病気になったら病院へ
年をとったら施設へ
その結果、家庭で死を迎える人が現代日本では少なくなっています。
死を連想させるものは見えないようにしています。
ホテル・マンション・病室からは「死」をれんそうさせる「4」の付く部屋が抜かされています。ひどい場合には「4階」まで削除されているところもあります。駐車場の「4」が抜けている場合もありますね。
「苦」を連想させる「9」が抜けているときもあります。
(「4」や「9」を抜かしたら十進法も成り立たないのに…。「死」や「苦」を無くしたら人生だって成り立たない)
そのように、「死」を遠ざける現代日本人。
で、死を見えなくした結果、人を傷つけ、殺す行為が増えているという話を聞くことがあります。
人は傷つき、病み、老い、いつかいのち終えていくものだという、当たり前のことが見えなくなっているのだから。
たしかに、そういう面もあると思う。
思うけれど、本当に「死」が見えなくなっている世の中なのだろうか。
テレビや新聞では、誰々が死んだ殺されたと毎日のように報道されている。
現代日本で自殺者が3万人を超えるということは、もはや周知の事実。
電車に乗ろうとすれば、人身事故の影響でダイヤは乱れている。
救急車のサイレンを聞くことも多くないですか?
ちょっと思い返してみれば、「死」は日常に溢れている。
溢れていると、それが当たり前になってしまう。
そう、「死」が当たり前のことになってしまっている。
恐ろしいことは、その「死」に関して、哀しみがないということ。
誰々が死んだ殺されたという情報を、垂れ流しのテレビから耳にする。情報は右から左へ筒抜け。
自殺する人はこころが弱い人だと、生きてる人間は、評論家になる。ホンットにこころの強い人間なんて、どこにいるのだろう。
人身事故でダイヤが乱れれば、「チッ、急いでいるのに」と文句を言う。
救急車や消防車のサイレンがうるさいと、苦情の電話をかける人がいるという。
いじめ、虐待、暴力、殺人、戦争
傍観者は、加害者を責める。犯した者は、その責めを受けなければならない。
しかし、起きた出来事をただ評論しているだけの私に、人が傷ついた死んだということに関する哀しみはあるだろうか。加害者を責め、被害者を哀れむことはあっても。それに、哀れむことと哀しむことは違う。
情報が今のように溢れていない頃、
たとえば、町内で誰かが亡くなれば、町の掲示板にお悔やみのお報せが張り出された。新聞に載ることもあった。その情報を知って、身内でなくても心底哀しんだ。自分の身に起きたことのように胸を切り裂く痛みが走った。
今、日常に溢れている「死」が、まるで他人事のようになっている。
「自分の身に起きたことのように」
この感覚が、いのち感覚が失われている。
「死」が見えなくなっているのではない
「いのち」が見えなくなっている
最近のコメント