親鸞に出遇った人々

2013年3月 1日 (金)

二階堂行邦先生 「真宗聖典を毎日3ページずつ、お内仏の前で声に出して読んでいたときがあるんだ」

今、手元に一冊のアルバムがあります。
「スリランカ旅行 2003年2月15日~22日」
もう10年経つのか、懐かしいなぁ…
二階堂行邦先生と奥様とご一緒したんだよなぁ。
 
2013年2月22日 真宗大谷派東京教区専福寺 二階堂行邦前住職が還浄されました。
体調がよくない旨お聞きしていました。1月27日の教区御遠忌も、ご出講のご予定が叶わず、心配していました。訃報を伝え聞いたときは、冷静に受け止めつつ、その中でも驚きを隠せませんでした。
二階堂先生にお世話になった方は数知れず。多くの方がご葬儀に参列されていました。
 
東京教区で、今、率先して身をもって教化活動に当たられている方の多くが、二階堂先生の教えを受けてこられたと思います。厳しい方だったとお聞きしています。
「お聞きしています」というのは、私の世代くらいが教区に出てくる頃には、優しく接してくださった感じがあるからです。私よりも10歳ほど上以上の方々と、私くらいの世代では、先生に対する印象が違うかと思います。
何を言っているかといえば、先生との思い出を思い返すとき、一緒に吞みに行ったときのことを思い出すからです。
私が京都から戻って間もなく(20年ほど前)、二階堂先生を含めて数人で吞みに行ったとき、先生が私を指さして怒りました。「だいたいお前はなぁ…」 
その瞬間、「指をさしたら、他の3本の指は自分に向いてるんだぞ!!」と私は言い返しました。
周りにいる、先生に厳しく育てられた世代の方々は、酔いが覚めたような顔をしていました。怒鳴り返されるかと思いきや…
「そうか! そうだなぁ、俺の方向いてたわ!!」
アッハッハッと笑って、吞み続けられました。そのときのお顔が、記憶に残っています。私も、バカなことを言い返したものです。
優しく受け容れてくださったことへの感謝と、厳しく育てられた方々と同時期に育てられたかったなぁという想いがあります。
   
  
なんのときか忘れましたが、二階堂先生が
「真宗聖典を毎日3ページずつ、お内仏の前で声に出して読んでいたときがあるんだ。声に出して読んでいると、意味は分からなくても、こころに響いたもんだ」
声に出して聖教(しょうぎょう)を読む。先生もそういうことをしてたんだぁと思って、私もマネをしました。始めはただ読んでいるだけでした。しばらくして、私は肝臓を患い、伏せてしまいました。それでも、体が動くときは、お内仏の前で、真宗聖典を読んでいました。読みながら、自然と涙がこぼれてきました。『教行信証』…なんてすごいものを親鸞聖人はお書きになられたんだ!! って想いました。
その感動は今でも覚えているのですが、残念ながら、『教行信証』に何が書かれているのか説けと言われると、まったくお話できません。
そのときの涙があるので、「お経って、何を言っているか分かりません。どうして現代語で訳して、それを読まないんですか?」などと言われるとつい反論してしまいます。「お聖教を声に出して読んでください」と。
ネット情報が氾濫する現代です。ちょっと調べれば、お経の現代語訳はけっこう手に入ります。現代語で知りたい気持ちは分かります。その学びも大切です。しかし、現代語は訳した人の想いや考え方が入ってしまいます。現代語訳した時点で、お聖教でありつつも、お聖教ではなくなってしまいます。
お聖教を声に出して読んでみてください。きっと、感じることがあるはずです。

先の、先生に言い返してしまったエピソードは、すぐに思い出しました。この、お聖教を声に出して読む話は、二階堂先生のお通夜で、正信偈をお勤めしているときに思い出しました。
「あぁ、お聖教から遠ざかった生き方をしていたなぁ…」
お通夜のお勤め中に、そんなことを想いました。先生からの宿題だと想っています。
   
  
リーフレット委員会に籍を置いていたとき、スタッフ全員で、先生にお話を伺いました。
私は勝手に、「こういうものが必要だ」「こういうものはダメだ」と、方向性を示していただけるものと思い込んでいました。しかし、「こうあらねばならない、ということは全くありません。あなたたちの力で、たくさんリーフレットを作ってください」と先生は仰いました(と、私は受け止めました)。
若い力が何かしようとすることを、温かく見守ってくれていたのだと思います。それは同時に、責任を背負う覚悟があってのメッセージだったのだと、今更ながらに想います。
周りに向く優しさとは、内なる厳しさの表われなのですね。
   
   
ホームページ班 スタッフとしてお話を伺ったとき。今思い返せば、このときが、ゆっくりとお話をした最後になります。先生とお話をしていて、お話の内容を、一刻も早く、ご縁ある方(教区HPを訪ねてくださった方)にお伝えしたくて、インタビューから帰ってすぐにパソコンに向かい、テープ起こしをしたことを覚えています。
東京教区HP「くらしにじぃーん」 筆者をたずねて 二階堂行邦先生
  
  
思い出すままに書いています。あぁ、かわいがってもらってたんだなぁ。
今、手元に一冊のアルバムがあります。先生と共にスリランカを旅行した際のアルバムです。
悔しいんだけど、旅行の記憶があまりありません。
シギリヤロックに登ったとか、現地の日本料理屋の料理とか、ホテルのロビーに立派なひな壇が飾ってあったとか(異国にいながら、日本に触れていました)、そういう記憶はあるのだけど…。
せっかく一週間近く一緒に旅行しながら、二階堂先生と何を話したか、何を言われたか、先生の仕草…そういうことが思い出せません。悔しいなぁ。
旅行に行ったら、観光もいいけれど、共に旅する人と語り合う。それが旅行の醍醐味なんですね。
  
阿弥陀さまのもとで、奥様と会われたかなぁ。
うん、よかった。
 
二階堂行邦先生、お世話になりました。ありがとうございます。
あらためてお聖教に向き合います。

2012年10月19日 (金)

川村妙慶さん

2012年10月18日(木)
真宗大谷派 横浜別院 公開講座へ 川村妙慶さんのお話を聞きに伺いました。

 book

思い通りにならぬ我が身・我が人生
思い通りになることが幸せだという 迷いの中を生きている私
「好きだよ」「信じているよ」「裏切らないよね」と言って、お互いの関係が築かれていることを確認しようとするけれど、そのセリフが出るという そのことが、相手を疑っていることの表れです。
思い通りにしたい、こうあらねばならぬ、災いは困るという囚われの中で、実は、自分で自分を苦しめているのです。
この世で起こる物事は、すべて因があって、縁があって、果がある。いきなり果だけが現われるわけではありません。因・縁・果の道理を生きるということは、思い通りにならない、自分にとって都合の悪いことだって起こり得ます。それをどうにかしたい、無くしたいという気持ちもわかります。でも、それは出来ません。
親鸞聖人という方は、どうにかしたい、無くしたい現実をどうにかしようとされた方ではありません。どうにかしたい、無くしたい現実を引き受けて生きて行かれた方です。そんな私たちに、「ただおお念仏です」と説かれたのです。阿弥陀さまのおすくいは、すべての人に平等に開かれているのですから。
(以上、私のノートより)
 
 book
 
私(白山勝久)は、「思い通りにならないこと、都合の悪いことをどうにかしたいと願うけど、そんなのは無理だし、自分さえ良ければいいのですか?」なんて、スパッと相手を切ってしまうような言い方をしてしまいますが、
川村妙慶さんは、優しい語り口の方でした。女性だからというだけでなく、相手に頷き、認め、そして声をかけられている(お話をされている)のだなぁと感じました。
お話の1時間があっという間でした。
ありがとうございます。

横浜別院の皆様にもお世話になりました。聞法の場を開いてくださいまして、ありがとうございます。
横浜別院では、18・19・20日と、報恩講が勤められます。
お近くの方はぜひご参詣ください。

2012年3月10日 (土)

甲斐和里子さん 「ほかのことは、みんな、こまい こまい」

(昨日の続き)
さて、甲斐和里子さんの紹介を書く前に、河村とし子さんの紹介をさせていただきました。
仏縁によって親鸞聖人に出遇った河村さん。聴聞生活を続ける中で、どうしてもお会いしたい人がいました。それが、甲斐和里子さん(明治元年~昭和37年)でした。
甲斐さんは、広島県勝願寺(本願寺派)にお生まれになります。ご法義の篤いご両親(住職・坊守)、ご兄弟に囲まれ、生まれながらにしてお念仏の生活をされていました。明治29年 芸術家の甲斐虎山氏と結婚され、明治32年 夫虎山氏と共に文中女学校(京都女子学園の前身)を創設、大正9年 京都女子専門学校を新設されました。学校設立の背景には、仏教精神を土台とした学びの場が必要であるという想いがあり、自らも教鞭を執りました。
甲斐さんの著書『草かご』『草かご その2』『落葉かご』を通して、その温かく包み込むような人柄に触れた河村さんは、どうにかして甲斐さんにお会いしたいという想いが募ります。京都に住む師に紹介をお願いし、そして想いが叶う日がきました。
河村さんが住む山口県萩市から、甲斐さんの居られる京都まで、まだ新幹線のない時代、時間をかけて甲斐さんの住まいを尋ねました。甲斐さんにお会いしたらあれを聞こう これを聞こうと、質問したいことをたくさんメモしていきました。
そして、挨拶を交わし、甲斐さんが河村さんに話しかけられました。
「遠いところをよう来られましたのう。聞けば、キリスト教から浄土真宗にうつられたとか。よう念仏に出遇われたことよのう。よかったのう、よかったのう。ほかのことは、みんな、こまい こまい」

そのお姿、声、言葉、仕草に河村さんは言葉をなくします。胸がいっぱいになり、涙があふれ、「ありがとうございます」とお礼を言うのが精一杯で、何も話を聞かずにその場を去ったそうです。
間に立ってくださった師が、「聞きたいことがたくさんあったんじゃないのか? あれでよかったのか? 今なら引き返せるぞ」と声をかけてくださったそうですが、河村さんには充分でした。

「ほかのことは、みんな、こまい こまい」
そのことばのみが、河村さんの耳の底に留まりました。
念仏のみぞまこと。念仏に出遇わせていただいた身にとって、ほかのことはこまい こまい。とるに足りないことでした。

その後、河村さんが甲斐さんにお会いすることはありませんでした。甲斐さんは昭和37年11月27日 95歳の生涯を閉じられます。河村さんの耳の底には、甲斐和里子さんのことばの響きが、いつまでも残っています。
「ほかのことはこまい こまい」


み仏の み名を称える わが声は わが声ながら 尊かりけり

み仏をよぶわが声は み仏の われをよびます み声なりけり

(参考『親鸞に出遇った人びと』③ 同朋舎)

2012年3月 9日 (金)

河村とし子さん「おしえに出遇えることは、当たり前のことではなく、有り難いことなのです」

2012年3月の掲示板は、甲斐和里子さんの「み仏の み名を称える わが声は わが声ながら 尊かりけり」という ことば を掲示させていただいています。
この ことば は、真宗大谷派の機関誌『真宗』の取材でお話をお聞かせいただいた住職から教えていただきました。取材中、住職がこの ことば を言われ、素敵な ことば だなぁと感じました。しかし、失礼なことに、甲斐和里子さんのことは存じ上げませんでした。
取材を終え、寺に戻って本棚を確認すると、以前読んだ本の中に、甲斐和里子さんのことも、今月のことばも書いてありました。そんなものですねぇ。

さて、甲斐和里子さんについて少し書こうと思ったのですが、甲斐さんに触れる前に、お一人紹介させていただきます。河村とし子さんという方です。
河村とし子さんは、明石の熱心なクリスチャンの家庭に生まれ、幼い頃からキリスト教の日曜学校に通われ、洗礼も受けられた方です。進学のため上京し、そこで萩出身のご主人と出遇われます。ご主人の家の宗旨が何であろうと、クリスチャンであり続けることを条件に結婚されました。
クリスチャンとして「信者はすなわち伝道者たれ」ということばが心に刻み込まれていた河村さんは、ご主人のご両親に、毎晩毎晩キリスト教の教えを説いて聞かせます。ご主人のご両親は、嫌な顔ひとつせず、ニコニコとお嫁さんのお話を聞き続けたそうです。
改宗させるのは時間の問題だと思ったのですが、話し続けているうちに、河村さんの方にこころの変化が起こります。なぜこんなにニコニコしているんだろう。義理の両親は、お寺で法座があると、畑仕事を休んででも出かけ、帰ってくると嬉しそうに法座の話をしている。いったいお寺とはどんな所なんだろう。お寺で何をしているんだろう…。
ある日、河村さんは思い立ってお寺での法座に出かけられます。その日のお話は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」で有名な『歎異抄』第3章だったそうです。そうです。河村さんのご実家の宗旨は浄土真宗だったのです。
今まで、「善人は神に救われ、悪人は神の裁きを受ける」という おしえ に生きてきた河村さんにとって、「善人ですら救われるのですから、悪人が救われることは言うまでもありません」という おしえ は驚き以外ありませんでした。お話をされていた僧侶に、「今日の話のご本は何なのか、あなたたちの宗旨の開祖は誰なのか」尋ねたそうです。そのときに『歎異抄』をもらい、何度も何度も読み返しました。この出来事が、親鸞聖人との出遇いでした。
『歎異抄』を通して親鸞聖人に出会ったわけですが、畑仕事を休んでまで遠い遠いお寺まで法座に出かけるご両親の姿・キリスト教の話をし続ける嫁に対し、嫌な顔ひとつせず、それどころか温かく迎え入れてくれたご両親のこころ。それらに触れ、親鸞聖人に敬慕の念を抱きます。
(河村さんも言われていますが、決してキリスト教がダメで、真宗が良いと言っているのではありません。河村さんが抱いた人生の疑問に応えてくださったのが、親鸞聖人だったのです)

しかし、それで気持ちがスッキリした、すくわれたわけではありません。キリスト教を信じていた頃の疑問は氷解したけれど、親鸞聖人に出遇って、ますます分からないことが出てきた。なぜ浄土真宗なのか。なぜ念仏なのか。両親は起きてから寝るまで、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と言っているけれど、私の口からは念仏が出てこない。どうすれば念仏が出てくるのか。
河村さんは聴聞を続けます。でも、なかなか頷けない。そんな自分を嫌い、仏法聴聞に専念するために、離婚をしたいと両親に訴えます。
「仏法を聴聞したいという気持ちが出てきたと言いうことは、もうすでに仏さまの御手の中に抱かれているということです。離婚などということは考えないでいいから、子どものことも家事のことも私たちにまかせて、あなたは日本のどこまででも出かけていいから、仏法聴聞をしてください」と、ご両親から言われたそうです。
仏法聴聞を続けるある日、ふと念仏が出る不思議な瞬間がありました。今まで自分が、自分がの想いで生きてきたけど、自分の想いを超えた大きなはたらきの中を生かされていたんだということを、ふと思われたそうです。
何か明確な答えを、ある僧侶の話から得たというわけではありません。仏法聴聞を続ける中で、生き続ける中で、ふと出遇えたのです。仏法聴聞しても分からないというけれど、仏法聴聞しなければ分からないのです。仏法聴聞し続けていたから、念仏の声が出る瞬間(とき)が訪れたのです。

(参考『ほんとうのしあわせ―仏縁に恵まれて真の人生』河村とし子 東本願寺伝道ブックス24)

2012年3月 6日 (火)

佐々木道範さん「『真宗聖典』を開けるようになりました」

佐々木道範さんの、
「最近やっと、『真宗聖典』を開けるようになりました」
ということばを聞いて、親鸞聖人が表明されている「愚者の自覚」「愚禿の名告り」とは、こういうことなんだなぁと痛感させていただいています。
佐々木さんは、原発の事故後、初めは怒りが国や東電に向いていました。しかし、外で自由に遊べなくなった子どもたちと接するうちに、「こんなことになったのは、原発の危険性を疑わず、原発が有る生活を享受していた私のせいだ。子どもたちを自由に遊べなくしてしまったのは自分なんだ」と深く懺悔されます。
そこから、こんにちに至る佐々木さんの歩みがあります。福島の声を聞いてほしいと、全国各地でお話をされています。NPO法人「TEAM二本松」を立ち上げ、放射能測定装置を購入し、子どもたちの口に入る食べ物の放射性物質の数値を測定したり、今は、新たな目標として、空間線量の数値の少ない福島県内の土地を購入し、徹底的に除染をし、子どもたちが遊べる場を作ろうと歩み出されています。
その姿から、自身に対する徹底した懺悔と、子どもたちに対する讃嘆を感じます。その自覚こそが「愚者の自覚」であり、だからこそ『真宗聖典』を開けるようになった、おしえに出遇うことができたのだと思います。

愚者の自覚…「愚か者である」という自覚ではありません。
お釈迦さまや親鸞聖人がお説きくださった、縁を生きる存在。私たちは、生きとし生けるものは、縁を生かされています。そのことは、「つながりを持てたことに感謝」とか「良い行為には良い結果がくる」などといいう話ではありません。縁を生きる、いえ、生かされているということは、たとえ自分にその気はなくても、人を傷付ける・苦しめるということが起こりうるのです。あるいは、自分が傷付けられ、苦しめられるということもあります。
佐々木さんの、「原発の事故の責任は自分にある」と言われるようになる転換には、縁の気付きがあります。「愚者の自覚」とは、「縁の気付き」ではないでしょうか。

~回想~
「縁」によって生きているということは、事件事故に遭うこともある。
と言ったら、僧侶仲間から「そんなこと、被害に遭った人の前で言えるのか」と首を絞められたことがあります。

つらい出来事も縁によって起きます。
と言ったら、「そんなこと言わないでください」と泣かれたことがあります。

自分ではその気はなくても、人を傷付けることがあります。
と言ったら、「私はそんな生き方はしていません」と怒られたことがあります。

親鸞聖人は「愚者の自覚」「愚禿の名告り」をされました。
と言ったら、「しんらんさんって、そんな人だったんですか」と蔑まれてしまったことがあります。

「愚者の自覚」は、おしえに出遇う大切なことです。
と言ったら、それが目的になってしまったり、私は自覚をしましたと堂々と言われてしまったことがあります。
~回想 ここまで~

思い出すままに書いていたら、いろいろ思い出してしまいました(まるで私はトラブルメーカーのような)。
「自己の懺悔・弥陀の讃嘆」「愚者の自覚」「愚禿の名告り」が大切で、親鸞聖人にはそれがある。と言うと、私たちはどうしてもそれが目的になってしまったり、あるいは否定してしまったりする。
佐々木さんの自覚には、目的だとか、そんなんじゃダメだとかの思考(こうすれば阿弥陀に遇える・救われる)はまったくなく、生きているものが抱える悲しみ(縁)に出会い、感じ、受け止め、歩み出されています。その歩みの中で、真宗聖典を開けた、おしえに出遇えたのだと思います。
賢くなるため、理解するため、そのことによってすくわれるために『真宗聖典』を開くのではなく、生きているなかで『真宗聖典』が開かれてきた(おしえに出遇えた)のです。

佐々木さんの
「最近やっと、『真宗聖典』を開けるようになりました」
の一言に、親鸞聖人に出遇えた人がここにいる!という感銘を受けました(佐々木さんからは「そんなたいそうなことではありません」と言われてしまうかもしれませんが)。大切な告白だといただいています。

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