西蓮寺掲示板のことば

2025年6月 1日 (日)

2025年6月のことば

6月を迎えました。
週末に雨が降ることが続いています。10週連続と報道されています(6月1日記)。
昨日(5月31日の話)は、娘が通う学校の運動会が延期になりました。学校としては「多少の雨なら決行!」の勢いだったのですが、結局延期の判断になりました。実は予備日も雨予報。生徒も先生も保護者も大変です。一生懸命練習していたから、運動会が無事開催されますように。
足立区の花火大会も中止になりました。雨も原因ではありますが、強風ゆえの判断だったそうです。運営に関わる方も、見物を楽しみにしていた方も気の毒なことです。
今日(6月1日)は、近所のお寺で御施餓鬼(お盆の法要)があったそう。今日は快晴だったので、御施餓鬼にお参りされる方もよかったですね。
で、思いました。「え、花火大会?」「え、御施餓鬼?」5月末・6月頭なのに⁉
足立区の花火大会は、昨年は7月20日。でも、荒天のため中止でした。今年は5月31日。夏の花火大会は熱中症や雷の心配もあり、5月開催に踏み切られたとのこと。
近所のお寺の御施餓鬼も、7月・8月は暑すぎて参拝者もお坊さんも大変なので(何時間も読経が続くとのこと)6月にされたとのこと。
花火大会に御施餓鬼(お盆)といえば夏の風物詩。とはいえ、近年の暑さは身体的にも危険で、天気の急変もいのちにかかわることも。行事やイベントの前倒し・後ろ倒しがこれからも増えることでしょう。
風情も大切ですが、おからだにもご無理ありませんように。ご無事でお過ごしください👋

 💧 💧 💧

2025年6月のことば

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れ石を穿(うが)
 穴が開くのは、
 強いからではなく
 続けているから

雨垂れ石を穿つ 

【雨垂れ石を穿つ】
小さな力でも根気よく続ければ成功するたとえ。
軒下から落ちる雨のしずくでも、長い時間をかけて同じ所に落ち続ければ、ついには硬い石にさえも穴をあける意味から。

硬い石に穴が開く、穴を開ける。無理だろう、不可能だろうと決めつけてしまう事柄に対し、私はどのように向き合ってきただろうか。はじめから諦めたり、言い訳にしたりしてはいなかっただろうか。
また、ひとりでやることを想定しがちだけれど、多くの人が関わることによって物事が動き出す、成し得る、穴が開くということもある。
無理だろう、不可能だろうと思われる事柄に、はじめは強い意志、強いエネルギーで臨んでも、すぐに結果が出るものではない。すると、自身が滅入ってしまう。強さは継続しないから。ただ続けることが、状況の変化を生み出すことがある。

雨垂れに手を出してみる。痛みを伴うような強さではない。やさしい一滴(ひとしずく)。そんな一滴一滴が、石を穿つ。

『恩讐の彼方に』
「穿つ」ことの意味の大きさが、菊池寛氏の小説『恩讐の彼方に』に描かれている。

(あらすじ)
主人公「市九郎」は、主君殺しの大罪を犯す。市九郎は逃げて姿をくらますも、人斬り強盗を生業として生き延びていた。
自身の犯してきた罪を悔い恐れた市九郎は、真言宗の浄願寺で出家し、法名 了海を名告り、滅罪のために全国を行脚する。豊前国に辿り着いた了海は、事故によって毎年何人もの人が命を落とす難所があることを知る。その難所の岩場を掘削し貫通させれば、事故で亡くなる人を無くすことができる。これこそ自分のなすべきことと誓願を立て、掘削を始めた。
近在の人びとはおかしな僧が来たと、了海を嘲笑する。しかし、年月を重ね、たとえわずかであっても掘削が進むと、了海に力を貸す者も現れた。

冒しがたき大自然の威厳を示して、市九郎の前に立ち塞がっていた岩壁は、いつの間にか衰残の乞食僧一人の腕に貫かれて、その中腹を穿つ洞窟は、命ある者のごとく、一路その核心を貫かんとしているのであった。
(『恩讐の彼方に』より)

19年の歳月を経て、9割がた掘り進めたあるとき、市九郎が殺めた主君の子「実之助」が、親の敵討ちのため諸国を遍歴し、仇である市九郎と相まみえることとなる。
実之介に「お斬りなさい」と身をさしだす了海。しかし、共に掘削してきた石工たちは了海をかばう。「掘削を成し得るそのときまで、了海の命を私たちに預けてくれないか」という石工の棟梁の願いに応じ、実之介は岩場が貫通するそのときまで待つこととした。実之介は、一刻も早く親の仇を討つため、掘削に加わった。
了海が、周囲から嘲笑されながらも掘削を始めてから21年目、実之介が来てから1年6ヵ月ほど経ったある晩、ようやく岩場が貫通した。
「約束のときがきた。さぁ、お斬りなさい」と言う老僧の手を、実之介は握りしめた。ふたりは感涙にむせび合った。
(あらすじ、以上)

※『恩讐の彼方に』はネットの「青空文庫」でお読みいただけます。「青空文庫 恩讐の彼方に」で検索してみてください。

 

『ハチドリのしずく』
また、成果や見返りを求める私に、物事をなすこと自体の意味や有り難さを語り掛ける『ハチドリのしずく』という本のことを思い出しました。

(あらすじ)
森が大火事になり、動物たちは逃げ出します。しかし、「クリキンディ」という名のハチドリだけは、自分の小さなくちばしに水を貯め、水源と森とを往ったり来たりします。一滴一滴、森の火事に水を落とします。森の動物たちは「そんなことして いったい何になるんだ」と言って笑います。クリキンディは答えます。
「私は、私にできることをしているだけ」と。
(あらすじ、以上)

ハチドリは、鳥類の中で最も体が小さい鳥です。体長は10センチぐらい、体重は2~20g程度の大きさです。
このお話は、辻信一さん(文化人類学者、環境運動家。明治学院大学名誉教授)が、南米のアンデス地方に住む先住民族の友人から聞いた話に胸を打たれ、本にしたものです。
辻さんは友人の話を聞いて、「いま、私にできることはなんだろう?」と考えました。そして、ハチドリの話をひとりでも多くの人に知ってもらうことだと思い、一冊の本にまとめられました。辻さんは語りかけます。「この物語の続きを描くのはあなたです」と。
『ハチドリのしずく』という題名ですが、「いま、私にできること」という副題がついています。(「光文社」発行)

「回向せしめたまえり」
先月の寺報で、親鸞聖人にとって「回向の主体」は、私(人間)ではなく阿弥陀如来である旨書きました。
自分の思いで物事をなしているように思っている私に、「すべては阿弥陀さまからのたまわりもの(あたわり)です」と、聖人は教えられました。
「雨垂れ石を穿つ」という諺から、コツコツと積み重ねていくことの意味、継続することの大切さをいただくことができます。その場合、穿つ主体は私です。でも、私自身が穿たれているという見方も出来ます。
自我という固い固い執着で自己防衛し迷い彷徨っている私にむけて、「念仏申せ」「念仏申せ」と、阿弥陀からの催促が一滴一滴滴り落ちています。であるからこそ、決して念仏申す心など持ちえない私、両手を合わすことなどありえない私の手が合わさり「南無阿弥陀仏」の声が出てきます。五劫の昔から、やわらかな慈悲の心で穿たれ続けている私でした。

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掲示板の人形
「傘をさすネコとカタツムリの人形」をネットで見つけました。
それから、寺にあったカエルの人形も飾りました。

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2025年5月 2日 (金)

2025年5月のことば

2025年も5月を迎えました。暑くなりそうでいて、ひんやりする日、身震いする日がありますね。体調崩されませんように。

去る4月14日~18日、練馬区谷原の真宗会館において、真宗大谷派 東京教区「慶讃法要」をお勤めしました。
従来の法要とは趣を変え、日々色合いの違う法要が勤まりました。
5日間真宗会館におりましたが、最前線で慶讃法要を堪能させていただき、充実した毎日でした。
ご参拝いただいた皆様、運営側の皆様、ありがとうございました。

ふと思う。50歳を迎える前くらいまでは、自分が身を動かして物事に従事していたけれど、いつの間にか 周囲が動いてくれる立場に身を置いていることを(その分、責任ある立場に身を置いていることも肝に銘じています)。
若い方々が、やらされてではなく、率先して法要に関わり、勤め、身を動かしている。
あぁ、素晴らしい光景だなぁ、素敵な人たちだなぁと感嘆する。慶讃法要を一緒にお勤めできて、よかった。ありがとう

今月のことばは、今年に入って、金沢の友人(真宗大谷派僧侶)から教えてもらったことばを掲示。
毎月掲示板のことばを読んで、「なるほどなぁ」「いいことばだなぁ」「ちょっと何言ってるんだかわからないんだけど」「納得できないなぁ」など、思いを巡らされている方からすると、「え!?」と思われるかもしれません。
「あたわり」ということばだけ掲示しているのですから(註は付しておきましたが)。
以下、今月のことばのいただきを綴りましたので、ブログをお読みのあなたも「あたわり」についてお味わいください。
南無阿弥陀仏

 🐟 🐟 🐟

2025年5月のことば

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あたわり

【北陸地方の方言】
「すべては阿弥陀さまからのたまわりもの」の意

あたわり 
金沢出身の友人(僧侶)から教わりました。「北陸には、『あたわり』という言葉があるんですよ」と。
「与えられたもの」という意味で、「ひとり一人に与えられた使命や宿命」として語られることもあるけれど、その根本は「阿弥陀さまからたまわったものである」という思いを大切にされてのことばであるという。
北陸は「真宗王国」と表現されるほど浄土真宗篤信の地として知られています。それだけ親鸞聖人の教えを、「南無阿弥陀仏」の念仏を大切に生きる方が多いのです。
北陸の方は、なにか物事をなすとき、出来事に巡り合ったとき、「阿弥陀さまからのたまわりもの」であるといただき、「あたわった」と表現されます。嬉しいこと、喜ばしいことばかりを「あたわり」と表現されるのではなく、悲しいこと、つらいこともまた「あたわり」といただかれます。
そのことは、受け容れ難いことを受け容れるための人間の知恵として「阿弥陀さまからのたまわりもの」と考えたわけではありません。また、達観したわけでも、諦めの気持ちを紛らわすために言われたわけでもありません。心底、阿弥陀さまからのたまわりものであると、いただかれているのです。

他力というは
親鸞聖人は説かれました。
他力というは、如来の本願力なり」(『教行信証』「行巻」)

「他力」とは、「阿弥陀如来が、衆生救済を願うはたらき」である、と。
(衆生:しゅじょう・・・すべての生きとし 生けるもの)

現代日本社会において、自分の力で励み、努力し、結果を出すことが価値あることとされます。
それゆえに「他力本願ではダメだ」「他力頼みではいけない」などと言われます。
しかし、「他力」とはそもそも、他人の力を当てにすることでも、他人の力を借りることでもありません。すべての生きとし生けるものを救いたいと願う、阿弥陀如来の本願力を「他力」というのです。阿弥陀如来が衆生を想う慈悲心をいただいているからこそ、辛苦の世の中を私たちは生きている、生きていられるのです。
信仰心のある人にのみ慈悲心が注がれるわけではなく、すべてのものに、今現に注がれています。であるからこそ、私は自力を尽くしながら人生をまっとうすることができるのです。

他力と自力。人間は、自力は尊く、他力は甘えであると考えます。
であるから、自力の結果を求めます。「これだけ頑張ったのだから、相当の結果があってしかるべきだ」と。
しかし、世の中そんなに甘くないことも、思い通りにならないことも、みんなわかっています。
思うような結果が伴わない、相応に報われるということがないとなると、自分より頑張っていない(ように見える)人を見下したり、結果に恵まれた(ように見える)人に対して嫉妬したりします。
誰もが皆、自力を尽くして生きているのにかかわらず。

私たち自身は、自力を生きることしかできません。できませんが、他力に包まれてあるからこそ、自力を尽くすことができるのです。
他力と自力は、どちらが優れて、どちらが劣ってというものではありません。双方があるからこそ成り立っているものです。「今、ここに私がいる」という事実が、阿弥陀如来のはたらきがあることの証明であり、阿弥陀如来の慈悲心(他力)があるからこそ、私がいて、生き、自力を尽くすことができるのです。

私の一挙手一投足に阿弥陀がいます。私そのものが阿弥陀さまからのたまわりもの、「あたわり」なのです。そのことを感得しているからこそ、いかなるときも、いかなる事柄に対しても、「阿弥陀さまからのたまわりもの」であると、手が合わさるのです。自分にとって都合の良い事柄に対して「阿弥陀さまのおかげです」と感謝し手を合わせているのではなく。

回向(えこう)せしめたまえり
親鸞聖人は、漢字の意味や送り仮名のふり方について深く深く思慮されました。

「回向」という言葉があります。親鸞聖人の師である法然上人の流れを汲む方々の多くが「回向して」と読まれているところを、聖人は熟慮して「回向せしめたまえり」と送り仮名をふられました。
「回向して」という読み方が間違っているわけではなく、むしろ一般的な読み方です。ただ、「回向して」の場合、自らが行なった行為・善行を回向する(仏に、亡き人に差し向ける)ことを表し、主語が自分になります。ところが、「回向せしめたまえり」と読むと、阿弥陀如来から私に(衆生に)差し向けられていることを表します。「回向の主語・主体は阿弥陀如来である」と、聖人の目には映っているのです。「如来」と書き著さずとも、聖人の著作には阿弥陀が溢れています。そのことは、阿弥陀の慈悲心(他力)を感得していることの表われです。北陸の方々が「あたわり」と言われることも、ことばのなかに、口にされる人々のこころのなかに阿弥陀さまがいることのあらわれです。

聖人が晩年に著わされた「恩徳讃」。

如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし

真宗の法座で、閉式の折に唱和します。聖人の大切なことばなのですが、いただいている恩徳に対して、「身を粉にするほどに報ずべし」「ほねをくだくほどに謝すべし」というところに抵抗を感じる人も少なくありません。どうしてそれほどまでに、と。それは、「自分が」報ずもの、謝すものと考えるからでしょう。
阿弥陀如来より回向せしめられている本願力のなかを、自力を尽くして生きているのですから、艱難(かんなん)辛苦の世の中、私が生きている姿そのものが報じていることであり、謝していることに違いありません。既に身をもって阿弥陀如来の大悲に応えているのです。

「あたわり」ということばを教えていただき、聖人の教えに生きている人びとのことを想いました。南無阿弥陀仏

 🐟 🐟 🐟

掲示板の人形
五月ということで、鯉をかたどった人形を飾っています(短絡的ですが)。
男の子が鯉に乗っている人形2つと、鯉の人形です。
しんどいこともある世の中だけど、人生だけど、前に向かって進める世の中であり、人生であると思っています。
「前に向かって進める」って、立ち止まることも、今まで歩いてきた道を眺めることも、それらも「前に向かって」進んでいることだと思うのです。
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2025年4月 2日 (水)

2025年4月のことば

2025年4月を迎えました。気温も低く、冷たい雨が降っています。
子どもたちは部活へと出かけました。元気に過ごしています。

3月、息子が大学院を卒業し、4月から新社会人。
「春のお彼岸中だから、卒業式には行けないんだ。ごめんね」という私に対し、「わかってるよ。大学から連絡があって、学科代表で証書を授与をされるから、配信で見ててよ」と息子。
当日は配信を見させてもらってお祝いを、と思っていたら、「大学院卒業したら、もう入学だ!卒業だ!ってことが無くなっちゃうんだよ。行ってあげなよ。親らしいことしてらっしゃい」と、妻と娘たちが背中を押してくれて、卒業式の前の晩に参列を決めました。
翌早朝、まだ家族の寝ている間に寺を出て、新幹線で某所某大学へ。
新幹線の中で「卒業式、行くね」と息子にLINEするも既読付かず。朝から忙しいだろうな。
卒業式開式前に大学に到着。構内に足を踏み入れると、ちょうど向こうから息子が。
私を発見して「お父さん⁉ なにしてんの?」と驚く息子に、「ごめんね、来ちゃった」と私。
抱きしめて「よくがんばったね」と伝えました。
「保護者席いっぱいになっちゃうから、席取っておいた方がいいよ」
「わかった、ありがとう。じゃ、保護者席から見てるからね」
思いがけず、息子の門出に立ち会うことができました。
式も終わり、さぁどうしようかなと思っていたら、息子の先生や彼女や彼女のご家族や友人たちと語らうことができました。
あぁ、充実した学生生活を送ったんだなぁと実感、感謝。
息子は謝恩会だ、お別れ会だ、ということで大学でバイバイ👋👋 
一緒に卒業式を見届けた前の妻に「ありがとう」と伝え、彼女も「来てくれてありがとう。一緒に卒業式を見られるなんて、思ってもなかった」と。空白の時間は、ことばひとつで埋まることも。
大学を後にし、駅に戻り、帰りの新幹線に。「来てよかった」。
夜9時、寺に到着。慌ただしいお彼岸の一日だったとのこと。
「行ってらっしゃい」と言ってくれた妻と娘たち、お彼岸中にもかかわらず送り出してくれた住職(父)と坊守(母)。
大学で出会ったみんな。
「人は、ひとりでは生きていない」ことを、身をもって感じた一日でした。

月頭のご挨拶が長くなりました。どこかに綴っておきたかったのです。
以下、西蓮寺掲示板 2025年4月のことばです。

 🌸 🌸 🌸

2025年4月のことば
(寺報版はこちら

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種から芽が出て花が咲き
花は枯れても種が残り
また花を咲かす

花びらは散っても花は散らない
寒暖差の激しい3月でした。春彼岸中も、雪が降った日もあれば夏を思わせる暑さの日もありました。体調を崩された方もいるのではないでしょうか。
まもなく4月を迎えようというとき、桜の開花が始まりました。桜の開花は、「標本木」の蕾が5~6輪咲いたときに宣言されます。開花宣言が出される瞬間に立ち会おうと、「標本木」の周りで待ちわびる人びとの姿がテレビで映し出されていました。また、「日本の桜を見るために来ました」と、海外から来日する方も多いとのこと。いつ来ても見られる観光資源目的ではなく、瞬間に立ち会うための来日。記憶に残る旅行となることでしょう。
世に、美しい花は数多くあります。にもかかわらず、桜はどうしてこれほどまでに開花が待たれ、人のこころを魅了するのでしょう。これほどまでに開花を待ちわびられるにもかかわらず、瞬く間に散ってしまう桜は、「儚さ」の象徴として語られます。法語にもよく登場します。

明日ありと思う心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは
         親鸞聖人

散る桜 残る桜も 散る桜
         良寛上人

花びらは散っても花は散らない
形は滅びても人は死なない
         金子大榮

見ずや君
あすは散りなむ 花だにも
力のかぎり ひとときを咲く
         九条武子

咲いた花見て喜ぶならば
咲かせた根元の恩を知れ
         詠人不明

思い出すままに記しましたが、「限りあるいのちを、あなたはどのように生きていますか?」「いのちの内実をちゃんと見ていますか?」と問われているかのようです。

また、桜は暖かくなったから咲くのではなく、冬の間厳しい寒さにさらされることによって目が覚め、寒さによって目覚めているからこそ暖かくなったときに開花します。厳しい寒さを経たうえで咲くことから人生訓としても語られます。「どんなに辛いことがあっても、その辛さを経験してこそ見えてくる世界がある」「優しさは、厳しい寒さを知るからこそ生まれてくる」など、桜の姿から教えられること、気付かされることが数多く語られてきました。

とはいえ、桜にしてみれば、ただ咲いて ただ散っているだけのことです。主役のこころは冷静・平静・ありのままであるにもかかわらず、その開花に色めき立ったり 人生を重ね合わせたり、世間はかくも賑やかです。賑やかではありますが、お花見といっても、実際には主役の姿は二の次で、ダンゴに舌鼓を打っています。桜の姿から感じ得られたことばの数々も、果たして本当に見て(自分事として味わって)いるでしょうか…。

慶讃法要(きょうさんほうよう)
4月14日(月)から18日(金)まで「真宗会館」(練馬区谷原1-3-7)にて「宗祖親鸞聖人 御誕生850年 立教開宗800年 東京教区 慶讃法要」が勤まります。
親鸞聖人の御誕生と立教開宗(念仏の教えを説き広められたこと)を機縁とした法要ですが、聖人一個人を讃えるための宴というわけではありません。
聖人にしてもお釈迦さまにしても、ことばを語っただけでは教えとはなりません。語られたことばを聞き、今まで見えなかったことや聞こえなかったことを感得した人びとがいます。「なるほど、そういうことか!」「そんなこと思いもしなかった!」と讃嘆と懴悔の気持ちが湧き起こってきた人びとがいます。そのような人びとが誕生したそのとき、ことばは教えとなり、ことばを発した者は教えを説く人となります。教えを聞く人と共に、聖人やブッダが誕生しました。親鸞聖人やブッダの歩みは、教えを聞く人びとと共にあります。その人びとの歩みが、「慶讃法要」をお勤めすることの背景にはあります。

聖人の誕生から850有余年、お釈迦さまの誕生から2500有余年。いのちある者は、やがていのちを終えてゆきます。ひとり一人の生命には限りがあるけれど、教えに聞いて生きる人の姿は、次の生、次の生へとつながっていきます。今、私が「南無阿弥陀仏」と念仏を口にできるのは、かつて念仏を口にされた方がいることの証。私は古の方と一味となり、阿弥陀の慈悲を受けるている者であるという事実に目覚めます。そして、私が念仏を称えることによって、また次の生へとつながっていきます。種から芽が出て花が咲き、花は枯れても種が残り また花を咲かすように。
阿弥陀如来の慈悲心は、時代や国境を越えてすべてのいのちを包み込んでいます。

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如信(にょしん)上人御廟所法龍寺報恩講参拝記

親鸞聖人の孫にあたる如信上人は、本願寺第2代に位置付けられています。その如信上人の御廟所「法龍寺」は、茨城県久慈郡大子町にあります。
如信上人は、1235年(嘉禎元年)京都に生まれ、幼いころより親鸞聖人から教えを受けて育ちました。
1300(正安2)年1月4日、66歳のとき、常陸国上金沢の草庵にて入滅。その後「法龍寺」が建立されました。
去る3月30日、法龍寺報恩講での法話のご縁をいただき、お役目を果たして参りました。
境内には如信上人お手植えの榧(かや)と、如信上人13回忌の折に覚如上人(本願寺第3代)が植えられたと伝わる銀杏(いちょう)が現存しています。
「法龍寺」を守られている方々、教えを聞き伝えられている方々の姿にふれ、「南無阿弥陀仏」の念仏の伝統を感じたことでした。
南無阿弥陀仏               副住職記

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掲示板の人形
鸞恩くん 蓮ちゃん あかほんくん の東本願寺3キャラクターと、鳥獣戯画に出て来るカエルとウサギの人形です。

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2025年3月 2日 (日)

2025年3月のことば

2025年3月を迎えました
陽射しの温もりを感じるスタートとなりましたが、明日(3日)から雨予報で気温も低そうです。境内の地面がカラカラに乾いているので、雨予報はありがたいものです。花粉症の方も、ちょっと安心でしょうか(私も花粉症持ちですが)。
3月1日は、西蓮寺が所属する「東京教区 東京5組」の「同朋会」がありました。会場は持ち回りで、そのお寺の住職か副住職がお話しします。西蓮寺が会場になるのは、コロナ下を挟んで9年ぶりだったそうですが、西蓮寺門徒含め、50名ほどの方にお参りいただきました。東京5組の教化テーマ「いのちの声を聞く」の講題のもと、お話ししました。その後、幾人かの方から感想をいただきました。ありがとうございます。次回「東京5組 同朋会」は、5月17日(土)赤坂の道教寺さまを会場に開催されます(13:30より)。須賀力住職よりご法話をいただきます。申し込み不要です。
3月は春彼岸をお迎えします〔3月17日(月)~23日(日)〕。お参りお待ちしています。

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2025年3月のことば
(寺報版はこちら

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無明とは
何も分からないことではない
すべて分かったつもりになっている心のことです
          宮城 顗(みやぎ・しずか)

無明(むみょう)
「無明」とは、明るくない、つまり暗いということ。暗闇では何も見えません。仏教では、自分のことが見えていないことを「無明」といいます。自分のことが見えないと、教え(真理)はわかりません。自分のことが見えないこととは、つまり真理に暗いということであり、そのことの罪の深さを仏教では説きます。
「自分のことは自分がよくわかっている」「他人に、私の気持ちがわかってたまるか」などというセリフを聞くことがあります。けれど思います。自分のことを一番わかっていないのは自分だと。他者(ひと)の方が、私のことをよく見ているな、よくわかっているなと感じることがあるものです。

人間の愚かさ 悲しさ
かつて、西蓮寺掲示板に掲示したことばです。

人間の愚かさは
何に対しても答えを持っているということです
ミラン・クンデラ(作家)

掲示したとき、幾人かの方から「今月の掲示板、間違ってますよ」と声をかけられました。
「愚かさとは、答えを持たないこと」
「賢いからこそ、答えに辿り着ける」
このように考える人にとって、掲示されたことばには、ちょっとした違和感・気持ち悪さを感じられたことでしょう。
経験や学習から培われてきた思想や思考は、私を私たらしめる大切なよりどころです。誰もが、自分なりの「答え」を持って生きているし、自分なりの「答え」を持っていなければ不安に圧し潰されてしまいます。
「答えを持っている」こと自体は、否定されることではありません。ただ、答えを持っているがために他者を傷つけ、他者を貶め、結局は自分自身の身の置き場を失くしている。そのような落とし穴に、誰もがはまっているのではないでしょうか。

「愚かさ」といえば、親鸞聖人は著書『愚禿鈔(ぐとくしょう)』の冒頭に、このように綴られています。

(原文)
賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。

(試訳)
賢者である師法然上人の信心を聞思すると、己が身の心があらわになってくる。
師の内面には、こんなにも賢く、深い信心があるにもかかわらず、外見にそのことを誇るような姿をさらすようなことはされない。
愚かなる私の心根は、どんなに修行に努めようとも、名利心が湧き起こる愚かなままであるにもかかわらず、外見は賢い者に見えるように取り繕うことに懸命になっている。

親鸞聖人が『愚禿鈔』に綴られた思いは、法然上人との出遇いによって気付かされたことの告白に違いありません。

燈炬なり 船筏なり 恵日なり
親鸞聖人の和讃です。

(原文)
無明長夜の燈炬(とうこ)なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり
罪障おもしとなげかざれ
    親鸞聖人「正像末和讃」

(試訳)
阿弥陀如来の慈悲心は、
分かったつもりになりながら、賢い者になったつもりになりながら生きている私にとって、灯(ともしび)のようなものです。
私自身に先を見通す力などありません。だからといって、「私は阿弥陀に救われるに値しない者である」「阿弥陀の救済の眼中にない者である」などと悲しむことはありません。
阿弥陀如来の慈悲心は、
大海のように広く深く際限のない悩み苦しみに溺れながら生きる人間にとって、船や筏(いかだ)のようなものです。
人の世の淋しさ悲しさというものに、この私自身も無関係であるとは言い切れないものです。だからといって、その罪の重さを嘆くことはありません。
すべての生きとし生けるもののために灯となり、船や筏となってくださっている阿弥陀の慈悲心が、今、私に届いています。私の歩む道は、阿弥陀如来と共にあるのですから。

また、親鸞聖人は主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の序を、次の言葉で書き出されています。

(原文)
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度する大船、無碍(むげ)の光明は無明の闇を破する恵日なり。

(試訳)
人間の知性では思いはかることができない、生きとし生けるものをどこまでも広く救済しようと誓った阿弥陀の本願は、渡ることが難しい荒海のような苦悩の中を生きる人間を、苦しみを超えた世界へと渡らせる大きな船である。何ものにも妨げられることのない阿弥陀の光明は、真実の智慧がない人間の闇を破る太陽である。

「無明」「愚かさ」「悲しさ」など、気が滅入るようなことを書いてきましたが、親鸞聖人は人間存在の愚かさや悲しみを強調し問題視するために「無明」を取り上げたのではありません。
「無明」であるという事実は、灯に照らされることがなければ気付き得ないことです。法然上人との出遇いによって、阿弥陀如来の光明に照らされている我が身であることを知り、分かったつもり知ったつもりになっていた私であることに気付きました。人間の悲しみと共鳴している阿弥陀の大慈悲心。人間の悲しみあればこその阿弥陀の大悲。無明を照らす大悲あることを、聖人は大切に教え伝えられました。                  南無阿弥陀仏

※宮城 顗(1931~2008) 真宗大谷派僧侶

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掲示板の人形
3月、お雛様の人形を飾っています。


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2025年2月 2日 (日)

2025年2月のことば

2025年2月を迎えました。こんにちは
1月29~31日に「教区秋安居」、2月1日に配信法話収録のため「法話を聞く会」に参加。2月4~6日は本山での講習に参加してきます。寒さ厳しい折り、体調を整えながら生活したいものです。皆様もお気をつけて👋

「法話を聞く会」でご法話いただいた先生のお話。
「家内安全、学業成就、商売繁盛等々、お寺や神社にお参りに行く方も多いかと思います。けれど、只今受験シーズンですけれど、合格祈願する場合、受験に合格する人と不合格になる方がいるのは事実です。そうすると、祈願して合格した方は「おかげで」と言えるけれど、不合格となった方は「お参りしたのに」という気持ちになります。合格不合格は、そうなる要素はいろいろありますが、神仏の力は関係ないところですよね。つまり、私たちは自分の願いごととしてお金を出したり手を合わせたりしますが、浄土真宗の教えは、人間の願いが叶う教えではなく、阿弥陀如来の願い(衆生救済)が叶う(成就する)教えなんですね。人間の願いは、平等でない利益を願っているのですが、阿弥陀の願いは「平等の利益」です。すべての生きとし生けるものが救われる教えです。ですから、浄土真宗のお寺では、お守りやお札は売っていません。」
というお話をお聞きしました(上記文章は、私の記憶のままに書いています。先生のお話のママではありません)。
わたしの願いを生きているのではなく、あみだの願いに生きている。
大切なお話をいただきました。南無阿弥陀仏(-人-)

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2025年2月のことば
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相手を鬼と見る人は
自分もまた鬼である
      曽

自分もまた鬼である
「相手を鬼と見る人は 自分もまた鬼である」
今月のことばを読んで、どのように受け止められるだろうか。
『「相手を鬼と見る」行為をする人は、そんなあなた自身も鬼ですよ』というように、戒めのことばのように受け止める人が多いのではないだろうか。
であるならば、「鬼である」のは「相手を鬼と見る人」限定の話になってしまう。果たしてそうだろうか。今月のことばは、「誰もが皆 鬼である」ということが大前提ではないだろうか。

はて、そもそも「鬼」とは何なのか? 「鬼」というと恐いもの、悪いもの、強いものとしてのイメージがある。反面、人間業とは思えぬ能力や才能、またその能力や才能を持つ人のことを表現する場合にも使う(「鬼才」とか)。ひと言で「鬼」といっても、その意味内容は清濁併せ持っている。
今月のことばの場合は、悪い意味での「鬼」だろう。「自分(あなた)もまた鬼である」と言われたとき、「私は相手ほどひどい人間じゃないですよ!」と否定したり、「そんなことを言わないでください!」と怒ったりする気持ちが芽生えて来るのだから。誉め言葉として受け止められるならば、そんな反応はしないでしょう。

罪は同じ
「実際に殺人を犯した者も、頭の中で誰かを殺したい(あいつさえいなければ)と思った者も、罪は同じである」

お釈迦さまの教えとしてお聞きしています。納得のいかない方もいることでしょう。ですが、自分にとっては、この教えがあってこそ仏教に聞いて行こう!という思いになり、親鸞聖人の教えを聴聞するうえで根っことなっている教えです。「思う」ということは、それ自体が「行為」である。自分は、どれだけの罪を犯していることだろう。

さるべき業縁のもよおせば
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

親鸞聖人のことばです。お釈迦さまの教えの「罪は同じ」の話は拒否反応を生むことでしょう。ですが、親鸞聖人もまた弟子の唯円との対話において、次のように説かれています。

「聖人の仰せならば、私は背きは致しません」と言う唯円に、聖人は「では、人を千人殺して来なさい。そうすれば、あなたの往生は約束されます」と言います。「そのようなこと、私の器量ではできません」と唯円が返せば、「人を殺さないのは、あなたが善いこころを持っているからではありません。また、決して殺害はしてはいけないことだと思っていても、そうなるべき縁がもよおすならば、殺すということもあるのです」と聖人は仰いました。

「出あう縁によって、何をしでかすかわからない。それが私である」。否定しようのない事実です。では、なぜその事実に目覚めさせるために、「人を千人殺してきなさい」とまで言われたのでしょう。「人の物を千個盗んできなさい」でもかまわなそうですが。
あなたも聖人から「人を千人殺してきなさい」と言われたとします。そのとき、「そのようなことはできません」と口では言いながらも、憎い誰かの顔が浮かばなかったでしょうか。「人を殺してきなさい」という言葉は、私のこころをざわつかせ、自分と向き合うことになります。決して他人事として聞き流すことはできません(「盗み」の譬えでは、こころざわつかず、実際に盗みを犯してしまう人もいるかもしれません)。
教えは、すべて私めがけて説かれています。だからこそ、「人を千人殺してきなさい」という聖人のことばが、現代もなお私のこころをざわつかせます。

「善と善」か「善と悪」か
昨今、「争いは、善と悪との戦いではなく、善と善との戦いである」「悲劇は、善と善とのぶつかり合いで起こる」といった類の法語が目に留まるようになりました。時代を反映してのことかもしれません。
「争い」というと、「善と悪」との対立を思い浮かべます。しかし、争いの当事者は、「自分が正しい」という思いで戦っているわけで、そのような現実に則すると、「争い」とは「善と悪」との対立ではなく、「善と善」との戦いです。私もそのように思い、かつて文章を綴ったこともあります。
しかし、年を重ねて思います。争いは「善と悪」との戦いであると。「善と善」との戦いであると見るのは、客観的見方、俯瞰した見方です。争いの渦中に身を置いたならば、「争い」とは、自分を善、相手を悪に位置付けた「善と悪」との戦いです。当事者の立場に身を置いたならば、自分こそ正しくかわいいのです。そして、相手は殺したいほど憎いのです。
「争い」とは、国と国、組織と組織のものとは限りません。私も含めた日常にあふれています。

無明(むみょう)
「罪は同じ」という話をしましたが、仏教における「罪」とは「無明であること」と説かれます。「無明」とは、明るくないということ。つまり暗いということ。暗闇では何も見えません。仏教では、自分のことが見えていないことを「無明」といいます。
自分のことが見えないと(他人事として聴聞していると)、教え(真理)はわかりません。自分のことが見えないこと(無知)とは、つまり真理に暗いということであり、そのことの罪の深さを説きます。
私は罪は犯さない、犯すはずがないと思いながら生きている。しかし「私」とは、どのような縁がもよおし、その際にどのような振る舞いをしてしまうかもわからない者です。そんな「私」であるにもかかわらず、自分で物事を考え、為しているつもりでいる。まさに「無明」を生きている。他人事として見ることは容易だけれど、自分のこととして見ることはとても難しい。だからこそお釈迦さまは、「無明」なる私に、灯(教え)を照らしてくださっています。
「罪は同じ」ということも、殺人の罪そのものを語っているのではなく、「無明」を彷徨っている、真っ暗闇を歩いていることに目覚めさせるための喚びかけとして聞こえてきます。
南無阿弥陀仏

※曽我量深(1875~1971)真宗大谷派僧侶

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掲示板の人形
今月の人形はオニ、ではなくウサギです。
スカイツリーに行った際、併設のショッピングセンター「東京ソラマチ」で買いました。
かわいかったので、思い切って全5種買いました。

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2025年1月 1日 (水)

2025年1月のことば

明けましておめでとうございます
本年もよろしく御願い申し上げます
昨今、挨拶の「こんにちは」や感謝の「ありがとう」の言葉を耳にすることが減ったように感じます。
「こんにちは」「ありがとう」 この一言で気持ちが救われるということがあります。本当に大切な言葉です。
今年は「こんにちは」「ありがとう」を忘れないように日々を過ごしたいと思います。
ありがとうの 想いを忘れて生きることのかなしさ
南無阿弥陀仏
2025年新春 西蓮寺住職

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2025年1月のことば
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悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)行(ぎょう)とぞなづけたる
               親鸞聖人

忘れない
2025年1月1日を迎えました。「令和6年能登半島地震」から一年が経ちました。また、昨年9月には、能登を豪雨が襲いました。震災と豪雨、大きな災害に見舞われました。あらためて、被災された方々にお見舞いを申し上げます。
被災していない者にとっては、過去の出来事かもしれませんが、被災された方々にとっては現在進行形です。穏やかな日々の訪れを願ってやみません。
今年は、第二次世界大戦の終戦から80年目の年です。戦争を体験された方が減り、他者を力でねじ伏せようとする考え方が世に蔓延しつつあります。人が人を殺める行為は休むことなく続いています。
昨年のノーベル平和賞は「日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)」が選ばれました。被爆者の立場から被爆体験を伝え、核兵器廃絶を訴え続けています。語り続けることと聞き続けること、つまり忘れないことが、周囲の人びと、これからを生きる人びとへと広がっていきます。
「忘れない」ことも支援のひとつです。しかし、私たちは忘れる生き物です。ほんの数年前の新型コロナウイルス流行下での私たちのありようを、果たしてどれだけ覚えていることでしょう。コロナ罹患者・ 発症者、医療従事者への差別。マスクや消毒液、食料品の奪い合い。未知のウイルス、先の見えない日々への恐怖心や焦燥感。 2025年を迎え、コロナ以前の状況に戻ったかのように暮らす私たちは、コロナ禍のありようを忘れてしまってはいないでしょうか。

こころは蛇蝎のごとくなり
親鸞聖人は数多くの「和讃(わさん)」を綴られました。今月のことばは、そのうちの一首です。
「和讃」とは、仏や菩薩、祖師方の恩徳をほめたたえるため、七五調の形式で表現された讃歌です。

【原文】
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
      親鸞聖人「愚禿悲歎述懐和讃

【試訳】
私には尽きることのない悪性があります。
貪り(むさぼり)・瞋り(いかり)・邪(よこしま)・偽り(いつわり)など、
それらのこころが止むことはありません。
心がけで正せるものなどではありません。
わたしのこころは、毒蛇やサソリのように猛毒を持っています。
たとえ世のため人のためを思ってなしている行為であっても、「私はこれだけの善行を積んでいる」という名利心が入り混じっています。
正しいことをなしているようでも、悪性を持つ私のなすことは、本当に正しいこととは言い切れないものです。
本当に正しいことをなしているのであれば、「私はこれだけのことをやっている」「これだけのことをやったのだから報われてしかるべきだ」「これだけのことをやっているのに誰も誉めてくれない」などと思い悩む必要などないのですから。

「和讃」は仏や菩薩の恩徳をほめたたえるものと書きましたが、この和讃は 「愚禿悲歎述懐和讃」と呼ばれ、聖人自身のありようを赤裸々に書き記した内容となっています。聖人は、自身を「愚禿鸞 (ぐとくらん)」と名告(なの)られました。「愚」は、愚か者。「禿」は、道を求めるこころもないのに、生きるため食べるために出家した形だけの僧侶を意味した言葉です。つまり、自身のことを「愚かで格好ばかりの坊主である親鸞」と告白しているのです。そんな愚禿である自身を悲歎し述懐された和讃なのです。このような和讃を綴るには、自分を見つめる厳しい眼が必要であり、その眼を、親鸞聖人は阿弥陀如来より賜った(回向された)ものであるといただかれています。

神仏を拝むとき、少しでも清い身であろう、徳を積もうと考えます。そのような思考にあるとき、たとえ自己反省をすることはあっても、「反省して、これから気を付けます」「反省したから、今までのことはなかったことに」と、反省を善い行いにすり替え、自己を振り返ることはありません。そのような態度は、拝むという機会を私に与えてくださったはたらきに対して、そのはたらきを無にする態度です。聖人の教えに出あった者にとっては、手を合わせる、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える、聞法をすることは、阿弥陀如来からの賜りものであり、自身のありようを知る縁をいただいていることなのです。教えを聞いて、念仏称えて、今よりましな人間になるのではありません。聖人は自身の姿を綴られていますが、そのことは自身の愚かさを知り、反省したことの表明ではありません。阿弥陀を疑い、阿弥陀から逃げている私をも、阿弥陀如来は慈悲の心で包んでいる。その真実を知ったのです。私「愚禿鸞」が阿弥陀の救いの中にあるのだから、誰もが阿弥陀如来に救われているという述懐なのです。        南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
今年はヘビ年ですね。ヘビの人形を飾っています。
ここ数年、12月に東本願寺での仕事が入り京都に行っています。新幹線の構内に人形を売っているお店があるので、毎年そのお店で干支人形を買って帰ります。
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2024年12月 1日 (日)

2024年12月のことば

2024年もいよいよ12月を迎えました。この一ヵ月、なにをして過ごしていこう、やるべきことを済ましていこう!と考えていることと思います。体調崩さぬよう気を付けて、今月を、2024年を乗り越えましょう‼!
詩人・翻訳家・絵本作家等々、多くの肩書きを持つ谷川俊太郎さんが、2024年11月13日に亡くなられました。92歳でした。
私の本棚には谷川さんの詩集やスヌーピーの日本語訳『PEANUTS』が、子どもたちの本棚にも『スイミー』や『もこもこもこ』など絵本が並んでいます。漠然と、まだまだ生きられる方などと思っていましたが、いのちを尽くして往かれました。谷川さんの多くのことばに触れてきました。ありがとうございます。
話は変わりますが、11月のある朝、山門の前を掃除していると、「おはようございます」と声をかけてもらいました。振り返ると地元の中学生でした。登校中、私に「おはようございます」と声をかけてくれたのです。正直、ことばで言い表せないほどの喜びがありました。今日も一日頑張れる! 生きていてよかった! 大袈裟に思われるかもしれませんが、それほど嬉しかったのです。
さて、谷川さんの死と中学生が私にくれた「おはようございます」。私の心を大きく揺さぶり、温かく包み込み、生きるということについて考えさせてくれる事象でした。南無阿弥陀仏
12月の寺報の文章はほぼ書き終えていたのですが、上記のような出来事があって、ゼロから書き直しました。谷川俊太郎さんのオマージュとして散文詩っぽい書き出し(センスありませんが)、「おはようございます」のことばをくれたあなたのことを想いながら書きました。誰も代わる者のいないいのち(わたし)を生き、それでいて孤独ではなく、誰とでもつながっているいのち(あなたとわたし)を生きている。皆があみだと共に。また、11月5日、西蓮寺報恩講の日に還浄されたあなたのことも、忘れません。
ことばは、人を生かしもするし殺しもする。せっかくのことばを どう使いますか。ことばとともにどう生きますか。

 ⛄ ⛄ ⛄

2024年12月のことば

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生きているとばかり思っている私
生かされている私

おはようございます

「おはようございます」
  あなたのその一言で
  今日も元気をもらった
  私を見ていてくれる人がいる
  あなたに出会えてよかった
  おはようございます
  今日も目が覚めた

「ありがとう」
  いつもとは違う
  なにか特別な出来事があったから
  「ありがとう」って口にするのではない

  いつだって常に
  目に見えないはたらきがあって
  そんなあたりまえのことに
  ふと気がついたから
  「ありがとう」が出てくる

  あたりまえのことが
  いつも ずっとあることが 有り難い

「南無阿弥陀仏」
  私の口から出てきた南無阿弥陀仏が
  私の耳へと入っていく
  私が発した声だけど
  私のことを喚んでいる声

  「あなたのことを救いたい」
  「私の名前を喚んで欲しい」
  念仏を称えられるのは
  阿弥陀さまの願いが私に届いている証
  今現に救われている証

  念仏の声が聞こえてくるのは
  私の存在証明
  「あなたははここにいていい」
  「あなたはひとりじゃない」

  そんなひとりひとりが
  あみだの喚び声で結びついている

 

ことばは、独(ひと)りでは出てこない
「ことば」は、私独りでは出てこない。
声をかけられたとき、かけられた私だけではなくて、声をかけてくれたあなたがいる。私のことを見つけて、あなたは声をかけてくれた。
声を発したとき、発した私だけでなく、その声を受け止めてくれるあなたがいる。あなたがいたから、私は想いを声にすることができた。
私は独りではない。

生きているとばかり思っている私
「生きている」という思いは、自分の人生を自分の力で歩んでいるものと勘違いさせてしまう。この世の中で自分の思い通りになっていることなんて、なにひとつないのに。無量無数のいのちや事柄が複雑に絡み合い、影響し合い、そしてまたいのちや事柄が誕生する。私を私にしている。
いついかなるときも目に見えないはたらきがはたらいていて、でも、私はそのことに気付いていなくて。そんな目に見えないはたらきにふと気がつくときがある。あたりまえのように「生きている」と思っている私の思いが大きく揺れる。あたりまえであることが、すなわち有り難いことだった。有り難いことが、実はあたりまえのように私にはたらきかけていた。「生きている」 ことは「生かされている」こと。

生かされている私
「生かされている私」という自覚が、親鸞聖人の教えの根っこにはある。聖人は、次の言葉を遺された。

さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし
(そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもしてしまうのが私です)

「もよおせば」の響きに、「これから先にもよおしたならば」と、これから先のこと、まだもよおしていないこととして受け止める人が多い。そのような受け止めから、「親鸞は『いかなるふるまいもすべし』と言うけれど、自分を律する心があれば悪い行いはしない。悪事を働く人は自分を律する心が弱い人です」などという反論・反感・反発が出て来る。

これから先のことと思っているから、「生きている」と思っているから、自分の思いで行いを取捨選択できると、悪事は抑制できると考えてしまう。
これから先のことならば、親鸞聖人は「もよおさば」と言われただろう。けれど「もよおせば」と語られている。
「もよおさば」は、まだもよおしが及んでいない、これから先の話を表す。
「もよおせば」は、もう既に我が身にもよおしが及んでいることを表す。私が 気づいていようがいまいが、いつだって常に目に見えないはたらきがもよおしている。
言葉の意味内容は時代と共に変化し、国や地域によっても違いが生じる。だから、「もよおさば」と「もよおせば」に、私が書いたほどの違いはないのかもしれない。だけど私は思う。
「阿弥陀如来の大慈悲心に包まれながら生まれ、今、ここに至るまでお育てをいただいている私です。南無阿弥陀仏」
親鸞聖人は、ご自身のことを深く内省され、阿弥陀の大慈悲心を感じ、大切に受け止められ、「生かされている私」であることを自覚されたのだと。

 ⛄ ⛄ ⛄

掲示板の人形
12月ですね。毎年恒例となりました、木で作ったサンタ人形を飾っています。西蓮寺掲示板と寺報を楽しみにしてくださっている方が、毎年11月になると「お寺さんにサンタさんって迷惑かもしれないけど」と言って手作りの人形をくださいます。施設で保護されている子どもたちのために、夏場に山に入って木を集め、お家でコツコツとサンタ人形を作られています。今年もいただきました。ありがとうございます。サンタ人形を通して、人形を手にする子どもたちの顔が浮かびます。
サンタ人形と一緒に鳥や雪だるま人形も飾っています。雪だるまや年末が想像しがたい気温の12月1日でした。
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2024年11月 1日 (金)

2024年11月のことば

2024年も11月を迎えました。1ページに2ヵ月分書かれているカレンダーだと、2024年も最後の1枚になってしまいました。
10月になっても暑い日が続きましたが、ようやく秋の雰囲気・冬の寒さを感じるころとなりました。インフル・コロナ・マイコなどが流行っています。体調を崩されませんように。

10月は、多くの訃報に接しました。
ドラえもんの声優であった大山のぶ代さんが9月29日に
「ぐりとぐら」を書かれた中川李枝子さんが10月14日に
俳優の西田敏行さんが10月17日に
「ねないこだれだ」で知られるせなけいこさんが10月23日に亡くなられました。

私にとってのドラえもんの声優さんは、大山のぶ代さん。
私が初めて「欲しい欲しい」と駄々をこねて買ってもらったマンガが「ドラえもん」でした(と、記憶しています)。
なかがわりえこさん と せなけいこさん の絵本にお育てをいただきました。
「ぐりとぐら」「ねないこだれだ」は、私自身が幼いときにも読んでもらっていたし、娘たちにも読んであげました。
西田敏行さんは、これ!と言い切れないほどの作品に出演され、私の記憶の中でもいろいろな西田敏行さんがいます。
でも、印象に残っているはじめは「西遊記」の猪八戒。その後は「池中玄太80キロ」を見ていた記憶があります。
娘たちにとっての西田さんは「ドクターX」。世代を超えて記憶に残る方でした。
今で言う「推し」でしょうか。推しだった方々が亡くなられていく。その訃報に接する機会が増えてきました。当然のことですが、年齢を重ねていくということは、それだけ多くの人や作品と出会っていくことです。ということは、大切な出会いのぶんだけ、別れとの出会いも重ねることとなります。
別れは淋しいことであるけれど、訃報に接することがなければ、日常において大山さんを、なかがわさんを、西田さんを、せなさんを気にしているわけはなく・・・つまり、訃報に接する、死別という別れは、いただいていたものの大きさ大切さかけがえのなさを気づかせてくれるものでもあります。
そんなことを何度も何度も思った10月です。
さようなら ありがとう 南無阿弥陀仏

 🌟 🌟 🌟

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(お)しは 推せるときに 推せ

人生って 人間って
わたしとしては、手を抜いているつもりもサボっているつもりもない。ほんと一生懸命やっている。けれど、他者から見ると、手を抜いているように、サボっているように見えるらしい。上手くやれる人ばかりではないのに。
一生懸命に取り組んでいるのに、うまくいかないときもある。反省は、している。誰かに迷惑をかけようと思っているわけはないし、わたし自身凹みたくなんかないのだから。
人生って、自分の思い通りにならないものなんだ。

人と人とが、ひとつ屋根の下、同じ学校、同じ職場で顔を突き合わせているのだから、気の合う人もいれば、顔を見るのも嫌な人だっていて当たり前。だけど、しんどいのは、誰とでも仲良くなれないことでも、嫌いな人がいることでもない。気が合うと思った人と仲たがいしたときの気まずさ、嫌いな人の優しい一面に触れたときの戸惑い。好きなら好きなままでいられたら、嫌いなら嫌いなままでいられたら、どんなに楽だろう。でもそれは、わたしの、人を見る目が間違っていたわけではなくて、人は何面性も持ち合わせて生きているということ。Aさんのことを、わたしから見た姿とあなたから見た姿とでは、きっと違うのだ。まるで別人であるかのように。わたしの姿だって、見る人によって違うんだろうな。「本当の自分」とか「自分探し」とか言うけれど、どんな自分もわたしなんだよ。
人間って、一面で量れるものではなくて、多面的で混沌としているものなんだ。

アンバランスというバランス
人生は思い通りにならなくて、人間は混沌としている。悩みは尽きないはずだ。
思い通りにならない人生を生きている者どうし、何面性も持ち合わせている者どうしが、この地球上に何十億人と生きている。争いだって起こるはずだ。けれど、よくこの世の中が成り立っているなとも思う。みんなつながりながら影響し合いながら、アンバランスというバランスを保って生きている。アンバランスなバランスが、わたしをわたしにしている。

推しの名は
思い通りにならない人生は、わたしを蝕む。痛みとなり、疲れとなり、苦悩となる。けれど、推しを推すとき、苦悩は、より深くより広くわたしを包み込むものとなる。

親鸞聖人。推しは、苦悩を解決・解消・霧散させる教えを説いたわけではない。解決策を提示するわけでもなく、わたしが悩んでいるという事実を明らかにしてくれるのであった。推し自身も、痛み、疲れ、苦悩の生涯を送ったのだ。けれど、わたしと決定的に違うのは、南無阿弥陀仏と出遇ったこと。
縁に結ばれた無量無数のいのち。それ故に苦悩は生じる。思い通りにならず、格差は自明であり、人と人とが奪い合い傷つけ合い、ときには他者を殺める。と同時に、他者の生活がわたしを生かし、わたしが生きることが他者を生かしめてもいる。
「この人のため」…そう想えるだけで、今、わたしはここにいられる。「事実を見つめよ。見つめ、南無阿弥陀仏と念仏称えよ」。そんな教えに、推し自身が出遇った。そして、生涯念仏に生きられた。悩み苦しみを抱えながら。

推しを、素晴らしい人、より高次の人間として語っているのではない。
推しは、「われら」と口にされた。推しは、誰もが皆、阿弥陀如来に救われていると語られた。漏れる者は誰もいない、と。だから誰もが念仏称えることができる。
推しは、高いところから見下ろして語っているのではない。今、わたしの目の前にいる。同じ大地に立ち、同じ目線で見て、同じ空気を吸っている。誰もが皆、同じ大地に足を付けて立っていることを喜んだ。
推しの喜びに触れると、見えるものも変わる。現実は何も変わっていないけれど。

推しにも推しがいる
推しにも推しがいる。龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空。「正信偈」に出て来る、いわゆる七高僧。彼らの言葉(教え)に出会い、彼らの苦悩を見た。苦悩が見えたとき、そこに七人の人間がいた。
七人の言葉のなかに阿弥陀如来を感得された。七人の人間に出遇い、伴走者としての阿弥陀(真実)を見い出された。推し(親鸞)も、推し(七高僧)の言葉に触れ、見えるものが変わったのだ。

痛み、疲れ、苦しさがある人間という生き物の生活の場。推しもまた、同様の生活の場を生きた。生きながら、その痛みや苦しさを、あって当然のものだと落着された。縁に生きているのだから。同伴者としての阿弥陀がいるのだから。そして、自らは「南無阿弥陀仏」と念仏称え、人びとに念仏申せと説かれた。阿弥陀の声が、われら皆に届いているのだから、と。
七高僧のそれぞれもまた、同伴者としての阿弥陀を感得し、南無阿弥陀仏に生きられた。
真実である阿弥陀がある。そのことにお釈迦さまは気づかれ、説かれた。お釈迦さまの教えという縁により、七高僧が誕生した。七高僧がいるから推し(親鸞)がいる。推しがいるから、今、わたしの手が合わさる。わたしの手が合わさっているから、これからのいのちに南無阿弥陀仏は相続されていく。

報恩講(ほうおんこう)
11月28日は親鸞聖人のご命日。
本山である真宗本廟(東本願寺)では、毎年11月21日から28日まで「報恩講」が勤まる。推しのお祭りだ。けれど、報恩講は、親鸞聖人を褒めたたえるイベントではない。わたしにまで届いた教えを、念仏を、あらためて聴聞する法要。わたしのための法要だ。わたしは、報恩講があるから生きていける。この苦しく、淋しく、悲しい世の中を。
報恩講が終わると、あらたな一年が始まる。南無阿弥陀仏

(註)
【推し】とは、人にすすめたいほど気に入っている人や物のこと。俳優、声優、アイドル、マンガのキャラクターなど、対象は幅広い。

(つぶやき)
今月の寺報を書く前、宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』(河出文庫)を読んでました。

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掲示板の人形
11月は、御本山で報恩講が勤まります。西蓮寺の報恩講は毎年11月5日です。
ワクワクの報恩講シーズンです。親鸞聖人と合掌人形を飾っています。南無阿弥陀仏
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(つぶやき)
こんなに大切で、こんなにワクワクする報恩講なのに、西蓮寺報恩講のお申し込みが少ないです。
常日頃の布教活動の怠惰の表われです。大切だ大切だと言っている報恩講に、その魅力や意味を伝えきれていないことを申し訳なく思っています。
でも、ひと言。せっかく親鸞聖人の教えに触れているのに、報恩講にお参りせずに生きるのって勿体ないことですよ。
南無阿弥陀仏

2024年10月 2日 (水)

2024年10月のことば

2024年10月を迎えました。
9月に発生した豪雨により被災された皆様にお見舞い申し上げます。
私も長崎にて水害を経験しているので、雨が降っているときの恐怖心と、雨がやんだ後の景色・におい・生活は記憶に強く残っています。特に、大雨の被害に遭いながら、雨がやんだ後は思うように水を使えない生活になってしまう矛盾(というのかな)を目の当たりにしました。
山から大量に流れてくる水を汲み取りながら生活しました。町内の銭湯の親父さんが「近所の人にお風呂に入ってホッとしてもらいたい!」と言って、すぐに銭湯の環境を整えて営業を再開してくれました。大勢の人とギュウギュウになりながら湯船につかったことを覚えています。
不便な生活を送られていることと想います。体調を崩されませんように。
また、真宗大谷派の仲間も、被災地支援に向かっています。ご無事を念じております。

集中豪雨は異常気象によるものですが、10月に入っても暑さが続いています。
このブログを始めた頃、「どんなに天候が不順でも、彼岸花はちゃんと秋彼岸中に咲くから不思議です」という内容の投稿をした記憶があります。
秋彼岸前に暑い日が続いても、寒い日が続いても、彼岸花は見計らったかのように秋彼岸中に咲いていました。ほんと、不思議に思ったものです。けれど、ここ数年の猛暑は、そんな彼岸花の生命アンテナをも狂わせているようです。9月のお彼岸前、ほんの一瞬気温が下がったころに咲き始めた彼岸花もあれば、この10月に入って咲き始めた彼岸花もあります。あれだけキチンと彼岸中に咲いていた彼岸花の咲く時期がズレていることに、個人的には脅威を感じています。とはいえ、彼岸花は美しいです。

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10月に入っても暑いですが、やはり8月の暑さとは違います。
8月は、朝お墓参りにみえた方の墓地花が、夕方には水分を失いカラカラになっていました。
9月の秋彼岸の頃から、暑いとはいっても、墓地花は長持ちするようになりました(とはいっても、3日ほどですが)。
「いつまでも暑いですね」と言ってはいても、季節は確実に移ろいでいます。
寒くなれば、また暑さを求めることでしょう。
体調管理の難しい時代(とき)を迎えていますが、あなたのご無事を念じています。
南無阿弥陀仏

 😺 😺 😺

2024年10月のことば
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われ正しと思ったとき
すでに
われ正しという傲慢がそこに出ている

お見舞い申し上げます
石川県 能登地方での大雨による被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。
震災からの復興もままならないなかでの豪雨災害。被災された方々の心中をお察しするに余りあります。西蓮寺としても継続した支援をさせていただきます。

自然への畏敬の念を忘れてはいないか
2024年の夏は、猛暑と共に豪雨にも悩まされました。交通機関の計画運休もたびたび計画・実施されました。
進路予想もままならなかった台風10号。8月下旬あたりは台風情報に振り回されたのではないでしょうか。とはいえ、新幹線や飛行機の計画運休は、大切な決断であると思います。ここ数年で計画運休の理解も進み、計画・実施の発表が受け容れられるようになりました。
ですが、やはり計画運休に異を唱える方もいるわけで、「JRは計画運休を簡単にやりすぎだ」「計画運休の時間の幅が広すぎる。もっと天候情報を精査して、時間を限った運休にすべきだ」と語るコメンテーターもいました。動かないよりは動いた方がいいのは乗客だけでなく運行会社にとっても当然のことで、運休したくてしているわけではありません。自然現象をも掌握できると考える驕りが滲み出たコメントです。

思いを巡らすに、今夏のような異常気象は、原因はいろいろ挙げられていますが、私たちの経済活動によるものも原因の 一端ではあるわけです。私たちが、より良い暮らし、経済成長を求めてきた結果、 この猛暑を、豪雨を、運休をもたらしていることを想うならば、先ずあらためるべき見つめるべきは、運行会社の運休システムではなく、私たちの生き方考え方ではないでしょうか。

他者に求めることは多く、自己を問うことは少ない「私」です。

形作られれている「私」
9月18日 中国の日本人学校前で男児児童が刺殺される事件が起きました。その子のこと、またご両親のことを想うと胸が締め付けられるばかりです。南無阿弥陀仏
9月18日は「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん…満洲事変の発端となる鉄道爆破事件)が起こった日で、反日感情が高まりやすい日とされています。そのような日に起きた事件であるため、反日感情を持った容疑者が日本人を襲ったと記す記事もありました。容疑者の意図はわかりません。ただ、このような事件が起こるたび、「〇〇の国の奴らは…」といった、国民のすべてを十把一絡げに捉えた批判を耳にします。その批判は、反日感情と表現されている感情と同質のものではないでしょうか。平和や、差別のない世の中の希求を口にしながら「〇〇の国の奴らは…」といった発言をする人は、けっこういます。

思いを巡らすに、「私」の考え方・思想・行為などは、私自身が今まで経験してきたことだけが影響しているわけではなく、私以前からの歴史も影響しています。助けられた、優しくされたという記憶や歴史も受け継がれていますが、人権を蹂躙された苦しみもまた消えることはありません。
「した歴史」は薄れて消えてしまいがちですが、「された歴史」は胸に刻まれます。

人類の歴史上、争いの止んだ時期はないと言われます。「私」の歩みは、争いの歴史の延長線上にあると言えます。只今、このときも、この地球上のどこかで、人が人を殺めている、いのちをいのちと思わぬ行為が繰り返されている。争いの止むことを願うばかりですが、たとえ争いが止んだとしても、争いによって生じた傷や怨みや悲しみは「私」のこころにいつまでも刻み込まれていきます。

人類の持つ闇は深く暗い。けれど、人が人を傷つけることに悲しみの感情を持つ人は、より多くいます。事件のあった現場に献花に訪れる方々もいます。亡き人を弔い手を合わせる人びとがいる。その歴史・歩み・想いもまた、「私」を形作っています。

傲慢な「私」が生きている
「われ正しと思ったとき すでにわれ正しという傲慢がそこに出ている」のだけれど、思いを巡らすに、「私」が口に出すこと、態度で示すこと、それらはすべて、間違ったことをしている意識はないし(ある人もいるかもしれないけれど)、逆に「正しいことをしている」などということもその都度考えているわけではない。正しさの傲慢というよりも、私が生きている事実そのものが傲慢なのかもしれません。傲慢な「私」が生きている。

毎月寺報を綴り続けているのは、「親鸞聖人の教えを伝えたい」という一心だけれど、綴りながら思っていることがあります。この行為は、親鸞聖人の名を借りて白山勝久という傲慢をかましている行為であると。だから、親鸞聖人の教えに帰ることを肝に銘じています。

面々の御はからいなり
聖人は流罪で京都から越後に流された後、越後と関東の地で念仏の教えを説き広められ、晩年は京都に帰られました。
親鸞聖人が京都に帰られて後、関東の地では、聖人の教えが歪められ、教えを聞いてきた人びとの中に不安や焦りが広まりました。関東の門弟たちは決死の覚悟で、京都に居る聖人の元を訪ねました。
聖人は、師である法然上人からいただいた教えと、念仏を称えるところに阿弥陀如来がいてくださることを説き聞かせます。そして最後に語ります。

念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり
(『歎異抄』第2章)

「念仏の教えを信じようとも、また、捨てようとも、あなたがたひとり一人がお決めになることです」と。

命がけで京都まで訪ねてきた方々に、「あなたがお決めなさい」というのは、求められていることに答えていないかのように映るかもしれません。けれど、答えは訪ねて来られたひとり一人の身であり想いのなかにすでに出ています。「ひとり一人の人生という歩みに背景や歴史があり、あなたを形作っています。いま、あなたは南無阿弥陀仏と念仏を称えています。だから大丈夫。阿弥陀如来と共なるあなたに敬意を表します。南無阿弥陀仏」
そう仰っているように聞こえてきます。

 😺 😺 😺

掲示板の人形
今月の人形は、木製のネコの人形です。
両端のネコは、タイに行ったときに買いました😸😺
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2024年9月 1日 (日)

2024年9月のことば

9月を迎えました。2024年も3分の2が過ぎてしまいましたね。
9月は秋彼岸、10・11月は報恩講シーズン、12月は歳暮法要・新年準備等々で、2024年はあっという間に過ぎてゆきそうです。

台風10号の猛威・迷走により、私たち人間は振り回されました。自然にはかなわないものです。ご無事でいらっしゃいますか。
先月の投稿で書きましたが、京都での9月1日の講演は中止になりました(なので、只今自坊でブログを書いています)。福山雅治さん、堂本剛さん、ポルノグラフィティさんなどのコンサート等も台風の影響を鑑みて中止になっていますので、私の講演中止もまたやむを得ないことです(などとつぶやいたら、妻と娘から白い目で見られました)。
無事に過ごせることの有り難さ、大切さを感じるところです。

それから、もうひとつ先月の投稿で書きましたが、寺報入稿の件。
9月号は、昨日(8月31日)入稿しました。結局9月1日に印刷された寺報は間に合わないわけですが、今回は遅くなった理由があります。8月下旬に2泊3日の研修会に参加しました。そこでいただいた教えや出会った方々との会話からの気づきがあり、帰宅後に原稿を書き直しました。
研修会でいただいた教え。そこに集う人たちとの会話。研修会や道中での出来事。普段の生活では接し得ない言葉や事柄が、私を刺激します。新たな思い、違う角度からの物の見方、今までの思いをひっくり返されること。特に研修会(教えに聞く会)は、そんなことの連続です。研修会前に書き終えておこうと思って綴った文章など、一度の研修会でぶっ飛んでしまいます。研修会中に「つまんない文章書いてたなぁ」と思い、帰宅して全部削除したうえで書き直しました。って、入稿が遅れた言い訳にしかなりませんが。
今お伝えしたかったことは、教えにふれること、人と出会い話すこと、移動で景色が変わることなどは、机上だけで自分だけで考えた思考を吹き飛ばしてくれます。研修会という特別なことがなくても、実は日々の生活の中にだって私を刺激する出来事は散りばめられています。そのひとつ一つを楽しんで欲しいと思います。
今日(2024年9月1日)は日曜なので、明日2日から始まる学校が多いことと思います。憂鬱な思いをされている方もいることとお察しします。現実につらい出来事があるならば、休むことも逃げることも、生きることです。恥ずかしいことではありません(当時の私の中では、その発想がなかった)。特につらい出来事があるわけではないけど、気持ちが沈んでいるという方には、教えてもらうこと、人の話すこと(無理に会話する必要もないです)、通学路の景色をよく眺めてみること(私は、空を見るのが好きです。でも、気を付けてね)、それらのことから刺激を受けてみてください。こころを閉じているときは刺激もシャットアウトしてしまうけど、自分の気持ちを解放して、外の刺激を入れてみてください。新しい発見、今まで見えていなかったことの知覚、私が私としていることの気づきは、絶対に私を生かすはたらきとなるから。そのことを伝えたかったのです。

それから、今の気持ちを言葉に表わすのって、とても大事です。だから私も書き続けているのかもしれません。

 🐸 🐰 🐸 🐰 🐸

2024年9月のことば
(寺報版はこちら

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箸を持ち
茶碗をかかえるほどの面倒もないのに
両手を合わせておがむことは
なかなかむずかしい

迷っているのは
9月、秋のお彼岸を迎えます。お彼岸には大勢の方がお墓参りにみえます。墓前では両手を合わせていらっしゃいます。手を合わせるとき、なにを想っていますか? 
「安らかにお眠りください」「あの世で迷いませんように」。そのような声も聞こえてきます。
はて、先往く方は迷うのでしょうか?
8月、境内の第2掲示板に、次のことばを掲示しました。

 亡き人を案ずる私が、
 亡き人から案ぜられている

先往く方は諸仏となり、私に教えを届けてくださっています。「教えに出会いなさい」「念仏申しなさい」と休む間もなく呼びかけています。先往く方は、安らかに休んでもらう存在でも迷い彷徨う存在でもありません。
私が先往く人のことを想えるのは、先だって呼びかけをいただいているからです。
「先往く人が迷っているのでは?」と思う時とは、実は私自身が深い迷いを彷徨っていることの証です。先往く人のことを想うと同時に、私自身の姿を見つめる時間をいただいています。

この両手の中に
私は、どのような縁があって、今、ここにいるのでしょう。
親の縁、祖父母の縁、曽祖父母の縁…さかのぼればどれだけの人が私の誕生に関わっていることでしょう。当然、血縁に限った話ではありません。私が私となるために、どれだけの人との、いのちとの、事柄との縁があったことでしょう。実際に対面してお世話になった人ばかりではなく、生涯において会うこともない人びととの縁もまた、私であることに欠かすことのできない大切な縁です。
両手を合わせておがむ。私の目の前で合わさっている両の手のなかに、どれだけのいのちとのかかわりがあることでしょう。

「合掌」有り得ないことが起きている事実
合掌は、右手と左手を合わせます。
お釈迦さまが生きられたインド・ネパールでは、右手は清浄を表し、左手は不浄を表します。清浄なるものと不浄なるものは、本来ひとつとなるものではありません。しかし、合掌という所作は、清浄なるものと不浄なるものが合わさっていることを表します。つまり、有り得ないことが起きていることを表しています。
インドやネパールでは、手を合わせて「ナマステ」と挨拶を交わします。
「ナマステ」は、「南無阿弥陀仏」の「南無」の元々の言葉です。「あなたに会えてよかった」「あなたのことを大切に思います」「あなたに会うために、私は生まれてきました」などという意味・想いが込められた言葉です。目の前の人、ひいては私を生かすすべての人びと(いのち)に向けた敬いの気持ちが込められています。

お墓の前やお内仏(お仏壇)の前で、手を合わせて「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えること。そのことは、先往く方のことを想って「私が」なす行為ではありません。私に先立っていのちを尽くして往かれた方があってこそ、今、私は手を合わせることができます。それだけの縁のなかに「私が」いるということです。有り得ないことが、今、私の身に起きているのです。

墓じまい…しまえるものなどない
「墓じまい」が、まるで現代の流行かのように口にされています。
お墓を守る後継ぎがいないという現実的理由はあります。しかし、墓じまいはお墓を片付けるということだけでなく、手を合わせる場所・機会の喪失でもあります。
墓じまいをしても、お内仏の御本尊に手を合わせたりお寺の法話会に通い続けたりする生活が続くことを願いますが、「墓じまいをして気にかかることがひとつ減った」くらいに考える人にとっては、手を合わせる生活もなかなかむずかしくなることでしょう。

また、墓じまいの決まり文句として「子や孫に迷惑をかけたくない」ということを聞きます。
さて、迷惑をかけたくないという子や孫と相談したり気持ちを吐露したりされましたか? 私の経験上、たいてい相談はされていません。そして、実際に相談をされた方の多くは、お墓をのこしておられます。お子さんやお孫さんなどが「私が守るよ」と言ってくれるのです。
「他者(ひと)のためを思いながら、自分の頭だけで考えている思い遣り」は「迷惑」となる場合があります。

そもそも、「墓じまい」という表現が間違っています。まるでいらない物を片付けるかのようなネーミングです。
お墓とは何なのか。どうしてこの石の塊に向かって今まで手を合わせお念仏申してきたのか。何がそうさせてきたのか。キリがないほど人生への問いをいただいていました。「しまう」「片づける」などといった表現が当てはまらないのがお墓です。

さまざまな縁のもよおしによって私が私として、今、ここにいます。手を合わせる、否、手が合わさることは、私の想いなどを遥かに超えた縁のもよおしがあってのことです。手が合わさることをとおして、私が私としてあることを知る。そのことはまた、他者があっての私であることを知ることであり、阿弥陀如来の慈悲をかけられた身であることに目覚めることです。

簡単だけどむずかしい
両手を合わせておがむことはなかなかむずかしい。行為としては難しい所作ではありませんが、そのことの意味や私にまでたどりついた縁のもよおしを想うと、手が合わさることがいかに有り得ないことか、難しいことかが身に沁みてきます。そういう意味では、箸を持つことも茶碗をかかえることも、どれだけ有り難いことが私の身に起こっていることでしょう。
他者(ひと)に出会うということも同様です。会った事実があるから、出会えたことの難しさを気に掛けることは滅多にありませんが、大切に思うあの人と出会えた事実は、どれだけ難しい事柄であったことか。墓前で、お内仏で合わさる手のなかに見いだされる大切なあの人と、会ってはいたけど、本当に会えていたでしょうか。
別れは、出会いの意味を深めていく縁となります。南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
今月の人形は、鳥獣戯画に描かれているウサギ🐰とカエル🐸の人形です。
寺報の表紙絵を次女に描いてもらっているのですが、楽しい鳥獣戯画の絵を描いていました(ウサギとサルですが)。
ネットで調べたら、鳥獣戯画をモチーフにしたウサギ🐰とカエル🐸の人形があったので即購入しました。
人間の姿を揶揄しているのでしょうが、絵も人形も見ていて楽しくなってきます。

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