大多数の国民に属する私
秋彼岸中、本山より『真宗』『同朋』「同朋新聞」が届く。
『真宗』2019年10月号「ハンセン病はいま〈260〉」に、9月20日の投稿でも紹介させていただいた徳田靖之先生の文章が掲載されていました。
今回の熊本地裁判決が、社会を構成する私たち一人一人に対して投げかけた課題について、私見を申し述べておきたい。
そもそも、今回の家族訴訟が提起された趣旨(目的)の一つは、家族を差別し、偏見にさらし続けてきた社会の側の加害者責任を明らかにすることにあった。
この点について判決は、「内務省及び厚生省等が実施してきたハンセン病隔離政策等により、ハンセン病患者の家族が、大多数の国民らによる偏見差別を受ける一種の社会構造を形成し、差別被害を発生させた」と判示している。この判決の意味するところは、差別・偏見の根本原因は、国による隔離政策にあるが、現実に差別偏見してきた直接の加害者は、大多数の国民らであることにある。
判決を受けて、私たち一人一人には、その大多数の国民に属するのではないかということを自らに問いかけることが何よりも求められる。
そのような形で、自らに問うことが、私たちがハンセン病問題を私の課題として把握し直すという第一歩になるのではないか。
ハンセン病問題の当事者とは、誰のことを意味するのかということが問われて久しいが、その難しい問いへの答えを今回の熊本地裁判決は、用意してくれていると私には思われる。
(ここからは、私白山勝久の私見)
責任の所在を他者におくほど楽なことはない。最近問題になっているクレーマーや他者をあおる人々は、自分と世間・自分と他者とを切り離して、楽なところに立っているつもりなのだろう。けれど、世間や他者と切り離して私はない。すべてはつながっている、関係を持っている。
ハンセン病隔離政策によって生じた、患者やその家族への差別問題も、その人々と切り離してある私を優位に立てるがゆえに起こっている。切り離して考えると、当事者意識だって湧いてこない。
9月25日の投稿で、ニューヨークの国連本部で開かれた気候行動サミットにおけるグレタさんの訴えについて触れたけれど、グレタさんの声を自分とは切り離して聞くのか、当事者として聞くのかで、その聞こえ方は180度違うものとなる。グレタさんに対して、「言っていることがおかしい」とか「誰かそそのかしている人がいるのだろう」とか「正気でない」などという非難があるという。グレタさんは、自分のことを語っているのではなく、グレタさんもあなたも私も住むこの大地(地球)のことを語っている。つまり、私も当事者。グレタさんへの問いかけ(バッシング)ではなく、自らに問うということがなされてもおかしくない。
ハンセン病問題全国交流集会に参加した後ゆえに、なおのこと徳田靖之先生の訴えが、グレタ・トゥーンベリさんの訴えが、目の前のこととして突き刺さっている。