私たちの真宗(真宗の仏事)

2012年10月20日 (土)

「お焼香終わりました」のお声がけ

法要中、お焼香が終わったときに、私のそばに来て「お焼香終わりました」と声をかけてくださる方がいらっしゃいます。
お坊さんに知らせなくてはと思ってくださっているのかもしれませんが、「お焼香終わりました」のお声がけは必要ありません。引き続き法(おしえ)に耳をお傾けください。


「お焼香終わりました」の声がけは、浄土真宗以外の宗派ではされるのでしょうか(義務なのでしょうか)? ご丁寧に声をかけてくださる方がたまにいらっしゃいます。
「あっ、声をかけにくるな」と、気配で分かるのですが、読経中の身としては「分かりました」とも応えられず、軽く頷いて反応しています。

さて、そのお声がけで面白いなぁと感じていることがあります。
私が寺に戻ってきた当時、本堂にイスはありませんでした。法要中はみなさん正座でした。どうしても畳に直に座れない方のために、2、3脚だけイスがあったように記憶しています。
年を経てイスの数が増え、必要な方が、本堂の壁側に置いてあるイスを自分で持ってきて座っていただくかたちになりました。
そうなると、私も私もとなり、「もうイスはないのですか?」ということになります。法要が始まる前にイスを並べたり、譲り合いが始まったりするので、数年前からあらかじめイスを並べておいて、全員が座れるようにしてあります。(現在本堂でお使いいただいているイスは、当時の役員さんが30脚ご寄進くださったものです。皆さん重宝されています。ありがとうございます)

面白い話とはイスの話ではありません。お声がけのスタイルです。
イスが無く 皆さん正座されていた頃は、お声がけも、私のそばに来て 正座して「お焼香終わりました」と囁いておられました。
で、皆さんイスに座られるようになった今では、私のそばに来て、立ったまま「お焼香終わりました」と声をかけられるのです(住職も私も正座で読経しております)。

日本もイスの生活になったと言われて久しいです。
しかし、正座をしている人に対して立ったまま声をかけるというのは、あまり良い絵ではありません。
私が高いところから声をかけられて、それが嫌だから言っているのではありません。誰かと話をするとき、誰かに声をかけるとき、相手の目線と等しいところに身を置くことが会話の始まりではないでしょうか(声がけにしても)。
みんながみんな高いところから(立ったまま)声をかけるわけではありませんが、イスが定着すると、「みんなでそうしよう」と決めたかのように同じことをするから面白いですね。

立ったまま声をかける人ばかりではありません。正座して、声がけをしてくださる方もいらっしゃいます。
でも、その多くの方々が、「そうしよう」と決めたかのように、私の耳元で囁くのです。「お焼香終わりました」。
「あっ、来るな」と気づいているので、ビックリすることはないのですが、読経中に耳元に息を吹きかけるのはやめていただきたく、お願い致します。

2011年3月10日 (木)

冥福は・・・祈りません

3月9日(水) 西蓮寺聞法会 開催しました。
西蓮寺聞法会は、副住職(私)が、お話をさせていただいています。
今回は『仏教家庭学校』春彼岸号に掲載していただいた文章をもとにお話をさせていただきました。
 
テキストを使っての話に先立って、真宗基礎講座・真宗の仏事についてお話をすることがあります。
前回の聞法会で、『真宗では「冥福を祈るとは言わない」と聞きましたが、なぜですか? 「冥福を祈る」と言えないのであれば、なんて言葉をかけてあげればよいのでしょうか?」というお尋ねがあったので、そのことに応えました。以下、お話したことの概略です。
    
  
身近な方が亡くなると、「ご冥福をお祈りいたします」と言葉をかけます。
しかし、真宗のおしえに触れた者は、「ご冥福をお祈りいたします」という言葉は使いません。
「冥福」の「冥」は「暗い」という意味です。闇の世界…死後の世界を表わしています。その死後の世界での幸福ということが「冥福」ということになります。
「冥福を祈る」ということは、「死後に迷いの世界(地獄)で苦しまないことを祈る」ことを意味します。
ということは、涙を流すほどに別れを惜しんだ亡き人が、地獄に堕ちるかもしれないという危惧を抱いていることの表われでもあります(たとえ、そのような気持ちはなくても)。
 
親鸞聖人は、
娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。(中略)いよいよ 大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ(『歎異抄』第九章)
ということばを遺されています。「阿弥陀如来の大悲のこころ・衆生をすくいたいという願いは頼もしく、私たちの往生は決定しているのです」と言われています。
  
亡き人はすでに「かの土(浄土)」に生まれているのです。生きている私たちが、亡き人の行き場所を心配して「冥福を祈ります」というのは、余計な心配なのです。
ですから、真宗のおしえに触れたものは、「ご冥福を祈ります」とは言わないのです。
 
しかし、気をつけたいことがあります。「真宗では、冥福を祈るとは言いません」と教えられたから言わないのではないのです。
亡き人から教えられることがある。亡き人からいただいてきた優しさがある。そのことが見えたとき、亡き人は決して供養の対象ではないことに気付かされます。迷いの存在ではないことに目が覚めます。亡き人は、いつまでも私を照らし、迷う必要のないことに心身をすり減らしながら 限りあるいのちを生きている私を目覚めさせる仏(師・先生)なのです。
亡き人に迷わないでくださいと祈っている私こそ、迷って生きているのではないですか? そのことを、亡き人から教えていただきました。その気付きがあるからこそ、冥福を祈る必要がないことに頷けるのです。
 
弔電や弔辞では「つつしんで哀悼の意を表します」「お悔やみ申し上げます」という言葉とともに、亡き人からいただいた恩をお伝えすることが、大切なことだと思います。

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