はあっという間に過ぎてゆくものです。
いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。
私が先に逝くかもしれないし、他の誰かが先に逝くかもしれません。
今日終わる命なのか、それとも明日なのか、そういうことも分かりません。
大切な人が先に逝ってしまう日も来れば、私が先に旅立つ日も来ます。
草花の雫や葉先の露が消えてなくなるよりも、それ以上に人間の生涯は儚いものです。
ということは、
朝には夢と希望に満ち溢れていても、
夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。
今、無常の風が吹いたならば、
二つの眼はたちまちに閉じ、
呼吸は永遠に途絶えてしまいます。
血の通った顔もはかなく色あせ、
桃や李(すもも)のような瑞々(みずみず)しい美しさも失われてしまいます。
無常の風が吹いたその時、
家族や親族が集まり 歎き悲しんでも、
元気な姿を再び見せることはありません。
いつまでも悲しんではいられないと、
火葬し、夜中、火も燃え尽き、煙が立ち昇る頃には、
後にはただ白骨が残るばかりであります。
悲しいというだけでは言い尽くせません。
このような人間の厳粛な事実は、老いも若いも関係ありません。
誰も避けては通れません。
だからこそ、「あなたはその事実を受け止め、どのように人生を歩んでいくのですか」と、
亡き人から問われているのです。
親鸞聖人は阿弥陀如来を頼りとしなさいと教えてくださいました。
阿弥陀如来は、無常なる人間を(人間が無常であるからこそ)救いたいと願われました。
その願いに包まれて、私は生きています。
そのことを想うとき、
自然と「南無阿弥陀仏」と念仏の声が出ます。
亡き人は、
阿弥陀如来の慈悲の心を、
この私に示してくださいました。
私を生かす教えに出会えたこと、
有り難いことです。大切にいただきます。

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2007年11月12日 (月)

気持ち悪い

誰もが同じ考え方をするのは理想的なことではない
                      マーク トウェイン
   
同じ考え方
同じ思想
同じ思考
同じ悩み
同じ迷い
同じ好み
同じ趣味
同じ興味
同じ癖
同じ夢
同じ…
同じ…
同じ…
 
なにもかも自分と同じ人がいたら、気が合うどころか、気持ち悪いだろうなぁ。

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2007年10月20日 (土)

言葉を持っているということは、

我々が言葉を持っているという意味は、
人間が関係を保つ存在だということを表わしているのです。
関係を保つところに、人間の存在はあるんだということを表わしているのが、私は言葉の持つ意味だと思うのです。

  (平野 修『生きるということ』東本願寺出版部)
   
   
「話せば分かる」
と言うけれど、嘘だと思う。
話せば話すほどこじれるから。
話せば話すほどエゴが出るから。
話せば話すほど相手の話を聞かないから。
 
「黙ってたら伝わらない」
と言うけれど、話しても伝わらないと思う。
どうせ分かってもらえない。
どうせ聞いた振りをするだけだから。
どうせ最後には自分の意見を押し付けるんだから。
 
「話し合えば分かる」
「黙ってちゃ、分からないよ」 
耳障りの良い ことば だけど、当てにならない表現だと思ってた。
 
でも、私自身が頭から
「話せば話すほど~」
「どうせ~」
なんて思ってちゃぁ、伝わるものの伝わらない。分かってもらえるはずのものも分かってもらえない。
 
言葉があるということは、
「人間が関係を保つ存在だということを表わしている」ということ。
関係を保つための道具として言葉があるのではない。
関係を保つために言葉を使うのではない。
言葉があるということ、その事実が、すでに関係を保っていることの証。
 
「話してもなにも変わらない」とか
「どうせ~」なんて言ってないで、言葉の力をもっと信じるべきなんだな。

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2007年10月16日 (火)

味は変わらないけれど、

レストランで何を注文しても、人が頼んだもののほうが絶対によく見える。
                ポーリーナ・ボース―ク
 
正しい選択・間違った選択があるわけではない。
ただ、なにを選択したとしても、迷いはつきもの。
  
自分が注文したものに納得できたとしても、
いつまでも同じものを頼み続けることもできない。
いつか飽きてしまう。
 
人のものがよく見えるのも、
迷うのも、
飽きるのも、
わたしのこころ


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2007年8月29日 (水)

アノネ

8月も終わりに近づいていますね。
毎月1日に出している寺報(あぁ、9月号が出来ない…)に感想が寄せられます。
今月の文章中、私見として次のように書きました。

私が生まれるためには、父と母、そして私自身の「生まれたい!」という強い願いがなければ、この世に生まれ出ることはできないと思っています。そう、なぜ私が生まれてこられたのか。私自身が強く願ったからなのです。

ブログでも何度か書いてきましたし、法話会や仏教青年会などでも、機会があれば語ってきました。
今月いただいた感想で、「それはおかしい」「生まれる前に意思があるわけがない」などなど、感想をいただきました。今まで語ってきたときも、賛同されるよりは、そのような感想を言われることの方が多かったです。
みなさんはどう思われますか?
  
  ☆
 
相田みつをさんの本をパラパラめくっていたら、こんなことばに出会いました。

  いのち

 アノネ
 にんげんはねぇ
 自分の意思で
 この世に生まれて
 きたわけじゃねんだな
 だからね
 自分の意思で
 勝手に死んでは
 いけねんだよ

      みつを

  ☆

一見すると、私の「私見」と反対のことを言っているように感じられることでしょう。
でも私は、「あぁ、同じことを感じている人がいる」って思ったのです(ご都合主義?)。
 
仮に、みつをさんのことばに「私見」を重ね合わせたら、
 
「自分の意思で生まれてきたんだなぁ
 だから
 自分の意思で死んでもいいんだよ」
  
なんて読まれそうですが、そうではなく、やはり、

「自分の意思で生まれてきたんだなぁ 
 だから 
 自分の意思で死んではいけねんだよ」

なのです。
あれ、おかしいですか? 
でも、そうなのです。
  
 ☆

今日の文章はですね、 
「私見」を否定されたから、賛同者を探しているのではないのです。
極端なことをいうと、
自分の意思で生まれたのであろうが、自分の意思でなく生まれたのであろうが、どっちでもいいのです。 
私がこの「私見」を主張するのは、「自分の生まれについて、もっともっと考えてほしい」という願いがあります。
もっともっと考えた結果、「自分の意思で生まれた」と思っても、「自分の意思でなく生まれた」と思っても、どっちでもいいのです。
でも、考えるという作業を通して、「だからね 自分の意思で 勝手に死んでは いけねんだよ」に行き着くと思うのです。
だから、相田みつをさんのことばを読んで、「あぁ、同じことを感じている人がいる」と思ったのです。

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2007年7月30日 (月)

なんとかなる④(完)

28日(土)、西蓮寺仏教青年会「白骨の会」を開催しました。
参加者は3人(私も含めて)。いつもは輪読会をしているのですが、テーマも決めず、3人で今考えていることを語りあいました。

参加された方のおひとりが言われたことが、耳に残っています。
「仕事のことで迷っていた時もあったけど、とにかく、目の前の仕事を好き嫌いなくやってみようって思えるようになったんです。そうしたら楽しいんじゃないかなって。実際、目の前の仕事を一生懸命やるようになってから、仕事が楽しくなりました」
 
こころの中のある転換が、新しい何かに目覚めさせる。そういうことがあるものです。
状況・環境に変化があったわけではない。私の想いの転換が、今まで見えなかったものを見えるようにしてくれる。
「なんとかなる」ということが頭にあったので、「あぁ、こういうことなんだなぁ」って、青年会でお話していて思いました。素敵なお話を聞かせていただいて、ありがとうございます。
 

 
青年会でそのお話を聞いていて、養老孟司さんのことばも思い出していました。人生相談の回答だったと思います。
 
(相談者)
「自分のやりたい仕事が見つからないんです」
 
(養老さん)
「初めから間違ってますね。やりたいことと、仕事は別ですよ。仕事は仕事。やりたいことは、仕事が休みの日にやってください」

聞いててニヤリとしてしまいました。
「やりたいこと」とか「やりがい」って言うけれど、好き嫌いを言っていたり、選り好みをしていても、「やりたいこと」は見つからないし、「やりがい」も感じられないことでしょう。だって、自分で選んでいたら、嫌になったらすぐ辞めちゃいますから。
 
与えられた(出会った)仕事、与えられた職場、
与えられた環境、与えられた家族、与えられた仲間、
うん、すでに「なんとかなる」人生を歩ませていただいてます。

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2007年7月29日 (日)

なんとかなる③

「なんとかなる」という言葉にたどり着いた仏教青年会の次の日、日ごろお世話になっているお寺のサマーセミナーに参加させていただきました。
 
存明寺サマーセミナー
 講師 二階堂 行邦先生
 講題 一人(いちにん)に立つ、共に生きる
  
お話も終わりに近づき、二階堂先生がおっしゃいました。

 なるようにしかならないものは、
 なるようにしかならないというように、なるようになっている
 そうなったところに、全生命をかけて生きる

  
ちょうど「なんとかなる」ということが頭にあったので、先生の言葉が響いてきました。
(この言葉、先生もハッキリと覚えていないのですがと断わられたうえに、私のおぼろげな記憶で書いてしまったので、正確ではありません。でも、言わんとしていることはお汲み取りいただけるのではないかと思い、紹介させていただきます)
 
物事決まってるという運命論や、努力は無駄という刹那主義ではありません。
全生命をかけて生きる。昨日も書きましたが、大きなはたらきの中を生きているからこそ、全生命を傾けられるのだと思います。

全生命を傾けたからといって、自分の思うがままの人生を歩めるわけではありません。
いや、思うがままに歩めないのが人生。
でも、そこを全生命をかけて歩んでいけるのは、「なんとかなる」から。
 
「なんとかなる」
未来が、結果が「なんとかなる」のではなくて、
私が全生命をかけられることが、一歩を踏み出せることが、「なんとか」なっている姿なのかもしれません。

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2007年7月28日 (土)

なんとかなる②

「なんとかなる」
いつからか覚えてはいませんが、私の座右の銘です。

「なんとかなる」が座右の銘。どう思われます?
いい加減だなぁ、呑気だなぁ、無責任だなぁって感じられるかな。
 
「なんとかなる」
ある時まで、自分はなにもしなくても、「なんとかなる」もんだと思っていました。
“なにもしなくても”は極端ですが、「なるようになる」って。それこそ自分の人生にいい加減、呑気、無責任でした。

「なんとかなる」
でも、ある時を境に、ガラッと想いが変わりました。
自分で力を尽くして、尽くして、尽くしていれば、「なんとかなる」って。
なんとかするために自力を尽くすんじゃないんです。
生きるということそのものが、自力を尽くすということ。
私が自力を尽くせるのは、大いなるはたらきに包まれているから。だから安心して自力を尽くせる。私は、自力を尽くして生きるしかできないのです。すると、人生「なんとかなる」もんです。
って、思うようになりました。

天命に安んじて 人事を尽くす 
                   清沢 満之

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2007年7月27日 (金)

なんとかなる①

迷いがあって、誰かに相談したとします。
そして、「なんとかなるよ」なんて応えが返ってきたらどう思いますか?
相談しなきゃよかった。こっちは真剣なのに。馬鹿にすんな。って思うかな。
 
どうして このようなことを書いたかというと、
ある仏教青年会に参加して、「○○という相談を受けた場合、どう応えますか?」という発題をいただいたのです。
それをもとに、参加者みんなが、想いを語る。
面白いことに、みんなで語っているうちに導き出たことばが「なんとかなる」だったのです。
  
実際、困り果てて私に相談してくれた相手に、「なんとかなる」なんて返事は、なかなか出来るものではありません。よほどの信頼関係がなければ。
でも、「なんとかなる」という返事は、突き放したものではないのです。
   
「なんとかなる」
結果がどうなるかはわからないけれど、結局は「なんとかなる」もの。
でも、「なんとかなる」という考え方は、「なんとかなる」という声を掛けてもらったからこそ意識できるのです。
「なんとかなる」って言われずに育った人は、「なんとかなる」という考え方にたどり着けません。思いもしません。
今の状態をなんとかしたい。自分でなんとかしなきゃ。どうすればいいんだ。
と、もがいている人にとって、「なんとかなる」という選択肢が有ると、心の余裕の生まれて来ます。

「なんとかなる」
楽天的・楽観的に構えよという言葉では、決してありません。
ある意味、これ以上ない核心を突いた言葉です。
軽く口に出せるものでもありませんが、「なんとかなる」という選択肢があるんだよということを、悩みを抱えている人に知っておいてほしいと思います。

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2007年7月10日 (火)

足場が組まれている

でっかいものを
作ろうとして
はじめて 知った

でっかいものを作るには
それよりでっかい足場を
組む作業が必要な事

そして その作業は
地味で
単純で果てしない事

   (「ハチミツとクローバー」第9巻)
       
今、「ハチミツとクローバー」(漫画:羽海野チカさん原作)にはまっています。
はじめは登場人物が頭に入らなくってなかなか読み進められなかったのですが、途中からググッと引き込まれてしまいました。最後は泣いてたりして。
 
ジーンと来ることばもいっぱいあったけど、この竹本君のこころの中の声が好きです。
  
私が生きていくには、私の周りに、私なんかよりもっともっと大きい足場が組まれているんだなぁ、いや、組み続けられているんだなぁって思いました。
親・兄弟・身内・近所の人々・学校の友達・出会った仲間・会うこともないかもしれない人々、そして阿弥陀さま。
 
でっかい足場って、私が私のために組むのではない。 
私が生きていくに先立って、たくさんの人の想いや力で組まれているんだなぁ。だから私は生きていける。成長していける。 

でっかいものを
作ろうとして
はじめて 知った
 
  
動いているだけじゃ気付かない。
「生きよう」と思って、はじめて気付くことなのかもしれない。


(おまけ)
落着かない生活を送っていて、ブログの更新が滞ってしまいました。
でも、発見がありました。(ほぼ)毎日更新しているよりも、更新が滞る方がアクセス数が多くなるという発見が。
心配して見てくれるのかなぁ? 
ご心配をおかけしました。元気にしております。

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2007年6月26日 (火)

時はいのち

相田みつをさんのことば

      
   アノネ
   時は金なり
   なんていうけれどね
   時はいのちだよ
   『いま』という
   この時は
   自分の一生の中の
   一しゅんだから
   ね
 
   
   
日野原 重明先生(聖路加国際病院名誉院長)のことば

いのち
「いのち」は、君たちの持っている「時間」だと言えます。
「時間」をつかうことは、「いのち」をつかうことです。
  

こころ
「こころ」を育てるとは、お互いに手をさしのべあって、いっしょに生きていくこと。
つまり、自分以外のことのために、自分の「時間」をつかおうとすることです。

   

 
「いのちを大切にしましょう」
「時間を有効につかいましょう」

そう言われると、“自分”の「いのち」や「時間」のことを思いませんか?
「いのち」や「時間」って、自分の所有物ではない。
お互いに手をさしのべあう人がいるからこそ、「いのち」や「時間」って成り立つんじゃないかなぁ。

「いのちを大切にしましょう」
「時間を有効につかいましょう」

そう言われたとき、手をさしのべあう人のことを想ってみませんか?

お互いに「さしのべあう」んですよ。
私が、一方的に、誰かのために手をさしのべるのではない。
お互いに、さしのべあうんです。

最近、「共に」ということばが大切にされているような気がします。
「共に」
一方的な行動や感情は、「共に」ではない。
 お互いに想いあう
 お互いに響きあう
 お互いの感情に応じあう
そして初めて、「共に」の関係が生まれる。
   
「共に」の関係の中で、
「いのち」や「時間」を大切に想う「こころ」が養われる。

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2007年4月18日 (水)

(-人-)

恨みが理由で人を殺せるのなら、いったい何人の人を殺せば気が済むだろう。
「これで気が済んだ」なんてことは絶対ない。
一度してしまったことは病み付きになり、次に次にと、歯止めがかからなくなる。
仮に歯止めがかかったとして、殺された側の標的となる。殺した人の何倍もの人から命を狙われる。
殺しの連鎖はとどまらない。私の中でも。人と人との関係においても。
  
長崎の伊藤一長市長が殺されました。
ご遺族の思いは計り知れません。
犠牲者は、ご本人・親族・支援者のみならず、長崎市民・長崎県民をも含む。
選挙運動中に起こったことを考えると、日本国民も犠牲者。
伊藤市長が核廃絶に一生懸命だったことを考えると、核廃絶を願う世界中の人びとも犠牲者。
 
多くの犠牲者を出した今回の事件。
暴力は許せないと人は言う。
その暴力を、暴力で封じ込めようとしてはいないだろうか。
目には目を。銃には銃を。殺しの連鎖を生むつもりだろうか。
銃を、武力を、自己防衛や暴力に対する抑止のためとは言うけれど、手にしていたら使ってしまいたくなるのが人。
暴力は許せないと政治家は言う。
暴力とは、銃や刃物、殴る蹴るだけではない。数の力で、有無を言わさず、戦争が出来る国づくりをしていることを暴力と言わずになんというのだろうか。
 
人を殺すことは許されないことなのに、なぜ戦争をしたがるのだろう。

一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数量が神聖化するのだ。
                 チャップリン「殺人狂時代」

 
このような錯覚が、起きてはいけない。
すでに錯覚してはないだろうか。

「南無阿弥陀仏」とお念仏申す。
念仏申している口からは、愚痴も罵声も発せられない。
「南無阿弥陀仏」と手を合わせる。
合掌した手に、銃は持てない。

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2007年4月 4日 (水)

仏法と鉄砲

こんにちは。
2007年4月のことば」お読みいただけましたでしょうか?
春を迎え、これから新しい人生を歩みだす希望に満ちたときに、「死に支度 いたせ いたせ」なんて言われると、「エッ!!」と思われるのではないでしょうか?
でも、死ぬための支度ではなく、仏法に聞いて人生を歩んでほしいなぁという願いで、小林一茶さんの句を掲示させていただきました。
   
その文章中、「仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです」と、書きました。
そうしましたら、寺報を見た方から「副住職、これってどう違うの? なんとなく分かるけど、分かんないや」とご指摘受けました。
分かりづらいかなとは思いましたが、敢えて説明も加えずに書きました。お読みになった方 それぞれに意味を考えていただきたくて。その部分を気にしてくださるなんて、よくお読みいただいてるんだなぁって、嬉しかったです。

仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです
という表現は、以前読んだ高光 大船(たかみつ だいせん)さん〔明治期の念仏者 金沢市〕のエピソードが頭にこびりついているので、出てきた表現です。
ご紹介いたします。
  

高光さんが、ご門徒の家で行われる報恩講(ほうおんこう)に出かけ、その家のあんちゃんに声をかけた時のお話です。

(高光さん) あんちゃんも今日の報恩講に参ってくれるか。ありがとう。
(あんちゃん) おらにとって、今日は厄日や。
(高光さん) なんでや。
(あんちゃん) おら今日非番やで、これから映画でも見に行こうかと思っとったら、父ちゃんも母ちゃんも、今日は報恩講さまやで、参ってくれとあんまり頼むから、おら仕方なしに居るがや。おらにとって今日は厄日や。
(高光さん) 厄日でもなんでもよい。よう参ってくれた。ところで滅多に会わんのやから、仏法について何か聞いてみんか。
(あんちゃん) おら毎朝起きて流しに顔を洗いに出てくると、父ちゃんも母ちゃんもおらの顔を見るなり、仏法聞け、仏法聞けと言う。あの仏法て何や。難しく言われても分からんし、くどくど言われても分からん。一口で仏法て何や。教えて下さんせ。
(高光さん) 仏法はな、鉄砲の反対じゃわいの。
(あんちゃん) なんや、鉄砲の反対? 鉄砲の反対って何や。
(高光さん) 鉄砲はな、生きとる者をドスーンと殺すのが鉄砲やろが。仏法はな、「死んだ者」を生かすのが仏法や。
(あんちゃん) なんじゃ、あの棺桶に入っているのを生かすのが仏法か。
(高光さん) バカタレ。あれは死骸や。あれは「死んだ者」じゃないわい。
(あんちゃん) そんなら、どんなのを「死んだ者」と言うのや。
(高光さん) お前さんのようなのを、「死んだ者」と言うのや。
(あんちゃん) バカにするな。おらは生きとるぞ。
(高光さん) それは動いとるだけじゃ。生きとるんじゃない。お前さんの商売(国鉄の機関車の運転手)で言えば、機関車に石炭をパクーパクーと放り込んでやると、定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。あれは、動くのであって、生きとるのじゃないわいの。お前さんも、三度三度のまんまを口の中へパクーパクーと放り込んでやると、習慣という定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。それは動いてるのであって、生きとるんじゃないわいの。
    
この一言が、あんちゃんの目を覚ましました。この呼びかけのことばに出遇って自分の姿を知らせてもらい、高光さんについて仏法聴聞の生活を送られました。
〔参考『死すべき身のめざめ』松扉 哲雄(しょうひ てつお)(法蔵館)〕
  
「仏法は死んだ者を生かす」。生きているつもりが、動いているに過ぎなかった。厳しいことばです。このことはあんちゃんに限った話ではありません。この私が、仏法に出遇うことを願われたことばなのです。


   
このお話は、2004年9月の寺報で紹介させていただきました。
仏法と鉄砲の話を読んで以来、「仏法って何?」ってことを考えるとき、いつもこのことを思い出します。
仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです」とは、このお話に合わせて表現するならば、
仏法聞かなくても、動くことはできる。しかし、仏法聞けば、生きることができる」ということなのです。
 
さて、動いてるだけですか? 生きてますか?
春です。新しい歩みを、動かされるだけのものにしてしまいますか? それとも、生きていきますか?
自分の胸に、鉄砲ではなく、仏法を突きつけてみませんか!!

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2007年3月30日 (金)

やらなければならないこと

植木 等さんのお話をもうひとつ。

「スーダラ節」を歌うことを悩まれた植木さん。でも、父である住職のひと言で歌うことを決意された。
そして、このように述懐されています。
スーダラ節は人生というものを分からせてくれた。自分がやりたいことと、やらなければならないことは別なんだと、教えてくれました
(『この歌 この歌手』読売新聞文化部編)

やりたいことをすることも大事です。やりたいことのほうが熱心にできるということもあります。
でも、たとえ自分の想いとは違っても、“やらなければならないこと”は人生の方から突きつけられるものです。
しかも、“やらなければならないこと”は、苦しみ哀しみと共に突きつけられるものだと思います。そこから逃げようと思えば逃げられるかもしれない。でも、突きつけられた“やらなければならないこと”は、この私だからこそ突きつけられるのです。私のための“やらなければならないこと”なのです。

「やり甲斐・生き甲斐」探しが流行っているようですが、それは自分がやりたいことを探しているにすぎません。で、自分自身やりたいことが分かってないのだから、「やり甲斐・生き甲斐」も見つかるはずがありません。
それに、なにをやっても「やりたいことと違う」と言い訳して逃げてしまうことでしょう。

やらなければならないこと
「逃げようと思えば逃げられるかもしれない」と書いたけど、逃げてはいけないこと、逃げられないことなのだと思う。それに、逃げることによって“やらなければならないこと”だったということが、よりハッキリすることでしょう。
人生、いや、阿弥陀如来から私への要請なのだから。

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2007年3月28日 (水)

わかっちゃいるけど

植木等さんが亡くなられました。
植木さんは真宗大谷派のお寺の生まれです。
青島幸雄さん作詞の「スーダラ節」を歌うことになったとき、植木さんは悩まれたそうです。自分のやりたい音楽の方向性と違う、と。
で、お父様である住職に相談すると、この歌詞を見て「これこそ親鸞聖人が言おうとされていたことではないか!!」と驚かれたそうです。
わかっちゃいるけど やめられない
これこそ人間の本質であると。
住職の感動を受けて、植木さんは「スーダラ節」を歌うことを決意されました。
  
  
タバコや酒、塩分の摂りすぎ、体に悪いと言われても、なかなかやめられない。悪い習慣ほど、よく身につく。
「してはいけないこと」と分かってはいるんだけど、やめられない。ましてや、周りの人がしていると、自分もやってもかまわないだろうと、開き直る。
「これで最後、これで最後」と言いながらも、いつまでもやめられないことがある。このままじゃいけないと、分かってる。本当に分かってるんだけど、そこから抜け出せない。今のままでもなんとかなってるから。気付いたときには遅かったりする。
自分が上に立って人を諭すようでは、誰も聞いてはくれません。それなのに、つい偉くあろうとする。人を正そう、人を諭そうとする。自分の姿を振り返ることもなく。
   
「わかっちゃいるけど やめられない」ことを考えていたら、どんどん出てきます。
親鸞聖人は、それら私の姿を、「いけません」「やめなさい」「ひどいですね」などと言われたのではない。
おそらく、「私もなんですよ」と、平気で言われた方だと思う。惑い、悩み、苦しまれた。その果てで阿弥陀さまに出遇われた。だからこそ、「南無阿弥陀仏」とお念仏称える者を救うという、阿弥陀如来の誓いにふれて、ただお念仏のみをされたのだと思う。「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」

わかっちゃいるけどやめられない私を、阿弥陀如来は救いたいと願われたのです。

やめた方がいいこと、やめなければいけないことは なかなかやめられないのに、
しなければいけないことは まったく続かない私。
そう、「南無阿弥陀仏」というお念仏さえも。
 
植木 等さん、教え導いていただき、ありがとうございます。

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2007年3月27日 (火)

岐路

人生には大きな節目や転機がある。
どの道を選ぶか。
迷う…迷う・迷う・迷う……で、また迷う
迷うのは当たり前。人生に答はないのだから。ということは、すべてが答えでもある。
どの道を選ぼうか。易い道か困難な道か。近道か遠回りか。好きな道か苦手な道か。行くか戻るか。とどまるという道もあるだろう。道なき道を新たに切り開くか。
ざっと書いてみただけでも、いろいろな道があるものですね。
さぁ、どの道を選びましょう。

私は、人生の岐路に立った時、いつも困難なほうの道を選んできた。
            岡本 太郎

岡本太郎さん、格好いいです。私もかくありたい。
だけど、他人(ひと)に困難な道を勧めるのは無責任。一緒に付き合うっていうなら兎も角。
それに、「易い道か困難な道か。近道か遠回りか。好きな道か苦手な道か」って書いたけど、予めそんなことが分かっていたら、迷わないし、苦労もしない。歩き出してみたら、易いことも困難なこともあり、近道だったり遠回りだったりするわけで、歩みだす前にそんなことは分かりはしない。

人生の節目や転機、迷った末に歩き出したこの道だけど、いつかフト考えてしまう。
「あの時あっちの道を選んでいたらどうなっていただろう…」「あの時あぁしてたら…」「あの時あんなことしなければ…」
さて、どうなっていたことでしょう。多分、同じようなセリフを吐いていることでしょう。
どの道を歩んでいても、別の道を歩いた場合のことを考えてしまう。でも、別の道なんてないんです。
わが人生はひとつしかない。今私が歩いている道しか。

この道より、われを生かす道なし。この道を歩く。
                        武者小路 実篤

人生に分岐点があるわけではない。
人生という道は一本道なのだと思う。
ただ、道は凸凹しているのだと思う。迷いという穴に落ちたり、困難という石につまづいたり、人生を振り替えさせるための大きな切り株があったりするんだろうな。

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2007年3月26日 (月)

同じ一日でも…

お彼岸も終わり、今日は境内の大掃除をしてました。
昨日強い雨が降ったため、玄関や歩道の敷石が泥で汚れてしまいました。
ブラシ掛けをして、庭に出していたベンチが泥ハネで汚れていたので拭いて、芝生に枯れ芝がたまっていたので熊手で集めて、なぜか木の剪定を始めて、塀の外に流れ出た落ち葉の掃き掃除をしてました。
午前中には終えるつもりで始めたのですが、気付いたら午後5時。いつのまにか時間が経ってました。
 
掃除だけならもっと早く終わったと思うのですが、今日はたくさんの方がお寺にみえました。
 
烏山寺町では毎年花まつりを開催しています。今日から西蓮寺にてお稚児さんの受付が始まりました。で、申込のお母さんとお子さんが数組いらっしゃいました。お子さんがお稚児さんの格好をすることが、お母さんとしては楽しみなのでしょうね。嬉しそうな顔でお寺にいらっしゃいます。お子さんは「なに?」って雰囲気ですが。
 
それから、お寺には外人さんがよく立ち入られます。掃除中、山門をくぐってきたご夫婦がいたので、
 「Hallo Sightseeing?」と尋ねたら、
 「Yes」と応えられたので、
境内と本堂の中を案内してあげました。英語はしゃべれないけれど、なんとかなるものです(内心ドキドキ)。
 
午後5時に掃除が終わって、普段なら一息つくところですが、そのまま買い物に出かけました。掃除道具を買いに。掃除が趣味みたいなものです。

今日は陽気もよくて、からだがよく動きました。
いろんな人に会えて、楽しい一日でした。

人生は退屈すれば長く、充実すれば短い。
                         シラー

人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い。
                         中島敦

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2007年3月23日 (金)

私が私のままに

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 佛法にふれたなら
 ムダなことが何もない
 生きることに満足がある

人の生き死にに関して、迷信がはびこる、不安に包まれる、恐れを抱くのは、人生に教えがないから。
では、教えに、仏法にふれたなら、迷信も不安も恐れもなくなるのか。
そうではない。
迷信・不安・恐れの元が、私自身にあることに気付かされる。
人の生き死にに関する迷いの原因は、病や死、病む人や亡き人にあるのではない。
迷いの原因を他に押し付けているけれど、私が迷っているだけのこと。
亡き人がどうこう、霊がどうこう、亡き人・見えないものにのせいにしてはいけない。
 
仏法にふれたなら、私の姿が映し出される。
それが嫌な人もいることでしょう。なにかのせいにして生きていれば楽だから。自分の中に迷いの原因があるなんて、聞きたくもないことでしょう。
でも、「迷ってるのは私だったんだ!!」という気付きは、なにものをもムダにしない。なにがあっても、満足がある。
 
満足とは、「円満具足」の略。満ち足りているということ。なにが満ち足りているのか。 自分の欲望のままに物事が満ち足りているという意味ではない。阿弥陀の慈悲が満ち足りているということ。
自分の姿を見せつけられて哀しいはずなのに、逃げ出したいはずなのに、でも、ありのままの私の姿で生きていられる。それは、人生において何もムダではないと頷けたから。阿弥陀の慈悲が、満ち足りているから。
 
「ムダなことが何もない」
「満足がある」
私が、そのように思える人間になれる ということではない。
それだと、また何か挫折があったとき、なにかのせいにしてしまう。

「ムダなことが何もない」
「満足がある」
そのような人生を歩ませていただいているということ。今までも、今現在も、これからも。
そのことに気付きもしなかった。仏法にふれたなら、そういう気付きが芽生える。
何かが変わるのではない。私が変わる。私が私のままに。

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2007年3月14日 (水)

「いのち」への感性

自分の手、足と相談してみてください

今日は西蓮寺の聞法会
朝日新聞連載の「いじめられている君へ」の作家の高 史明さんからのメッセージを手がかりに、お話をさせていただきました。

息子さんを自死により亡くされた高さん。息子さんが書きためていた詩を『ぼくは12歳』と詩集としてまとめられます。読者から多くの手紙が寄せられ、中には高さんを訪ねて来られる方もいます。
ある日、女子中学生が訪ねられ、「死にたい」とうったえます。
高さんは尋ねます。「君のどこが死にたいって言ってるの? 頭?」
女子中学生は、「そうです」と頷きます。
「君が死ねば頭だけではなく、手も足も、ぜんぶ死ぬんだよ。君の手は死にたいって言ってるのかい? 君の足は死にたいって言ってるのかい? 手をひらいて相談しなきゃ。足の裏をよくあらって相談してごらん」

数ヵ月後、その女子中学生から手紙が届きます。
「足の裏の声が聞こえてくるまで、私は歩み続けることにしました」
 
自分のいのちは自分のものと思っている。だから、傷つけようが、死のうが、自分の勝手だと思い上がってしまう。この体のどこが私なのだろうか。どこが死にたいと言っているのだろうか。手も足も、実は頭だって「死にたい」なんて思ってはいない。
自分の思いで、生きようとしている想いを殺してしまっていいのだろうか。
 
実際に、手や足がもの言うわけではないけれど、手や足は私にメッセージを送っている。
「南無阿弥陀仏」と念仏申すとき、自然と手が合わさる。助かるはずのない私を、助けたいと願っている阿弥陀如来。そんな私は、この手から溢れんばかりの罪業を背負っている。合わさるはずのない手が合わさっている。ありえないことが、今、私の身に起きている。
私の足は、大地にしっかり立っている。大地を通して、人と人とがつながっている。

「いのち」とは、生き物個々のものではない。
この身があるのは、代々受け継いできた血があるから。
この身を保てるのは、他のいのちを頂戴しているから。
阿弥陀如来の願いがあるから、私の手が合わさる。「南無阿弥陀仏」と、念仏申せる。
大地を通して、人と、他の生き物とつながっている。
 
「いのち」への感性が薄れている。
なんで生きているんだろう。どうして生きなければいけないんだろう。死にたい、生きているのが嫌だ。
そのように思うのは、それだけつらいことがあったから。その想いを否定はしない。
でも、「いのち」への感性も合わせ持ってほしい。自分の手を、足の裏を見つめてほしい。そこに、自分の思いを越えた、「生きたい!!」という呼びかけがあるはずだから。


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2007年3月 8日 (木)

幸せって、なんだっけ、なんだっけ?

幸福とは幸福を問題にしない時をいう
                   芥川龍之介

最近、数人の人から「“幸せ”ってなんだろうね?」と尋ねられました。(その問いが流行っているのだろうか?)
その問いに答えられるのなら、私は“幸せ”になっていることでしょう。
 
いや、既に“幸せ”なのさ。誰しも。
それに気がついてないから、“幸せ”探しをしてしまう。

今、手にしていないものを求め、それが手に入ることを“幸せ”というのなら。一生満足することはないだろう。
今、手にしているものを、この身で感じることが“幸せ”なのではないだろうか。すでに我が身に満ち満ちている。

“うつくしい”を求め、ますます遠のく うつくしさ(とやら)。
こんなに“うつくしい”のに、それを実感できない もったいなさ。

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2007年2月15日 (木)

陽ざし

東京では、昨日春一番が吹き、今日は暖かな一日となりました(風が強かったですが)。
暖冬とはいえ、やはり冬の暖かさと春の暖かさは違いますね。今朝は水仕事がとても楽でした。
 
昨日の読売新聞朝刊の「編集手帳」に、詩人の伊藤桂一さんの詩が紹介されてました。

     微風
   掌(て)にうける
   早春の
   陽ざしほどの生甲斐(いきがい)でも
   ひとは生きられる

  
春を迎えたとはいえ、まだまだ寒さが続きます。そんな寒さの中、ポケットから出した掌に、春の陽ざしがあたるとき、どれほどの暖かさを感じることでしょう。そんなちょっとした温もりでも、ひとを生かす力となるものです。
どんなに心地よい陽ざしを全身で浴びても、その中にドップリつかっていたら、その心地よさは伝わらない。
どんなに寒く、身震いし、生きる希望を見失っていても、ほんのチョットのぬくもりが、私に生きる力を与えてくれる。そんな、ほんのチョットの生甲斐で、私は生きられる。
 

 
昨日は西蓮寺の聞法会でした。
新聞に関係なく、「阿弥陀さまの光明」についてお話するつもりでした。
  
阿弥陀さまの、衆生を救いたいという光明(願い)は、生きとし生けるものすべてに届いています。でもその光と言うのは、全身で浴びるような光ではなく、伊藤さんの詩にあるような「早春の陽ざしほどの」光明なのかもしれませんね。その陽ざしを浴びているからこそ、「ひとは生きられる」のではないでしょうか。
 
そんなお話をさせていただきました。
 
南無阿弥陀仏と掌を合わす。その合わせた掌に、阿弥陀さまの陽ざしを感じませんか?


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2007年2月13日 (火)

時代の要請

今、私に出来ることが、
 今、私が出来ること。

    
いろいろと任せられたり、
やってみたいことが見つかったり、
この程度の私でいいのだろうかと卑下したり、
手を付けなければいけない気になることがあったり…
    
まだ早いですよと腰が引けたり、
時期尚早と判断されてしまったり、
もっと経験を積んでからと思ったり、
まだまだ未熟だからと遠慮したり、
まだ先でいいですと逃げたり、
もういいやって投げ出したり…
   
「もっと経験積んでから」とは言うけれど、経験を積むために何かやってる?
経験積んでから何か手がけるよりも、何か手がけながら経験を積んだ方が身につく。

やさしい闘いに勝つよりも、厳しい闘いに負ける方がよっぽど力になる。
                       映画「陽はまた昇る」
  
「まだ先で大丈夫」なんて思っていると、あっと言う間に時間が経ってしまう。
あの時に手を付けていたら。あの時に済ませていたら。
いつの間にか、忘れ去られてしまうことでしょう。
 
「まだできません」「まだ早いです」「そのうち、いつか」
卑下したり、逃げたり、先延ばしにしないで、今、やってみればいい(って、無責任でしょうか?)。
 
「今、やってみればいい」とは言ったけど、
今、私に出来ることが、私の身に要請されて来るんじゃないかなぁ。
やってみれば、できることなんだと思う。
今、私が出来ることが、やっているうちにどんどんどんどん身に付いていく。

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2007年2月11日 (日)

生きろ!!

おいらは憎しみを捨てる!!
   だからお前は生きろ!!

           映画「どろろ」より

昨日、映画「どろろ」を見てきました。
感想を詳しく書いてしまうとネタバレになってしまうので書きませんが、人のこころを取り戻していく百鬼丸の姿が格好よかったです。
 
ところで、「どろろ」は12禁のはずなのに、お子ちゃまがたくさんいらっしゃってました。
 
「最近の子は幼いねぇ(13歳以上には見えないねぇ)」(byわたし)
「どうみても小学生だろ!!」(byつれ)
 
12禁の必要のあるなしを問いたいのではなく、12禁なんだから、12歳以下は入れてはいけないのではないかと思ったのです。大人料金で入場してたのかなぁ。
でもみんな静かに見てたなぁ。血が飛び散っても、肉体再生のシーンも、驚かないんですね(ゲームの方がリアルか)。

映画館で映画を見るのは、やっぱりいいですね(上映時間2時間半はちょっとおしりが痛かったけど)。

(付記)
「12禁」と書いてしまいましたが、詳しくは「PG12」だそうです。
「PG12」とは、「12歳未満のお子さんは、成人保護者同伴が適当」という意味だそうです。
親と一緒なら見てもかまわなかったのですね。失礼しました。

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2007年2月 7日 (水)

キラキラひかる

真の文明ということは、すべてある人びとが福を植えた結果なのである。
   幸田 露伴『努力論』
 
(昨日のつづき)
便利になることは悪いことではないと思う。
「こうならいいのになぁ」「ああなればいいなぁ」という、ちょっとした希望に、努力が注がれた結果、便利になっていくのだから。
つまり、私たちの暮らしが楽になる、便利になるということは、私が知らない誰かさんの「希望・努力」の結晶なのです。目には見えないけれど、キラキラ光っているのです。
そう考えると、日本は特にキラッキラに光っている国なのではないでしょうか。

ところが、目の前にあるもの、生活の中にしみこんだものは、あるのが当たり前になってしまう。
あって当たり前、壊れるなんてもってのほか、「こうなれ」「ああなれ」の贅沢な欲求(欲求と希望は、似て非なるものですね)。

文明の発展は、当然の流れ。そこには、誰かさんの「希望・努力」が溢れている。
その誰かさんは、特定の人のために汗を流したのではないと思う。「みんなが暮らしやすくなるために」の想いに尽きると思う。損得勘定・かけひき・あの人のためであって、あいつのためではない等々、そんな想いが入り込む余地もないことでしょう。

そのように「ある人びとが福を植えた結果」の大地に、今私は立たせていただいている。生かさせていただいている。
そういうことに想いも馳せず、文明を享受しているだけでは、便利と共に、人の情(こころ)もなくしていくことでしょう。「ある人びと」が植えた福を、枯らしてしまうだけでしょう。
キラキラに光っているはずの国が、錆びついているのは、どうしてでしょう?

真の文明とは、福を植えた結果である。
「結果」とは、文明の発展だけを指すのではない。
文明が発展し、その背景にある「希望・努力」に想いを馳せ、ありがたく生かさせていただく人がいてこそ、植えた福が開花したことになるのではないでしょうか。

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2007年1月29日 (月)

道楽

「道楽(どうらく)」
現代では「道楽」はあまり良い意味では使われないですね。怠け者とか、賭け事好きとか、本業そっちのけで趣味にふけることを道楽といい、そういう人を道楽者とか道楽息子と言います。
 
「道楽」の「道」は仏道を意味します。
ですから、元々「道楽」とは、仏道を歩み、人生を楽しむこと(人)です。
「楽しむ」ということも、今風の、欲望が叶って楽しいな♪的な「楽」ではありません。
人の世を生きる苦楽も、酸いも甘いも知り尽くし、「これが人生!!」と前を向いて歩けることを「楽しい」と表現するのだと思います。
 
「楽」には「願い」という意味も含まれています。
人生を願いを持って生きるという意味にも通じますし、
阿弥陀如来から「生きろ(南無阿弥陀仏と念仏申せ)」と願いをかけられている私という意味も含まれます。

「道楽」
仏道を歩み、阿弥陀如来のはたらきを受け、自身も願いを持ち歩む。
こんな贅沢はありません。
そんな贅沢から派生して、現代使われているような「道楽」という意味になったのでしょうね。
今風の「道楽」に、目の前の楽しみはあるかもしれませんが、一生を通した楽しみが果たしてあるでしょうか。
  
元々の意味の「道楽」を極めつくすことをなんと言うかご存知ですか?
「極道(ごくどう)」と言います。
仏道を極め、人生の師となる。
「極道」とは、誰からも尊敬されるべき存在なのです。

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2007年1月27日 (土)

私もうれしい♪

祝婚歌    吉野 弘

  二人が睦まじくいるためには
  愚かでいるほうがいい
  立派すぎないほうがいい
  立派すぎることは
  長持ちしないことだと
  気付いているほうがいい

  完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだと
  うそぶいているほうがいい

  二人のうちどちらかが
  ふざけているほうがいい
  ずっこけているほうがいい

  互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで疑わしくなるほうがいい

  正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい

  立派でありたいとか
  正しくありたいとかいう
  無理な緊張には
  色目を使わず
  ゆったりゆたかに
  光をあびているほうがいい

  健康で風にふかれながら
  生きていることのなつかしさに
  ふと胸が熱くなる
  そんな日があってもいい
  そして、なぜ胸が熱くなるのか
  黙っていても
  二人にはわかるのであってほしい

  
今日は、お仲間のお寺の長女さんの仏前結婚式があります。
うちの住職が司婚者(教会でいう牧師さん)、私が司会者を頼まれました。
喜んで引き受けさせていただきました。
はりきってお役目努めて参ります。
 
なので、今日は久しぶりの祝婚歌。
「あれ!祝婚歌は前にも書いたじゃない?」と思った方は、当ブログのコアなファン。
自分でも、いつ載せたかなってさかのぼってみたら、2005年の5月4日でした。ずいぶん前ですね。早いなぁ。
それと、よく続いていること(ブログが)。

(ただいまぁ♪)
素敵な結婚式&披露宴でした。
新郎新婦にそそがれている家族の愛情あふれる式でした。
その片隅に居させていただいて、とてもうれしかったです。
 
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お酒も美味しくちょうだいいたしました。
おめでとうございます。お幸せに^^

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2007年1月26日 (金)

分母の拡大

『悲しい記憶も、時がたてば忘れることができる』と、よく言われる。
時間は記憶の吸い取り紙だという主張だが、
私はこの説を信じていない。
むしろ、忘れたい、忘れたいと思うことに限って、
長年の風雪に耐え、
ますます頭から離れなくなるものである。
むしろ、私は、こう考える。
体験の量を増やし、記憶の分母を拡大することにより、
相対的に悲しい記憶の声量を
弱めることができるのだ、と。
どうも人間は、時間という要素を
過大評価しすぎる傾向があるように思う。

              晴山 陽一『すごい言葉』
  
 
昨日の文章で、「経験は感動するこころを無くさせる。だからこそ“いつもはだか”でいたいですね」というようなことを書きました。
でも、経験は積み重なっていくもの。捨てることはできない。どんなに忘れたい記憶も、いや、忘れたい記憶ほど私のこころに残ってしまう。忘れようとすればするほどに。
経験・体験を増やすということは、分母の拡大(今回、経験と体験の違いは気にしないでください)。経験・体験の量を増やすということは、記憶する内容を増やすということ。記憶する内容が増えれば、ひとつひとつの出来事が、私の心を占める量は少なくなる。
経験が感動するこころを薄れさせてしまう面もあるけれど、経験が悲しい記憶を、こころからの叫びの声量を弱めてくれるという面もある。
小中学生の自殺が増えている背景には、体験の量が少ない、分母が小さいということも関係しているのかもしれない(現実には男性中高年の自殺が多いのですが、マスコミの報道の仕方が偏っているので、小中学生の自殺ばかりがクローズアップされてしまう)。
例えば、“いじめ”というひとつの事象が起これば、それが自分の生活のほとんどを占めてしまう。学校以外の社会を持っていれば、他の方向に想いを向けられるけど、そうもいかないのだろう。家庭や塾が、自分の経験値を増やす場になっているとは、とうてい思えない。
ひきこもってしまっても、体験の量は増えない。

経験・体験の量を増やし、分母の拡大をすることも生きる術なのかもしれない。なんとなく思い当たります。
だからこそ、どんなに悲しい出来事があっても、生きられる。時間が解決してくれるのではないのですね。時間が解決してくれるのだとばかり思っていました。
私の想いや状況に関係なく、世の中はどんどんどんどん進んでいる。私も、その流れの中で生かされる。流れを生きるうちに、またいろいろな想いが湧いてくる。生きていれば、感動がポツリポツリと出てくる。
感動って、自分で意識することではないんだ。不意に訪れる、サプライズなんだなぁ。
昨日の文章だと、「生きていることを実感するために感動しましょう」みたいに読めてしまうけれど、「生きるということは感動の集まり」なんだなぁ。

時の経過が、物事を忘れさせるのではない。
時の経過が、人生に幅や深みを持たせてくれる。

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2007年1月25日 (木)

いつもはだかで

はだか    武部 勝之進
 いつもはだか
 いつもはだか
 はだかで出発する
 尊いことだ

  
経験は財産です。でも、経験を積むと、
物事に取り掛かる前に結果を判断してしまう。
物事に取り掛かろうとする者に「無駄だ」「やめておけば」「意味ないよ」と言い放ってしまう。
こういう人は、こう対応すればいい。
こういう出来事は、この程度のことをしてればいいと、高をくくってしまう。
成功は自信にもなるけれど、慢心にもつながる。
失敗は、もう怖いものはないと勇気を与えてもくれるけれど、私を臆病にもする。
 
ちなみに、年とともに時が経つのを早く感じるのは、経験を積んでいるから。
日々の出来事、同じことの繰り返しだとしても、そこに感動があるだろうか。せっかくの出来事を、何も感じることなく過ごしてしまう。
日々の出来事、いつもと違う新しい出来事があったとしても、「こういうことかな」「こうすればいいな」と、経験に基づいて、無難にこなしてしまう。
経験を積んでいるゆえに、感動もなく、無難に過ごしてしまう。感情に、行動に何の起伏もなく過ごしているのだから、時間の流れも早く感じるのです。
 
経験も大きな財産だけれど、いつもはだかで物事に向き合えるこころを持つということも尊いことだと思う。
日々の同じことの繰り返しの中にも、毎日会う人に対しても、いつも感動がある。
はだかでいることは、感動を生む。
私は、「生きるとは感動すること」だと思っています。
ということは、はだかでいることが生きるということなのですね。

生きるとは、感動する・物事に疑問を持つ・いつも会っている人とでも、毎度毎度の出会いがいつも初めての出会いと感じる。生きるとは、そういうことではないでしょうか。
 
「いのちは大切だ」という呼びかけには、いのちを傷つけない・殺さないという意味として捉えられているような気がします。でも、呼びかけが空しく響くのは、呼びかける側にも、傷つけ・殺してしまう縁に出会った側にも、“感動”がないからではないでしょうか。

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2007年1月24日 (水)

こころは見えるよ

おじいちゃんのからだは見えないけど、こころは見えるよ

火葬場にて、おじいちゃんがお骨になられて、それを見たお孫さんのひと言。
こころを通して、お孫さんに伝わるものがあったのですね。

亡き人と生きている私、そこには何か太いつながりがあるものです。
それなのに、小賢しい知識で考えて「亡くなったらすべて終わり」とか「不吉だから、これはしてはいけない」「こうしなければいけない」とか迷ってしまう私。
 
亡き人は、私を迷わせるために死んだのですか?
亡くなった人とは関係が切れてしまうものなのですか?
 
思い込みという壁で、亡き人からのこころをシャットアウトしてしまわずに、「こころは見えるよ」と、素直に頷きたいものです。
日がどうとか、方角がどうとか、そういうことを気にする必要がないんだということに頷けます。
迷っているのは亡き人じゃないんだ。私の方だったんだってことに気付かされます。
 
ちなみに、そのお孫さんは5歳です。
「こころは見えるよ」のひと言に、たくさんの大事なことが詰まっています。
大切なことを教えていただきました。
ありがとうございます(-人-)

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2007年1月11日 (木)

空過(くうか)

   一日の空過は
    やがて一生の空過となる

                 金子 大榮

今年のお寺の年賀状で書かせていただいたことばです。
「一日の空過は、やがて一生の空過となる」
けっこう耳にすることばなので、年賀状に注も付けませんでした。しかし、「空過」の意味について教えてくださいと、年賀状が届いた門徒さんからメールをいただきました。

「空過」とは、「空(むな)しく過ぎる」「無駄に過ごす」というような意味です。
「一日を無駄に過ごしていると、やがて一生を無駄に過ごしてしまうことになる」
「いつか手をつけようなどと思っていると、いつまでも実行せずに時が過ぎてしまう」
という意味が込められたことばだと了解しています。

気持ち新たに新年を迎えた方もたくさんいらっしゃると思いますが、そろそろ元の日常に戻ってませんか?
もし何か目標を立てたり、今までの自分じゃダメだって気持ちを入れ替えた方がいらしたら、そういう気持ちは持ち続けていてほしいものです。紙に書いて目に付くところに置いておくだけでも、気持ちが継続しますよ。無理する必要もないですけどね。

一日一日を大切に、とは思うのですが、それがなかなか難しいですね。
育児や仕事に追われたり、せっかくの休みも寝て過ごしてしまったり、何もやる気が起きずにボッーと過ごしてしまったり…。
あれ!! でも、空過でない過ごし方ってどんなんでしょうね?
空過でない過ごし方が、果たして育児・仕事・趣味などに没頭して充実した日々を過ごすことでしょうか? 「充実した日々=空過でない日々」というわけではないと思います。

空過かそうでないかは、お念仏の有無が問われているのではないでしょうか。
たとえ育児や仕事に追われたり、せっかくの休みも寝て過ごしてしまったり、何もやる気が起きずにボッーと過ごしてしまったとしても、そこに南無阿弥陀仏のお念仏称える生活をしている者は、空過ではない。
たとえ、育児・仕事・趣味などに生き甲斐を感じながら生活していたとしても、そこに念仏がなかったら、どこか空しいものである。
人生を阿弥陀さんと共に歩んでいるか。そのことが空過かそうでないかの分かれ目なのかもしれません。
   
  本願力にあひぬれば
  むなしくすぐるひとぞなき
  功徳の宝海みちみちて
  煩悩の濁水へだてなし

              親鸞聖人「天親和讃」

阿弥陀さまの「衆生をすくいたい」という願いを胸に生きるものは、空しく過ごす人はいない。
阿弥陀さまの慈悲のこころが海のように満ち満ちて、煩悩で汚れ濁った私のようなものまでも隔てることなく、すくいとってくださいます。
 
  
「空過」ということば、特に仏教語だという意識もなく、普通に使われることばと思っていたので、注が必要だとも思いつきませんでした。辞書で調べても載ってないのですね。初めて知りました。
せっかくのことばが、伝わらなかったかもしれません。メールをくださった門徒さん以外にも、「?」と思った門徒さんがいらっしゃるかもしれませんね。申し訳ありませんでした。

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2007年1月 4日 (木)

光寿無量

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光寿無量
阿弥陀さまの、はかり知れない光と寿(いのち)に包まれて、生かされている私。
南無阿弥陀仏(-人-)
   
   
ブログに偶然たどり着かれた皆様、本年もよろしくお願いいたします。
偶然という名の必然に感謝です。


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2006年12月27日 (水)

ポイ捨て…される前に

昨年、「高橋の手帳」で募集している「身近な人の名言・格言」について書きました。(こちら
もう一年経ってしまうのですね。今年の受賞作品が発表されていました。今年の大賞は神尾知子さんの作品。

おれが地球ならお前はいらんわ。

車の運転をしていた神尾さん。車からタバコをポイ捨てしたとき、助手席に乗せていたお兄さんから言われたひと言。
 「おれが地球ならお前はいらんわ」

タバコとかティッシュとか、ゴミのポイ捨てはみっともないです。
ポイ捨てするなら、ゴミを出さない。ゴミを出したら、持って帰ってから捨てる。大きなゴミじゃないんだから。

タバコやティッシュだけではない。
油を排水溝から流し捨てていませんか?
ゴミの日に、キチンと分別してゴミを出していたとしても、「それならOK」なんて言い切ることはできません。必要のないものを買って、結局ゴミにしてないだろうか。食べ物を無駄にしてないだろうか。
決まりに従ってゴミを処分していたとしても、考えなければいけないことは多い。 
   

  
時節柄、「厄落とし」とか「厄払い」という言葉をよく聞きます。
落とそうとしている、払おうとしている厄って、果たしてなんなんでしょうね?

先日、電車の中の広告に「厄払い」と書いてあったのを見て、ポツリとつぶやいてしまいました。
「人間こそ厄だよなぁ」
隣で聞いていた友人は苦笑いをしていました。

「厄落とし」「厄払い」って、自分自身を落とし、払い、清める行為なのかもしれませんね。

地球にとって、厄になっていないだろうか。
地球からポイ捨てされる前に、自分で気をつけなくてはいけません。

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2006年12月26日 (火)

人生はオーケストラ

音楽を続けられることが決して当たり前でないことを、彼らは、私に思い出させてくれました。
          フランツ・シュトレーゼマン「のだめカンタービレ」より
  
「継続は力なり」と言う。
物事を続けるということはとっても難しい。たったひとつの ささいな出来事のせいで、今まで続けてきたことに、いとも簡単に幕が引かれることもある。
それだけに続けることが出来れば、自分でも気付かないうちに、私の血となり骨となり力となる。大きな財産です。
でも、でもそれだけに、続けることが当たり前のことのようになってしまったとき、油断・手抜き・自惚れ・他への批判などのこころが起きてしまう。「いつでも出来る」「こんなもんでいいか」「俺って凄いな」「なんでその程度のことができないんだ!!」って。
 ただ、続けられる何かに出会えただけなのに。
 ただ、好きなことが見つかっただけなのに。
 ただ、途中で止めてしまう出来事がなかっただけなのに。
 ただ、ほかにとりえがなかっただけなのに。
「ただ、~なだけ」な何かが、私に集まっただけのこと(この「ただ、~なだけ」の正体が阿弥陀さんかもしれないなぁ)。自分が威張ることでも、他人を責めることでもない。

続けられる何かが見つかっただけ。途中で投げ出してしまう出来事がなかっただけ。続けることが出来るって、決して当たり前ではないんだ。当たり前のことにしてしまってたなぁ。いや、続けられることに対する感謝を忘れていたなぁ。
続けることって、他人のためじゃない。自分自身のため。結果を、成果を、反応を気にして、それが伴わないからという理由で怒るのなら、サッサと止めてしまえばいい。

止めてから気付くことがある。
それが好きだから続けていたんだってことに。
自分自身が楽しいから続けられたんだってことに。
一度止めて、再び始めるためには、今まで続けてきた何倍もの想いや力が必要だってことに。
  
ここまで続けることが出来たことに、感謝です。

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2006年12月15日 (金)

手を合わせる

    手を合わせる   坂村 真民
  手を合わせる
  手を合わすれば
  憎む心もとけてゆき
  離れた心も結ばれる
  まるいおむすび
  まるいもち
  両手合わせて作ったものは
  人の心をまるくする
  両手合わせて拝んでゆこう
  手を合わすれば
  重い心も軽くなり
  濁った心も澄んでくる
  生かされ生きて花薫る
  楽しい世界にしてゆこう
  二度とこないこの人生を