折々のことば

2018年2月16日 (金)

強みを手にすると、人は変わる

武力で平和が守れるなら
世界はとっくに平和です

アメリカで、また銃乱射事件がおきました。日本では、「たまに」、でも「またか!」という感じでアメリカでの銃乱射事件のニュースが流れるけれど、今年に入ってからアメリカでは18件の銃乱射事件が起きていると聞きます。つまり、日常茶飯事。
銃が手に入るということは、抑止のため、自己防衛のために手に入れても、凶器として使う者も手に取れるのだから、そのいたちごっこは止まらない。いたちごっこと書いたけれど、銃を凶器として使う者と、決して使うつもりはないけれど、抑止・防衛として必要とする者の二者がいるわけではない。銃が手にあれば、あらぬことを考え、あらぬことをしてしまうのが人。
これだけの人が銃の犠牲になっても、銃規制の話すら出ないというのは、議員レベルで言えば、銃関連の業者からいろいろとお世話になっているから(日本で原発推進の動きがなくならないのも、飲食店での禁煙の話が進まないのも、議員が関連会社からお世話になっているから。カジノを推進しようとしているのも同じ構図。そればかりとは言えないけれど)。市民レベルでも、未だに「それでも銃は必要だ」というのは、抑止・防衛のためという意識が働くから。結局、手元に銃は残る。悲劇は、これからも続く。
銃規制と同時に、秀吉の刀狩りではないけれど、今持っている銃をすべて没収しなければ、その意味も無いだろうし、お互いへの疑心暗鬼は続く。
銃の話ばかりだけれど、核も同じ。持っていたら、使いたくなる。使ってしまったら、たとえ正義の大義名分を掲げても、人殺し。使ってしまったら、国境を越えて、多くのいのちが犠牲になるのに。「自国を守るため」などというのは、ありえない話。

ジョンレノンが凶弾に倒れてから、105万人以上の人々が、銃によって亡くなっているという記録もあるという。
原爆投下のその年に亡くなった人は、広島で14万人(推計)、長崎で9万人(推計)。合わせて23万人(推計)。
国と国との争いは、一瞬で多くのいのちを奪う。
日常を生きる私たちは、日々の生活の中で、原爆の4倍以上の人(いのち)を殺めてきた。

2018年2月13日 (火)

落ち度がなければ安全と信じたい人が、被害者を責める構図がある

「東京新聞」 2018年2月12日(月)朝刊
コラム「本音のコラム」より

公正世界信念 宮子あずさ(看護師)

 患者さんは病状が悪くなると、なぜそれを医療者のせいにするのか。最近この疑問に答える心理学の論文を読んだ。
 キーワードは、公正世界信念という概念。分かりやすく言えば、「世の中は公正にできていて、悪いことをしなければひどい目に遭わない」と信じること。これを成立させるには、無理にでも原因を探さねばならない。
 これを病気にあてはめてみると、まず患者さん自身が不摂生を周囲から過剰に責められる。これは節制していれば病気にならない、との公正世界信念。そして、患者さん自身も、適正な治療がされていれば悪くならないと信じたい公正世界信念があり、病状が悪くなるとそれを医療者の落ち度として責められるのだ。
 また、本来なら同情されるはずの犯罪被害者や、独裁者に迫害される抵抗者も責められる。通り魔に襲われるのは人通りのない道を歩いたせい。偏った思想を持つから、罰せられて当然。落ち度がなければ安全と信じたい人が、被害者を責める構図がある。
 実際の社会は、温かい人柄の人が病に苦しんだり、時に通り魔に襲われる理不尽に満ちている。
 公正世界信念には無理がある。ほどほどに諦め、誰が悪くなくても悲しいことは起こると認められたら。不安と引き換えに、私たちはもっと互いに優しくなれるのではないだろうか。

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〈雑感〉
公正世界信念という概念。分かりやすく言えば、「世の中は公正にできていて、悪いことをしなければひどい目に遭わない」と信じること。これを成立させるには、無理にでも原因を探さねばならない。

本来なら同情されるはずの犯罪被害者や、独裁者に迫害される抵抗者も責められる。通り魔に襲われるのは人通りのない道を歩いたせい。偏った思想を持つから、罰せられて当然。落ち度がなければ安全と信じたい人が、被害者を責める構図がある。

2018年2月5日午後5時頃、佐賀県神埼市の住宅街に陸上自衛隊のヘリコプターが墜落しました。
ヘリコプターがが墜落した住宅の室内にいた11歳の女の子が怪我を負ったけれど、命に別状はなし。ヘリコプターの搭乗員1人が死亡し、1人は捜索中とのこと。
ヘリコプターが墜落した民家の、女の子のお父さんの「許せないですよね」のコメントが新聞に載ると、ツイッター上に父への非難が殺到したと聞きます。(非難のことばを書き出すのも嫌なので書きません)

命が助かったとはいえ、家にいた女の子は恐い想いをされたことと思います。ご家族の心配や驚きや怒りもあって当然です。ヘリコプターの搭乗員の方も、そのご家族にとっても気の毒なことが起こりました。
この世は理不尽に満ちている。というか、何が起こるか分からないのが世の中です。何が起こるか分からない世の中、何をしでかしてしまうか分からない私たち人間。何かが起きたときに支え合うのも人間。
自分の思想・理想(公正世界信念)を保つために、無理やり理由を構築したり、守られるべき人を傷つけて公正さのバランスを取ろうとする。そのことが、結局は公正さを欠いている。

ヘリコプターが墜落した家のお父さんがバッシングされるのと同様、被害に遭った方が責められたり、或いは何か善いことをしてマスコミ等に取り上げられた方が非難を浴びるということがある。
他者(ひと)をバッシングをする人や非難を浴びせる人は、自分がやっていることが他者(ひと)から認めてもらえない現状への不満が噴出。「自分はこれだけ頑張っているのに(誰からも褒められない。現状が良くならない)」。やっていることが認めてもらえない不満というより、「私(という存在)を認めて!」という叫びがいびつな形で出ているのかも知れない。だから、称賛される人へのやっかみだけでなく、つらい想いをした人への「お前だけがつらい思いをしているわけじゃない(俺の方がつらいんだ)」というクレームとして表出する。

と、夜な夜な書いていたら、林修先生が番組(2月11日放送のTBS系「林先生が驚く初耳学」)で語ったことばが起こされていました。

「小人閑居して不善を成す、つまり、つまらない人間は暇にしておくとロクなことをしないと。人間の関わりは3通りで、忙しい同士の人の関わり・暇な人同士の関わり・忙しい人と暇な人の関わり。トラブルが起きるのはここ(忙しい人と暇な人の関わり)だけですよ。こっちは忙しくて向こうは暇で、こっち(暇な人)は攻撃時間がたっぷりある。こんなもの絶対負けるんですよ」と持っている時間が全く違うため、正義感を持ってアホな人に応戦しても勝ち目はなく、不毛であると語った。

「暇」とまでは言いませんが、人間は時間を持て余すと、ろくなことを考えないものです。

「ろくなこと」の「ろく」は漢字で「碌」と書きますが、本来は「陸」だそうです。
「陸」とは平地を表わし、「平ら」ということを意味します。あ、公正・公平に通じますね!
つまり「碌でもない」・・・「陸でもない」とは、「平らでない」「公正・公平でない」ということ。
「公正世界信念」や「平等」ということばは、本来は人間の公正性・公平性を願ったことばだと思うのですが、自分が公正・公平の中にないという思いが、他者への刃となって向かう。ろくなことではありません。
(「ろくでなし」は、まっすぐでない人、性格がひねくれている人のことをいうのですね)

2018年2月 2日 (金)

本をいただいた御礼

「東京新聞」2018年2月2日(金) 暮らし欄 「手紙 書き方味わい方 文豪の古風な表現 中川越」

森鴎外は、本の贈呈を受け、次のように感謝した。 「小生をして灯下炉辺臥遊の楽を縦にせしめ候」 (しょうせいをして とうか ろばた がゆう の らくを ほしいまま に せしめそうろう」 いただいた本は、私を明るい光のもと、暖炉のそばで寝転んで読書する愉しみを、好きなだけ得させてくれた、という意味だ。
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(雑感)
本をいただいたとき、御礼の手紙を書くのだけど、文面が固くて、感謝の気持ちを表わすのが難しいなぁといつも思います。森鴎外氏のように表現出来たらいいなぁと思いながら朝刊をめくりました。
御礼の手紙のみならず、想いを表現するのは難しい。

2018年1月27日 (土)

「私、知らないから」ではすまされない

『通販生活』 2018 春号 表紙より

かつて自民党で最大派閥を率いた故田中角栄元総理は、新人議員に 「戦争を知っている世代が政治の中枢にいるうちは心配ない。 平和について議論する必要もない。 だが、 戦争を知らない世代が政治の中枢となったときはとても危ない」 と薫陶を授けていたという。 いまの日本は、まさに田中角栄の予見したとおりなのではないか。

丹羽宇一郎(日本中国友好協会会長、元中国大使)著 『戦争の大問題』(東洋経済新報社) 「はじめに」より

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〈雑感〉
2018年1月26日(金) 元衆院議員 野中広務さんが亡くなられました(92歳)。
「戦争は絶対にダメだ!」と声を大にしていた方が亡くなられていく。
とても危ない。
しかし、戦争を知っている世代がいなくなった、あぁどうしよう、 もうダメだ・・・などと悠長なことを言っている場合ではない。
戦時を生きた方々がいなくなり、それでまた戦争が始まってしまうのは、残された者が何も学んでいないということ。感じる心、想像する心を失っているということ。それって、人間が人間ではなくなっているということ。
ダメなものはダメ!と、残された者が声を挙げ続けなければいけない。

2018年1月25日 (木)

無関心は支持であり共犯である

「東京新聞」 2018年1月23日(火)朝刊
コラム「本音のコラム」より

無関心の罪 鎌田慧(ルポライター)

 国の暴力の極限が侵略戦争だが、個人への直接襲いかかる暴力として、罪なきひとを罰する冤罪(えんざい)がある。冤罪の被害は家族をふくめてもごく少数だが、施設への収容と隔離を強制されたハンセン病者の被害は、けっして少なくはない。
 ハンセン病はかつて癩病(らいびょう)と呼ばれ、伝染性が恐怖された。国は「らい予防法」を制定し「無癩県運動」という、患者撲滅の浄化運動を全国的に実施した。その被害の実態は、熊本の元患者など勇気をふるって立ち上がった違憲国賠訴訟のなかで、ようやく明らかにされ、わたしたちの知ることになった。
 一昨年からハンセン病家族による、国の謝罪と損害賠償を求める裁判が、熊本地裁ではじまった。3月の法廷から原告の証言がはじまる。
 21日、裁判応援の集会が東京・東村山市の多磨全生圓で開かれ、弁護団の田村有規奈さん、『ハンセン病家族たちの物語』の著者・黒坂愛衣さんの講演があった。
 「業病(ごうびょう)」といわれた患者の家族は身を隠して生き、声をあげる機会を奪われてきた。だから、まわりから応援する声が必要だ、と田村さん。黒坂さんは「怖い病気」とする国の刷り込みが社会ばかりか患者本人と家族の意識と行動まで支配した恐怖を語った。
 排除した「社会」の側にわたしたちがいた。無関心は支持であり共犯である。

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〈雑感〉
何か問題が起こったとき、すぐに問題の責任者さがしをして、その人を叩く立場に立とうとする。
けれど、責任の一端は、「無関心を決め込む私」 「加害者意識が希薄な私」にもあります。

東本願寺出版発行「同朋新聞」 2017年5月号
「時問自問‐時代に問われ 自らに問う‐」に執筆させていただいた文章を添えさせていただきます。

「加害者としての当事者意識を持つ」ということ

 「当事者になる」ということと「当事者意識を持つ」ということについて考えています。今、日本ではハンセン病のこと・原発のこと・沖縄の基地のことなど、さまざまな事柄があります。それぞれの事柄で、差別や被害を受け、つらく苦しい想いをしている人がいます。「当事者」とは、つらく苦しい想いをしている人であり、「当事者意識を持つ」とは、その方々の想いにふれ、少しでも寄りそえる身になろうと努めることかと思います。「当事者になる」ことと「当事者意識を持つ」ことの間に隔たりがあることは当然のことなのですが、深い溝のようなものを感じ、気になっています。
 昨年4月、姫路で開催された「第10回真宗大谷派ハンセン病問題全国交流集会」に参加しました。基調講演で講師の徳田靖之さん(弁護士・ハンセン病国賠訴訟西日本弁護団代表)が、「当事者とは誰のことか。今なお残る差別・偏見の根本には、自分たちがこの問題において加害者であったのだという意識があまりにも希薄だと感じています」と話されました。ハンセン病問題において「当事者」と言う場合、差別を受けてきた元患者さんのことを思い浮かべていました。しかし、ハンセン病「問題」における「当事者」とは、他でもない「加害者である私」のことでした。
原発の問題も、原発事故により故郷を奪われた方々、家族が分断されてしまった方々を「当事者」と思っていました。しかし、電気がある生活をあたり前と思い満足していた私こそが「加害者としての当事者」です。
 さまざまな事柄に「問題」とつけますが、何が「問題」なのか。「加害者としての当事者意識を持つ」ことの希薄さが深い溝を生み、「問題」とつけることによって、かえって事柄の中味を見えなくしてしまっているのではないでしょうか。

2018年1月18日 (木)

おとなになってから わたしを支えるのは 子ども時代の「わたし」

子どもたちよ
子ども時代をしっかりとたのしんでください
おとなになってから
老人になってから
あなたを支えてくれるのは
子ども時代の『あなた』です
   石井桃子さんの言葉

2018年1月17日(水)「東京新聞」朝刊 「地域の情報」
 児童文学者 故石井桃子さん創設 家庭文庫の草分け「かつら文庫」今春60周年より

石井桃子さん(1907年~2008年)
ミルンの「クマのプーさん」やポターの「ピーターラビット」シリーズなど数多くの児童文学の名訳により、1954年に菊池寛賞を受賞。「ノンちゃん雲に乗る」(47年)「三月ひなのつき」(63年)などの創作も読み継がれている。
1958年3月、自室の一室を使って「かつら文庫」を始めた。

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センター試験が行なわれていますね。受験生の皆様、ご心労もお疲れも多いことと思います。お風邪など召しませんように。
受験に向けて、一所懸命に勉強をされたことと思います。その努力は、決して無駄にはなりません。けれど、大人になり、年を重ねたときに、ふと思い出されるのは、幼少期に見た(読んだ)絵本や漫画だったりします。また、そのときの記憶が土台となって、受験期に於ける知識の上書きに役立つものと思います。
私の場合、小学生の時にかなり漫画を読みあさっていたのですが、漫画で漢字や慣用句や諺や土地の名前や名産品やいろいろなものの見方や結果がすべてでは無いことや、いろいろなことを学んだなぁと思います。
教科書の中味は思い出さないけれど、漫画の一コマは折に触れ思い浮かびます。
本も読めたらよかったと思いますが、今でも本を読めない人なので、せっかく本を買っても、多くが積ん読(つんどく)になっていますsweat01
読書体験だけではありませんが、年をとってから感じられる私の土台となっていることって、子ども時代のことが大きいです。あ、学生時代も欠かせないと思います。春からも、しっかりとたのしんでください。出会いを、学びを大切にpaper

2018年1月16日 (火)

野球殿堂2018

2018年プロ野球殿堂 プレーヤー表彰で松井秀喜氏 金本知憲氏が、エキスパート表彰では原辰徳氏が選出されました。

松井選手も金本選手も試合に試合に出続けることにこだわり、松井選手は日米通算1768試合連続 金本選手は1492試合連続フルイニング出場を成し遂げました。

連続出場にこだわる松井秀喜氏のことば
ファンは毎日球場に来られるわけではない。1年に1度しか見に来られない人もいる。やっとの思いで観戦できた日に、僕が出なかったらホームランを楽しみにしていた子どもたちはがっかりする
セリフや思いも素晴らしいですが、それだけの成績を残し続けないと試合には出られないわけで・・・。
東京ドームで、ライトの松井選手とセンターの高橋由伸選手(現ジャイアンツ監督)がキャッチボールしていて、そのボールの強さ早さに驚いたことを鮮明に覚えています。

原辰徳氏は、お父さんも高校・大学の野球監督として知られていますが、原辰徳氏が初めてジャイアンツ監督に就任した2002年、父 貢氏は、次の言葉をおくっています。
選手と監督は違う。床に入って頭を枕に付けたら考え事はするな。考え事をしたいなら、電気をつけろ」と。
その言葉のことは、当時の新聞か何かで知り、私も「そのとおりだなぁ」と思いました(監督をするわけではないけど)。以来、床に就いたときには考え事をしないように、考え事をするなら机に向かってということを心がけていますが、実はとても難しい。布団の中で考え事をして、何か思いついても、朝起きたら忘れているものです。それに、休むときにはしっかり休め!! それも監督の仕事だ!!というメッセージだったのかもしれません。

名を残す人には、確固たる想いと、善知識(よき指導者)がいるものですね。

2018年1月15日 (月)

恩に生きる

「東京新聞」連載「今週のことば」より 〔2018年1月14日(日)朝刊〕

(師の言葉や生きざまを心に刻み、生きることが=意訳)
恩を知り恩を報ずることである。
      宏智正覚(わんししょうがく)禅師 (中国の宋代の禅僧)

青山 俊董(あおやま しゅんどう)さん(愛知専門尼僧堂長)の文章

 限りない多くの師に導かれての今日の私であるが、年の始め、内山興正老師からいただいた一言にあらためて参じたい。
 老師は生涯、宗門のアウトサイダーに徹して生きた方で、宗門内のことはあまりご存じない。ある時お訪ねをし、「今の宗門はこんなふうで、摂心のあり方もこんなあり方で・・・」としゃべる私に、老師はポツリとおっしゃった。
 「青山さんね。事実を見て云々いってもくたぶれるだけで、そこからは何も生まれてきやしない。その暇があったら、今私がここで座禅する、今私がここで真実を行ずること。そこからのみ明日への新しい力が生まれ、新しい芽が育つんですよ。仏教は主義や思想ではない。『おれが今、やれるだけやる』、これだけですよ」
 私は頭から鉄槌を下された思いで頭を垂れこの一言を頂戴した。
“あゝ、又しても眼が外を向いていたな”と。常に自誡の言葉としている。
(以上)

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他者をどうのこうの言うのは簡単で、
自分を見つめることを忘れないように
眼が内側を向いているか否か・・・

「おれが今、やれるだけやる」
これだけですよ
と、ポツリ

2018年1月13日 (土)

聞法

仏法は説よりも聞にはじまる
曽我量深

人間を尊重するということは
相手の話を最後まで静かに聞くことである

安田理深

いただいた年賀状を読み返していたら、先達からの大切なことばに目が留まりました。
お釈迦さまがどんなに大切なお話を説かれても、聞く人、つまり悩み苦しみながらも懸命に生きる人がいなければ、仏法が大切な教えとして今に伝わることはありえませんでした。
聞くということを通して、仏法を、人間本来の姿を知ることができます。
聞くは、人間尊重のはじめなり。南無阿弥陀仏(‐人‐)

2018年1月 5日 (金)

行動しているときも止まっているときも、座っているときも寝ているときも、いついかなるときもお念仏を

1月5日 お朝事にて
御文 第一帖 第五通(雪の中の御文)拝読

そもそも、当年より、ことのほか、 加州・能登・越中、両三か国のあいだより、 道俗男女、群集をなして、 この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとおり、 いかがとこころもとなくそうろう。 そのゆえは、まず当流のおもむきは、 このたび極楽に往生すべきことわりは、 他力の信心をえたるがゆえなり。 しかれども、この一流のうちにおいて、 しかしかとその信心のすがたをも、 えたるひとこれなし。 かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。 一大事というはこれなり。 さいわいに五里・十里の遠路をしのぎ、 この雪のうちに参詣のこころざしは、いかようにこころえられたる心中ぞや。 千万こころもとなき次第なり。 所詮已前はいかようの心中にてありというとも、 これよりのちは心中にこころえおかるべき次第を、 くわしくもうすべし。 よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。 そのゆえは、他力の信心ということを、 しかと心中にたくわえられ候いて、 そのうえには、仏恩報謝のためには、 行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。 このこころえにてあるならば、 このたびの往生は一定なり。 このうれしさのあまりには、 師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、 こころざしをもいたすべきものなり。 これすなはち、当流の義をよくこころえたる、信心のひととはもうすべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。

拝読しながら、相田みつをさんの詩を思い出していました。

 『おさい銭』
  百円玉一ツ
  ぽんと投げて
  手を合わす
  おねがいごとの
  多いこと
     みつを

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