つぶやき

2020年7月 2日 (木)

人間は、慣れると、危機を忘れる

6月30日に「2020年も折り返しですね」

7月1日に「2020年も後半に入りました」

なんて書きましたが、今年は閏年(うるうどし)。

2月29日がある分、7月2日からが後半だそうです。

まぁ、ことの厳密性はおいとして、2020年もすでに折り返しています。

例年なら「もう折り返しか、早いねぇ」なんて会話をするところですが、

今年は「早くコロナが収束しないかなぁ」と、頭のなかはコロナが占めています。

お昼過ぎ、東京都のコロナ感染者が100人を超えたと、ニュース速報が流れました。

ちょうどテレビに出ていたお医者さんも、5月2日以来の100人越えに驚いていました。

「私の感覚ですと9月に入ってから、早くても8月の終わりころに100人を越えると思っていました」

って、いづれにしても100人を越える日はまた来るという確信はあったのですね。

人の動きが大きくなると感染者も増える。

そのことは肝に銘じておかなければいけません。

「東京アラート」は、その意味があるのか?などと批判を受けて、結果廃止されました。

けれど、「警報」というか、「危機意識の喚起」という意味では「東京アラート」の発動に意味はあると思うのですが。

6月2日、新型コロナウイルス感染者 34人 東京アラート発動

7月2日、新型コロナウイルス感染者 107人 東京アラート発動せず

慣れは、怖い(慣れたわけではないけれど)。

2020年6月30日 (火)

1年の折り返し 我が身を振り返る

2020年6月30日(火)

いろいろありますが、2020年も折り返しですね。

いつもありがとうございます。

今日のブログを書くつもりでパソコンに向かったら、ニュースが2つ入ってきました!!

①昨日ご紹介した門首退任及び門首就任の儀式ですが、中止となりました。

宗務所(東本願寺の事務所)職員1名、新型コロナウイルスの感染が確認されたため。

詳しくは、真宗本廟(東本願寺)のサイトをご確認ください。当然、中継もありません。

尚、罹患された職員は、参拝者に接する業務はしていませんでした。

過日、真宗本廟をお参りされた皆様もご安心ください。

真宗本廟(東本願寺)の参拝は、いつも通り行えます。

「真宗大谷派の人権担当部署でパワハラ 職員けん責処分」(京都新聞)

朝から②の情報が入ってきました。直接確認はしていませんが、宗派からのコメント「人権尊重を推進すべき解放運動推進本部において、このような事案が発生したことは誠に遺憾であり、大変重く受け止めている」が載っているので、事実のようです。

自分の内面を見つめ、自分事とすることの難しさを思います。

事実は事実として、両方の情報を投稿させていただきました。

宗務所内、バタバタですね。

昨日の話。「門首交代の儀式に行きたいなぁ」という雰囲気を(ダメもとで)漂わせていたら、妻が「行きたい?」というので、「!え、いいの!?」という会話をしていました。

結局、今日も明日も仕事が入っているので京都行きは断念しましたが、行ってたらより残念なことになっていました💦

 ☆ ☆ ☆

(2020年7月1日 追記)

大谷暢顯前門及び大谷暢裕門首の挨拶文

2020年6月28日 (日)

縁で結ばれていることを抜きにして生命観を考えると、核心を見失う

「東京新聞」2020年6月28日(日)朝刊 「時代を読む」より

営みを守り合う生命観  内山節(哲学者)

 数年前に「合成の誤謬(ごびゅう)」という言葉が流行ったことがあった。元々は経済学用語で、一人一人の判断としては間違っていなくても、全員が同じ行動をとると誤りになる、というような意味である。たとえば将来が不安だからと、節約と貯蓄に励むことにしよう。

 一人の判断としては間違っていない。ところが全員がそうするとどうなるのか。物もサービスも売れなくなって経済は不況に陥り、そのことによって収入の減少する人が続出すると、社会全体としては総貯蓄額も増えない、という現象が生まれてしまう。

 企業活動でも同じことだ。利益をふやすために低賃金で雇える人をふやすのは、一企業の経営としては合理性があるのかもしれないが、すべての企業が同じことをすれば、格差社会が広がるだけでなく市場も縮小し、最終的には各企業の経営も苦しくなる。

 新型コロナウイルスとともに暮らした、この数カ月の間に発生した現実も同じようなことだった。感染を防ごうと家に閉じこもり、自粛を重ねるのは、一人一人の判断としては間違っているとはいえない。だが全員がそれを実行すれば、私たちの社会が維持できなくなっていく。

 なぜこのようなことが起こるのかといえば、「合成の誤謬」という考え方には、ひとつの欠陥がふくまれているからである。それは人間や企業などを、社会的結びつきのなかにある存在としてとらえていないことにある。つまり、独立した単体としてみている。独立した単体としては都合のいい行動が、社会全体としては不都合な行動になるという考え方が、「合成の誤謬」という論理にはある。

 だが、本当は、個人も企業も単体では存在していない。さまざまな社会的結びつきのなかで、自らを維持している。とすれば、自然をふくめた社会の維持が、自分をふくむすべての活動の生命的基盤だということになる。

誤解を恐れずに述べてしまえば、現在よく語られている感染症防止か経済かという議論は、現実に問われている問題の核心を突いていない。大事なことは直接、間接に結ばれている社会の維持であり、感染防止も経済も核心的な目的ではないのである。もちろん爆発的な感染は防がなければいけない。なぜならそれが起きてしまえば、医療崩壊が起きるなどして、私たちの社会維持が困難になってしまうからである。経済活動も同じことで、経済を目的化してしまうと、インバウンド経済への未練から、感染初期に国境封鎖ができず、政府が対応を誤ったように、これからも失敗がくりかえされるだろうさ。私たちの目的は社会維持であり、経済はそのための道具にすぎない。社会を維持するには、いろいろなことに配慮しながらも、人々の営みを守り合うことが必要だ。それは結果的には経済活動に繋がって(つながって)いくとしても、目的は維持の方にある。

 社会を維持するとは、直接的、間接的に結び合っているつながりを維持するということである。なぜそれが必要かといえば、人間もまたこのつながりのなかで、生命をたえず再生産しているからである。

 コロナウイルスは、生命を独立したものとしてのみとらえる現代の生命観に、変更を迫っているのだろう。独立した生命の基盤には結ぶ合う世界があるという生命観に、いま私たちは立ち返ってみる必要があるのかもしれない。

 

一人一人の判断は間違っていなくても、みんながみんな 同じことを行えば、崩壊が生じる。

なぜならば、人間は、企業は、自然は、それら内部のひとつひとつが単体で生きているわけではないから。

直接的 間接的含めて、みんなつながっているから。

決して間違っているわけでも、誰かを貶めようとしているわけでも、法を犯しているわけでもないけれど、

もしかしたら、それだからこそ、

みんながみんな同じ方向に走り出して、道が陥没したり、狭い空間に詰まってしまったり、空気が薄くなったり・・・そんなことが起きているのかもしれない。

コロナウイルスに罹患した人への差別、黒人差別、難民差別、民族差別、現代(いま)、差別が横行している。

(いまに始まったことではないけれど)

自分の身分や地位や優位性を守るために、他の誰かを貶めるのだけれど、

つながりあって生きているいのちを貶めるということは、自分自身を貶めていることでもある。

差別は、他者(ひと)を傷つけるだけでなく、実は自分自身の尊厳をも傷つけている。

そのことに気づかないで、自身の優位性を保とうとする矛盾。

 ☆

「現在よく語られている感染防止か経済かという議論は、現実に問われている問題の核心を突いていない」

今日、内山先生の文章を紹介させていただいたのは、この一文に感銘を受けたから。

専門の知識を持った人が、けっこうな人数集まり、時間をかけて話し合っている。

現代(いま)は、二者択一的な議論をしがちだ。

そもそも正解などないなかで、100点満点を目指そうとして0点を取ってしまうようなものだ。

感染防止も経済も大事だ。医療崩壊は避けなければならないし、経済も回さなければならない。

けれど、感染防止、あるいは経済を「目的」にしてしまうから、「どちらを選ぶか?」という議論に終始してしまう。

内山先生は「社会の維持」と表現されている。

「社会の維持」も、目的化してしまうと、水掛け論にひたってしまう。

これからのための「社会の維持」ではなく、

今、私がいるのは「社会の維持」が為されてきたからである。という、これまでの視点を忘れてはならない。

「さまざまな社会的結びつきのなかで、自らを維持している。とすれば、自然をふくめた社会の維持が、自分をふくむすべての活動の生命的基盤だということになる」

この文章も、そうだなぁとうなづいた。

こういう感覚の欠如が、差別へと結びついてしまうのだと思う。

 ☆

営みを守り合う生命観

守り合いながら営みを続けてきたことを忘れずに

南無阿弥陀仏

2020年6月27日 (土)

嫉妬心や、他を羨む(うらやむ)気持ちは、私が私を認めていないところから生じる

常々面白いなぁと思っている表現・・・

「〇〇さんは、最高の人物の一人です」

「〇〇さんは、第一人者の一人です」

「〇〇さんは、最も優れた人の一人です」

という表現。

最高なら、第一人者なら、最も優れているのなら、一人に決まってるのではないだろうか。

でも、複数人いるんだなぁ(^▽^)

言葉のあや なんだろうけど、表現としておもしろいなと思っていました。

でも、あぁ、決して間違った表現ではないんだなぁと、ふと思いました。

たとえば、同じ研究をしている人でも、別々の優れた成果をあげることがあります。

どちらが優れているかを比べる必要もない。

たとえば、同じスポーツで鍛錬し続けている人でも、優勝して讃えられる人もいれば、優勝はできなかったけれど素晴らしい技術を魅せて賞賛される人もいる。

両方とも、私たちに感動する何かを与えてくれました。

たとえば、書道や華道など、未知を極めようとしている人がいて、基本に忠実な美しさを表現する人もいれば、新しい発想で人びとを魅了する人もいる。

感嘆の声は、いくつ挙がってもいい。

そんなことを思ったら、

最高の人、第一人者、優れた人が何人いても不思議ではない。

いや、たくさんいた方が、私たちの感覚が豊かになる。

本当に最高の一人が選出される世の中なら、それはとても気持ちの悪いことだ。

世間は〇〇さんを支持しても、世の中でたった一人、私だけが△△さんに素晴らしさを感じるならば、△△さんもまた最高の人。

「最高の人物のひとり」

「第一人者のひとり」

「最も優れた人のひとり」

って、実はとても豊かな発想なのだと思いました。

けれど、〇〇さんの方の立場に立つような わたしであったとき、

「私こそ、他を寄せ付けない最高の人物だ」と思うようならば、自分の周りにいる人の優れた点・努力する姿・自分には気づき得ぬ点を見落としてしまうだろう。

他者から教えてもらう、感じさせられる、気づかされることって、たくさんある。

いや、そんなことばっかりだろう。

そんなこととの出会いがあるから、わたしは、頑張れたり、発見したり、新しい道を見つけ出すことができる。

他者を見ると、最高の人のひとりが、いっぱいいる。

自分を見るときも、周りにいる ひとり ひとり のなかの わたし であることを見失わずに。

嫉妬する必要もない、羨む必要もない。誰よりもまず、私が私を褒めてあげればいい。

2020年6月25日 (木)

人と出会って生きるということ

【天上天下 唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)】

 天にも地にも、ただ私はひとりにして尊し。

【身自當之 無有代者(しんじとうし むうたいしゃ)】

 私はこの身を生きています。私のいのちと代わる者は、誰もいません。

【独生 独死 独去 独来(どくしょう どくし どっこ どくらい)】

 人は、生まれるときも独り(ひとり)
 人は、死ぬときも独り。

 ひとり生まれ、ひとり死に往く。

 ☆

上記3つとも、お釈迦さまのことば。

わたしは、ただ一人のわたし。誰も代わる者はいない。尊いいのちを生きている。尊いいのちを尽くして生きる。

お釈迦さまのことばをいただき、「ひとり」という身の尊さを教わる。

けれど、その「ひとり」とは、「ひとりだけ」ということではない。

わたしは、ただ一人のわたし。誰も代わる者はいない。この人も、あの人も、その人も、みんな誰も代わる者のいないいのちを生きている。生まれ、生き、生きているなかで多くの人に出会い、そして死に往く。その出会いがなかったならば、誰も代わる者のいないいのちだなどと知ることもない。ひとり生まれ、ひとり死ぬなんてことも考えもしないだろう。わたし以外の誰かがいるから、わたしを知ることができる。わたし以外の誰かも、わたしがいるから、私を知ることができる。

ひとりだから尊いのではなくて、同じひとりだから尊い。

ひとりだと何も知り得ないけれど、同じひとりがたくさんいるから、ひとりを知り得る。

生きているということは、他のひとりと交わりながら生きているということ。

楽しいこと、嬉しいこともある

面倒くさいこと、悲しいこともある

それが、ひとり ひとり と交わるということ

この人も あの人も その人も 私との交わりを通して、わたしを感じているかもしれない

お釈迦さまは、ひとりを説きながらひとりだけを説いたのではなく、ひとりを説きながら生きとし生けるもののことを説いたんだなぁ

今日のお朝事中、そんなことを ふと想う

どんなに謝ったって、どうしようもないけれど、

ごめん ありがとう

「ごめん」と「ありがとう」って、みんなが「ひとり」を生きているからこそ出てくることばなのだと知った

南無阿弥陀仏

2020年6月24日 (水)

肝苦りさ

6月23日は「沖縄慰霊の日」

戦争の事実を風化させてはいけない。

けれど、どんなに戦争の話を、沖縄の方々の苦しみを聞いても、その場に現実に身を置いていた人ほどの痛み苦しみを感じることはできない。

戦後75年、第二次世界大戦の記憶が薄れていくなか、それでも、戦争の悲惨さを伝えていかなければならない、戦争を起こしてはならないと声を挙げてくださっている方々がいる。

同じ痛み 苦しみを感じることはできないけれど、戦争があった事実、戦争で苦しめられた事実、戦争で人が人でなくなった事実がある。

そのことに想いを馳せることはできる。

沖縄の言葉「肝苦りさ(ちむぐりさ)」を知った。

「かわいそう」という意味だが、「かわいそう」とは全然違う。

「かわいそう」と言うとき、言う方と言われる方の間に距離がある。壁が出来るときもある。

(「かわいそう」と言うとき、距離や壁を作っているつもりはないけれど)

「肝苦りさ」は、他者の苦しみ痛みであるにもかかわらず、我がことのように苦しいこと。

…内臓が、五臓六腑が…この私自身がしいということ。

肝臓にダメージを受けたときの苦しみは、想像を絶する。

他者の悲しみを我がこととして受け止めることを「肝苦りさ」というと教えられた。

新型コロナウイルスが収束したわけでもないのに、都道府県を超えての移動ができるようになった。

出張も増えた。 旅行者も増えた。

移動したい、旅行したい、押さえつけられていた苦しみもまた分かる。

けれど、旅行で訪れる場所の歴史や、そこに住む人々の身に起きたことを、学んでから 知ってから その場に足を運ぶということも大切なことではないだろうか。

訪れる場所に対する敬いの気持ちを持つならば、戦争の歴史が風化することもない。

移動できない苦しみ、抑圧された苦しさを味わったのだから、移動できること、訪れる先があるということの意味を考えたい。

そういうことも、新しい生活様式ではないだろうか。

南無阿弥陀仏

2020年6月23日 (火)

クスリのリスク

私は、普段目薬を差す人ではないのですが、

新型コロナウイルス予防のためとか、目がショボショボしてきたとか、スッキリするかなとか、

いろいろ思って、珍しく目薬を買いました。

ドラックストアに、ものすごい種類の目薬があって ビックリしました。

普段目薬を差す人ではないので、とても迷いました。

で、なんとなく「これでいいかな」と思うものを買ってきました。

帰宅して、買ってきた目薬を差したら・・・

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

じゃないけど、ものすごい刺激でした。

痛みで目が開きませんでした。

洗面所に行き、目をジャブジャブ洗いました。

それでも刺激と異物感が残りました。

刺激のないものを選んだつもりが、刺激を謳っている目薬でした。

妻に話したら、「説明書きをちゃんと読まないから! だから〇型は!(自主規制)」と言われました。

(「ちゃんと見たつもりだけどなぁ💦」)←こころのつぶやき

一週間経ち、ようやく普段の状態に戻った気がします。

薬は、自分に合わないと怖いですね。

薬は、自分に合わないと怖いですね。

薬は、自分に合わないと怖いですね。(3回繰り返したことに意味はありませんが)

皆様もお気を付けください👋

今日は、こんな話で申し訳ありません (-人-)

2020年6月22日 (月)

君たちがいて、僕がいる

「法話も、聞く人がいてこその法話。

聞く人がいなければ、お釈迦さまがどんなに素晴らしいお話を説かれても、現代(いま)に教えが伝わっていない。」

と、昨日の投稿。

昨日は、父の日。

夕飯にピザを頼んで(持ち帰りは半額♪)、みんなで食事。

子どもたちが「美味しい」😋😋と言いながらピザを食べている。

あぁ、この子たちがいるから、私が“父”として生きているんだなぁ。

この子たちが、私を“父”にしてくれているんだなぁと、あらためて感じる。

説く人だけでは説法ではない。

私だけでは父ではない。

それは、たとえいのち終えても、父と子、母と子、父と母、夫婦・・・関係は変わらない。

思えば、父とか母とか、兄弟姉妹とか、関係が結ばれているから出てくる固有名詞。

夕食時、住職(私にとっての父)が私の前に座っている。

坊守(私にとっての母)が私の左側に座っている。娘たちからすれば、ジィジとバァバ。

食事をしながら、昔話になる。

西蓮寺は、今でこそ家族みんなで寺を護り、門徒さんみんなが支えてくださっている。

けれど、暗黒の時代があった。

住職と坊守は、まさにいのちがけで西蓮寺を護ってきた。門徒さんたちの先祖を護ってきた。

住職と坊守でなかったら、西蓮寺はつぶれていただろう。

孫と一緒に食事をして、坊守はホッとしてつぶやく。「今はとても幸せだわ」

ピザを食べ終えてテレビを見ている娘たちに、

「ちょっとおいで~。ジィジとバァバにハグして‼」と促す。

「ジィジ~」「バァバ~」と、ハグし合うジィジと孫、バァバと孫。

孫がいて、ジィジがジィジに バァバがバァバとして生きている。

私は私だけでは、私にすらなりえない。

でも、誰かがいてくれるから、私が私として生きている。 

ふと、父の日に感じた。

みんな、ありがとう♡の日だ

2020年6月20日 (土)

起悪造罪 一生造悪の私

昨日は「五濁」の話をしました。

お朝事で『正信偈』を読んでいて「五濁悪時群生海」のところで、「五濁」について考えました。

すると、繰り読みの和讃が「道綽和讃」で、次のように出てきました。

「末法五濁の衆生は/聖道の修行せしむとも/ひとりも証をえじとこそ/教主世尊はときたまえ」

末法の時代を迎えた時、そこに生きる衆生は、自力修行によって悟りを得ようと努めても、誰一人として悟りを得る者がいないだろうと、仏教を説かれた釈尊は仰っています。

修行しても無駄だと仰っているのではありません。今は末法五濁の時代であるという自覚こそ大切なのだと説かれています。

濁世の起悪造罪は/暴風駛雨にことならず/諸仏これらをあわれみて/すすめて浄土に帰せしめり」

五濁悪世において、悪心を起こし罪を造ることは、暴風や激しい雨が急に沸き起こるのと同じように、とどめようのないことです。十方の諸仏は、このような衆生を憐(あわ)れんで、阿弥陀如来の本願力を頼りとするとうにと、おすすめになられたのです。

「縦令一生造悪の/衆生引接のためにとて/称我名字と願じつつ/若不生者とちかいたり」

縦令(たとい)一生を造悪に費やす衆生であっても、阿弥陀如来は衆生を浄土に引接する(導く)ため、我が名を称えよ(南無阿弥陀仏と念仏申せ)と願を起こし、若し阿弥陀浄土への往生が叶わないことがあれば、この私自身も仏とはならないと誓われました。

道綽和讃ではありませんが、
五濁悪世の衆生の/選択本願信ずれば/不可称不可説不可思議の/功徳は行者の身にみてり」で締めます。

五濁悪世を生きる衆生が、阿弥陀如来から賜る本願を信じて念仏を申したならば、人間の知恵では称(たた)えがたく説明しがたく思議しがたい功徳を、この私の身にいただくのです。

6首読むうちの4首を書きました。

「五濁」とは、自分の外に見るものではない。

悪心を起こし、罪を造っているのは・・・この私自身。

そんな私の姿を暴風駛雨と表わされています。昨日は一日強い雨が降っていましたが、あの尽きることなく強く降っていた雨は私自身でした。

けれど、縦令(たとい)強い雨が降り続けていようとも、太陽は、あの真っ黒い雲の向こう側でこの私を照らし続けています。

どんなに強く、長い時間雨が降っていようとも、太陽そのものがなくなっているわけではありません。

太陽はあり続けます。太陽は私を照らし続けます。黒雲という壁を作っているのは、私の方なのかもしれません。

そのような私を、倦(あ)くことなく(諦めることなく)、阿弥陀如来の大悲は照らし続けています。

「五濁」とはなにか? 「五濁」とはこの私自身だった! そう気付いたとき、阿弥陀の大悲も感じる。

毎朝毎夕お勤めし続けていても、その時々の想いによって、新しい気づきや感じることがある。

五濁の世、私に出来ることは、法に触れ続けることだけしかない。

南無阿弥陀仏

2020年6月19日 (金)

何を守りたい 誰を守りたいのか

小中学校の登校が始まって、子どもたちが学校に通い始めました。

はじめは分散登校の学校も多く、クラスの半数ずつが登校して、密にならないように工夫されています。

けれど、そろそろ分散登校での様子見も終わり、全生徒が従来通り学びの場に集まるようになってきました。

他の人と実際に会いながら、会話をしたり、授業を受けたり、登下校したり、大切な時間が戻ってきました。

「三密を避けるように」など、大人目線で決めたルールは、子どもたちに押し付けられるものではありません。

もちろん、新型コロナウイルスに感染しないために気を遣うことは、子どもたち自身もしなければなりません。

けれど、密を避けて! 他の子と2メートル距離をとって! 〇〇をさわらないで! 〇〇を触ったときはその都度手を洗って! 等々、子どもたちにそこまで強要できるでしょうか。果たして大人もそれほど気を遣っているでしょうか。

どうも、新型コロナウイルスに罹患することが悪いことであるかのような思いが植え付けられているような気がします。

罹患は悪ですか?

病気に罹ることに対する恐怖以上に、罹患した時の周りの目に対する恐怖心が勝っているのではないでしょうか。

岩手在住の友人も、「県内初の感染者になったら、何を言われるかわからない」と、そのことを恐れていました。

疫病の流行る時代は、人類史上 度々起こっています。

親鸞聖人の頃も、蓮如上人の頃もありました。

お朝事で「正信偈」を読んでいて・・・

「五濁悪時群生海」と、「五濁(ごじょく)」という言葉が出てきます。

「五濁」とは、「世の濁り」のことを言います。

「劫濁(こうじょく)」「見濁(けんじょく)」「煩悩濁(ぼんのうじょく)」「衆生濁(しゅじょうじょく)」「命濁(みょうじょく)」の五つです。

「劫濁」は「時代の濁り」…疫病・飢饉・戦争・動乱など、世の乱れです。

「見濁」は「ものの見方や考え方が濁っている」ということ。濁ったものの見方・考え方が世にはびこっていることです。

「煩悩濁」は「煩悩による濁り」。貪り(むさぼり)や憎悪の感情がむき出しになる状態です。

「衆生濁」は「衆生(人びと)の濁り」。人びとのこころのあり方が、心身共に濁っている状態です。

「命濁」は命そのものの濁りではなく、「命を軽んじるものの見方」です。

説明のため5つをれぞれの説明をしましたが、「違いがよく分からない」「これとこれって似てない?」と思われたかもしれません。

重なりあう濁りもありますから、「5種類の濁りがある」ということではなくて、人の心身の濁りが、こうも見えるし、ああも見えるということと思ってください。

それにしても、「五濁」の世というのは、その濁りの元を生じているのは、人間だということを表わしているのですね。

「劫濁」は疫病・飢饉・戦争・動乱などによる時代の濁りと書きましたが、疫病・飢饉・戦争・動乱によって濁っているわけではありません。

疫病が流行ったときに、罹患した人や医療従事者を差別する・・・正に群生(人びと)の濁りです。

飢饉も、物が不足すれば買いだめ買い占めに走るのが私たちです。その姿もまた、このコロナ禍に目の当たりにしました。

戦争・動乱の種も、人間がまいています。

中国とインドの国境付近での衝突。朝鮮半島の情勢悪化。政治に携わる者が、コロナ禍の対応に対して責任追及される非難の矛先を変えるため、コロナだけでも大変なこのときに紛争をしかけています。理由はひとつではないのでしょうが、争いというのは、政治家が自分への非難を他に目を向けさせるためにも起こすこともあるのですね。恐ろしいことです。

つまり、五濁というのは、人間の姿です。

五濁の世と、世の中が平穏な五濁ではない世がある・・・のではなくて、「人の生きる世」は常に「五濁の世」です。

 ☆

新型コロナウイルスに限らず、人びとが罹患しないために作られたルール。

そのルールを守ることは大切ですが、ルールも万能ではありません、ルールを守っていても罹患することもあります(ルールを守らなくても罹患しない人もいます)。その人の意識の問題とは別に、ルールを守れない人、守れる状態にない人もいます。

ルールあるがゆえに罹患者を貶めるようなものの見方(「あの人はルールを守らなかったんだ」)をしてしまうのであれば、ルールがあってもなくても同じです。

新型コロナウイルスが流行り、マスクや除菌スプレーやティッシュなどの買い占めが起こり、罹患者や医療従事者を貶めるような行動が横行し、今まで積み重なってきた差別心がコロナ禍のイライラと重なって爆発している。

五濁の世が分かりやすい形で見えています。

病気に罹らないことを目的にすると、病気に罹った人、そういう場を作った人への憎悪を生み出してしまいます。

誰もが病気に罹りうるという前提を私たちが忘れているならば、どんなに完ぺきなルール・約束事・条例・法律を作っても、他者を叩く材料にしてしまいます。

南無阿弥陀仏

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