親鸞さまがおわします

2011年12月28日 (水)

親鸞さまがわします㉒(最終回)

【第22回(最終回) 京に帰り 人生を振り返り 浄土に還る】
弁円をはじめ、数えきれないほどの人々との出遇いをいただいた関東時代の親鸞聖人。60歳を過ぎた頃、親鸞聖人は関東を後にし、生まれ育った地、京の都へ戻る決意をします。人生50年と言われた時代。既に60を超えられた聖人にとって、いのちがけの決断です。
   
京に戻った親鸞聖人のもとに、ある日、関東で聖人の教えをよりどころとした同行が訪ねてきました。現代のように交通機関が発達しているわけではありません。十余カ国の国境を超えて、関東から京に向かうということは、いのちの危険を伴います。それほどまでにして、聖人を訪ねなければならないことがあったのです。
おしえを説く人がいなくなれば、時と共に、おしえはいろいろな解釈がなされてしまいます。そのことを不安に思った同行が、聖人に今一度おしえを乞うために入洛されたのでした。同行に向かって、聖人は語られます。
「お念仏申して、地獄へ行くのか、浄土へ参るのか、私にはわかりません。私は、法然上人がお念仏を申されるお姿に出遇い、この方についていこうと決心しました。ご上人がお説きくださった念仏のおしえが、たとえ地獄へ落ちるお念仏であったとしても、後悔はありません。一生をつくしても出遇えるか否かのお人とおしえに出遇うことができました。そのことが、私に念仏申させてくださるのです。ただそれだけのことです。私の想いを聞いて、念仏を続けるもやめるも、あなたたちそれぞれのお考えしだいです。南無阿弥陀仏」
他を恨み、人生を闇夜にしていたのは、自分自身のこころであった。そのことに気づかせてくださったのが親鸞聖人でした。その事実にあらためて向き合った同行は、いのちがけで国に帰り、聖人のおことばを伝えました。南無阿弥陀仏の念仏と共に。
   
しかし、それでも関東では、聖人のお姿を求める方々がおられます。その様子を伝え聞き、聖人は、念仏のおしえを説くために、ご子息の善鸞さまを関東に向かわせようとします。聖人のもとで、数多くおしえに触れてきた善鸞さま。しかし、善鸞は関東へ行くことを拒みます。父、いえ、お念仏を大事にされていのちを尽くされる親鸞聖人のおそばを離れたくなかったのです。
「父上、私は、父上と離れたくはありません」
善鸞のことばを聞き、越後への流罪の際、自身が法然上人に訴えかけた想いを思い起こしていました(私も、あの頃は善鸞と同じ気持であったなぁ。しかし、流罪を縁として、越後や関東の人々とも遇うことができた。そして誰よりも、家族として縁をいただいた恵信尼や善鸞、覚信尼たちとの出遇いの有り難さに気づくことができた。その気づきに、善鸞よ、身をもって目覚めてほしい)。
「善鸞よ、私もあなたとは別れたくはありません。しかし、たとえどこにいても、たとえどのような境遇に身を置こうとも、念仏を称えることにおいて、阿弥陀如来の御前に、私たちはいつも一緒なのですよ。南無阿弥陀仏」
そう言いながら聖人は、自身が法然上人から言われたことを思い返していました。
   
聖人のことばを胸に関東へ戻った善鸞。しかし、親鸞聖人との再会を願っていた人々は、善鸞のことばに耳を貸そうとしません。必死に父からのおしえを伝えようとしますが、その想いはなかなか伝わりませんでした。
私の話を聞いてほしい…善鸞は、「私は、あなた方が親鸞聖人から聞いたことのないおしえを知っています。私しか知らないおしえがあります」と言い、人びとの気持ちを惹きつけようとしました。
そのことばを信じ、善鸞のもとへ集まる人々。善鸞は、自分が父から聞いてきたことを懸命に伝えます。しかし、懸命に、まじめに伝えようとすればするほど、善鸞として おしえを広めたいという欲望にかられます。ついに善鸞は、聖人が語ってもいないことを語り始めました。
  
善鸞が説くおしえは、親鸞さまが説かれるおしえとは違うのではないか…。そのような疑問を持つ人々が出てきました。
そのことを聞きつけ、親鸞聖人は歎きます。そのようなことをさせてしまったのは、関東に遣わせた私の責任です。しかし、どのような境遇においても、阿弥陀如来の御名のもとにおいて、人は朋に生きている。その真実に目覚めてほしい。そのためには、私を頼るこころを捨てなければいけません。別れにおいて、真に出遇ってほしい。親鸞聖人は、息子 善鸞を義絶します。怒りによる義絶ではありません。あらためて出遇い直すための義絶です。
親鸞聖人は、善鸞の苦しみを我がこととして受け止めます。いのちある限り 迷いの広い海に沈み、人に注目されたいと惑う人間の姿を凝視します。このようなこころを抱えるからこそ、阿弥陀如来はこの私を包むように抱いてくださっているのでした。その想いを伝えるために、聖人は筆を執ります。『顕浄土真実教行証文類』や「和讃」など、聖人の著作の大半は、晩年に京都で書かれたものです。
1262(弘長2)年90歳の生涯を閉じられ、お浄土へ還られました。
  
  
出遇いとは、私の想いからすれば、すべてが良いことばかりではありません。嫌な人との出遇いもあれば、「この人に巡りあえてよかった」と言い切れる出遇いもあることでしょう。人との出遇いばかりではありません。老いも、病も、死も、できることならば避けたいことです。しかし、老いや、病や、死を縁として、出遇える大切なことがあるものです。
父母との別れ、迷いを抱えての叡山時代・叡山下山、流罪による師 法然との別れ、越後・関東での生活、晩年になっての息子善鸞の義絶・・・親鸞聖人も悩み苦しみの生涯を生きられた方でした。悩み苦しみを無くす法として念仏を見いだされたのではありません。悩み苦しみの人生だからこそ、この私を温かく抱きしめ、輝かせてくださる法として、南無阿弥陀仏の念仏を生涯大切にされました。
   
「人生、私にとって都合の良いこともあれば悪いこともある。しかし、そのすべてが、私を私として成り立たせてくれる出遇いでした。そのことに気づかせてくれたのが、親鸞聖人であり、南無阿弥陀仏のお念仏でした」
聖人の想いを受け、すべての出遇いを大切にし、南無阿弥陀仏と称えてきた人の歴史が、今に通じています。亡くなられて750年、たとえ時代や境遇は違っても、南無阿弥陀仏のお念仏を称える私たちと一緒に、親鸞さまがおわします。

2011年10月28日 (金)

親鸞さまがおわします㉑

【第21回 出遇いは再会 山伏弁円(べんねん)との出遇い】
越後から関東に移り住み、親鸞聖人は主に稲田の地で、念仏のおしえを伝え始めました。
稲田では、修験者による加持祈祷が盛んでした。雨乞いや祈願成就のため、修験者である山伏にお願いして、加持祈祷してもらう。聖人のおしえ(ただお念仏申し、阿弥陀如来のすくいにおまかせする)とは対極にあるものでした。
はじめは聖人を不審がっていた稲田の民衆も、念仏のおしえをもの静かに語る聖人に惹かれていきます。
今まで、自分の願いを叶えるために加持祈祷を頼りとしてきた。しかし、あるがままを受け入れ、阿弥陀如来におまかせするという念仏のおしえは、次第に民衆に浸透していきます。
そのような状況を許しておけないのは山伏です。自分たちを頼りとしてきた民衆が、聖人のおしえを頼りとしはじめたのですから。中でも山伏 弁円の怒りはすさまじいものでした。ついには、「親鸞を殺す」と、聖人が住む庵に乗り込んでいきました。
弁円が自分に対して怒りを抱いていることを、聖人は伝え聞いていました。しかし、聖人は逃げませんでした。それどころか、血相を変えて庵に飛び込んできた弁円を
「ようこそ いらっしゃいました」
と、迎え入れたのです。聖人は、師法然と初めて会ったときに、「ようこそ いらっしゃいました」と迎え入れてもらったときのことを思い起こしていました。
少しも臆することなく、それどころか懐かしい人に会うかのように自分に接する聖人に対し、弁円の殺意は失せ、弟子にしてほしいと懇願します。
「念仏のおしえの前では師も弟子もありません。朋にお念仏申しましょう」
自身が法然上人からかけられたことばが、自然と出てきました。弁円との出遇いを通して、今は亡きお上人さまにまた会えた気がします。この弁円との出遇いも、お念仏のおしえのつながりの中で生まれたものなのですね。初めて会う気がしません。
昔からの知り合いのように迎え入れてくださった親鸞聖人。その聖人と共に念仏申す道を歩みだした弁円は、明法房と名のり、念仏のおしえを説き広めていきました。

2011年9月28日 (水)

親鸞さまがおわします⑳

【第20回 新たな地 関東への旅立ち】
建暦2年(1212)1月25日、法然上人入滅の報せに接し、親鸞聖人は悲しみに暮れます。
流罪は赦されたものの、師法然上人を亡くした聖人は、これからの身の振り方を考え、悩みます。京の都に戻っても、お上人さまはおられない。このまま越後に留まるべきか、新しい地へ踏み出すべきか。
 
時は鎌倉時代。新しく幕府が開かれた鎌倉には、多くの人々が集まり、政治・経済・文化が、目まぐるしいほどの発展を遂げていました。
新たに大きく栄える時代や場所は、その流れから取り残されてしまう者や挫折する者も生み出してしまいます。越後の地で、自然の猛威の中で、家族のために日々いのちを削りながらも生き抜いている人々がいました。その人々に、法然上人の念仏のおしえはしみ込んでいきました。まるで、砂漠に水がしみこむかのように。関東においても、師のおしえを必要とする人がいるはず。その人のためにも、関東に行ってみたい。
  
かつて親鸞聖人は、師より『選択本願念仏集』の書写を許されました。師の著書の書写を許されるということは、そのおしえを伝えるに不足ないいただきをしているということの証でもあります。聖人は、師より書写を許されたときの感動を呼び起こし、越後で出遇った人々との交流を胸に、新たな地へ歩み始めることの必然性を感じ始めていました。
   
兄弟子である実信房蓮生より、師法然上人のおしえを広めるべく、常陸国稲田郷への誘いを受けました。奇しくもその地には、親鸞聖人の妻、恵信尼さまの実家 三善家の所領もありました。
建保2年(1214) 聖人は家族と共に、越後を後にし、関東へと旅立ちました。

2011年8月29日 (月)

親鸞さまがおわします⑲

【第19回 師法然との別れという出遇い】
越後での生活にも慣れ、越後の人々との交流も日々深まりゆく親鸞聖人。
建暦元年(1211年)11月親鸞聖人は師法然上人と供に赦免されます。流罪から5年が経とうとしていました。聖人39歳の頃のことです。
親鸞聖人は、法然上人との再会を夢見ます。しかし、時は11月。雪深い越後の冬です。自分一人京に戻ることも困難です。ましてや家族もいます。聖人は、春が来て雪がとけるのを待つことにしました。
   
法然上人は赦免され、土佐から京の都へ戻りました。しかし、帰洛後間もない建暦2年1月25日、法然上人はお亡くなりになられました。
上人の訃報を聞いた親鸞聖人は悔やみます。
「どうしてすぐに上人さまに会いに行かなかったのか…」
悲しみに暮れる聖人でしたが、越後の人々の姿を見て、立ち上がります。
「上人さまのおかげで、会うはずのなかった越後の人々と出遇うことができた。その出遇いを通して、あらためて上人さまやお念仏のおしえの有り難さに目覚めることができました。そして、流罪に処した者に対する怒りに震える この私自身を見つめることができました。法(おしえ)に出遇うことがなかったならば、私はどうなっていたことでしょうか…」
   
死別とは、永遠の別れを意味します。しかし、別れを通して教えられること、出会えること、感じられることがあります。そのような こころの動きがあったとき、別れの中に、新しい出遇いがあります。永遠の出遇いが。

2011年7月28日 (木)

親鸞さまがおわします⑱

【第18回 この身のままで】
京の都より越後へ向かう舟。流罪となった親鸞聖人を乗せて、漁師は舟をこぎます。日本海の荒れ狂う海を、板子一枚にいのちを懸けて生きる人の姿を見ました。
流罪の地 越後では、過酷な環境の中、家族のために田畑を耕し、あるいは狩猟をしながら生きる人々がいました。
 
流罪を縁に、生か死か、日々ギリギリのところでいのちを懸けながら生きている人々との出遇いがありました。
彼らは、他のいのちをいただいている現実に、誰もが不安や恐れをいだいていました。
「罪深い私たちは、死んだ後は地獄に堕ちるのだろう…」
懸命に生きているにも関わらず、それに報われるどころか、不安を抱えながら生きる越後の人々。親鸞聖人は人間が生きるということの現実を目の当たりにします。
 
「田畑を耕すことも、漁や狩りをすることも、誰かがしてくださらねば、人は生きてはいけぬもの。にもかかわらず、身を以てそのお仕事をして生きている人々は、これほどまでに苦しんでいる。そのことに、私はあまりに無知であった」
 
聖人は、己の無知無力を思い知らされます。しかし、念仏禁止・流罪が言い渡された後も、念仏を称え続けられた師 源空上人の姿を思い出します。平穏無事を期しての念仏ではなかった。誰もが阿弥陀の慈悲に包まれて生きている。その目覚めが、人に立脚地を与えるのであった。聖人は、越後の人々に念仏のおしえを説きはじめました。
越後の人々は、聖人の説く念仏のおしえにふれ、「阿弥陀は、この私を見捨ててはいなかった。不安を抱えるばかりの生き方であったけれど、この身のままですくいの手がのばされていたのだ」という真実に目覚めました。
念仏のおしえに触れ、生きる力に目覚めた人々は、聖人からいただくお話を大切にされました。
  
念仏に対する処罰は許せないが、越後流罪というご縁をいただかなかったならば、この地の人々に、どうやって念仏のおしえをお伝えすることができたであろうか。このご縁をいただけたのも、師 源空上人のご恩であります。と、親鸞聖人は述懐されています。

2011年6月28日 (火)

親鸞さまがおわします⑰

【第17回 越後流罪】
「承元の法難」により流罪の身となった親鸞聖人。僧籍を剥奪され、還俗させられ、藤井善信という罪名が附されました。当時、僧侶となることは、いわゆる国家資格のようなものでした。その資格を奪われ、還俗させられた。このことは一見屈辱のようですが、親鸞聖人にとって、新たな一歩を踏み出させる出来事でした。
私だけならまだしも、師 源空上人までも流罪に処す朝廷やそれに仕える者は許せない。しかし、流罪の身となり、還俗させられたことによって、初めて仏道を求めるものとして歩みだすことができた。とはいっても、一度は世間のしがらみを憂い出家した身。そのような私が、今さら世間の人々の中に入れてもらうというのも、おこがましい話。俗世間でも生きられず、出家者としての道も閉ざされた。もはや僧でも俗人でもない、中途半端な人間となってしまった。このような非僧非俗の身を、私は生きよう。
と決意され、「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と自ら名告られました。
「愚」愚かで、「禿」道を求める心もないのに、僧侶となった者…決して卑下して名告られた名前ではありません。流罪を機に師との別れに直面し、そこで初めて「南無阿弥陀仏」の念仏のおしえの有り難さに気が付いた。これほどの出来事に遇わなければ、大切なことに気づけぬ自分であった。そのような目覚めが、「愚禿釈親鸞」という名告りとなったのです。
  
流罪の地 越後は、京の都とは比べ物にならないほど寒く、土地は荒れ果て、過酷な自然の猛威にさらされた地でした。越後の人々は、過酷な環境の中、必死でいのちを繋ぎ生きていました。
流刑人は、始めの年は米と塩が支給されますが、2年目以降は自給自足で暮らしていかねばなりません。遅れて越後の地にやってきた妻 恵信尼や子供たちのためにも、親鸞聖人は慣れない畑仕事に努めます。
坊さんの格好をした、畑仕事も手馴れぬ、見慣れない男に、越後の地の民衆は興味を持ち始めます。「どうしてこんな所に来た?」「罪深い人間をすくうおしえがあるのか?」越後の地の民衆との交流が少しずつ芽生えてきました。

2011年5月28日 (土)

親鸞さまがおわします⑯

【第16回 承元の法難(じょうげん の ほうなん)】
源空(法然)上人の念仏宗への訴えが、いくら朝廷に出されようとも、仏教界における争いにすぎないと、朝廷は処罰を下すことはしませんでした。上人のおしえにすくいを感じる者が、朝廷にも多くいたのです
    
ある晩、源空上人のお弟子である 住蓮と安楽が念仏のつどいを催しました。つどいには、身分や性別を越えて多くの人々が集まりました。その中には、後鳥羽上皇に仕えていた女官もいました。後鳥羽上皇が紀州 熊野への行幸中、上皇に断わりもなく、念仏のつどいに参加したのでした。
念仏のつどいも終わり、皆が帰り始めたそのときに、女官は住蓮と安楽にお願いをします。
「南無阿弥陀仏のお念仏のおしえこそ、私たちがすくわれるおしえであります。どうか出家させてください」
女性の身分を知る住蓮と安楽は、その願いに戸惑いますが、女官の必死なまでの願いに応え、ついに出家の儀を執り行います。
   
熊野から還幸した後鳥羽上皇は、女官の姿が見えないことに気づき、源空上人の弟子の元で出家したことを知り、激怒します。
今まで専修念仏のおしえに対して罰を与えてこなかった朝廷も、ついに処分を下します。住蓮と安楽、他二名が死罪。出家者に対する死罪は、前代未聞のことでした。そして、師である源空上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ、他に六名が流罪となりました。この、源空門下への弾圧を承元の法難といいます。
   
師である源空との別れに、親鸞は涙します。
「お上人さま、私は、お上人さまと離れたくはありません」
「たとえどこに、どのような境遇に身を置こうとも、念仏を 忘れてはなりません。念仏を称えることにおいて、阿弥陀如来の御前に、私たちはいつも一緒です。南無阿弥陀仏」
これほどの処罰が下されても、源空上人の口から念仏が途切れることはありませんでした。
源空上人75歳 親鸞聖人35歳
承元の法難が源空と親鸞、今生の別れとなりました。

2011年4月28日 (木)

親鸞さまがおわします⑮

【第15回 念仏のおしえへの弾圧】
 
「ただ念仏」の専修念仏のおしえに帰依された親鸞聖人。しかし、専修念仏のおしえをよりどころとされたのは、聖人だけではありませんでした。 身分・貧富・性別・年齢の別を超えて、すべての人々に開かれた念仏のおしえ。当時の既成仏教が朝廷や貴族を相手に開かれていたのに対し、源空(法然)上人のおしえは、民衆にも開かれていました。源空上人の念仏のおしえは、多くの人々に、瞬く間に広まっていきました。

しかし、勢力を拡大する源空上人の吉水教団を快く思わない人もいました(もっとも、源空上人には、勢力を拡大する意思など全くありませんでしたが)。そのひとつが、比叡山の僧侶たちでした。
山に籠り、厳しい修行に努めることで悟りを得ようとする者にとって、「南無阿弥陀仏と念仏申せば、阿弥陀如来がおすくいくださいます」という専修念仏のおしえは、危うく、許せないものでした。
言いがかりに近い非難もありましたが、民衆の人気を背景に、自分勝手な専修念仏のおしえを説く僧侶(源空上人の門弟)がいたことも事実です。

この状況を憂慮した源空上人は、『七箇条制誡』を書き、門弟たちを戒め、署名させます。親鸞聖人も「僧綽空」と署名されています。

騒動は治まったかのように思われましたが、比叡山からの抗議の翌年 元久2年(1205)には奈良の興福寺から「興福寺奏状」が出されます。源空上人の教団の過失を九ヵ条挙げ、念仏の禁止を朝廷に申し出たのです。

しかし、源空上人の専修念仏のおしえに帰依していたのは、民衆だけではありませんでした。貴族や朝廷の中にも、おしえに帰依する者が大勢いたのです。いくら抗議が出されても、源空の教団に大きな処分が下されることはありませんでした。
ある事件が起こるまでは…。

2011年3月28日 (月)

親鸞さまがおわします⑭

【第14回 人は、笑顔の奥に、どんなに悲しいことがあったことでしょう】

源空(法然)上人の吉水の草庵には、多くの人々が集っていました。その中に、親鸞聖人の妻、恵信尼(えしんに)さまもいました。恵信尼さまは、京都の貴族・三善 為教(みよし ためのり)の息女と言われています。
  
源空上人の教え―苦悩を抱えて生きる衆生を、その苦悩のままに、阿弥陀如来はおすくいくださいます―を聞き続けられた善信(親鸞)と恵信尼。ひたむきに教えに聞き入られました。
   
善信は、初めて源空上人の草庵に来た頃に比べ、顔つきが柔和になってきました。しかしお顔つきが柔和になられたのは、源空上人の教えによって、それまで抱えていた苦悩が無くなったからではありません。苦悩を抱えるには、苦悩を抱えるにいたった縁があります。縁とは、良いことばかりではありません。私にとってつらいことも含めて縁なのです。いくつもの縁が重なり合って、今の私がある。そんな当たり前のことに目覚め、善信は初めて前を向いて歩き始めたのです。
  
いつの頃からでしょう。そのような善信の変化に気付いた恵信尼さまは、源空上人からいただいた教えを語り伝える善信の姿を、頼りとされます。
恵信尼さまは感じます。「この方の笑顔の奥には、 どれだけの悲しみ・葛藤があったことでしょう。この方をおすくいくださった阿弥陀如来の誓願を、私も頼りとして生きてまいります。南無阿弥陀仏」
    
親鸞聖人は、日本仏教史上初めて公に結婚した僧侶として言われています。当時の結婚は、夫が妻の家に入る形が主流でした。そして、想いが変われば他の女性の元へ行くことも、当時の慣わしとしては批判されるようなことはありませんでした。そのような時代性の中、聖人と恵信尼さまは、生涯を共にされます(晩年は別々に住まわれますが)。
お互いに観音菩薩(慈悲の象徴)の生まれ変わりであると述懐されていることからも、おふたりにとって、お互いの存在の大切さが伝わって来ます。

2011年2月28日 (月)

親鸞さまがおわします⑬

【第13回 おしえと人と場】
   
苦悩を無くすべく修業に努めていた善信(親鸞)
苦悩を抱えたままで生きていける道を説く源空(法然)
求めていたものと全く正反対の方向に道が開かれていたことに善信は驚きを感じます。阿弥陀如来を信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を称える 源空上人の姿を見て、「この人についていこう」と決心します。上人との出遇い、念仏との出遇いの喜びを、善信は語ります。
  
法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう
(たとえ師 法然上人にだまされて、お念仏を称えて地獄におちたとしても、後悔はありません)
 
源空上人が話を説く吉水の草庵には、多くの民衆が集まりました。
狩りをする者、漁をする者、その家族の姿が多く見られました。自分たちが生きるために、他のいのちを奪わなくてはならない。誰もがそうなのですが、実際に自分の手でいのちの温もりを感じている者にとって、その罪悪感は比べ物になりません。
他のいのちを奪う葛藤や苦悩を、聞いてくれる人も場もありませんでした。比叡の山で修行をするということは、家族や生活を棄てて山に入るということです。しかし、家族を棄てて山に入るわけにはいきません。結局、葛藤や苦悩を抱えたまま、日々の生活を送っていました。そのような人々にとって、源空の草庵は、まさによりどころでした。
実際、源空の草庵に集るのは、狩猟を生業とする人たちばかりではありませんでした。日々の生活の中で苦悩を抱え、よりどころのないままに生きてきた人々が、源空のもとに集りました。狩猟を生業とする者や民衆だけでなく、武士や貴族も足を運んでいました。身分・貧富・性別・年齢の別を超えて、源空のもとに集りました。その中に、後に善信の妻となる 恵信尼の姿もありました。
  
阿弥陀如来を信じ
南無阿弥陀仏と念仏を称える衆生を
阿弥陀如来はおすくいくださいます  (源空上人)
  
日々の生活の中でできる行、お念仏。
おしえの内容のすばらしさもあったでしょうが、何よりも、多くの罪悪を作りながら生きている自分でさえも、受け入れてくれるおしえ、人、場があった。そのことの感動に、人々は惹きつけられたのでした。
 
しかし、源空上人が説かれるおしえを、よくは思わぬ人々もいました…。

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