つぶやき

2019年5月30日 (木)

「人(にん)」は、お金の単位ではありません

政府は、年金だけでは老後の生活費が足りなくなってしまうリスクがあることを認め(とっくに分かっていることではあるけれど)、国民が自ら資産形成することを促した。
その政府与党の議員が「お子さん、お孫さんには子どもを最低3人くらい生むようにお願いしてもらいたい」と求める。

国民から預かったお金の運用に失敗したり、預貯金を海外に流出させたり、欠陥戦闘機の爆買いをしておいて、どうして「子どもを〇人生みましょう」と言えるのか!? そんな議員さんたちだから言えるのだろうけど。

2019年5月29日 (水)

この世の中、知っていることよりも知らないことのほうがはるかに多いというのに

連続殺人事件が起こると、「犯人の考えていることが分からない」と悶々としたり、「他の人を巻き込まずに、自分だけで死ぬべきだ」と一件正当と思われる意見を述べたりする。
その分からない中で、理解不能の中で、(だからこそかもしれないが、)犯行に及んだ者の考えを推し量ろうとする。報道では、いろいろな肩書きの人が自分の思うところを語っている。
分からないから分かりたいという気持ちは当然出てくる心理だけれど、犯行に及んだ者が死んでしまったいじょう本当のことは分からない。たとえ死ななかったにしても、犯行に及んだ者の理由を受け入れられるだろうか。

今書こうとしたことは、分からないことは、分らないということ。
ネットが普及し、大量の情報が手に入るようになったと言われる。そのことによって、情報が手に入って当たり前という意識が働くようになってしまった。だから、マスコミは事件現場のそばにいた人や関係者にマイクを向ける。けれど、何が起こったのかを知りたい!!のは、実はマイクを向けられている方々かもしれない。現場にはいたけれど、いたからこそ、目の前で、自分の身近で起きたことの真実を知りたい。けれど、知る由もない。
被害に遭われた生徒さんの学校も会見を開いていたけれど、情報を知りたいのは学校の側だと思う。報道陣は「犯行に及んだ人は、学校の関係者という声もありますが?」「犯行予告が来ていたという情報もありますが?」と尋ねていたが、だれからの、どこからの情報なのだろう? 学校側は、関係者か否か確認出来ていない、犯行予告はない、と応えていた。つまり、根も葉もない噂に、報道する側が振り回されている。“真実を伝えるのが使命だ”という使命感からだろうか?  滋賀県で保育園の子どもたちが車に轢かれた事件の際も、すぐに保育園の会見の場を持ち、まるで保育園の側に問題があるのではないか!?と追求する質問が相次いだ。その際、会見のあり方が問題になったばかりだけれど、また同じことを繰り返している。

「正しい情報が入らないのは不利益である」という常識が、余計に物事を複雑化し、真偽定かでない情報に惑わされ、これ以上傷つけてはいけない人たちをさらに傷つけている。今は、事件を調べる勤めの方たちが調べた結果を待つことが肝要ではなかろうか(池袋の事件のように、権力におもねるきらいがあるので、100%信用できるわけでもないのがつらいところですが)。

事件に遭われた方々、ご親族、関係者の皆様のお気持ちは、察するに余りあります。お悔やみを申し上げます。

2019年5月18日 (土)

あなたを呼ぶ声は わたしを呼ぶ声

あなたの名前を呼べるのは
あなたが私を想っていてくれるから

 あなたの想いが私へと伝わったから
 私はとても嬉しくて あなたの名前を呼ぶ

 あなたの願いが私となったから 
 私は私のままで あなたの名前を呼ぶ

あなたが私を呼んでくれるから
私はあなたの声を聞くことができる

 あなたの声が私へと届いたから
 私はとても驚いて あなたの名前を呼ぶ

 あなたの声が耳の奥底に残るから
 私はいつまでも あなたの名前を呼ぶ

今を全然喜べなくて
自分の居場所が見つからなくて
自分の存在の意味が分からなくて
ひとり 不安に覆われた暗闇を歩む

 あなたの名前を口にするとき
 あなたと共に 私はいる

 あなたの名前を口にすること
 それは私自身の存在の証

 私はひとりじゃない
 いつだって
 どこだって
 どんなときだって
 あなたと共に 私はいる

今いることがとても不思議で
自分の居場所は、今、ここでよくて
分からないことはたずね続ければよくて
ふたり 安心してこの道を歩める

手と手が合わさって
なんだか とても温かくて
なんだか とても目映くて
合わさる手の中に私の知らない世界がある

 あなたがいるから 私がいる
 私がいるから あなたがいる

 あなたが私を呼ぶ声と
 私があなたを呼ぶ声と

 私はひとりじゃない
 孤独も
 悲しさも
 さみしさも
 共に感じてくれるあなたがいる

ひとりひとりの涙に身を寄せて
ひとりひとりの名前を呼んで
涙がとても温かくて
名前がとても目映(まばゆ)くて

 

「あなたを呼ぶ声は わたしを呼ぶ声」
   (作詞 わたし/作曲 あなた)

2019年4月 4日 (木)

ボヘミアン・ラプソディ

2019年4月1日 昼過ぎに寺報を入稿して、ホッと一息。一日の仕事を終え、ふと映画を観たくなる。ネットで確認すると、「これから見に行ける!」という上映時間があった!! QUEENを描いた「ボヘミアンラプソディ」・・・やっと、やっと観ることができる!! ワクワクしながら新宿へ。21:55からの上映回を観に行きました♪

学生時代に、QUEENをカラオケで歌いまくる先輩がいて、当時洋楽に興味がなかった私でも、QUEENが気になり始めました。(QUEENの演奏を聞いて、ではなく先輩の歌を聴いて、なんだ (^∀^) )

詳しくない私が語るのも野暮だけど、あぁ、QUEENいいなぁ♡と思いました。映画館で鑑賞できてよかった。

さて、4月の寺報にて、

「胸の傷」のいたみについて考えるとき、自分の胸の傷のことばかり考えていた。

けれど、私があなたにつけた傷もありました。その傷の方がはるかに多くて、はるかに深い。

と書きました。

映画鑑賞中「Love Of My Life」という曲が流れ、その歌詞(字幕)に

「私の愛する人 あなたは私を傷つけて去って行くんだね 僕から愛をとりあげないで」と書いてありました(注、まったくの私の記憶ですので、原文や本来の意味と違うかもしてれません)

その字幕を見ながら、

「愛をもらうって傷をもらうことなんだ。傷というと否定的イメージが強いけど、そうではなく、大切な人との出会いの象徴なんだ。自分の傷にばかり気持ちが行って、他者(愛する人)につけた傷に無自覚な私!って文章を書き上げたばっかだけど、あぁ、私は愛を分かってない男だなぁ。自分についている傷の背景を、奥底を、もっと感じてごらん!! 愛をもらってる私なんだよ!!」

なんて、映画を観ながら、「LOVE Of My Life」を聞きながら心の中で呟いていました。

時間つくって観に行ってよかった。終電で帰れてよかった。

2019年3月 2日 (土)

沖縄の話をしよう

2019年3月1日(金)
首相官邸前での「辺野古埋めるな東京大抗議」デモ参加。
東日本大震災以降、機会があればデモに参加しているけれど、参加する度に苦しくなってくる。
デモに集まる人びとと警備の警官隊。その対立の構図は分かりやすいけれど、警官隊だって、警官になる縁によって警官になったのであり、それはデモに参加する人びとも、デモをする立場に、縁によって立っている。ほんの少しの出会いの違いで、立っている場所はお互い逆だったかもしれない。警官隊だって本意ではなく警備する側に立っているのかもしれない。つまり、警官隊も含めて、首相官邸前や国会議事堂前に集まる人びと(そこに集まれない人びとも含めて)は、みんな守られるべき人びと。本来敵対するはずのない人びと。
そう思ってきた。...
けれど、デモの回を重ねると、対立構造がより鮮明になってくる。警官隊を罵るデモ参加者もいるし、高圧的な警官隊も出てくる。
でも、もっと苦しいのは、デモに参加している人どうしが罵声を浴びせ合うこと。同じ方向を向いてるはずなのに、その人たちが争う。そんな状況を目の当たりにするようになり、とても苦しかった。
争う必要のない人どうしが争い、人びとの声に耳を傾けて欲しい人たちは、首相官邸内や国会議事堂内でのうのうとしているのだろう(そこにいないこともあるのだろう)。
今日きつかったのは、デモ隊の「辺野古を埋めるな」の声を書き消すほどに、警官隊がメガホンを手に「危ないので気をつけてお歩きください。ご協力をお願い致します」のコールを始めたこと。文字にすると丁寧な文言だけど、デモ参加者は決められた場所にいるにもかかわらず、大きな声で「危ないので~」コールを続けていた。どっちがデモしているのかわからないほどに。あぁ、やはり権力の側に立ってしまうのだろうか。
今日一番突き刺さったのは、沖縄県民投票のためにハンガーストライキをされた元山さんがマイクを持ち、「もっと集まってくれると思ってました。皆さん、周りの人ともっと沖縄のことについて話をしてください」と訴えておられたこと(元山さんのセリフは聞き覚えなので正確ではありません)。
昼間一緒にいた人に、「今日、デモがあるんだ」という話すらしなかった私。自分の中だけで納めてしまう。悪い癖だ。

2019年2月13日 (水)

人間には、いのちには、本来肩書きなんてない

池江璃花子さん あなたは あなたでしかない かけがえのない いのちを生きています。

水泳の第一人者とか 東京オリンピックの代表選手とか 金メダル候補とか そんな肩書きは本来いのちには付いていないものです。
また第一線でとか オリンピック目指してとか メダルを取れるようにとか それは本人の中でのモチベーションとしては大切だけど、他の人が言うことではない。そういう肩書きとか 目標が付かなくても、池江璃花子さんは池江璃花子さんです。

池江璃花子さんの笑顔から多くの力をもらっていました。 
快復を念じています。

人は、肩書きや功績がある他者(ひと)でないと愛せないのだろうか。「頑張って」と励ませないのだろうか。いや、そんなことはない。池江璃花子さんのことをこんなにも多くの人が心配している。それは、誰に向かっても心配する心の根っこがあるということ。
池江璃花子さんは、自分と同じ病気と向き合っている(「闘っている」は違うかな、と思いました)人たちのことも知って欲しくて、自分の病気を告白し、治療に入られました。彼女を応援するならば、彼女と同じ病気の方々、もっと視野を広げるならば、さまざまな困難を抱えながら生きている方々のことにも、想いを馳せることができるはず。そのことが、彼女が病気を告白したことに対する応え(応援すること)につながります。

人は、
一人ひとりのいのちを生きているのだけれど、
みんなつながっている。
だからこそ
喜びも伝わり、 悲しみも感じられる。

2019年1月30日 (水)

窮屈な世の中です

昨年9月、福井県の僧侶が僧衣を着て車を運転していたところ、「運転に支障を及ぼすから」と、警察官から反則切符を切られました。
初めての事柄だったと思いますが、その僧侶は違和感を抱き、その方の宗派も抗議を行ないました。その後、全国の僧侶から、僧衣は運転に支障は無い!と、縄跳びやジャグリング等々、動きに支障はありませんよ^^という動画が投稿されました。
恐らく、何のお詫びも無く、反則切符を取り下げるだろうなぁと思っていたら、そのようになりました。2019年1月26日、福井県警は、「違反事実が確認できなかった」として僧侶を検察庁に送致しない方針を明らかにしました。
服装や履き物の規定が周知されていない問題点を指摘する人もいますが、一応規定がある以上、「問題あり」と切符を切られ、「規定が明文化されて、公表もされている」と言われてしまえば、それまでです。今回は、予想以上の反響があり、引き下がったことでしょう。
また、「僧衣でもこんなに動けるよ」アピールも、個人的にはよく分かりますが、今回の問題点は、僧衣でも動けるか否かではないんじゃないかなぁと思っていました。
警察官には反則取り締まりのノルマがあり、そのノルマ達成のために、従来見逃していたところに踏み込んだのではないかなぁと思っています。ノルマに届かない焦りもあったかもしれませんし、警察官の腹の居所が悪いときに捕まるということもあるのではないでしょうか。
そのノルマ制続く限り、あるいは、解釈しだいでどのようにも受け取れる規定がある限り、同じようなことはまた起こるかもしれません。
影に隠れていて見つけた反則に対して切符を切るよりも、普段からあちらこちらに姿を表わしていた方が、反則は減る、危険な運転をする人は減るのではないかなぁと思います。

今日の法務、僧衣を身に着けながら、靴を履いて運転していました。「着物に靴、坂本龍馬みたい^^」なんて思いながら。足袋はいて靴をはくと、けっこう窮屈なんです。ワンサイズ大きい靴を買わなければいけないかな(足袋はいているとき用の靴も売ってるんですけどね)。

2019年1月28日 (月)

まだ道の途中

嵐の休止会見において、「無責任では?云々」質問した内容を聞いていて、腹が立ったけれど、ネット上でも多くの人がその質問内容・記者に腹を立てているので、少しホッとしている。
無責任もなにも、40前の人間が、自分たちの進む道を語りあい、決断したのだから、それを尊重するのが、こちら側の責任だと思います(というようなことを、SMAP解散のときも書いた気がする)。

その、「無責任では?」というような問い(嵐の会見の一件に限らず)が出る背景には、自分の中で受け入れられないこと・突然すぎて飲み込めないことに対する疑問・怒り・焦りのようなものが表出しているのだと感じる。
従来は、身近な者の中での会話によって疑問・怒り・焦りの解消を図ったり、共有したりしていたと思うのだけど、最近は、対象に疑問・怒り・焦り等々をモロぶつける人が増えてきた気がする。
件の質問をした記者は、「無責任と思われたとしたら? そのことによってリーダーの大野さんが悪役になってしまう恐れがないか?」と、自分が発した問いというよりも、そう思う人がいたらどうするか?という体で質問をしていたように聞こえたけれど・・・本当のところは、どちらに軸足を置いているのか分からない。もしかしたら、自分自身の疑問・怒り・焦りを、「世間の人々が」に置き換えたのかもしれない・・・「私はこう思う。そのことについて、お聞かせください」が、質問をするときの丁寧なスタンスかなぁと思う。

それにしても、件の質問に対する桜井さんの対応・回答が素晴らしかった。大人だなぁと思いました。そんな大人な嵐さんたちが、時間をかけて話し合ってきたことなのだから、真っ正面から受け止めてあげたい。

それから、
玉鷲関、大相撲初場所(2019年)優勝おめでとうございます
今場所は多くの力士が怪我をして車椅子で運ばれたり、休場したりするなかで、1151回連続出場は現役最多。2004年初場所の初土俵から1日も休まず、1151回連続出場とのこと。何よりもその記録に驚きました。
おめでとうございます。

2019年1月21日 (月)

おばあちゃん、ありがとうございます

2019年1月20日(日)
昨秋 得度(出家)を受式した長女、初めて法事に出仕。

私が幼い頃からお世話になっているおばあちゃん。
私が京都から寺へ戻ってきたときも喜んでくれたおばあちゃん。
そのおばあちゃんの、旦那様と息子さんのご法事。
「お寺へ来られるのは、もうこれが最後だから」って、しんどい想いをしてまでもお寺に来てくださいました。
(東京では、お寺にてご法事をお勤めします)

控室にて、長女と次女もおばあちゃんにご挨拶
長女、昨秋の得度の報告をしたら、とても喜んでくださいました。
次女は、そのおばあちゃんと同じ字が名前に入っているので、次女が誕生し名前を聞いたときから、とてもかわいがってくれました。

ご法事の準備中、長女に「一緒にお勤めする?」と尋ねると、「うん」と即答。
得度して、報恩講に出仕はしましたが、ご法事は初めて。まだ先のことと思っていましたが、思いがけず一緒にお勤めするご縁をいただきました。

「所作も勤行もまだまだですが、娘も一緒にお勤めさせていただきます」とお断りして、ご法事。
娘には、「分からなくなったら、黙っていていいからね」と言って私の隣に座らせました。

(‐人‐)なむあみだぶつ なむあみだぶつ

緊張するかな?と思っていましたが、伽陀も阿弥陀経も和讃も、すべてちゃんと声を出してお勤めしてくれました。
う~ん、お声明(お経)の先生(私)がいいんだねと思いました

おばあちゃんも、うれしそうでした。
そのお孫さんも、「同じ女性として、誇らしく、頼もしく感じました」と、9歳の娘に向かって気持ちをお伝えくださいました。
大切なご縁をいただき、御礼申し上げます。
おばあちゃん、また会いましょうね

夜、ふと思いました。
住職にとっても、私(息子)と孫と一緒にお勤めして、3代で一緒にお勤めできて嬉しかったんじゃないかなぁって。
そういえば、私が10歳で得度してから数年、永代経と報恩講は、先々代・先代・現住職・私の4代でお勤めをしていました。そんなときのことも思い出しました。

お寺の危機云々を無駄に騒ぐ僧侶がいるけれど、すべきことをきちんとお勤めすることが何よりも大事なことだなぁと、あらためて思いました。

南無阿弥陀仏

2019年1月19日 (土)

あれから12年

西蓮寺掲示板の人形
1月は毎年、十二支のお手玉人形を並べています。
その他に、今年は亥年なので、おそらく雄と雌のイノシシが着物を着て座っている人形も飾っています。

Dsc_2495

この人形、実は12年前の亥年(2007年)に飾った人形です。
年月が一回りしたということなのですね。
その前年(2006年)の暮れに、1月に掲示板に飾る人形を買いに、巣鴨へ行ったことを覚えています。
あぁ、もう12年経つのですね。
自分は亥年生まれなので、余計にこころに残るのでしょうね。

先日(1月16日)西蓮寺聞法会新年会を開催しました。
家族も含めて20人の参加。そのうち6人が亥年でした!! 亥年率高っ!!
ぶつかり合わないように、仲良く行きましょう(生きましょう)!!

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