西蓮寺掲示板のことば(イレギュラー)

2020年6月26日 (金)

他者(ひと)を傷つける善意

蒸し暑い日となりました。体調崩されませんように。

また、大雨に見舞われている 長崎の皆様はご無事でしょうか。ご無事を念じております。

 ☆

外出自粛が解禁され、人の出も少しずつ戻ってきているようです。

このコロナ禍、何が正しいのか分からない中でも、出来得る限り罹患しないように罹患させないように、多くの方がお仕事や旅行・買い物等の移動を自粛していました。

すると、営業を自粛していない店舗、営業している店舗に対して攻撃を行う、「自粛警察」なる人々が表われました。

自分はこれだけ我慢しているのに、こいつらは我慢していないという不公平感や嫉妬心から攻撃心が湧いてくるようです。

意識的に敵意を剥き出しにしている「自粛警察」もいるでしょうが、中には何の疑いもなく、私が正しいという正義感から他者をとがめる人もいます。

最近では、マスクをしていない人に「マスクをしろ!」という「マスク警察」なる人も現れたそうです。

注意するだけならまだしも、暴力をふるう人もいると聞きます。

マスクをしていない小学生が殴られたという事件もありました。

それって、どうなのでしょう?

自分の正義を疑わず、自分の正義の枠から外れる人を取り締まる。それゆえ、「〇〇警察」と言われるようになったのでしょうが、

ここまでくると、「警察」に対する揶揄のようにも聞こえてきます。気の毒ですね。

ただ、「自粛警察」「マスク警察」に限らず、誰もが自分の正義を中心として生きています。

決して、「自粛警察」「マスク警察」けしからん! という話ではなくて、

果たして自分の意に反する者を攻撃していないか

結局、自分のストレス発散でやっているのではないか

そういうことを、他者への攻撃として表出する前に、自分自身で考えないといけません。

自分の正しさが生み出すものは、決して世間の平和ではありません。

なんてことを、いろいろと考えながら、不定期に貼り変えている第2掲示板に、このようなことばを掲げました。

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「“私は正しい”という心が 善意という衣を纏(まと)っている」

「地獄への道は 善意で敷き詰められている」

こういう ことばを掲げるときって、やはり自分自身を正義に置いているんだよなぁという棘(とげ)が刺さるので、とても痛いです。

南無阿弥陀仏

2020年5月 9日 (土)

悩むというのは自覚である

おはようございます

昨日、本堂前の掲示板のお話をしました。

今回は、ふたつの言葉を掲示してあります。

昨日の「一本の草さえ 生きねばならぬ 使命をもっている」と、

もうひとつは

「悩むというのは自覚である 悩まされるというのは無自覚である」

という曽我量深先生の言葉です。

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5月6日の投稿「時期純熟」で、
言葉そのものに問題はないけれど、受け取る側のキャパがいっぱいいっぱいだと受け入れ難い言葉というものがありますね。
という旨書きました。

そういう意味では、この言葉も、痛みを感じる言葉かもしれません。

たしかに、現状においては、

「三密を避けてください」と要請している ソーリ自身が、大人数で長時間会議をしていたり、
本当に給付金を至急配布する気持ちがあるのであれば、「こういうときのためにマイナンバーがあるのです」と訴えて、マイナンバー活用の意義を明らかにすればいいのに、マイナンバーに触れもしない。消費税10パーセントに上げるときは、そのポイント還元にマイナンバーを活用するとまで言っていたのに。つまり、それほど給付金を出したくないということの表われ‼

「37,5度以上の熱が4日続いたときに、新型コロナウィルスのPCR検査相談の目安としてください」という指針を「ひとつの基準のようにとられたのは、我々からみれば誤解です」と今更発言するコーロー大臣

世界中の人々が影響を受けているほどのウィルスだから、なにが100点満点の対応かなんて誰にも分からない。PCR検査にしろ、今ある薬の活用にしろ、どの程度人の動きを抑制すべきなのかにしろ、専門家だって分からない。何がいいのか悪いのかなんて分からない。今この瞬間には有効でも、時間が経つとべつの問題が起こることもある(薬の副作用とか)。
けれど、手を尽くそうとしているのか、やる気がないのかは、伝わってくる。
残念ながらこの国の政治に携わる人の多くは、やる気がないのが見えてくる。この国に住む人を守る気持ちがないことが伝わってくる。

あ、愚痴だらけになった💧

そんな政治屋さんに「悩まされる」現実ではあるわけだけど、
現在の状況に「悩まされる」感覚は、被害者意識だけになって苦しいし、こころの身動きが取れないし、得るものが残らない。
現在の状況に「悩む」ならば、立ち止まるにしても、行動を起こすにしても、そこに何らかの光明が見えてくる。今に対しても、これからに対しても、何かしら得るものがある(決して、得ることが目的ではないけれど)。そういうことを想い、曽我先生の言葉を掲示しました。

「悩まされている」という感覚は、「自分も、誰かを悩ませているかもしれない」という想いを思い起こさせない。

「悩む」とき、誰かのことも含めて考えている。

2020年5月 8日 (金)

先に歩むという使命

子どもたちは、朝、まだ公園に人気の少ない時間に、30分だけ遊びに行かせています。マスクをして。

公園には、学校の仲良し友だちも来るようになって、楽しく鬼ごっこをしているそうです(つかず離れず、子どもたちなりに辿り着いた遊びのようです)。

そのお友だちも、ちゃんとマスクをしていて、「30分だけね」とお母さんに言われているようです。

30分したら解散して、帰ってきます。

帰宅したのち、お勉強✏

なんとなくの生活サイクルができています。

私も、事務仕事でデスクワークの時間が多くなっています。

けれど、昨日は全然はかどりませんでした。

本堂前の芝生に、大量の雑草が生えていたなぁと思い、雑草抜きに出ました。

子どもたちも、日に当たる時間が少ないので、「一緒にやろうか!」と言って、連れ出しました。

3人それぞれにバケツを持って雑草抜きwww

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1時間ほど、バケツいっぱいになるまで抜いたけれど、まだまだ残っています💧

けど、そこで終了‼

立ち上がり、本堂前の掲示板を見て、笑ってしまいました。

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「一本の草さえ、生きねばならぬ 使命をもっている」

本堂前の掲示板は不定期に張り変えていますが、5月に入ってから、この言葉にしました。

「使命をもっている」と書きながら、思いっきり抜いてました(^▽^💧)

“雑草”という書き方をしましたが、その呼び方はおかしいです。

雑草という名前の草はないのですから。

草にも、花にも、名前がある。

人間にも、ひとり一人名前がある。

ひとり一人、つまりすべてのいのちに、南無阿弥陀仏の名号(名前)がある。

人間ひとり一人、草いっぽん一本にいたるまで、生まれた意味がある。使命(というと、ちょっと重たいけれど)がある。

草は、人間の都合でむしられてしまうけれど、生態系のなかで、生えている意味がある。
雑草と呼ばれて、引っこ抜かれてしまう草は、人間から見れば雑草なのだけれど、草の友だちたちからすれば、草たちにとってまだ未開の地に雑草が先んじて生えてくれるおかげで、その次 その次に草や花が生えることができるのだという。開拓者なのだと聞いたことがある。つまり、雑草が生えなければ、人間が「青々としてきれいですね」などと感嘆する芝生や、季節の花も生えない。

南無阿弥陀仏

2020年4月 9日 (木)

強い人間なんていない。みんな弱いんだから

西蓮寺第2掲示板(本堂前掲示板)には、行事案内のポスターを貼ったり、寺の活動報告を書いたり、不定期に“ことば”を掲示したりしています。

日曜の晩、子どもたちがNHKの「ダーウィンが来た」を見ていたので、何気なく“ダーウィン”と検索。
そして、第2掲示板に只今掲示していることばに出あいました。

 生き残る種とは、
 最も強いものではない。
 最も知的なものでもない。
 それは、
 変化に最もよく適応したものである。

生物の進化を研究してきたダーウィンは、地球環境の変化に勝利してきたものは、最も強いものでもなく、最も知的なものでもなく、最もよく変化に適応したものであるということに辿り着いた。

人間は、強くあろう、知的であろうとする。
けれど、そもそも強いものも、知的なものもいない。
二項対立で物事を考えるくせがついてしまっている現代人には、強いものと弱いもの、知的なものと知的でないものといったように両極端に分けて考え、まるで二種類のものしかないかのように考えてしまう。
それゆえに、強いものが正しくて、弱いものは強いものが守ってやらねばならない(あるいは、弱いものは切り捨てられてしかるべき)などと考える。
知的なものがこの世を動かし、そうでないものはそれに従うしかないなどと考える。

けれど、人間は、生きとし生けるものは、二項対立で考えられるものではない。
弱いがゆえに強さを求め、気持ちや知力体力を鍛え、表面的な強さを身につけるものはいるだろう。けれど、内面は弱さに満ちていて、自分より強いものが現われることを恐れている。それゆえに、権力を手にしたものは、後から来るものを蹴落とそうとする。
知的でありたいがために、勉強・研究・研鑚に努め、表面的な知性を身につけるものはいるだろう。けれど、全方面に目が向けられる知性など身につけられることはなく、サイエンスの研究をしてきた人には経済は二の次になるし、政治や経済を学んできた人にはサイエンスの知識がない。
知的であろうとしても、その知性はすべてをカバーできるものではない。それどころか、知性だけでは人間を、いのちを、種を守ることはできない。知性で感情は学べないから、心の動きは感じられないから。

ひとは、誰もが弱いものであり、だからこそ強さを身につけてきた。その強さとは、弱さと共にある。
ひとは、誰もが教えられるところから出発し、だからこそ知恵をつけてきた。ひとりで生きられるならば、知恵は身につかなかっただろう、身につける必要もなかっただろう。ひとの知的な部分は、他者とともにある。

自分は強いと思っているもの
自分は知性的だと思っているもの
そう思っているものは、周りの変化に鈍感だ
気づいたら、潮の流れが変わっていることだろう
気づいたときには、もう遅いだろう

変化に適応するためには 変化に敏感でなければならない
変化に敏感なものは
「強さとは、弱さと共にある」ことを知るもの
「知的な部分とは、他者とともにある」ことを知るもの

かつて先達から言われたことばです。
「この世の中に強い人間なんていないんだよ。みんな弱いんだから」
「己の愚かさを知るものこそ、本当に賢いものである」
自分を知るものが、変化を感じうるのかもしれません。
南無阿弥陀仏



と、このブログを書いていたら、仏光寺派 西徳寺さまの寺報「えこお」2020年4月号が届きました。
西徳寺掲示板 4月のことばは、

 「強い者」はその強さがために変化に気づかない

だそうです!
今日 書いていたこととピッタリですね(^▽^)
ありがとうございます(‐人‐)

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2020年3月 9日 (月)

西蓮寺第2掲示板(2020年3月)

春のお彼岸を前に、西蓮寺第2掲示板(本堂前の掲示板)を書き換え。
いろいろな情報を載せています。

①新型コロナウィルスの影響で、各種つどいが中止になっています。
 「東京教区同朋大会」も「東京五組同朋大会」も中止になってしまいました。
 西蓮寺のつどいも、参加希望者は西蓮寺にお問い合わせください。

②春彼岸は、お寺参りの方にジャガリコをお渡ししていましたが、今回は買い出しに行けませんでした。ごめんなさい。秋のお彼岸には、買い出しに行って、皆さんにお渡しできますように。

③『仏教家庭学校』に副住職の文章が載っています。希望される方には差し上げます。

④ボランティア活動報告
 西蓮寺の浄財箱に入れていただいた御浄財は、被災地支援の活動をされている団体に寄付させていただいています。
 茨城の「ボランティアネット」さんから活動報告が届きましたので、お読みください。

という内容です。お参りの方は、お読みいただければと思います。

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2019年6月25日 (火)

世のおかげ 人のおかげ

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世のため 人のためという声のみ多くして、世が汚され濁るとき、
世のおかげ 人のおかげと 手が合わさる人によって、世が清浄なることもありましょう
                                                正親含英 

「世のため人のため」という思いが、知らず知らずのうちに他者(ひと)を傷つけている。
私自身が裁判官や審判にでもなったかのように、世を 人を 判定・判断・判別しているのだから。
そんな私は、「世のおかげ 人のおかげ」である身でした。
私は、判定・判断・判別されてある私でしょうか(いいえ、そんなことはありません)。
罪業多く重たい、汚れ濁りの手が合わさる不思議。私の思いを超えた出来事。
汚れ濁りのままに、清浄なる不思議。
南無阿弥陀仏

 

2019年1月22日 (火)

鳥は飛ばねばならぬ

2018年大晦日、坂村真民さんの詩と再会し、イレギュラーに貼り替えている第2掲示板の言葉にしました。
新しい年を迎えるにあたり、相応しい詩に出遇えました。
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
     南無阿弥陀仏
(書いた字の列が曲がっている 私の姿勢もこころも歪んでいる証です

『鳥は飛ばねばならぬ』 坂村真民

 鳥は飛ばねばならぬ
 人は生きねばならぬ

 怒涛の海を
 飛びゆく鳥のように
 混沌の世を
 生きねばならぬ

 鳥は本能的に
 暗黒を突破すれば
 光明の島に着くことを知っている
 そのように人も
 一寸先は闇ではなく
 光であることを知らねばならぬ

 新しい年を迎えた日の朝
 わたしに与えられた命題
 
 鳥は飛ばねばならぬ
 人は生きねばならぬ

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2018年11月 7日 (水)

ぼくが他人に与えた苦しみ

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ひとつだって無駄にしちゃぁいけないんですよと、
ぼくらは子供のころ、
くりかえして言われたものだ。
それはパンとか蠟燭のことだった。
今、ぼくらが無駄にしてはいけないのは、
ぼくが味わった苦しみ、
ぼくが他人に与えた苦しみだった。
フランソワ・モーリヤック 『ありし日の青年』より)

フランソワ・モーリヤックの文章を教えていただいたのは、遠藤周作さん(の本)から。

この言葉を読んだ時、思わず「これだな」と思った。私の会得したものがそのままここに書かれていると知ったからである。 ひとつだって無駄にしちゃいけない---と言うよりは、我々の人生のどんな嫌な出来事や思い出すらも、ひとつとして無駄なものなどありはしない。無駄だったと思えるのは、我々の勝手な判断なのであって、もし神というものがあるならば、神はその無駄とみえるものに、実は我々の人生のために役に立つ何かをかくしているのであり、それは無駄どころか、貴重なものを秘めているような気がする。これを知ったために、私は「かなり、うまく、生きた」と思えるようになった。 (遠藤周作 『生き上手 死に上手』より)

遠藤周作さんの本を読んだとき、思わず「これだな」と、私は想った。

2018年10月31日 (水)

正しさと正しさとが相容れないのは いったい何故なんだ?

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もしも私が全て正しくて
 とても正しくて周りを見れば
世にある限りすべてのものは
 私以外は間違いばかり
もしも貴方が全て正しくて
 とても正しくて周りを見れば
世にある限りすべてのものは
 貴方以外は間違いばかり
辛いだろうねその一日は
 嫌いな人しか出会えない
寒いだろうねその一生は
 軽蔑だけしか抱けない
正しさと正しさとが相容れないのは
 いったい何故なんだ?

中島みゆき 「Nobody is Right」

2018年10月30日 (火)

ありがとうの一声は、かけられた方も、かけた人の人生も、豊かにしてくれます

この夏は、まさに射すような陽差しの夏でした。
西蓮寺門前にバス停がありますが、バスを待つ方が陽差しを遮るものが何もありませんでした。
あまりに過酷な状況だったので、お寺にあるテントを立てました。

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ところが、この夏は台風の襲来がたびたびありました。
テントが吹き飛んではいけないので、台風接近の天気予報の度にテントを畳んでは、台風が過ぎてからまた立て直す作業を繰り返しました。4回目の畳む作業のとき、住職(父)がテントの骨組みに引っかかって転んでしまいました。結局、その痛みで正座ができなくなってしまいました(今は完治しています)。
で、もう少し簡単に組み立て・片付けが出来るテントはないかと探し、最近イベント等で使われるものを見つけて即購入しました。

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組み立て作業に慣れるまで大変でしたが、従来のテントよりは少しは楽になりました。どちらにしろ、最低2人は必要なのですが
でも、テントが陽差しを遮ってくれたので、バス待ちの皆さんからは「助かります」「ありがとう」と声をかけていただきました。こちらこそ ありがとうございます。

9月の秋彼岸が終わるまでテントを立て続け、その後しばらく掲示板に感謝の想いを綴りました。

 射すような陽差しの夏
 バス停に張ったテント
 「ありがとうございます」って声をかけてくれて、“ありがとう”。
 とても嬉しいです。
 ありがとうの一声は、
 かけられた方も、
 かけた人の人生も、
 豊かにしてくれます。
 一声が人生を変える。
 有り難う

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