特定の誰かに対して「かわいそうだから」という見方は、慈悲とは言わない。
「東京新聞」〔2020年7月31日(金)〕 「本音のコラム」より
慈悲という名の殺人 北丸雄二(ジャーナリスト)
京都のALS患者嘱託殺人は「切腹の苦しみを救う介錯(かいしゃく)の美徳」だと元都知事がツイートしました。ALSを「豪病(ごうびょう)」と呼ぶなど、ナチスの「慈悲死(Gnadentod)」と通じる短絡でしょう。
慈悲死政策は心身障害のある少年の父親がヒトラーに息子の殺害を訴えたことで始まります。それはやがて狂気のホロコーストにまで発展する。六百万ユダヤ人の殺戮(さつりく)のリハーサルとして、まず「不治の病者」たちの大量殺害があったのです。
「かわいそうだから殺してやる」対象は、精神病や遺伝病者からやがて「生産性のない」労働不適格者、路上生活者、同性愛者らに拡大します。処分場と呼ばれた毒ガス施設で処分された人は終戦までに二十万人を超え、次に不要・不浄な人種や思想の抹殺にまで進みますー人間の愚かさとはそういうものです。
元都知事のみならず、今回の嘱託殺人が「なぜ悪いのかわからない」とする声があります。反ナチス運動家のドイツの牧師の言葉が残っています。
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった/私は共産主義者ではなかったから」で始まる詩は、様々な人々が排除された時に自分は彼らとは違うからとタカを括(くく)っていたことを悔やみます。なぜなら「彼らが私を攻撃したとき/私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」からでした。
ALS患者の嘱託殺人事件の後、上記の元都知事の発言があった。ここに書くこともためらわれる内容だったが、彼の差別的思想・優生的思想を背景とした発言は、今までも度々なされてきた。今更驚きもしないが、そのような思想の持ち主が4期にわたり東京都知事を勤めた(4期目は途中で都知事を辞し、国政に向かう)、つまり、選挙に当選してきたことが、今もって驚かされる。
病を持つ当人にしかわからない苦痛は、たしかにある。けれど、そこで当人以外の人が、「耐え難い苦しみを感じているのだから、本人が死を望むならそれに応えるべきだ」と言うのは、それは理解者でも優しさでもないと思う。
医療・医学・介護の現場の進歩により、いろいろな選択肢があると思う。法整備が進めば、本来はそのような呼び名がありもしない、安楽死・尊厳死ということも、世間の常識になる日が来るのかもしれない。
そのような日(じだい)とは、どのような人間関係が築かれる世の中なのだろう。
北丸雄二さんのコラムにあるように、ひとりの少年への慈悲死政策が、やがてユダヤ人の殺戮へとつながってゆきます。
ひとつ 事がなされると、次々に事が進むことがあります。
事柄によっては良いこともありますが、事柄によっては殺戮へとつながる恐怖もあります。
ある一人の人(あるいは少数の人)がクローズアップされて、安楽死・尊厳死を!という議論が起きて、議論を尽くして、結果、事がなされた後、
果たして同様に議論が尽くされるだろうか。徐々に世間の関心が薄れていき、誰も知ることなく、慈悲の名のもとに、安楽死・尊厳死がなされていくのではないでしょうか。
脳死判定についても、あれだけ注目されて報道でも取り上げられていたのに、最近はあまり耳にしません。
自分に関係ない話の時は、結局のところ、安楽死・尊厳死や脳死移植に賛同しようが否定しようが、他人事になってしまいます。
けれど、自分に関係ある話になったときには、時すでに遅し、なのかもしれません。
当事者とそうでない者との間の壁自体は、取り払うことができません。
けれど、「自分には関係ないこと」「(病を抱えて)大変な人もいるんだね」というところで立ち止まるのではなく、思いを馳せる、考える、感じる、何かを感じたなら言葉に出す、誰かと話し合う・・・そういう経過・経緯・経験は大切なことだと思います。
ドイツの牧師の詩の一節が紹介されています。
自分が当事者となって声をあげたとき、助けてくれる人も賛同者もいないということはあり得る話です。
けれど、助けてくれる人や賛同者の確保のために、普段から声をあげるわけではありません。
それでは、自分さえよければいい、ということです。
誰もが病を抱えるし、マイノリティ(少数者)に位置することもある。
人間を見つめると、
こういう人がいて、他にああいう人がいて・・・と、いくつかに分類できるわけではなく、
こういうふうにもなるし、ああいうふうにもなる。
それは、誰もがみんな一緒。
そういうことが、見えてくる。
誰もが皆当事者。
そこから、あらためて考えてみたい。
南無阿弥陀仏