それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている⑥ 平同感
平等を望みながら、平等を嫌う心を持ち合わせている私
平等を望みながら、平等だと不快な思いをする私
誰もがすくわれると説く教えが、受け入れられないはずです。
えらび きらい みすてる
そんな生き方をしている私。そんな生き方しかできない私。
えらばず きらわず みすてず
私たちをすくおうと誓いを立ててくださった阿弥陀如来(法蔵菩薩)
「えらび きらい みすてる」生き方をしている自己に直面すると、
「えらばず きらわず みすてず」なんてことは信じられないだろうか。
いえ、
「えらび きらい みすてる」生き方をしている自己に直面したからこそ、
「えらばず きらわず みすてず」に包み込んでくださっていたはたらきに出遇えるはず。
「えらび きらい みすてる」心を捨てる必要はない(そんなことはできない)。
でも、
「えらび きらい みすてる」私でしたと痛切に感じる心を失ってはいけない(なぜか こっちは簡単に捨ててしまえるのです)。
痛切に感じられた心とは、「自分こそ正しい」という思いが破れた心。
「自分こそ正しい」という闇が、「えらび きらい みすてる」平等を作り出していた。
「平等」(平らなようで、平らでない)を作り出している私に、
「平同」(誰も選ぶことなく 誰も嫌うことなく 誰も見捨てることもなく)のはたらきが届いていました。
南無阿弥陀仏
(了)
(ちょっと つぶやき)
2月19日に書いた「平等感」 単発のつもりで書いたのだけれど、いただいたコメントのおかげで、想いを超えて いろいろと考えさせていただきました。毎日お読みの方はお気づきと思いますが、2月19日の「平等感」から今日の「平同感」まで、内容(想い)はつながっています。
私は、「自分こそ正しい」なんて思いながら文章を書いてはいません。このブログで教化しようとも考えていません。親鸞聖人のおしえに出遇わせていただいた者が、日々の想いをつぶやいているだけです。
読まれて、納得できないこと 不愉快なこともあるでしょう。でも、納得できること、耳障りのいいことなら、わざわざブログや寺報でつぶやく必要もありません。
「そういう考え方もあるかな」「ちょっと こころに引っかかるな」というふうに思ってもらえたら…そのような想いで書いています。
なんて書き様が、「“自分こそ正しい”ところに立ってるじゃないか!」と指摘されてしまえば、返す言葉もありませんが。
思い立って、2月になってから出来るだけ毎日更新しています。ですが、以前はコメントのひとつ一つに返事をしていましたが、返事はご勘弁ください。コメントは きちんと読ませていただいています。コメントをくださり、つまりは私の文章を読んでくださり、ありがとうございます。