西蓮寺掲示板のことば(イレギュラー)

2023年1月29日 (日)

一本の鉛筆

西蓮寺本堂前の掲示板(イレギュラー更新)
今年に入ってからは、レオナルド・リード(経済学者)のことばを掲示しています。

一本の鉛筆、
実はそれを作る全ての
工程と方法を知っている人は
どこにもいない。
木材、芯、消しゴム、金属・・・
これらを、どこの誰が、どうやって作ったのか?
同じ言葉も喋らず、
同じ宗教を信じない
世界中の多数の人々が
やがては鉛筆になることなど
知る由もなく製造し販売した
結果なのだ。
レオナルド・リード

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2023年1月28日 (土)

もう一つの時間が流れている

毎週水曜日、午後6時に更新している、真宗大谷派「定例法話配信」。
ご法話の収録に立ち会っている。
2022年12月7日に配信された花園一実さんのご法話に、写真家の星野道夫さんのお話しが出てきた。著書『旅をする木』からのお話しだった。
星野道夫さんの本は読んだことなく、帰路、『旅をする木』を買った。アラスカでの生活、出会った人びとのことが書かれている。
自分の好みで本を選び、読むことも楽しいけれど、他者(ひと)の好みの本を読むのもまた味わい深い。

『旅をする木』を読んでいて、素敵なことばに出会った。
昨年中、西蓮寺本堂前の掲示板に掲示していた。

ぼくたちが
毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が確実にゆったりと流れている。
日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか。
それは天と地の差ほど大きい。
(星野道夫『旅をする木』)

『旅をする木』、日本に生きているだけだと体験できない話しが書かれています。お薦めです。
花園一実さんのご法話もぜひご聴聞ください。

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2022年5月 9日 (月)

人の為と書いたら、偽りという字になりました

一人ではどうにもならん事でもさ
誰かと一緒にがんばれば
クリアできる問題って けっこうあるんだ

そうやって力をかりたら
次は相手が困っている時
お前が力をかしてやればいい

世界って そうやって まわってるんだ

あのな 大事な事だぞ? いいか?
一人じゃどうにならなくなったら
誰かに頼れ

 ーーーでないと実は
     誰もお前にも頼れないんだ

『3月のライオン』(著者 羽海野チカ)より

羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』『3月のライオン』は、時折読み返したくなる。
久しぶりに波が来て、ただいま読み返し中(『3月のライオン』はまだ連載中)。
現在(いま)は、この言葉が響いてきた…

その時の境遇、心境、体調などで、響いてくる言葉は変わる。
生きてるってことなんだろうなぁ…

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2022年1月13日 (木)

西蓮寺 本堂前の第2掲示板

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2022年に入り掲示しているのは、写真の文字。

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「ありがとう」と書いてありますが、「喜」を象っています。
自分ではそのつもりで書いているので「喜」に見えますが、掲示板をご覧になった方は「?」かもしれません。
1月は第1掲示板に「喜 他者(ひと)の喜びを、自分のこととして喜ぶこと」と掲示しているので、それに合わせて「ありがとう」のこもった「喜」を書きました。

2021年12月 7日 (火)

十二月のうた 茨木のり子

十二月のうた   茨木のり子

熊はもう眠りました
栗鼠もうつらうつら
土も樹木も
大きな休息に入りました

ふっと
思い出したように
声のない 子守唄
それは粉雪 ぼたん雪

師も走る
などと言って
人間だけが息つくひまなく
動きまわり

忙しさとひきかえに
大切なものを
ぽとぽとと 落してゆきます

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2021年4月14日 (水)

「死」は、その人の生の否定ではなく、肯定

家族や友人・親族等の逝去に接した時、

私たちの心には空洞があき、

どうしても、その「死」に心が引きつけられます。

ですが、

私たちが大事にしなくてはならないのは

むしろ「生前」で、

その方の尊い人生があったという事実を

きちんと肯定することです。

その方が生涯大切になされた事で、

自分が受け継ぐべきことは何であるか。

それを考えることが、「相続」の本当の意味なのです。

真城義麿

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2021年1月15日 (金)

反抗という名の自己主張

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“反抗期”という言い方は、
親から子を見た言い方です。
親を中心にして子どもを見ているから
反抗、反抗と言うのです。
だけど、
子どもを中心に考えたら、
反抗ではなくて
初めて自分を主張できるようになった
“自己主張期”という喜ばしいときなのです。
      宮城顗(みやぎ・しずか)

 ☆ ☆ ☆

宮城先生の本を読んでいて、「あ、いいな」と思いました。

親からすれば、子からの反抗はしんどいものだけれど、子どもが親に反抗的になるのは、ある意味ちゃんと成長している証。

反抗するのが良くて、反抗しないのが良くない、と言っているわけではありません。

ただ、今までなんでも「うん、うん」と首を縦に振っていたのに、急に首を横に振りだしたからといって、慌てることも嘆くこともないということです。

そもそも、この“私”自身、そういう転換期があったのではないですか?

反抗的な態度を表わしたか否かは、人それぞれですが。

たまに、「この子は反抗したことがないんです」みたいに言う親御さんがいらっしゃいますが、お子さん自身がかなり溜め込んでいる気持ちがあるかもしれません。

自分の意見を押し付ける言い方ではなく、何を想っているか? どうしたいか? 私(親)の考えをどう思うか? など聞くことは大切だと思います。

さて、1月は成人式があるから、この言葉はいいなと思いましたが、考えてみれば “反抗期”って 幼児期と思春期くらいに表出される“自己主張”ですよね。

成人(20歳)になって出てくる“反抗期”は、ちょっと💦

さてさて、親と子の関係における反抗期だけではなく、私たち自身の反抗期について想いました。

年齢に関係なく、私たちが発する反抗。それは、疑いではないでしょうか。

 阿弥陀さんっていたの?

 阿弥陀さんって、実在の人じゃないんでしょ?

 阿弥陀さん信じてどうなるの?

 阿弥陀さんが救ってくれるなんて、そんなわけないじゃん! 

 念仏だけで救われるわけないじゃん!

疑問が湧くこと、疑いを持つこと、それはある意味ちゃんと関心を持っている(阿弥陀さんを気にしている、人生に向き合っている)証。

いきなり「阿弥陀さまは最高だ!」「親鸞聖人の教えは素晴らしい!」なんて言えてしまう方が 危ういです。

「最高だ」「素晴らしい」を否定しているわけではありませんが、そう思ったにもかかわらず 悲しい出来事があると「最高だと思ったのに」「素晴らしくなかった」と、悲しい出来事の責任を自分が良いと思ったものに転化してしまいます。

阿弥陀さんに、念仏に疑いのこころを持つ者に対し、「べつにいいよ、私だってあなたを助ける気はないから」などと阿弥陀さんは言ったり考えたりしません。

疑いの気持ちを持つ者をも、疑いのこころを持つ根っこがある者(つまりすべての生きとし生けるもの)をも、阿弥陀は救うと誓願されました。

幼少期、思春期における反抗と表現される自己主張は、親や身近な先生に対してなされます。

まったくの赤の他人に(反抗期における)反抗をする人は、いないでしょう。

阿弥陀なんて信じないよという疑いという名の自己主張は、阿弥陀に対してなされます。

その時点で、阿弥陀と接点が持たれています。

そのことが阿弥陀を南無している(こころのどこかで気にかけている)、つまりお念仏申していることです。

疑いが、いつのころからか信順へと移ろうのです。

南無阿弥陀仏は、自己主張の叫び

2020年10月29日 (木)

甚深微妙の世界

本堂前の第2掲示板 久しぶりに張り替え。
(山門前の掲示板は毎月1日に張り替えていますが、本堂前の掲示板は時期を決めずに張り替えています)

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鈍刀を磨く 坂村真民

鈍刀をいくら磨いても
 無駄なことだというが
何もそんなことばに
 耳を貸す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかもしれないが
磨く本人が変わってくる
つまり、刀がすまぬと言いながら
 磨く本人を
  光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ

 ☆

自分が励んでいると思い込んでいたけれど、

実は、そうできるご縁をいただいてのこと

鈍等を磨いた結果、刀が光ることを、

自分が励んだ結果、何かを得ることを、

期待しているけれど、

そうできること、そのこと自体が、すでにいただきもの。

自分のすることを為していくなかで、私自身が磨かれていく。

自分の意思を超えた、他力(阿弥陀からの呼びかけ)の世界を生きている

南無阿弥陀仏

 ☆

「甚深微妙(じんじんみみょう)」

「甚深」は、はなはだ深いこと

「微妙(みみょう)」は、「微」は、極めて細かいさま。物事の奥底、極めて細かいところまで観察したとき、そこに大切なこと(「妙」)が見えてきます。

私を見つめて見つめて見つめていったときに、私は私だけで成り立っているのではなくて、外からの縁によってあることが見えてきます。

私の内側に、私には持ち得ない外側の世界が広がっていることが見えてきます。

そして、外側の世界をよ~く観察すると「私」が見えてきます。

外側の世界は「私」がいることによって構成されています。

一人ひとりの “私” によって世の中は成り立っています。

私の内を見つめると外が見えて、外を見つめると“私”が見える。

私のなかにすべてがあり、すべてのなかに私がいます。

とても不思議な世界が見えてきます。

それが甚深微妙の世界です☆

2020年8月17日 (月)

あなたの知らないところに

今日も暑かったですね🌞

静岡県浜松市では、41.1℃‼

京都も39℃近くまで上がったとか。

京都に住んでいた最後の夏も、とてもとても暑かった日があるのですが、あのときは何℃あったんだろう?と、こんな暑い日には思い出します。

天気情報番組で言われているよりも、実際の気温はもっと高いですね。

皆様、お気をつけください。

今日は、境内の植木の剪定のため、植木屋さんが作業をしてくださいました。

今日は、墓石に名前を刻むために、石屋さんが作業をしてくださいました。

今日は、注文の品を運んで、生協さんが来てくださいました。

暑い熱いなか、お仕事をしてくださり、ありがとうございます。

植木屋さん、石屋さん、生協さんと話をして、そのお顔を見ているとき、それぞれの方にご家族がいることも想い浮かびました。

お子さんの姿も想像しました。

はたらくということは 自分のためでもあるけれど、それとともに、“この人のために”ということがあると、より動ける、ということもあります。

焼けつく暑さのなか、みんな誰かの顔を思い浮かべながら はたらいているんだなぁと想いました。

「いのちは尊い」ということが言われます。

特に、終戦と結びつく夏には、「いのちの尊さ」が語られます。

でも、その尊さは、決して犠牲になったから尊いわけではありません。

戦地で亡くなった人びとには、家族がいます。

「戦地で亡くなった」のは、この国から戦地に赴いた人びとを想うかもしれませんが、その地に住む人々もまた、戦地で亡くなった人びとです。

戦地に赴き、亡くなった人がいる。その方の家族や有縁の人びとがいる。

戦地にされてしまった地に生きていた人びとがいる。自分たちが生きた地で、戦争に巻き込まれ、殺された人びとがいる。

私たちの知らない人びとが、大勢いる。

その大勢の人それぞれに、家族や有縁の人びとがいる。

亡くなった人が生きていたら、生まれていたかもしれない いのちもある。

あぁ、私たちは知識を得ているようで、何も知らない。

何も知らないということも、知らない。

私の知らない人がいる。その人に家族がいる、大切な人がいる、その人自身も意識していない 多くの人との縁がある。

そういうことを想う。イメージする。

目の前のひとりの背景に、数えきれないほど多くの人がいる。

もしかしたら、目の前の人とわたしは、つながっているのかもしれない。

いのちの尊さは、いのちの不思議

南無阿弥陀仏

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あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえのないように
あなたの知らない人生も また かけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を知るということだ
  灰谷健次郎『ひとりぼっちの動物園』

2020年6月26日 (金)

他者(ひと)を傷つける善意

蒸し暑い日となりました。体調崩されませんように。

また、大雨に見舞われている 長崎の皆様はご無事でしょうか。ご無事を念じております。

 ☆

外出自粛が解禁され、人の出も少しずつ戻ってきているようです。

このコロナ禍、何が正しいのか分からない中でも、出来得る限り罹患しないように罹患させないように、多くの方がお仕事や旅行・買い物等の移動を自粛していました。

すると、営業を自粛していない店舗、営業している店舗に対して攻撃を行う、「自粛警察」なる人々が表われました。

自分はこれだけ我慢しているのに、こいつらは我慢していないという不公平感や嫉妬心から攻撃心が湧いてくるようです。

意識的に敵意を剥き出しにしている「自粛警察」もいるでしょうが、中には何の疑いもなく、私が正しいという正義感から他者をとがめる人もいます。

最近では、マスクをしていない人に「マスクをしろ!」という「マスク警察」なる人も現れたそうです。

注意するだけならまだしも、暴力をふるう人もいると聞きます。

マスクをしていない小学生が殴られたという事件もありました。

それって、どうなのでしょう?

自分の正義を疑わず、自分の正義の枠から外れる人を取り締まる。それゆえ、「〇〇警察」と言われるようになったのでしょうが、

ここまでくると、「警察」に対する揶揄のようにも聞こえてきます。気の毒ですね。

ただ、「自粛警察」「マスク警察」に限らず、誰もが自分の正義を中心として生きています。

決して、「自粛警察」「マスク警察」けしからん! という話ではなくて、

果たして自分の意に反する者を攻撃していないか

結局、自分のストレス発散でやっているのではないか

そういうことを、他者への攻撃として表出する前に、自分自身で考えないといけません。

自分の正しさが生み出すものは、決して世間の平和ではありません。

なんてことを、いろいろと考えながら、不定期に貼り変えている第2掲示板に、このようなことばを掲げました。

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「“私は正しい”という心が 善意という衣を纏(まと)っている」

「地獄への道は 善意で敷き詰められている」

こういう ことばを掲げるときって、やはり自分自身を正義に置いているんだよなぁという棘(とげ)が刺さるので、とても痛いです。

南無阿弥陀仏

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