私一人(いちにん)がためなりけり

2013年6月26日 (水)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的⑥(了)

タイトル:対機説法
   
自分の悩みに直接していなくても、おしえに触れていれば、そこからなにかしらの気付きがある。
この おしえは、この悩みに対してのもので、あの おしえは、あの悩みに対するもの…などと分類されるものではなく、おしえを聞いて、そこから自分の悩みに引き当てて、個々それぞれが、「あぁ、そういうことだったのですね」と気づきを得る。
 
お釈迦さまのお説法を「対機説法(たいきせっぽう)」と言います。
「機」とは「人」のこと。お釈迦さまは、悩みを持つ人々それぞれに対し、おしえを説かれました。その説法のスタイルを、「対機説法」と言います。
最近書いている、「自分の悩みに直接していなくても、おしえに触れていれば、そこからなにかしらの気付きがある」ということと、「対機説法」は矛盾してしまうかな? と、思いました。
でも、やはり矛盾はしていないなと、思いました。

お釈迦さまのお説法(お経)は、そんなには知らないけれど、
お盆の時期によくお話する「芥子の実」のお話
 
お子さんを亡くされたお母さんは、お釈迦さまのお説法によって、いのちの真実の姿に目覚めます。
しかしそれは、子どもを亡くした悲しみを解消してくれるおしえを、お釈迦さまが説いてくださったからではありません。亡くなられたお子さんは、結局亡くなられたままです。でも、いのちの真実の姿を、亡き子を通して目覚めさせていただいたお母さんは、お釈迦さまがお話されることを通して、自分の中で想いを巡らせ巡らせして、やがて、お釈迦さまが伝えようとしたことに、自ら辿り着いたのです。
お釈迦さまは、悩み解消のためのお話を、ピンポイントでしてくださったのではありません。
お釈迦さまが口にされたことばを通して、それを聞いて、自分で考え考え、想い想い、悩み悩みし、やがて いのちに真向かいになる人が誕生した。
そのことが、「対機説法」なのだと、今になって感じています。
 
おしえは、普遍的なものであり、同時に、一人だけのもの。
しかし、一人だけのものでありながら、普遍的なもの。誰にも通じるもの。

2013年6月25日 (火)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的⑤

タイトル:悩みに対する万能薬

友人と話していて、このようなことを言っていました。
「便秘や下痢になった場合、
西洋医学では、便秘に対してはこれ、下痢に対してはこれ、と、症状に対応した薬を処方する。
けれど、
東洋医学(漢方)は、便秘と下痢といった正反対の症状であっても、体の悪いところを治すという観点から、同じ薬を処方する。
症状に対応した薬の方が治りは早いけれど、またいつか(薬の効果が無くなればすぐにでも)、症状が現われてしまう。
ピンポイントの症状に対応するのではなく、体の悪いところを治しておけば、治療に時間はかかるかもしれないけれど、治った後、症状は出にくくなる」
 
私の記憶のままに書きました。事実誤認があればお許しください。
さて、この話を聞いて、今、自分が考えていること(6月21日~24日の投稿)がピタッと当てはまりました。
友人とは、「今、自分が考えていること」について話していたわけではありません。まったく別の、関係のない話をしていたのですが、ものごとは関連を持っているゆえ、こころの中でパズルのピースがはまったような気がしました。
 
悩みを抱えるあなたは、
悩みを聞いてもらいたくて、その悩みにピンポイントでの答を求めます。あるいは、応えてくれる人を求めます。
たしかに、答や応えてくれる人の発言がピタッと当てはまれば、すぐに悩みが晴れることもあるでしょう。
しかし、生きていると、次から次に悩みは起こります。
そのたびに、答を求めたり、応えてくれる人の元を訪ねます。
それをくり返していると、自分で解決する、視点や考え方を変えてみる、悪いのは周りではなくて自分だったのではないかと考え直してみる…そういう力が失われてしまいます。同じ薬を飲み続けていたら、効果が薄くなるように。
厄介なことに、せっかく悩みに応えてくれる人・話を聞いてくれる人に出会えたとしても、この私の根性は、そんな有り難い出会いを、自ら崩してしまいます。自分が納得できる応えをしてくれるうちは、「あぁ、この人は分かってるなぁ。やさしいなぁ。頼りになるなぁ」と、頷けます。でも、どんなに長いことお世話になった人でも、たった一度でも、自分の考えに合わない応えや厳しいことばをかけられると、「この人はダメだ」と見限ってしまいます。薬を飲み続けているから、病気が落ち着いているのに、「もう治った」「この薬じゃダメだ」と素人判断で薬をやめて、症状を悪化させてしまうことがあるように。
 
たとえ、悩みにピンポイントで答えられたことばでなくても、応えてくれない人でも、
ことば(おしえ)に聞き続け、人との対話を楽しみ、人の話を聞くということを大切にしていると、
すぐに悩みを解消するものではなくても、
悩みそのものに応えたものでなくても、
悩みを抱える状態になったそのときに、自分で解決しようと試みる、別の視点や考え方をしてみる、自分にも悪いところがあったなと冷静に分析できる…そういう力が、自分でも知らないうちに身についているものです。じっくり ゆっくり 長く飲み続けた漢方薬は、いつの間にか体質改善をしてくれているかのように。
 
おしえに触れ“続ける”ということは、たとえ悩みにピンポイントで応えてくれるものではなくても、生きる力を与えてくれます。生きている間に直面する物事に対する対応力が養われます。
 
ことば・おしえ・人・出来事との出遇いを大切に
悩みに対する万能薬です


2013年6月24日 (月)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的④

タイトル:ことばは、今のあなたの悩みに直接していなくても、こころ動かします

ここのところ、「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」ということを中心に書いてきました。
しかし、「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」のは、優柔不断だからとか、根っこが無いからではありません。縁を生きている(縁に生きている)からです。
ということは、世で起こり得る事象・物事、人と人との関係、こころ動かされ感動(感謝・感激・感涙など)するということ…誰の身にもつながってあるということです。
震災が起き、被災された方々だけが悲しい思いをするわけではありません。たとえ被災しなくても、その事実に涙することがあります。身を動かされることがあります。
原発事故が起き、避難区域に住む方々だけが放射能汚染の恐怖のただ中にいるわけではありません。たとえ事故が起きた原発から離れたところに住んでいても、他人事ではありません。原発反対の立場を表明する人もいます。それでも原発推進を推し進める人もいます。
選挙・投票があり、当選した人のみ、政治に参加出来るわけではありません。落選しても、人のために何かしなければと活動する人もいれば、何も手に付かなくなる人もいるかもしれません。投票に行った人だけが、少なからず政治に関心があるわけではなく、関心有るゆえに無投票という人もいたことでしょう。
たとえが下手ですみません。つまり、あらゆる物事はつながっているということ。つながっている物事によって、私のこころは動くということ。
 
私、思うのです。
あなたが、今、悩みを抱えているとします。
今の世の中ですと、ネットで「いいこと書いてあるなぁ」と思えるようなサイトに辿り着いたとします。しかし、そのサイトで書かれていることは、あなたの悩みを聞いて、それに対して書かれたものではありません。ですから、今のあなたの悩みに、直接に応えているものではありません。
でも、直接応えるものではなくても、こころ動かされることがある。こころに突き刺さるものがある。こころのどこかに引っかかることがある。そういうことがあると思うのです。
仕事のこと、恋愛のこと、結婚のこと、家庭のこと、子どものこと、教育のこと、社会のこと、自分の体のこと、病気のこと…ったとえ悩みはジャンル分けできたとしても、その悩みに寄り添うことばに、ジャンルは無いと思うのです。
 
ことば(文章・話・会話)の中に、光明を見い出す(力を引き出される)ことがあります。
たとえ、今のあなたの悩みに直接に応えたものではなかったとしても。
それは、あらゆる物事がつながっているから。人と人がつながっているから。
  
つらつら書き綴っている この駄文に、何かしら感じてくれている人が、かつて数人はいました。
このサイトに限定した話ではなくて、
「いいこと書いてあるなぁ」とお気に入りしているサイトや本など
「この人の話好きだなぁ」と感じる人が書いた本や文章や絵画など・
「頑張っている人がいるなぁ」と感じた人やエピソードなど
たとえ今のあなたの悩みに直接していなくても、こころの琴線に触れることって、いっぱいあります。
「これは、今の私の悩みとは関係ない話だ」とか、「私の悩みに直接答えてくれていない」などと考えるのは、実は自分の中で答が用意されているから。あるいは、耳ざわりの言いことばで慰めて(誉めて)ほしいから。
すると(いえ、“だから”かな)、自分の意に反することは、聞こえなくなってしまいます。逆ギレする人もいることでしょう。自分の想いに合った人を探しに出かけてしまう人もいることでしょう。
悩みを解決してくれることばは、その内容によっては あるのかもしれません。しかし、解消してくれることばはありません。悩みを解決してくれる人(ことば)探しよりも、感じるこころを大切にして欲しいと思うのです。感じるこころを、誰もが持っているのです。その、感じるこころ装置が錆び付いてしまっているから、何も感じないのかもしれません。感じられる幅が狭くなっているのかもしれません。誰かを傷付けているのかもしれません(つまり、悩みの種は自分にあったのかもしれません)。
    
   
たとえば、   
あなたが、Aという悩みを持っていたとします。
Bという事柄について書かれたものがあったとします。
それじゃぁ、何にも感じないかというと、そんなことはありません。
Bの中に、私のこころ潤す何かがある場合が、いっぱい いっぱい あります。
そういうことを伝えたくて、
ここのところ、「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」ということを中心に書いてきました。
たとえが下手で、いえ、文章が下手ですみません。

2013年6月23日 (日)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的③

タイトル:と、いうことを こころ にとめて

2013年6月21日(金)の投稿で、
「人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります」
と書きました。べつにそのこと自体は、否定されることではないと思います。
というか、そういう私であるという自覚が大切です。
  
先輩僧侶が強く訴えていました。
「私は、原発に反対しています。しかし、身内に誰か一人でも、電力会社に勤める人がいたとしたら、“原発反対”とは言い切れないかもしれません。そのように、条件次第で、私達の想いというものは変わるのです。そういうことを自覚しなければいけない。そのうえで“原発反対”を訴えるのでなければ、“原発推進”を主張する者と、やっていることは同じになってしまいます」
  
6月22日(土)の投稿で、悲しいベビーカー論争について書きました。
このことも、ベビーカーが邪魔だと言っている人も、子どもや孫を持てば、想いが変わるかもしれない。
ベビーカーを認めてといっている人も、必要な時期を過ぎると、他人事にしてしまうかもしれない。
  
今の自分の立場・境遇・環境・条件だけに立ってものを言うのは簡単です。
しかし、もし自分が、あい対する者の立場に立ったとしたら…。私は、今の主張をするでしょうか? できるでしょうか? と、疑わなければならない程度の主張を、今、しているのかもしれません。 

2013年6月22日 (土)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的②

タイトル:権利の一割引を

電車内でのベビーカーの使用について論争になっています。
肯定派は、ベビーカーの必要性や子どもがいると荷物も増える事情を訴えます。
反対派は、マナーを持ち合わせない親を責めます。
 
何事も、双方の意見・主張を、それぞれに聞くと、それなりの言い分があります。
それぞれに耳を傾けると、“間違っている”とも言い切れません(あきらかに「あんた、そりゃ違うだろ!!」ってときもありますが)。
だって、正しいことを言っているんだもの。確かに、間違ったことは言ってない。配慮を欠いたこと、他者(ひと)を見ない物言いだけど。
正しいことを言っている者と、正しいことを言っている者どうしが、自分の言い分を言えば、そりゃぶつかります。
  
子どもを持つ親にとって、ベビーカーは必需品。「こんなに混んでいるときにベビーカーで乗り込んで申し訳ない」と思っている親もたくさんいます。
自分たちこそ優先されて当たり前という態度の親もいますが。そのような親の態度を見て、だから許せないという気持ちも分かります。
  
それぞれに意見はあるものです。想いがあるものです。言い分があるものです。
でも、その個人的な意見は意見として、それを越えて認め合わなければいけない部分があるのではないでしょうか。
「想い」や「言い分」を言い換えると、「権利」を主張しているように感じます。
一方はベビーカーを利用する権利、一方は電車に快適に乗る権利…現代人は、権利の主張が大好きです。権利の「権」は、「仮」と同義。仮の約束事で成り立っている(成り立たせている)のが、社会。主張しあうものではなく、譲り合ってこその権利だと思うのですが。
自分が主張する権利とやらを、一割二割引いてみてはいかがでしょうか。お互いに。
いがみ合わずとも、今よりは快適な生活が送れると思います。
   
自分の主張が通れば、住みやすい環境になるとお思いでしょうが、そうはいきません。
結局、どんなに思い通りになったって、主張を押し通す“私”がいるのですから。
思い通りになった果てにあるのは、“孤独”です。
  
ブツブツ書きましたが、ことばが少ないことが原因かと…
「すいません」「失礼します」「どうぞ、どうぞ」…「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」
相手の目を見て挨拶を交わせば、ベビーカー論争なんて悲しい争いは起きないと思います。

2013年6月21日 (金)

普遍的であり、一人のためのもの 一人のためのものであり、普遍的①

タイトル:目の前に人がいる そのつもりで語る

自民党 高市早苗政調会長の発言 「福島第一原発事故で、死亡者が出ているという状況にはない。安全性を確保しながら活用するしかない」には驚かされました。
 
自民党は原発推進ですし、高市議員はもともと他者(ひと)が見えていないような発言をする方だったので(と、私は感じています)、こと原発に関していえば、立場・状況・環境などが変わったとしても、発言にブレはないと思います(こういうときは、ブレがないのですね)。
しかし、人間の思想・発言は、立場・状況・環境などが変われば、コロコロ変わります。
自民党は、政権を奪取したので原発推進に邁進していますが、もし政権が民主党のままだったら、民主党の原発政策にケチをつけていたことでしょう。ましてや、政権与党としての民主党議員の誰かが、高市議員のような発言をしたとしたら、鬼の首を取ったかのように、謝罪と発言の撤回、議員辞職、党首(首相)の責任を追及したことでしょう。
そういう面で、人間というものはブレながら生きているものですね。芯がないのでしょう。
 
べつに高市議員をかばっているわけではありません。
原発事故で死亡者が出ている状況にないだなんて、事実誤認もはなはだしい!!!! 何人の人を、大地を、いのちを殺してきたと思っているのですか!!!!
 
ただ、立場・状況・環境などが変わると、発言・思想に変化が見えるのは、誰もが経験したことでしょう。
想いを巡らして、誰かと話し合って、自分がつらい経験をして、つらい想いをしている人がいることに目を向けて、そのうえで思想や発言に変化が現われるのなら、その変化はブレではなく、大切な経験だと思います。
しかし、誰かに注意されたからとか、誰かに「こう言いなさい」と言われたとか、発言によって自分が傷ついたから、そのうえで発言を表向き変えるというのは、悲しすぎます。
  
そもそも、思想・発言に、正しい正しくないということはないと思います。その背景には、個々の人生という背景がありますから。不適切ということはありますが。
今回の高市議員のような発言があったとき、私が気になるのは(腹が立つのは)、そこのみを叩き、責任を追及する議員とマスコミです。(そんなところでとどまってるんじゃぁない!! 足の引っ張り合いをしてるんじゃぁない!!)
国民は、不適切な発言をした人に対して、「あぁ、そういう考え方の人なんだ。それじゃぁ、そういうつもりでいよう」と思うと思うのです。その結果、次の選挙で…(当選してしまうから不思議)。
その挙げ句、発言主は、いとも簡単に謝罪をし、発言を撤回をします。
「今回の発言は、不適切であり、謝罪し、撤回致します」と。簡単に考えているのでしょうね。
発言のどこに問題があり、誰を傷付け、これからどうするのかを、自分のことばで表現し謝るのなら、聞く耳も持てますが、謝罪が謝罪になっていないのが一般的です。おそらく、自分でもどこがいけなかったのか分からず謝っている人もいるのではないでしょうか。
 
自由に発言ができるということは、しあわせなことだと思います。
しかし、自分の想いを好き勝手にしゃべるのではなく、
自分の発言を聞き人たち・耳にする人たちがいるということを、忘れてはいけないと思います。
そういう意味で、顔と顔を向き合っての会話って、大事です。
ネットやSNSでの人間関係の悩みを耳にするようになりましたが、顔が見えない者どうしが、自分の発言によってどう思われるかを少しも考えずに、ことばのやりとり(“会話”とは言えないですね)をするのだから、傷付け合いや誤解が生まれても仕方がありません。

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