つぶやき

2020年4月 7日 (火)

いつか嬉々として

首相は、今日(2020年4月7日)夕方にも新型コロナウィルの感染拡大に備える改正特別措置法(新型コロナ特措法)に基づく緊急事態宣言を出すという。
対象地域は東京・神奈川・埼玉・千葉・大阪・兵庫・福岡の7都府県。
期間は当面1カ月程度。
海外で行われているような都市封鎖ではないが、不要不急の外出自粛“要請”がされる。

外出自粛の強制ではなく要請。
「強制」と「要請」を口ずさんでいるうち、ラップっぽいなと感じる。
「きょうせい」と「ようせい」、あ、「き」があるかないかの違いなんだ。

海外の都市で行われている都市封鎖。都市封鎖が可能なのは、そのための法整備が為されているから。日本にはそこまでの法律はない。
法律、ルール、法規・・・「規(き)」がないから「ようせい」なんだ。

「1世帯に30万円支給検討」のニュースを見ても、支給してもらうための手間がすごくかかり、ハードルがとても高い。
問題山積のF35戦闘機をアメリカから爆買いするのに、日本に住む人への給付はケチる。
日本に住む人を助ける、救う、なんとかする!という気持ちも気概もない・・・「気(き)」のない政府は、どこを見ている、何をみているのだろう。「危機(きき)」感が欠如している。

新型コロナウィルの正体が少しずつでも分かってきて、望みが開けてくるのかなぁと思っていたら、収束に向かう時期は日に日に延びて、感染者・感染して亡くなる方の数も日に日に増えている(3月30日には世界中で33,000人だった死者数が、只今(4月7日正午)73,000人になっていました。一週間で倍増以上です)。
希望を持って生きたい!生きなければならない! けれど、舵取りを任されている人たちの“要請”(声)に、「希(き)望」が見えてこない。

2020年4月 6日 (月)

私が想われているから、私が思うことができる

昨日、お納骨法要にて「白骨の御文」拝読

拝読しながら、“死”について考える。

死は、死そのものが怖いのではなく、そこにいたるまでの道のり(痛みや悲しみ)、自分が死ぬことによって生じる別れ、まだやりたいことがあったのにという後悔など、死によって生じるものによって怖さが生じるのではないだろうか。当然、死そのものが恐怖である、という人もいることと思います。

自分の場合、自分の死を考えたとき、子どもたちとの別れが頭に浮かびます。
子どもたちとの別れは・・・つらいなぁ。
そう考える場合、自分の死を前提として考えているけれど、子どもが先に亡くなるということもありうる。それもまた、“死”というものの恐怖を増幅する。立ち位置を変えてみるだけで、いろいろな見方に気づけます。

で、子どもたちとの別れがつらいなぁと思いながら、「しあわせ」について、次の考えが浮かんできました。

わざと「しあわせ」と書きました。現代(いま)は、「幸せ」と書きますが、元々は「仕合わせ」と書いたと聞いています。
「仕が合うことが、しあわせなこと」
「仕が合う」とは、「この人に仕(つか)えることが出来た」という出会いの喜びを言います。「仕える」というと、主従関係のようですが、そればかりではないと思います。この人との出会いを通して、「私が生き生きしてきた」とか「この人のために頑張ろうと思える」とか「この人に出あうために生まれてきた」とか。
人との出あいばかりではなく、「この仕事こそ、私のやりたい仕事だ」とか「これをするために生まれてきた」とか「しんどいけど、やりがいがある」とか、仕事(為すべきこと)との出あいもまた「しあわせ」の意味するところだと思います。

ただ、人間は想いがコロコロ変わるので、ある瞬間(とき)は「この人に出あうために生まれてきた」とか「この仕事こそ、私のやりたい仕事だ」と思うことができても、時間がたてば、状況・条件が変われば、「しあわせ」の内容もコロコロ変わってしまいます。

変わらないこと、ほんとうの「仕合わせ」とは、念仏の教えに出あった者にとって「南無阿弥陀仏」と念仏申すことを意味します。
南無阿弥陀仏と念仏申すことは、「私の名前を呼んでください」という阿弥陀如来からの勅命を受けたからできることです。
阿弥陀の勅命を蒙(こうむ)り、今、私は南無阿弥陀仏と念仏申すことが出来る。
まさに、仕えるべき阿弥陀如来からの勅命に出遇えたからこそ、私は念仏申すことができます。
私だけの目線でいえば、「勅命」というと如来からの「命令」のようにも聞こえるかもしれませんが、阿弥陀が私のことを見ているという眼もあります。阿弥陀の目からは、「この人をまもりたい」という慈悲の眼が注がれています。
立ち位置を変えてみるだけで、いろいろな見方に気づけます。

信じられる信じられない、
そう思える思えない、
両方の想いがあることと思います。
ただ、
“死”について考えたとき、子どものこととか、阿弥陀さんのこととか、思い浮かぶものがあるということそのこと自体が「しあわせ」なのかもしれない。私の方が思い浮かべているようだけれど、「実は私の方が想われているから、私が思うことができる」のだと思います。

「白骨の御文」を拝読しながら、そういうことを感じていました。

2020年4月 5日 (日)

実は、年上も年下もないんだな

志村けんさんの追悼番組がいくつも放送されています。
昨晩は「シムラどうぶつ園」が放送されていました。
志村さんは、ベテランであろうと若手であろうと新人であろうと、お客さんであろうと子どもであろうと、誰へだてなく丁寧に接する人であったと、その人柄が語られていました。年上・目上の人には「さん」、年下・若手には「くん」ではなく、誰に対しても「〇〇さん」と声を掛けていた、と。

志村さん自身の人柄から、自然とそうされていたことと思います。
私自身も、四十半ばを超えたころから、年上は「さん」年下は「くん」って、なんかおかしいな、という感覚がありました。
その年に至るまでの付き合い(呼び方)もあるので、従来通り「さん」「くん」で呼んでいましたが、仕事の場においては「さん」と呼ぶことが、だんだん多くなってきました。志村さんと違って、意識的にそうしはじめたところがあるので、その呼び方が徹底しているわけではありません。けれど、仕事や、親鸞聖人の教えを伝えていく朋として、目の前にいる人を「さん」と呼ぶことが当然のこととしての意識も湧いてきました。
僧職ではない職場においても、部下の呼び方は、“人材”などという資材として見るのではなく、人として接するのであれば、自然と「さん」となっていくのではないかと思う今日この頃です。
あだ名で呼んだり、名前だけで呼んだりということも、それまでのお付き合いにおいて、それもまた敬意を表してはいるのですが。

名前は、その人自身を表わします。
名前を呼ぶことは、その人自身を大切にすることを意味します。
そういう想いを大切にして、名前を呼びたいものです。

南無阿弥陀仏

2020年4月 4日 (土)

「元の日常」とは

昨日は、要・急の会合があり、車で移動。
片道1時間半ほどの運転中、町を歩く人の多さ、レストラン・ファストフード店に多くの車が停まっていることに驚きました。
いつもと変わりがない…。
そんな町の姿に、これから起こるであろう感染拡大への恐怖感と、反面、人の姿が見える安心感を抱きました。なんとも複雑な思いで車を運転していました。
一日も早く、元の日常に戻ることを願わずにおれません。とはいえ、「元の日常」なるものが正しいのか、美しいのか、穏やかなのか、わかりません。

このコロナ騒ぎで、働き方が変わった方も多いと思います。あれだけ「働き方改革」などと叫ばれても、たいして何も変わらなかったのに、コロナ騒ぎ以降、大きく変わったのではないでしょうか。

昨日の会合は、全員マスク着用で、青空会議で、短時間で進行しました。
今まで当たり前のようにしてきた仕事・事業・会合などが自粛・中止・休止・延期に追い込まれ、正直目の前の仕事は無くなっています。そして…無くなって困るのか、差しさわりが生じるのか、といったら、実はそれほどでもないのではないかと、つまり今までしてきたことは何だったのかと(決して無駄だとは言いません)。

世田谷区では、連休明けまで授業再開の目途が立っていません(今のところ)。
2学年ずつ3日サイクルで登校という方針だったのですが、感染者の増加に伴い、その方針は取りやめ、休校継続になりました。学童までお休みのようです。自宅が職場でもある方は、子どもを目の届くところにおいて仕事ができますが、多くの方々は出勤の形態をとられています。つまり、学校がお休みで、しかも学童まで閉じられてしまうと、子どもたちは家にいるしかありません(公園等で短時間遊ぶことはいいことだと思います)。親は出勤・子どもは家、となると、親御さんの心配ははかりしれないものがあります。そういう意味では、目の前の仕事が無くなって、困ることはたくさんあります。
お子さんも心配から不安になります。うちも、次女が心配そうにしているので、声をかけるときに一緒に抱きしめています。

「元の日常」云々書いたのは、
コロナ騒動以前の日常に戻るのが、コロナが終息したことになるのか。
コロナ騒動収束以降、働き方 生き方を見直して、今までとは違う日常を歩むのか(歩めるのか)。
そういうことを考えたからです。

当面の仕事がなくなり、決してすることがなくなったわけではないのですが、おそらく気の入り方が違うのでしょうね。仕事のはかどり方が遅いです。

青空会議するなか、桜の花びらが待っています。
空を見上げながら、空の青さと桜の花びらを観察していました。
あぁ、こんなに じっと見る ことは、あまりしてこなかったなぁと振り返りました。

2020年4月 3日 (金)

一枚の花びら

昨日の強風から一夜明け、本堂へお参りに

本堂に数枚、桜の花びらが舞い込んでいた

西蓮寺に桜はないので、隣のお寺か、隣の公園の桜の花びらだろう

本堂の窓は開けておらず、柱と漆喰、柱と窓との隙間から 花びらが入ったのだろう

ほんのちょっとの隙間

やっと光が差し込むくらいの隙間から

この数枚の花びらは、本堂に舞い込んだのだろうか

何千 何万もの花びらが散っているのだろう 隙間から花びらが舞い込んでも不思議はない

けれど、ものすごい確率だ ありえないことが起こっているわけだ

法(教え)もそうなのかもしれない

宗教離れ 寺離れ 墓じまい などなど言われ、教えに触れる人が減っていたとしても、法を説く者が極端に減っているわけではない(と思う)

教えを説く者はいて ネットを見れば法をよりどころとした教えが説かれ 法を説くユーチューバーもいる

教えを説く者がいないわけでも 教えを聞く者がいないわけでもない

この先行きの見えないなか、それでも教えに出あい、教えに触れただけでも、花びらの一枚の私なのかもしれない

(本堂に舞い込んだから正解で、そうでない多くの花びらは残念ということを言いたかったのではなくて、教えに出遇うということは、この花びらのようなものだろうか、そうに違いない!という想いが、本堂に入って花びらに出あった瞬間にあったので記しました。南無阿弥陀仏)

2020年4月 2日 (木)

へんしん

2020年4月2日木曜日 朝、強い風のうねりを感じて目が覚めたとき、ベットの中で自分が49歳のおっさんになっているのに気づいた。

実際に人間も吹き飛ばされそうな強い風が吹いているけれど、現在の状況に照らしてみるに、“風”はウィルスの比喩のようにも感じられる。
このような状況の中、49歳の4月2日を迎えようとは思いもしなかった。
コロナウィルスの内実がまだ把握されなかった頃(今もされてはいないけれど)、「若い人は感染しても軽症で済むけれど、年配の方・疾患のある方は重症化あるいは死に至ることもあるので注意ください」という旨、専門家や何も分かろうとしていない政治家は語っていた。
そのせいか、新型コロナウィルスは老人には厳しく、若い者には心配ない病気、というイメージが出来てしまった感がある。
けれど、日本でも0歳の赤ちゃんが重症化している報告がある。快復を念ずるばかりです。
思うのだけれど、ウィルスの側からすれば、「この国(都市)もだいたい感染させたし、次は隣の国(都市)に行こうぜ」とか「若い奴はウィルスに強いから、年寄りをターゲットにしようぜ」なんて、国境や都市の境、年齢差など加味せず猛威を振るってくるのだから、どういう人が安心で、こういう人はご注意を!というのは、安心させるどころかウィルスを蔓延させる一助となってしまう。
(今、「どういう国が安心で、こういう国はご注意を!」も書いたのだけれど、国や都市に関しては、どのような対応をとるかで罹患するしないの違いが出てくると思ったで、“人”と並列で語るのはやめました)。

テレビやネットを見ていると、新型コロナウィルスに関する知恵をつけてきた人が増えてきたので、自分の浅い知識のなかでいろいろと語り始めている(私もだけど)。そうなると、どうしたって安心する説に飛びつきたくなるのが人の心というもの。でもそれは、ことの本質・重大さを見逃してしまう。それは気を付けなければならない。

「かからないように」という意識ではなく、「かかるかもしれない」「かかっているかもしれない」「身近な人にうつさないように気を付けなければいけない」という意識に立ち位置を変えた方がいい。

昨晩、妻に「私が死んだら、子どもたちのことをお願いします」と伝えた。
妻も、「私が死ぬかもしれないし、それは誰もが一緒よ」との返信。

このやりとりは、死を悲観した暗いメッセージではなく、死ぬまで生きていくぞ‼という前向きな訴えです。

南無阿弥陀仏

2020年3月31日 (火)

ウィルスは目に見えないけれど、人は目に見えている

一昨日の降雪も昼間にはやみ、夕方には道路も歩道も雪がなくなっていました。
子どもたちが喜んで作っていた雪だるまも、あっけなく溶けてしまいました。
雪だるまが溶けてしみこんだ芝生にからは、青い草が生え始めています。

寺の隣の公園に大きな桜の木があります。
毎朝眺めているのですが、咲いたと思ったら、もう花びらが舞い散っています。
でも、舞い散る一枚一枚もまた美しい。

昨日、朝のお勤めをしようと間衣を着ていたら、志村けんさんの訃報が入ってきました。
「え!?」
新型コロナウィルスによる肺炎で入院されているニュースは聞いていましたが、快復されるものとばかり思っていました。「志村どうぶつ園」に出演されている姿を、また子どもたちと見られるものと思っていました。
そう遠くはないところにお住まいだったので、ワンちゃんと一緒に、あるいはおひとりで散歩をされている姿をたまにお見かけしていました。もうあの姿にも会えないのですね。
南無阿弥陀仏 お朝事は、志村けんさんのことを想いながらのお勤めになりました。

3万人以上の死者が出ている新型コロナウィルス。どの おひとり おひとりも、同じいのちを生きています。特定の誰かだからショックだというのではないけれど、志村けんさんの死は、彼の笑いに救われた人々に鋭く突き刺さりました。

新型コロナウィルスが流行し、世の中「コロナに罹らないように」することに努めているけれど、感染しても発症しない人も多いと聞く。けれど、感染はしているので、自身は発症しなくても身近な人にうつしてしまうことは考えられる。つまり、知らないうちにコロナウィルスをまき散らしているのかもしれない。ということは、罹らないように努めることよりも、「コロナをうつさないように気を遣う」ことが大事というか、そういう意識が必要だと思う。

罹らないようにすることを大事なことと位置付けると、罹った人を非難したり、感染者が出た病院を危険視したりする。そうすることがやがて自分に降りかかってくることが想像できないのだろうか。
自分も罹るかもしれない、罹っているかもしれないと思うことは、他者(ひと)にうつさないように、という意識がはたらく。

今までは他人事だったけれど、もはや他人事ではなくなったのではない。

2020年3月30日 (月)

保湿

別目的で外を歩いていてドラックストア前を通りかかったとき、店頭に、家で使っている保湿成分の多いティッシュペーパーが積んでありました。
長女が花粉症で鼻ズルなので、普通のティッシュだとすぐに鼻と鼻の下がカサカサになってしまいます。
〔私もひどい花粉症なのですが、ここ数年 目のかゆみも鼻水も減ってきました。年をとると症状がやわらぐと聞きましたが、やはり年のせい(おかで)なのでしょうか?〕
保湿成分を多く含むティッシュはカサカサにならず助かります。そのティッシュの買い置きも間もなくなくなりそうだったので、外出先でしたが「買って帰ろう!」と思いました。


「1家族1セットでお願いします」のお願いを守って、1セット(5個パック)を持ってレジへ。

お金を払って、
「うちは長女が花粉症で、このティッシュを使っているんです。売っていただいてありがとうございます」とレジの人に言いました。
そうしたら、涙目で
「そう言っていただいて、ありがとうございます。お嬢様の花粉症が軽く澄みますように」と応えてくださいました。
「ありがとうございます。こんなときだけど、お店の皆さんもお大事に」と言ってお店を出ました。

ネットで、ドラックストアの店員さんの嘆きが載っていました。品切れでお店にマスクやアルコールスプレーが置いてないのに、「奥に隠してるんじゃないか」「早く仕入れろ」など罵声を浴びせられ、その対応に追われて疲弊されているお気持ちが書かれていました。
私が入ったドラックストアの店員さんも、少なからずそういう体験があったのではないでしょうか。会話が出来てよかったです。私の方こそ、ありがとうございます。

欲しいものが手に入らなくて、不安な気持ちに陥るのは誰もが一緒です。でも、だからといって他者(ひと)を責めていいはずはありません。他者を責める理由にはなりません。
会話をする他者がいる。そのことだけでも、どんなに有り難いことか。責める相手ではありません。責めるときではありません。

2020年3月28日 (土)

他者(ひと)と共にある私 私と共にある他者

昨日の投稿で、
「喜ぶ人もいれな泣いている人もいる。いえ、それぞれの人がいるのではなく、ひとりの人の気持ちの中に、喜びの気持ちとつらい気持ちが同居します。」と書きました。

多くの人と共にある私。喜怒哀楽は、他者(ひと)と共にある。

私が悲しみのなかにあるとき、喜びが転がり込んでいる人もいる。
私が喜んでいるとき、その背景には悲しい思いをしている人がいる。

オリンピック・パラリンピックが延期になった。代表選考がやり直しになるかもしれない!
せっかくつかんだ代表の座を、手放さなければならないかもしれない人がいる。
代表の座を逃したけれど、もう一回チャンスがやってきた。

やっとのことで手に入れたチケットが、無効になるかもしれない(まだ分からないけれど)。
チケットが手に入らなかったけど、もしかしたら、またチャンスがあるかもしれない。

世間の人びとの為に、感染者が出たことを公にしてくださる医院がある、組織がある、個人がいる。
感染者が出たことを、まるで鬼の首を取ったかのように責める人がいる。あの病院にはいかない方がいい、あの会社は危機管理がなっていない、あいつは気を抜いているからだ。

マスクも、たまたま手に入った人がマスクを出来ているだけのこと。
していない人は、けしからんわけではなく、手に入らなかっただけのこと。
手に入れた人がいるから、その分が手に入らない人が出てくる。

どっちが良くて、どっちが悪いという話ではなくて、
多くの人と共にある私。喜怒哀楽も、物の入手可・不可も、私がここにいられるか否かも、他者(ひと)と共にある。

2020年3月27日 (金)

人 為

2020年夏開催予定だった東京オリンピック・パラリンピックが、来年2021年への延期が決まりました。

これほどまでにコロナウィルスの驚異が世界中を覆うなか、オリンピックは予定通り開催する旨、IOC会長や開催国・開催都市の長は強気で語ってきました。その姿勢に対し、世界中のアスリートが「選手の健康のことを考えていない」と発信していました。

やがて、オリンピック・パラリンピックの、初の延期が決まりました。

「アスリートファースト」。選手が万全の体調・不安のない環境で競技に臨めるようにあってほしい。そのことは、誰もが願うことでしょう。

いつからだろう。「〇〇ファースト」ということが言われるようになったのは。「〇〇ファースト」を実際に行動として表わす その表わし方ははひとつだけではありません。

代表が決まっている選手・代表内定者・代表になるであろう実力の選手たちは(その選手たちに限った話ではありませんが)、およそ一年の延期により、体力的にも技術的にも精神的にもダウンすることでしょう。この、“2020年”開催のオリンピック・パラリンピックに照準を合わせて、早い方は何年も前から鍛えてきたのですから。

まだ「延期」が決まる前、その「延期」ということも、果たして「アスリートファースト」なのだろうかと思っていました。
このコロナウィルス渦中、国を超えて行き来することのリスクを、選手や関係者、観客にまでも押し付けていいものだろうか。結果、「延期」が決まり、喜ばれている方もいることでしょう。そういう意味で、今回の延期は、「アスリートファースト」を行動でしめしたひとつです。
けれど、アスリートとして最高のパフォーマンスを発揮する、魅せる、楽しむという面では、それが出来なくなったと嘆いているアスリートもいることと察します。

「あなたのためを思って」と口にするとき、それは“私”を中心に置いて言っています。

「アスリートファースト」と言えば聞こえがいいかもしれないけれど、誰もが納得すると思われがちだけれど、「この考え方こそ、この行動こそ、この内容こそ、アスリートファースト‼」という唯一の方法があるわけではありません。喜ぶ人もいれば泣いている人もいる。いえ、それぞれの人がいるのではなく、ひとりの人の気持ちの中に、喜びの気持ちとつらい気持ちが同居します。

「〇〇ファースト」というとき、〇〇のために最善の策を尽くすという意識も大事だけど、誰よりも〇〇自身の気持ちを揺さぶってしまうということを知っている方がいい。

オリンピックパラリンピックの場合、どうしても利権が見え隠れするので、地位の高い者、権力のある者が「アスリートファースト」を口にすると、白々しさや うさん臭さが付きまとうのだけれど。

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