人間はおるか

2020年8月 2日 (日)

特定の誰かに対して「かわいそうだから」という見方は、慈悲とは言わない。

「東京新聞」〔2020年7月31日(金)〕 「本音のコラム」より

慈悲という名の殺人 北丸雄二(ジャーナリスト)

 京都のALS患者嘱託殺人は「切腹の苦しみを救う介錯(かいしゃく)の美徳」だと元都知事がツイートしました。ALSを「豪病(ごうびょう)」と呼ぶなど、ナチスの「慈悲死(Gnadentod)」と通じる短絡でしょう。
 慈悲死政策は心身障害のある少年の父親がヒトラーに息子の殺害を訴えたことで始まります。それはやがて狂気のホロコーストにまで発展する。六百万ユダヤ人の殺戮(さつりく)のリハーサルとして、まず「不治の病者」たちの大量殺害があったのです。
 「かわいそうだから殺してやる」対象は、精神病や遺伝病者からやがて「生産性のない」労働不適格者、路上生活者、同性愛者らに拡大します。処分場と呼ばれた毒ガス施設で処分された人は終戦までに二十万人を超え、次に不要・不浄な人種や思想の抹殺にまで進みますー人間の愚かさとはそういうものです。
 元都知事のみならず、今回の嘱託殺人が「なぜ悪いのかわからない」とする声があります。反ナチス運動家のドイツの牧師の言葉が残っています。
 「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった/私は共産主義者ではなかったから」で始まる詩は、様々な人々が排除された時に自分は彼らとは違うからとタカを括(くく)っていたことを悔やみます。なぜなら「彼らが私を攻撃したとき/私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」からでした。

ALS患者の嘱託殺人事件の後、上記の元都知事の発言があった。ここに書くこともためらわれる内容だったが、彼の差別的思想・優生的思想を背景とした発言は、今までも度々なされてきた。今更驚きもしないが、そのような思想の持ち主が4期にわたり東京都知事を勤めた(4期目は途中で都知事を辞し、国政に向かう)、つまり、選挙に当選してきたことが、今もって驚かされる。

病を持つ当人にしかわからない苦痛は、たしかにある。けれど、そこで当人以外の人が、「耐え難い苦しみを感じているのだから、本人が死を望むならそれに応えるべきだ」と言うのは、それは理解者でも優しさでもないと思う。

医療・医学・介護の現場の進歩により、いろいろな選択肢があると思う。法整備が進めば、本来はそのような呼び名がありもしない、安楽死・尊厳死ということも、世間の常識になる日が来るのかもしれない。

そのような日(じだい)とは、どのような人間関係が築かれる世の中なのだろう。

北丸雄二さんのコラムにあるように、ひとりの少年への慈悲死政策が、やがてユダヤ人の殺戮へとつながってゆきます。

ひとつ 事がなされると、次々に事が進むことがあります。

事柄によっては良いこともありますが、事柄によっては殺戮へとつながる恐怖もあります。

ある一人の人(あるいは少数の人)がクローズアップされて、安楽死・尊厳死を!という議論が起きて、議論を尽くして、結果、事がなされた後、

果たして同様に議論が尽くされるだろうか。徐々に世間の関心が薄れていき、誰も知ることなく、慈悲の名のもとに、安楽死・尊厳死がなされていくのではないでしょうか。

脳死判定についても、あれだけ注目されて報道でも取り上げられていたのに、最近はあまり耳にしません。

自分に関係ない話の時は、結局のところ、安楽死・尊厳死や脳死移植に賛同しようが否定しようが、他人事になってしまいます。

けれど、自分に関係ある話になったときには、時すでに遅し、なのかもしれません。

当事者とそうでない者との間の壁自体は、取り払うことができません。

けれど、「自分には関係ないこと」「(病を抱えて)大変な人もいるんだね」というところで立ち止まるのではなく、思いを馳せる、考える、感じる、何かを感じたなら言葉に出す、誰かと話し合う・・・そういう経過・経緯・経験は大切なことだと思います。

ドイツの牧師の詩の一節が紹介されています。

自分が当事者となって声をあげたとき、助けてくれる人も賛同者もいないということはあり得る話です。

けれど、助けてくれる人や賛同者の確保のために、普段から声をあげるわけではありません。

それでは、自分さえよければいい、ということです。

誰もが病を抱えるし、マイノリティ(少数者)に位置することもある。

人間を見つめると、

こういう人がいて、他にああいう人がいて・・・と、いくつかに分類できるわけではなく、

こういうふうにもなるし、ああいうふうにもなる。

それは、誰もがみんな一緒。

そういうことが、見えてくる。

誰もが皆当事者。

そこから、あらためて考えてみたい。

南無阿弥陀仏

2020年7月31日 (金)

絶望の淵に立たされたとき、ふと思い起こされる言葉がある。言葉は、人と人とのつながりのなかから生まれる。

『人と生まれて』宮城顗(みやぎ・しずか) 同朋選書㉜(東本願寺出版 2005年4月1日 第1刷発行)

 新潟の方でいつも研修会などでご一緒した方がおいでになりまして、数年前にその方から急にお電話がかかってきました。今までお電話をいただいたということはなかったのですけれども、何事だろうかと思っていましたら、「実は今日お医者さんから私の病気は面倒な病気だと宣告を受けました」ということなのです。
 「どういうご病気ですか」と聞きましたら、「筋萎縮性側索硬化症」という、全身の筋肉が力を失っていく病気であるとのことでした。
 「そのうち電話もかけたくてもかけられなくなりますので、今のうちにお別れのご挨拶をさせていただきたいと思って電話をしました。お医者さんからその病名を聞かされたときには、本当に絶望の淵にたたき込まれました。だけどその絶望の淵にたたき込まれた後、ふと普段全く思いもしなかった和讃の言葉が心に浮かんできました。そしてその和讃の言葉が何か私を支えてくれました。そのとき、私には帰るところがあったという思いが強くしたのです。やはり普段から読ませていただくべきものなのですね」とおっしゃっていました。
 その方にとって和讃を自分が覚えているとも心に刻んでいるとも思っておられなかったのです。そんな言葉よりも自分が一生懸命自分の才覚で身につけた言葉を頼りに生きていた。しかしそういう絶望の淵にたたき込まれたときに、一生懸命自分の才覚で身につけたことが全部消えて役に立たない。しかし思いもかけないことに自分を捉(とら)えていた言葉が私の心を動かしてくれたのですということをおっしゃいました。

 今日、言葉の響きというものに対するこまやかな心を私どもが失い、さらにはともにお互いの存在をキャッチボールし合うという心を失い、ましてや長い歴史を通して、多くの人々の歩みの全体が、実はこの私に呼びかけられていたものとしてうなずくことなど、非常に遠いことになってしまっています。それは結局人間がみんなばらばらな孤独な存在になっていく大きな原因になるのではないでしょうか。

 ☆

7月22日「自殺報道ガイドライン」のタイトルで投稿してから、私のなかで続き物としての文章を綴っています。

このコロナ禍、誰もが病気になる身を生きているにもかかわらず、新型コロナウイルスに感染した人に対する、感染していない者からのバッシングが狂気を帯びていることに違和感や恐怖をいだいたことから始まっています。

そんななか、自死された方への興味本位な報道がありました。

覚醒剤取締法違反の罪を犯した人への愛想を尽かしたかのような文言が目につきました。覚せい剤であれ、お酒であれ、タバコであれ、ギャンブルであれ、依存するこころというものは誰のなかにもあります(私がこうやって文章書いて気持ちを整理しているのも、依存と言えるかもしれません)。「あの人またやってるの。懲りないねぇ」と、言うは易いですが、何かに依存してしまうということは、今抱えている何かを発散しようとしている、あるいは助けを求める術を依存という形でしか見いだせなかったということの表われです。依存している人を責めるだけで終わる話ではありません。

人と人とが支え合わねばならない時代(とき)に、人が他者(ひと)を貶(おとし)めたり、罵(ののし)ったり、認めなかったりする。

その空気感が強まっているなかで、ALS患者の女性への嘱託殺人が行われたことのショック。

しかも、嘱託殺人を犯したふたりの医師に対する擁護や、「医師がしたことの何が悪いのか分からない」という声も耳にする。

2016年7月に、植松聖死刑囚が「津久井やまゆり園」で起こした事件も、「植松被告の言うこと(犯罪理由)は理解できる」という声が巷にあふれた。

私たちが今生きている場の雰囲気が、とんでもないことになっている。そういうことを感じる。

不思議なもので、そういうことを気にしていると、関連する言葉が絡みついてくる。

何年も前に読んだ本を、本のタイトルが気になってたまたま手にした(ということは、中身はほとんど忘れているわけで・・・)。

すると、上記の文章に出遇いました。

ALSの宣告を受けた聞法者が、恐らく必死な思いで宮城先生に電話をかけたことと思います。

そして、「助けてください」と懇願するのではなく、「今まで聴聞してきたけれど、自分がここが大切だとメモしてきたことは、こんな大変なときには役にたたず、でも、今まで気にも留めていなかった親鸞聖人のご和讃が脳裏に蘇ってきました」というようなことを告白されたのではないかと、察します。

困難にぶち当たったとき、思い起こす言葉は、普段座右の銘にしている言葉ではありません(そういう人もいるとは思いますが)。

ふと思い起こす本の一節、昔読んだマンガの台詞、今は聞かなくなった歌のフレーズ、疎遠になっている友人からかつて言われた一言、どこで目に触れたかも思い出せないポスターの文言・・・

絶望の淵で思い起こされるのは、そんな一言だったりする。

そんな一言に、フラフラになった私は、支えられ、生きてきた、生きている。

岩崎航さんの言葉 「生きることと、詩は一体のものです。」を紹介しましたが、

岩崎航さんにとって、自分が紡ぐ詩もまた、自分を生かす一言なのだと思います。

詩が生まれて来る背景には、多くの縁(つながり)が内在します。

言葉には、無量の人々の人生が詰まっています。

聞いた瞬間(とき)、目にした瞬間(とき)は、何も感動しなくても、意味が分からなくても、ほんと、何事かあったとき、ふと思い出して、涙が溢れてくる言葉があります。

言葉を大切に、

言葉が生み出されてくる人と人との関係を大事に生きましょう。

南無阿弥陀仏

2020年7月30日 (木)

他者に向けた刃は、自分にも突き刺さっている。

昨日、岩崎航さんへのインタビューが掲載されている「BuzzFeed」の記事をご紹介しました。

他にも、雨宮処凛さんへの記事も掲載されています。

相模原事件後も止まらない「命の選別」 医療の世界の「自己決定」と「自己責任論」

 ☆

障害を持った方、高齢者、今だと新型コロナウイルス感染者に対する差別意識が蔓延している世の中。

誰もが病気をし、誰もが年を重ねていくことは分かっているのに、なぜ差別が生じるのか。

差別意識の背景には、知ろうとしない無知、刷り込まれた誤解、自分を優位に立たせたい意識などがある。

けれど、たとえ無知であっても、たとえ誤解から間違った知恵を刷り込まれたにしても、優位に立ちたい意識があろうとも、それは他者(ひと)を責める理由にはならない。

自分の思想として、何を思い、何を考えようとも、そのことを他者が遮ることはできない。

けれどそれらが、他者に向けて表出したならば、そのことに対してはおかしいことだ、間違ったことだと言い続けなければいけない。

たとえ、差別の止む日が訪れなくとも。

他者に向けた刃は、やがて自分にも返ってくる。

やがてではないな、

他者に向けた刃は、そのまま自分にも突き刺さっている。

痛みを感じることを嫌い、他者を傷つけている。自分自身のいのちの尊厳を傷つけていることに気づかずに。

2020年7月29日 (水)

私にとって「生きることと、○○は一体のものです。」と言えること(もの)は何か。そういうものを持っているか。

青春時代と呼ぶには

あまりに

重すぎるけれど

漆黒とは

光を映す色のことだと

岩崎航(わたる)さんの五行詩です。

岩崎航さんは、3歳で筋ジストロフィーを発症しました。

1976年生まれなので、今年で44歳。

人工呼吸器を使い、介助を必要としています。

少しずつ筋力が衰え、介助が必要となる体で、「自分にできることは何か」と考えるなかで、短い詩なら書けるのではないかと思い、詩を紡ぎ始め、五行詩に辿り着きました。

岩崎航さんは言います。「生きることと、詩は一体のものです。

文頭で紹介した五行詩は、私が初めて岩崎航さんの詩に出会ったときの詩です。

漆黒という、自分の立ち位置すら分からなくなる暗闇を、自分を閉じ込めるものではなく、光を映すものであると表現できる気づき。

病気のことを知る前に詩に出会ったので、この詩を生み出した人の背景にはなにがあるんだろう、何を背負っているんだろう…と想いました。

詩を書かれた方を調べ、岩崎航さんという方であることを知り、病気と共に生きていることを知り、出版されている本を買い、何度も読みました。

『点滴ポール 生き抜くという旗印』(2013年7月3日 ナナロク社より発行)より

あれからさらに二十年の歳月が経ち、僕は今、三十七歳になった。

病状は、一層進んだ。

あまりにも多くのことを失った。

思うことはたくさんある。

僕は立って歩きたい。

風を切って走りたい。

箸で、自分で口からご飯を食べたい。

呼吸器なしで、思いきり心地よく息を吸いたい。

 

でも、それができていた子どもの頃に戻りたいとは思わない。多く失ったこともあるけれど、今のほうが断然いい。

大人になった今、悩みは増えたし深くもなった。生きることが辛いときも多い。

でも「今」を人間らしく生きている自分が好きだ。

絶望のなかで見いだした希望、苦悶の先につかみ取った「今」が、自分にとって一番の時だ。そう心から思えていることは、幸福だと感じている。

岩崎航さんは、「生きているんだ!」と想いました。

ふたりの医師によるALS患者の女性への嘱託殺人のニュースを聞いたとき、岩崎航さんの顔が思い浮かんだ。

彼は、何を語るだろう・・・

などと思っていたら、BuzzFeedというサイトに、岩崎航さんへのインタビューが掲載されていました。

時間をかけて、しっかりと語ってくださっています。お読みください。

☆リンク

「BuzzFeed」命を選別する言葉にどう抗うか 詩人の岩崎航さん「私たちには今、人を生かす言葉が必要」

〇岩崎航さんの本 『点滴ポール 生き抜くという旗印』 『日付の大きいカレンダー』

2020年7月28日 (火)

自分の生きにくさを、他者に重ね合わせてはいけない

ALS患者の女性に薬物を投与して死なせたとして、嘱託殺人の疑いで医師2人が京都府警に逮捕された。

この事件を機に、安楽死・尊厳死に関する法整備の動きも出てきている。

しかし、安楽死・尊厳死の法整備に関する議論は、現代の医療体制・医学の進歩のなか、常日頃議論されてしかるべき事柄(賛成・反対、両方の意見もあってしかるべき)。

けれど、それをしてこなかった。

にもかかわらず、これほどの事件が起きると、法整備の話が出始める。

つまり、法整備する側に、その程度の思いしかないということ。

そういう人たちが法整備といっても、個人的思想に突っ走るか(逮捕された医師のように)、大衆迎合的に「ALS患者がかわいそうだ」という感情に流されてのことのように映ります。

本来、安楽死・尊厳死なるものは、“ない”はずのものです(と考えます)。

けれど、安楽死・尊厳死を選択肢から外して考えることのできない状況におかれている方もいます。

だからこそ尚更、個人的思想に反することも考え(ということは、身の痛みを感じるほどに悩むということ)、「かわいそう」という自分の感情に流されるのではなく(患者さん本人の想いに寄り添うということ。それは、私の感情とは相容れないこともあることでしょう)、そういうためらいや葛藤、あらたな気づきを身をもって感じることから始まります。始まりです、終わり(解決)ではありません。

そういう意味で、自分たちの理想とする「枯らす」思想のために、嘱託殺人を犯したふたりの医師は、そういうためらいや葛藤、殺してしまった彼女から何かを気づかされることなどなかったことでしょう。

なにか気づきを得たならば、安楽死・尊厳死ということに対して、またあらたなためらいや葛藤も芽生えたはずです。

たまたまふたりの職業が医師だったから、安楽死・尊厳死の話に繋がっていますが、ALS患者の方が殺された事件は殺人事件です。

そのことは忘れてはいけないことです。

先日紹介した安藤泰至先生のコメントが「毎日新聞」に出ていました。

ぜひお読みください。

☆リンク

〇「毎日新聞」ALS嘱託殺人 「安楽死」議論と結びつけるべきではない 安藤泰至(鳥取大医学部准教授)

2020年7月27日 (月)

「させていただきます」考

昨日の投稿で、安藤泰至先生の文章を引用させていただきました

その引用のなかに、

「ある生命倫理研究者が大学の講義で、「生かされている」という言葉の意味を尋ねたところ、ほぼ全員が「(生きたくないのに)無理矢理生かされている」と書いたという話を聞いたことがある。

という一文がありました。

ほぼ全員の無理矢理生かされている感もショックでしたが、今日触れたいのは「生かされている」という表現について。

そもそも、「生かされている」という表現をしないでしょうか、現代人は。

このブログでは、今まで「さまざまな縁が織りなすなかで、私が私となっています」ということを、いろいろな表現で書いてきました。

つまり、私は生きているのではなく「生かされている」ということです。

浄土真宗の僧侶や門徒は、「生かされている」という言い方をよくします。本当にそう思っているから(と、思う)。

「縁により」「阿弥陀如来により」というのが親鸞聖人の教えの根本だと思います。

そのような「よる」力(はたらき)を、浄土真宗では「他力」と言います。

こんにち一般的に使われる「他人の力を借りる」「他人の力をあてにする」というような意味ではありません。

すべての生きとし生けるものが、阿弥陀如来の慈悲のはたらきを受けながら生きている(つまり、生かされている)。

そのことを「他力」と言います。

そのためか、浄土真宗の僧侶や門徒は「〇〇させていただきます」という言い方を、気取るわけではなく、します。

ですから、私(白山)的には、「〇〇させていただきます」に何の違和感もないのですが、次の文章に出会い、気にかかっている方もいるんだなぁということにも気づかされました。

 ☆

『暮らしの手帳』 2020年初夏号(2020年6‐7月号)

137頁 随筆 「させていただきます」 小澤俊夫(昔ばなし研究者)

 近頃、人々の発する日本語のなかで、「させていただきます」という語尾が非常に多いことが気にかかっている。「述べさせていただきます」「これから会を開かせていただきます」など。
 ある日、電車が動きだすとき、「ドアーを閉めさせていただきます」というアナウンスが流れた。ぼくは仰天した。「発車のとき、ドアーを閉めるのは車掌の仕事ではないか。閉めさせていただきますと言って、もしお客が駄目だと言ったらどうするのだ」と思った。アナウンスは、「ドアーが閉まります」とか、「ドアーを閉めます」と言わなければならないはずだ。「させていただきます」と言って、誰に許可、又は了解を求めているのだろう。電車を運行する方の主体的意思はどこに行ってしまったのか。
 ある日、予算委員会のテレビ中継を見ていたら、野党の質問に対して大臣が、「この点について述べさせていただきます」と言った。大臣は責任上、説明をしなければいけないのであって「させていただきます」ではないはずだ。これは、言葉の丁寧さとは質が違う問題である。
 「させていただきます」と言うとき、人は自分を取り巻く、目に見えない世間を意識しているのではないか。全体の空気というか、全体の雰囲気から離れないように気を使っているのではないか。
 そう考えるから、ぼくはこの言い方がとても気になる。全体の雰囲気が大事で、自分はなるべく目立たないようにする。こういう生き方が世の中に蔓延したら、国の権力者は国民全体を、自分の都合のいい方へ簡単に引っ張っていける。日中戦争・太平洋戦争を開始する前、政府は国民全体が各自の主体的判断を捨てて全体の雰囲気に身を任せるように引っ張っていった。中国は怪しからん、英米はけしからん。そうだ、そうだ。そこではもう、個人の考えはなくなり、全体を支配する考えだけが通用した。
 (後略)

 ☆

なるほど、そういう受け止め方もあるんだなぁと思いました。

確かに、注意して聞いていると、世の中「させていただきます」という言い方が増えているかもしれません。

無意識の自己防衛・自己弁護・責任逃避から。「一応、了解(確認)はとらせていたきましたので・・・」と。

「そこまで委縮しなくていいのに」という思いと、「そこまで委縮させてしまう空気が世の中には溢れているもんねぇ」という思いが湧きました。

でも、それは、他力という感覚の欠如のなせるわざでもあります。

自分の選びで行動を起こしている、自分の責任でもって物事をなしている、自分の意志で生きている・・・そういう感覚は誰しもが持っています。否定するわけではありません。けれど、その感覚に溺れていると、周りの人の理解や協力であったり、周りの人が自分の仕事を後回しにして手伝ってくれていることに無自覚になったり、周りの人が知らないうちに尻拭いしてくれていたり、そういう事実に無自覚で生きることになります。気づいたときにはひとりぼっちです(でも、阿弥陀さまは一緒にいますが)。

自分が意識できる周りの人びとだけでなく、自分では認識できない多くの人びと・物事・事柄と共に縁によって結ばれているわたし。

「させていただきます」表現は、他力感覚(他力の感得)であり、わたしとあなたとあみだと共に生きている自覚でもあります。

つまり、「全体の雰囲気が大事で、自分はなるべく目立たないようにする」つもりはなく、思いっきりの自己表現なのです。「させていただきます」」は。

べつに、小澤俊夫さんの随筆を否定するために語っているのではありません。

「させていただきます」表現に慣れてしまった私が、「おいおい、そこで思考停止に陥ってないか!」という呼びかけとして、小澤さんの文章に出会ったものとして、今日の文章を書いています。

「させていただきます」と言っても、先に私が記したような宗教のバックボーンがあって言うのと、無意識の自己防衛・自己弁護・責任逃避から言うのとでは、言葉のニュアンス・内包された想いがまったく違ってきますね。

先に、「浄土真宗の僧侶・門徒は」という、ちょっといやらしい書き方をしましたが、便宜上そう書いたのであって、すべての僧侶・門徒がそう表現するわけではありません。また、真宗の教えに触れて信心を得たならば「させていただきます」表現をするようになる!ということでもありません。誤解ありませんように。

 ☆

小澤さんの文章にもうなずきつつ・・・

かつて、こんな光景を目の当たりにしました。京王井の頭線渋谷駅。電車発車のブザーとともにドアーが閉まり始めました。そこに、ホームから電車に向かって頭を突っ込んだ初老の男性が。ドアーに頭を挟まれ、発射の準備を止め、一旦すべてのドアが開きました。その男性は、近くにいた駅員に怒鳴りちらします。「電車に乗ろうとしているのに、閉めやがったな!」。
それは、あなたに問題があるのでは💦
こういう乗客が多い世の中、「ドアーを閉めさせていただきます」ぐらいの表現をしておきたくもなりますね。

「会を開かせていただきます」も、確かにそこまで言わなくてもと思います。が、携帯電話が普及して、会や会議や打ち合わせに、当然の如く遅れてくる人が増えたような気がしませんか? 「遅れる、ごめんね」と携帯電話やメールで伝えておけば、遅参が許されるかのように錯覚している人が増えたのではないでしょうか。いや、増えたような気がします。そうすると、参加予定の人がそろっていないけど、予定の時間になったから始めるよ!というときに、「時間になりましたので、会を開かせていただきます」というような表現になってしまうのではないでしょうか。

大臣や政治家が「この点について述べさせていただきます」と言うのも、述べる分にはいいのではないでしょうか。どんどん述べちゃってください。最近は、「発言を控えさせていただきます」などと言って、言うべきこと、言わねばならないことを言わない、勤めも説明も責任も果たさない方が多いので、「私の思いを述べさせていただきます」という政治家は大歓迎です。

小澤さん指摘されるところの「させていただきます」は、その背景には、そのように言わせてしまう現代の負の感覚が蔓延しているように感じます。

「させていただきます」表現に問題があるのではなく、「させていただきます」と言わせてしまう方の人・・・私かもしれません。その自覚や問題意識を持つことが肝要ではないでしょうか。

その無自覚・問題意識に気づかないヒトの集合体こそ、国の思うがままに引っ張られてしまいます。

2020年7月26日 (日)

いのちが語る

『anjali(アンジャリ)』(真宗大谷派 親鸞仏教センター発行)39号(2020年7月号)より

いのちを語る、いのちが語る
   安藤泰至(鳥取大学医学部准教授)

(前略)

私のいのちは私のものか?
 昨年7月、筆者は『安楽死。尊厳死を語る前に知っておきたいこと』(岩波ブックレット)という本を上梓した。そのなかで筆者は、「自分のいのちは自分のもの」というのはある種のフィクションである、と述べた。フィクションというのは事実に反する「嘘」とは違って、現実の一部を拡大してわかりやすく描いたものであり、ある場面では有用である。医療において患者の「自己決定権」ということが叫ばれるように、私たちが医師や家族に勝手に自分の治療について決められてしまわないためには、「私のいのちは私のもの」と主張することはある程度必要である。しかし、現在の日本では認められていないような安楽死(医師が患者に致死薬を注射する積極的安楽死、および医師が致死薬を処方し患者がそれを飲んで死ぬ医師幇助自殺)を肯定するときに、「死の自己決定権」というものを持ち出すのは、筆者にはこのフィクションの濫用に思える。
 人の死とは、本人がコントロールすべきものでも、できるものでもなく、むしろこれまでに述べてきた「いのち」の出来事そのものなのではないか。かつて、哲学者ガブリエル・マルセルは人が取り組むべき「問い」を、人が外側からそれを分析して客観的に答えを与えることができるような「問題」と、人がその外側に出ることはできず、その問い自体を生きる以外に応答のしようがない「神秘」とに分けたが、人間の死とはまさにこの「神秘」に当たるものではないか。私たちはそれを解決することはできず、それに立ち会い、それに学ぶしかないのではないか。

「いのち」が語る
 「いのちを大切にしなさい」。「いのちほど尊いものはない」。私たちはこうした言葉を浴びるほど聞かされてきた。もちろんこうした言葉が繰り返し語られる背景には、現代における「いのち」の危機があることは承知している。しかし、残念ながらこういった言葉が本当に「いのち」に飢えている人たちにはほとんど届かないというのも確かだ。「いのち」という言葉が使われることで、かえってある種の安心と思考停止を起こし、「いのち」が自覚されないまま、「いのち」という言葉だけが溢れてインフレーションを起こしているともいえる。
 ある生命倫理研究者が大学の講義で、「生かされている」という言葉の意味を尋ねたところ、ほぼ全員が「(生きたくないのに)無理矢理生かされている」と書いたという話を聞いたことがある。このような世界のなかで大事なのは、私たちが「いのち」について考えるというよりは、何よりも「いのち」の出来事に向き合い、そこに耳を澄ませ、そこから学ぶということではないだろうか。そのとき、私たちが「いのち」を語るのではない。「いのち」が語り、私たちに語りかけるのだ。

 ☆

昨日書いた「ともしび」も積読(つんどく)状態だったのですが、上記の『アンジャリ』も積読状態でした。

たまたま手にしてパラパラめくっていたら、あ、『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』を書かれた安藤先生の文章が載ってる‼と思い、読み始めました。

「いのち」について考えるということは、その時点で人間の意図・恣意・気分が反映されてしまいます。

楽しい! 頑張ったことが報われた! 生きていてよかった! などと思える時は、いのちの尊さ・大切さも口にできます。

けれど、

悲しい! 何をやってもうまくいかない! 生きることに意味が見いだせない! などと考えるときは、いのちの尊さ・大切さも感じられません。

それは、誰もが通る道であり、誰もが繰り返している感情です。

「いのち」について考えることは大切なことですが、答えはありません。

けれど、「いのち」について考えているうちに、「いのち」から私が問われてくるときがあります。

「いのち」に問われながら生きていたんだなぁと気づくときがあります。

生きているなかで出会う出来事に、意味を求めるけれど、そもそも意味などありません。

その答えも、その意味も、私の思いが紡ぎ出したもの、その時々でかわるものなのですから。

だから、「いのちについて考える」とは、ガブリエル・マルセルの言葉を借りるならば、「問題」ではなく「神秘」ということ。

出来事をとおして、嬉しくて高ぶる感情や、悲しくて重く沈んだ感情を経験し、私のなかの「いのち」に触れるときがある。

「いのち」の問題を解くのではなく、「いのち」という神秘を「いのち」から問われている。

(この「神秘」とは、「スピリチュアル」というようなことではなくて、人間の知恵を超えたもの。つまり、無量寿・無量光、不可思議ということ。)

「いのち」に触れ、向き合い、耳を澄ませる。

それが、いのちを生きるということ。

そこに、答えも、意味もない。

ただ耳を澄ませる。

ただ南無阿弥陀仏

 ☆

あらためて、『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』を本棚から出して読み返しました。

「おわりにー「死について考える」とはどういうことか?」にこう書かれていました。

本当に「死」について考えるということは、そうした(自分で思い描くような)「絵に描いた死」を考えることではなく、むしろ自分がどのように生きるか、どのように「いのち」に向き合うのかを考えることにあるのではないだろうか。

 ☆

リンク

〇「アンジャリ」39号・・・「親鸞仏教センター

〇『安楽死・尊厳死を語る前に知っておきたいこと』・・・「岩波ブックレット

2020年7月25日 (土)

人間はおるか

2020年7月22・23・24日のブログを書いていて、“いのちの線引きをしている私”ということを感じていました。

昨日のブログを書き終え、床に就く前に、積読(つんどく)状態だった「ともしび」(2019年9月号 真宗大谷派教学研究所発行)を手に取りました。

佐野明弘先生(石川県光闡坊)の法話 「衆生減尽ー本当に私たちは人間として生きえているのかー」が掲載されています。

読んで驚きました。今書き終えた3日間のブログに呼応するかのような内容だったからです。

 約二年前、NHkの「ハートネット」という番組で、東京大学の学生が自主グループをつくって、障害の真実に迫るという放送がありました。その中で、生まれてから一度も自分の足で歩くことができず、車イスで生活している方に質問する場面がありました。それは、「足が治る薬が開発されたら使いますか」というものでした。
 私にも、あちこち痛んでいるところがありますので、「使いますか」と言われたら、「私は使いたい」と答えるという程度の発想だったわけですが、その車イスに乗った方は「その質問は、歩けない人は、やはりこの世にいない方がいいんだというご質問ですね」というように答えられました。ドキッとする言葉です。
 相模原のやまゆり園で起きた事件から二年半が経ちます。被告の植松氏は、重度重複障害のある自己認識能力もなくなった方々を、人間であることが崩壊した「心失者」だと言いました。だから、本人もそのような状態から解放させ、周りの者も介護による生活の圧迫から解放させ、そしてそこにつぎ込まれる莫大な国家財政の危機を救うためにも彼らを安楽死させるのが一番いいと考え、国にそういう手紙を出したわけです。そしてその手紙の五ヵ月後に、自ら実行に及び、19人を殺害しました。
 彼は、犯行後「私は人を殺していません」と言い続けているそうです。要するに、彼の考える人間というものの範疇から外れているということです。障害があって生まれてくることは必ず不幸であり、この社会にとっても不幸しか生まないから存在すべきではないと考えているのです。
 そう聞くと、彼は一般の日常意識からは乖離した異常な発想をする人だと思えます。しかし、私たちが何を喜びとして生き、何に生きていることの意味を見出しているのかと問われれば、何かができることであり、人の役に立つことであるということが圧倒的に多いのではないでしょうか。ならば、何かができなくなるということは、存在価値がなくなっていく、生きている意味がなくなっていくことになります。
 こういう発想が私たちの日常的な意識の中にあります。目が見えないのは嫌だ、病は嫌だというような当たり前の発想が、特定の人を排除する発想につながっているのです。障害のない身体を自分にも子どもにも望むのは、優生思想的発想です。
 実際に戦後、障害のある方々が子どもを産めないようにする強制的な不妊の手術を、分かっているだけで3500人以上にしてきたのです。これも、私たちの日常意識から乖離したものではなく、日常意識に地続きになっているものなのです。

(「ともしび」4頁下段~5頁上段 2019年1月20日のお話)

新型コロナウイルスの感染者がここに来て急激に増えている。もはや(初めからなのだが)他人事ではない。

にもかかわらず、コロナ罹患者は何かしら落ち度があった、自業自得だ、油断があったなどと、罪でも犯したかのような目で見ている。

そのような、罹患していない私は素晴らしくて、罹った人は落ち度があったという見方も、優生思想の表われと言えるだろう。

あからさまな優生思想でなくとも、私の中に優生思想が根付いている。

そのことに無自覚に生きている恐怖。

「このなかに人間はおるか」「人間がおらん」

私は、本当に人間として生きえているのでしょうか。

このタイミングで読むことが出来るなんて、「あなた、今こそ読みなさい」という声と共に、私の手元にあったような気がします。

南無阿弥陀仏

興奮状態に陥り、昨晩はなかなか寝付けませんでした。

※「ともしび」ご希望の方は、こちら「しんらん交流館 教学研究所 発行部一覧」をご覧ください。

2020年7月24日 (金)

一昨日は、著名な方が自死した際の報道、そして私たちの受けとめについて

昨日は、覚せい剤取締法違反などの罪で公判が開かれた槇原敬之さんについての報道、そして私たちの受けとめについて書きました。

報道の仕方についてを問うたわけではありません。

このコロナ禍、新型コロナウイルスに罹患した方や医療従事者とそのご家族などに向けての、差別的な言動が目立つようになったと感じています。

差別の歴史は、人類の歴史と共にあるわけですから、新型コロナウイルスがきっかけなわけではありませんが、それにしても、人が人を裁く、断罪する、貶めるということを肌身で感じています。

このコロナ禍における、著名な方の自死には、ネット上での誹謗中傷が背景にあると言われています。

他者への差別、バッシング、誹謗中傷、それ必要なこと? どうしてあなたがするの? 筋も道理も通らなくない?と感じます。

(筋や道理が通れば誹謗中傷が許されると言っているわけではありません)

そのようなことを肌感覚で感じている時に、

東京都知事選後、山本太郎氏が代表をつとめるれいわ新選組で騒動がありました。

れいわ新選組の大西つねき氏の、自身の動画サイトでの発言が発端となった。

「どこまでその高齢者をちょっとでも長生きさせるために子どもを、若者たちの時間を使うのかということは真剣に議論する必要があると思います。」「こういう話、たぶん政治家は怖くてできないと思うんですよ」「命の選別するのかとか言われるでしょう。命、選別しないとだめだと思いますよ。ハッキリ言いますけど。なんでかと言いますと、その選択が政治なんですよ。選択しないでみんなにいいこと言っても、たぶんそれ現実問題として無理なんですよ。そういったことも含めて順番として、その選択するんであれば、もちろん高齢の方から逝ってもらうしかないです」

大西氏は、いのちの選別を公言した。

以前から日本の少子高齢化が言われ続け、政治家は、その対策・対応もしてこなければいけなかった。

けれど、特に対策となることもせず、出生率は下がり、日本国民の高齢化は進んでいる。

現状を鑑みれば、医療や介護の現場がひっ迫することは目に見えている。

大西氏の発言は、日本の現状とこれからの姿を鋭く指摘してはいる。

けれど、「命、選別しないとだめだと思いますよ」の発言は、次の選挙で立候補するのであろう人が、政治家になろうとする人が言ってはいけないことだ。

れいわ新選組 国会議員の木村英子氏は言います。

「命の選別をするのが政治ではなく、命の選別をさせないことこそが、私が目指す政治です」

私もそう思います。

現 政治家で、公にいのちの選別を掲げている人はいないと思います(本心は知りませんが)。

けれど、

〇社会保障費や教育のために使うと言い、消費税を増税しておきながら、実際は借金返済。

〇フル規格の保健所は、この30年で4割以上減っている。
コロナういるす罹患を恐れる方へのPCR対応が追い付かないことに対する不満が溢れているが、保健所は減り仕事は増えているのだから、コロナが流行しなくとも、私たちが安心して暮らせる環境が削られている現実。

〇医療の現場は疲弊し、夏のボーナスもゼロもしくは大幅減となり、多くの医療従事者が職を辞すことを考えているという。その現状を目の当たりにしても、医療の現場への支援は遅れている。

〇家族の形は多様化し、DV被害から必死に逃げている方がいる(そのことも知っているのに)、1人10万円の給付金は、世帯主の口座に一括で振り込まれる。

〇このような状況において、国会は閉会。

このような態度も、いのちの選別の考え方があって、そのことを反映していると思います。

「今の日本の状況を鑑みると命の選別もやむをえない」と政治家や政治家を目指す人、政治の現場にいる人が言ってはいけない。
木村英子氏が言うように、「命の選別をさせないこと」が、彼女が目指すだけでなく、すべての政治家も努めてほしい。

ここまで書いてきたのは、大西氏批判をするためでも、現実の政治への落胆でもない(あ、落胆はあるか)。

はじめに、昨今 世間に漂っている差別意識について書きましたが、差別意識はなにも大西氏や現政治家だけが持っているものではなく、私たちひとり一人のなかに、程度の差はあれ、誰もが持っています。

それだけに、「命の選別」ということが、世間の人々までもが当然のことのように思い始めたら怖いことです。

自死された方が生前に受けた誹謗中傷、罪を犯した人への手のひら返し、誰もが病気に罹る可能性があるにもかかわらず、罹患した人へのバッシング(家族に罹患者が出て引っ越しをした家族、自死した家族がいることをご存じですか)。

そういうことが当然のように行われているのが現状です。

その現状に、医療崩壊、少子高齢化の進行、「命の選択」を公言する人が政治家になる、などという一滴が注がれたとき、あっという間につながりながら生きているいのちに、大きなヒビが入ってしまいます。

大袈裟なことを言っているつもりはありません。

大西つねき氏の発言以降、れいわ新選組の国会議員、木村英子氏と舩後靖彦氏のメッセージを読まさせていただきました。

〇参議院議員 木村英子 オフィシャルサイト 障がい者があたりまえに生きられる社会へ

  「大西つねき氏の「命の選別」発言について

〇舩後靖彦 Official Site 障害の有無を問わず、誰もが幸せになれる社会を創る

  「大西つねき氏の発言に関する声明

ある党の内部のゴタゴタ、などという話ではありません。自分自身も当事者として、自分自身の中にも差別意識があるものとして、読んで考えていただければと思います。

 ☆

今日の文章は、一昨日の文章を書いている段階で、ここまで書こうと考えていました。

正直しんどかったです。

私自身、自死された方の身内でも友人でもありません。また、槇原さんとも面識はありません。そういう者が言うべきことか。踏み込むべきことか。

また、この手の発言(この3日間の投稿)は、あたかも「自分が正しい」というところに立って言っているかのように聞こえます。

そういうつもりはありませんが、でも、自分では否定しつつも、こころのどこかに「自分が正しい」という思いはあるものです。そうでなくては、思考し、表現することもできないわけですが・・・それだけに、苦しい。

でも、書かずにおれなかったのです。

現代(いま)漂っている差別意識の空気がだんだん濃くなっているような気がして。

都知事選後、大西つねき氏の発言が周知のこととなり、それから木村英子さんと舩後靖彦さんのお話(ブログ)に出会い、ずっと、いろいろと考えています。

で、この文章を書いているときに・・・

「ALS患者 嘱託殺人」のニュースが入ってきました。

いのちの尊厳と言っても、人間の想いとしては、やはり人それぞれの想いがあります。

 本人がつらいのであれば、本人が死にたいのであれば、安楽死・尊厳死も認めるべきでは…。

 つらいかもしれないけれど、死は選ばないでほしい…。

どちらかがいのちの尊厳を認めてなくて、どちらかが認めていて、ということではないと思います。

でも、ご本人がその道を選んだ、選ばざるをえなかったということの重さを感じています。

また、ニュースを聞いたときは、依頼を受けたふたりの医師も、深く悩んだうえでもことだったのだろうと思っていました。

でも、そこはちょっと違うようです。

命の選別が思想背景にあるような本を、電子書籍で共著で出していたそうです。

彼らなりの「自分が正しい」というところに立っての行為だったようです。

れいわ新選組の舩後靖彦さんが、事件を受けてメッセージを発しています。

〇「事件の報道を受けての見解

今はただ、舩後さんの言葉を、しっかりと噛みしめたいと思います。

南無阿弥陀仏

2020年7月23日 (木)

どんなときも 迷い探し続ける日々が 答えになること 僕は知っているから

2020年7月21日 覚せい剤取締法違反などの罪で起訴された、シンガーソングライターの槇原敬之さんの初公判が、東京地裁で開かれました。

犯してしまった罪に対しては、罪を償わなければいけません。

けれど、罪を犯した人に対する世間の目は、冷たく、厳しい。

2回目の逮捕ということもあり、「どうして!?」「裏切られた」「応援していたのに」という方も、たくさんいることと思います。

私も、映画「就職戦線異状なし」を観たときに流れていた曲「どんなときも。」を聞いて以来のファンですから、ショックはありました。

でも、そこで個人の、作品の評価は下がってしまうものなのでしょうか。

私は、そうは思いません。

これからも、変わらず聞き続けます。

さて、「なぜまた手を出したんだ!?」「やっぱり、やめられなかったのか?」という、犯した罪に対するバッシングの声は挙がって当然かもしれませんが、犯した罪とは関係のない話が報道されるのはなぜでしょう?

槇原さんのことでいえば、恋人との関係のこととか。

そのことは、槇原さんの逮捕と切り離して考えることでは?

にもかかわらず、覚せい剤取締法違反の疑いの話から始まって、派生した話の方が盛り上がってしまう。

昨日の投稿でも触れましたが、自死した方に対して、報道しなくてもいいところにまで踏み込んで報道する。

場合によっては、その方の人格否定のようなことまで言い出したりする。

そういう報道の在り方に悲しみを感じます。

昨日も書いた通り、メディアの側だけの問題ではなく、私たちの問題でもあるわけですが。

そこがまた 悲しい

 ☆

超えろ。(作詞・作曲 NORIYUKI MAKIHARA)

どこからか諦めの声が聞こえてきても
諦めたくないのなら 諦めずに進めばいい

先駆者になりたいなら願い続ければいいんだ
上手くいかなかった時の言い訳ばかり考えていないで

のぞき込む鏡の中 疲れた顔が映っているなら
それこそが大正解なんだ 誰かの笑顔を見てから笑えばいい

超えろ 自分の限界を
超えろ 昨日の努力を
超えろ 誰かの予想を
超えろ その力があると信じて
超えろ 今あるどのアイディアも
超えろ 目に見えない枠組みを
心が望む未来以外 君は欲しくはないはず

求めなければなにも与えられなどしない
心が今一番求めるものはなにか問いかけろ

欲しいものは手柄なのか 報酬なのかそれとも
自分がまだ見ぬ沢山の人たちの笑顔なのか

のぞき込む鏡の中 疲れた顔が映っているとしても
にっと口角を指で上げて 自分のことを時には騙せばいい

超えろ 自分の限界を
超えろ 昨日の努力を
超えろ 誰かの予想を
超えろ その力があると信じて
超えろ 今あるどのアイディアも
超えろ 目に見えない枠組みを
心が望む未来以外 君は欲しくはないはず

七転び八起きの8の文字を
横に倒して
∞(むげん)の可能性を見つけろ

超えろ 自分の限界を
超えろ 昨日の努力を
超えろ 誰かの予想を
超えろ その力があると信じて
超えろ 今あるどのアイディアも
超えろ 目に見えない枠組みを
誰かの為に頑張れる 自分が一番好きだと認めろ

 ☆

誰もが可能性を持っている。∞の可能性を。

その可能性は、つまづいてしまったら 終わりなのか?

その可能性は、「私はそんな罪は犯さないよ」って偉ぶる人間が奪えるものなのか?

無限だからこそ、

つまづいてしまっても、実際に罪を犯してしまったとしても、可能性がいつまでもあるんじゃないか。

何も知らずに 心無い言葉を浴びせるヒトには、好きに言わせておけばいい。

たとえ今は辛くても、にっと口角を自分の指で上げて、自分で自分を騙して作り笑顔をすることも大切だ。

そこには、心の底からの笑顔に辿り着く可能性があるから。

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