つぶやき

2008年4月23日 (水)

誰もがみな

人が人を裁くこと
そのことに無理があることだと思っています。
  
人が犯す罪に軽重はあるのだろうか?
そんなことを問えば、「あるに決まっている」と返されるだろう。
チューリップを折ることと、人を殺すことの罪の重さが同じはずはないって。
ものを盗むことと、いのちを奪うことの罪の重さが同じなわけないだろうって。
 
罪を犯さない人なんているのだろうか?
「私は罪をおかしたことはありません」と言われたことがある。
法的に罪を犯してなくても、
人を見下したり、疎ましく思ったり、匿名で誹謗中傷したり・・・
そういうこともしなかったのかな。
それだって立派な罪。
人と出会っていれば、誰もが抱く罪。
 
誰もが罪を作っている。罪を持っている。罪を背負っている。
それ故に、誰もが苦しむ。
他人(ひと)の持つ罪に苦しめられるだけでなく、
私の持つ罪にもこころつぶされる。
 
誰もがみな
 
  
光市母子殺害事件の裁判の判決が出ました。
自分をまったく別のところに置いて、想いを述べるのは簡単です。
でも、「わたし」も当事者なのです。
そういう感覚を見失ってはいけない。

| | コメント (0)

2008年4月17日 (木)

誰でも

「誰でもよかった」
 
人を殺めて、その理由は「誰でもよかった」。
 
「誰でもよかった」
 
そうなのかな?
 
誰でもよかったのなら、親兄弟でもよかったのかな。
 
ホームに立っている人に手をかける瞬間、その人が自分の知っている人だったら、果たして実行できたのだろうか。

もしできないのなら、誰でもよくはなかったわけで…
 
「誰でもよかった」ということばについて考えていたら、そんなことを思いました。

| | コメント (0)

2008年4月16日 (水)

明日とも知らぬいのちの中で、おしえのことばに出会えたこと

Dscf1668
  朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて
   夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり
          蓮如上人 「白骨の御文(おふみ)」

  
今月のことばです。
西蓮寺山門の前に掲示してあります。
  
お寺の前を通りかかり、立ち止まって掲示板を見ていたおふたりのご婦人がひとこと。
 
 「縁起でもないわね」
 「ねぇ~」
   
私の姿なんだけどなぁ。


| | コメント (4)

2008年4月 9日 (水)

ひとりでなんでもはできないけれど

花まつりでは、地元の石材店さんにお手伝いしていただいています。
西蓮寺のベンチとテントを、会場の称往院さんに運んでもらいました。
その際、石屋さんがテントウェイト(テントが飛ばないように支える重し)を持ったとき、「重て~!!」と言ったそうです。(現場に私はいませんでした。住職から聞いた話です)
住職が、「普段運んでる石(墓石)の方が重たいでしょう」と言うと、
「いや、石はなんともないんですよ。でも、このウェイトは重たいなぁ」との返事が。
 
テントウェイト一個の重さは10㎏。普段運んでいらっしゃる石は、もっともっと重いはずです。自分も、たまに敷石を動かしたりするのですが、ひとりで持てるものではありません。でも、テントウェイトはふたつ持って歩いたりします。
墓石を運ぶ石屋さんが、石は大丈夫でも、ウェイトは重たいという。面白いなぁって思いました。
でも、プロだなぁって思いました。石を、どこを支点にして、どのように持てば持ち運べるのか、見極めているのだと思います。それだけに、普段手にしない、小さくて重量の詰まったウェイトを持ち上げたら、とてつもなく重たく感じたのでしょうね。
 
重たいものでも軽く持ち上げられる。
軽いものでも重たく感じる。
石だけの話ではなく、日常の出来事や、悩みごと、仕事の内容にも通じるものだなと感じました。
 
つらいことでも、何とか乗り越えられる。
ちょっとしたことでもつまづいてしまう。
得手な人が、不得手な人の分をカバーしてあげればいい。
でも、不得手な人だからって、なにもかも不得手なわけではない。
得手な人だって、不得手なこともある。
自分が出来ることを、出来ない人の代わりにやってあげればいい。
でも、自分が出来ないことを、やってもらえることもある。
ひとりで何でもはできないけれど、
人が集まれば、だいたいのことは補い合える。
 
テントウェイトから、そんなことを学びました。 

| | コメント (2)

2008年4月 8日 (火)

雨の中の花まつり

4月8日、今日はお釈迦さまのお誕生日です(ついでに、西蓮寺坊守の誕生日でもあります)。
 
今日は、烏山寺町の花まつりでもありました。
が、生憎の暴風雨でした。お稚児さんのパレードも出来ず、親御さんにとっては残念なお天気でした。
 
晴れて欲しい日に雨が降ると、「○○の行いが悪いからだ」なんて言いますが、誰もが分かっている通り、行いと天気はなんの関連もありません。もし関連があったら、世界中常に暴風雨でしょうね。
 
考えても見れば、「行いが悪いこと」と「雨」を結びつけるということは、雨が悪いことの象徴という見方をしているということですよね。
体や持ち物も濡れるし、傘を持たねばならない分邪魔だし、湿気があって鬱陶しいし、雨を悪いことと関連付ける精神作用は分かりますが、
雨だって大切だし、なかなかいいものですよ。
 
大切な日に雨に降られて恨むのなら、「雨よ降るな」と願った自分の想いを恨んでみてはいかがでしょうか。
雨が降ったら「○○のせい」と、人のせいにし、
晴れたら「自分の日ごろの行いがいいからだ」なんて言うのだから。
  
お稚児さんのパレードは出来ませんでしたが、花まつりは開催されました。
お稚児さんの格好をして記念写真も撮れてよかったですね。花まつりに、たくさんの子どもたちも参加してくださったそうです(花まつりについて書いておきながら、今日私は寺で電話番でした。この天気のため、たくさんお問い合わせがありました。つまり、花まつりを見ていないのです。知ったふうに書いてすみません)。
思い出の1ページになったら幸いです。
雨の中参加してくださった方々、お手伝いくださった方々、ありがとうございます。

| | コメント (0)

2008年4月 6日 (日)

輪になる時間

4月6日、ご近所の存明寺さまの「青年のつどい」に参加させていただきました。
当日は3部構成で、
 仏教儀式の時間
 お話を聞く時間
 車座になる時間
の時間を過ごさせていただきました。
お話を聞く時間には、おふたりのご門徒と、酒井義一ご住職のお話がありました。
 
ご住職のお話は、「善意の持つ闇」についてでした。
人は、他人(ひと)のことを思って、その人にとって良かれと思って行動を起こす。しかし、その善意が、人を苦しめることもある、と。
悪意を持ってことを成した場合、後ろめたさを感じることもあるし、振り返って反省することも出来ます。
しかし、善意が犯している罪には、気付けないものなのです。自分はいいことをしているつもりなのですから。
そこには、他人のことを思っていながら、他人が見えていないという闇があります。人間不在です。
同朋とは、
 朋にあやまちを犯す者。
 朋に、離れない闇を持つ者。
そういう人間存在であるということを、徹底して教え続けられたのが親鸞聖人です。
  
同朋とは、朋に法に聞く者。仏法聴聞のお仲間としか思っていなかった私にとって、朋にあやまちを犯す存在として「同朋」を見出しておられたお言葉にビックリしました。
それは、人間を卑下した表明ではなく、そこにこそ同じ地平に立つ者としての朋なる感覚があるのだと強く感じました。ありがとうございます。
 
 ☆ ☆ ☆
 
会後は、バーベキューパーティー。
ちゃっかり参加させていただいて、申し訳ありませんでした。桜を見ながら、みんなでワイワイしゃべりながら食べるお食事、美味しかったです。
 
当日は、小学生の時の同級生に会えました。
住職の弟さんの奥さんの妹さんの結婚相手が(長い説明ですね)、私の同級生なんです。お話は伺っていたのですが、そのときに偶然同級生に会えました。
 
うちの奥さんのお友達も来ていて、当日は留守番だった奥さん(なんて呼べばいいんだろう)を寺まで呼びに行ってしまいました。久しぶりの再開、喜んでくれたかなぁ。
 
その日のことではないのですが、存明寺さんの今年の修正会にお邪魔したときも(お邪魔しっぱなしで申し訳ありません)、中学生のときの同窓生に会うことができました。
「もしかして、白山君?」と、声をかけられ、「はい」と、驚きのあまり素っ気無い返事をしてしまいました。そのときは失礼しました。でも、声をかけていただいて嬉しかったですよ。他の門徒さんもいて、ちょっと照れくさかったけど。
 
人と人って、つながっているんだなぁ。
そういうことを痛感させていただいた「青年のつどい」でした。
いつも温かく迎えてくださる存明寺のご家族の皆さまと、ご門徒の皆さま、ありがとうございます。

 


| | コメント (0)

2008年4月 5日 (土)

本当に、本当に、本当におめでとう

4月5日、お仲間のお寺の副住職の婚礼がありました。
ご縁がありまして、仏前結婚式の住職が司婚、私が司会を勤めさせていただきました。おふたり、両家のご両親、ご親戚の皆さま、ご門徒の皆さま、おめでとうございます。
仏前結婚式には、「仏前結婚式」というものを見てみたいということで、おふたりのお友達も多数見学に来てくださいました。「仏前結婚式」というものがあるんだということを知ってもらえて、嬉しかったです。興味を持っていただけたでしょうか。
 
結婚式での出来事を書くわけではないのですが、気になったことを、いや、ずっと前から気にしていたことを。
「本当におめでとう」の“本当に”って、何でしょう?
「おめでとう」だけで充分だと思うのですが、“本当に”を付けるのはなぜなのか。気になっていました。 
「あめでとう」に限らず、「ごめんなさい」「ありがとう」「さようなら」など、“本当に”を付けることが多くなっているような気がします。
 
メールの影響かな?って思っています。
電話をかけるまでもない、手紙をかくまでもないときに、メールを使います。メールって本当に便利です(あっ、こういう場合も“本当に”を付けてしまいますね)。
直接会ったり、電話で話していれば、生の気持ちが伝わるような気がします。だから、「おめでとう」でも充分なのです。でも、メールは、どうしても文章が機械的になり、こころからの気持ちが伝わらないような気がしてしまうのではないでしょうか。だから、顔文字が発展し、絵文字が生み出されてきたのではないでしょうか。少しでも、今の気持ちを表わすように、そういう手段のひとつとして、「本当に」を付けて表現するようになったのかなと、感じています。
いや、“本当に”を付けることを否定しているのではなくて、表現として面白いなと思っただけなのです。
 
メールの影響といえば、句読点を付けなくなったのこそ、メールの影響ですよね。
若い子が書いた文章や報告書を見ていて、句読点がついていないことに気付きました。特定の子に限らず、けっこう多くの子に。
「なんでなん?」って、句読点を付けて文章を書いている子に聞きました。
「あぁ、メールの影響だと思いますよ。メールの初期の頃は字数制限があったじゃないですか。だから、句読点を省いて文章を書く癖がついたんだと思いますよ」
あぁ、なるほど!!と、納得してしまいましたが、納得していいのでしょうか? 
 
余談ですが、結婚式のご案内が来たとき、一筆添えますよね。
その際、句読点を付けずに、
 おめでとうございます
 ご案内ありがとうございます
 喜んで出席させれいただきます
 式当日が楽しみです
などと書くのがマナーだそうです。結婚式の案内だけに、「区切りを付けた」返事をしないということなのでしょうね。句読点を付けない文章を書き慣れた人には、いいですね。

| | コメント (2)

2008年4月 3日 (木)

薬師寺展

4月3日
東京国立博物館で開催されている「国宝 薬師寺展」を見に行きました。
 
展示場内を順路に沿って歩くと、高い通路になっていて、角を曲がると、メインの日光月光菩薩さまが視界に飛び込んできます。通路が高めに作ってあるので、3メートル以上ある日光月光菩薩の胸元あたりから眺めることができます。今までに経験したことのない通路の設営と、今までに記憶のない高さから眺める仏像にワクワクして、歩みを止めて、5分ずつくらいだったでしょうか、月光菩薩、日光菩薩を眺めていました。
優しいのに、力強い菩薩さまの姿に、出るのはため息ばかりです。思わず手を合わせてしまいました。
 
やっと歩き出し、順路どおりあるくと、今度は日光月光菩薩の足元に出ます。それまで離れて高いところから眺めていましたが、今度は菩薩の足元直近から見上げることになります。同じものを見ているのに、まったく違う感覚。そこでもまた時間をかけて菩薩さまを眺めていました。
 
3月30日放送の「情熱大陸」で、展示デザイナーの木下史青さんを取り上げていました。
「展示デザイナー」…展示品がよりよく見えるように、配置や照明を総合的にデザインする方です。東京国立美術館が初めて作った役職だそうです。
作品を展示するために、どの角度から見ても、誰が見ても、その作品の持つ魅力を引き立たせるように照明をあてる。幾種類もの照明機材があり、数限りない配置方法があり、これでいいという答えはありません。その中でも、現時点で考え得る最高の照明をあてる。その苦心・苦悩の様子が取材されていました。
風呂上りにテレビをつけたら放送していたので、偶然見ました。そういう仕事があったんだという驚きとともに、そこまで考えて照明をあてているんだということに対する驚きと敬意がありました。今まで何度か国立博物館に行っているのに、そういうことの思いが及ばず、恥ずかしく思いました。
日々の生活の中、目に見えないところ、私の気付かないところに、人々の苦労と努力が満ちているのですね。ありがとうございます。
「情熱大陸」の放送を見ていたおかげで、いつもと違う気持ちで展示を見ることが出来ました。

日光月光菩薩も素晴らしかったですが、高い通路に昇る手前の「聖観菩薩立像」にも引き込まれました。190センチほどの高さで、全体が視野に納まるので、全体的なバランスの美しさを感じました。
展示品の数も、そんなに多くなく、時間をかけてゆっくりと見ることができます。

残念だったのは、携帯のカメラで日光月光菩薩立像を撮ろうとしている人がいたこと。もちろん、場内は撮影禁止です。カメラを構えた人を見つけては、監視の方の注意を受けていました。撮ってしまった人は、データの消去を求められていました。当然です。
思わず写真に収めておきたくなる気持ちはわかりますが、いけないことはいけません。
撮った人も、周りにいる人も、注意した監視の人だって、いい気持ちはしません。せっかく素敵な菩薩様にお会いしているのに、嫌な気分にはなりたくないでしょ。これから行く方、どうぞ写真撮影はご遠慮ください。

| | コメント (0)

2008年4月 2日 (水)

走馬灯のように

用事があって吉祥寺に行きました。用事も済み、吉祥寺LONLONに夕飯の買い物に行きました。
食品街をフラフラ歩いていると、一角に設けられたベンチに、お母さんと3歳くらいの男の子が座っていました。
ふたりはタコ焼きをハフハフしながら食べていました。微笑ましい光景でした。
時間にすると一瞬なのですが、自分にとってはかなり長い時間ふたりを見ていました。

東京では、ご門徒さんのお宅にお邪魔してご法事を勤めるのではなく、お寺でご法事が勤まります。必然的に土・日曜日にご法事が勤まります。ということは、学校が休みの日曜日でも、外に遊びに連れて行ってもらうということがありません。それでも、ご法事・片付けが終わって、ほんの短い時間でも、たとえ疲れていても、母親は私と妹を吉祥寺に連れてきてくれました。
それから今に至るまでのいろいろなことが思い起こされました。泣いてはいないけど、泣けてきました。
楽しかった、きつかった、ありがたかった、つらかった、嬉しかった、悲しかった、頑張ってきてよかった、苦しかった、生きていていいんだ・・・・・・・・・・・・・・・
 
いろいろなことが、一瞬の間に、わたしのからだを埋め尽くしました。
 
涙は出ないけど、涙が溢れ出しました。
 
4月2日、37歳の誕生日でした。

| | コメント (0)

2008年3月31日 (月)

こころ温まる文章に出会いました

こころ温まる文章に出会いました。
気持ちの機微が表われていて、読み手が文中に引き込まれる文章でした。
 
実は、その文章を書いた方と、同じものを見て、私も文章を書いていました。
その方の文章を読んだ瞬間、こころ温まると同時に、愕然ともしました。自分の文章の冷たさに。
その方の文章が、春の暖かな風景を描いた油絵で、見ているものをその風景に取り込んでしまうような文章だとしたら、
私の文章は、冷たくて、硬くて、ギザギザで、見るものを傷つけるようなモノクロの絵です。血の通わない文章でした。寺報やブログで文章を書き続けてきたことが、自ら恥じをさらしていたようなものです(と、いいつつ書いているけれど)。
そのことに気付かせるご縁だったのですね。気付けてよかった。
だからといって文章が急に変わるわけではないけれど、こころに留めて生きたいと思います。
 
今までお読みくださった方、ありがとうございます。
嫌な想いをしたこともあったことでしょう。申し訳ありません。
(文章表現はまだ続けていきます。これからも遊びに来ていただけたら嬉しいです)

| | コメント (2)

2008年3月16日 (日)

人との会話の中でこそ、感じることがあります

今月のことばが浮かんだのは、毎月参加させてもらっている、お仲間のお寺の仏教青年会での会話がきっかけです。
 
「最近、友達が『楽したいなぁ』って言うんですよ」
「楽はさぁ、苦しいんだよ」
「そうですね‼」
「でも、つらいのに楽しいときってあるよね」
「つらいからこそ楽しさを感じるんだと思います」
「そうだねぇ」
 
だいぶ かいつまんでますが、このような会話がありました。
「楽は苦しい」
この表現に、頭を叩かれたような気がしました。“楽”までは求めなくても、ホッとしたいなとか、仕事を全部終わらせたいなって思うことはあります。でも、ホッとした状態のままだったり、仕事が全部片付いて、なにもすることがないままだったりしたら、不安になることでしょう。
楽は苦しい…矛盾するようだけど、そうではない。
そういう思いを表現しようと思って、3月の「ことば」を造って、「文章」を書きました。
 
「ことば」を考えるのは悩みました。
楽と苦を対比させようとして、
  楽は苦しい
  苦は楽しい
なんてところから考え始めたけど、それは表現したいことと違うなぁ…とか考えて、たどり着いたのが
  楽を求めて苦しみに陥る
  苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う

です。もう少し練り上げたかったのですが、タイムオーバーでした。

「あう」という字を「遇う」と書きました。
「遇う」には、なかなかあえないこと、あいがたいこと、といった意味が込められています。
「苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う」と言われても、やっぱり「苦」はつらいです。逃げたいです。でも、逃げていては、「楽しい」って感じることはできないです。苦しみから逃げないなかで、楽しみが見えてくると思うのです。
「楽しみ」と表現してしまうと、「楽(らく)」と同義に捉えられてしまう恐れもあるので悩んだのですが、「私を守っているはたらき」「いまのままでいいんだ、という安心感」もっと言ってしまえば「阿弥陀さま」…そういう想いを込めました。
そのような「楽しみ」とは、なかなか出遇えないのかもしれませんが、でも、誰もが出遇えると、私は信じています。生きている中で。

| | コメント (0)

2008年3月15日 (土)

やることがいっぱいあるって、ありがたいことなんだなぁ

ある介護施設のお話
お世話になっている先生が、先生が勤めている学校の近所に出来た老人介護施設の開所式に呼ばれました。
施設長は、施設の設備を案内してくださいました。施設に入所するお年寄りは、なにも手を煩わせることがないように、設備もスタッフも行き届いています。至れり尽くせりの内容に、先生はビックリで、「あと何年かしたら、私もここにお世話になりたいな」と思ったそうです。
 
時は流れて、その介護施設の現状が先生の耳に入ったそうです。
施設に入所したお年寄りが、次々と出て行ってしまうそうです。
至れり尽くせり、身の回りのことは、全部スタッフがやってくれる。
それなのに、お年よりは出て行ってしまう。
さて、なぜでしょう。
 
自分がすることがなにもない。
自分のいる意味が見えなくなってしまう。
自分はいらないんじゃないかと思ってしまう。
あまりにすべてのことをやってくれるので、お年寄りは自分の存在意義を見失ってしまうのです。
それで、どうにも住み心地がよくなくて、施設を出て行かれてしまうのです。
いや、住み心地はいいのかもしれません。住み心地はいいけれど、自分がいる場所ではない。そんな感じなのではないでしょうか。
 
というお話を、先生から聞いたのですが、一緒に聞いていた友人が「今月のことばみたいだね」と言いました。
 
 楽(らく)を求めて苦しみに陥る
  苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う

    ~2008年3月 西蓮寺 掲示板のことば~
 
「楽したい」というセリフを、耳にすることが続いたのです。
そんなに楽したいかなぁ。もし望みどおりの楽を手に入れたとして、満足しないだろうな。
日々の生活の、自分の障害になっている(と思っている)ものがすべて無くなったとして、果たしてそれが楽なのだろうか。いったい楽ってなんなのだろうか。
 
自分の手を煩わせることを、なにもしなくていい状況になったとき、私は、私の存在意義を見失ってしまう。
楽になるとは、自分で自分の居場所をなくそうとしているようなものなのかもしれません。
「自分探し」というけれど、自分を見失っているという意味では、既に、私は楽な状態なのかもしれませんね。
楽していると、楽していることが分からなくなってしまうものなのです。
「楽になりたい」とか「自分探し」を口にする人は、既に楽しているのではないでしょうか。
 
「苦しみを生きる中で」は、極端な表現をしましたが、
「日々の生活の中だからこそ」と言い換えてもいいと思います。

日々の生活を離れたところに楽があるのではない。また、それを求めるのもむなしいこと。
つらく、悲しく、苦しいことがある生活の中でこそ、こころの底から感じられる楽しみがある。
そんなことを考えながら、今月の文章を書きました。
 
介護施設も、スタッフがなにもかもやってあげるのではなく、当番や役割を決めてあげたらいいのかもしれませんね。生き甲斐や責任が芽生えるのかもしれません。それはそれで、また大変なわけですが。

| | コメント (4)

2008年2月22日 (金)

よ~く考えよ~♪

漢字は、字を見ただけで、なにをイメージして作られたのかが分かります。
漢字の成り立ちを知ると、その奥深さ、意味の深さに感心させられます。
 
ところが、最近聞いた話なのですが、
漢字はもっともっと数が少なかったのだそうです。

漢字の発祥は中国
「中国で戦争が起こると、漢字が増える」という言い伝えがあるそうです。
戦争は人と人とが争います。
争いが起こると、人のことを考える思考が止まります。相手を思いやる、物事の根源を考える作業をしなくなります。
戦争が終わると、勝った国と敗けた国が存在します。勝った国は敗けた国の文化を取り込み、敗けた国は勝った国の文化を受け入れなければなりません。

漢字には、成り立ちがあります。
漢字は、数がもっと少なく、形ももっと簡素でした。
しかし、戦争が終わるたびに新しい漢字文化が入ってきて、戦争を重ねるにしたがって想像する力が衰えていく。
隣国の漢字文化が、分からないのです。
そこで、もう少し意味が分かるように漢字に手を加える。そうしているうちに、漢字の数や画数が増え、複雑化していったそうです。
 
漢字そのものは、人間の想像力の豊かさが表現されています。
でも、漢字の歴史には、人間の想像力の欠如が刻まれています。

こと細かな説明は、分かりやすいし、助かります。だけど、誰かがこと細かに説明してくれると、私は考えるということをしなくなります。マニュアルや説明書・解説書が分厚いのも、想像力の欠如の表われかもしれませんね。

| | コメント (2)

2008年2月19日 (火)

朝の風景

朝食でパンにぬったジャム
グレープフルーツジャムの味
甘くてすっぱい味がした
甘くてすっぱい 甘くてすっぱい
 
掃除するため外に出た
日は暖かくて、風は冷たい
暖かくて冷たい気候
暖かくて冷たい 暖かくて冷たい
 
「ダメ!! 危ないでしょ!!」
道路に飛び出そうとした子どもに母の声
厳しい響きの中に優しさがある
厳しくて優しい 厳しくて優しい
  
「お前なぁ、~だぞ!!」
「なんだよ、お前こそ~じゃないか!!」
いつも喧嘩してるような会話をしながら登校する小学生
だけど いつもいっしょ
仲が悪いけど仲がいい 仲が悪いけど仲がいい

チリン チリン チリン チリン‹‹☆ 
杖をついて歩いているお年寄りに向かって
自転車のベルを鳴らして走る高校生
体は健康でも、こころは不健康
健康だけど不健康 健康だけど不健康
 
「おはようございます」
 「今日は暖かですね」
  「では失礼します」
いつも声を掛けてくれるサラリーマン
急いでいるのに、立ち止まって挨拶してくれる
気がせく中でも落ち着いている
気がせく中でも落ち着いている
 
あい反するふたつのこと
だけどひとつ
たとえ あい反するものでも
一緒になれる ひとつになれる
人生もきっと、
苦しいけど楽しい 苦しいけど楽しい 

| | コメント (0)

2008年2月10日 (日)

せめてお名前を…

昨晩、お通夜に出かけました。天気予報で雪が降ると言っていたのですが、結局寺に戻るまで雪は降りませんでした。
「これならもう降らないな。天気予報はずれだ♪」なんて思っていたのがいけなかったのか、夜9時に窓の外を見ると、一面真っ白でした。
「明日のお葬儀、行けるかなぁ。早めに出ないといけないなぁ。明日の朝は雪かきだ♪」

で、今日の朝。いつもより早めに起きて、先ずは境内の雪かきから。主な参道の雪かきをして、「これから表の歩道の雪かきだ♪」
と、山門の外に出てビックリ。明らかに雪かきがしてあります。
「えっ!! あれっ!? 誰が?」
 
 
 
さて、どなたが雪かきをしてくださったのでしょうか。
いろんなことが???でしたが、ありがとうございます。
おかげさまで、今日ご法事があったお家のお墓までの雪かきに取り掛かることができました。
お葬儀にも、スッキリした気持ちで向かうことができました。
 
日中は晴れ渡り、積もった雪もほとんど融けました。
凍結にはお気をつけください。
 
早朝から寺の前の雪かきをしてくださった方、ありがとうございます。
せめてお名前を…
野暮ですね。

| | コメント (2)

2008年2月 8日 (金)

正論は人を傷つける

ある女性歌手の、ラジオ番組での不適切発言が波紋を呼んでいます。
発言内容については、まったく化学的根拠のないことで、無責任な発言だと責められても、そのこと自体は仕方ない。
でも、バッシングのあり方にも疑問があります。
テレビ・ラジオ・新聞・雑誌、諸々のメディアで、いろいろな方が発言をしています。さて、そのすべてが適切な発言なのだろうか。誰も不快な思いをしない発言なのだろうか。科学的根拠に基づいた発言なのだろうか。
すべてのメディアがそんな発言の集まりだったら、なんの特色もなくなるんだろうな。複数のメディアが存在する意味はなくなるだろうな。
 
感じたことは、
もし彼女が業界の大御所的存在だったら、ここまで叩かれたのだろうか。
もし彼女がもっと年を重ねていたら、ここまでバッシングを受けただろうか。
もし彼女がそんなに売れていない存在だったら、発言がここまで批判されただろうか。
 
ある程度売れていて、人気者で、人もうらやむ才能(例えば歌唱力とか)を持っていて、それでいてまだ若い。
そういう人がバッシングのターゲットになってしまうのではないだろうか。やっかみみたいなものです。
 
人の批判をする場合に、とても理不尽で、とても卑怯で、とてもこころない批判をしていないだろうか。この一件だけのことを言っているのではなく、私たちの日常において。
 
有名人ゆえの発言に対する責任はあるけれど、バカな発言は私たちも日常しているもの。「ここだけの話」とか、「人には聞かせられないけど」とか言いながら。「ここだけの話」「人には聞かせられないけど」って、わざわざ断らなくてはいけない発言って、本当はするべきでないと思う。
 
自分は姿を見せず、言いたいことは主張する。
たとえそういう人はわずかでも、まるで大勢の意見のように、当然の意見のように、周りも勘違いしてしまう。そちらに流されてしまう。
 
有名になったからって、なにを言っても許されるわけではない。彼女に、そこらへんの勘違いはなかったか。
正義を気取って誰かを叩いても、果たしてそれが正義・正論・許されることなのか。たとえ100%主張が正しかったとしても、その主張が人を傷つけるということを忘れてはいけない。バッシングをする側に、自分は正しいことをしているという勘違いはなかったか。
 
勘違いが、苦しみを生み出している。
私も勘違いをしていないだろうか。

| | コメント (8)

2008年2月 5日 (火)

ゆっくりあるかないと滑りますよ

今日は暖かな一日でしたね。おかげで、雪もかなり融けました。
 
おととい、雪が降りました。
昨日の朝、地面が凍っていました。特に寺の山門前がツルッツルに凍っていたので、注意書きを書きました。
「日陰滑ります。ご注意ください」って。
 
今朝、毎朝顔を合わせてる方に会いました。
「おはようございます」
「おはよう。昨日さ、滑るから気をつけてって、看板書いてあったでしょ」
「はい、書きました」
「オレはさぁ、感動しちゃったよ」
「えっ、どうしてですか」
「人のこと考えてさ、注意書きなんてなかなか書けないよ」
「そうですかねぇ」
「そうだよ!! だから、気を遣ってもらってるって思えて嬉しかったねぇ。ありがとう」
「いや、そんな。そう言っていただいて、こちらこそありがとうございます」
という会話がありました。
思ったことは、毎朝境内の掃除をするのに、自分の中で決まった工程があるわけです。でも、注意書きを書くということは、決まった工程とは違うことをするわけです。場合によっては、どんなに簡単な作業であっても、なかなか難しいことなのです(私だけかなぁ。同意してもらえるかなぁ)。
でも、昨日は自分なりの工程を無視して注意書きを書きました。注意書きを書くなんて、たいした作業ではありません。でも、なによりも優先してやるべきことだなと思ったのです。
で、今朝、「ありがとう」と言ってくれる人がいて、書いてよかったなって思いました。
 
前にも、「テク テク テク」の記事で書いたけど、急いでも、ユックリしても、結果そんなに変わらないんですよね。それどころか、落ち着きをもって作業に当たった方が、よりいい結果が出るものです。
注意書きを書くことを面倒臭いと思うようならば、毎朝やっている作業をも手を抜いていることになるんじゃないかなと思いました。
 
ずっと前にブログに書いた記憶があるのですが、
字を書くときに、忙しいときでも、急いでいるときでも、ゆっくり丁寧に書くことを勧められましたと書いたことがあります。それから気をつけて実践しています。なるほど、ゆっくり書くと、やらなければいけないことのすべてにゆとりが持てるような気がしています。急いで、汚い字で書いていると、やらなければいけない、ひとつひとつのことに対しても、いい加減に対応しているような気がします。
急いでいるとき、時間がないときこそ、字を丁寧に書いてみましょう。きっと、こころも落ち着くと思います。

って、今朝の会話から思ったのです。
「ありがとう」って言ってくださって、ありがとうございます。

| | コメント (0)

2008年2月 3日 (日)

しんみりと

今朝、カーテンを開けたら一面真っ白でした。
思っていたよりも早い降り出し、というか、もう積もってました。
 
Dscf1250
 
朝から雪かき、ご法事をお勤めして、日が暮れるまで雪かき。
朝早くから雪かきのお手伝いをしてくださったご門徒の生田さん、ありがとうございます。
おかげさまでご法事までに主な参道の雪かきが済みました。
雪かきで汗びっしょりになりました。
  
Dscf1251 
 
ご法事でお集まりの皆様、ご苦労様でした。無事帰れましたでしょうか。
雪はやんだようですが、恐いのはこれから。足元が滑りますから、みなさまお気をつけください。
 
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
シンシンと降る雪を見ていると、淋しい気持ちになってきます。
1月末、あるご住職が亡くなられました。
 
 優しい人でした。
 子ども好きな人でした。
 お酒の強い人でした。
 いつも笑顔で迎えてくれました。
 何回も一緒に旅行に行きました。
 自分に仕事を任せてくれました。
 自分のやりたいようにさせてくれました。
 壁になってくれました。
 背中を押してくれました。
 若手僧侶のこれからを案じていました。
 弱音を吐かない人でした。
 頼まれたことに嫌と言わない人でした。
 
1月31日・2月1日と、通夜葬儀が勤まりました。
正直、亡くなられたことが、まだ信じられません。いや、信じたくないのかもしれません。
日が経つにつれ、哀しみが広がってきます。
どうして人は涙を流すんだろう。
涙の意味を噛み締めています。
早川さん、ありがとうございます。

| | コメント (2)

2008年1月15日 (火)

なぜグズるの?

グズッたり、スネたり、怒ったり…
考えてもみれば、目の前に相手がいるからのこと。
相手がいなければ、グズったり、スネたり、怒ったりもしないか。
赤ちゃんを見ていて、そう思った。
つまり、頼りにしているということ。
頼りにされているということ。
 
「相手がいるから」
泣いたり、笑ったり、哀しんだり…
一人のときに出来ることだけど、想いの中には相手がいる。
誰の顔も思い浮かべないのに、泣いたり、笑ったり、哀しんだりしないか。
一人で居ても、誰かと一緒なんだな。

| | コメント (2)

2008年1月14日 (月)

成人の日

今年で37歳。
もうすぐ40歳に手が届くんだなぁ。
二度目の成人だ(この発想、おかしいですか?)
 
一度目のときは、
20歳になる感慨があった。
20歳になるんだから、もっとシッカリしなきゃとか、それなりの生き方をしなきゃと、漠然とした責任感を感じていた。
そして、そんな漠然とした想いに押しつぶされそうにもなった(漠然としていたからか?)。
 
二度目の成人
40歳になるとき、どう思うんだろう。
40歳になるとき、どんな気持ちの変化があるんだろう。
たぶん、なにも思わずにただ年を重ねるんだろうな。「年とったなぁ」とか言いながら。
 
もうすぐ二度目の成人だよと、坊守(母)に言ったら、
「あら、私は去年で三度目よ♪」
と言って笑ってた。
人生の先輩を感じました。
 
 ☆ ☆ ☆

成人(元服)とは、ここまで大きくなったら、あとは自分の生命力で成長していくという区切り。
生まれることが出来ても、病気や貧困で、幼くしていのちを亡くす人が多かった時代、我が子が成人(元服)を迎えるということは、こころの底からの喜びに満ちていたに違いない。
「よく、ここまで大きくなった」って。
本人も、
「ここまで育てていただいてありがとうございます」 
という想いが強かっただろうな。
   
何度目の成人でも、そこまで育った、育てていただいた恩に違いはない。
しかも、親子揃って迎えられるなんて、稀な出来事の上に、さらに稀な出来事。
成人を迎える。
ひとりだけの出来事ではないんだな。
 
子の誕生とは、親の誕生でもある。
子の成人とは、親の成人でもある。
 
自分ひとり、シッカリしたり、それなりの生き方をしなければと気負うのではなく、
ひとりだけで人生を歩んでいるのではないんだ
そのことを見つめる 
 
成人…人に成る

| | コメント (0)

2007年12月31日 (月)

大晦日

みなさま こんばんは
大晦日です。テレビでは紅白を放送しています。今年もそろそろおわりですね。
 
12月に入り、ブログを更新していませんでした。それにもかかわらず、毎日多くの方に訪ねていただいて、ありがとうございます。
中には「病気ですか?」と心配してくださる方もいて、お心遣いありがとうございます。元気にしております。
 
私事ですが、12月6日 西蓮寺本堂にて仏前結婚式を挙げました。
阿弥陀さまの尊前で、ふたりのこれからを誓う。厳かでもあり、恥ずかしくもある瞬間でした。
新しい生活が始まり、だからというわけではありませんが、生活のリズムができるまで、なかなか文章が書けませんでした。想いをことばにする難しさを感じていました。今までよく書けてたなぁと、我ながら感心していました。

最近は生活も落ち着き、「掲示板のことば」1月の文章も無事書き終えました(明日アップしますので、お楽しみに)。やっぱり、文章を書くのが好きなのかな、というか、書くことによって気持ちの確認作業をしているんだなと思いました。
年明けから、ボチボチ無理せず、ブログを更新していきたいと思っています。来年もよろしくお願いします。
 
今年一年、ありがとうございました。
よいお年を!!

| | コメント (6)

2007年11月29日 (木)

ありがたいあたりまえ

今の環境・境遇に文句を言いたくなるのも、
それら環境・境遇が「あたりまえ」のことになっているから。

 あってあたりまえ
 役に立ってあたりまえ
 自分の思いどおりになってあたりまえ
 いつもあってあたりまえ
 いつまでもあるのがあたりまえ
 
あたりまえ あたりまえ
いつもあると思っていると、いつまでもあると錯覚してしまう。
なくしたときに、そのありがたさに気付く。
そのときにはもう遅い。
 
「あたりまえ」と思う気持ちからは、感謝の気持ちは表われない。
出るのは文句や愚痴ばっか。
 
でも、「あたりまえ」と思えるということは、ずっとあるから。ずっと続いているから。
「ありがたい」人が、出来事が、環境が、私の周りに、ずっとあったということ。
 
「あたりまえ」と思う気持ちからは、「ありがたい」という気持ちは表われない。
でも、「あたりまえ」になってしまっている事実の背景は「ありがたい」ことの積み重ね。
 
私の想いという側面から見ると、「あたりまえ」から「ありがたい」という気持ちは見えない。
事実という側面から見ると、「あたりまえ」と「ありがたい」は同じこと、なのだと感じています。
 
「あたりまえ」と思う気持ちを戒めること、捨てること、なくすことはできないでしょう。
「あたりまえ」と思っていること。それは、とてもとても「ありがたい(有り難い)」ことの積み重ね。
そのことを思い続けていたい。

| | コメント (0)

2007年11月27日 (火)

環境のせい

環境が悪いと言うけれど、果たして環境は悪いのか。
 
今、私がいる環境。
私が今いる環境に至るまで、多くの出来事が積み重なってきた。
人々の様々な想いが込められている。
多くの努力の結晶でもある。
 
自分が生活する環境を、わざわざ悪くしようと試みて悪くする人はいないだろう。
良くしよう良くしようという想いの結晶なのだと思う。
結果、今、私がいる環境。
 
今だけを見ていると、愚痴を零したくもなるだろう。
他をうらやむ想いも湧くことだろう。
しかし、今、私がここに存在している背景に想いをめぐらしたとき、愚痴を言うのは傲慢な気がする。
 
たとえば、地球の温暖化をなんとかしようと躍起になっている。
しかし、今の環境が悪い方に向かっているから良い方向に向かわせようというのは、
今までの歩みを無視してしまうことになる。
出来事(歴史)を、想いを、努力を、踏みにじっているようなもの。
 
今、私がいる環境。
それは、私が望んだ環境。
良いときはそのままで。
悪いときは良い方向に。
きっと、また悪い方向に進むことだろう。
 
環境のせいにしている人は、人生の暗闇を彷徨い続けることだろう。
暗闇を彷徨っていることにすら気づかないままで。 

| | コメント (2)

2007年11月25日 (日)

ルール

先日、テレビ朝日「報道ステーション」で、知床の漁師とヒグマのドキュメンタリーを放送していました。
ヒグマは漁師のテリトリーに現われ…いや違う、ヒグマのテリトリーに居を構える漁師さん。漁師さんは、海の様子を直に感じるために海岸線に住み、魚を獲り、加工しています。そこに現われるヒグマたち。人間から数10メートルのところまで近づいて来ます。
恐いはずです。実際、この漁場に居を構えた当初は、村の猟師さんに頼んで、熊を退治(撃ち殺す)してもらたこともあるそうです。でも、この漁師さんをまとめる責任者の方(お名前を忘れました)が、殺すのではなく、なんとか共存できないものかと考えます。
そして実行していることは、自分たちの食料や残飯を建物の外に置かないこと。備蓄してある食糧は、厳重にガードすること。熊が人間に危害を加えるのは、人間が熊に食料を与えてしまうから。その味を覚えてしまった熊は、本来食すことがないはずの食料を欲し、人家に近づき、食料を手に入れようとします。
実行していることのもうひとつは、熊が人間のテリトリーに入ってきたときに、責任者の方が「コラッ!」と怒鳴って追い出すこと。「信じられないかもしれないけれど、怒れば熊にも通じるんだよ」と言う責任者の方の顔がものすごく柔和でした。熊を敵として見ているのではなく、同じ生き物として見ているお顔でした。
そうして、自然に築かれていったルールのもと、クマも人間も、厳しい知床の冬を乗り越えていくのでした。
 
自然に築かれていったルール
どこにも明文化してないし、罰則もない。
でも、みんながそのルールの中で、生き生きと自分の生きるべき活動をしている。人も、クマも。
 
身の回りに溢れているルール
明文化されてないし罰則もないものから、
明文化されて罰則があるものまで。
人が生きるために、生きやすくするために、もめごとをなくすために、不快な思いをしないために、快適な生活をするために、ルールは生み出されてきたのだろうけれど、
ルールが増えれば増えるほど、生活は窮屈になっていく。
ルールが増えれば増えるほど、ルールを無視する人も増えていく。
ルールが増えれば増えるほど、ルールの網目を見つけ出す、探し出す、作り出す人がいる。
かくして、またルールは増える。 
 
人と動物の共存が出来ているのに、
人と人との共存って、難しいものですね。

| | コメント (2)

2007年11月22日 (木)

冬ですね

空気が冷たく、澄んできました。
はく息が白いです。
冬ですね。
夜空を見上げると、星がきれいに見えます。
しばらく立ち尽くして、星空を眺めていました。
 
寒さ厳しくなってきます。
風邪にお気をつけて。

| | コメント (2)

2007年11月 7日 (水)

いのち感覚

病気になったら病院へ
年をとったら施設へ
その結果、家庭で死を迎える人が現代日本では少なくなっています。

死を連想させるものは見えないようにしています。
ホテル・マンション・病室からは「死」をれんそうさせる「4」の付く部屋が抜かされています。ひどい場合には「4階」まで削除されているところもあります。駐車場の「4」が抜けている場合もありますね。
「苦」を連想させる「9」が抜けているときもあります。
(「4」や「9」を抜かしたら十進法も成り立たないのに…。「死」や「苦」を無くしたら人生だって成り立たない)
 
そのように、「死」を遠ざける現代日本人。
で、死を見えなくした結果、人を傷つけ、殺す行為が増えているという話を聞くことがあります。
人は傷つき、病み、老い、いつかいのち終えていくものだという、当たり前のことが見えなくなっているのだから。
たしかに、そういう面もあると思う。
思うけれど、本当に「死」が見えなくなっている世の中なのだろうか。

テレビや新聞では、誰々が死んだ殺されたと毎日のように報道されている。
現代日本で自殺者が3万人を超えるということは、もはや周知の事実。
電車に乗ろうとすれば、人身事故の影響でダイヤは乱れている。
救急車のサイレンを聞くことも多くないですか?

ちょっと思い返してみれば、「死」は日常に溢れている。
溢れていると、それが当たり前になってしまう。
そう、「死」が当たり前のことになってしまっている。
恐ろしいことは、その「死」に関して、哀しみがないということ。
 
誰々が死んだ殺されたという情報を、垂れ流しのテレビから耳にする。情報は右から左へ筒抜け。
自殺する人はこころが弱い人だと、生きてる人間は、評論家になる。ホンットにこころの強い人間なんて、どこにいるのだろう。
人身事故でダイヤが乱れれば、「チッ、急いでいるのに」と文句を言う。
救急車や消防車のサイレンがうるさいと、苦情の電話をかける人がいるという。
 
いじめ、虐待、暴力、殺人、戦争
傍観者は、加害者を責める。犯した者は、その責めを受けなければならない。
しかし、起きた出来事をただ評論しているだけの私に、人が傷ついた死んだということに関する哀しみはあるだろうか。加害者を責め、被害者を哀れむことはあっても。それに、哀れむことと哀しむことは違う。
 
情報が今のように溢れていない頃、
たとえば、町内で誰かが亡くなれば、町の掲示板にお悔やみのお報せが張り出された。新聞に載ることもあった。その情報を知って、身内でなくても心底哀しんだ。自分の身に起きたことのように胸を切り裂く痛みが走った。
 
今、日常に溢れている「死」が、まるで他人事のようになっている。
「自分の身に起きたことのように」
この感覚が、いのち感覚が失われている。

「死」が見えなくなっているのではない
「いのち」が見えなくなっている

| | コメント (2)

2007年10月28日 (日)

時事ネタより感話(結)

昨日一昨日と、最近の事柄を挙げてみました。
今バッシングを受けている方々は、それも仕方のないことです。しかし、そうなる原因の一部は私にもあるわけです。総評論家時代とも言われますが、自分のことを抜きに他を批評・批判・非難することの無責任さ・恐さを知るべきだと思います。
他人には厳しく、自分には甘いですね。

| | コメント (0)

2007年10月27日 (土)

時事ネタより感話(2)

ミートホープ
不二家
石屋製菓「白い恋人」
赤福「赤福餅」
 エトセトラ エトセトラ
 
食品会社の偽装が明るみになっています。製造日や消費期限・賞味期限の偽装・改ざん、食品の偽装。手口も巧妙・悪質であり、許されるものではありません。が、そうせざるをえなかった背景には、厳しく、細かすぎる決まりごとや、消費者の無責任な重圧があるのではないでしょうか。
 
食品に関して、なにか問題が起こると消費者は「信頼しているんだから、キチンとしてもらわないと困る」というような言い方をする。さて、日ごろ会社や商品に対して「信頼しています。ありがとう」という気持ちを持っているのでしょうか。都合がいいときだけ信頼を口にしている気持ち悪さを感じます。
 
「なにを食べさせられているか分からない」と憤慨する消費者もいますが、お菓子・飲料etc、どうしてあんなに日持ちするのでしょう。よほど防腐剤が入っているからだと想像できませんか?
そう、たとえ偽装・改ざんをしていなくても、なにを食べさせられているのか、分からないのです。
 
最近は、詰め合わせのお菓子の一個一個にまで消費期限が明記してあります。消費期限をすぎたところで、食べても問題はないのに、期限をすぎるとあっさりと捨ててしまう人も多いそうです。コンビニの売れ残りのお弁当も、日々たくさん処分されています。
 
「食べ物を粗末にしてはいけない」
小さい頃から言われ続けてきたセリフです。しかし、食べ物を粗末にし尽くしている現代日本。食を軽率にする生活は、生を軽率にすることにつながると感じています。そう思いませんか?

| | コメント (2)

2007年10月26日 (金)

時事ネタより感話(1)

横綱 朝青龍関(1980年9月27日生 27歳)
女優  沢尻エリカ様(1986年4月8日生 21歳)
ボクサー 亀田大毅選手(1989年1月6日生 18歳)
 
現在マスコミでバッシングを受けている方々。みんなチヤホヤされていました。というより、周りがチヤホヤしていました。そんな状況に身を置いていたら、誰だって勘違いするものです。私が、彼らと同じような境遇に身を置いたらどうしていることでしょう? …という想像の一助になればと思い、生年月日・年齢を付してみました。
 
チヤホヤするのもいいでしょう。しかし、ある人を応援すると決めたのなら、たとえ何があっても応援し続けるということが、本当に応援するということではないでしょうか。ことがあった後の、マスコミの、世間の、掌の返し方には、恐ろしいものを感じました。
 
私自身はどうでしょう?
信じた、愛した、尊敬した相手に対して、たとえその人が何をしようとも、信じ続け、愛し続け、尊敬し続けられるでしょうか。そう考えると、なかなか難しいものです。そのようなことを想うとき、衆生を信じて、救うと誓われた阿弥陀如来の有り難さを感じます。信・愛・敬とは衆生の仕事ではなく、如来の仕事なんだなぁと感じます。

| | コメント (0)

2007年10月23日 (火)

夢現(ゆめうつつ)

午前中に外出先で用を済ませ、少しのんびりの昼過ぎ。
晴れた秋空の下、渋谷にポツンとひとり。
そういえば新宿にも用があったっけ。
普通なら山手線で渋谷から新宿に行くけれど、バスに乗ってみようかなとふと思う。
渋谷のバスターミナル。山手線や埼京線で新宿に行けるのに、果たしてバスの路線があるのだろうか(そんなことも知らずに、バスに乗ろうとしていた私)。
路線図の看板の前に立ち、ジーっと眺める。
あった。渋谷から新宿西口に向かうバスを発見。
さっそく乗り場へ。バスも停まってる。
さっそく乗ってみる。なぜかワクワク。
  
あたたかい秋の陽ざしを浴びながら、バスは出発。
ボーッと外を眺める。
あぁ、この道で行くのかぁ。
へぇ、この道を通るんだぁ。
こころのなかでつぶやく。
まだまだ知らない道ってあるんだなぁ(知らない道の方が圧倒的に多いのだけれど)。
知ってる道でも、自分で運転していたのでは、気づかない風景がたくさんある。
  
何分くらいかかっただろうか。
電車より時間はかかるけれど、遠回りだけれど、そのちょっとの遠回りが、こころの凸凹をならしてくれる。
 
あと一駅か二駅で終点の新宿西口。
ボタンを押して、わざとちょっと手前のバス停で降りてみる。
普段より歩くスピードを落としてみる。
秋の陽ざしが心地よい。
 
最近ちょっと忙しかった(忙しいフリをしていただけ?)から、こころが少しのんびりした。
なにが忙しいんだろう。
なにを急いでいるんだろう。
 
のんびりついでに、西口のスタバでコーヒーを飲む。
ほっと一息。
 
新宿で用を済ませ、帰路へ。 
乗客もまばらな京王線に乗る。車窓から差し込む陽ざしが心地よい。
うつらうつら
ふっと気づくと、まもなく千歳烏山駅。
あぁよかったと電車を降り、歩き始める。
 
「ゆっくり行こう」
スローな時間を過ごし、ここ最近の自分を見つめる。そういう時間をいただいたんだなぁと思う。
   
  ~~☆
 
なんて思ったのも束の間。
電話だ、メールだ、書類整理だ、片付けだ、法話の準備だ、寺報の準備だ、報恩講の準備だ、その他諸々。あっという間に外は真っ暗。
 
夢のようなひと時から、あっという間に現実に戻る。
同じ1時間、同じ1分、同じ1秒なのに、自分が感じる時間の感覚はまるで違う。だけど、時の経つスピードは変わらない。不思議不思議。

| | コメント (4)

2007年10月18日 (木)

止揚?

きれいにしても、汚す人がいる
汚しても、きれいにする人がいる
  
つくっても、壊す人がいる
壊しても、つくる人がいる
 
たすけても、傷つける人がいる
傷つけても、たすける人がいる
     
  
 きれいにする   
 つくる
 たすける 
 
それだけでいいのに、
   
 汚す
 壊す
 傷つける
  
なぜだろう?
  
でも、
 
 汚す
 壊す
 傷つける
 
がなければ、
 
 きれいにする   
 つくる
 たすける 
 
ということも必要なくなってしまう
  
全部私の中のこと 

 

| | コメント (0)

2007年10月11日 (木)

笑顔

親鸞聖人が大切にされたお経『大無量寿経』。これこそ真実の経であると、聖人は言われます。
それはなぜでしょうか。
  
『大無量寿経』には、これから教えを説こうとする釈尊のお姿が描写されています。
釈尊の姿は喜びに満ち溢れていました。
釈尊随従の弟子の阿難さんが、いつもと違う釈尊にお姿に驚き、問われます。
「お釈迦さま、今日はどうなさったのですか?」
いつもと違うことに弟子の阿難さんが気づいたことを、お釈迦さまはとてもうれしく感じました。
「阿難よ、よく気づいて問うてくれた」
と、阿難さんを褒め、釈尊は教えを説かれました。 釈尊のお顔は「光顔巍巍(こう・げん・ぎ・ぎ)」と清らかに光り輝いていました。

この釈尊と阿難さんの会話を以て、親鸞聖人は『大無量寿経』こそ真実の経であるといただかれました。
非論理的な理由に思われるかもしれませんが、親鸞聖人にとっては、これ以上ない明確な理由です。
 
前回の文章で、 「笑顔の背景には、どんなにつらいことがあったことでしょう」ということを書きました。
「笑顔」とお釈迦さまの「光顔巍巍」としたお姿を一緒にするのも極端な話かもしれませんが、
でも、
その背景にはどれほどの苦悩があったことでしょう。
その笑顔に、光顔巍巍としたお姿に出会ったならば、きっと私たちも笑顔で人生を送れるのだと思います。
 
人生、
自分の思い通りになったら、
幸せになったら、
便利になったら、
笑顔が満ち溢れるのかと思ったら、無表情になりました。
 
人生、
自分の思う通りにならないってところに腰を落着かせたら、
今が幸せなんだなと気づけたら、
不便でも生きるのになにも困らないなぁって思えたら、
困った顔になるのかと思ったら、笑顔になりました。
 
今以上なにも望む必要もない。満ち足りているのだから。

| | コメント (2)

2007年9月30日 (日)

のどもと過ぎれば

今日、東京は朝から雨でした。
一日中降り続いていました。
気温も低く、とても寒かったです。
長袖のシャツを着てました。
 
あんなに暑がっていたのに、
体力を消耗するほど暑かったのに、
イライラするほど暑かったときもあるのに、
「暑い」という字を、わざと「熱い」と書くほど暑かったのに、
 
今日は寒いねってふるえてる。
寒いのは嫌だなってつぶやいてる。
あの暑さが懐かしいって思い出してる。
 
あぁ、勝手な私
 
この寒さはとりあえずこの2,3日のことで
また暑さが戻ってくるらしい。

そしたら言うんだろうな
「暑い!!」って。

| | コメント (0)

2007年9月12日 (水)

う・つ・く・し・い・く・に

に・く・い・し・く・つ・う
    
     だったのかなぁ

| | コメント (2)

2007年9月11日 (火)

9.11

お内仏(お仏壇)で、阿弥陀さんに向かって、仰ぎ見て、手を合わせて、目をつむって、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とお念仏。
 
9.11だからってわけではないけれど、自然と体がそのように動きました。
お内仏、ございますか? 
お内仏は一家に一台あるべきものです。
そんな話をしていたら、お他宗の方が仰いました。
「お仏壇は、長男の家にあるから、うちにはありません。だって、兄弟みんながお仏壇を持っていたら、仏さんがどこに行けばいいのか迷ってしまうでしょ」
 
あぁ、そういう考え方なのか。
私は、お仏壇は一家に一台って、仏教諸宗、みんな勧めているものだと思ったのでビックリしました。
迷う…さて、誰が迷っているのでしょう?
  
あるおばあさんが仰いました。
「子どもが家を新築したので見に行きました。そしたら、仏間がないんです。当然お仏壇もありません。私は、息子に言いました。『お内仏がなくて、子育てが出来るか!!』って」
お内仏に手を合わせる親の姿を見て、子は育つ。「こうするんだよ」なんて、わざわざ言わなくても、子どもは親の姿から学ぶ。学び学ばれ、継承されていく。それが伝統。
 
お内仏は、亡き人の落ち着き場所ではありません。
なにもないところに手を合わせづらいものです。お内仏があるおかげで、手も合わさる。愚痴をこぼしたっていい。迷っている私に気づかせてもらうところ。私の生き方を見つめさせていただくよりどころ。
 
9.11のテロからもう6年。
この6年間、何をしてきただろう。何を見てきただろう。
何もしてないのかもしれない。何も見えてないのだから。

| | コメント (2)

2007年9月 9日 (日)

無慙愧は名づけて人とせず

路上でなにかしらのいざこざで口論となり、カッとなって相手を刺してしまう。自分が持っていたナイフで。
そんな事件をたまに耳にしますよね。
 
さて、なんでナイフなんか持ち歩いているのでしょうか?

「世の中物騒だから、護身用です」

…護身用じゃないじゃん
 
はじめは護身用のつもりだったのかもしれない。でも、カッとなって刺してしまう。もはや護身用ではありません。
持っていると使いたくなる、使ってしまうのがヒトというのもです。
 
核も同じこと。
 
なんで核なんか保有してるの?
 
「世界が不安定だから、抑止のためです」
 
…ぜったい抑止じゃすまないな
 
ナイフの場合は、もし誰かを刺してしまったら、その感触は自分の手に残る。こころに残る。いつかきっと後悔や懺悔の気持ちが起こるに違いない(だといいけど)。
核の場合は、誰かさんがボタンをポチっと押すだけ。自分があらゆる生き物を殺めてしまったという気持ちも芽生えないことでしょう。ということは、後悔や懺悔の気持ちだって感じない。
もはや、人ではありません。
 

| | コメント (0)

2007年9月 4日 (火)

広く 深く

世界陸上、見るとはなしに、けっこう見てました。
気になった、マスコミの報道の見出し。

男子4×100メートルリレー
「日本男子、日本記録更新したけれど5位。メダル逃す」
というような見出しが目についたけれど、
「メダル逃がすも、予選・決勝と日本記録更新」
という見方もできる。
 
女子マラソン
「土佐、日本初のメダルも銅メダル」
というような見出しが目についたけれど、
「銅メダル獲得!! 土佐礼子」
って素直に喜びたい。
 
「日本勢不調。北京オリンピックに向け課題山積」
という言い方をする人もいるけれど、
「世界相手に戦えるようになってきた日本勢」
という見方もできる。
 
そもそも、超一流が集まる大会で、メダルがホイホイ取れるわけがない。それなのに、大会前からメダルの皮算用をして、メダルが取れなかったらどんな記録も価値がないように言い放つ。
どのような見方をするか。その見方しだいで、腹立たしくもなるし、楽しくもなる。
 
日常だって同じこと。
交通機関、ちょっと時間が遅れれば、「なにやってんだ」。
ここからあそこまで、自分の行きたいところに運んでくれる。それだけで有り難いことなのに。
 
ご飯食べに行って、頼んだものが出てくるのがちょっと遅いと、「遅いじゃないか」。
お店は混んでませんか? お店の人、忙しくしてませんか? 自分のことだけ考えずに、場の雰囲気も感じようよ。自分が食べたいものを作ってくれる。それって贅沢なことだと思う。
 
子どもの成績の見方もそう。
点数だけで子どもを見てないだろうか。いや、子どもを見ているつもりが、点数をみていないだろうか。あなたの子どもは数字ですか?
 
物事どこから見るか。どんな見方をするか。
見方を変えるだけで、見えるものはまったくまったく違ってくる。
狭く生きていませんか? 世の中もっと広いです。
限られた時間を生きる人生。同じ時間を生きるなら、広く、深く生きたい。

| | コメント (2)

2007年8月31日 (金)

見えていない苦悩

苦悩がなくなることが救いなのだろうか?

今、これだけ苦しんでる。
今、これだけ悩んでいる。

自分で認識できることが、救いかもしれない。
だって、自分で認識していない苦悩がいっぱいあるのだから。
自分で作り出しておきながら、それに気づかずに暮らしているのだから。
  
「私は差別をしません」という差別意識。
「戦争はいけない」と言いつつ、人を憎む日常。
「平和(と思われている今)」になって責める過去。
「私はこんなに苦しんでいるのに」というあなたのことを、心配してくれる人がいることに気づかない哀しさ。

知らないうちに他人(ひと)を傷つけている事実
それは、私自身をも傷つける 
 
見えていないことの多さ 
見ようとしない罪
知らなければそれで許されることなのか。仕方ないことなのか。
 
苦悩は、認識できないところにこそある。
 

  
特に何かあったわけではないのですが、苦悩に始まり苦悩に終わる8月でした。

| | コメント (0)

2007年8月25日 (土)

うれしい出来事

門前を掃除していたら、3人の方に声をかけられました。
 
①お他宗の方なのですが、いつもそちらの冊子をくださるご婦人。
「いつもごくろうさまです」
と、声をかけていただき、今日も冊子をいただきました。
さっそく読ませていただきました。
ありがとうございます。
 
②いつも元気に挨拶してくださるおじさん。
「おはようございます。はい、これ」
と、いつもと同じ元気な声で挨拶をされ、手渡されたのはミネラルウォーター。
「暑いから気をつけてね」
そう言うと、颯爽と行ってしまわれました。
掃除中、飲ませていただきました。おかげさまで熱中症にならずにすみました