つぶやき

2021年2月24日 (水)

サーフェス(上っ面)

「あなたの言葉で語ってほしい」「生の声を聞きたい」などと渇望するけれど、

ほんの小さなほころびを、鬼の首を取ったかのように責め立てられる時代。

自分の言葉で、生の声で、自分の思いに正直に話すということは、とても恐ろしいでもある。

そうすると、綿密に検討を重ねて原稿を作り それを読もう!という方向に動いても何の不思議もない。

けれど、読まれる原稿の文言がどんなに素晴らしくとも、感情がこもらない、熱は伝わらない、立て板に水の如くサラサラと聞き流れていくことでしょう。

それでいて、「字を読み間違えた!」という部分はしっかりとらえられてしまう💦

聞く方は、熱の伝わらない文言を聞き続けていても、からだも、こころも動かない。 

この人のために! この人と一緒に! この人の話を聞き続けたいんだ! という思いも薄らいでいく。

語る方は、語ってもダメだしされると、無難な物言いしかできなくなる。

原稿に目を向けて、目の前にいる人のことを見なくなる。

この悪循環に転がって行くと、表面上の薄っぺらい会話しかできなくなる、しなくなる。

そんな気がしている今日この頃です。

2021年2月23日 (火)

見と観

スイミングに通う娘

一緒にレッスンを受けている子で、メチャクチャ早く泳ぐ子がいるらしい

「その子が、なんでそんなに早く泳げるのか、観察してごらん」と言ったら、

「目が悪いし、早くてよく見えないんだよ」とのこと。

確かに、プールではメガネを外すから見えなくて当然だけど、見えたからと言って、うまく泳げるわけでもない。

“見る”というと、漠然と、注視はしなくとも見えるものを見ているだけのこと。

けれど、観察の“観”は、観察対象の奥にあるもの、より内面にあるものをもよく観ることをいいます。

泳いでいる人の姿を見て、そこから学び取ることもあるでしょう。

でも、早く泳げる人が、普段どのような努力をしているのか、どのような食生活をしているのかなど、泳いでいる姿だけではなく、見えない部分の努力を知ることも、“観る”ということです。

目の前にいる人の顔色を見て、「今日は元気そうだ」とは思っても、その人の言動を観察していると、なにかおかしい。

悲しいことがあったのかな、怪我でもしたのかな、体調がおかしいのかな・・・ちょっと見ただけでは変化に気づけないけれど、よく観ていると気づくことってあります。

「観察」は、今は「かんさつ」と読みますが、仏教語としては「かんざつ」と読みます。

阿弥陀如来を、阿弥陀如来の浄土を思い浮かべ、念仏申すことを言います。

修行のひとつです。

今、「観察(かんさつ)」とか「観光」とか「(試合)観戦」とか言いますが、

さすがに、それらは修行ではありませんが、

ただ調べるだけ、ただ出かけるだけ、ただ応援するだけでは「観察」「観光」「観戦」と言うには足りないのです。

調べた結果、出かけた結果、応援した結果、何がわかったのか、何を得たのか、試合している人たちの努力苦労を感じたのか・・・

あるいは、更なる目的や疑問が生じたのか・・・

そういうことがあっての「観察」「観光」「観戦」であり、

そういうことのために「観察」「観光」「観戦」をしようと欲するのが人間なのかもしれません。

日常の生活においても、ただ見るだけではなく、観察するということを意識してもいいのかもしれません。

今まで見えていなかったものが見える。

今まで気づけなかったことに気づける。

そういう意味では、同じ日常、退屈な日常、何もない一日なんてありません。

「観察(かんざつ)」とは、阿弥陀を観ることであるとともに、一日一日を、目の前の出来事をしっかりみなさいという呼びかけなのかもしれません。

南無阿弥陀仏

2021年2月21日 (日)

ここがわたしの居場所

まだ2月 とはいえ気温は20度超え

暖かな日曜

境内では 白梅が一気に開花して

芳香を漂わせている

つらい気持ち

悲しい気持ち

淋しい気持ち

そんななかに身を置きながらも

梅の香りに

こころが落ち着く

つらく 悲しく 淋しくとも

香りに包まれる私(こころ)は

あぁ ここにいていいんだと

身の置き所のない わたしに

身の置き場を与えてくれる

梅の姿

梅の香りは

わたしと共にある

2021年2月20日 (土)

私から念仏の声が出るということは、すべての人から出るということ

若くして亡くなった人に向けて、「まだ早すぎるよ」「もっとお話ししたかった」「これから、より一層の活躍が望まれたのに」などという声を聞く。

気持ちとしては分かるけれど、違和感もある。それでいいのだろうか?って。

なぜ早すぎると思うのか、なぜお話したかったのか、なぜ活躍が望まれたのか・・・

その人から受け止めた、大きなメッセージが、はたらきがあったからではないのか。

であるならば、受け止めた者の責任として、なすべき何かがあるのではないか。

悔やんで終わるのならば、「まだ早すぎるよ」と言って終わってしまっては、その人の死を、いや生を踏みにじることになる。

その人の分まで生きる。なんて意味ではなく、

その人から相続した メッセージを、はたらきを、私は胸に留めて生きるべきではないか。

そのメッセージを、はたらきを、親鸞聖人から「南無阿弥陀仏」と教えていただいた。

「南無阿弥陀仏」とともに生きる道を、亡き人は示された。

それだけで、先行く人はその生涯において大きなお仕事をされた。

「より一層の活躍を!」どころではない大きなお仕事を。

 ☆

人間は、長い短いの尺度で物事を見てしまう。

それゆえに、「早すぎるよ」という思いに覆われてしまう。

しかし、自然の尺度、阿弥陀の眼から見れば、長いも短いもない。

かけがえのないいのちが、確かにあったという事実があるだけ。

長い短い、貧富の差、地位の上下、宗教の違い、性差・・・人間の意識からは大きな違いとなって表れ、そこから争いも起こる。

けれど、

大きなはたらきからすれば、

先行く方が示してくださった「南無阿弥陀仏」の仏道を歩めば、

先行く人の姿から、「どうして?」という悔恨や疑問で留まるのではなく、「私もやがて」という自覚があれば、

人間の尺度が錯覚を起こさせている違いや差に、そもそもそんなこと有り得ない!という眼が開かれてくる。 

「南無阿弥陀仏」は、私の口からも称えられるのだから。

2021年2月19日 (金)

よくみると「寺」がある!

車で移動中、赤信号で停車。

ふと横を見ると薬局が。

薬局の前に「痔」ののぼりが。

ジッと見ながら、「“痔”って、寺に病垂れ(やまいだれ)なんだなぁ。なんでだろう? 正座や座禅をしてたら痔になるから? いやいや、ならないから」なんて思いながら青信号を待つ。

「寺」は「じ」と読むので、「痔(じ)」の音を充てて「寺」を用いた。病気ゆえに、「寺」に病垂れをかぶせて「痔」としたようです。誰が⁉

 ☆

娘の小学校の宿題 漢字の書き取り。

「パパ、出来たよ」(^-^)

というのでノートを見たら「等」の字。

ノートを見ながら、「“等”って、寺に竹冠なんだなぁ。なんでだろう? 境内に竹がいっぱいあるから? いやいや、無いお寺もあるし、そもそも「等しい」ことの説明になってないから」なんて思いながら、ノートに〇を書いてあげる。よくできました。

「等」の竹冠は、竹製の紙を表わす。昔は、植物を乾かしたものに字を書いていたからね。

その竹製の紙を整然と整えるところから「等しい」ということへ派生したらしい。

「寺」は、「痔」同様に「じ」という音を充てたもの。

書類を整えることを「し」と言ったらしい(本当のところは確認できませんでした)。

竹製の書類をきちんと整えることを表わしているのが、そもそもの「等」だそうです。

 ☆

「痔」も「等」も、「じ」という音に対して「寺」の字を当てただけなので、寺院としての「寺」の意味はないようです。

なぁんだ、ってお話です (^-^)

2021年2月18日 (木)

責める者と、どうしてなり得るのか。

お昼ごろに見ていた番組で、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員長の新会長について報じていた。

どうしてこういうのは、正式発表がなされてから報じないのだろう?と、いつも思う。

スクープや速報性を求めるのも、人間の性としてはわかる。

だけど、今回の件で言えば、検討会も発表もないうちから、M前会長がKさんに託して、Kさんも黙っていればいいのに、引き受ける旨を話し始めて反感かって余計にこじれてしまった。

喋る方も喋る方だし、報じる方も報じる方だと思った(見る方も見る方なのだろうけど)。

今回の会長辞任、新会長選出の経緯は、M前会長の女性蔑視発言が引き金となっているわけだけど・・・

お昼ごろに見ていた番組では、新会長選出の報道に続いて、このコロナ禍におけるハラスメントの状況を報じていた。

自粛自粛でイライラが募るなか、店員さんにクレームをつける客、カスタマーハラスメント(カスハラ)と、

リモートでの会合時に、部屋を見せろだの、プライバシーに関わる部分に触れる発言をするだのするリモートハラスメント(リモハラ)について取り上げていた。

カスハラ💦 リモハラ💦  人間ってハラスメントの塊(かたまり)だなと思った。

番組としては、別々の事柄として、オリンピック・パラリンピック新会長の話題とカスハラ・リモハラの話題を取り上げたのだと思うけれど、私にはつながって見えました。

M前会長の女性蔑視発言も、その根っこにはパワハラやセクハラがあり、そのことを多くの人びとが不快に思いました。

現代に、オリンピック憲章に、上に立つ者の姿勢に そぐわないという理由・観点・想いから批判が高まり、辞任へとなりました。

多くの人が、ハラスメントはいけないことだという思いから、筋を通したうえでの辞任を求めたことと思います。

けれどなかには、それもまたハラスメントじゃない?という言葉や圧力で、M前会長の辞任を要求する声もありました。

そして、私たちの生活の場を見わたしても、ハラスメントが広がっている。

ハラスメントを受ける怖さもあるけれど、

より気を付けなければいけないことは、より怖いことは、私自身がハラスメントを発する者となること。

コロナ禍でイライラが募っていることも、思う通りに生きられないことも、みんな一緒。

店員と客、上司と部下、上下関係と言われるそんな関係なんて、そもそもありません。

私がハラスメントを発する者とならないこと。

でないと、ハラスメントはなくなりません。

テレビで報じていることが、他人事(ひとごと)ではなく自分事として感じられました。

2021年2月17日 (水)

滞っているようでいて、すべての事柄は移ろういている

ご門徒の一周忌をお勤めして、思い返しています。

一年前、ご本山での仕事を終えて、一緒に仕事をした方と京都で一献。

その日は京都に泊まり、翌日帰京して、そのままご門徒のご葬儀へ。

一年前にご本山をお参りして そのままコロナ禍へ突入したので、ご本山へ行ったのは、京都へ行ったのは、新幹線に乗ったのは、現時点でそれが最後。

京都で一献した方は、今はもう・・・いない。

 🌸 🌞 🍂 ⛄

コロナ禍の生活が始まってから、

京都へ、ご本山へ行ってから、

あなたと呑んでから、

ご門徒のご葬儀から、

ほぼ一年

いろいろなことが複合的に絡んで、味わい深い一年であったことを、今思い返しています。

南無阿弥陀仏

2021年2月14日 (日)

ひとつの出来事が、現在と過去を結ぶ

昨晩の地震はびっくりしましたね。皆様ご無事でしたか。
地震があったとき、ちょうどZOOMでリモート輪読会をしていたのですが、宮城県の方が「あ、揺れてる!!」と言って、みんなで「大丈夫?」「気を付けて!」なんて心配しているうちに、こっち(関東)のメンバーも「うわ、揺れてる!!」ってなって、地震の広がりを思いもよらない方法で感じることとなりました。
「東日本大震災の余震と思われる」と報道されています。人間の感覚からすると「10年も経つのに⁉」ですが、地球にしてみれば ひと続きの揺れなのでしょうね。あらためえて、自然のスケールの大きさも感じています。
「一週間は注意が必要」とも言われていますので、気をつけましょう。
皆様お大事に。

2021年2月13日 (土)

ひとつの事柄には、多くの事象が集約されている

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の「女性蔑視発言」。

会長(この投稿においては“会長”と書いてあります)自身の責任としては、“辞任”(というのだろうか)によって終わるのだろう。

けれど、それだけで終わらせていい話ではない(会長への責任追及をもっと!と言う意味ではない)。

当の会長に対するマスコミの扱いや、私たちの見方も、「問題発言の常習者」という見方をしてはいなかっただろうか。

「女性蔑視発言」があった瞬間(とき)、「また言ってる!」という思いで留まってはいなかっただろうか。

そこにも責任があると痛感している。

「また言っている!」と思うのであれば、会長職に就く時点で「相応しくない!」という声を挙げることがあるべき姿だった。

「一般人が何を言っても無駄だろう」と思う人もいると思う。私もそう思う。

けれど、暗黙の了解でいくのか、たとえ覆らなくても声を挙げ続けるのか。

暗黙の了解で来てしまっていたのならば、今回の「女性蔑視発言」の一端は(責任の一端というべきか、原因の一端というべきか)、私にもある。

今回の発言がクローズアップされるけれど、振り返れば「子どもをつくらない女性を税金で面倒をみるのはおかしい」という発言があり、私は、その発言は議員として問題ありと感じていた。

そのような思想を持つ人が、オリンピック・パラリンピックの会長に就く・・・本当は、その時点で反対を叫ばなければいけなかった。

 ☆

人の思想というものは、そう簡単に変わるものではなく、簡単に変わってしまう思想もまた「その程度のものかい!」という突込みが入るだろう。

「この人は、こういう思想の持主なんだ」

その前提で人に接しなければ、私自身が「気に食わない奴の考え方を改めてやる!!」という独裁者思考に陥ってしまう。

思想と言う意味では、今回の会長の発言は、会長個人の思想ではなく、彼の周囲にいる人びとの思想でもあるように見えてくる。

この日本では、

・天皇制を大切にしながらも(しているようなことを言いながらも)、女性の皇位継承を認めようとしない。

・夫婦別姓を認めようとせず、議論の俎上に載せようともしない。

・女性には民法の規定により再婚禁止期間なるものが定められている。
(1898年に施行された民法から、長いこと「離婚届の提出から“6ヶ月間”」が再婚禁止期間だった。2016年に民法が改正されて、期間が“100日”と短縮された。父親が誰であるかで混乱が生じないようにするためという建前はあるが、男性に「再婚禁止期間」はなく、男女平等に反すると批判されてきた)

など、女性に対して厳しい現状がある。

それらのことに対して、会長のいた政党は、前向きに、時代に合わせて議論していこうという姿勢は見せていない。

そのようななかに長年身を置き、自分の発言の多くが尊重されてきたならば、誰だって勘違いを犯すだろう。時代社会の流れを学ばないし、感じようともしないだろう。

さて、会長は「一度は会長の辞任を考えたが、引き留められた」と言っていた。

であるならば、引き留めた人たちは必至に会長の必要性を説き、守らなければいけなかったのではないか。

「辞任しようとしたけど引き留められた」発言以降の逆風が、引き留めた人たちの想像以上だったのだろう。

はしごの外し方が見事だった。

さて、オリンピック・パラリンピックのスポンサー企業のトップが、“徐々に”遺憾の意を表し始めた。

会長の女性蔑視発言からしばらくは、何も表明していなかったように思う。

世間の逆風が強くなってきたところで、その風に乗っかるかのように“遺憾の意”を表明し始めたように映ったが、どうであっただろう。

日本の企業の多くも、会長や会長が在籍していた政党の思想に近いのではないだろうか。

つまり、今回の一件は、会長個人の問題という認識ではなく、日本社会全体の思想・風潮・ことなかれ主義・誰かに責任負わせてバイバイ的な土壌が露になったこととして、私たちは受け止めなければいけない。

この、世界中から失笑されている土壌をずっと放ってきたのだ。

今回、会長自身の発言が辞任へとつながったが、日本国内の大会や催しに関してだったら、謝罪になっていない謝罪で押し切れたかもしれない。

いや、押し通していたことだろう。

けれど、オリンピック・パラリンピックは世界と通じる大会、世界が見ている事柄だった。

今までの日本のなかだけでは起こり得なかった風が吹いたのだと思う。想像を超える風が。

それでやっと動き出した。

首を変えて終わる話ではない。

土壌の変化のためには、土を耕し直さなければならない。

そのためには、長い時間をかけて、しっかりと耕す覚悟もなければならない。

関わり合いながら。

2021年2月12日 (金)

独り言

人間ってぇ生き物は

孤独が嫌いなくせに

他者(ひと)を孤独に追いやるのは好きだよなぁ

「独り言(ひとりごと)」って

「孤独な言葉」って書くんだなぁ

淋しくて つぶやく 言葉なんだろうなぁ

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