つぶやき

2023年5月31日 (水)

インプット アウトプット

今年の元日から、毎日ブログを書いている。以前は教えに則したこと関連したことを書かねばと思っていたけれど、そのために筆が止まってしまったのが昨年。なので、自分の日常や所感を、「文字数400字程度 費やす時間10分ほど」というルール(必ずしもルールの限りではない)で綴ってみようと思った。
とりあえず5月まで書いてきたけれど、最近また書き方を忘れてしまった。どうしてだろう?と思い返してみるに、インプットの量が減ったからだと思った。昨年暮れから4月頃まで、意識して本を読んでいた。本を読むことは得意ではないので、長い小説ではなくエッセイ集を好んで読んだ。それでも、脳が、書こうと思う気持ちが奮い立つのか、苦労なく文章を書いていた。で、最近。書けないなぁと思っていたけど、本も読んでいなかった。インプットがないと、アウトプットもなくなるんだなぁということを実感している。
また手元にある本を読んでみたけれど、あ、やはり脳が刺激されている(気がする)。アウトプットするためには、インプットが大事なんだなぁ。

2023年5月30日 (火)

どうだったっけ?

准坊守(妻)が研修会に出かけたため、私が塾に出かける娘の夕飯を用意した。
娘が早めの食事をしている間に、妻帰宅。娘と妻と私と、3人で会話をし、塾に行く時間になったので娘を送る。
私はいったん帰って、それから食事。そして、娘を迎えに行く時間になったので、また出かける。
塾のお勉強も終わり、出て来た娘と合流して帰宅。
帰宅途中、ふと思い、娘に尋ねる。
「ママが帰ってきてから会ったっけ?」
「うん 会ってお話ししたよ」
と言われて、その光景を思い出す。
あぁ、そうだ そうだ、しっかり会話をしたではないか!
なんか、最近こんなど忘れが増えている気がする。

2023年5月29日 (月)

何が、いつが変わり目だったのだろう

かつて聴聞した内容を確認するため、20年ほど前の聞法ノートを読み返している。
ノートと記憶との間に違いがあることがわかった。記憶は、自分の中で、良く言えば熟成されていくけれど、悪く言えば自分勝手な内容にすり替わっている。今回は後者だった。確認してよかった。
20年ほど前のノートを読み返していると、法話の先生方に「阿弥陀を信じているこころ」「阿弥陀と対話している姿」があることが伝わってくる。現代は阿弥陀を信じるか否か、阿弥陀はいるか否か、念仏称えてどうなるのかということが問題となり、それら問題に対応・対処していく内容が法話となっている。現代的理知に応えられるものが良くて、応えられない(応えてくれない)ものはダメと烙印を押される。先生の評価も、そういうところで見られてしまう。
ところが、20年ほど前のノートを読み返していると、法話者は阿弥陀をよりどころとしている。足元がしっかりしている。(なんだか誤解を受けそうな書き方になっている。信じているから真の先生で、足元がしっかりしていないのはまだまだな先生と言っているのではない)
語る方も聞く方も、“すでにして阿弥陀とある私”が根っこにあるように感じる。これから信心を得るために聞法するのが現代ならば、以前は聞法の場にいるということが既に(信心を得ているとは言わないけれど)阿弥陀におさめとられているという感覚・感得があったのではないだろうか。
ノートをめくっていて、そのノートを書いていた場の雰囲気を思い出し、上記のようなことを思い出した。
空気が変わったのかもしれない。

(追記)
ノートを読み進めていたら、和田稠先生のことばが目に留まった(下記引用文)。
20年前と現代(いま)との違いを上に書いたけれど、既に20年前の時点で、和田先生には(恐らく多くの先生方には)真宗を真宗でなくしてしまっている倫理観・現代社会の価値観といったものが気になっていたことが表現されている。つまり、そのような状況のまま(もしかしたら、より悪化して)、こんにちを迎えている。

真宗の教えが、信心沙汰していたのが、いつの間にか是非・善悪の倫理の問題にすりかわっている。言葉の解釈、倫理的整合性の有無で真宗を見るから、真宗に出遇えない。真宗に学ぶのではなく、真宗を時代に合わせようとしている。真宗門徒が真宗を明らかにするのではない。真宗から真宗門徒が問われるはずだ。

2023年5月28日 (日)

AI生成記事が危惧されているけれど、結局は人間の問題なんだな

プロ野球の記事をよく読むせいか、プロ野球ネタの記事がピックアップされてくる。5月半ばくらいまではジャイアンツの、というか原監督の選手起用や采配に関する非難・批判が目立っていた(というか、非難・批判されるような事例があって記事を書いているのではなくて、原批判先にありきの記事)。
5月も終わろうとするこの時期。燕が失速すると、高津監督批判の記事が散見されるようになってきた。リーグ2連覇して、名監督だ! 名将だ! 野村監督の後継だ! なんて持ち上げていたのに。かたや原監督は、ジャイアンツが若手とベテランのかみ合わせがよくなってきて勝ちが目立ち始めてきたら、今までのような記事は減って来た(書いても賛同を得なくなったのだろう)。そういえば、一時期貯金を10積み上げてセ・リーグ首位に立っていたベイスターズの三浦監督の批判記事も増えてきた。
勝ったら持ち上げられて負けたらこき下ろされては勝負の世界で仕方のないことだけれど、執筆者の好き嫌い(あるいは、読んでもらうために書いている批判)で物を書かれたら、たまったものではないと思う。
そんな世界で役目を果たしている人に頭が下がる想いです(-人-)

2023年5月27日 (土)

負けが込んでも、否、勝てないときだからこその応援

2023年5月27日(土)カープとの試合に敗れたスワローズは、5月にして早くも自力優勝の可能性が消えてしまったとのこと。
昨年の手堅い試合運びがまったく見られず、投打の噛み合わなさが如実に表れている。負けるつもりで試合に出ている選手などいないのだから、成績が振るわないのは仕方のないことだけれど、体調不良を訴える選手が多いのは気がかり。
WBCに出場した選手も、疲労を引きづっている方が多い印象。大舞台に立つと、その反動も来るもの。そういう意味では、大谷選手や吉田選手はすごいなぁ。
これから暑さも厳しくなってくるし、より気を付けてプレーしてください。
近々神宮球場に応援に行きます。妻曰く、「あなたが神宮球場に行ったときのスワローズの勝率低いから、行かない方がいいんじゃない?」なのですが。

2023年5月26日 (金)

今日のティータイム

朝5時に起きて出かけて、ミッションコンプリート。8時半頃、地元に戻ってきて喫茶店でモーニング。
店内は空いていて、端っこの席へ。ホッと一息、ゆっくり朝食をいただこうとしたとき、ご夫婦が入店。全体的に席が空いているなか、私の隣のテーブルへ。しかも、なんだか私睨まれている。おそらく、この夫婦にとってのお決まりの席だったのかもしれない。
旦那は席の事は気にしていないのか、お連れ合いにいろいろとしゃべりかけている。けれど、お連れ合いは返事もしないし、わざわざ私に背を向ける形で座っている。もっとも、私の気のせいかもしれないのだけれど、なんだか気まずい空気の中でのモーニング。私が他の席に移動すればよかったのかな。
とはいえ、美味しいモーニングをいただいてきました。ごちそうさまでした。
帰ったらゆっくりできるかなと思っていたら、メチャクチャ忙しかった。
今日はこんな日。

2023年5月25日 (木)

単に語る友だちがいないという話なのかもしれないけれど

最近、テレビ番組でタレントさんが暴露話をするのが流行っているのだろうか。「〇〇先輩にいじめられた」「後輩の〇〇は挨拶をしない」等々を書いたコタツ記事をよく目にする(ということは、私がそういう類の記事を読んでいるということの表れなのだろう。そんなつもりはないので、ちょっと凹む)。
テレビで暴露するほかに、自身のSNSに書かれる方もいるようで、今までは自分の中に閉じ込めていたものをオープンにする世の中になったんだなぁと感じる。
その良し悪しを書こうとしているのではない。
このオープンな風潮に乗って、“私”も暴露話を表現した場合のことを考えた。“私”に同調してくれる人、同様に悲しんでくれる人はいるだろう。けれど、物事って関わった人間の数だけ事実がある。嘘を言っているわけではなくその人なりの事実を語っても、それぞれが語る事実がぴったりと重なることはない。
テレビやSNSで暴露話をできるような人は、どちらかというと多くの人びとに信じてもらえる賛同してもらえる人であり、暴露される側の人は、たいてい「あの人ならやりかねないよねぁ」などと受け入れられてしまう(その人の何を知っているわけでもないのに)。
物事には二面性多面性があり、本当の面と嘘の面があって…というわけではないから難しい。“私”の事実も、誰かにとっては信じられるもの、誰かにとっては信じられないもの。誰かにとっては事実、誰かにとっては嘘。
自分の中に閉じ込めておくよりも表出した方が良い事柄はたくさんあるけれど、暴露話のように語られる事柄は聞き流した方が精神衛生上良いような気がする。
そんな話を流布するつもりはないので、私は暴露話はしない。そんなネタもないけれど。

2023年5月24日 (水)

今日、寒かった

昨日の雨天が一転して快晴の今日。
寺の前を道行く人の格好も清々しい。
半袖の人も、シャツ一枚の人も目立つ。
ところが、私の体温が上がらない。
朝食を摂っても上がらない。
なんだかひんやりとする。
午後は研修会のため外出。
ワイシャツを着るも、やっぱり寒い。
春物の薄いセーターを着て、出かけようと思うも、まだ寒い。
夏用のジャケットを羽織って、とりあえずこれでいいか、と出かけた。
電車に乗ると、夏の格好の人とまだ寒さを引きづっている格好の人と、二分されているように見えた。
半袖の人を見ると、自分の格好が暑苦しくも見えるし、
重ね着している人の格好を見ると安心した。
出先で昼食を摂って、なんとなく体温が落ち着いてきた。
とりあえず、着ているものはそのままに会場へ。
会場でジャケットとセーターを脱いで、で、間衣(かんえ:お坊さんの黒い衣)を着てちょうどよかった(^∀^)
着るものに困る時期
気温の上下、天候の変化が激しい時期
お気をつけて👋

2023年5月23日 (火)

初事(しょじ)

以前読んだことがある小説を再読。
「え、こういうストーリーだったっけ? こんな登場人物いたっけ?」と思いながら読み返す。
人の、いえ自分の記憶は、なんていい加減なものだろう。
ご法話がアーカイブで残り、いつでも聴聞できる時代。
何度か聞き返すご法話があるのだけれど、それもまた聞くたびに感じるところが違う。
「え、そういうお話ししてたっけ?」
「あれ、ここのところ、前は感動したけど、今回はそれほどではないなぁ」
「こんな心動かすお話しをされてたのに、どうして覚えてないんだろう」
前は、何を聞いていたのだろう…。
自分でもビックリするけれど、いいかげんに聞いていたわけではなく、聞く時の心情・状況・体力などによって、聞き方聞こえ方は変わってくるもの。
ここが響いて来るってことは、今自分の置かれている状況が、精神状態がそういうことに響くような状態だということだろう。
何度聞いても、初の事。
お念仏も何度称えても、そのひとたび一度が初の事。
いつも初めての事。

2023年5月22日 (月)

言葉が泣いている

昨日、ことば遣いの美しさ(生き方の丁寧さ)の思いを書いた。
昨晩寝る前に『暮しの手帖』(2023年 4-5月号)を読んでいたら、ライターである武田砂鉄さんの連載「今日拾った言葉たち」に、次の言葉が紹介されていた。

言葉が泣いているっていう気がします
本当はもっとケアしてもらいたいのに
(大西寿男 校正者 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」(2023.1.13放送)より)

武田砂鉄さんは綴る

雑誌や書籍などに記された文字をチェックする校正者。世の中に溢れている言葉は、この人たちのおかげで乱れずに済んでいる。様々な辞書や資料にあたり、時には文章に対して改善策を提示する。決して派手ではないが、言葉の在り方を守り抜く仕事である。多くの作家が信頼を寄せる校正者が、今は言葉が泣いている、と言った。正確性に欠ける、勢い任せの言葉が無責任に飛び交っているという。言葉が、消耗品のように痛めつけられているのではないか。

文章や言葉の乱れは日々感じている。コタツ記事や憶測記事や根拠のない発言や妄想の域を出ない主張、端から相手を傷つけることを目的として書かれた文章、そのような文章は、必然言葉も乱れて来るし、美しくない。
私も、文章で表現することが多い。常に乱れることなくことばを使っているか、美しいことば遣いかというと、それもまた怪しい。気を付けなければという思いもある。けれど、ことばが乱れているときは、必ず生活が乱れている、こころがトゲトゲしている。その生活を、生き方を見直さなければ。つまり、自分自身を見つめ直すことが肝要。
言葉が泣いている。泣いている言葉をつかうときは、その発信者・発言者自身が泣いているときだろうから。

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