ホウ・レン・ソウ

2008年8月12日 (火)

ホウ・レン・ソウ

ホウ 報告
レン 連絡
ソウ 相談
 
ホウレンソウは幸せの味
ホウレンソウは笑顔の素
 
ホウ・レン・ソウ ホウ・レン・ソウ ホウ・レン・ソウ
 

2008年8月11日 (月)

笑顔が消えた理由

知らないこと、知らされていないことがたくさんあるということを前回書きました。
知らされていない…知っている人は、なぜ知らせないのだろうか。

(1)知ることによって、つらい想いをすることもある。つらい想いをさせたくないから、知らせずにいる。

(2)知らせる必要もないことだ。(知っている)私一人が対処すれば、頑張れば、背負えばいいことだから。

(3)知らせることによって、反論が出るかもしれない。反対されるかもしれない。そのようなことがあってはならない。だから知らせない。

知らせない理由はさまざま。
理由はさまざまだけど、知らせないことによって、悲しみが共有されることは有り得ない。
(1)(2)は、相手のことを想ってのことかもしれない。しかしそれは、「傲慢」の裏返しであり、「孤独」への序章かもしれない。
「どうして知らせてくれなかったんだ」
「なぜ相談してくれなかったんだ」
(知らせなかった)私が考えているいじょうに、私のことを想ってくれている人がいる。悲しみを共有することを厭わない人がいる。そんな大切な人がいるのに、無視していました、傲慢になってました、孤独になるための一歩を踏み出しているようなものでした。

(3)は、国家や大企業、大きい組織をイメージしてしまいました。都合が悪いことは知らせない。ギリギリまで隠しておく。どさくさ紛れに、気付かれないように報告する。
現代の生活の窮屈さ・環境破壊を押し進めるエコ・みんなのためといいながら内実が伴わない事業…。
「ここに人がいる」ということを、なぜ忘れてしまうのだろう。
つらい選択なら、やむにやまれない決断なら、本当に民衆のことを想っての決定なら、正直に話せばいいのに。
それを批判する人は、そんなにはいない。
(でも、組織が大きくなればなるほど、関わる人間が多ければ多いほど、難しいことだといいこともよく理解る。人間って、哀しい生き物だ)

 ☆ ☆ ☆

幸せって、不安が取り除かれて幸せになるのではない。
笑顔って、つらいことがないから出るのではない。
不安が、つらいことがあるからこそ、幸せを感じ、人を温かい気持ちにさせる笑顔がある。
幸せの背景には、どれだけの苦悩があることだろう。
笑顔の裏側には、どれほどの悲しみがあることだろう。

現代日本は、人々の顔から笑顔が消えていると言われる。
貧しい国に旅行した人は、「貧しい国に生きているのに、人々の顔は生き生きとしていました」という感想をもらす。
何が私たちから笑顔を奪っているのか。笑顔になれる楽しいことがないからではない。
国家や企業・組織からはなにも知らされず、家族や仲間・友人からはなにも相談されない。そこに、悲しみの共有は生まれない。
笑顔の根っこ、幸せの根っこがないのだ。
「自分さえよければいい」という幸せを求める。その欲求が、仮に満たされたとして、そこで満足できないのは、根無しの幸せだから。だから、欲求が満たされても、更に求める。欲求が満たされても、期待していたような満足ができない。欲求が満たされても、虚しい。

知らせない事実が、人の為という想いが、笑顔を奪う。

2008年8月 9日 (土)

知らないということを、知っている

8月6日 広島に原爆が投下されました。
8月9日 長崎に原爆が投下されました。
 
戦後63年 その傷跡は今も残ります。
また、忘れてしまってもいけない傷です。
 
しかし、戦後63年も経って、既に原爆の恐ろしさは周知されていてもいいのに、未だに知られていない、明かされていない事実がある。
 
8月6日、NHK教育テレビの「視点・論点」で、ナターシャグジーさんが出演されていました。
今から22年前に起きたチェルノブイリ原発事故で被曝した彼女は、ウクライナの民族楽器バンドゥーラの演奏をしながら、原発事故により生じた現実を語られています。
事故が起きたときは、夜中で、誰にも事故のことが知らされなかったこと。事故から2日経ってから避難してくださいと言われたこと。3日もすれば家に戻れるから、何も持たずに避難してくださいと言われ、それから今でも街に帰れずにいること。
私たちの知らない現実を、話してくださいました。
お話の後に演奏された「いつも何度でも」(「千と千尋の神隠し」の主題歌)が、とても印象的で、こころに残りました。何度も聞いている曲なのに。
 
   呼んでいる 胸のどこか奥で
   いつも何度でも 夢を描こう
   悲しみの数を 言い尽くすより
   同じくちびるで そっとうたおう
  
 
大切なことは、いつも隠されてきた。
戦争から63年経って、原爆を落とされた国の人々は、落とされた悲劇を決して忘れない。
この事実を次の世代に受け継いでいかなければいけない。
原爆を落とした国の人々は、落とした結果どうなるのか、実はほとんど知らない。
原爆を落とされても仕方ないことをしたじゃないか。
原爆を落としたことによって、戦争の終結が早まったのだから、被害者がそれ以上出なくて良かったじゃないか。
そういうことが言えてしまうのは、原爆の脅威を知らないから。
 
原子力発電所の脅威を味わったはずの国でさえ、事故から22年たった今、あらたな原子力発電所建設に向けて動き出しているらしい。
悲劇を知っている人はいる。悲劇を伝えようとしている人もいる。なんとか知ってもらいたいと頑張っている人もいる。だけど、生活の話になると、生きるための話になると、「必要だ」という声が出てくる現実。
遠い国の話ではない。今、私が住んでいる国の話でもある。
 
今、テレビ番組ではオリンピックが花盛り。
この一大イベントのために、街は整備され、民衆は賑わう。
しかし、整備された地区の一歩外は、そのあおりを受けている。
選手の応援で華やいでいるその陰で、オリンピックのことすら知らずに、なんとか生きている人々がいる。
事実を知らない現実があるだけなのか、事実を知らされない現実があるのか。その差は大きい。
 
オリンピックを開催している国について、入ってくる情報は悲観的なものが圧倒的に多い。
貧しい・農薬だらけの野菜・人を人として見ていない・日本が嫌い・・・
そのような情報を浴びていると、中国人は日本人が嫌いなんだなと、思い込んでしまう。しかし、数日前に出ていたアンケートでは、日本を好意的に思っている中国人の方が、中国を好意的に思っている日本人よりも圧倒的に多いそうな。中国人は日本人が嫌いだと、勝手に思い込んでいなかっただろうか。自分の経験でそう感じるのではなく、外部からの情報を鵜呑みにすることによって。アンケートの趣旨・内容・結果も、まともに受けていいものかどうか分からない。
事実を知らされないことも恐いけれど、情報操作によって植えつけられる知識はもっと恐い。 
 
私たちは、なにを知っているのだろう。なにを知ればいいのだろう。
なにが正しくて、なにが間違っているのか。
あぁ、迷惑しながら生きてきたのだろうか。
 
でも、夢を描きたい
なげく口で、希望をうたいたい

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