親鸞に出遇った人々

2020年10月30日 (金)

近田昭夫先生

10月30日を迎えました。11月の訪れを早く感じます。

時の流れの早さを感じるといえば、2年前(2018年)の1026日に近田昭夫先生(東京都 顕真寺前住職)が還浄されました。

もう2年経つんだ!と、過去帳を見て驚きました。

私が寺報をお送りすると、いつも所感を書いた返事のハガキが届きました。

寺報に「人の為と書いたら、偽りになりました」と書いたときは、「ヒトノタメとも、ヒトノナス(人為)ともよめますね。」との言葉をいただきました。

「人の為も、人為も、偽りですね。行為すべてが嘘偽りということではなく、自分の想いで物事を為している気でいるけれど、そうではありません、縁起の道理を生きる身です」といただいています。

また、寺報を継続していることに対して、「継続ハ信ナリの一語も思い起こされます。」とのハガキが届きました。

「継続は力なり」とはよく聞きますが、「継続ハ信ナリ」とは? 当時、その意味を考えたものです。

寺報を継続できることは、決して私に信心があるからではなく、阿弥陀さまより信を賜っているからである。そのような教えをいただいたものと思っています。

ヒトノタメ、あるいはヒトノナス思いの中で右往左往している私。

小石につまずくたびに立ち止まってしまう私。

そのような私が教えに出遇い、「南無阿弥陀仏」とお念仏申す身となりました。すべては阿弥陀の催しによります。

40歳近く年の離れた私に対して、「説教・法話で忙しくしていると、いつしか頭が高くなっておりました。」と懺悔され、「私にとっては、この私が念仏申す身になれた事以上のフシギはありません。有難く存じます。」と讃嘆されていました。

全身で、一生をかけて、阿弥陀より賜りたる念仏をされている先生です。

浄土で共に生きましょう。

南無阿弥陀仏

2020年5月16日 (土)

中村薫先生を偲んで

中村薫さん(なかむら・かおる=同朋大名誉教授、元学長。真宗大谷派養蓮寺前住職)8日、脳出血のため死去。71歳。
大谷大文学部卒、同大学院(仏教学)修了。同朋大文学部仏教文化学科や同大学院の教授、10年には学長を務めた。09年から、本紙朝刊(こころのぺーじ)の「今週のことば」の執筆を続けていた。8日夕、自宅で倒れた。
〔「東京新聞」2020年5月13日(水)朝刊より〕

 

中村薫先生還浄の報は、知り合いルートで9日に入っていたのですが、公の媒体での発表が見受けられなかったので、ブログに中村先生のことを書くことを控えていました。
13日の東京新聞に、先生の訃報が掲載されていたので、先生との思い出について書かせていただきます。

思い出といっても、先生と直接お会いしたのは、片手で足りる程度かもしれません。でも、とても印象に残っていることがあります。

私が大谷大学を卒業し、西蓮寺に戻ってきて、東京教区の研修会等に顔を出すようになって間もないころの話(25年ほど前のお話)。

5月の半ば、ちょうど今くらいの気候でした。

教区の先輩から「かっちゃん、明日から3日間ヒマ?」と電話がかかってきました。

幸か不幸か・・・予定が空いていました。

「空いてますが・・・」と言うや否や「じゃぁ、箱根行こう‼ 明日〇時に車で迎えに行くから」と先輩。

翌朝迎えに来てくれた先輩の車に乗り、箱根へ向かってレッツゴー🚙

(先輩)「今日から3日間、箱根で青年研修会があるんだけど、参加申し込みゼロだったんだよ。かっちゃんが申し込んでくれて(!?)よかった。唯一の参加者だから、先生とも仲良くなれるよ。あ、先生は同朋大学の中村薫先生ね」

なんてことを、当日朝に言われました。言う方も言う方ですが、参加する方もする方ですね。

会場に着いて、参加者はやはり私1人。担当スタッフは5人。教務所員が1人だったかな。それと先生の、計8人の研修会でした。
当時、「白山誘拐研修会」と、仲間内で話のネタになりました(^▽^)

その研修会で、中村先生からいただいたご法話のなかで、今でもしっかり覚えていることがります。というか、自分の聞法生活の礎のひとつになっていることがあります。

善導大師の著わされた『観経四帖疏(かんぎょうしじょうしょ)』のなかに出てくる「両重の因縁」の話。

私たちは、いのちを賜り、この身をいただいて生まれてきました。
この身を受けるということは、「父と母の精血を以て外の縁と為し」・・・父と母との出会いという縁が必要ですが、その縁は“外縁”です。外縁だけでは、この身を受けるということはありません。
自らの、「生まれたい!」と願うこころ、そのこころを“内因”として、内因と外縁の因縁が和合した(ひとつになった)からこそ、私はこの身を受けて生まれ、生きているのです。
父と母との出あいと共に、私自身の「生まれたい!」という願いもあったんですよ!

このような話を聞きました(私の記憶で書いていますので、先生がこのままを言ったわけではありません)。

大学在学時に『観経四帖疏』を読んで(目を通して)はいますが、「両重の因縁」の話は心に残っていませんでした。
先生は、ご自身の話をされ、そのうえで「両重の因縁」の話をされた。お釈迦さまの教えを、身と心を通して語られたから、研修会でのお話が心に残ったのだと思います。

「両重の因縁」とともに、芥川龍之介の『河童』も紹介されました。
それまで『河童』は読んだことがなく、研修会の後、本屋で買って読みました。

母河童のお腹の中にいる子に、父河童は尋ねます。「お前はこの世界へ生まれて来るかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と。
お腹の中の河童は「僕は生まれたくはありません」と返事をします。すると、そこにいあわせた産婆が・・・
(本文は「青空文庫 河童」で検索してお読みください)

という部分を、先生は話してくださいました。

「自分で生まれたいと思ったから、生まれてきた」

そんなことあるわけないだろうと、多くの人が思うことでしょう。けれど私は、「自分で生まれたいと思ったから、生まれてきた」という話がストンと落ちてきました。生まれたくなかったら、河童のように拒否することもできたのに、それをしなかった。

「私は、生まれたくて生まれてきた!」

私はそのことに納得したし、嬉しかったです。

あの研修会が今でも記憶に残っているのは、参加者が私ひとりだったからということではなく(その側面もあるけれど)、先生のお話の「両重の因縁」と『河童』が、私の思索面に大きな楔(くさび)を打ち込んだからでした。

中村先生のお話をいただき、「私は、生まれたくて生まれてきた!」という想いがきちんとした言葉として私の中に芽生えました。そのおかげで、かつて☆☆☆以下の文章を書いたことがあります。

あの研修会に引っ張られなかったら、今の私は、今の私の思考は生まれませんでした。
あの研修会への参加は、偶然であり、必然でした。

研修会へ引っ張ってくれた先輩、迎え入れてくれた先輩、ありがとうございます。晩の呑み会が楽しかったことも覚えています。

そして中村薫先生、ありがとうございます。またお目にかかりましょう👋 南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆ 

寺報に「私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています」と書いたら、「そんなことあるわけない」という反論を多数いただきました。確かに、生物学的に見れば、「そんなことあるわけない」のかもしれませんが、生まれることに意思があるか否かの話をしているのではありません。「そんなことあるわけない」と言われる方は、こう続けます。「自分で生まれたいと思ったのに、どうして障害を抱えて生まれるのですか」「どうして能力や才能を持つ者と持たない者が存在するのですか」と。平等のいのちのはずなのに、そうはなっていない現実を歎いてのことだと思います。その人にしてみれば、純粋な想いでの反論なのは伝わってきます。
しかし、その純粋な反論に怖さを感じます。「なぜ障害を持って生まれるのか」「なぜ能力や才能に違いがあるのか」という想いの根っこには、「健常者(と言われる者)が良くて、障害者(と言われる者)は可愛そう」「才能があり、功績を残している者は勝ち組。才能もなく、なにもできない者は負け組」というように、無意識な差別意識が内在しています。健常者と障害者、才能の有る者と無い者という差異(ちがい)は、確かにあります。けれど、それらに誰が優劣をつけられるというのですか。どこに優劣があるというのですか。
 
以前、「実際に殺人を犯した者も、頭の中で誰かを殺したい(あいつさえいなければ)と思った者も、罪は同じである」と書いたら、やはり反論をいただきました。「そんなことあるわけない」と。立法国家に生きる者としては、罪が同じであるわけはありませんが、他者の存在を認めないという意味において、実際に手をかけることも頭の中で思うことも、その罪に変わりはありません。つまりは、誰もが罪を抱えて生きているのです。
「あれはいけません。ああいうことをしましょう」と、道徳的なことを言うのであれば、この寺報は作っていません。閉じこもった思考に対し、少しでも違う視点を与えられれば、ちょっとでもくさびを打ち込むことが出来れば。そんなことを想いながら、毎月筆を執っています。
私の文章は「分からない」と言われます。はじめは、「文章が稚拙だから伝わらないんだ」と、己の文章力のなさを歎いていました。しかし、まったく予期せぬ価値観が現われたから、「分からない」ということもあるのだと思うようになりました。価値観の転換、新たな視点は、人生を面白くすると思います。
誰もが、自分の思い通りになればいいと思いながら生きています。その思いは勝手ですが、「自分の思い通りにしたい」「自分の好きに生きたい」と言うからには、生まれそのものに責任があるということを背負って欲しい。そういう想いも含めて、「私は、人間は、自分で生まれたいと思って生まれてくるのだと固く信じています」と主張しています。

「自分で生まれたいと思って生まれてくる」とは いっても、「生まれたい」という思いだけでは成就しません。「生まれてほしい」という願いがあるからこそ、生まれてくることができます。
善導大師がお示しくださったおことばです。
「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と為し、父母の精血を以て外縁と為す、因縁和合するが故にこの身あり」(善導大師『観経疏』「序分義」)
「生まれたい」という思いと父母の縁が和合して、今、この身があるのです、と。
育児放棄をした母親が逮捕されました。2人の幼いいのちが亡くなりました。子供たちは、食べ物以上に、親の愛を求めていたことでしょう。育児放棄をした母親は、子供の誕生に喜びを感じていたと伝えられています。この手のニュースがあると、「ひどい親だ」という声が必ず聞こえてきますが、どんなに可愛い子どもであっても、いや、我が子だからこそ、腹が立つということもあります。関係が近いだけに、綺麗ごとだけでは済まされない現実があるのです。そのようなときに、面倒を見てくれる親や友人、隣人がいなかったのか。本当に育児をする気がなくなったのなら、引き取ってくれる施設もあります。心が苦しいです。
「生まれてほしい」という願いと「生まれたい」という願い。親子の関係で考えると、前者は父と母、後者は子供ということになります。しかし、哀しいことに、人間感情の世界では、「生まれてきてくれてありがとう」「生んでくれてありがとう」という情だけでは上手くやっていけない現実があります。「どうして生まれてきたんだ」「なんで生んだんだ」という想いと紙一重です。
「生まれてほしい」という願いと「生まれたい」という願い。私は、前者は阿弥陀如来、後者は私と引き受けています。「生まれてほしい」という阿弥陀如来の願いと因縁和合して、今、この身を生きています。
ということは、私(白山勝久個人ということではなく、誰であっても)がいるということは、阿弥陀の願いが成就しているということ。「南無阿弥陀仏とお念仏申したら、どんなご利益がありますか?」と問われますが、念仏を称えたことによるご利益なんてありません。念仏称える身があるということがご利益です。「真宗の救いとは?」と尋ねられ、「今、この身があることです」と必ず応える私。すると、「そんなことあるわけない」と言われてしまいますが。
生きとし生けるもの、いのちあるもの、そのいとなみは、波に似ていると感じます。海に生じる波。形も大きさもみんな違う。癒しを与えるさざなみもあれば、いのちを奪う津波もある。けれど、どちらも波。波は、すぐに海と一味となり、またいつか波として生じる。海とは、阿弥陀如来の願い。「どうか生きてほしい」。その願いの中から生じる波(いのち)。色も形も能力も、みんな違うけれど、みんな同じいのちを生きている。背景には阿弥陀如来がいる。
親と子は、肉体だけ考えれば、父と母それぞれの個体があって、子供という個体がある。独立したもの。しかし、受精によって生じ、受精によっていのちを伝えていくのだから、独立しているとも言い切れない。親であっても子であっても、同じいのちを生きている。連綿と続くいのちを、それぞれの形でもって表わしている。海から波が生じるように。波として生じるのに、ほんのちょっと時間差があっただけのこと。
波は、他の波を波として認識しないけれど、人は、他の人を人として認識できる(関心を持てる)。親として、子として、この大海原で、出遇うはずのなかったものどうしが出遇い、共に歩む。親であっても、子であっても、生まれてほしい、生きてほしいという願に包まれながら。(了)

2013年3月 1日 (金)

二階堂行邦先生 「真宗聖典を毎日3ページずつ、お内仏の前で声に出して読んでいたときがあるんだ」

今、手元に一冊のアルバムがあります。
「スリランカ旅行 2003年2月15日~22日」
もう10年経つのか、懐かしいなぁ…
二階堂行邦先生と奥様とご一緒したんだよなぁ。
 
2013年2月22日 真宗大谷派東京教区専福寺 二階堂行邦前住職が還浄されました。
体調がよくない旨お聞きしていました。1月27日の教区御遠忌も、ご出講のご予定が叶わず、心配していました。訃報を伝え聞いたときは、冷静に受け止めつつ、その中でも驚きを隠せませんでした。
二階堂先生にお世話になった方は数知れず。多くの方がご葬儀に参列されていました。
 
東京教区で、今、率先して身をもって教化活動に当たられている方の多くが、二階堂先生の教えを受けてこられたと思います。厳しい方だったとお聞きしています。
「お聞きしています」というのは、私の世代くらいが教区に出てくる頃には、優しく接してくださった感じがあるからです。私よりも10歳ほど上以上の方々と、私くらいの世代では、先生に対する印象が違うかと思います。
何を言っているかといえば、先生との思い出を思い返すとき、一緒に吞みに行ったときのことを思い出すからです。
私が京都から戻って間もなく(20年ほど前)、二階堂先生を含めて数人で吞みに行ったとき、先生が私を指さして怒りました。「だいたいお前はなぁ…」 
その瞬間、「指をさしたら、他の3本の指は自分に向いてるんだぞ!!」と私は言い返しました。
周りにいる、先生に厳しく育てられた世代の方々は、酔いが覚めたような顔をしていました。怒鳴り返されるかと思いきや…
「そうか! そうだなぁ、俺の方向いてたわ!!」
アッハッハッと笑って、吞み続けられました。そのときのお顔が、記憶に残っています。私も、バカなことを言い返したものです。
優しく受け容れてくださったことへの感謝と、厳しく育てられた方々と同時期に育てられたかったなぁという想いがあります。
   
  
なんのときか忘れましたが、二階堂先生が
「真宗聖典を毎日3ページずつ、お内仏の前で声に出して読んでいたときがあるんだ。声に出して読んでいると、意味は分からなくても、こころに響いたもんだ」
声に出して聖教(しょうぎょう)を読む。先生もそういうことをしてたんだぁと思って、私もマネをしました。始めはただ読んでいるだけでした。しばらくして、私は肝臓を患い、伏せてしまいました。それでも、体が動くときは、お内仏の前で、真宗聖典を読んでいました。読みながら、自然と涙がこぼれてきました。『教行信証』…なんてすごいものを親鸞聖人はお書きになられたんだ!! って想いました。
その感動は今でも覚えているのですが、残念ながら、『教行信証』に何が書かれているのか説けと言われると、まったくお話できません。
そのときの涙があるので、「お経って、何を言っているか分かりません。どうして現代語で訳して、それを読まないんですか?」などと言われるとつい反論してしまいます。「お聖教を声に出して読んでください」と。
ネット情報が氾濫する現代です。ちょっと調べれば、お経の現代語訳はけっこう手に入ります。現代語で知りたい気持ちは分かります。その学びも大切です。しかし、現代語は訳した人の想いや考え方が入ってしまいます。現代語訳した時点で、お聖教でありつつも、お聖教ではなくなってしまいます。
お聖教を声に出して読んでみてください。きっと、感じることがあるはずです。

先の、先生に言い返してしまったエピソードは、すぐに思い出しました。この、お聖教を声に出して読む話は、二階堂先生のお通夜で、正信偈をお勤めしているときに思い出しました。
「あぁ、お聖教から遠ざかった生き方をしていたなぁ…」
お通夜のお勤め中に、そんなことを想いました。先生からの宿題だと想っています。
   
  
リーフレット委員会に籍を置いていたとき、スタッフ全員で、先生にお話を伺いました。
私は勝手に、「こういうものが必要だ」「こういうものはダメだ」と、方向性を示していただけるものと思い込んでいました。しかし、「こうあらねばならない、ということは全くありません。あなたたちの力で、たくさんリーフレットを作ってください」と先生は仰いました(と、私は受け止めました)。
若い力が何かしようとすることを、温かく見守ってくれていたのだと思います。それは同時に、責任を背負う覚悟があってのメッセージだったのだと、今更ながらに想います。
周りに向く優しさとは、内なる厳しさの表われなのですね。
   
   
ホームページ班 スタッフとしてお話を伺ったとき。今思い返せば、このときが、ゆっくりとお話をした最後になります。先生とお話をしていて、お話の内容を、一刻も早く、ご縁ある方(教区HPを訪ねてくださった方)にお伝えしたくて、インタビューから帰ってすぐにパソコンに向かい、テープ起こしをしたことを覚えています。
東京教区HP「くらしにじぃーん」 筆者をたずねて 二階堂行邦先生
  
  
思い出すままに書いています。あぁ、かわいがってもらってたんだなぁ。
今、手元に一冊のアルバムがあります。先生と共にスリランカを旅行した際のアルバムです。
悔しいんだけど、旅行の記憶があまりありません。
シギリヤロックに登ったとか、現地の日本料理屋の料理とか、ホテルのロビーに立派なひな壇が飾ってあったとか(異国にいながら、日本に触れていました)、そういう記憶はあるのだけど…。
せっかく一週間近く一緒に旅行しながら、二階堂先生と何を話したか、何を言われたか、先生の仕草…そういうことが思い出せません。悔しいなぁ。
旅行に行ったら、観光もいいけれど、共に旅する人と語り合う。それが旅行の醍醐味なんですね。
  
阿弥陀さまのもとで、奥様と会われたかなぁ。
うん、よかった。
 
二階堂行邦先生、お世話になりました。ありがとうございます。
あらためてお聖教に向き合います。

2012年10月19日 (金)

川村妙慶さん

2012年10月18日(木)
真宗大谷派 横浜別院 公開講座へ 川村妙慶さんのお話を聞きに伺いました。

 

思い通りにならぬ我が身・我が人生
思い通りになることが幸せだという 迷いの中を生きている私
「好きだよ」「信じているよ」「裏切らないよね」と言って、お互いの関係が築かれていることを確認しようとするけれど、そのセリフが出るという そのことが、相手を疑っていることの表れです。
思い通りにしたい、こうあらねばならぬ、災いは困るという囚われの中で、実は、自分で自分を苦しめているのです。
この世で起こる物事は、すべて因があって、縁があって、果がある。いきなり果だけが現われるわけではありません。因・縁・果の道理を生きるということは、思い通りにならない、自分にとって都合の悪いことだって起こり得ます。それをどうにかしたい、無くしたいという気持ちもわかります。でも、それは出来ません。
親鸞聖人という方は、どうにかしたい、無くしたい現実をどうにかしようとされた方ではありません。どうにかしたい、無くしたい現実を引き受けて生きて行かれた方です。そんな私たちに、「ただおお念仏です」と説かれたのです。阿弥陀さまのおすくいは、すべての人に平等に開かれているのですから。
(以上、私のノートより)
 
 
 
私(白山勝久)は、「思い通りにならないこと、都合の悪いことをどうにかしたいと願うけど、そんなのは無理だし、自分さえ良ければいいのですか?」なんて、スパッと相手を切ってしまうような言い方をしてしまいますが、
川村妙慶さんは、優しい語り口の方でした。女性だからというだけでなく、相手に頷き、認め、そして声をかけられている(お話をされている)のだなぁと感じました。
お話の1時間があっという間でした。
ありがとうございます。

横浜別院の皆様にもお世話になりました。聞法の場を開いてくださいまして、ありがとうございます。
横浜別院では、18・19・20日と、報恩講が勤められます。
お近くの方はぜひご参詣ください。

2012年3月10日 (土)

甲斐和里子さん 「ほかのことは、みんな、こまい こまい」

(昨日の続き)
さて、甲斐和里子さんの紹介を書く前に、河村とし子さんの紹介をさせていただきました。
仏縁によって親鸞聖人に出遇った河村さん。聴聞生活を続ける中で、どうしてもお会いしたい人がいました。それが、甲斐和里子さん(明治元年~昭和37年)でした。
甲斐さんは、広島県勝願寺(本願寺派)にお生まれになります。ご法義の篤いご両親(住職・坊守)、ご兄弟に囲まれ、生まれながらにしてお念仏の生活をされていました。明治29年 芸術家の甲斐虎山氏と結婚され、明治32年 夫虎山氏と共に文中女学校(京都女子学園の前身)を創設、大正9年 京都女子専門学校を新設されました。学校設立の背景には、仏教精神を土台とした学びの場が必要であるという想いがあり、自らも教鞭を執りました。
甲斐さんの著書『草かご』『草かご その2』『落葉かご』を通して、その温かく包み込むような人柄に触れた河村さんは、どうにかして甲斐さんにお会いしたいという想いが募ります。京都に住む師に紹介をお願いし、そして想いが叶う日がきました。
河村さんが住む山口県萩市から、甲斐さんの居られる京都まで、まだ新幹線のない時代、時間をかけて甲斐さんの住まいを尋ねました。甲斐さんにお会いしたらあれを聞こう これを聞こうと、質問したいことをたくさんメモしていきました。
そして、挨拶を交わし、甲斐さんが河村さんに話しかけられました。
「遠いところをよう来られましたのう。聞けば、キリスト教から浄土真宗にうつられたとか。よう念仏に出遇われたことよのう。よかったのう、よかったのう。ほかのことは、みんな、こまい こまい」

そのお姿、声、言葉、仕草に河村さんは言葉をなくします。胸がいっぱいになり、涙があふれ、「ありがとうございます」とお礼を言うのが精一杯で、何も話を聞かずにその場を去ったそうです。
間に立ってくださった師が、「聞きたいことがたくさんあったんじゃないのか? あれでよかったのか? 今なら引き返せるぞ」と声をかけてくださったそうですが、河村さんには充分でした。

「ほかのことは、みんな、こまい こまい」
そのことばのみが、河村さんの耳の底に留まりました。
念仏のみぞまこと。念仏に出遇わせていただいた身にとって、ほかのことはこまい こまい。とるに足りないことでした。

その後、河村さんが甲斐さんにお会いすることはありませんでした。甲斐さんは昭和37年11月27日 95歳の生涯を閉じられます。河村さんの耳の底には、甲斐和里子さんのことばの響きが、いつまでも残っています。
「ほかのことはこまい こまい」


み仏の み名を称える わが声は わが声ながら 尊かりけり

み仏をよぶわが声は み仏の われをよびます み声なりけり

(参考『親鸞に出遇った人びと』③ 同朋舎)

2012年3月 9日 (金)

河村とし子さん「おしえに出遇えることは、当たり前のことではなく、有り難いことなのです」

2012年3月の掲示板は、甲斐和里子さんの「み仏の み名を称える わが声は わが声ながら 尊かりけり」という ことば を掲示させていただいています。
この ことば は、真宗大谷派の機関誌『真宗』の取材でお話をお聞かせいただいた住職から教えていただきました。取材中、住職がこの ことば を言われ、素敵な ことば だなぁと感じました。しかし、失礼なことに、甲斐和里子さんのことは存じ上げませんでした。
取材を終え、寺に戻って本棚を確認すると、以前読んだ本の中に、甲斐和里子さんのことも、今月のことばも書いてありました。そんなものですねぇ。

さて、甲斐和里子さんについて少し書こうと思ったのですが、甲斐さんに触れる前に、お一人紹介させていただきます。河村とし子さんという方です。
河村とし子さんは、明石の熱心なクリスチャンの家庭に生まれ、幼い頃からキリスト教の日曜学校に通われ、洗礼も受けられた方です。進学のため上京し、そこで萩出身のご主人と出遇われます。ご主人の家の宗旨が何であろうと、クリスチャンであり続けることを条件に結婚されました。
クリスチャンとして「信者はすなわち伝道者たれ」ということばが心に刻み込まれていた河村さんは、ご主人のご両親に、毎晩毎晩キリスト教の教えを説いて聞かせます。ご主人のご両親は、嫌な顔ひとつせず、ニコニコとお嫁さんのお話を聞き続けたそうです。
改宗させるのは時間の問題だと思ったのですが、話し続けているうちに、河村さんの方にこころの変化が起こります。なぜこんなにニコニコしているんだろう。義理の両親は、お寺で法座があると、畑仕事を休んででも出かけ、帰ってくると嬉しそうに法座の話をしている。いったいお寺とはどんな所なんだろう。お寺で何をしているんだろう…。
ある日、河村さんは思い立ってお寺での法座に出かけられます。その日のお話は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」で有名な『歎異抄』第3章だったそうです。そうです。河村さんのご実家の宗旨は浄土真宗だったのです。
今まで、「善人は神に救われ、悪人は神の裁きを受ける」という おしえ に生きてきた河村さんにとって、「善人ですら救われるのですから、悪人が救われることは言うまでもありません」という おしえ は驚き以外ありませんでした。お話をされていた僧侶に、「今日の話のご本は何なのか、あなたたちの宗旨の開祖は誰なのか」尋ねたそうです。そのときに『歎異抄』をもらい、何度も何度も読み返しました。この出来事が、親鸞聖人との出遇いでした。
『歎異抄』を通して親鸞聖人に出会ったわけですが、畑仕事を休んでまで遠い遠いお寺まで法座に出かけるご両親の姿・キリスト教の話をし続ける嫁に対し、嫌な顔ひとつせず、それどころか温かく迎え入れてくれたご両親のこころ。それらに触れ、親鸞聖人に敬慕の念を抱きます。
(河村さんも言われていますが、決してキリスト教がダメで、真宗が良いと言っているのではありません。河村さんが抱いた人生の疑問に応えてくださったのが、親鸞聖人だったのです)

しかし、それで気持ちがスッキリした、すくわれたわけではありません。キリスト教を信じていた頃の疑問は氷解したけれど、親鸞聖人に出遇って、ますます分からないことが出てきた。なぜ浄土真宗なのか。なぜ念仏なのか。両親は起きてから寝るまで、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と言っているけれど、私の口からは念仏が出てこない。どうすれば念仏が出てくるのか。
河村さんは聴聞を続けます。でも、なかなか頷けない。そんな自分を嫌い、仏法聴聞に専念するために、離婚をしたいと両親に訴えます。
「仏法を聴聞したいという気持ちが出てきたと言いうことは、もうすでに仏さまの御手の中に抱かれているということです。離婚などということは考えないでいいから、子どものことも家事のことも私たちにまかせて、あなたは日本のどこまででも出かけていいから、仏法聴聞をしてください」と、ご両親から言われたそうです。
仏法聴聞を続けるある日、ふと念仏が出る不思議な瞬間がありました。今まで自分が、自分がの想いで生きてきたけど、自分の想いを超えた大きなはたらきの中を生かされていたんだということを、ふと思われたそうです。
何か明確な答えを、ある僧侶の話から得たというわけではありません。仏法聴聞を続ける中で、生き続ける中で、ふと出遇えたのです。仏法聴聞しても分からないというけれど、仏法聴聞しなければ分からないのです。仏法聴聞し続けていたから、念仏の声が出る瞬間(とき)が訪れたのです。

(参考『ほんとうのしあわせ―仏縁に恵まれて真の人生』河村とし子 東本願寺伝道ブックス24)

2012年3月 6日 (火)

佐々木道範さん「『真宗聖典』を開けるようになりました」

佐々木道範さんの、
「最近やっと、『真宗聖典』を開けるようになりました」
ということばを聞いて、親鸞聖人が表明されている「愚者の自覚」「愚禿の名告り」とは、こういうことなんだなぁと痛感させていただいています。
佐々木さんは、原発の事故後、初めは怒りが国や東電に向いていました。しかし、外で自由に遊べなくなった子どもたちと接するうちに、「こんなことになったのは、原発の危険性を疑わず、原発が有る生活を享受していた私のせいだ。子どもたちを自由に遊べなくしてしまったのは自分なんだ」と深く懺悔されます。
そこから、こんにちに至る佐々木さんの歩みがあります。福島の声を聞いてほしいと、全国各地でお話をされています。NPO法人「TEAM二本松」を立ち上げ、放射能測定装置を購入し、子どもたちの口に入る食べ物の放射性物質の数値を測定したり、今は、新たな目標として、空間線量の数値の少ない福島県内の土地を購入し、徹底的に除染をし、子どもたちが遊べる場を作ろうと歩み出されています。
その姿から、自身に対する徹底した懺悔と、子どもたちに対する讃嘆を感じます。その自覚こそが「愚者の自覚」であり、だからこそ『真宗聖典』を開けるようになった、おしえに出遇うことができたのだと思います。

愚者の自覚…「愚か者である」という自覚ではありません。
お釈迦さまや親鸞聖人がお説きくださった、縁を生きる存在。私たちは、生きとし生けるものは、縁を生かされています。そのことは、「つながりを持てたことに感謝」とか「良い行為には良い結果がくる」などといいう話ではありません。縁を生きる、いえ、生かされているということは、たとえ自分にその気はなくても、人を傷付ける・苦しめるということが起こりうるのです。あるいは、自分が傷付けられ、苦しめられるということもあります。
佐々木さんの、「原発の事故の責任は自分にある」と言われるようになる転換には、縁の気付きがあります。「愚者の自覚」とは、「縁の気付き」ではないでしょうか。

~回想~
「縁」によって生きているということは、事件事故に遭うこともある。
と言ったら、僧侶仲間から「そんなこと、被害に遭った人の前で言えるのか」と首を絞められたことがあります。

つらい出来事も縁によって起きます。
と言ったら、「そんなこと言わないでください」と泣かれたことがあります。

自分ではその気はなくても、人を傷付けることがあります。
と言ったら、「私はそんな生き方はしていません」と怒られたことがあります。

親鸞聖人は「愚者の自覚」「愚禿の名告り」をされました。
と言ったら、「しんらんさんって、そんな人だったんですか」と蔑まれてしまったことがあります。

「愚者の自覚」は、おしえに出遇う大切なことです。
と言ったら、それが目的になってしまったり、私は自覚をしましたと堂々と言われてしまったことがあります。
~回想 ここまで~

思い出すままに書いていたら、いろいろ思い出してしまいました(まるで私はトラブルメーカーのような)。
「自己の懺悔・弥陀の讃嘆」「愚者の自覚」「愚禿の名告り」が大切で、親鸞聖人にはそれがある。と言うと、私たちはどうしてもそれが目的になってしまったり、あるいは否定してしまったりする。
佐々木さんの自覚には、目的だとか、そんなんじゃダメだとかの思考(こうすれば阿弥陀に遇える・救われる)はまったくなく、生きているものが抱える悲しみ(縁)に出会い、感じ、受け止め、歩み出されています。その歩みの中で、真宗聖典を開けた、おしえに出遇えたのだと思います。
賢くなるため、理解するため、そのことによってすくわれるために『真宗聖典』を開くのではなく、生きているなかで『真宗聖典』が開かれてきた(おしえに出遇えた)のです。

佐々木さんの
「最近やっと、『真宗聖典』を開けるようになりました」
の一言に、親鸞聖人に出遇えた人がここにいる!という感銘を受けました(佐々木さんからは「そんなたいそうなことではありません」と言われてしまうかもしれませんが)。大切な告白だといただいています。

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