それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている

2011年2月24日 (木)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている⑥ 平同感

平等を望みながら、平等を嫌う心を持ち合わせている私
平等を望みながら、平等だと不快な思いをする私
誰もがすくわれると説く教えが、受け入れられないはずです。
       
えらび きらい みすてる
そんな生き方をしている私。そんな生き方しかできない私。
  
えらばず きらわず みすてず
私たちをすくおうと誓いを立ててくださった阿弥陀如来(法蔵菩薩)
 
「えらび きらい みすてる」生き方をしている自己に直面すると、
「えらばず きらわず みすてず」なんてことは信じられないだろうか。
   
いえ、
「えらび きらい みすてる」生き方をしている自己に直面したからこそ、
「えらばず きらわず みすてず」に包み込んでくださっていたはたらきに出遇えるはず。
   
「えらび きらい みすてる」心を捨てる必要はない(そんなことはできない)。
でも、
「えらび きらい みすてる」私でしたと痛切に感じる心を失ってはいけない(なぜか こっちは簡単に捨ててしまえるのです)。
    
痛切に感じられた心とは、「自分こそ正しい」という思いが破れた心。
「自分こそ正しい」という闇が、「えらび きらい みすてる」平等を作り出していた。
    
「平等」(平らなようで、平らでない)を作り出している私に、
「平同」(誰も選ぶことなく 誰も嫌うことなく 誰も見捨てることもなく)のはたらきが届いていました。
南無阿弥陀仏
(了)
   
    
   
(ちょっと つぶやき
2月19日に書いた「平等感」  単発のつもりで書いたのだけれど、いただいたコメントのおかげで、想いを超えて いろいろと考えさせていただきました。毎日お読みの方はお気づきと思いますが、2月19日の「平等感」から今日の「平同感」まで、内容(想い)はつながっています。
私は、「自分こそ正しい」なんて思いながら文章を書いてはいません。このブログで教化しようとも考えていません。親鸞聖人のおしえに出遇わせていただいた者が、日々の想いをつぶやいているだけです。
読まれて、納得できないこと 不愉快なこともあるでしょう。でも、納得できること、耳障りのいいことなら、わざわざブログや寺報でつぶやく必要もありません。
「そういう考え方もあるかな」「ちょっと こころに引っかかるな」というふうに思ってもらえたら…そのような想いで書いています。
なんて書き様が、「“自分こそ正しい”ところに立ってるじゃないか!」と指摘されてしまえば、返す言葉もありませんが。
思い立って、2月になってから出来るだけ毎日更新しています。ですが、以前はコメントのひとつ一つに返事をしていましたが、返事はご勘弁ください。コメントは きちんと読ませていただいています。コメントをくださり、つまりは私の文章を読んでくださり、ありがとうございます。

2011年2月23日 (水)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている⑤ びょうどう

「平等」の「等」…「等しい」という字ですね。
「等しい」というと、「イコール」という感覚を持ちます。
でも、本当に「イコール」ならば、「同じ」といえばいいのです。
つまり、「等しい」とは「同じ」ではないのです。
    
「平等」とは、「平らに等しい」とでも読めましょうか。
私たちは「平等」を望みます。「平等」を大切にします。
突出して蔑まれる者、貧しい者がいないように。
(ということは反面、突出して敬われる者、富める者の存在も認められないという想いが内包しています)
誰もが同じ環境・条件・境遇の中を生きられることを「平等」ということばで表わしているのでしょう。
     
でも、実際はそうなっていない。いえ、実際にそうなっては困るのです。私の想いは。 
   
「平等」の意味を本来に帰って考えると、「平らに等しい(ということは同じではない)」という意味を表わしていることに気付かされます。
私たちは「平等」を望みます。「平等」を大切にします。
といいながら、認められない。
「平らに等しい」大地を生きたいと望みながら、よくみると凸凹の大地を望んでいる。作っている。
  
「びょうどう」という漢字を、「平同」ではなく「平等」としたところに、私たちの生き様がリアルに表現されているような気がします。
  
  
もしある朝目を覚ますと、全ての人間が同じ人種、同じ宗教、同じ肌の色になっているとしたら、
我々は正午までに別の偏見のタネを捜し出すことだろう

ジョージ・エイケン

2011年2月22日 (火)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている④ 報われる

私のしたことに対して、それなりのお返しがあること…それを「報われる」と考えられているでしょうか。
   
「報」という字
左は「幸」(部首は「土」) これは、「手かせ(刑具)」を表わしています。
右は「従わせる」という意味を含みます。
 
「報」は、本来「罰を受け、従わされる」という意味です。
「報(むく)い」とも言いますね。
  
今、「報われる」というと、「これだけのことをやったんだから、それなりのいいことがあって当然」というような意味で捉えられているのかもしれない。
でも、「報われる」とは、本来の意味に帰ると、「罰を受け、従わされる」というところから解き放たれるということ。
  
「それじゃぁ、何の罰も受けていない私は、“報われる”ってことはないですね」なんて思われるだろうか。
       
○「これだけのことをやったんだから、それなりのいいことがあって当然」という想いは、「何もしてない者は、何もしてないなりのことしかなくて当然」という想いと表裏一体。
 
○私が「これだけのことをやった」ばかりに、他の人の仕事(やるべきこと)まで奪っていたなんて、思いもしなかった。
(theotherwindさんへ 『怠ける権利』をお教えくださいまして、ありがとうございます。引用してくださった文章、読ませていただきました。興味深いです)
   
「何の罰も受けてない」なんて、思い上がりでした。
 
「報われる」とは、知らないうちに作り上げていた 私の罰に気付かせていただくこと。
私さえよければいい、私は間違っていないという想いからの解放。それが「報われる」ということでした。  
 
「報恩」
恩を報(し)らされて、その恩に対して感謝…ではない。
その恩に対して、知らないうちに罪を重ねている私でした。
そのことに気付き、重ねていた罪と共に生きることが、「報われる」ということ。

2011年2月21日 (月)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている③ 思えば

「一生懸命がんばっても報われない、ほめられない」と零すけど、
一生懸命頑張れるように、そうさせてもらってたんだなぁ。
 
報われるため、ほめられるため じゃなかった。

2011年2月20日 (日)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている② なにを学ぶか

昨日の文章を書いてから、昔書いた文章を思い出していました。加筆訂正して、あらためてアップさせていただきます。
 
   
   
境内の掃除をしていたら、3匹のアリが、自分たちの何倍も多きなイモ虫を運んでいました。
巣が近づくにつれて仲間のアリたちが寄ってきて、イモ虫の周りが真っ黒になるくらい大勢のアリが、巣まで運んでいきました。
それぞれのアリを観察していると、一生懸命運ぶアリ。手伝っているんだけど、みんなと違う方向に引っ張るアリ。近くまで来るものの加勢しないアリ。まったく我関せずといったアリ。いろいろな個性があります。
    
聞いた話では、アリは「8:2」の比率で、「はたらくアリ:はたらかないアリ」がいるそうです。
(読む資料によって比率はいろいろです。「7:3」と書いたものや、「7:2:1」で、「よくはたらくアリ:まぁまぁはたらくアリ:はたらかないアリ」なんて細かく書いてあるものもありました)
     
これからが面白い話なのですが、「8:2」のアリの中から、「はたらかないアリ」を取り除く実験をしたそうなのです。どのような結果が出たと思いますか?
   
はたらかないアリを取り除いたのだから、みんなはたらくアリばかりになるだろうと思ったら、ちゃんと2割の比で、はたらかないアリになったそうです。
生き物にはちゃんと役割があるんだなぁと思いました。人間の世界では、はたらけることがいいことで、はたらけないことはいけないことと思われています。
だから、「あいつらは役にたたない」なんて理由にもならない理由でホームレスと呼ばれる方々が襲撃を受け、時には殺されてしまったりします。
病気や老齢で、はたらけなくなったり寝たきりになったときに、周りの人間はその人のことを迷惑だと思ったり、本人は自分の存在を否定してしまいます。
 
「8:2」の、「8」でなければいけないという思いが、いつの間にか誰にも植えつけられているのではないでしょうか。「8」には「8」の、「2」には「2」の役目があるのに。
 
ある学校の先生が、ご自身のコラムに、このアリの例えを書いていました。
「人間はアリとは違うのだから、キチンと目標を持って、努力することが大事です」と書いてありました。
たしかに、学校の先生はそのように言わなければいけないでしょうね。「“2”でいいんだよ」なんて、言えないのでしょう。(すいません、コラムの否定しているわけではないんです。ただ、「そうなのかなぁ?」って思ったのです)
「2」も大事な役目があるのではないでしょうか。その「2」を取り除く教育を、学校でも職場でも、もしかしたら家庭でもしているのではないでしょうか。
      
私は、アリの話を初めて聞いたとき、アリも人間も同じだなぁって思いました。
「8:2」がなんの比率であっても、「はたらき者:はたらかない者」、「善:悪」、「社会の規律を守る者:守らない者」・・・「2」を取り除けば人間世界ははたらき者ばかりで、善人ばかりで、規律を守る者ばかりになるかといったら、やっぱり「8:2」の比率に戻ってしまう。それは、「2」にも役割があり、必要だからなのだと思うのです。
はたらき者ばかりで、善人ばかりで、規律を守る者ばかりの世の中は暮らしやすいだろうなと思っていたら、きっと人間社会が動いていかなくなると思います。きっと、窮屈なことでしょう。きっと、今よりも争いが増えることでしょう。
 
人には、その場、その環境において、今のわたしという役割がある。
いのちの意味・輝きがあることを、アリから教えていだきました。

2011年2月19日 (土)

それぞれの大地を、誰もが同じいのちをいきている① 平等感

「頑張ったものが恩恵を受け、頑張らないものは何も恩恵を受けない。それが平等でしょ」
と言われたことがある。
  
確かに、それが普通の感覚なのだと思う。
「こんなに頑張ってるんだから、報われて当然」
「どうして何もしていない人が良い思いをするの?」
そういうふうに思ったことは、多々ある。
    
働きもののアリは、寒い冬を乗り越え、
遊び続けていたキリギリスは、寒い冬に、飢え 凍え死んでしまう。
頑張った者が報われ、なにもしない者は報われない。それでこそ平等。
   
でも、そういうことを果たして “平等”っていうのかな。
頑張っている人も、頑張っていない人も、同じ恩恵を受けてこそ、“平等”というのではないだろうか。
   
アリがキリギリスを恨むことも、羨ましいと思うこともなく、
キリギリスが「遊んでいたのに、申し訳ないなぁ」と萎縮することもなく、
寒い冬を乗り越えることができました。
めでたし めでたし  

そういうことが “平等” なのではないだろうか。 
そんなことを、ふと想いました。

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