折々のことば

2020年10月18日 (日)

娯楽

輿論(よろん)は常に私刑であり、私刑は又(また)常に娯楽である。
                  (芥川龍之介『侏儒の言葉』より)

芥川龍之介の言葉に出会った。

世間には「私刑」があふれている。

「私刑」とは、法律によるわけではない、個人的感情から起こる制裁のこと。

○何らかの罪を犯した人がいる。

○法を犯す罪を犯したわけではないが、“私”にとって気に入らないことをした人がいる。

○その人が何かをしでかしてしまったわけではないけれど、“私”の目には、とても恵まれた人生を送っているように見える人がいる。

そのような人に対して、自分を高みに置いて、制裁する 断罪する やっかむ「死刑」。

数年前までは、自分の仲間内で、話の種 酒の肴ていどで他者を裁いていたものが、

ネット環境 SNS等の普及により、他者を裁くつぶやきが地球全体に行き渡ってしまう。

○たとえ実際に罪を犯した者に対してであっても、第三者に制裁する権利はない。

○私の正義に反する者ではあっても、断罪する道理はない。

○やっかみは、決して他者が悪いわけではない。

質(たち)の悪いことに、情報が正しかろうが間違っていようが、「私刑」執行者にとってそんなの関係ない。

「私刑」は、自分の怒りやモヤモヤした感情が発散できればいいのだから。

それゆえに、「死刑は又(また) 常に娯楽である」のだろう。 

さて、「輿論(よろん)」は見慣れない言葉だと思う。現代では「世論」という書き方が一般的だから。

「輿論」「世論」とも「大衆の声」を意味するが、「輿論」と「世論」は似て非なるものである。

「輿論」は「パブリック・オピニオン」(公衆の意見)を意味する。

「輿論」と表わされる「大衆の声」の背景には、確固たる「意見」「信念」「思想」がある。

「世論」は「ポピュラー・センチメント」(一般的な気分)を意味する。

「世論」と表わされる「大衆の声」に、確固たる「意見」「信念」「思想」は・・・ない。

時代状況や社会の空気、個人的気分に左右されて ものを言う。

深く考えるという作業もなく時代を嘆き、自分以外の者のせいにし、他者を貶(おとし)め、楽な方に流れる。

「世論」の意味を知ると、果たして「世論調査」の結果とは、信用に足るものだろうか。

さて、

ここまでの説明からすると、「世論は常に私刑であり、」の方が文章の通りがいい気がする。

けれど、芥川龍之介は「輿論」と書いた。

○「輿論、確固たる信念に裏打ちされた意見もまた “私刑” である、」とも読めるし、

○芥川龍之介在世当時は、「世論」とは言わず「輿論」と言うことの方が一般的だったかもしれないから、現代でいう「世論」と同じ感覚で「輿論」と書いたのかもしれない。

芥川龍之介の意図は分からないが、

言葉の意味として「輿論」と「世論」は明確に違うものである。

○現代、私たちは「世論」の多数意見に合わせることによって、自分の正当性を保とうとしてはいないだろうか(そこに、自分の意見はない)。

○「世論」の多数意見を是として、少数意見を非としてはいないだろうか。

○「世論」の少数意見を見下してはいないだろうか。

その態度はよくないし、そもそも「世論」は 空気を読んでのもの、気分的なもの。

情報の多い世の中、何が正しい情報で、何が間違った情報かわからないことが多い。

不明確な面が多い。

ということは、空気や気分に流される声もまた不明確で、根っこがない。

ひとつの情報に左右されるのではなく、いろいろな側面から見た情報にふれ、

自分が思ったこと 感じたことは、率直に「意見(オピニオン)」として語れば、

自分とは違う「意見(オピニオン)」から発見を得ることもある。

「輿論」は、そういうところから醸成(酒や味噌が醗酵するかのように物事が徐々に作り出されてゆく)されてくるのだと思う。

そういう意味で、「輿論は娯楽である」ということに辿り着くような気がする。

知り、考え、感じ、語る。そこからまた、知り、考え、感じ、語るということが生まれて来る。

そのことは、人間にとっての「娯楽」である。
(芥川龍之介が言おうとしたことからは、おそらくかなり離れていると思う。それもまた善哉善哉)

2020年10月 2日 (金)

仮病は、この世でいちばん重い病気だよ

2020年10月の掲示板には、「我慢は、それほど大変ではない。大変なのは、やせ我慢。 」という言葉を掲示しました(昨日の投稿)。

正直、「なんだ!これは?」と思った方もいるのではないでしょうか。

掲示した私の思いは、昨日の投稿を読んでいただければ、伝わるものと思います。

2020年10月の掲示板は、当初「仮病は、この世でいちばん重い病気だよ」という言葉を考えていました(決して、前首相を揶揄する意図はありません)。

この言葉は、手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』が出典とされています。

お寺の掲示板に掲示するには、できるだけ出典を読むようにしています(流石に、外国語の原文にはあたれませんが)。

で、『ブラック・ジャック』を調べてみたのですが、「仮病は、この世でいちばん重い病気だよ」という言葉を見つけ出すことができず、断念しました。

今、掲示したい言葉なんだけどなぁという忸怩たる思いを抱えながら、手元の言葉ノートを繰っていたら、今月掲示した言葉「我慢は、それほど大変ではない。大変なのは、やせ我慢。」に出会いました。

自分のなかでは、このふたつの言葉が繋がって、「我慢は、それほど大変ではない。大変なのは、やせ我慢。」を掲示することにしました。

ちなみに、この言葉は、読み人知らずです(とはいえ、できるだけ典拠を明らかにするように努めているのですが、無理でした)。

 ☆

「仮病は、この世でいちばん重い病気だよ」も、もしかしたら「なんだ!これは?」と感じられるかもしれません。

このコロナ禍、心身共に、みんななにかしら我慢しながら生活しています。

強いられた我慢がこれだけ続くと、不安になるし、いつ収束するのか気に病むし、運動量も減って体力も落ちます。

そうすると、たとえ身体は元気でも、気持ちの方が落ち込んでしまいます。

体調が悪い、気持ちが優れない、病気かもしれない、という思いから、自分を追い詰めてしまします。

追い詰めてしまうと、本当はどこも悪くはないのだけれど、「自分は病気に違いない」という思いに覆われてしまします。

「仮病」とは、自分が病気ではないことを自覚したうえで つく嘘かもしれませんが、

強いられた我慢から、気持ちのうえでしんどくなり、何もしたくない気持ちを言い表しているように思いました。

自分が病気ではないことを自覚しているんだけど、それでも、この制限・制約があるなかを生活していて疲れてしまった。

だから、自分が病気ではないことを自覚しながらも、「病気かもしれない」と言わざるをえないこと(それは決して“嘘”ではありません)は、「この世でいちばん重い病気」状態だと思います。

病院に行って、お医者さんに診てもらって、「病気です」と診察されることばかりが“病気”ではなくて、

「仮病」だと認識しながらも「病い」を口にせざるを得ないということは、本当の病気とはまた質が違って「この世でいちばん重い病気」なのだと思います(決して、本当の病気よりも「仮病」という病気の方が病として重たいという意味ではなくて)。

現代(いま)、多くの人が そういう状態にあるような気がして、「仮病は、この世でいちばん重い病気だよ」という言葉は、私の心に引っかかっていました。

結局、出典(言葉の出どころ)が分からない言葉ではありますが、大事な言葉であるような気がして、今日ここに書かせていただきました。

南無阿弥陀仏(‐人‐)

2020年9月25日 (金)

“傷”を詠った言葉が、結構あることに気づきました。

傷ついたのは、生きたからである。
高見 順

 

傷つけないやさしさなんて偽物じゃないやろか。
森 毅

 

人間は起こることによって傷つけられる以上に、起こることに対する意見によって傷つけられる
モンテーニュ

 

わたしは傷を持っている
でもその傷のところから
あなたのやさしさがしみてくる
星野 富弘

 

望んだこと全てが叶うわけはないよ
そんなのわかってるんだ
深い傷もいずれはかさぶたに変わって
剥がれ落ちるだろうか...

King Gnu 「Teenager Forever」
  

 

傷を詠った言葉が、けっこうあることに気づきました。

傷は、傷付けられたから出来るもの。

ということは、本来ならば、傷つけられたくないもの。

でも、傷を受けたことによる、心に刻まれた感得(感じ得たもの)があるということ。

であるならば、その感得を大切に生きたい。

2020年7月18日 (土)

傷ついたのは、生きたからである(高見 順)

『週刊金曜日』 2020年7月24日号 1289号

特集 新型コロナ時代を生きる

インタビュー 奥田知志(おくだ ともし)さん 「命に意味がある」ことを共有する

今問題となっているウイルス自体はたしかに新型でしょう。ワクチンや治療薬などの対処法がまだないので新たなフェーズ(位相)かもしれません。
しかし、噴出しているのはコロナ以前からあった課題です。災害時には、社会の矛盾や脆弱性(ぜいじゃくせい)が拡張して露呈するのです。「新しい生活様式」という言葉が飛び交っていますが、これまでの宿題をすませないと夏休みは明けないわけですよね。
給付金の支給は必要ですが、目先小手先の対応にとどまってはだめです。「テレワーク」「ネット会議」などはあくまでも一つの様式にすぎません。社会システム自体を新しくしないと、第2波や新種のウイルスが襲ってきたとき、同じ危機を迎えるだけです。

―替えるべき社会の構造とはなんでしょうか。
不安定な就労状況の改善ですね。12年前のリーマン・ショック時よりもさらに悪くなっています。日本では労働人口の約4割にあたる約2000万人が非正規雇用で、不景気になると雇い止めになる、景気対策の安全弁として使われています。
(中略)
「住み込み型の非正規就労」だと、仕事を失うと同時に住むところも失うわけです。会社の住み込み寮の位置づけは「会社の福利厚生」の一環。住居という概念にあてはまらず、居住権がないのです。
(中略)
「住み込み社員寮」は好景気の時は利点もありました。敷金や礼金、保証人が必要ではなく、また家財道具も寮に備わっています。特に単身者は、仕事と同時に住むところが手に入ったのです。
しかし、会社側は不景気になると経費削減のために簡単にクビを切る。この「仕事と住まいを同時になくす」問題は、リーマン・ショック時にもありましたが、いまはさらに拡大しているはずです。

(中略)

コロナ禍以前に「助けて」と声をあげると、「何を甘えている」「努力しなかったお前が悪い」などと非難する空気がありました。みんなが心細くなったいま、「助け合おう」の機運が出てきたのは大切です。
東日本大震災の時も被災地に寄付や支援が集まりました。それはとても感謝したいことだけど、あえていえば、災害時で生じたマイナスを埋める行為では、“かわいそうな人”を助けるという上下関係が寄付をする側とされる側にできてしまいかねません。被災しなかった人たちが、被災者をどう助けるかが「絆」だったと感じます。
今回、抱樸(NPO法人 「ひとりにしない」という支援)が取り組むクラウドファンディングは違います。日本中、世界中が被災したわけですから。寄付をしていただいた人からのメッセージも「自分も頑張りたい」という趣旨が多い。「かわいそうな人のために使ってください」というのはむしろ少数です。

(後略)

奥田知志さんは、牧師であり、ホームレス支援をされています。

インタビューを読み、いつかどこかで この雰囲気のメッセージに触れたなぁと感じて、今日はその記憶をたどっていました。

やっと思い出しました。「同朋新聞」2020年5月号(東本願寺 真宗大谷派宗務所発行)でした。

奥田知志さんインタビュー 他者と共に生きる

自分のことを考えてくれている人、自分を支えてくれている人がいるからこそ生きていけるのです。そのような中で、私たちは「ホームレス」と「ハウスレス」を区別しました。一般的には、住む家や仕事がなく路上生活をしている生活困窮者のことを「ホームレス」と言いますが、私はこれを「ハウスレス状態」と言っています。では、「ホームレス」とは何かというと、他者との関係や絆を失っている人のことです。
以前、若者の路上生活者に対する暴行事件が起こりました。その際、被害者の野宿者が「ホームレスを襲いに来ている若者は、家があっても帰るところがないんじゃないか。親がいても、誰からも心配されていないんじゃないか。そういう人の気持ちは、自分はホームレスだからわかるけどな」と言ったのです。私はその話を聞いて、問題は住む家とか仕事、つまり「ハウス」が無いだけではなく、人との関係、つまり「ホーム」が失われていることが問題だと気づいたのです。

(中略)

他者と共に生きるということにおいて一番大事なことは、実は私たちにとって都合のよいことばかりではなく、辛くて苦しいこともあるという認識をもつことなのです。
東日本大震災後にも「絆」という言葉が注目されました。ただ、麗しい助け合いの精神のように美化されすぎたのではないかと私は思います。「絆」とは、決してそのようなきれいごとばかりではなく、自分にとって不都合なことも覚悟しないといけないものなのです。しかし、だからこそ生きているという実感にもつながるのではないでしょうか。
「絆」とい字は、平仮名で書くと「きずな」です。この「きずな」には「きず」、つまり「傷」が含まれているのです。例えば、被災地へのボランティアも「絆」という言葉とともに美化されがちですが、決してよいことばかりではありません。ボランティアに行った方も何か嫌な思いを市、二度と来たくないと思って帰らざるを得ないこともあるでしょう。一方受け入れる方も、たくさんやってくるボランティアの受け入れに苦慮し、歓迎できないこともあるでしょう。そのような本質が見えてきた時に、自分がどれだけ上から目線で助けてやろうとしていたのかとか、よかれと思いやったことが逆に傷つけてしまっていたということに気づかされるのです。ですから、「きず」を恐れ自分に都合のよいことだけを求める関係では、本当の「絆」を結べていないのだと思います。
東日本大震災という未曽有の危機をとおして、私たちはあらためて「絆」を確かめ合いました。しかし、あれから9年がたち、また、人との関りを避ける時代になってしまっています。私は長年のホームレス支援の活動をとおして、人と人との関わりの中で共に生きることの大切さに気づかされました。今後ますます人間関係が希薄化する時代にあって、私たちは今一度そのことを問い直さなければならないのではないでしょうか。

住む家や仕事がなく路上生活をしている生活困窮者を「ホームレス」と一般には言うけれど、奥田さん曰く、そのような方は「ハウスレス」である。本当の意味での「ホームレス」とは、帰る場所を失っている人。たとえ家が、親が、仕事があったとしても、そこが私の居場所として感じれないならば、そういう状態を「ホームレス」と言うのだと思う、と。

 ☆

(以下、所感)

居場所を喪失している人は、現代(いま)、たくさんいます。

居場所とは、物理的な居場所ではなく、精神的な居場所。

人と人との関係に居場所を見出そうにも、それもまた難しい。

人と人とが接点を持てば、そこには温もりが生じるし、好き嫌いも生じる。

自分にとって都合のいいことだけを求めていても、見つからない。

「絆」しかり、「ボランティア」しかり、助け合いの気持ちと傷つけ合いの気持ちは、同居しているのかもしれない。

そういうことを、奥田さんはホームレス支援に携わる中で痛いほど感じておられるのだと思います。

でも、それでも支援から離れはしない。

奥田さん自身の居場所が、そこにあるからなのかもしれません。

『週刊金曜日』のインタビューでは、このコロナ禍における社会状況を語っているので、精神的な居場所の話ではなく、現実生活における「住居」のお話をされています。けれど、それもまた、住居だけの話ではなくて、仕事も、人と人との関係も含めての住居。やはり“居場所”です。

現在のコロナ禍の収束を願ってやみません。けれど、収束した後に、今のままでは、また同じことを繰り返してしまう。

仕事と住居のあり方

絆を結ぶということの本当の姿や意味

わたし自身の“居場所(よりどころ)”はなんなのか?

社会状況も変化を求められているけれど、私たちひとり一人も、変化を求められている・・・というか、足元を見つめる時間のただ中にいるのかもしれない。

「命に意味がある」ことを共有する

他者と共に生きる

そこに、私の居場所を見出す。

ふたつのインタビューのタイトルは、同じことを伝えているように感じられます。

2020年7月13日 (月)

擬人化されたものには見えていて、人に見えていないわけはない

2020年7月13日(月) 東京は、お盆の時期を迎えています。

毎年お盆の入りの日には、多くの方がお墓参りにみえます。

私は、毎年7月13日は一日中外参りに出ているので、お寺の様子を知りません。

けれど今年は、コロナのことを考えると、門徒さんのお宅にお邪魔する時期ではないと思い、すべてお断りしました。

よって、7月13日に一日中お寺にいるという、私にとっては珍しいお盆の入りの日を過ごしました。

春のお彼岸のお墓参りを見合わせた方が けっこういらっしゃって、「春に来れなかったけど、今日は思い切って来ました」(^▽^)

と、みなさん口をそろえたかのように、お参りできた喜びをお話しくださいました。

私も、久しぶりにお目にかかる門徒さんがいて、お話ができてとても嬉しかったです。

秋のお彼岸や報恩講の頃には、コロナを気にせずお参りできるといいですね(‐人‐)

さて、お参りに見えた方から、「これ読んでください」と、プリントをいただきました。

ヴィヴィアン・R・リーチさんという方が、新型コロナウイルスを擬人化して、ウイルスからの呼びかけの体で書かれた文章です。

ヴィヴィアン・R・リーチさんが、どのような方なのかは分かりませんでした。

書いてある内容は、ウイルスの擬人化という手法をとってはいますが、決してウイルスだけに見えているものではなくて、私たち自身が見ている風景(現実)です。

けれど、その現実に私たちは目をつむって生きています。

起きたまま寝ている私のことを、「起きて、起きて」と揺さぶっている文章に感じました。

ネットで調べると何種類もの和訳がありました。私がいただいたプリントの文章を書かせていただきました。

 ☆ ☆ ☆

コロナウイルスから人類への手紙

地球は囁いたけれど、あなたには聞こえなかった。
地球は話したけれど、あなたは聞かなかった。
地球は叫んだけれど、あなたは耳を塞いだ。

そして、私は生まれました。

私はあなたを罰するために生まれたのではありません。
私はあなたの目を覚ますために生まれたのです。
地球は助けを求めて叫んびました。

大規模な洪水。しかし あなたは聞かなかった。
厳酷な火災。しかし あなたは聞かなかった。
猛烈なハリケーン。しかし あなたは聞かなかった。
恐ろしい竜巻。しかし あなたは聞かなかった。
それでもまだ、あなたは地球の声を聞こうとしない。
海の生き物が、水中の汚染物質によって死んでいきます。
氷山は、すさまじい速さで溶けていきます。
厳しい干ばつ。
どれだけ地球がひどい危機にさらされていても、
あなたは聞こうとしなかった。

終わりのない戦争。
終わりのない貪欲。
あなたはただ自分の生活を続けるだけだった。
どれだけそこに憎しみがあろうと
毎日 どれだけ人が殺されようと
地球があなたに伝えようとしていることを心配するより
最新のiPhoneを手に入れることのほうが
あなたには大切だった。

だけど今、私がここにいます。
そして、私は世界を一気にストップさせました。

やっと私はあなたに耳を傾けさせました。
私はあなたに避難を余儀なくさせなした。
私はあなたに物質本位な考えをやめさせました。
今、あなたは地球のようです。
あなたは自分が生き残ることだけを心配しています。

どう感じますか?

私は あなたに熱を与えます。
地球で起こる火災のように。
私は あなたに呼吸器障害を与えます。
地球の大気汚染のように。
私はあなたに衰弱を与えます。
地球が日に日に衰弱していっているように。
私はあなたの安らぎを奪いました。
あなたの外出。
あなたのいる地球と、地球が感じている痛み
そして私は世界をストップさせました。

そして今・・・
中国の大気質が改善しました。
工場が大気に汚染を吐き出さなくなったことにより、
空が澄んだ青色です。
ベニスの水が澄んでイルカが見られます。
水を汚染するゴンドラを使っていないから。
あなたは 自分の人生で何か大切なのか
深く考える時間ができました。

もう一度言います。
私は あなたを罰しているのではありません。
私は あなたの目を覚まさせるために来たのです。
これが全て終わり、私がいなくなったら、
どうか これらの時を覚えていてください。
地球の声に耳を傾けてください。
あなたの魂に耳を傾けてください。
地球を汚染するのをやめてください。
争いごとをやめてください。
物質的なものに執着するのをやめてください。
そして、あなたの隣人を愛し始めてください。
地球と、その全ての生き物を大切にし始めてください。

なぜなら、次回、私はもっと強力になって
帰ってくるかもしれないから・・・

          コロナウイルスより

2020年5月27日 (水)

南無阿弥陀仏をとなうれば

お朝事、繰り読みの「和讃」は「現世利益和讃」でした。

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
この世の利益きわもなし
 
流転輪回のつみきえて
 
定業中夭のぞこりぬ

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
梵王帝釈帰敬す
 
諸天善神ことごとく
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
四天大王もろともに
 
よるひるつねにまもりつつ
 
よろずの悪鬼をちかづけず

南無阿弥陀仏をとなうれば
 堅牢地祇は尊敬す
 
かげとかたちとのごとくにて
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
難陀跋難大龍等
 
無量の龍神尊敬し
 
よるひるつねにまもるなり

南無阿弥陀仏をとなうれば
 
炎魔法王尊敬す
 
五道の冥官みなともに
 
よるひるつねにまもるなり

傍らで聞いていた妻から、「お念仏は除災招福のためのものではないのに、親鸞聖人はどうして “南無阿弥陀仏をとなうれば” の和讃をたくさん書いてるの?」と質問を受けました。

親鸞聖人の「現世利益和讃」は15首あります。そのうちの上記6首を読みました。
原文だけで、現代語訳までは書きませんが、それでも「お念仏を称えたらこうなる!」的なことが書いてあるんだなぁってことを感じられるのではないでしょうか。

南無阿弥陀仏をとなうれば」の響きは、「念仏を称えたならば」、つまり「もし念仏を称えるという条件を満たしたならば」と、聞こえるのではないでしょうか。

でも、それならば「南無阿弥陀仏をとなえれば」と書かれるはずです。

南無阿弥陀仏をとなうれば」は、条件や仮定としての「ば」ではありません。
「~するときは いつも」とか「~するときは きっとそうなる」という確定の意味を持つ「ば」なのです。

「住めば都」という言葉がありますが、「もし住んだならば都となる」という仮定の話ではありません。
「住むと きっと都(住みやすい場所)となる」という確定を表わします。

親鸞聖人が著わされる「南無阿弥陀仏をとなうればもまた、確定を表わしています。

つまり、「南無阿弥陀仏をとなえるということは、諸々の神々がお守りくださり、諸々の悪鬼はひれ伏す」といったことを聖人は詠まれています。

文章にすると仮定と確定のニュアンスが分かりづらいですが💧

だとしても、現世利益を、念仏申した後のご利益を詠んでいるように聞こえるかもしれません。

親鸞聖人が言われる“現世利益”は、「お念仏申したら、こんないいことがあるよ」ということではありません。

「念仏申すご縁をいただいたこと、そのことがご利益なのです。すでにしてご利益をいただいているからこそ、念仏申すことができるのです」と仰っているのです。

「諸々の神々がお守りくださる」とか「諸々の悪鬼がひれ伏す」ということも、「念仏称えた者に訪れる良いこと」として挙げているのではありません。

念仏称えるということと同時に、神々に守られ、悪鬼がひれ伏すということも起こっているのです。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を頼りとし、ただ念仏申せと説かれましたが、「阿弥陀以外の諸仏諸神は信じるに値しない」と言ったり、土地土地で崇められている神々を否定されたり、私を迷わせる悪鬼を追い払えと言ったりということはありません。

それら諸仏諸神、悪鬼もまた、念仏申すご縁をくださった阿弥陀如来に収まるものとみておられたことと思います。

自分の欲望が叶った!ということが現世利益ではありません。

自分の思い通りに生きようとするけれど、ご縁をいただいてある身であることに気づけば、自分の思い通りになるものではないこと。私が生きるということは、そこにさまざまな人々のいのちとのご縁があるということ。

そのことを目覚めさせてくださるのが、南無阿弥陀仏のご利益です。

念仏申すそのときに、目覚めのご縁もいただいています。

南無阿弥陀仏

2020年5月26日 (火)

生かされてあることに感謝し念仏することである。

今週のことば 中村薫

「当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりて初めて死するにあらず。」
蓮如上人『御文』

 蓮如は、人は疫癘で死ぬのではないという。生まれた時から死は定まっており、驚くことではないと。それは道理としては納得できるが、現実に自分たちに係わってくるとそうはいかない。それが情の世界である。
 そんな中、疫病は何度も人類に襲いかかってくる。有史以来手を替え品を替え襲ってきた。蓮如はその都度、静かに受け容れていった。今日のように医学の治療はなかったので、ただ念仏して耐えることしかなかった。しかし耐えながら辛抱することは、とても大変なことであった。ご承知のように、念仏は決して祈祷ではない。さりとて、諦めて生き方を放棄するものではない。むしろ、どうすることも出来ない身の事実を引き受けていったのである。
 阿弥陀如来は、無自覚な罪深い人間でも必ず救うといわれる。生かされてあることに感謝し念仏することである。
〔「東京新聞」2020年5月25日(月)朝刊〕

 

2020年5月8日に還浄された中村薫先生への追悼の文章を、5月16日のブログで投稿しました。

昨日の「東京新聞」朝刊に、中村先生の文章が掲載されていました(中村先生は、複数の執筆者と、「東京新聞」こころのページの「今週のことば」を執筆されていました)。

その文章が上記の文章です。

亡くなる前に書き上げていらっしゃったのですね。

先生は長患いをされていたので、常に「明日とも知れぬいのちを生きている」自覚を持ちながら、日々を過ごされていたことと思います。

いつ書かれたのか分かりませんが、このコロナ禍に際し、先生はご自坊の掲示板に、

「コロナウイルスに負けないように落ち着きましょう 南無阿弥陀仏」

と書き記されていました。

上記「東京新聞」の文章を読んでも感じますが、一生を通して「南無阿弥陀仏」と念仏申すことを大切にされた先生でした。

先生の遺言と受け止め、南無阿弥陀仏とともに生きてまいります

南無阿弥陀仏

2020年5月19日 (火)

いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

2020年5月、外出自粛が要請され、県をまたいでの移動は極力控えるようにアナウンスされるなか、ゴールデンウイークを迎えました。

そんな5月も、早くも下旬を迎えるころとなりました。

4月は、慣れない生活に一日一日の経過を遅く感じたような気がしましたが、この慣れない生活が習慣となってくると、一日一日の経過が早くなってきた気がするから不思議です。

真宗教団連合が発行している、月めくりの「法語カレンダー」があります。

その「法語カレンダー」の毎月の法語を受けて、真宗大谷派では独自に『随想集』を発行しています。

5月のことばは、九條武子さんの

いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に

です。5月の随想を書かせていただいていました。

真宗教団連合のHPに文章が載っていました。お読みいただければ幸甚です。

 

 

関東大震災の折、九條武子(くじょうたけこ)は、自身も被災者でありながら、負傷者や孤児の救援活動に当たられました。

 九條武子は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えに基づいた教育活動や救援活動に尽力された方です。その活動の最中(さなか)には、阿弥陀如来(あみだにょらい)や親鸞聖人への信順以上に、「どうして人間はこれほどまでに苦しまねばならないのでしょうか」という迷いや不審(ふ しん)が彼女の心を覆(おお)うこともあったことでしょう。

 そのことを思う時、親鸞聖人の姿が思い起こされます。親鸞聖人も念仏をよりどころとしながら、時には心揺らぐことがありました。越後から関東(茨城県)の地へ向かう道中、天災や飢饉(ききん)に苦しむ民衆の姿を目の当たりにしました。苦しむ人びとの救済のため、佐貫(さぬき)の地で「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」の千部読誦(どくじゅ)を思い立ちます。しかし、読誦を始めて四、五日経った時、自分のしていることに疑問をもちます。「阿弥陀如来にすべてをおまかせし、ただ念仏の教えを法然上人(ほうねんしょうにん)よりいただいたというのに、自分の思いはからいで念仏を称(とな)えていた……」。親鸞聖人は「浄土三部経」の読誦を中止し、その後関東へと向かわれました。

 「阿弥陀如来より大いなる慈悲(じひ)をいただいているのに、これ以上何を求めようというのか」。親鸞聖人は、阿弥陀如来を信じると誓いながらも疑義が生じた自身の心に迷いを感じました。九條武子も救援活動を続ける中で、親鸞聖人と同様の疑問や迷いを感じられたことでしょう。

 成長過程において「反抗期」と呼ばれる時期があります。けれど、「反抗」とは、親の目から見ての言葉です。子どもにしてみれば「反抗」ではなく「自己主張」であり、成長過程において欠かせない時期です。九條武子が「われ反抗す」と表現した自身の姿は、阿弥陀如来の眼(まなこ)には衆生(しゅじょう)の自己主張に見えたことでしょう。悩み苦しみの中にありながら「わたしはここにいます」と自己主張している衆生の声を聞き、阿弥陀如来は憐愍(れんみん)してくださっています。

 宗教の信仰・信心といえば、「私は、あなた(本尊や信仰対象)のことをこれほどまでに信じています」と、一般的にはその本気度や深化が求められます。けれど一方で、「私はあなたのことを信じています」と、自分を疑うことなく言えてしまうことの恐さもあります。

 真宗の信仰・信心は、大いなるみ手に反抗する自覚をとおして、阿弥陀如来と出遇(であ)えるということがあります。「反抗」の自覚は、「おろか」な私の自覚です。そして実は、大いなるみ手にいだかれてあることの自覚でもあるのです。

 東京の築地本願寺境内(けいだい)の「九條武子夫人歌碑」には、彼女の歌が彫(ほ)られています。

 おおいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや

 「自身で振り返る人生の足跡はおぼつかないものだけれど、他力(たりき)に導かれた生涯でした」。反抗をとおしてこそ紡(つむ)がれた言葉です。親鸞聖人の「恩徳讃(おんどくさん)」に感じられる懺悔(さんげ)と讃嘆(さんだん)の響(ひび)きがあります。

「九條武子さんのことばを受けての随想をお願いします」と執筆依頼を受け、築地本願寺にお参りに行ってきました。

本文にもありますが、築地本願寺の境内に九条武子さんの歌碑がありました。

南無阿弥陀仏  

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2020年5月10日 (日)

母なる大悲

曜日の感覚を、ゴミ出しの日で保っています (+_+)

2020年5月10日(日)

あ、今日は「母の日」なのですね。失念していました。

例年なら、アレンジ花を買ったり、母が欲しがっている本を買ったりしているのですが、現在(いま)は極力外出を控えています。

「う~ん、お花も買いに行けないなぁ・・・」

なんて思っていたら、娘が折り紙で作ったお花をママ(妻)に渡していました。

おぉ‼ 買ってすまそうとする根性がこびりついていました💧

気持ちのこもった手作りの品もいいですね♪

私も折り紙で花を作ろう(〃▽〃)ポッ (←多分、それは違うと思う)

母の日にちなみ、「母」という字について

以前書いた文章ですが…

 

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親鸞聖人は「母」という字を、上記のように書かれます(上記の字は、住職の筆です)。
「母」の字の中に「子」がいます。生命の源、母に対する敬いの気持ちでもあり、母が子にかける愛情を表わしてもいるのかもしれません。
しかし、聖人の書かれる「母」からいろいろ考えていると、敬意や愛情のみを表現されたのではないように感じてきました。
母の、子に対する愛情は計り知れません。しかし、愛情ばかりを注げられないのも、人間です。愛しているけれど、愛に徹底できない。愛したいのに、愛せない。愛しているゆえに、憎い。子もまた、母に敬いの気持ちだけを持つことはできない。敬ってはいるけれど、腹が立つ。大切なんだけど、鬱陶しい。人間の持つ愛情には、複雑な感情が入り混じっています。
このような気持ちになるということは、関係が近いということ、大切な人であるということの表われでもあるのですが。

聖人が、「母」の字をこのように書かれるのは、人間の想いを超えた、大いなるはたらきとの出遇いがあったからだと思います。
聖人が書く「母」は、「母」なるものを表わしているのと同時に、「子」なるものをも表現しています。母に包まれ守られながら生きている存在。それが「子」。
生きとし生けるもの すべてを「仏(ほとけ)の子」と表現することがあります。老少男女、たとえ国が違っても、たとえ信じる教えが違っても、生きとし生けるもの、みんな「仏の子」です。仏が子を想う慈しみのこころに、差別や区別はありません。
「母」の中の「子」…それは私。仏の子です。人間の哀しみを抱えながら生きる私を、慈悲のこころで包んでいます。私は、すでに仏の慈悲に包まれながら生きているのです。
聖人も、人間の持つ哀しさをなんとかできないかと思い悩んだことでしょう。しかし、それは無理なこと。関係が近ければ近いほど、人と人との出会いがあればこそ、愛情も憎しみも深くなるのですから。そのことに目覚めたとき、哀しみは哀しみとしての必然性があり、だからこそ自身を包み込む大いなるはたらき、「大悲」を感じられたのだと思います。

親鸞聖人は、
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
(私親鸞は、父母の供養のために念仏を申したことは、いまだかつて一度もありません)
『歎異抄』

と、言われました。
このセリフを受けて、「なぜ両親のために供養したことがないのですか?」とか「親鸞聖人は冷たい人ですね」などと言われることがあります。

私たちは、「亡き人のため」と言いながら、自分のための供養をしてはいないでしょうか。
親鸞聖人は、父母の縁によってある いのちを感じ、そのいのちは大いなるはたらきに包まれていることを感じ取られました。我が身を生かすはたらきを感じ、今、私にまでつながるいのちの流れを受け止められたのです。ですから、「父母の孝養のため」の念仏はしたことがないのです。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、「大悲」より私に与えられた いのち感覚の告白のことばです。
今も、昔も、これからも、「大悲」を受けながらこの身がある。その喜びを、聖人の「母」の字から感じました。
南無阿弥陀仏
 

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2020年4月28日 (火)

罪の自覚

目についた新聞記事を勝手にポストに入れていく「勝手便」だから、気が向いたら読んでください👋と、お手紙をくださる方がいます。いつもありがとうございます。

最近いただいたお手紙の中に、マハトマ・ガンジーの「7つの社会的罪(Seven Social Sins)」が書かれていました。

 ①理念なき政治 (Politics without Principle)

 ②労働なき富  (Wealth without Work)

 ③良心なき快楽 (Pleasure without Conscience)

 ④人格なき学識 (Knowledge without Character)

 ⑤道徳なき商業 (Commerce without Morality)

 ⑥人間性なき科学(Science without Humanity)

 ⑦献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)

(英語のつづりを間違っていたら、ごめんなさい。日本語訳は、見る資料によって多少の違いがあります)

ガンジーが連載を続けていた『Young India』(1925年10月22日付)に綴った言葉のようです。
(ガンジーの言葉はいろいろ見てきましたが、「7つの社会的罪」のことは知らなかったです。ガンジーの慰霊碑にも刻まれているそうです。教えていただき、ありがとうございます。)

100年ほど前の言葉ですが、今に通じる言葉です。もしかしたら、今を予言する言葉だったのかもしれません。

上記「7つの社会的罪」を読みながら、それぞれに連想した物事や顔があるのではないでしょうか。
政財界に置き換えて批判することは簡単です。
けれど、それはそれとして、自分に置き換えて読むことも大切だと思います。ガンジーも、そこを求めていたのではないでしょうか。コロナ禍収束の後、コロナ以前に戻り、また同じ生活を繰り返すのか。それとも、コロナ禍のなかで感じたこと、学んだこと、直したいなと思ったことを忘れずに生きるのか。
合わせる手の中に、どれだけの罪業があることだろう。その重さを忘れずに。

南無阿弥陀仏

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