つぶやき

2020年11月28日 (土)

伝統(伝承)と己証

2020年11月28日 親鸞聖人のご命日をお迎えしました。

本堂にて報恩講のお勤めをしました。南無阿弥陀仏

ご本山 東本願寺では、11月21日~28日に報恩講がお勤めされています。

今日28日は「坂東曲(ばんどうぶし)」が勤められました。

このコロナ禍、ご本山の報恩講がお勤めされるのか、されるとしてもどのような対応で勤められるのか。

選択肢としては、一般参拝を受け付けずにお勤めをしたり、まったくお勤めをしないということも考えられるでしょう。

結果、感染症対策をしたうえで、報恩講がお勤めされました。本日の坂東曲も含めて。

現場の方々のご苦労に感謝申し上げます。

さて、そこまでしてお勤めしなければならないの?とお感じになる方もいるかもしれません。

「報恩講」は、親鸞聖人のご命日をご縁とした法要です。法要がお勤めされてきた、その伝統(伝承)です。

けれど、伝統だけでは、そのうち恩徳や目的や意思が薄らいでいきます。

どうして続けてきたんだろう? どうして続けねばならないのだろう? そもそもこれは何なんだろう? と。

「報恩講」は、親鸞聖人の説かれた「南無阿弥陀仏」の念仏の教え。その教えを聞いた人びと、それぞれの人の身に於いて「念仏を大切にします」「阿弥陀をよりどころとしてまいります」という思いが形となったものです。

その思いを己証(こしょう)と言います。「己の身における念仏の証(あかし)」です。

教えに出会い、念仏を称える身となる、阿弥陀をよりどころとした生活をする、親鸞聖人の教えを聞き続けるという姿が己証です。

己証がやがて 法座・法要となり、毎年の報恩講となり、そこで教えが受け継がれ、教えに出会う人が表われる。そういう伝統(伝承)が、報恩講にはあります。

己証だけでは、一人の満足で終わり、伝統とはならなかった。

伝統だけでは、そこに己証がなけば、やがて形骸化する。報恩講がお勤めされることも、既に終わっていたかもしれない。

けれど、現代(いま)、ここに、人々と共に念仏が報恩講がある。

己証と伝統(伝承)が生きてある証拠です。

「伝統」は、ある営みや物事が大切だから「伝統」になったのではありません。

ある営みや物事、教えや教えに出会った人に会うことによって、生きていくうえで宗(むね)とするものを見つけた人がいる。

その人と人とのつながりが、やがて「伝統」となりました。

「伝統」の背景には、ひとり一人の「己証」があります。

己証があって伝統(伝承)となり、伝承あるからこそ己証が芽生えてくる。

ただ、「真宗の行事だから」というだけの意識だったら、「報恩講」に意味はなく、続いてはいない。

「報恩講」が、こんにちまで続いてきたのは、そこに己証があるから。

その伝統と己証に耳を澄ませることが、次の伝統と己証を生む。

南無阿弥陀仏

2020年11月27日 (金)

人文知

たまたま「じんぶん堂」というサイトを知りました。

「じんぶん堂」は、出版社と朝日新聞社による、人文書の魅力を伝えていくプロジェクトです。
朝日新聞社の本の情報サイト「好書好日」の中で展開するこの「じんぶん堂」サイトでは、人文書を世の中に届けているさまざまな人たちが、その魅力を伝えていきます。

AI(人工知能)が人間の知性を超えて、世界の風景が一変するといわれています。
遠くない未来、私たちは端末やデータとして生きていくのでしょうか。しかし、AIのアルゴリズムを作るのも人間です。
「人文系の時代は終わった」という声も聞こえてきますが、デジタル社会になっていくからこそ、人間が人間らしくあるために、 知ること、考えること、そして自分で判断して表現することの、いわゆる「人文知」がますます必要になってきています。
私たち人文書を出している出版社と朝日新聞社は、このサイトを通じて、みなさんにこう呼びかけたいと思います――
人文書を手にとってみませんか? 世界の景色が少し変わるかもしれません。
発起人:晶文社、筑摩書房、白水社、平凡社、朝日新聞社
(「じんぶん堂」サイト 「じんぶん堂とは」より)

 

「じんぶん堂」のサイトを、まだそんなに読み進めてはいませんが、青山ブックセンター本店(ABC)店長 山下優さんのインタビューが目に留まりました。

「どんなメディアでも出版の記事には、200%『出版不況』って枕詞が入っていて。問題はいろいろあったはずなのに、『出版不況』といっておけばいい、みたいな感じがすごくイヤで。ちょうど(ABCの売上が)前年比で上がり始めていたので、書店も頑張っていることを伝えたかったんです。あまりに伝わっていないと思ったから」

言い訳は、始めてしまうとキリがありません。自分は楽だし、責任を誰かのせい 会社のせい 社会のせいにしておけるから。でも、言い訳している人自身もわかっていることだけど、それでは何も変わりません。いや、良くなることはなくて、悪い方に転がっていきます。

出版業界も大変だという話は耳にします。本屋さんが好きだから、行けるときは本屋さんに行って本を買いますが、夜中にネットを見ていて欲しい本・興味ある本に出会ったら、ついポチッとしてしまいます。こころの片隅がチクッと痛みながら。

『出版不況』という言葉は、私のいる業界(“業界”と言っておきます)ならば「宗教離れ」「寺離れ」「墓じまい」などという言葉が相当するように感じます。お寺に人が来ないことを、「宗教離れ」という社会全体の雰囲気であるかのようにして口にする。そういう態度が、宗教離れ・寺離れにつながっていることを気づいていません。

「これは自分たちの問題でもあって、書店の現状とかを、全然伝え切れていないんじゃないか。飲食店もそうですけど、いきなり潰れることを知って、閉店間際だけ人が並ぶことにすごく違和感がある。(来店者数を)ならしていけば、もしかしたら続けられたお店もあるかもしれない。自分たちで発信していくのは大事だなと」

「自分たちで発信していくのは大事だなと」・・・発信していくしかないのだと思います。そこに結果がついてくるか否かはべつにして。
私のいる業界は、親鸞聖人の教えを発信していくことが中心の務めです。そこを外して、そのことをせずに、「宗教離れ」とか「今は仏教の話を聞いてくれる人はいない」とか言っていれば、それでは確かに潰れていくしかないでしょう。
「潰れる」ことが決まり、その話が周囲に伝わったとき、別れを惜しんでもらえるのかどうか・・・。

山下優さんのインタビューを読んでいて、誰もが大変なところにいるんだよなぁとあらためて感じました。
何もせずに、あるいは愚痴ばかり言って終わってゆくのか、すべきこと できることを見つけて努めていくのか。その分岐点にいるのだと思います。

山下店長の話は、経営の話というわけではなく、“本との出会い”の話を語られています。

実際に本屋さんに行って、買うつもりのなかった本を買った、今まで読んだことのない作者の本を買ったという経験は、多くの方があるのではないでしょうか。
本屋さんのお薦めだった、パラパラとめくっているうちに惹き込まれた、装丁に心奪われたなどなど。
そういう経験は、ネット上ではなかなかできません。自分の好きなアーティスト・著名人、SNSでつながっている友人・知人が、「これ読んでとてもよかったよ!」と書いている本を、ポチッとすることはあるでしょうが。

自分の嗅覚や直感で買うということは、楽しい経験です。
その経験は、本以外の購入の際にも、人とのお付き合いの際も生きてくるはずです。けれど、嗅覚や直感に頼らない生活が当たり前になってきて、さて、人間は何を頼りに自分にとって必要なもの、自分が心から欲するものに気づいていくのでしょうか。

「店頭で、目の前に本があるのにAmazonレビューをスマホで見てるのは、外したくない、損をしたくない気持ちがすごく強いんだろうなって思う。その感覚もわかるんですけど、例えばレビューが星5個でも、それは他人がつけた星。星1つでも自分にとってはめちゃくちゃいい本かもしれない。面白い、面白くないは、自分が決めればいい」

 「本は自分で選んだ方がいろんな扉が開くし、世界が広がるんじゃないかな。みんな自分の『好き』を否定されるのを恐れすぎですよね。自分も学生のときにバイトして、洋服とか音楽とかにつぎ込んで、別に無駄遣いを推奨してるわけじゃないけど、でもそうじゃないと本当に欲しいもの、好きなものには出会えないんじゃないかな」

私が学生の時の話。
大学に入りたて 1回生の私は、同じ部活で同じ学科の4回生の先輩に、
「誰の本を読めばいいですか?」「お薦めの本はありますか?」というようなことを尋ねました。
先輩は、誰の本を薦めるではなく、
「誰の本でもいい、真宗の本でなくてもいい、とにかく本を読め。読んでいるうちに これだ!って本に出会うから」とアドバイスをくれました。

周りが「いい!」と感じる本が、私に合うとは限らない。
周りの評価はいまいちでも、私にとっては響くことがある。
世間の評価、周りの補油版を頼りに本を読むのではなく、いろいろな本に手を伸ばしてみてほしいと思います。

そうだ 本屋さん、行こう。

2020年11月26日 (木)

自分に有利に物事を進展させようとして、うまく行ったことってあったかなぁ?

昨日、ソフトバンクホークスが日本シリーズを制し、日本一を勝ち取りました。

セ・リーグ優勝のジャイアンツを相手に、4勝0敗と、2年続けての圧勝でした。

さて、時折ヤクルトファンネタを書いているので、私はプロ野球が好きなんだな、と思われていることと思います。

たしかに、野球はするのも見るのも好きです。

神宮球場でビールを呑みながらの野球観戦は至福のときです。

けれど、クライマックスシリーズのシステムができてからは、どこか冷めています。

クライマックスシリーズ導入の際に、当時の中日落合監督が、日本シリーズ勝者が本当の日本一ではなくなる旨語り、導入に反対していました。

私も同様です。

大リーグでもポストシーズンのシステムがあるじゃないかという人もいますが、大リーグと日本ではリーグの形式が違います。

リーグのなかに地区があり、それぞれの地区優勝チームどうしが戦って、リーグ優勝を決めているのですから、リーグ優勝であることに違いはありません(ワイルドカードのシステムもあるので、そこはどうなんだろう?と思います)。

日本のプロ野球は、リーグ優勝自体は、一年間戦った結果最高勝率チームが優勝ですから、リーグ優勝チームであることの意味があります。

けれど、クライマックスシリーズで勝ち進むことにより、年間2位・3位のチームが日本シリーズに進み、日本一を勝ち取る可能性もあります。

そのシステムを、どうしても素直に喜べないのです。

過去の、2位 3位 からの日本一チームを否定しているわけでも、ケチをつけているわけでもありません。

ただ、現場の選手やスタッフは、そのシステムを本当に受け容れているのかなぁ?と思うばかりです。

あ、すみません。

クライマックスシリーズというシステムの文句を言おうとしているのではありません。

どんなスポーツも、お金を持っているチーム・リーグを率いているチームの責任者・経営者は、自チームを優勝させるためのルール改正を行います(行おうとします)。

あるいは、特定の個人・チームが優勝し続けたとき、その個人・チームに不利となるルール・システムを、競技団体として改正することもあります。
(私のなかでは、ノルディックスキー複合 荻原健司選手のことが強く印象に残っています。彼のあまりの強さから、日本選手にとって不利なルール改正がなされ、以降、荻原選手から優勝が遠ざかりました。)

ルール改正そのものを一概に否定はできませんが、ある力学がはたれいていることもまた否めません。

プロ野球もまた、クライマックスシリーズの導入や、ドラフト制度・FA制度など、全体の同意というよりも、ある力学が強くはたらいているように感じます。

我が軍が勝たねば意味がないと、強い選手が自チームに集まるようなシステムにルール改正していったチームが、日本シリーズの舞台で力を発揮することなく敗れたことは、皮肉な結末であった気がします。

現場の選手・スタッフは、常に一生懸命プレイしています。

選手・スタッフの非難をするつもりはありません。

ただ、大きな力をもった者が、自分に有利になるように事を進めても思うようにはいかない。

逆に、改正された、新設されたルールのなかでできることを尽くした強いチームが出てくる。

そういうことを感じた日本シリーズでした。

そして、大きな力を持った者が自分に有利にことを運ぼうとすることは、スポーツ(スポーツ経営)の世界の話に限りません。

同業者間のやりとりもそうですし、政治の世界こそ醜悪な姿が著しく表われます。

小選挙区制度なんかもそう感じます。

スポーツの話から政治の話に行くとは、書いていて驚いています!

自分に有利に事を進めようとして、自分がその深みにはまる! 

そうならないように気をつけたいものです。

そのようにしようとしてきたことはなかったか!?

兄弟間、仲間間でも、自分がルールブックになったことはなかったか?

そんなことも振り返ってみてはいかがでしょう?

2020年11月25日 (水)

子どもに注意することって、だいたい自分もやってたんだよね

昨日の投稿で、小学校2年生のお友だちが西蓮寺に遊びに来てくれたお話を書きました。

今朝、昨日お寺に来てくれた子が 私に声をかけてくれました。とても嬉しいです。

子どもたちと接していると、ひとり一人の幸せを願わずにいられません。

 ☆

さて、朝ドラ「エール」も最終週に入りました。

11月23日(月)の放送は、

アキラ(宮沢氷魚)が華(古川琴音)との結婚の許しを得ようと古山家にやってくる。ぶ然とする裕一(窪田正孝)と心配する音(二階堂ふみ)。裕一と音は、アキラのロカビリー歌手という不安定な職業や、これまでの派手な生活から結婚に反対する。しかし、華を思って作ったアキラの歌を通して彼の本気を感じた裕一は、音との結婚も自分たちを信じる気持ちで親が許してくれたことを思い出す。

という内容(NHK「エール」のホームページより)。

娘の結婚を反対しつつも、自分たちも反対を押し切って結婚したこと、自分たちのことを信じてくれた親のことを思い返す古山裕一。

そこで音(妻)に語り掛けます。

 いつの間にか親になって

 いつの間にか昔の自分棚に上げて

 安心とか幸せって言葉 隠れ蓑に

 大切ななにかを見落としていたのかもしれない

 自分の子どもを信じる気持ちを

  (NHK朝ドラ「エール」2020年11月23日放送より)

「あなたのためを思って」「あなたの安心(幸せ)を願っている」って、言っている方は大事なことを言っているつもりで、自分に酔っています。

けれど、言う方は自分の経験を踏まえて言うから、決して嘘を言っているわけではない。

言われる方も、自分の人生(結婚や仕事や勉強のことや)をいい加減に考えて 親や先生や目上の人に訴えているわけではない。

年配の者と若者との間で必ず生まれる壁なのかもしれない。

反対し続けた方が良い未来が訪れるのか、認めてあげた方が良い結果が来るのか・・・

目上の人の言葉を信じた方がいいのか、分からず屋の言葉を振り切ってでも自分の信じる道を行ったらいいのか・・・

そんなこと、どちらが良い方向に進むのかなんてわからない。

わからないから、悩む。

わからないなかで、「(経験を積んでいる)私を信じろ!」と思うのか、「この子(この子たち)を信じる!」と思えるのか。

大切なこと「子どもを信じる」という前提は、見落としてはならない。

「信じる」といっても、信じる信じないの二者択一ではなくて。

「まだ子どもだから」「子どもに何ができる」「子どもには手を指し出してあげなければ」という考え方は、子どもに失礼だ。

話をしていると、子どもは 子どもが経験してきたことを通して、よく見ているし、よく覚えているし、よく考えている。

ちゃんと意見を言うし、我慢するべきところと判断したら我慢しているし(子どもなりにしているのです)、爆発すべき(遊ぶべきときは遊び 学ぶべきときは学ぶ)ところは忖度なくきちんと爆発している。

子どもは、経験値も考えも足りない幼い者ではない。

大谷派僧侶の祖父江文宏さんは、子どもたちのことを「小さい人」と言い、対等に接しておられました。

そのお姿から学び、このブログでも話の内容に合わせて「小さい人」と表現しています。

小さい人と、人として接する。

そのうえで、私が思うこと、感じることをきちんと伝える。

できることなら、目線の高さを合わせて。

そして、小さな人が何を思い、何を感じ、何を受け止めたのか、そのことに耳を傾けられれば。

小さな人(小さな人たち)のことを思うならば、これから先の道を狭めてしまうのではなくて、転ばぬように舗装してしまうのではなくて、自分の経験に合わせた道を勧めるのではなくて、歩みを見続けることが大事。

道が狭くなって先に進めなくなったら、「休んでもいいんじゃない?」「戻ってもいいんじゃない?」って、前進以外の道もあることだけを言えばいい

転ばぬように舗装するのではなく、「私は、こういうことに躓(つまづ)いちゃってねぇ(^▽^)」って、自分の躓きを話す(その後のアドバイスは、聞かれたら答えればいい)

自分の経験則から道を勧めるのではなく、「あぁ、そんな道(考え方・やりたいこと・出会った人びと)もあるんだね」と耳を傾ける

なんてやりとりができる私でいられたら、いいなぁ

 ☆

「エール」に出演している宮沢氷魚さんは、「THE BOOM」のボーカルの宮沢和史さん(54)の息子さん。

ドラマ内で宮沢さんとバンドを組んでいるドラマ―Kaitoさんは、「Mr.children」のボーカルの桜井和寿さん(50)の息子さん。

自分が曲を聞いてきた人たちの息子さんたちが一線で活躍している。

当然と言えば当然の道理(こと)

先行く者は、若い人(小さい人)たちに「この道に行ってほしい」と要望するのではなく、「この道を歩んでいけば大丈夫だ」と、堂々と言える道を切り拓いていくことが努めだと思う。

自分のしてきたことを棚の上に上げてしまうのではなくて、

自分のしてきたことを自分の膝元に置いて、小さい人と語れたら・・・

2020年11月24日 (火)

生まれてきてくれてありがとう

今日、娘たちの通う小学校の、2年生のみんながお寺に遊びに来てくれました。

コロナ禍にあって、バスや電車に乗っての遠足は見送らざるを得ませんでした。

そのようななか、小学校の先生たちは、遠足だけでなく できるだけすべての行事を実施しようと努めてくださっています。

過日、2学年の先生方が訪ねて来られ、「遠足として西蓮寺さんの見学をさせていただけませんか?」と相談を受けました。

お寺としては大歓迎です。「ぜひ ぜひ!」です。

というわけで、2年生のみんながお寺に来てくれる日をお迎えしました。

今までにも小学生たちがお寺に来てくれたことはありますが、そのときは学年全員(100余名)が本堂に入り(まさに“一堂に会し”)、手を合わせてから、お話したり、質問を受け付けたりしました。

けれど、密を避けなければならないご時世、3クラスあるのでローテーションを組みました。

本堂班 お座敷班 お庭班

本堂班は私がお話して、お座敷班は坊守がお話して、お庭班は自由に走り回ってもらっていました (^-^)

本堂班が終わったら、ローテーションで入れ替わり・・・

 ☆

2年生のみんなに、“自己肯定感を感じてほしい”(今日のテーマ)と願い、言葉を書いてお待ちしていました。

本堂前の言葉は「生まれてきてくれてありがとう

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生きていると、楽しいこともあれば悲しいこともあるけれど、生まれてこなければよかったいのち、いじめられていい いのちなんて 無い。

私たちが、「お母さん」「お父さん」「先生」「阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)」とか呼べるのは、私のことを大切にしてくれる人の温かい思いが届いているからだよ。

「生まれてきてくれてありがとう」「一緒にいてくれてありがとう」という想いが、私に届いているからね。

というお話をしました。

また、本堂内には、煉獄さん(煉獄杏寿郎『鬼滅の刃』より)のメッセージ「俺は信じる 君たちを信じる」を掲げました。

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みんな、本堂に入るなり煉獄さんのメッセージが目に入ったようです。

煉獄さんが炭次郎たちのことを信じて大事にしたように、私たちも信じ守られています。

“信じる”は、“大切にする”ってことです。

みんな、大切な ひとりひとりです。

生まれてきてくれてありがとう 今日はお寺に来てくれてありがとう。

というお話をして、それから質問を受け付けました。

いつものことですが、大人の想像を超えた質問が飛んでくるので、面白い(とても温かい)です。

質問コーナーを終えたら本堂内見学の時間。

煉獄さんの言葉に興味を示す子が多いなか、道綽大師の言葉「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え」をジッと見ている子がいました。

心に響いたのかな💖

人それぞれ興味関心を示すところが違って、いつも発見をいただいています。

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この後、西蓮寺を出発して、寺町通りを散策して、広い公園でお弁当だったそうです。

雨が降りそうだったけど、なんとかもったかな。

今日はとても楽しかったです。

ありがとうございました。

また会いましょうね (*^-^*)

 ☆

「自己肯定感」「生まれてきてよかった」というようなお話をすると、大人の方には嫌悪感を持たれることがあります。
「こんな人生、どうして生まれてきてよかったと言えるんだ!?」と。
そう言われることを否定はしません。その方にすれば、心底そう思って発する言葉だから。
ただ、私が仏教にふれているうちに 私のなかに根付いた教えのひとつに「私は、自分で生まれたくて生まれてきた」というものがあります。
その話をすると、「そんなバカなことがあるか!」とお叱りを受けるのですが、私は心底そう思って話しているのですから思いは覆りません。
現在の境遇はどうあれ、「自分で生まれたくて生まれてきた」という想いが根付いてから、“言い訳できないなにかがある” “自分で生まれたいと思っても、外的要因(縁)がなければ生まれることはかなわない” “自分の思い(内的なもの)に対して阿弥陀の願い(外的なもの)がなければ、私は生きていられるはずがない” と、そういう意味での「自己肯定感」があります。
といった難しい話は、自分の人生において仏教にふれて感じられることなので、そこまでのことは言いませんが、
でも、現在の境遇はどうあれ、“わたし”を生かすはたらきは、必ずある! そのことを、今日は伝えたかったのです。
南無阿弥陀仏

2020年11月23日 (月)

言っていることの片鱗でも見せてほしい

新型コロナウイルスの感染者が増えてきました。

目に見えないウイルスが感染拡大すること自体は、自明のことであったのかもしれません。

政府は「Go To トラベル」の見直しを表明しました。

政治に携わる人びとがいかに対処しようと、相手はウイルスです。

簡単に収束に向かわせられる相手ではありません。

ですから、政策の(失敗の)せいで感染が広まったというようなことを言うつもりはありません。

それにしても、政府のコロナ対策は経済(お金)のことばかり見ていて国民(日本に住まう人)のことは見ていないようです。

「Go To 〇〇」でお金を使う(使わせる)ことには懸命ですが、ウイルスの猛威がぶり返したときの対処を何もしていなかったことが目に見えてきました。

最近では、マスクもアルコールスプレーも手洗い石鹸もティッシュペーパーも、店頭に大量に並んでいますし、購入することに困ることがなくなりました。

けれど、再びウイルスが猛威をふるい、マスクなど必要なものが手に入りずらい状況になったときのことを考えているのでしょうか。

品薄になった要因は、日本国内企業が国内で製造しているのではなく、海外で製造したり仕入れていたりしたため、日本に入ってくるのが 日本が仕入れるのが遅れて品薄となりました。

マスクに限らず、医療従事者の着る防護服等も手に入らずに困っていたのは記憶に新しいことです。

また、食品に目を向けると、日本の食料自給率は決して高くはありません。
(充分自給できている食品もあるし、全然足りない食品もあります。食料自給率の数値は、見る資料によってばらつきがあります)

今夏、日本国内においてウイルスが少し落ち着いていたときに、ウイルスが蔓延した際の必需品・食品に対しての対応をするべき(国内生産率を高める方策を打つ。すぐに結果の出ないものもあるけれど)であったのに、そのような動きがなかったことが、現在の政府の対応を見てもあきらかです。

手洗いの励行・三密を避ける、少人数での食事などを呼び掛けていましたが、そのこと自体は政府から呼びかけられずともしてきました。

それに、それらは政策ではありません。

手洗いの励行や三密を避けることを呼びかける背景で、足りていないものの生産性を高める、医療従事者や施設・設備の拡充、経費を削減しすぎて負担を強いてしまった保健所の態勢を整える・・・

それらのことを考えていない、する気もないのに、「国民の皆さんの命と暮らしを守る、こうしたことを全力で取り組んでいきたい」 ということを、「先ずは自助から」と訴えかけていた人が言うから、言葉がむなしく響いてきて、やりきれなくなります。

2020年11月22日 (日)

小さな人の宝物

数日前の話

西蓮寺山門前のベンチに、小さなお子さんのブランケット(って言うのかな? ひざ掛けです)が乗せてありました。

自転車から落としたブランケットを、どなたかが丁寧にベンチの上に置いてくださったのだと思います。

経験上、小さな子のブランケットは、その子にとって大切な宝物。

ブランケットを落とした子は、落としたこと(失くしたこと)に淋しがっているに違いない! と思いました。

お寺の前を自転車で行き来している親子なら、きっとまたお寺の前を通るに違いない。

ベンチの上に乗せてあるだけでは目立たないから、折りたたんで袋に入れて“落とし物”と書いて、目につく高さの所に掲げておきました。

落とした方が見つけて、そのまま持っていけるように。

 🌞 🌞

一日か二日か経過し、ドアフォンが鳴りました。

玄関に出ると、そのブランケットを抱きかかえた子とお母さんが。

「ブランケット、この子のお気に入りだったんです。失くして残念に思っていたんですけど、目につくところに置いておいていただいて・・・。ありがとうございます」とお母さん。

ブランケットを大事に抱きかかえた子も笑顔です。

よかったね よかったね (^-^)

そのままお持ちになってもよかったのに、お礼の声をかけてくださって、とてもとても嬉しかったです。

ブランケットを宝物にしている子の手元に戻って、とてもとても良かったです。

声をかけてくださって、ありがとうございます。

落ちていたブランケットをベンチに乗せてくださった方、ちゃんと持ち主の元に戻りましたよ。ありがとうございます。

 🌞 🌞

そんなことがあって、声をかけてくださったお母さんの気持ちと、ブランケットを両手でギュッと抱きしめている子の姿が 心に刻まれました。

生まれてこの方、

嫌なこと、つらいこと、悲しいこともあるけれど、

「ありがとうございます」の積み重ねで 人間は生きているのではないだろうか、生きていられるのではないだろうか。

そんなことを感じています。

南無阿弥陀仏

また会おうねv(^-^)

2020年11月21日 (土)

ご本山 報恩講 2020

2020年11月21日(土) 本日より真宗本廟において報恩講がお勤めされています。

寺での法務を終え、午後2時からの御正忌報恩講 初逮夜のお勤めを、ライブ配信で参拝しました。

京都に行くこと叶わぬなか、寺にいながらご本山の法要をお参り出来て、有り難いことです(‐人‐)

数年前から法要・法話の配信はされていましたが、今年は配信状況がより充実しているように感じます。

(毎年ご本山にお参りしているので、ここ数年の配信状況をそれほど把握していないのですが)

やはり、このコロナ禍にあって、配信する側も 見る側も 機材や環境が多少は充実したことが大きいですね。

けれど、報恩講をはじめ ご本山の法要・法話を配信することには、当初は(以前は)反対意見もあったと聞きます。

 ・法要・法話は、生で聞くものである。

 ・配信してしまったら、京都まで(ご本山まで)来なくなる人が増えてしまう。

 ・ご本山にお参りしてもらいたい。

私も、ご本山の空気にふれることによって得るものがあると感じているので、一人でも多くの門徒さんに、ご本山にお参りしていただきたいと願っています(報恩講に限らず)。

けれど、その願いは別にして、このような状況・環境下にあって、ご本山の様子をネット配信で世界中の人々が拝聴できるということは、勝縁(有り得ないことが起こっているご縁)です。

「ご本山の報恩講は、このようにしてお勤めされているんだ」ということを感じていただけたらと思います。

配信は、決して本山との距離を開いてしまうものではないと思います。

 ・お参りしたい方はお参りするし、

 ・京都に行ってまでお参りするつもりのない方は お参りするご縁がないし、

 ・本当はお参りしたいのに 事情があってお参りできない人もたくさんいます。

「おいでおいで」ではなくて、「あなたのことを待っています」(「来てほしい」という意味ではなくて、「あなたを待っている人・場所・はたらき、つまり、あなたの居場所がありますよ」という意味です)というメッセージを発することが、法要にしろ、法話にしろ、それらの配信にしろ、親鸞聖人の教えに出会わせていただいた僧侶の勤めなのだと思います。

南無阿弥陀仏

2020年11月20日 (金)

門首継承式

本日〔2020年11月20日(金)〕、真宗本廟(東本願寺)において門首継承式が執り行われました。

2020年7月1日、24年にわたり門首の任にあった大谷暢顯前門が門首を退任され、大谷暢裕門首が、真宗大谷派第26代門首に就任されました。

前門首の挨拶 並びに(現)門首の表白(宣誓)と挨拶がホームページに掲載されています。

前門挨拶

門首表白(宣誓)

門首挨拶

24年前、前門首が就任され、そのお姿を見聞きし、「あぁ、素敵な人が門首になられたなぁ」と感じました。

仕事や研修で本山に行き、お朝事にお参りする際、門首のお姿が見えるとホッとしたものです。

門首の表白(宣誓)の中で、慶讃法要テーマ「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」にふれられ、「⼈間を⼈間の知性からではなく、仏のまなざしの深みから問い返し、⼈と⽣まれたことの意味を回復することが願われています。」と表白されています。

人が、生まれたことの意味をたずねていこうとしたとき、私自身の生まれたことの意味をたずねがちです。

けれど、人は単体として生きているものではなく、周りの人びとのみならず世界中の人びとと、今を生きる人びと だけでなくかつて生きてきた人びと これから生まれくる人びととともに生きています。

そのすべての人びと(衆生)が、阿弥陀如来の眼差しからすれば救いの対象です。

衆生と共にある私。

私もあってこその衆生。

そのことを踏まえながら人生を歩むことが、人と生まれたことの意味をたずねながら生きることとなります。

南無阿弥陀仏と共に。

門首は、幼き日にブラジルへと渡って長き日々を過ごしたのち、縁あって 日本に戻られました。

それゆえに、人と生まれたことの意味を、門首自らがたずねておられることを、挨拶の言葉から伝え感じました。

「幾世代をも貫いて、今日(こんにち)の私にまで相続されてきたみ教えにふれ、今、先達(せんだつ)の歩んだ道を辿り、ここに立たせていただいていることは、誠に筆舌に尽くしがたい不思議な思いがいたします。本当に多くの方々との出会いとお支えのお陰で、今日までの歩みを進めることができました。ここに、ご縁をいただいた多くの方々に厚く御礼申し上げます。」

南無阿弥陀仏

2020年11月19日 (木)

あなたは軽いのよ‼

SNSに他人の悪口を書いたり腹立ちのままに投稿したりして、他者を傷つける行為が社会問題となっています。

投稿する方も、感情のままに書きなぐり、後で冷静になって後悔することもあるそう。

テスト段階の話ですが、他者への憎悪を書き綴っているなとAIが判断した場合に、「このまま投稿しますか?」といった注意喚起を促すことをしてみたそうです。

すると、90%近くの方が、投稿を踏みとどまったという結果が出たそうです。

SNSには、他者を傷つける投稿や、あるいは子どもの学校や習い事での活動状況をまんまあげてしまう人がいます(よそのお家の子も映っていたりする)。

憎悪であったり承認欲求を満たすための投稿であったり、感情のままにした投稿が、後で問題となることも少なくありません。

芸能人の自死が相次ぎ、その芸能人を嫌悪する書き込みをした人たちが、「自分が投稿したことがばれるのではないか」「自分の投稿が自死の引き金になってしまったのではないか」と悩んでいると聞きます。

SNSでのやりとりは、対仮想空間でも、対ネットでも、対コンピューターでもありません。

対人です。人と人とのやりとり、交流です。

面と向かって言わないこと、言えないことは、ネット上でもすべきことではありません。

もっと、言葉を大切にして生きてほしいと願います。

思うに、たとえば文字数の制限がある場合、どうしても丁寧な言い回しではなく簡潔な言い方になります。

簡潔な言い方は、どうしても冷たく聞こえます(読めます)。

それだけでも、受け手が傷つく土壌ができてしまいます。

発する方が簡潔な言い回しに慣れてくると、文字数の制限が緩和されても、表現はきついままです。

丁寧に、優しく、相手のことを思って・・・なんてことは考えません。

テレビ番組で募集され、画面に出てくるツイートを読んでいると、その言葉遣いにしんどくなってくることがあります(内容云々以前に)。

言葉を、もっと大切にして生きたい。

注意喚起されたら思いとどまれるのですから、注意喚起される前に、自分の頭の中で相手のことを言葉の内容を考えてみてほしいです。

 ☆ ☆ ☆

さて、後輩が、恩師(大学の先生)とのやりとりを話して聞かせてくれました。

後輩は、連れ合いから「あなたは言葉が軽い」と言われ、腹立ち、凹みました。

で、恩師に相談というか、「言葉が軽い」と言われた話をしたそうです。

後輩的には「あぁ、そうですか」と、軽く受け流すくらいの反応でよかったそうですが、先生は腕を組んで熟考を始めたそうです。

そして、「う~ん、言葉が軽い・・・でも、私たちは、人間そのものが軽いですからね」と言われたそうです。

もちろん、先生は笑わそうとして言ったのではありません、考えに考えて辿り着いた結論です。

「私たちは」は、“先生と後輩だけ”を指すのではないと思います。

「人間は」ということでしょう。

「人間は、人間そのものが軽いですから・・・言葉だって軽くなりますよね」ということだと思います。

言い得て妙です。ガッテンしてしまいました。

 ☆ ☆ ☆

後輩の話は、AIによる注意喚起の話を仕入れた晩に、偶然聞きました。

だから、昼間は「言葉を、もっと大切にして生きたい」ということを考えながら過ごしていました。

けれど、晩に後輩の話を聞いているうちに、「あぁ、人間そのものが軽いんだから、言葉の扱いも軽いのは当然だなぁ」と思いました。

開き直って言っているのではありません。

「言葉を大切に」、あるいは「いのちを大切に」「仲間を大切に」など、「大切に」と言われるものは多々あります。

けれど、「大切に」とわざわざ言わなければならないのは、それらを大切にできていない現実があるからです。

その現実とは、「大切に」していない現実である以前に、人間の軽さ(=重さ)を認識していないという現実です。

現代(いま)「軽さ」というと、ノリ のことを言っているように思われるかもしれませんが、ノリの軽さではなく、存在の重さを感じていないということです。

今、ここに、私が、他者と共にある。

そのことの重さ(意味)を、仏さまの教えは説いています。

重さを知れば、言葉を使うことの重さも、他者の重さも感じるのではないでしょうか。

決して、仏さまの教えに触れれば重さを知る人間(言葉を、他者を思い遣る人間)になれる!と言っているのではありません。

言葉を、他者を、軽く扱う 私自身の軽さ。

そこに気づいているか!? と言われた気がします。

南無阿弥陀仏

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