西蓮寺掲示板のことば

2018年12月 2日 (日)

2018年12月のことば

2018年も12月を迎えました。
「一年早かったね」「今年もあと一ヵ月だね」と、会話を交わします。でも、2018年、ここに至るまで、べつに時間の経過のスピードが上がったわけでもなく、330余日、一日一日誰もが過ごしてきました。
元日の一日も、12月に入って追われるように過ごす一日も、同じ一日。
あれほど汗かいてへばりながら過ごした夏の日も、寒さに震えて過ごす一日も、同じ一日。
今日という日を味わいながら生きていこうheart01

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2018年12月のことば

失ったものの大きさは
与えられていたものの大きさでもある

お育てをいただいています
私(副住職)が京都から西蓮寺に戻っておよそ25年。お寺での歩みは、そのまま門徒さんと歩んだ歴史でもある。幼少期から私を知っている人、京都から戻ってきた私を涙ながらに迎えてくれた人、叱咤激励くださった人・・・お育てをいただいてきたことを想う。
あるご夫婦が亡くなられました。昨年旦那さんが、今年奥様が亡くなられた。お二人には、幼い頃からお世話になりました。過日、奥様の納骨法要をお勤めした際、不意に涙がこぼれ、自分でもびっくりしました。想いを越えて、からだから自然にあふれました。それだけ大きな何かをいただいていたのですね。ありがとうございます。

出会いと別れはひとつの事柄
いのちあるものは、やがていのちを終えて往く。出会いと別れは別々のものではなく、ひとつの事柄。出会ったときに別れは始まっている。別れたときに、本当に出会えるということがある。あなたから与えられていたものの大きさに気がついたとき、初めてあなたに出遇えるということがある。
あなたの優しさ、温もり、声。与えられていたものの大きさに気がつくことができるのは、たいてい失ってから。でも、それでいいのだと思う。どんなに大切な人でも、不平不満がないわけではない。不平不満をお互いに持ちつつも、人間関係を築いてきた。だから、別れの後にこそ与えられていたものの大きさを感じられるのではないか。出会いと別れがひとつの事柄であるように、喪失と与えられているということもひとつの事柄。
出会いによって育てられ、別れによって与えられていたものの大きさに気がつく。そのような気づきが、人生を深めてゆく。

失うとは与えられていること
「失う」ということは、死別に限った話ではない。
同じ想いを抱いていた友と、こころが離れること/大切な物を無くすこと/充実して過ごしてきた時間も、時を経て次に進まねばならなくなるときがくること/今までできていたことが徐々にできなくなること/居るだけでこころ安らいだ空間が、姿形を変えてしまうこと・・・
思い返してみると、私は、さまざまなものを失いながら生きてきた。でも、それだけ大きなものを与えられながら生きてきたということの裏返しでもある。
喪失感だけが積もるならば、人はその淋しさから抜け出せず、生きる力までも失ってしまうことだろう。けれど、生きている。生きていける。そこには、私を生かす大きなはたらきがあるから。
大きなはたらきに照らされ、包まれ、支えられてある いのち。その支えなくして、どうして私が生きられるだろう。その大きなはたらきを阿弥陀という。

懺悔(さんげ)と讃嘆(さんだん)
「終活」で、自身の葬儀の準備をしている人が、その理由として「残された人に迷惑をかけたくないから」と言う。
淋しい響きを感じる。私が死んだ後、迷惑をかけるかもしれない人々とは、私の人生において関係を築いてきた人々。ということは、お互いに迷惑をかけ合いながら生きてきたということ。あなたが、残される人々のことを心配するように、残される人々もあなたのことを心配している。「寒くなってきた、元気でいるかな」「具合が悪いところはないかな」「ご飯ちゃんと食べているかな」と。
目に見えない大きなはたらき(阿弥陀)に照らされて、目に見える形でも支えられてある私。それなのに、与えられているものの大きさに気づいて、手が合わさるということは なかなか難しい。
関係を築いてゆくなかで、自分の生きる姿を見つめることがあるならば、そこには懺悔と讃嘆があることと思う。
懺悔と讃嘆、分かりやすく言うならば反省と感謝。反省と感謝に目覚めたならば、「迷惑をかけてごめんね」「私のことを心配してくれてありがとう」という言葉が生じる。
「ごめんね」「ありがとう」が生じる人の周りには、人が集まる。そして、その人にもまた「ごめんね」「ありがとう」という言葉が生じるだろう。
人間関係は、「ごめんね」「ありがとう」、つまり懺悔と讃嘆あるところに築かれてゆく。
浄土真宗の教えの道場(寺)は、自分の生きる姿を見つめる場として大切にされてきました。教えを聞いて、良い人間になるのではない。私の今ある姿を照らし出してくれるのが教え。教えに聞き、自分の生きる姿を見つめていると、懺悔と讃嘆が生じてくる。お念仏「南無阿弥陀仏」は、懺悔と讃嘆と共に、私の口から称えられる。
自身の葬送のことで、残される人たちを困らせたくない気持ちは分かるけれど、それは残された者が考えること。それよりも、「あぁ、やっと死んだか。さんざん迷惑をかけられたよなぁ」と思われる生き方をするのか、「今までありがとう」と言われるような生き方をするのか。自身の生き方を見つめることが「終活」ではないだろうか。「終活」という表現もおかしくて、生き方を見つめる活動だから「生活」なのです。

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掲示板の人形
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掲示板に飾ってある今月の人形は、手作りのサンタさんです。ご近所のご夫婦からいただきました。「お寺さんにサンタさんの人形はどうかなとも思ったけど、寺報に絵を描かれている娘さんたちにさしあげたくてheart02」と、いただきました。ありがとうございます。娘たちは大喜びです。長女は、デスクに飾って眺めていました。次女は、おままごとのように人形で遊んでいました。同じ人形をいただいても、遊び方はそれぞれなんだなぁと思いました。「12月の掲示板に飾っても良い?」と尋ねたら、「うん、いいよhappy01happy01」と喜んで言ってくれました。合掌している人形と一緒に飾らせていただいています。みんなちがってみんないい。バラバラでいっしょgoodですhappy01

今年も西蓮寺寺報「ことば こころのはな」をお読みいただき、ありがとうございます。お読みくださる方がいるおかげで、ことばが生み出されます。
2019年もことばを大切に。「ごめんね」「ありがとう」に「南無阿弥陀仏」の響きあり。
(追記)
ブログは、年内まだ投稿するかもしれません。

2018年11月 1日 (木)

2018年11月のことば

2018年も11月に入りました。報恩講月間です。西蓮寺報恩講は11月5日。お仲間のお寺への出仕も数ヵ寺あります。報恩講の法話も3ヵ寺でさせていただきます。貴重なご縁をありがとうございます。
毎年家族でご本山の報恩講にお参りしていますが、今年は10月に長女の得度でお参りしたので、報恩講の参詣はなし。
季節の変わり目、風邪をひかないように注意しているのですが、今年も10月から風邪をひいてしまいました。これで3年連続。なんでだろう? 皆様もお気を付けてpaper

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2018年11月 掲示板のことば
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他者を認めるとは、
自己了解が変わっていくこと

ご都合主義的な自己責任論
シリアで3年以上に亘り拘束されていた安田純平さんが解放され、日本に帰国しました。なによりも先ず、生きて帰られたことにホッとしています。
ネット上では、安田さんに対するバッシングが目立ちます。「渡航禁止地域に行って捕まったのだから自業自得だ」「解放されるためのお金は税金だ。お前が払え」等々、自己責任論が渦巻いています。
身内や親しい友人ならば、「どれだけ心配かけたと思っているんだ」「お願いだから、もう危険な所へ行くのはやめてくれ」など、文句や懇願も出ることでしょう。けれど、安田さんに会ったことも話したこともない多くの人々が、「自己責任論」を投げつける現状に恐怖すら感じます。
思うのですが、ジャーナリストとは自己責任を感じながら勤まる仕事でしょうか。「このネタを取り上げたら、自分の命が(地位が、肩書きが)危ういことになる。どうせ自己責任を押し付けられるのならば取材することを、記事にすることをやめよう!」ということになるのではないでしょうか。
安田純平さんは、紛争地域での取材ゆえ、「行った人間が悪い」「捕まった人間が悪い」という自己責任論が噴出していますが、私たちが日頃見聞きする情報も、それを取材・報道する人のおかげで、私たちが知るところとなっています。ジャーナリストが、報道することと自己責任を天秤にかけ、自己責任を大事にしたならば、私たちは自分たちが住む地域の出来事、国のたくらみ、世界の動きを知ることができなくなります。或いは、私の苦しみを伝えてくれる人もいなくなってしまいます。
他者への自己責任の押しつけは、自分への不利益となって還ってきます。

さて、直接関わりのない第三者には厳しく自己責任を押し付けますが、身内には甘いようです。
「会社の小切手をなくしてしまった」「会社のお金を使い込んでしまった。○時までにお金を返さないと会社をクビになる」「彼女を妊娠させてしまった」等々、オレオレ詐欺の常套句ですが、そこで「あっそう、自己責任だから自分で何とかしなさい!」と言い放つことができれば、オレオレ詐欺の被害も少しは減っていることでしょう。
身内の危機には、なかなか自己責任は適用されないようです。

独生独死独去独来
他者に自己責任を押し付ける前に、考えてみたいことがあります。

『仏説無量寿経』というお経に、
独生(どくしょう)独死(どくし)独去(どっこ)独来(どくらい)
「人は、独り生まれ、独り死し、独り去って、独り来る」とあります。
人は、生まれるのもひとりならば、死ぬときもひとりである、と。
また、
身自當之(しんじとうし) 無有代者(むうたいしゃ)
「身、自らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし」ともあります。
我が身に起きることは、誰にも代わってもらうことはできない。すべて我が身で引き受けねばなりません、と。
生まれるのもひとり、死ぬのもひとり。我が身の人生は、私自身が生ききらねばならない。
お釈迦さまの言葉が、厳しく、あるいは淋しく聞こえるかもしれません。けれど、人間の、いのちを生きる者の真実の姿です。
誰もが皆、私を生きるという責任がある、と聞こえてきます。責任は、「とる」ものではなく「ある」ものといただいています。
「独生 独死 独去 独来」という言葉で言い表されている「独り」とは、個々のことでもあり、みんなのことでもあります。独りのことでありながら、みんなのこと。矛盾しているようで、矛盾していません。
このような「独り」の感覚は、「共に」生きているということを意識させます。

わかる ことは かわる こと
LGBTの方々への偏見や差別が甚だしい世の中です。同性愛や、自分の理解を超えた性の思考を認め難い人が多いのでしょう。
自分の思考とは合わない人や事柄を認めるということは難しいことです。けれど、認められないのは自分自身の問題であって、他者の責任ではありません。にもかかわらず、認められないことが他者への攻撃に向いてしまっています。「自己責任論」も、認められない他者への攻撃なのでしょう。
「多様性を認めよう」という言葉を耳にします。多様性を認め合うこと自体は素晴らしいことです。しかし、自分自身は何も変わらずに、「あぁ、そういう人も(そういう考え方も)あるんだね」と上っ面だけの理解を示すのか。それとも、自分自身の想いがひっくり返されるのか。多様性を認めるということは、私の懐が広いから為せることではなくて、私自身が変わってゆくことです。
『わかる ことは かわる こと』という、養老孟司先生と佐治晴夫先生の対談本があります。
ただ単に「知る」ということは知識に過ぎず、「わかる」ということは、自分自身や周りの人に変化(「かわる」)をもたらす、と。「わかる」ということは「かわる」ことであるというやりとりがあります。
自分が頷ける範囲で他者を認めるというのは、本当に認めていることにはなりません。他者を知り、自分自身の想いが「かわる」。変化をもたらされる。自分にとっての常識がひっくりかえされる! 「わかる」ということには、そんな「かわる」ということがあるものです。
他者を認める、多様性を認めるというときに、「自分が正しい」というところに固執していては、認めるということはありえません。他者を認めるとは、他者を見る目が変わるのではなく、私自身がかわることなのです。

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掲示板の人形
11月恒例の親鸞聖人とお朋だちhappy01
鹿の人形は、10月に奈良に行ったときに買いました。
娘たちは、鹿せんべい欲しさに寄ってくる鹿に大興奮でしたheart04

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2018年10月 3日 (水)

2018年10月のことば

台風に見舞われた夏でした。台風24号は凄かったです。3日間掃除しても、まだ終わりませんcoldsweats02
境内の芙蓉が折れてしまいました。秋のお彼岸にちょうど花を咲かせて、お寺参りの皆さんに美しい姿を見せていたのに残念です。けれど、折れた部分を切っていたら、太い幹(折れた部分)に包まれるように若い幹が育っていました。共に曲がっていたのに、若い幹はしなっていて無事だったようです。もしかしたら、残された若い幹が育って、数年後に花を咲かせてくれるかもしれません。お楽しみに。

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うれしいときだけが〝きみ〟ではありませんよ。
     日野原重明

暑い夏でした
あれだけ暑かった夏が過ぎ、秋の気配が漂います。いつの間にかセミの鳴き声も消えました。着る物に悩みますね。アイスコーヒーよりもホットコーヒーが欲しくなりました。日の暮れる時間が早くりました。夏の夕暮れと違って、なぜ秋の夕暮れは淋しいんだろう? 窓の外では鈴虫が鳴いています。
暑さに文句を言っていた私は、じきに寒さに文句を言い始めることでしょう。夏は暑くて冬は寒い。この当たり前の現実を受け入れるということが、なかなか難しいものです。

蜆蝶(しじみちょう) 我の心の 中で舞え
この夏に出会った番組です。
Eテレ ETV特集(9月1日放送)
「蜆蝶 我の心の 中で舞え ~少年俳人・小林凜~」

番組の内容
「いじめが原因で不登校を続けていた少年俳人・小林凜。医師・日野原重明との対話を通じ、成長していった中学から高校までの3年間の軌跡を見つめ、生きるとは何か考える。
若者の自殺が多いこの時期に、いじめと不登校を経験した少年俳人・小林凜の言葉に耳を傾ける。小学校入学と同時にいじめにあい不登校となった小林凜にとって、俳句は辛い時期を乗り越える唯一の手段だったという。俳句を通じて出会った亡き医師・日野原重明との俳句文通もまた、彼の心を支えた。番組では小林凜が不登校だった中学2年生から高校へ進学するまでの3年間に密着。俳句という表現の持つ力について考える。」
(NHK ETV特集ホームページより)

年齢差90歳の親友
小林凜さんは2001年5月、予定より3ヵ月早く、944グラムで生まれました。
未熟児で生まれ、予断を許さない状況でしたが、危うい時期を乗り越え、成長します。しかし、小学校に入学すると、体が小さく、体力も弱い凛さんはいじめにあい、不登校になります。中学校でもいじめは続きました。
5歳の頃から俳句を詠まれていた凜さんが、不登校のときに詠んだ俳句です。

いじめられ 行きたし行けぬ 春の雨

ランドセル俳人として知られていた凜さんは、聖路加病院の日野原重明先生と出会い、俳句を通して親交を深められました。年の差は90歳。日野原先生は、凜さんの影響を受けて俳句を詠み始められました。
文通を重ねるなか、凜さんが学校でいじめを受けていることを受け、日野原先生は手紙に書かれます。

 凜君
 忘れないでいて欲しいことがあります。
 うれしいときだけが “きみ” では
 ありませんよ。
 どんなときの自分も大事にすること。
 生まれてきたことは、
 それだけで素晴らしいことです。

 君たちの 使える時間 それがいのち

ことばのキャッチボール
日野原先生のメッセージ「うれしいときだけが “きみ” ではありませんよ」。うれしいときはもちろんだけど、かなしいときも、つらいときも、いろいろなときもすべてひっくるめて あなた自身ですよ、と聞こえてきます。
大人は、「子どもには分からないから、難しいから」「子どもにはまだ早いから」などと、まるで自分は分かっているかのように小さい人を見下します。けれど、小さい人は小さい人なりに一生懸命考えて生きています。日野原先生は、90歳年下の凜さんに、自分の生きてきたすべてを投げかけます。凜さんは、90歳年上の日野原先生のいのちの声を受け止めます。俳句や文通を通して、ことばのキャッチボールをしてきたふたりの信頼と尊重し合う姿が伝わってきます。

この当たり前の現実を
つらい思いをしている人に、どのような言葉をかけられるでしょう?
「今はつらくても、ここを乗り越えればいいことがあるよ」というような励ましの言葉もありますが、難しいですね。そんな励ましの言葉に、「やまない雨はないからね」「明けない夜はないよ」「冬を越えれば春の訪れがあるよ」などがあります。
私自身、20代の頃は、そんな言葉に励まされもしました。「そうだなぁ。 いつまでも雨が降り続くわけはないし、今はつらくても、いつか雨がやむときがくる!」と思えました。
年を重ね、「それはちょっと違うなぁ」と考えるようになりました。雨が上がって陽光が射しても、またいつか雨は降ります。夜が明けて明るくなっても、夜はまた訪れます。冬の寒さに耐えて暖かい春を迎えても、夏が来て、秋が来て、そしてまた冬を迎えます。
雨の降るときも、闇夜の晩も、寒さに凍えそうな冬も、それらもひっくるめて“わたし”です。日野原先生流に言うならば、「晴れているときだけが“きみ”ではありませんよ」でしょうか。
思うに、「やまない雨はないからね」と言う場合、雨を起点にしています。けれど、晴れの日があったからこそ雨の日を迎えているのかもしれません。
人は、出会いの縁を重ねて生きています。けれど、出会いには別れが付きものです。あなたとの出会いという人生最大のうれしいときをもらいました。けれど、それゆえに別れの淋しさに怯え、別れのつらさに涙せねばなりません。それも含めての“わたし”です。雨の背景には必ず晴れの日があります。その晴れの日を知ることができるのは、雨の日があるからです。
この当たり前の現実を受け入れるということが、なかなか難しいものです。

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掲示板の人形
クマの人形 9月末に京都での仕事があり(日帰り・・・残念!!)、帰りに新幹線の待合所のお土産屋さんで買ってきました。
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2018年9月 3日 (月)

2018年9月のことば

暑い夏でしたsun
まだ暑さは続くことでしょうが、日の暮れる時間が早まり、朝晩が幾分過ごしやすくなり、虫の音が聞こえてきました。季節は秋へ向かっていますね。そうなると勝手なもので、夏の暑さも名残惜しくなっても来ます。
この夏、皆様いかがお過ごしでしたか。体調はいかがでしょうか。私は、毎日ホウキを持って掃除をしていました。一日に何枚もTシャツを着替えていました。体が動いているので夏バテをしている認識はありませんでした。けれど、事務仕事が思うように手に付かず、夜は子どもたちと一緒に寝ていました(いつもは、子どもたちが寝静まってから事務仕事や執筆をしています)。妻から「それって夏バテよ」と言われて、「あ、そうなんだ!」と思いました。体は動いても、やる気が起きないのも夏バテの表われなのですね。この9月号の寺報も、8月30日になってやっと書き始めました(あ、それは毎月か)。
夏バテが続いている方もいることと思います。涼しくなって、これから体調を崩される方も出てくるかと思います。どうかご無理なく、体調と相談して日々の生活をお送りくださいjapanesetea

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 悲しむということが、心ここに非(あら)ずになっていないか

私たちは、本当に悲しんでいるのか?
 天災 事件 事故
 理不尽な出来事
 権力を持つ者の暴走
 弱い立場にある者への圧力
 他者(ひと)の人生を蹂躙し、高笑いする者 
 人は、権力を持つと間違う
 悲しみの多い世の中だ。どれだけの人が涙を流していることだろう。

この地球という限られた環境に、70億を越える人間が生き、それ以上のいのちが生きている。人と人とが生きているのだから、助け合うこともあれば、争い合うこともある。人類の歴史は、そのまま悲しみの歴史でもある。悲しい出来事の多さに、今更驚きもしない。
けれど、ふと感じた。「私たちは、本当に悲しんでいるのか?」

ネットやテレビや新聞を通して、世間で起きている出来事を知り、悲しい出来事に涙を流す。けれど、涙の後に来るものは、加害者に対する憎悪。人によっては、被害者へのバッシングということもある。あいつが悪い、こいつが悪い。いやいや被害者にも問題がある、など。
悲しみは、通過儀礼に過ぎないのか。悲しんでいるといっても、悲しんでいる自分に酔っているのではないか。

慈悲
「悲」という漢字は、「両の手で心を引き裂く」形を象(かたど)っている。
両の手で心を引き裂く痛みとは、どれほどのものだろう。つまり、それほどの痛みを伴うのが「悲しむ」ということ。それなのに、痛みを感じることもなく、誰が悪いだの、何が問題だの、事情も理由も経緯も背景も知らない者が他者を裁く。まるで心が無いかのようだ。
などと考えていたら、「心ここに非ず」ということばが見えてきた。
私たちの「悲」は、「心ここに非ず」。悲しんでいるに違いないのだけれど、悲しんでいるそのときに、心は他のことを考えている。
本来の「悲」、悲しむ主体というのは私ではない。「心ここに非ず」な悲しみ方しかできない私のことを、悲しんでいるはたらきがある。それを阿弥陀という。阿弥陀は、私のことを悲しんでいる。私は、阿弥陀から悲しまれている。
阿弥陀の悲しみは、心を引き裂く痛みがある。衆生(生きとし生けるもの)への慈しみがあるからこそ、その痛みにも耐えられる。「慈悲」は、阿弥陀のこころ。私は、その「慈悲」を受けている。

みんなマイノリティ(少数者)
昨今、「多様性を認め合おう」ということが声高に言われている。その通りだ。だからこそ思う。どうして「多様性を認め合おう」と、わざわざ言われなければならないのか。それは、多様性が認められていない現実があるから。
自分の性別をどう表現するか、誰を好きになるかなど、どうして批判されなければならないのだろう。どうしてそうしたことを表明することを「カミングアウト」と表現し、決意・決心を必要とさせるのだろう。
国籍にしても、ハーフやクォーターの方々がいじめの対象になったり、特異な目で見られたりする現実がある。けれど、文化・芸術・芸能・スポーツなどの世界で優秀な功績を残すと、途端に「日本人」に引き入れて、わが国の誇りとばかりに讃える。性的少数者の方に対しても同じ。多様性は認め難いが、功績や名誉は認めやすいらしい。
「多様性を認め合おう」とは、多数派が少数派を認めてあげようという話ではない。この世は多数派と少数派で分けられると勘違いしている人が多いけれど、個人個人みんな違う。言うなれば、みんながマイノリティ(少数者)。 地球という大きな世界に、多数派に 混じって少数派がいるのではない。一人ひとり自分の世界を持つ者が集まって、この地球に生きている。多様性を認めるとは、私自身が少数者であることを知ることから始まる。

悲しみのない世界
「悲しみのない世界」を望む声を聞くけれど、悲しみのない世界って、どんな世界だろう。
悲しみを生み出す事柄がなくなる世界なのだろうか? 人と人とが出会いの縁を結び、関係を築きながら生きているからには、悲しみを生み出す事柄はなくならない。
悲しみを生み出す事柄がなくならないのに、悲しみのない世界を望むということは、悲しみを感じなくなることを望むことになってしまう。つまり、 悲しみを感じない私になるということ。

何が起きても気にしない。
誰かが困っていても無関心。
何を見ても、こころ動かされない。
何を聞いても、こころに響かない。

それは果たして生きていると言えるのだろうか。それで人間と言えるのだろうか。

悲しみのない世界を望むよりも、
涙をボロボロ流し、
声を出して叫び、
目の前の人と抱きしめ合いたい。

悲しいことが悲しいのではない。悲しみを悲しみと感じない私となることが悲しい。心を持って、痛みを感じて悲しむ私でありたい。

掲示板の人形
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2018年8月 1日 (水)

2018年8月のことば

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罪障(ざいしょう) 功徳(くどく)の体(たい)となる
こおりとみずのごとくにて
こおりおおきにみずおおし
さわりおおきに徳(とく)おおし
       親鸞聖人「曇鸞和讃(どんらんわさん)」

現代語試訳
私のなかにある罪や障り
罪や障りを抱える私であるからこそ
仏から功徳を与えられる身として
生きている
氷が大きければ
溶けたときの水の量も多い
それと同じように
大きな罪や障りの本体である私は
仏から多くの功徳をいただいている


2018年7月6日・26日
オウム真理教による一連の事件に関わる13人の死刑囚の死刑が執行された。3週間という短い期間で。日本においては法律で認められているとはいえ、人の手によって人を殺すということが、リアルタイムに行なわれた。衝撃・  無念・憤慨・恐怖・動揺・疑問・・・何も感じなかっただろうか? こころが動かされることはなかっただろうか?
死刑執行のボタンを押す刑務官は、その感触が残るという。その感触は、死刑が存置されている日本では、すべての人間が背負わなければならない感触だ。刑務官ひとりに背負わせるのではなく、「私もボタンを押した者のひとりである」という自覚が、果たしてあるだろうか。
そもそも、人が他者(ひと)を裁くということに無理がある。「私」は、果たして他者を裁けるような「私」だろうか? 裁ける「私」ではないのに、そのうえ他者のいのちを奪えるのだろうか?

人間のいのちを奪う生き物の1番は「蚊」だとのこと。年間約70万人超の人間が、蚊が媒介したウィルスによって死に至る。そして、2番目に多いのが  「人間」。年間約50万人弱。同じ種族どうしで殺し合う生き物は「人間」だけだと聞いたことがある。
今年の世界規模での猛暑。「人間は知能があるから、生きやすいように環境を変えることができる。そうして生きてきた」と語る学者がいた。地球誕生から46億年、原始生命の出現から40億年が経つという(諸説あり)。その歴史の中で、生命は、地球環境に適応するように姿形を変えてきた。適応できない生命は絶滅してきた。生命は、環境の変化に適応しながら成長するものなのだ。自分たちの都合に合わせて環境を変えようとするのは、地球に生きる生命体のすることではない。
人間は、同じ種族のいのちを奪う。人間は、環境に適応しようとするのではなく、人類に環境を適応させようとする。それらは、知恵があるゆえと言う者もいるが、果たしてそれが知恵のある生命体がすることなのだろうか。
人間の持つ罪や障りは、計り知れないほど大きい。必然、悲しみや苦しみも大きく深いものとなる。

本願海と群生海
本願海(ほんがんかい)
 阿弥陀の慈悲を、
 親鸞聖人は「海」に譬えられる。
 海のように広く、大きく、
 ほとりのない慈悲のこころ
 阿弥陀が私を想うこころ

群生海(ぐんじょうかい)
 私の中にある罪深さ、世への障りを、
 親鸞聖人は「海」に譬えられる。
 海のように深く、暗く、
 底の知れない欲望のこころ
 私が自分を見失っているこころ

正反対のものを、親鸞聖人は同じ「海」に譬えられている。
正反対と見ているのは、私の眼。罪や障りにあふれた私が、阿弥陀に救われるためには、そこに接点がなければならない。
蚊(にこだわるわけではないけれど)は、人間のことを、私たちが目にするような人間の形としては認識していない。蚊からすれば、人間はあまりに巨大すぎて、形としては認識できないらしい。 
阿弥陀の慈悲も、「計り知れない 罪障を持つ私のことを包みこんでくださるほど大きい」のであれば、その慈悲に気付くことは、誰もできないだろう。
阿弥陀の慈悲に気付き、温もりを感じ、涙を流し、生きる支えとしてきた人たちがいる。そのような人たちが、 阿弥陀の慈悲を語り、記し、生き抜いてくれたおかげで、「南無阿弥陀仏」の念仏が今、私にまで伝わっている。
そのためには、罪や障りが必要だった。罪障心が、阿弥陀の慈悲心に匹敵する大きさだからこそ、自身の罪障の大きさを自覚した人たちが、阿弥陀の慈悲を感得できた。親鸞聖人も同じ。
だからこそ親鸞聖人は、阿弥陀の慈悲と私の罪障を、同じ「海」に譬えられた。罪障の自覚は、阿弥陀の救済の自覚となる。

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掲示板の人形
ヤクルトスワローズ マスコット つばくろうhappy01
7月、神宮球場に試合を見に行ったら、無料配布していましたgood
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2018年7月 7日 (土)

2018年7月のことば

日本各地、大雨の警報が発令され、大雨による被害も出ています。被害が拡大しませんように。
1982年(昭和57年)に長崎の水害を目の当たりにし、ほんの少しの時間差で今にいのちを長らえさせていただいている身として、ここ数年毎年起る大雨の被害には、恐怖を感じています。どうか不要の外出はお避けください(と、言われながらも、避難所へ避難しなければならない状況にある方もいるわけで、無事を念じるばかりです)。

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他人と過去は変えられないが、
自分と未来は変えられる。
   エリック・バーン
(カナダ出身の精神科医)

痛みのない非難
「きょうよりかもっともっと あしたは できるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください」
少女の悲痛な叫びに涙しました。
どのようなニュースであろうとも、目を背けずに向き合おうと努めているけれど、このニュースはなかなか正視できませんでした。
どれだけの恐怖を、悲しさを、そして、親への愛を小さな胸に抱いていたことでしょう。

小さい人が虐待を受け、そしていのちを奪われる事件が報道されると、「虐待した親を許せない」「児童相談所は、警察は何をやっているんだ。救える命だったはずだ」「いつまでこんなことが続くのか」などという声を耳にします。
虐待した親に対し、怒りが湧き起こるのは当然です。しかし、「いつまでこんなことが続くのか」と悲しみながらも、児童相談所や警察の怠慢だと憎しみを込めて歎く。他人事として見ているに過ぎません。
児童相談所で働く方1人当りが担当する案件が何件くらいあるか・・・想像したことありますか?  とてもすべての子どもを、家庭をカバーできるものではありません。しかし、日夜懸命に努めていらっしゃいます。現に救われているいのちもあるはずです。
人は、ミスに対するバッシングは容赦なく浴びせますが、私たちの生活のために日々尽力されている人に対して、感謝のことばをかけることはしません。
虐待の報道に涙する人は多い。けれど、保育園や幼稚園の設立を拒む人もまた多い。拒むことがいけないと言っているわけではありません。それは当然の権利です。しかし、自分の身の回りの環境を整えるために、子どもやその親を疎ましく思いながらも、子どもが傷を負うニュースに涙する矛盾に気がついていますか? 痛みを感じていますか? 自分が犯している罪の深さを、 もっと背負ってもいいのではないでしょうか。
痛みのない非難が、他者(ひと)を苦しめています。悪循環を作っているのですから、いつまでもこんなことが続くことは自明のことです。

今ある私
いつの時代も、人の苦しみ悲しみが消えることはありません。人が他者を傷つける報道を目にするとき、私たちは真偽も分からぬ情報や数少ない情報を元に犯人捜しに興味を示し、容疑者が捕まると、容疑者のみならずその身内の者にまでもバッシングを浴びせて溜飲を下げています。
犯した罪は、決して償いきれるものではありません。罪を犯した者は、たとえ刑期を終えたとしても、背負い続けねばならない責任があります。
しかし、物事にはそうなるに至った経緯や背景があります。罪を犯すことにしても、経緯や背景があります。経緯や背景が生まれるには、さまざまな縁が重なりあっています。私たち一人ひとりも、決して無縁ではありません。

親鸞聖人のことばです
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」(『歎異抄』)
「そうあるべき縁がもよおしたならば、どのような行いもしてしまう」という教えを学び、「私も、縁がもよおせば何をしでかしてしまうか分かりません」と言う人もいますが、そのセリフは、起こり得ない前提として語っているようにも聞こえます。「いくら縁がもよおしても、私はそんな酷いことはしません」と。
「さるべき業縁のもよおせば」とは、これから先のことを言っているのではなく、今ある私のことを語っています。誰もが、縁によって私として生を受け、縁によって今の私として生きています。虐待した親も、虐待に恐怖する子も、救えなかったと悔やむ人も、他者を責めるだけの人も。みんな同じです。

未来は、この瞬間の延長線上にある
「いつまでこんなことが続くのか」という歎きは、本当は「何とかしたい」という叫びだと感じます。
悲しみを縁として、「何とかしたい」という叫びが私のこころの奥底から噴き出してきました。私の気持ちをそのように変えさせたのは、人の世の悲しみです。それならば、私が変わることによって人の世の悲しみを変えることができるのかもしれません。などと考えるのですが・・・
お釈迦さまの教えの根本は「縁起の道理」。「あらゆるいのち・物事・事柄は、縁によってつながっている」という教え。自然にそのようになっているということ。つまり、自分の意志で世の中を、他人を、自分自身でさえも、どうこうできるものではないのです。
ないのですが、人が他者を傷つける事件が相次ぎ、その度に自分を抜きにした他者批判が渦巻く世の中で、このままではいけない!と感じています。 私は、縁というつながりの中を生きる一人。他人事なことなどなにひとつなく、すべて当事者なのですから。

6月23日「沖縄慰霊の日」。相良倫子さん(沖縄県浦添市立港川中学校3年生)が自作の、平和の詩「生きる」を朗読されました。その一部です。

 

私は、今を生きている。
 みんなと一緒に。
 そして、これからも生きていく。
 一日一日を大切に。
 平和を想って。平和を祈って。
 なぜなら、未来は、
 この瞬間の延長線上にあるからだ。
 つまり、未来は、今なんだ。

未来は、この瞬間の延長線上にある。つまり、未来は、今。
未来のことを想うなら、今なんだ!

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掲示板の人形
6月23日は沖縄慰霊の日。
6月25日~27日 沖縄へ行ってきました。シーサーの色に惹かれました。
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2018年6月 1日 (金)

2018年6月のことば

2018年6月のことば

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なむあみだぶつ
 人の世の悲しみは尽きないけれど
 阿弥陀の慈悲は常に私を照らす

なみだ
「涙が枯れ果てて」ということばを耳にし、こころに引っかかっています。
溢れんばかりの涙をこぼし、いつまでも止まらぬ涙に衣服を濡らす。やがて嗚咽の声も小さくなり、あんなに溢れていた涙も流れることをやめる。

涙をこぼしたのはいつだろう。
なぜあんなに泣いたのだろう。

くるしいとき  
つらいとき
くやしいとき  
いたいとき
さみしいとき  
かなしいとき

自分の想いを誰にも理解してもらえないとき
自分のしでかしたことの罪の重さに押しつぶされそうなとき
「うれし涙」ということばもあるけれど、うれしさが表出する奥底には、堪え忍んできた苦しみや、歯を食いしばるほどの努力がある。

辛苦の涙と
歓喜の涙があるわけではなくて、
涙の源は悲しみ

「涙が枯れ果てて」という表現が耳の底に残ったのは、枯れ果てた涙はもう こぼれないのかといえば、そうではないから。「もう流す涙もない」「体中の水分が抜けるくらい泣いた」と思うほど泣いた。それほど泣いたのに、またあるときふと涙がこぼれる。
涙をこぼす。「こぼす」を漢字で書くと「溢す」。「溢」は「あふれる」という意味。涙は、あふれ出ているんだ。あんなに泣いたのにまだ涙が溢れ出る。泣けるって、人間って凄いな。

涙は、枯れ果てることがない。なぜならば、起きた出来事、起こした事柄が、こころに刻み込まれているから。人の世の悲しみは、尽きることがないから。
ここまで書くと「泣けない自分は冷たい人間ですか?」という声も聞こえてきそうだけど、そうではありません。
涙を多く流したから悲しんでいて、流さないから悲しんでいないわけではなくて。涙をこらえさせる大きな堤防はなんだろう。意地・世間体・憎しみ・・・堤防の正体はいろいろだけど、こころ揺さぶられる出来事が私の身に起きていることは事実。溢れんばかりの涙を流すこともあれば、からだの中に涙をためることもある。 どちらにしても、枯れ果てることのない涙が、私の内と外とで波打っている。

あわれというも中々おろかなり
「友だちの死が悲しくて、いつまでも泣いていたら、ある人から「あなたが泣き続けていたら、亡くなった友だちが悲しむから、泣いてはいけないよ」と言われました。泣いてはいけませんか?」
と尋ねられたことがあります。
「泣いていいんですよ。どれだけ泣いたっていい。悲しいときは泣きましょう」と応えました。
本願寺8世蓮如上人(1415~1499)が書かれた「白骨の御文」に、身内の死に際し、尽きることのない悲しみが描かれています。

(原文)
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、 ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。

(現代語試訳)
今、無常の風が吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、呼吸は永遠に途絶えてしまいます。血の通った顔もはかなく色あせ、桃や李(すもも)のような瑞々(みずみず)しい美しさも失われてしまいます。無常の風が吹いたその時、家族や親族が集まり歎き悲しんでも、元気な姿を再び見せることはありません。
いつまでも悲しんではいられないと、火葬し、夜中、火も燃え尽きて煙が立ち昇る頃には、後にはただ白骨が残るばかりであります。悲しいというだけでは言い尽くせません。

かけがえのない人との別れは、悲しいというだけでは言い尽くせません。枯れ果てることのない涙が流れるのは、いつの世も変わりありません。

無明を照らす涙(ともしび)
涙は、感情の表出。自分でも分からなかった自分が見えてきます。自身に何事も起らなければ、誰もが自分の気持ちさえ分からずに、真っ暗な無明の闇を生きています。闇の中にいることすら気づかないままに。涙は、無明の闇を照らす、ほんの小さな明かり。一滴(ひとしずく)の涙が、今まで見えなかったものを照らし出します。無明を歩いていた私のこと。人の世の尽きせぬ悲しみ。人の世の悲しみをすべて受け止め、  救わんと願われた阿弥陀の慈悲。
人の世の悲しみと阿弥陀の慈悲。 親鸞聖人のことばが響いてきます。

無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
生死大海(しょうじだいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
     (「正像末和讃」)

(趣意)人の世の悲しみにこころ痛めています。けれど、出口の見えない暗闇だと立ち尽くすことはありません。阿弥陀の慈悲の船・筏(いかだ)が私を乗せて、人の世の悲しみという大海を渡らせてくださいます。

涙は、人間がつくるいちばん小さな海。
みんな海でつながっています。

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かえるのピクルスhappy01happy01
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2018年5月 1日 (火)

2018年5月のことば

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人類は、生類の一部であるとき、はじめて人類たり得る。

生と死
かつて、ある場所で法話をした後の座談会での話。
「衛生状態の悪い国の人って、子どもをたくさん産むじゃないですか。どうしてあんなに産むんでしょう。産むべきでないと思うんだけど」と、語る人がいました。
私の法話に対しての感想・意見ではなかったので、私がその尋ねに応えることはしませんでした。けれど、私はこころの中で思いました。「それは、生きているからです」と。
帰宅して、座談会での声を妻に話すと、妻は「それは、死ぬからだよ」と話してくれました。同じことを考えているなぁと思いました。「生きているから」と「死ぬから」。表現は反対ですが、言わんとしていることは同じです。
衛生状態の悪い国は、政治状況や治安も良くはないことでしょう。そのような環境は、子どもを産み、育てるには適していないと、座談会で語られた方は考えたのでしょう。そんな気持ちも、分からなくはありません。しかし、いのちあるものは、子孫を残すことを第一に考えます。「考えます」という表現もおかしいですね。考えるまでもなく、計算するまでもなく、いのちとして、我がいのちを懸けて子孫を残します。そういう意味において、私は「生きているから」と思いました。
環境が落ち着いた場においては、死は非日常としてしか映りません。しかし、環境の良くない場では、死は日常です。いのちが、次から次へと絶えてゆく。死が日常にあるからこそ、子孫を残すことに必死になります。生類として当然必然の営みです。おそらく、そういう意味において妻は「死ぬから」と言ったのだと受け止めています。
しかし、「人間は、最も優れた生物である」とか「人間は、万物の長である」などという考え方に立ってしまうと、「子孫を残すために生まれてきたわけではないだろう」とか「より大切な使命があって生まれてきたはずだ」などと思い、「生類の一部である」ことを忘れてしまうことでしょう。そのことは結局、いのちの否定、人類の否定につながるのですが。

石牟礼道子さん
今月のことばは、今年2月10日に亡くなられた石牟礼道子さんと交流のあった若松英輔さんが、彼女の綴ったことばを受けて表現されたものです。若松さんの文章は続きます。
「しかし、人類は、いつしか生類とのつながりを自らの手で断ち切ったのではないか。」と。
 (参考「週刊金曜日」1178号 2018年3月30日発行)
石牟礼道子さんは、人間の極限的惨苦を描破した『苦海浄土』で水俣病を告発し、豊穣な前近代に取って代わった近代社会の矛盾を問い、自然と共生する人間のあり方を小説の主題にすえておられました。
阿弥陀さまの浄土へ還られた彼女の眼を通すと、近代社会の人類は、生類とは切り離されてある。いや、生類から自ら切り離してあろうとした人類が、行く場を見失って放浪しているように見えていたのかもしれません。人類は、すでに人類たり得なくなっている、と。

反対言語=同義語
さて、「生きているから」と「死ぬから」は、表現は反対だけれど、言いたいことは同じであると書きました。その妻との会話のおかげで、「反対の意味の言葉は、同義である」という感得がありました。

たとえば「生」と「死」。
法話で、「生と死は、切り離して考えられる事柄ではありません。死を忌み嫌いながら生活していますが、生があっての死であり、死があってこその生です」などと話すのですが、そう言っていることが、「生」と「死」を違う事柄と認識して語っているように思いました。
懸命に生きることができる背景には死があり、死んで終わりではなく、死して後も、私として生きた瞬間(いのち)は、次のいのちとして生き続ける。
「生」と「死」は、見え方はまったく違うけれど、それは見る角度の違いなだけで、いのちの姿として違いなどありません。

たとえば「ありがとう」と「あたりまえ」。
法話における問いかけで、「“ありがとう”の反対は何だと思いますか?」という問いがあります。答えは「あたりまえ」です。
「ありがとう」は、「有り難う」と書きます。有ることが難い良い出来事が我が身に起きた。だから「ありがとう」と感謝の気持ちが湧いてきます。一方、「あたりまえ」は日常です。あって当然です。「あたりまえ」という気持ちに「ありがとう」という感謝は芽生えません。それゆえに、「ありがとう」の反対は「あたりまえ」なのです。
誰かのためを思ってしたことに「ありがとう」の一言がないとムッとしますよね(お礼を言ってもらうために為したわけではないのだけれど)。相手にしてみれば、「あたりまえ」なだけです。逆に、「ありがとう」を言われたとき、「え、あたりまえのことをしただけなんだけど」と、ビックリしたことはありませんか? それらを思い返してみると、「ありがとう」と「あたりまえ」は、決して反対の事柄というわけではなく、人によって表現が変わっているだけなのです。
食事を共にする家族。食事できることを「あたりまえ」のことと思っているけれど、食事の1回1回が「ありがたい」出来事です。悲しいかな、そのことに気づくのは、失ってから。「あたりまえ」が崩れたとき、「ありがとう」も一緒に崩れます。「ありがとう」も「あたりまえ」も同義です。
「あたりまえ」のそのときに、「ありがとう」を忘れずに!

「人類」と「生類」も、そもそも同義です。それなのに、いつの頃からか反対言語としてしまった。それゆえに、生類と切り離してあろうとした人類は、人類たり得なくなってしまいました。

セクハラやパワハラのニュースが、現代社会の様相をあぶり出しています。ハラスメントは、自分の優位性を保ちたいがために、他者を見下し、貶める行為です。性別や生まれや信仰する宗教等々、他者の尊厳を、自分には相容れないものとして考えています。つまり、他者を自分とは「反対言語」として捉えているのです。そのことは、自分自身の尊厳を自ら傷つけることになります。
他者と自分(私)を、「反対言語」ではなく「同義」として頷く。

私は、
他者と共にある中での一人であるとき、
はじめて私たり得る。

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掲示板の人形
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右は、昨夏 長崎のガラス細工屋さんで買ったステンドグラス製の「カブト」です。やっと飾るときがきましたhappy01
左は、「鯉に乗る少年」の陶磁器です。

2018年4月 1日 (日)

2018年4月のことば

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咲いた花見て喜ぶならば
咲かせた根元の恩を知れ

花びらは散っても 花は散らない
春のお彼岸お中日に雪が降り、子どもたちが喜んで雪だるまを作っていました。そうかと思えば、お彼岸が明ける頃には気温も上がり、桜が開花し、瞬く間に散っていきました。
誰から教わるでもなく木々は芽吹き、花は咲きます。もっと愛でていたいという願いをよそに、花は散ってゆきます。だからといって木々や花々は死んでしまうわけではありません。一年後の同じ頃、誰に起こされるでもなく、また芽吹き、また咲きます。

私は、目に見えるものだけ、目に見えるところだけで物事を判断・評価してしまいます。けれど、目に見えている部分なんてほんの一部に過ぎません。春、私たちの目に映える桜。花があり、枝があり、幹があり、根があります。そして、大地があり、雨の恵みがあり、厳しい冬の寒さと春の陽光があって花が咲きます。桜の開花を喜ぶならば、花を咲かせるための縁や恩があることを忘れたくありません。
根元の恩だけでなく、さまざまな事柄が縁となり、恩となって支えています。散った花びらも、枯れ朽ち、大地に還り栄養となり、木々を育てます。そして一年後、花を咲かせます。いのちの循環です。

春彼岸中、玄関から庭を眺めていると、今年はやたらと鳥の鳴き声が聞こえてきました。庭を見回すと、松や白梅や百日紅(さるすべり)の幹の空洞から鳥が出入りしている姿が目に入りました。空洞が出来るほどの木々です。かなり年を重ねています。特に白梅は、これだけ幹ががらんどうになりながら、よく毎年こんなにも美しい花が咲くものだなぁと感動します。幹の空洞が、鳥たちの休息の場となっています。
根元の恩だけでなく、年を重ねた木々の空洞にも恩がありました。

形は滅びても 人は死なない
私が私となるために、どれだけの人びととの出会いがあったことでしょう。どれだけの書物やことばとの出会いがあったことでしょう。楽しいことも辛いことも含めてどれだけの出来事と遭遇してきたことでしょう。そのすべてが根となり、幹となり、私が私となりました。
私という花びらが散った後も、後を生きる人に何かを残し、新たな花が咲くものです。形は滅びても、人は死なない。

恩は普遍的
先に「目に見えるものだけ、目に見えるところだけで物事を判断・評価してしまいます」と書きました。けれど、果たしてどれだけ見えていることでしょう、どのように見えていることでしょう。
境内の掃除をしていると、「こんなところに木が植わってたっけ? こんな花が咲いてたっけ?」と思うことがあります。西蓮寺で何十年と生活させていただき、掃除をしてきたのに、未だにそんなことがあることが驚きであり、笑えることでもあります。
同じものを見ていても、人によって見え方・感じ方は違います。ある人にとって「かわいい」「きれい」に見えるものも、他の人には不快に見えることもあります。太陽や虹の絵を描いても、国や人によって、その色や色の数は違います。
自分の見え方・感じ方が正しいとは言い切れません。また、どこかに正解があるわけでもありません。見え方・感じ方は人それぞれ、千差万別です。でも、根元にある恩は普遍的なものです。
「咲かせた根元の恩を知れ」という、その「恩」とは、花を咲かせてくれた恩という意味ではなく、喜びの感情を与えてくれた「恩」ではないでしょうか。咲いた花を見て私は足を止め、喜び、感動し、いろいろと考えます。こころを揺さぶり、動かしてくれた恩。忙しさを理由に、花を見て感動するという余裕も失いがちです。感動や共感というこころの揺れを押し殺し、無表情な感情で日々を過ごしていませんか。喜怒哀楽という感情を持ち合わせているのです。こころの揺れや変化があってこそ、生きていると言えるのではないでしょうか。
こころを揺さぶり、動かしてくれるものから、私は「恩」をいただいています。

人生に必要な知恵は
3月、次女が幼稚園卒園式を迎えました。幼稚園卒園は人生で初めての別れの儀式ではないでしょうか。次女は、どのようなこころの揺れを感じたことでしょう。卒園に際し、幼稚園からいただいたロバート・フルガム氏のことばをご紹介致します。今の私の根元には、幼少期にいただいた恩がありました。

『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』

人間、どう生きるか、
どのように振る舞い、
どんな気持ちで日々を送ればいいか、
本当に知っていなければならないことを、私は全部残らず幼稚園で教わった。
人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。
私はそこで何を学んだろうか。

何でもみんなで分け合うこと
ずるをしないこと
人をぶたないこと
使ったものは必ず元のところに戻すこと
散らかしたら自分で後片づけをすること
人のものに手を出さないこと
誰かを傷つけたら、
ごめんなさい、と言うこと
食事の前には手を洗うこと
トイレに行ったらちゃんと水を流すこと
焼きたてのクッキーと
冷たいミルクは体にいい
釣り合いのとれた生活をすること
―毎日少し勉強し、少し考え、
 少し絵を描き、歌い、踊り、遊び、
 そして、少し働くこと。
毎日必ず昼寝をすること
表に出るときは車に気をつけ、手をつないで、離ればなれにならないようにすること。
不思議だなと思う気持ちを大切にすること。

ロバート・フルガム(池 央耿訳)

掲示板の人形
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2018年3月 1日 (木)

2018年3月のことば

2月28日から3月1日にかけて、天候が荒れましたが、曇り空が晴れると、暖かい日射しとともに明るくなってきました。春も近づいていますねhappy01
が、春一番が吹くかもtyphoon 花粉症持ちには、つらい季節です。春が近づいていますねweep
以下、3月の掲示板のことばですcherry

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赤い実のなる木に赤い実がなった
木の満足
  竹部勝之進

人間が求める満足は人それぞれ
ピョンチャンオリンピックが閉幕した。開会前は、アスリートのための大会を政治が踏みにじり、スポンサー第一の運営に辟易し、関心もなかったのだけれど、オリンピックが始まると、アスリートのパフォーマンスに見入ってしまった。国を越え、性別を越え、すべての選手・スタッフにありがとうという気持ちでいっぱいです。これから始まるパラリンピックも楽しみです。
最高レベルの技術を持った選手たちが集まる大会。自国の選手を応援する気持ちが湧き起こるのは当然のことかもしれませんが、競技全体を見ていれば、どこの国の選手であろうと、表現される力に目を奪われる。メダルの色では計れないすばらしさが、競技中のみならず、その前後に溢れている。
テレビ桟敷(現代ではネット桟敷か)の観衆は、メダル獲得に満足を求める。結果、競技そのもの、プレーヤーその人を見ず、メダルやその色に目を奪われる。ひとつでも上の順位を、ひとつでも上のメダルを目指しているのは、誰よりもプレーヤー自身に違いない。しかし、鍛錬を積み、より高次なレベルになればなるほど、「この人にはかなわない」という嗅覚も鍛えられていく。決して諦めてしまうという意味ではなくて。
観衆はメダル獲得に満足を求めるが、プレーヤーは、結果よりも、競技ができること自体に、「この人にはかなわない」と思えるほどの選手と競えることに満足を見出しているかもしれない。また、金メダルを獲得しても、自分のパフォーマンスに納得できずに満足感がないプレーヤーもいるかもしれない。順位は振るわなかったけれど、自分の中では最高のパフォーマンスが出来たと、満足感を得たプレーヤーもいることでしょう。どこで満足を得るのか得ないのか、いつまでも満足感が続くのか、次の瞬間には失せてしまうのか。人間が求める「満足」は、人それぞれです。

どのような状態でも憂う私
お釈迦さまのことばです。

田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。(中略)田なければまた憂えて田あらんと欲(おも)う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う。    
  「仏説無量寿経」

(田畑や家があれば、それらの維持管理に迷い、誰かに取られはしないかと心配し、無ければよかったのにと憂鬱になる。田畑や家がなければ、それらを求めて、また憂う)

人間の本質的な姿は、お釈迦さま在世の2500年ほど前も、それ以前も、現代も、まったく変わりありません。満足を求めて生きるのだけれど、なかなか満足は得られない。たとえ「満足した!」と瞬間は感じられても、次の不満が生じる。本当の意味で満足を得るということはありません。
さて、「満足」を、人間が求めて、努力・追求をして手に入れるものだと思い込んではいないでしょうか。「満足」は、人間が求め、人間が為すものではありません。すでに我が身にいただいているものなのですから。
「満足」は、元々「円満具足」といいました。「円満」は、たとえるならば、円形の縁(ふち)のある器に、なみなみと水が注がれている様子。「具足」は、何も欠けることなく、すべてが具わって(備わって)いる様子。つまり「円満具足」とは、何も欠けることなく満ち足りている様子を意味します。では、なにがそれほどまでに「円満具足」しているのか。阿弥陀如来の、私への慈悲心です。阿弥陀の慈悲心が「円満具足」・・・「満足」しているからこそ、私が私として生きています。国を越え、性別を越え、時代を越え、個々の能力を越え、すべてのいのちに阿弥陀の慈悲心は注がれ、満ち満ちています。人間は、自分に欠けたものを求めて満足を得ようとします。しかし、すでに満足しているからこそ、私がいます。
他者(ひと)と比べると、自分には何かが欠けていると感じるものです。今の自分に嫌気がさしたり、今の自分に無いものを求めたりします。しかしそれは、私に欠けている何かがあるのではなく、自分自身を見つめる眼を失っているだけです。「自分のことは自分が一番わかっている」などというセリフを聞きますが、自分のことを一番わかっていないのは、実は自分自身です。わかっているのなら、今の私以上を求めないし、今の私を卑下しない。わかっていないから求める。見えていないから落胆する。

一生を尽くしてでも遇(あ)わねばならない人

たとえ一生を尽くしてでも
遇わねばならない
ひとりの人がいる
それは私自身
     廣瀨杲

自分の想い(理想)で作りだした私を探し求めて憂う私。でも、遇わねばならない私とは、理想の私ではなく、この私自身。阿弥陀の慈悲が円満具足している私。その私自身に出遇う旅が、人生の目的なのかもしれない。
思春期は、「自分はどうあるべきか」「自分は何をしたいのか」「本当の自分はどこにいるのか」を求めて、「自分探しの旅」に彷徨う時期です。その時は苦しくても、大切な時期です。今の自分に足りない何かを求めて彷徨っていたけれど、すでに満ち足りていた。「青い鳥」のようだけれど、彷徨った時間があるからこそ、出遇えた温もりがある。

いのちの満足

人間は
一生を通して誰になるのでもない
自分になるのだ
    中野良俊

一生を通して自分になる。自分という大樹の根が張る大地には、阿弥陀の慈悲心が地下水の如く円満具足している。
例えとして、私の名前で書かせていただきます。

白山勝久のなる木(いのち)に
白山勝久がなった
木(いのち)の満足

あなたも、自分のお名前に置き換えてお読みください。

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掲示板の人形 おひなさま
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