一色の映ずるも、一香の薫ずるも
絶対他力之大道
二
宇宙万有の千変万化は、皆これ一大不可思議の妙用に属す。
而して我等はこれを当然通常の現象として、毫もこれを尊崇敬拝するの念を生ずることなし。
我等にして智なく感なくば、すなわち止む。
いやしくも智と感とを具備してこの如きは、けだし迷倒ならずとするを得んや。
一色の映ずるも、一香の薫ずるも、決して色香そのものの原起力に因るに非ず。
皆彼の一大不可思議力の発動に基づくものならずばあらず。
色香のみならず、我等自己そのものは如何。
その従来するや、その趣向するや、一も我等の自ら意欲して左右し得る所のものにあらず。
ただ生前死後の意の如くならざるのみならず、現前一念における心の起滅、また自在なるものにあらず。
我等は絶対的に他力の掌中に在るものなり。
(清沢満之 「絶対他力の大道」)
☆ ☆ ☆
宇宙万有の千変万化は、ことごとくひとつの大いなる不可思議な力の絶妙の働きによる。
それでいてわれらはこれをあたりまえでふつうの現象とみなし、これを尊敬し うやまうわずかの気持ちすらもたない。
われらに知力も感情もないとしたら、われらはなにものでもないのだ。
いやしくも知力と感情をそなえていながらも このようなていたらくでは、おもえば迷いつまづかないほうがおかしいくらいである。
ひとつの色が目に映るのも、ひとつの香がかぐわしくにおうのも、けっして色や香そのものから立ち上がってくるものではない。
それらはみなあの大いなる不可思議力の発動にもとづくのではないだろうか。
色や香だけではない、われらの自己そのものはどうなのか。
自己がどこからきたのか、どこへいくのか、どれもわれらが自分で意欲して左右できるものではない。
生前や死後が意のままにならないだけではない、現在の一念における心の生と滅もまた自在にならないのである。
われらは絶対的に他力の掌中にあるものなのだ。
〔『現代語訳 清沢満之語録』今村仁司[編訳](岩波現代文庫)〕
☆ ☆ ☆
昨日、白梅の芳香によって、我が身のあることを感じると綴った。
今日、教えをいただいている先生から、先生のお寺の寺報が届く。
表紙には 住職の文章が・・・そこで、清沢満之先生の「絶対他力の大道」第2節(上記。改行は私がしました。また、今村先生の現代語訳を書かせていただきました。申し訳ありません)に触れられている。
ひとつの色が映えるのも、ひとつの香がかぐわしくにおうのも、
不可思議力の発動に基づくものではないだろうか。
そう想うと、私自身もいかなる存在だろうか。
自分の思い通りになることなどひとつもないなかを生きている。
けれど、わたしを包むはたらき、わたしを支えるはたらき、わたしを死滅させるはたらきがなければ、
果たして わたしは いない。
わたしは はたらきの中に、
わたしは阿弥陀の掌中にいる。
・・・
青い空と白梅と暖かな日和
それら景色や香りが わたしの心を動かす。
その、動かされたはたらきがあったから、寺報の文章も私の目に、心に届いたのかもしれない。
そして、清沢満之先生の本を数冊、今、開いている。
清沢先生に向き合え、親鸞聖人に向き合え、阿弥陀に向き合え、
今、そう言われているような気がする。
そこにもまた 阿弥陀がはたらいている。
阿弥陀がいる。
わたしとともに 阿弥陀がいる。
南無阿弥陀仏