折々のことば

2023年5月 8日 (月)

生きる

 生きる         可瑚真弓

この指の先から見えない力が染み出ている

字を書くとき
絵を描くとき
電話の数字をたどって押すとき
心が
細い透明なテグスのように
心の外へ力を染み出す

だから

字を書き
絵を描き
電話はつながり
わたしがここにいることを
わたしはもう一度知るのだし
わたしがここにいることが
そうしてだれかに伝わっていく

だから

あしただって生きていく
あさってだって生きてみる

見えない力が染み出る先に
しあさってがあり
またいく日もがあり
指の先から力に染まった
日めくりが
また新しい日を開いていくから

だからいっしょに
生きていってみようじゃないか
もう一つ日を訪ねてみないか

 📖 📖 📖

小学校、音読の宿題。
担任の先生が毎週違う文章を用意してくださっている。
「生きる」いい詩だなぁと思いながら、子どもの音読を聞く。

「心が/細い透明なテグスのように/心の外へ力を染み出す」
心が、心の外へ染み出て来る。
お寺の新聞やブログのタイトルを「ことば こころのはな」にしたのも、「こころが染み出してことばとなって表現されている。ことばは、その人のこころが表出したもの」といった想いがあったから。
子どもの音読もまた、「こころ」が「ことば」という音となって表われ出たもの。
やっぱり、もう一つ日を訪ねてみたくなる

2023年3月10日 (金)

自分が 今あるから

  野の花   高丸もと子

苦しいことを
経験したことがあれば
もうそれだけで強いと思う

それを乗り越えた
自分が
今あるから

小さいのは捨てて
大きいのをひとつだけ
大事にもっていたい

これから出会うかもしれない
つらいことが
ちっぽけなものに
見えてくるかもしれないから

一番深い根っこから
その新しいのを生やしていくと
いつかきっと自分を支える
大きさになっていくと思うから

ちょうど
野の花が踏まれる分
強い根っこを
伸ばしていくのに似て

わたしは
自分の中で
野の花をさかせてみたい

 

子どもが、音読して聞かせてくれた詩
人は、未来(「これから」)を見て生きているけれど、
人間は、今までがあって「自分が 今あるから」。

2023年2月23日 (木)

ラトビアの十得

ラトビア人にとっての大切なことをうかがったところ、教えてくれたのが十得だった。それを、私なりに解釈したものが、トイレの壁に貼ってあるのだ。
「常に、正しい行いをしましょう。隣の人と仲良くしましょう。自らの知識や能力を社会のために惜しみなく指し出しましょう。まじめに楽しく働きましょう。それぞれの役割を果たしましょう。向上心を忘れずに、自らを洗練させましょう。家族や隣人、故郷、自然などの衣食住のすべてに感謝しましょう。どんな状況におちいっても朗らかに明るく受けとめましょう。ケチケチせず、気前よくふるまいましょう。相手の立場に立って寄り添いながら生きていきましょう。」
ラトビアに伝わる教えでは、規制するのではなく、~~しましょう、と呼びかける。人間の、本来持って生まれた正しさというものを信じている点とても素敵だと思う。
〔『針と糸』小川 糸(毎日文庫)〕

 

昨日の投稿で、「公園の禁止看板」について書いた。
あれもダメ、これもダメ…どうやら日本人は、他者(ひと)に規制させるのが好きらしい。
小川糸さんのエッセイに、ラトビアの人びとに伝わる「ラトビアの十得」について書かれた文章がある。上記引用した文章を読むだけでも、やわらかさが伝わってくる。
「~~しましょう」の呼びかけが、すべてが良いわけではないし、危うい表現となる場合もあるけれど、ラトビアの人びとにおいては、自然や他者に対する敬意が根っこにあるから、この十得が当然のように身についているのだと感じる。日本でこのマネをしようとすると、「我慢しましょう」「~~するのはやめましょう」みたいな文言になりそうだ。表現を変えたところで、やはり抑圧的な姿勢が滲み出てしまう。他者を信じる、敬うということが苦手なのかもしれない。もっとも、昨今の広域強盗事件のニュースを見聞きしていれば身構えてしまうという気持ちもわかるけど。

2022年8月29日 (月)

物語

―今、野球人生を振り返ってどのように思っているか。
とにかく、僕は何か記録と向き合ってきたときによくこの話をするんですけど、とにかく小さいころから体が細かったこと、野球選手としては決して大きくなかったことが、僕の中で邪魔していたわけではなく、第三者が見たときに細すぎて無理だろうと、小学生の時も中学も高校もプロ行ったときもメジャーでも、ずっとそれとの戦いだったので、そのことをよく思い出します。小さい頃からのストーリーが僕の中にあるので。ただそういう声を結果で黙らせる快感を知っているので、その積み重ねが今ここにある僕だって、そういう感覚です
〔MLBマリナーズ球団殿堂入りを果たしたイチロー氏の会見(日本時間 2022年8月27日)より〕

2022年4月 7日 (木)

宝物

おひな、そなたが鍛錬し、培い、身につけたものはそなたのもの。一生の宝となるもの。されどその宝は、分かち与えるほどに輝きが増すものと心得よ。
伴 虚無蔵(松重 豊)
(NHK連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」2022年4月6日(水)放送より)

2022年3月15日 (火)

人に会い 人を知りなさい それは自分を知る旅だよ (再掲)

 

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人に会い
人を知りなさい
それは自分を知る旅だよ
   『ミステリと言う勿(なか)れ』

縁起の道理(えんぎのどうり)

お釈迦さまは、「縁起の道理」を説かれました。「この世のあらゆる物事は、縁によって生じ、縁によって滅す」と。

人も私も誰もが、縁によって生じ、縁によって人や事柄に出会い、縁によって阿弥陀の浄土へと還って往きます。

縁によってつながる私たちです。お互いに影響し合いながら生きています。人と自分とは、決して分断されているわけではありません。

「人に会い 人を知る」とは、個々の人柄や思想、生まれ育ってきた背景を知るということではなく、「人に会いながら生きている自分」であることを知ることだと思います。

「人に会いながら生きている自分」は、今までに無数の人に会い、育てられてきました。実際に会ったことがある人だけではありません。会わずに一生を終えるであろう人びとと共に生きています。私が口にする食べものを、私が身に着けている衣類を、作っている人がいます。自分を知るということは、多くの人との関係が結ばれながら生きている、そのことを知ることです。

「縁起の道理」を生きている私です。人を知ることは自分を知ることであり、自分を知ることは人を知ることです。

愚禿釋親鸞(ぐとく しゃく しんらん)

「自分を知る旅」という言葉から、親鸞聖人を想いました。

聖人は自らを「愚禿親鸞」あるいは「愚禿釋親鸞」と名告(なの)りました。
「愚」は「愚か」。
「禿」は「道を求める心もないのに、生きるため食べるために出家した形だけの僧侶」を意味します。
そのような「愚禿」の名告りには、どのような意味(想い)があるのでしょう。

聖人は、念仏の弾圧を受け、遠流に処されます(「承元の法難」)。僧籍をはく奪され、京の都から越後へと流されました。

流罪の地 越後へ渡る際、聖人を乗せた船の船頭に会います。板一枚下は地獄、つまり、日本海の荒波に呑み込まれればたちまちに命を失う仕事を生業(なりわい)としています。
越後の地は、京の都とは比べ物にならないほど寒く、土地は荒れ果て、過酷な自然の猛威にさらされた地でした。そのような地で、懸命に生きる人びととも出会いました。

船頭や越後の人びととの出会いを縁として「この人たちがいなければ、私はいない」という気づきがありました。

聖人は、人間は それぞれの思いはからいで生きるものではなく、縁によって生きるものであることを、遠流に処されることによって実際体験しました。

自身の懸命な修行によってさとりをえようと考えていた独善的な歩みが打ち砕かれ、人と共に生き、阿弥陀と共にある自分であったという気づき、懺悔と讃嘆(反省と感謝)の目覚めが、「愚禿釋親鸞」の名告りとなりました。

不安や混沌(こんとん)

ここ数年、自分の考えや思想のみをより所にし、自分の理解の許容範囲外の人びとを排除する行為が目に余るようになってきました。

悲しみの色合いが濃くなっているように感じます。

つながりを大切にする思いもあれば、少数者・弱者を排除する思いもあります。あたかもそれぞれの人がいるかのように考えてしまいますが、つながりを大切にする者と排除を思想する者、それぞれの人がいるわけではありません。あい反する両方の顔を、誰もが持ち合わせています。

平和を希求しながらも争いが生み出され、排除を思想する者どうしの絆が生まれる。「不安や混沌に覆われた世の中」などと、現代社会の様相をまるで外の景色のように語るけれど、その景色を描いているのは私自身でした。

私の外の景色の、悲しみの色合いが色濃くなってきたのではありません。

私(個)の想いを世界中に表現・拡散しやすくなった世の中にあって、個と個の想いが入り混じりやすくなりました。

その色は、決して心落ち着く穏やかな色ばかりではありません。

そうなるのは、元の個の心根の色が濁っているからではありません。

平和を求める心や、自分が是とする者が集まれば理想的な世界になると想像する心。

その心は、安心を求める心でしょう。

けれど、平和を希求して争いが起こり、理想的な世界を作ろうとして排除が起こる。

個の心根は、決して濁っているわけではない。けれど、個と個が出会って混ざり合えば、必然色は濃く濁ってゆく。

この濁りは、人類通じてのいのちの濁り。

濁りの中にいると、私自身が濁りを作っているということに気づきません。

その気付きを与えてくれるのが、仏教の視座、阿弥陀の眼差し。

阿弥陀の眼差しを、私自身の濁りを知るために、仏法聴聞するのです。

南無阿弥陀仏

 ☆

今日のことばは、田村由美さんが描くミステリー漫画『ミステリと言う勿れ』からの引用です。
主人公の久能整(くのう・ととのう)君は、他人に干渉されることが苦手な大学生。自分のペースで過ごしたいのに、事件に巻き込まれていきます。持ち前の記憶力や観察眼で、目の前で起きている物事の本質を見抜き、事件を解決していきます。
掲示したことばは、整君が大学の先生からかけられたことばです(7巻参照)。誰にでも通じる言葉であると感じました。

(追記)
昨晩、ドラマ「ミステリと言う勿れ」を見ていたら、このセリフが出てきました。
ドラマを見ながら、あらためて「そうだなぁ」と思い、再掲してみました。

2022年2月 7日 (月)

転換

真宗大谷派、ご本山 東本願寺発行の「同朋新聞」。20222月号内の連載「聞 今月の法話」廣瀬俊住職(大阪教区第17組 法觀寺)の文章より

亡き人に 迷うなと
拝まれている この私

これは自坊の掲示板に書いた言葉です。(中略)前を通られたご門徒から「あれって逆じゃないですか」と疑問の声もチラホラ(住職が書き間違えてるんやでぇというデマまでも)。亡き人が幽霊や亡霊となって私に災いを及ぼすんじゃないか、そうならないように「どうぞ、迷わないでください」と手を合わせている、そんな私たちの心では逆さまに見えるかもしれません。しかし、お念仏の教えの中においては逆さまではないのです。そして亡き人は幽霊でも亡霊でもありませんし、拝まれているのは私たちの方なのです。

世間一般的な考え方としては、「亡き人に 迷うなと 拝んでいる この私」「この私から 迷うなと 拝まれている 亡き人」といった具合に、「私は拝む人、亡き人は拝まれる人」といった図式なのかもしれない。

「どうぞ、迷わないでください」と、亡き人を迷いの主のように考える人にとっては、「私は拝む人、亡き人は拝まれる人」の関係しか見えないことでしょう。

お念仏の教えをいただくと、私自身が迷いの存在であることが知らされる。親鸞聖人自身も、我が身を迷いの存在として受け止められた。しかしそれは、南無阿弥陀仏の慈悲の光明に照らし出されることによって知らされるのである。自分自身が逆さまであったという転換があったのです。

  🐣

「あれって逆じゃないですか」の言葉で思い出したこと。
昨年末、三重教区の片山寛隆住職のお話しを聴聞した際、掲示板の言葉のお話しをされていた。 


善人は暗い
悪人は明るい

という言葉を掲示したら、近所の小学校の先生から、「住職、掲示板の言葉が間違ってましたよ。逆ですよ」と電話があったという。住職、慌てて掲示板を見にいったけれど、言葉は間違ってない。電話口に戻り、「言葉は間違ってませんよ。あれでいいんです」と応えると、「小学校の子どもたちが見たら混乱するから、言葉を変えてほしい」と言われたとのこと。

先生は、というか世間一般の考え方からすると、「善人は明るい 悪人は暗い」ということなのかもしれない。
「悪いことをした人は、後ろめたさから暗くなる。善い行いをしている人は、表情も明るくなる。」といった想いだろうか。

縁に結ばれ、縁に生きている私たちは、何をしでかすかわからぬ存在、思うがままに生きられぬ存在です。ということは、自分でも意識していないうちに他者(ひと)を傷つけることもあるし、良かれと思ってしたことが他者に迷惑をかけていることもある。そういう我が身であるという自覚ある者を、親鸞聖人は「悪人」と告白し、自覚なきものを「善人」と言われた。そのことはつまり、教えをいただいている、阿弥陀の慈悲に照らされている自覚の話。悪人の自覚あるものは、暗くなりそうでいて、阿弥陀の慈悲に照らされてある身であるという自覚(喜び)がある。それゆえに明るい。教えに出会うことなく、「私は善い行いをしている」つもりになって喜んでいる「善人」は、自分自身が見えていない。そういう意味において「暗い」(暗いと、なにも見えない)。

そういう教えが、掲示された「善人は暗い 悪人は明るい」に込められています(と思います)。
当然、片山住職は言葉を変えませんでした。

 🐣 

「逆ですよ」というエピソードは、うち(西蓮寺)にもあります。


人間の愚かさは、何に対しても答えを持っているということです
  ミラン・クンデラ

20176月に掲示したことばですが、掲示板を見た方から、「あれ、逆じゃないですか? 答えを持っていないから愚かなんでしょ」と言われました。おそらく、同様に思われた方も多々いらっしゃったことでしょう。

「物事をよく知っているのが賢くて、何もしらないのが愚か」というのが、世間一般での人間観・価値観かもしれません。けれど、知ったつもり賢いつもりになって周りの声を聞かなかったり、自分が一番正しいんだと主張したり、他者を見下したり…。それは果たして賢い者のする態度でしょうか。知ったつもり賢いつもりになって、つまり自分なりの答えで理論武装することによって、周りも、自分自身も見えなくなっている。そのこと自体に気づいていない。たとえどんなに知恵を身につけても、その知恵を自身の答えとして持ってしまうと、あらゆるものを失い、見失い、やがて孤独になっていきます。

賢い人は、自分の愚かさを知っている。どれほど知恵を蓄えても、知っていることはほんのこれっぽっち。知らないことが多い、つまり何も知っていないということを知っている。

「逆さですよ」のご指摘は、住職(寺の者)を気遣ってのこと。それはそれでありがたいことです。
けれど、「この言葉、逆じゃない?」と思えたならば、立ち止まって考えてみてください。「あぁ、言葉が逆さなんじゃなくて、私の思いが逆だった(教えによって、私の思いがひっくり返された)」という気づきを与えるのが、教えの言葉です。そういう意味では、至極当然の言葉や世間に迎合する言葉を掲示しても、それは意味のないことで。なんらかの気づきが与えられる。自分自身が見えてくる。それが教えなのです。
南無阿弥陀仏の照らしをいただいているということです。

2022年1月27日 (木)

タスクフォーカス

“タスクフォーカス”
試合の最終的な結果や審判のジャッジ 対戦相手の行動 それらは自分がコントロールできないもの
自分がコントロールできるのは 自分の思考と行動だけ
〔※参考資料『バレーボールメンタル強化メソッド』渡辺英児著(実業之日本社)〕

『ハイキュー』38巻 古館春一(集英社)より

実際は、自分の思考と行動をコントロールすることすら、自分でコントロールできない。けれど、自分ができること、自分がすべきことを考えながら生きることに努めることは、できるんじゃないか。というか、そういう意識を持とうとするコントロールはできると想っていてもいいんじゃないか(かえってややこしくしているw)
『ハイキュー』いいなぁ👍

他人と過去は変えられないが、
自分と未来は変えられる。
   エリック・バーン

2022年1月22日 (土)

あきない君に おもいが積もる

伊〇園のお茶を買うと、「新俳句大賞」の受賞作が書かれています(只今、第33回の作品募集中のようです)。
昨晩寝る前、この時間にコーヒーでもないし、ビールを呑みたい気分でもないし…なんて悩み、ほうじ茶を飲もうかなと思いました。子どもたちに「ほうじ茶飲む?」と聞くと、「飲む~!!」という返事だったので、ティーバッグの袋をふたつ取り出して急須に入れてお湯を注ぎました。お茶が出てくるのを待っている間、袋に書かれている新俳句を読んでいました。

 花よりも 花を見ている 君が好き
  (第18回 ユニーク賞 当時16歳の方の作品)

あぁ、なんか初々しいなぁ、花を見ている君が美しいって、そんな時代(とき)が確かあったよなぁ…なんて思いながら、もうひとつの袋を見ると、

 いじわるな 夏の大雨 君のよう
  (第25回 中学生の部 優秀賞 当時15歳の方の作品)

そうだね、そうだよね、そんなだよね! 予測不可能だよね! なんて強く共感。おそらく突発的に怒られた(きれられた)んだろうなぁ。

過去に何千もの作品があったなかで、このふたつに この順番でお目にかかるなんて😄
お茶をいただく前に、楽しい時間をいただきました(--
お茶も美味しくいただきました🍵

2022年1月19日 (水)

嬉シ 悲シノ 六字カナ

「六字」の名号を称えることは、身に余る悦び(よろこび)のはずである。何故なら、この易行の道で、凡夫を救済しようとする仏の慈悲行の現れだからである。それにあずかることより、凡夫にとっての悦びはないはずである。だが嬉しさだけが想いなら、未だ(まだ)六字を称えてはいないともいえる。六字を称えるにつれても、我身の涜れ(けがれ)を、ゆめ忘れてはなるまい。切な悲しさが、嬉しさの奥にあってこそ、本当の悦びに代ろう。六字を称えることは、嬉しさと悲しさとの結ばれでなければならない。悲しみからこそ、六字の嬉しさが湧き出てくるのである。信徒は六字を称える身の有難さを喜ぶべきであるが、同時に悲しさの身であることを、六字につれて切に想うべきである。
〔『南無阿弥陀仏』心偈(こころうた)12 柳宗悦(岩波文庫)〕

六字の名号とは「南無阿弥陀仏」。
悦びは、悦びだけでは成り立たない。
悲しみが奥底に流れているからこそ、本当の悦びとなる。
悲しみもまた、悲しみだけでは成り立たない。
人の世の悦びには、悲しみも同時にある。
我身の涜れ(凡夫の自覚)ある所に、自然に「南無阿弥陀仏」が、凡夫の口から出てくる。
「南無阿弥陀仏」には、悦びと悲しみがこもっている。
南無阿弥陀仏

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