西蓮寺掲示板のことば

2021年2月 1日 (月)

2021年2月のことば

2021年2月のことば 法話YouTube

 ☕ ☕ ☕

毎月毎月、寺報を早く作ってしまおうと思っているのに、
毎月毎月、月末に焦っている。
1月は、ずっと書き続けていたのだけど、なんか違う(納得いかない)。
月の終わりの日になって、ゼロから書き直す。
で、書けてしまう不思議(内容の良し悪しは別の話として)。
でも、それまで悩みながらも書いていたから、書けるんだろうなとも感じる。
悩み続けること、試行錯誤し続けることは、私の中で蓄積されていく。
蓄積されたものがあるから、なんらかの形となって表れてくる。
今から3月号を作ろうかなと思っても、出来ない不思議。
南無阿弥陀仏(‐人‐)

 ☕ ☕ ☕

2021年2月のことば

Dsc_5834_20210201172501

良き日 悪しき日 言う勿(なか)れ。
今日一日の有り難さ。
       金子大榮

良き日 悪しき日 言う勿れ

先ずは伝えたい。
日に、良き日 悪しき日などないということを。
限りあるいのちを生きていながら、どうして日の良し悪しを理由として自分の行動を制限するのだろう。

そして考えたい。
良き日 悪しき日 言うときに、誰の顔が浮かんでいるのかを。
自分や、自分に身近な人たちにとっての良き日 悪しき日ではないだろうか。

この世のすべてのいのち、すべての事柄は、縁によって起こるとお釈迦さまは説かれました。縁によって起こるということは、縁によってつながっているということ。

であるならば想像したい。
縁によってつながっているのだから、
自分にとって良いことが起こるそのとき、つらい思いをしている人がいるということを。
自分にとって都合の悪いことが起こるとき、同時に利益を享受している誰かがいるということを。

良き日 悪しき日 言うけれど、混然一体の世の中には、良いも悪いも同時に起こっている。自分や身近な人だけで収まる話ではない。
新型コロナワクチンが開発され、その接種が始まっている。ワクチンを持つ国持たない国、お金のある国 貧しい国。いのちに関わる事柄を利用して、権力争いの駆け引きが始まっている。
良いも悪いも、私から離れたどこかにあるわけではない。私も含めて、禍福織りなされた世界が起こっている。

からだは休むことなく活動している。いのちはみな懸命に生きている。良き日 悪しき日など考える暇もなく。

かなしきかなや

日に良し悪しなどないということを、多くの人はわかっているのだろう。けれど、世間の常識とされている事柄に異議を唱えることもはばかられるし、もし悲しい出来事に遭おうものなら、日の良し悪しを無視したからではないか?と不安に陥ることも否定できない。

親鸞聖人はその悲しみを説かれた。

かなしきかなや道俗の
 良時吉日えらばしめ
 天神地祇をあがめつつ
 ト占祭祀つとめとす
   (「正像末和讃」)

 (試訳)
 今の世を生きる僧侶も世間の人々も、
 良い時・吉日をえらぶことに囚われて、
 天の神・地の神をあがめながら、
 占いや祭祀に努めています。
 なんともかなしいことです。

限りあるいのちを生きているにもかかわらず、迷信に心惑わしながら、我が身の行いをえらんでいる。心の痛むことである、と。

今日一日の有り難さ

このコロナ禍、外出することも、外食することも、旅行をすることも、人に会うことも制限されている。

テレビを見ていると、街頭インタビューでこのように応える声を耳にするようになった。
「今まであたりまえと思っていたことが、実はありがたいことだったんだなぁと思うようになりました」と。

大切な気づきです。今、この言葉の背景をじっくりと考えてみたいのです。でなければ、新型コロナが収束した折に、ありがたいと実感した事柄も、いとも簡単にあたりまえのことにしてしまうのですから。

街の声で聞こえる「ありがたいこと」とは、その人だけに(そう思えた人だけに)起きた事柄でしょうか。

私たちが普段口にする「ありがとう」は、個人的な喜びや感謝の表われであり、普遍性はない。一過性のものであり、持続性もない。

けれど、街の声で聞こえる「あたりまえと思っていたことが、実はありがたいことでした」と気づかされた、その「ありがたいこと」とは、すべての人びとの身に今までずっと起こっていた事柄。

「あたりまえにしていたことが、ありがたいことでした」と思えた人にだけ、ありがたい出来事が起こったわけではありません。今まで生きてこられたのは、ありがたいことの積み重ねだった。それが、縁に生きるということなのでしょう。けれど、ありがたいことも積み重なると、人間はあたりまえのこととして錯覚してしまうのです。

あたりまえと思っていたことが、実はありがたいことだった。

ありがたいと思ったことは、実はあたりまえのように私を慈しみの心で包み育ててくれていた。

「ありがとう」と「あたりまえ」は、正反対の事柄ではなく、同義の事柄であると思うようになりました。

ありがたい事柄とは、特定の誰かに起こるものではなく、すべての人に起こる普遍的であり持続性のある事実。

特定の人だけが蒙る利益ではなく、すべての人びと、すべてのいのち、すべての事柄を包み込むはたらきがある。

だからこそ、本当に有ることが難い。

「今日一日の有り難さ」と言われても、つらいこと、悲しいこと、思い通りにいかないことがあれば、「今日はなんて日だ」「今日はついてない」という思いに支配されてしまう。私の思いとしては、とても「ありがたい」なんて思えない。

けれど、私が「ありがたい」と思えなくても、有ることの難いはたらきに、あたりまえのように包まれている。だからこそ、さまざまな出来事に遭うなかでも、からだは、いのちは生きようとしている。

有り難い縁によって「南無阿弥陀仏」と称えるとき、すべての人々を、すべてのいのちを、えらばず、嫌わず、見捨てることなく救うと願われた阿弥陀の慈悲が、あたりまえのこととして我が身を包んでいることに気づかされる。

合わせる手に温もりを感じつつ 南無阿弥陀仏

 ☕ ☕ ☕

掲示板の人形
だいぶ昔、
京都で買ったウサギの(お手玉の)人形と、
長崎(ハウステンボス)で買ったチューリップの人形(“ちゅーりー”と言うらしい💖)。

Dsc_5817 Dsc_58342

 

2021年1月 1日 (金)

2021年1月のことば

みなさま 明けましておめでとうございます

うん、やっぱり “みなさま” だ! “明けましておめでとうございます” だ💖
つらい思いをしている人、悲しい気持ちに押しつぶされそうな人、淋しさのなかにある人、そういう方がいることも分かっています。けれど、そういう方々のなかでは年が明けない・・・なんてことはなく、どのような状況に身を置いていようとも、年は明けました。新しい年を迎えました。
明けたからなんなんだ? 明けたからなにがおめでたいんだ? つらい思いをしている人に「おめでとう」と言えるのか? という思いから「明けましておめでとうございます」という挨拶はしない!という声を聞きます。
でも、私はそれは違うと思う。挨拶は、人と人との間で交わされ続けてきたことば。そこには他者(ひと)を思う温もりや、存在を認める(確認する)気持ちや、今年もよろしくね!という思いが籠っている。
何かおめでたいことがあったとか、おめでたいか否かが問われるべきところではない。
年が明けて、今起きていること(特に悩み悲しみ)がリセットされるわけではない。何も変わらないんだけど、人間は節目がなければ、いつまでもずっと悩み悲しみを背負い続けてしまう。節目として、悩み悲しみ以外に目を向ける気づきとして、「明けましておめでとうございます」と声をかけてきたのだと感じます。そこから外れる人は誰もいません。

あらためて、みなさま 明けましておめでとうございます(‐人‐)

元日といえど、いつものルーティンに変わりはありません。
まだ暗いうちに外に出て、掃除。
寒さに震えながらも、背中に熱を感じました。
振り向くと初日の出🌞
日の光に温もりを感じます。
2021年も、厳しい寒さ(大変な事柄)のなかにも、温もり(私をささえるもの)がありますように。
南無阿弥陀仏

Dsc_5665

 🐄 🐄 🐄

2021年1月のことば

Dsc_5675

名号(みょうごう)不思議海水(かいしい)
 逆謗(ぎゃくほう)死骸(しがい)もとどまらず
 衆(しゅあく)万川(ばんせん)帰(き)しぬれば
 功徳のうしおに一味なり
     親鸞聖人曇鸞和讃

今月のことば 意訳

「南無阿弥陀仏」の名号のはたらきを海(うしお)にたとえるならば、
他者を誹謗中傷して生きている、まるで屍(しかばね)のような私をも放ってはおかない。
尽きることのない煩悩を抱えて生きる私は、まるで淀み濁った川のようだ。
人の数だけある無数の淀み濁った川々が、阿弥陀の大海へと流れ入っていく。
にもかかわらず、淀み濁った川が大海を汚すのではなく、阿弥陀の功徳の大海に摂(おさ)め取られて一味となる。
私の汚れ濁りはそのままに、阿弥陀と一味となっている。

衆悪の萬川

私の姿を川に譬(たと)えるならば、どのような川が想像されるだろう。

 澄んで魚が活発に泳いでいる川だろうか、

 濁って川の底が見えない川だろうか、

 淀んで悪臭を放つ川だろうか・・・

新しい年を迎えるころ、人々は、厳しい寒さの凛とした空気を見習うかのように、我が身を正そうと誓う。

 他者(ひと)に優しく

 自分に厳しく

 周囲のことに気を配り

 環境に優しく

 心穏やかに・・・

我が身を正そうとする誓いというのは、つまりはそれが出来なかった自分がいるということ。

けれど、出来なかった自分を悔い改めたうえで新たな誓いを立てる者はいるだろうか。

松の内が明けるころ、当然の如くまた元の日常へと戻っていく。

年末年始の新たな誓いは忘却の彼方へ。

私の姿を川に譬えるならば、どのような川だろうか・・・

 

縁起の道理

もっとも、
自分で意識して我が身を正すことができるのであれば、もう少しましな私に、もう少しましな世の中になっているのではないだろうか。

とはいえ、
身を正すことが難しいのは、自分に甘くなってしまうからでも、自分の決意が緩いからでもない。

私がなす行為は、自分の意思で決定し、自分が努めて成し遂げていると思ってはいないだろうか。

果たしてそうだろうか。

人は、いや、この世のすべてのいのちや物事は、縁によって起こり縁によって滅してゆく。

無数の縁の重なり合い響き合いによって、生命は誕生し滅し、物事は生じ転じて収まりゆく。

お釈迦さまは、私たちの生きている世界の成り立ちを「縁起の道理」として説かれた。

たとえば、まなびやも、仕事も、連れ合いも、「自分で選んだ」と語る人がいるけれど、それはあまりに周りが見えておらず淋しいこと。

受験するにも、自分の頭の程度や周囲のレベル、経済などの兼ね合いがある。

仕事にしても、誰もがやりたい仕事に就けるわけではない。

連れ合いに関してはなおさら。先方との縁が整わなければ、共に歩むことなどできない。

いのちを授かり、明日とも知れぬ いのちを こんにちに至るまで生きてきた。

振り返ってみて、私の意思や希望自体、私が起こしたものだろうか。

 この学びを極めたい、

 この先生の元で学びたい、

 この仕事をしたい、

 この人と一緒に仕事がしたい、

 この人と人生の喜怒哀楽を共にしたい・・・

そのように私が思うこと、そのこと自体が、さまざまな縁の響き合いによって、私が思わせていただいたこと。

お釈迦さまの教え、「縁起の道理」は、ひとりではない私を照らし出している。

海のなかには母がある

縁に生きているがゆえに、人間は支え合いもするし、傷つけ合いもする。

人間の汚れ濁りを清めなければ 阿弥陀の慈悲のこころに摂め取ってもらえないならば、誰一人として弥陀に助けられるものはいない。

阿弥陀は、縁に生きる人間の姿(そこには、人間の喜びも悲しみも怒りも淋しさも含まれていて、人間の優しい側面も濁った側面も見えている)と真向かいになり、五劫思惟、はてしない時間をかけて思惟して思惟して、そして人間を、すべての生きとし生けるものを救いたいと誓願を立てられた。

阿弥陀の大海に流れ入ることを許されるのは、清浄なる川ではない。

どんなに淀み濁った川であっても、すべての川の流れを受け入れる。

そのままを受け入れ、摂め取る。

煩悩の身である私「衆悪の万川」を、阿弥陀の大海は拒むことなく受け入れる。

どれだけ汚れた「逆謗の死骸」が混じろうとも、

無数の「衆悪の万川」が流れ込もうとも、

阿弥陀の大海が濁り淀むことはない。

「衆悪の万川」と「功徳のうしお」は、水と油ではない。ともに同じ水である。

 

親鸞聖人は、掲示した和讃に続いて次の和讃を詠まれている。

 尽(じんじっぽう むげこう)
  大悲大願(だいひだいがん)海水(かいしい)
  煩悩衆流(しゅりゅう)帰しぬれば
  智慧(ちえ)のうしおに一味なり

阿弥陀如来は衆生を呼んでいる。
衆生を救わんと願う大悲大願の大海に、浅はかな知恵で、少しでも他者より秀でようと争いながら生きている人間という川々が流れ込んでも、阿弥陀の智慧の大海と一味となる。

海の水は蒸発し、雨雲となり、雨を降らせて自然の恵みとなる。

降った雨は、また大海へと流れ帰る。

大海と一味となったいのちは、次のいのちを生んでいく。

南無阿弥陀仏

 🐄 🐄 🐄

今月のことば YouTube版

 🐄 🐄 🐄

掲示板の人形
2021年 丑年(うしどし)ですね。
毎年1月は干支の人形を飾っています。
ひとつだけ、牛じゃない人形がいました(*^▽^*)

Dsc_5678

2020年12月 1日 (火)

2020年12月のことば

2020年も12月を迎えました(あ、先月と同じ書き出しだ💦)。
12月は師走とも言いますが、“師走”というと慌ただしい雰囲気が出てきますね(坊さんが暮れの読経で走り回るという意味があるからでしょうか)。
日が暮れるのも早くなりました。同じ24時間なのに、一日の経過が早く感じます。
コロナ第3波が襲来していますが、暮れだからといって慌てず騒がず丁寧に過ごしたいものですね。
寒さも本格化してきました。暖かくしてお過ごしください(換気もしなければいけないから難しいですが)。

 ☆ ☆ ☆

2020年12月のことば

Dsc_5570

感謝と陳謝
謝には、
 ありがとうと
 ごめんなさいが
 入り混じっている。

報恩謝徳 「謝す」ということ

11月、ご本山 東本願寺で「報恩講」が勤まりました。本年は、ご本山報恩講にお参りすること叶いませんでしたが、ライブ配信のおかげで、画面を通して参拝・聴聞することができました。
画面には映らない多くの方の尽力があり、教えが、遠くにいる私たちにまで届きました。
教えが私にまで届いた恩徳に報謝することを「報恩謝徳」といいます。11月、「報恩謝徳」について考えました。

真宗の法座では、最後に、親鸞聖人が著わされた「恩徳讃」を唱和します。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

ストレートに意訳すると、
「阿弥陀如来からいただいている慈悲のおこころの恩徳は、
身を粉にするほどに報じる(報いる)ものである。
私に至るまでお念仏を届けてくださった先達のご恩徳にも、
骨を砕くほどに謝するものであります。」
となります。

「恩徳讃」の最後に「謝すべし」とあります。「謝す」と言われたとき、どのような態度を思いますか?
信仰の対象や神仏に「謝す」と言った場合、多くの方が「感謝」を思い浮かべるのではないでしょうか。「恩徳をいただき、ありがたいことです」と。
さて、振り返ってみて、私はどのようなときに神仏へ謝しているでしょう。
願い事が叶ったとき、大きな災禍なく過ごすことが出来たとき…などではないでしょうか。つまり、自我・自欲に応えてもらえたことに対する「謝す」です。ということは、自我・自欲どおりにならないときに「謝す」気持ちは起こりません。私の「感謝」は、自我・自欲に縛られています。果たして、それが「謝す」ということでしょうか。

「謝す」について考えていて、「謝」には「感謝」の他に「陳謝」「謝罪」という熟語もあることを思いました。「謝す」には、「ありがとう」だけではなく、「ごめんなさい」もあります。

ありがとう

私が「ありがとう」を言うのは、感謝の想いからだけでしょうか。

「ありがとう」を言う相手は、私がすべきことをしてくれました。私が費やすべき時間を費やしてくれました。私が受けとめるべき悲しみを共に受けてくれました。それらのことに対する「ごめんなさい」の気持ちがあって、「ありがとう」という想いが、言葉が生まれてくるのではないでしょうか。

ごめんなさい

私が「ごめんなさい」を言うのは、お詫びの気持ちからだけでしょうか。

「ごめんなさい」を言う相手は、私がすべきことをしてくれました。私が費やすべき時間を費やしてくれました。私が受けとめるべき悲しみを共に受けてくれました。それらのことに対する「ありがとう」の気持ちがあって、「ごめんなさい」という想いが、言葉が生まれてくるのではないでしょうか。

私の「ありがとう」「ごめんなさい」

と、書いていて思いました。「ありがとう」も「ごめんなさい」も、その言葉を発する根っこには同様の気持ちがあるということを。
「感謝」と「陳謝」。「謝」には、2種類の想いがある…のではなくて、ふたつの想いが入り混じり、ひとつなのです。
果たして、私の「ありがとう」と「ごめんなさい」の内面は、どのようになっているでしょうか。

たとえば、このコロナ禍において、「医療従事者に感謝を伝えよう」というメッセージを見聞きします。医療従事者に「ありがとう」を伝えるとき、そこに「ごめんなさい」はあるでしょうか。
医療に従事される方々の苦労に「ありがとう」の気持ちはあっても、“私”がその苦労をかけているという自覚があるでしょうか(実際にお世話になっている方はあると思いますが)。
“私”とは、罹患者・疾病者のみを指しているのではありません。医療とは、すべてのいのちが対象です。たとえ今はお世話になっていなくても、“私”がいつ病気や怪我をしても診てもらえる。その準備がされている。そういうことを想うと、“私”が伝える感謝には陳謝も伴ってもいいはずです。
果たして、私の「ありがとう」と「ごめんなさい」は、入り混じり、ひとつとなっているでしょうか。

たとえば、地下鉄サリン事件の井上嘉浩元死刑囚のことを思います。
私は、寺報やブログで「死刑制度は公の殺人であるということを忘れてはならない」「誰もが罪業を抱えている」ということを書いてきました。そのような私に、『「生きて罪を償う」 井上嘉浩さんを死刑から守る会』に携わっている先輩が声をかけてくださり、会の機関誌である『悲』に寄稿するご縁をいただきました。
『悲』発刊後、先輩から写メが送られてきました。井上嘉浩さんが、寄稿者ひとり一人の名前を書き、「感謝しています」と綴った手紙でした。
「感謝しています」。井上嘉浩さんからいただいた、最初で最後の言葉です。
彼の「感謝しています」の根っこには、深い懺悔があります。罪を犯したのだから懴悔があって当然だと思われるかもしれません。しかし、誰もが皆罪業を抱える身として生きています。そんな“私”の「ありがとう」の根っこに「ごめんなさい」があるでしょうか。井上嘉浩さんからの「感謝しています」の一言に、「謝す」ということの大変な意味を感じています。

南無阿弥陀仏

☆ ☆ ☆

掲示板の人形
2020年12月の人形は、サンタとパンダと合掌する子どもたちです(^∀^)
手作りのサンタ人形は、お寺の近くにお住いの男性からいただきました。理由(わけ)あって親元から離れて施設で暮らしている子どもたちのために、毎冬サンタ人形を作って贈っているとお聞きしました。
「副住職、お寺さんにサンタはおかしいかもしれないけれど、お寺の新聞に書かれているお嬢さんの絵に癒されているので、サンタ人形をプレゼントしていいですか?」と声をかけていただきました。ありがとうございます。今年で3年目になります。サンタも増えて賑やかになりました。
パンダ人形は、秋田の弟が娘たちに贈ってくれたものです。そういえば、上野動物園のパンダのシャンシャン🐼は、今年いっぱいで中国に返還される約束なのですね。一度だけお目にかかりましたが、お別れは淋しいものです。惜別の想いを込めて、パンダ人形も飾りました。
合掌している子どもたちの人形も一緒に飾り、多様性の意味も込めました。
新型コロナウイルスの収束も願いつつ、新しい年が穏やかな年になることを念じてやみません。

Dsc_5539

Dsc_5571

2020年11月 1日 (日)

2020年11月のことば

2020年も11月を迎えました。
「秋の日は釣瓶落とし」と言いますが、ホント日が暮れるのがあっという間になりました。
夕方5時前、境内の掃除&見回りのため外に出るのですが、外に出たときは「まだ明るいなぁ」と思うのですが、それから数分のうちに辺りが暗くなっていきます。作業が終わらないうちに暗くなってしまいます😲
朝晩は冷えますね。お風邪など召しませんように💛

 ☆ ☆ ☆

2020年11月のことば

Dsc_5402

 

人に会い
人を知りなさい
それは
自分を知る旅だよ
   『ミステリと言う勿(なか)れ』

報恩講(ほうおんこう)

報恩講の季節です。報恩講は、宗祖親鸞聖人のご法要ではありますが、亡き人 親鸞聖人を偲ぶための場ではありません。聖人の教えにふれる場、人と人とが出会う場、教えを通して 自分に出会う場が報恩講です。

例年、西蓮寺では11月5日に報恩講をお勤めしていますが、新型コロナウイルスを鑑み、本年は休止にしました。「報恩講」やそれに先立つ「仏具お磨きの会」など、門徒さんが集う場を休止せざるをえず、あらためて報恩講が勤め続けられてきたことの意味を感じています。

縁起(えんぎ)の道理(どうり)

お釈迦さまは、「縁起の道理」を説かれました。「この世のあらゆる物事は、縁によって生じ、縁によって滅す」と。

人も私も誰もが、縁によって生じ、縁によって人や事柄に出会い、縁によって阿弥陀の浄土へと還って往きます。

縁によってつながる私たちです。お互いに影響し合いながら生きています。人と自分とは、決して分断されているわけではありません。

「人に会い 人を知る」とは、個々の人柄や思想、生まれ育ってきた背景を知るということではなく、「人に会いながら生きている自分」であることを知ることだと思います。

「人に会いながら生きている自分」は、今までに無数の人に会い、育てられてきました。実際に会ったことがある人だけではありません。会わずに一生を終えるであろう人びとと共に生きています。私が口にする食べものを、私が身に着けている衣類を、作っている人がいます。自分を知るということは、多くの人との関係が結ばれながら生きている、そのことを知ることです。

「縁起の道理」を生きている私です。人を知ることは自分を知ることであり、自分を知ることは人を知ることです。

 愚禿釋親鸞(ぐとく しゃく しんらん)

「自分を知る旅」という言葉から、親鸞聖人を想いました。

聖人は自らを「愚禿親鸞」あるいは「愚禿釋親鸞」と名告(なの)りました。
「愚」は「愚か」。
「禿」は「道を求める心もないのに、生きるため食べるために出家した形だけの僧侶」を意味します。
そのような「愚禿」の名告りには、どのような意味(想い)があるのでしょう。

聖人は、念仏の弾圧を受け、遠流に処されます(「承元の法難」)。僧籍をはく奪され、京の都から越後へと流されました。

流罪の地 越後へ渡る際、聖人を乗せた船の船頭に会います。板一枚下は地獄、つまり、日本海の荒波に呑み込まれればたちまちに命を失う仕事を生業(なりわい)としています。
越後の地は、京の都とは比べ物にならないほど寒く、土地は荒れ果て、過酷な自然の猛威にさらされた地でした。そのような地で、懸命に生きる人びととも出会いました。

船頭や越後の人びととの出会いを縁として「この人たちがいなければ、私はいない」という気づきがありました。

聖人は、人間は それぞれの思いはからいで生きるものではなく、縁によって生きるものであることを、遠流に処されることによって実際体験しました。

自身の懸命な修行によってさとりをえようと考えていた独善的な歩みが打ち砕かれ、人と共に生き、阿弥陀と共にある自分であったという気づき、懺悔と讃嘆(反省と感謝)の目覚めが、「愚禿釋親鸞」の名告りとなりました。

不安や混沌(こんとん)

ここ数年、自分の考えや思想のみをより所にし、自分の理解の許容範囲外の人びとを排除する行為が目に余るようになってきました。

悲しみの色合いが濃くなっているように感じます。

つながりを大切にする思いもあれば、少数者・弱者を排除する思いもあります。あたかもそれぞれの人がいるかのように考えてしまいますが、つながりを大切にする者と排除を思想する者、それぞれの人がいるわけではありません。あい反する両方の顔を、誰もが持ち合わせています。

平和を希求しながらも争いが生み出され、排除を思想する者どうしの絆が生まれる。「不安や混沌に覆われた世の中」などと、現代社会の様相をまるで外の景色のように語るけれど、その景色を描いているのは私自身でした。

私の外の景色の、悲しみの色合いが色濃くなってきたのではありません。

私(個)の想いを世界中に表現・拡散しやすくなった世の中にあって、個と個の想いが入り混じりやすくなりました。

その色は、決して心落ち着く穏やかな色ばかりではありません。

そうなるのは、元の個の心根の色が濁っているからではありません。

平和を求める心や、自分が是とする者が集まれば理想的な世界になると想像する心。

その心は、安心を求める心でしょう。

けれど、平和を希求して争いが起こり、理想的な世界を作ろうとして排除が起こる。

個の心根は、決して濁っているわけではない。けれど、個と個が出会って混ざり合えば、必然色は濃く濁ってゆく。

この濁りは、人類通じてのいのちの濁り。

濁りの中にいると、私自身が濁りを作っているということに気づきません。

その気付きを与えてくれるのが、仏教の視座、阿弥陀の眼差し。

阿弥陀の眼差しを、私自身の濁りを知るために、仏法聴聞するのです。

南無阿弥陀仏

 ☆

今月のことばは、田村由美さんが描くミステリー漫画『ミステリと言う勿れ』からの引用です。
主人公の久能整(くのう・ととのう)君は、他人に干渉されることが苦手な大学生。自分のペースで過ごしたいのに、事件に巻き込まれていきます。持ち前の記憶力や観察眼で、目の前で起きている物事の本質を見抜き、事件を解決していきます。
掲示したことばは、整君が大学の先生からかけられたことばです(7巻参照)。誰にでも通じる言葉であると感じました。

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
毎年11月は、親鸞聖人と友だち(朋)
朋が増えてゆきます(^-^)
Dsc_54022

2020年10月 1日 (木)

2020年10月のことば

2020年 10月を迎えました。
玄関前にあるキンモクセイが薫り始めました。
10月1日は 中秋の名月(十五夜)🌕 月がきれいです💓
サンマも恋しい時期ですが、高値となったサンマ、今年は何度口にできるでしょうか。

 ☆ ☆ ☆

2020年10月のことば

Dsc_5317

我慢は、それほど大変ではない。
大変なのは、やせ我慢。

「我慢」している

新型コロナウイルスと共に過ごしてきた2020年も、早や10月を迎えました。さまざまな制約や制限や要請があるなかを、誰もが過ごしています。生活に「我慢」を強いられています。

そう遠くないうちに、新型コロナウイルスも収束するにちがいないという望みがあるから、「我慢」できているのかもしれません。

とはいえ、「我慢」といえば、このコロナが流行していようといなかろうと、誰もが皆それぞれに「我慢」しながら生きてきたのではないでしょうか。

人と人とが関係を築きながら生きています。すべてが自分の思い通りになるわけではありません。自分の思いを押し留めなければならないときもあります。他者(ひと)への心遣い、気配り目配りも大切です。自分の思いを留めているならば、誰もが皆、コロナ以前からある程度の「我慢」をしながら生きてきたのではないでしょうか。生活は、人生は、「我慢」と共にあります。

思うに、「我慢」は、できるからしているのです。無意識のうちに。「我慢」できているかぎりにおいて、それほど大変なことではありません。

けれど、「やせ我慢」は、意識して「我慢」しているのですから大変です。「我慢」していることを、他者に気づかれないように「我慢」し続ける。心身ともに負荷がかかり、疲れてしまいます。「やせ我慢」は、文字通り身も心も痩せ細っていきます。できることならば、自分の心に嘘をつかないで生きたいものです。それもまた難しく、さらに「やせ我慢」の種となるのですが。

大相撲九月場所が終わりました。正代関、優勝おめでとうございます。

大相撲といえば、「やせ我慢」を信念としてきた力士がいます。今年の一月場所限りで引退した大関豪栄道関です。

引退会見で、豪栄道関は、

「やせ我慢というのが心の中にあって、辛いときや苦しいときに、人にそういうところを見せないようにやってきました」と語っていました。

自分の心と向き合い、他者のことを想いながら「やせ我慢」を貫いてきた。そのようにして身体を張って相撲を取っていたのですね。誰にも気づかれないように尽くしていた「やせ我慢」が、人の心に響いていたのかもしれません。

「やせ我慢」は、大変なことです。

本来の「我慢」とは

さて、ここまで、現代使われる意味(「辛抱」や「忍耐」など)での「我慢」について書いてきました。

けれど、「我慢」の本来の意味は、「辛抱」や「忍耐」ではないんです。

「我慢」とは、「我(私)の慢心」ということです。

「私に執着するあまり湧き出てくる、他者を軽視する心」のことを言います。仏教では、「増上慢」「卑下慢」と教えます。

「増上慢(ぞうじょうまん)」
さとりを得てもいないのに、さとったと言い張る心。
うぬぼれの心。
他者よりも上にいると思い込む心。

「卑下慢(ひげまん)」
他者より劣ることは分かっているのだけれど、それを認められない心。
他者に対して、自分より劣るところを見つけ出し、私はましだと言い訳する心。
あるいは、自分を卑下することによって自分の評価を高めようとする心。

「我慢」は、「他者より上にありたいという欲望」、「他者より下にある自分を、より下に誰かを位置付けることによって自分を高めようとする心」を意味します。現代の、いじめや差別の根っこにある心情を言い表しているかのようです。

「我慢」とは、「増上慢」「卑下慢」の心を持った特定の誰かがいる、という話ではありません。誰もが「増上慢」「卑下慢」の心を持っている、という教えです。私は、「我慢」と共にあります。

「平和」や「平等」を願いながらも、平らで和やかで等しい関係を築くことが難しいのは、私が「増上慢」「卑下慢」を持っているからかもしれません。

とはいえ、「我慢」は、元々持ち合わせているものですから、それほど大変なことではありません。

「我慢」を持ち合わせた人と人とが関係を築きながら生きています。そんな娑婆世界(人間世界)は、とても大変な世界ですが。

さて、「やせ我慢」はどのような状態でしょうか。

元々持ち合わせている「我慢」が「やせ」ているのですから、本来の姿ではないのかもしれません。心身ともに負荷がかかり、疲れてしまいます。

「やせ我慢」は、大変なことです。

本来の意味の「我慢」。

「増上慢」「卑下慢」の意味を教えられると、そんな厄介な心は良くない心だ、無くそう 減らそうと思われるかもしれません。

けれど、修行して無くせるものでも、努力して減らせるものでもありません。私と共にある心なのですから。

「増上慢」と「卑下慢」を持った私です。その気づきが大切です。

「やせ我慢」(「我慢」を「やせ」させようとすること)は大変なことです。つまり、私の否定なのですから。

「増上慢」「卑下慢」あるがゆえに、自分の好みで人をえらび、人を嫌い、人を見捨てます。

そのような心を無くそうとするのではなく、そういう心を持ち合わせた私であるという気づき。

その気づきがあるから、誰もえらぶことなく、誰も嫌うことなく、誰も見捨てることのない はたらきに守られながら生きている私であることを感じられます。

その はたらきを阿弥陀といいます。

阿弥陀如来は、誰もえらばず、きらわず、みすてず、慈悲の心で「我慢」の身の私を抱いています。

南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
ミーアキャットとハムスター🐹の人形です。
なぜそのチョイスなのか わかりませんが(^▽^)

Dsc_5215

2020年9月 1日 (火)

2020年9月のことば

2020年9月を迎えました。

7月、東京は、雨が観測されない日が一日だけだったそうです。それだけ雨が降っていたのに、8月の声を聞くと、とたんに雨が降らなくなりました。境内の地面がカラカラになりました。

8月、東京は、気温30℃を超えなかった日が一日だけだったそうです。それだけ暑かったのに、9月の風にふれると、とたんに気温が下がりました。からだを動かすのがとても楽になりました。

気候も、月が替わると変化する気になるのでしょうか。まぁ、そんなことはないわけですが、9月に入って大きな台風が沖縄を襲っています。9月 10月は、台風にも注意が必要です。被害が出ないことを願うばかりです。ご無事でお過ごしください。

☆ ☆ ☆

2020年9月のことば

Dsc02453_20200901183101 

今、大切な人の手に「さわる」ことができない。
だからといって、
相手の心に「ふれる」ことまで諦めてはいけない。

 

相手の心に、「ふれよう」とする

若松英輔さんの著書『弱さのちから』(亜紀書房)を読んでいて、こころに留まる文章がありました。

「触(さわ)る」と「触(ふ)れる」、漢字で書くとあまり違いが分からないが、ひらがなにしてみるとその差異が浮かびあがってくる。
「さわる」という言葉は、何かに触覚的に接触することを指す。もちろん、「ふれる」という言葉にもそうした意味はある。だが、その一方で私たちは 「心にふれる」「心の琴線にふれる」ともいう。
「さわる」が接触的なのに対し、「ふれる」には非接触的な語感がある。むしろ、「ふれる」という表現は、「さわる」ことができないものの存在を感じようとする試みを指すようにさえ感じられる。私たちは、人の声にふれる、とさえいうことがある。
今、私たちは、大切な人の手に「さわる」ことができない。しかし、だからといって相手の心に、あるいは魂に「ふれよう」とすることまで諦めてしまったら、この世界は根底から崩れ去るだろう。

今月の掲示板は、若松英輔さんの想いにふれて書き出しました。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、人と人との距離を保つ、ソーシャルディスタンシングが提唱されています。会食や移動が制限され、人が集まる場も設定できません。また、介護施設に入所、病院に入院している身内に、「会いたくても会えないんです」という声も聞きます。

手を握る、頭をなでる、ハグする・・・「さわる」行為は、不安な心を落ち着かせてくれます(もちろん、犯罪行為やセクハラはいけません)。「さわる」ことが制限される世の中は、不安な気持ちがどれだけ増幅させられていることでしょう。
けれど、相手に「さわる」ことが叶わないといっても、相手の心に「ふれる」ことはできます。相手のことを慮る。相手の心を察する。相手の気持ちに寄り添う。そのように「ふれる」ことができるのは、相手がいてくれるから。相手の心に「ふれよう」とすることをとおして、実は、私自身の不安な気持ちを落ち着かせているのかもしれません。

相手の心に「ふれよう」とすることまで諦めてしまったとき、この世界は、根底から崩れ去るだろうと綴られています。ということは、私たちが立っている大地は、この世界は、相手の心に「ふれよう」とすることの積み重ねによって成り立っているということを思います。

〔若松英輔(わかまつ・えいすけ)1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。〕

知らない人生を知るということ

この夏、もうひとつ心に留まる文章に出会いました。

あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえのないように
あなたの知らない人生も
また かけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を知るということだ
(灰谷健次郎『ひとりぼっちの動物園』)

私の知らない、いろいろな人生があります。私は、私の人生しか知らないのに(知ったつもりでいるだけなのに)、私の人生を基準・常識にしています。基準に合うものは受け入れ、基準に合わないものは排除する。人を愛するということは、基準に合う者と仲良くすることではありません。人を愛するということは、知らない人生を知るということ。私の知らない、どの人生も、すべてかけがえのないものです。知らない人生を知ろうとすることは、相手の心に「ふれよう」とすること。つまり、人を愛することであると感じられます。

光触かぶるものはみな

とはいえ、人が相手の心に「ふれよう」とすること、愛そうとすることには限界があります。必ず、そこから漏れる誰かを生み出してしまいます。私の人生を基準・常識にした、ものを見る目は、極めて限定的です。

「触」という字を見ていて、親鸞聖人の和讃を思い出しました。

解脱の光輪きわもなし
 光かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまう
 平等覚に帰命せよ
(意訳)
私たちを悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際がありません。この光に触れることができるものは、みな自分の思いを正当化する考えから離れることができるといわれています。平等普遍の智慧をそなえられた阿弥陀如来に帰命しなさい。

「さわる」にしても「ふれる」にしても、自分を主体にして考えてしまいます。私がさわる、私がふれる、と。

けれど、先に書きましたが、相手がいてくれるからこそ、私は相手の手に「さわる」ことができ、相手の心に「ふれる」ことができます。私だけでは「さわる」ことも「ふれる」こともできません。

同様に、私の思いに先立って、阿弥陀如来から慈悲の光明が、すべての衆生(生きとし生けるもの)に向けて解き放たれています。だからこそ、私は、阿弥陀の光明に「ふれる」ことができます。阿弥陀の慈悲の光明は、阿弥陀如来を信じる者、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者だけを対象として解き放たれているのではありません。阿弥陀の眼からすれば、誰もがみな、「かけがえがない」のですから。

私の心に「ふれよう」と願い続ける阿弥陀の慈悲の光明。その光明にふれられながら、私はいます。私の知らない人生を生きる人もまた、阿弥陀の光明にふれられています。南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
秋田の弟が送ってくれた、かわいい人形です。
合掌アニマルというのだそうです(‐人‐)

Dsc02431

 

2020年8月 1日 (土)

2020年8月のことば

2020年も8月を迎えました。
「令和2年7月豪雨」はじめ、各地の豪雨で被災された皆様にお見舞い申し上げます。
被災地の一日も早い復旧を念じております。また、体調を崩しやすい折り、被災された皆様も、ボランティア活動をされている皆様も、おからだお大事にお過ごしください。

7月、東京で雨が降らなかったのは19日だけと聞きました。7月中に梅雨が明けることもなく、ジメジメした日々を過ごしていました。お座敷の畳にカビが生えないように換気したり、扇風機回したりしていました。
なんて7月が嘘のように、8月1日はとても暑い日を迎えました。洗濯日和でした。
とはいえ、コロナ禍のため喜んでばかりもいられません。母(長崎)も妻(秋田)も、今年の帰省は諦めています。子どもたちも、今年の夏休みはどこにもいけないことを、頭では理解しているのですが、気持ちでは「どこか行きたいなぁ」という雰囲気が出ています。どこか連れて行ってあげられたらなぁ…。
コロナもあり、気温差も激しく、熱中症も気を付けなくてはならない夏🌞 お気をつけてお過ごしください。

 ☆ ☆ ☆

2020年8月のことば

Dsc_5104

 

恩徳あれば 今、ここ、わたしを 生きている

足下をみつめる

7月に入り、新型コロナウイルス感染者が再び増え始めました。これから先の様子も見通せず、不安や恐怖に覆われてしまいます。誰もが、一日も早い収束を望んでいます。

このような状況に身を置き、ふと思ったことがあります。
先が見通せない現実は、ウイルス騒動があろうとなかろうと変わりありません。誰もが、先の見通せないなかを生きてきました。でも、先が見通せないとはいっても、たとえば春に新入生となったり、新しい仕事に就いたりしたとき、希望やワクワク感を抱いているのではないでしょうか(当然、不安もありますが)。だけど、コロナに関しては不安や恐怖などマイナスの局面ばかりが気持ちを覆います。感染症ですから不安や恐怖に覆われるのは当然のことですが。

「ふと思ったことがあります」というのは、誰もが先の見通せないなかを生きてきました、予定通り・希望通りにはいかない未来を迎えながら生きてきました。そのようななかを既に生きてきたうえで、「今、ここに、わたしが生きている」んだなぁということです。

コロナの収束を願うということは、未来に対する願いです。「今すぐに収束を」という願いも、ちょっと先の未来であることに変わりありません。

いのちは、過去を経ての今を生きています。未来のことは分かりません。私たちは、経てきた今を疎かにして、分からぬ未来に重きを置いて、結果、振り回されてはいないでしょうか。

南無阿弥陀仏をとなうれば

外出自粛期間中のある朝、お朝事(朝の読経)で、親鸞聖人の「現世利益和讃」という和讃を読みました。

南無阿弥陀仏をとなうれば
堅牢地祇は尊敬す
かげとかたちとのごとくにて
よるひるつねにまもるなり

(意訳)

南無阿弥陀仏を称え、生きる人を、
大地の底にまします神々は尊び敬い、
影と形となるものとが不離であるのと同様に、
夜も昼も護り続けてくださいます。

傍らで聞いていた若坊守(妻)から、「お念仏は除災招福のためのものではないのに、親鸞聖人はどうして “南無阿弥陀仏をとなうれば” の和讃をたくさん書いてるの?」と質問を受けました(「南無阿弥陀仏をとなうれば」という言葉の入った和讃は10首あります)。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」の響きは、「念仏を称えたならば」、つまり「もし念仏を称えるという条件を満たしたならば」と、条件や仮定の話として聞こえるのではないでしょうか。ですから、南無阿弥陀仏を称えるという条件を満たしてから得られる、念仏のご利益を詠っているかのように聞こえます。でも、そうであるならば、「南無阿弥陀仏をとなえれば」という表記になります。親鸞聖人は「となうれば」と書いています。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」は、条件や仮定としての「ば」ではありません。「~してみて、ふりかえってみれば」とか「~するときは、そのようになっている」という、確定の意味を持つ「ば」なのです。

たとえば、「住めば都」という言葉がありますが、「もし住んでみたならば、都(住みやすいところ)となる」という仮定の話ではありません。「住んでみたら都だった」という確定を表わしています。未来の話ではなく、もう既に住んでいる話なのです。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」も、もう既に称えている話なのです。

「私は念仏を称えたことないよ」と言う方もいることでしょう。けれど、阿弥陀如来は、すべての生きとし生けるものに向けて、念仏を与えてくださいました、念仏称えるものを救うと誓われました。実際に念仏称えたものを対象とするということではありません。生きとし生けるものすべてが、既に念仏のなかに、阿弥陀の慈悲のなかにいます。

親鸞聖人の説かれる現世利益とは、「お念仏称えたら、こんないいことがあるよ」ということではありません。「念仏称えるご縁をいただいたこと、そのことがご利益です。すでにご利益をいただいているからこそ、念仏称えることができるのです」ということです。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を信じ、ただ念仏申せと説かれましたが、「阿弥陀以外の諸神諸仏は信じるに値しない」と言ったり、私を惑わせる悪鬼を追い払えと言ったりということはありません。それら諸神諸仏、悪鬼もまた、念仏申すご縁をくださった阿弥陀如来に収まるものとみておられました。

さるべき業縁のもよおせば

「ば」について、もうひとつ、親鸞聖人の言葉が思い起こされました。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

「そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもしてしまうのがわたしです」という、『歎異抄』(第13章)に書かれている言葉です。

この「もよおせば」も、「もよおしたならば」と、条件や仮定など、未来のことを語っているように聞こえます。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と耳にしたとき、まだいかなる振舞いもなしていない未来のことだと受け止めがちです。しかし、であるならば「さるべき業縁のもよおさば」という表記になります。

さまざまな縁が重なり合って、今、ここに、わたしが生きている。つまり、今に至るまで私は「さるべき業縁のもよお」して、「いかなるふるまいも」してきたのです。未来ではなく、既に、の話です。

親鸞聖人の言葉は、「よりよい未来のためにどうあるべきか」「理想的な未来のために何をすべきか」を説かれているのではありません。既にご恩をいただいて、「今、ここに、わたしが生きている」ことを語っています。ご恩をいただいてある身であること。その目覚めが、南無阿弥陀仏のご利益です。

 ☆ ☆ ☆

(付記)
と、上記の文章を書きました。
けれど、『歎異抄』の西本願寺蔵蓮如上人書写本は「もよおさば」になっています。
より考察が必要かもしれません。

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
イルカと、クジラと、チンアナゴ (^∀^)
京都水族館に行ったときに、買いました(クジラはダイソーだったかな)。
Dsc01315

2020年7月 1日 (水)

2020年7月のことば

2020年も後半に入りました。
外出自粛期間中、「今日はこれをやった!」と言えることを必ずやろう!と決めて過ごしていました。
仕事、片付け、大工仕事、子どもたちと目いっぱい遊ぶことなど、必ず何かやりながら過ごしていたのですが、さて、振り返ってみるといったい何をやっていたのやら・・・。
明日ということのない教えをいただきながら、「明日があるさ」な生き方をしていることの落ち着かなさよ。

雨もしっかりと降って、じめじめした日が続きます。けれど、この雨が通り過ぎると、暑くなるそうな。おからだお大事にお過ごしください。
南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

2020年7月のことば(以下、寺報「ことば こころのはな」7月号の文章です。)

Dsc_5075

仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。
       
蓮如上人(『蓮如上人御一代記聞書』より)

 

蓮如上人の「御文(おふみ…お手紙)」

浄土真宗の宗祖親鸞聖人から数えて第8代目の蓮如上人。上人は、親鸞聖人の教えを人々に伝えるために、250通を超える「御文」を綴られました。有名な「白骨の御文」も、蓮如上人の筆です。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。一生 すぎやすし。いまにいたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり。(後略)

(試訳)さて、私たち人間の無常な生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、まるで幻のような一生であります。この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、いまだかつて聞いたことがありません。一生はあっという間に過ぎてゆくものです。いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。私が先に逝くかもしれないし、他の誰かが先に逝くかもしれません。今日終わる命なのか、それとも明日なのか、そういうことも分かりません。大切な人が先に逝ってしまう日も来れば、私が先に旅立つ日も来ます。草花の雫や葉先の露が消えてなくなるよりも、それ以上に人間の生涯は儚いものです。ということは、朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。(以上)

また、「疫癘(えきれい)の御文」と呼ばれるお手紙も書かれています。

当時このごろ、ことのほかに疫癘とて ひと死去す。これさらに疫癘によりて はじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

(試訳)近頃、たいそう多くの人が伝染病にかかって亡くなっております。このことは決して、伝染病によってはじめて死ぬのではありません。人と生まれたときから死ぬということは定まっております。さほど驚くことではありません。(以上)

問われている私

蓮如上人(1415~1499)自身も、延徳4(1492)年、上人78歳のときに疫病の流行を経験しています。病による苦しみだけではなく、現代(いま)の私たちと同様に、限りある食料や物資を奪い合い傷つけあう人間社会の苦しみを目の当たりにしました。

また、1467~1478年の「応仁の乱」の世も生きています。主戦場となり、焼け野原となった京の町の様子も見聞きしたのではないでしょうか。欲望から起こる争いが更なる貪り(むさぼり)や怒りを生み、争いに巻き込まれた人々までもが傷つき、飢え、死んでいく世に身を置かれました。

そのような時代に身を置き、人間の姿を凝視された蓮如上人。ただ単に道理として「朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです」とか「人と生まれたときから死ぬということは定まっております」などと言われたわけではありません。

「明日は何をしよう」「コロナが収束したら何をしよう」と考えている私に向かい、「あなたは“今”を生きていますか?」と、上人は問いかけています。

仏法の事は、いそげいそげ

仏法には、明日と申す事、あるまじく候」とは、「お釈迦さまの教えをいただいている身にとって、明日ということはありません」ということです。

仏法には、明日と申す事、あるまじく候。」に続いて「仏法の事は、いそげいそげ。」と上人は説きます。

コロナ禍の渦中、「不要不急の外出は控えるように」と、外出自粛要請が出されました。仏法聴聞の会も、多くのお寺が中止を余儀なくされました。明日とも知れぬいのちを生きているのですから、「仏法聴聞の事は、いそげいそげ」のはずなのに、人の集まる場を開けないという矛盾と葛藤を抱えながらのステイホーム期間でした。

けれど、矛盾と葛藤に覆われるなか、「誰もが“今”を生きている」ということを、ふと思いました。

「きょうともしらず、あすともしらず」のいのちを、誰もが生きています。誰もが、いつ亡くなっても不思議はない いのちを生きているのだけれど、若くして亡くなったり、才能ある方が亡くなったりすると、「まだ早いよ」などと、その人の死を嘆きます。年齢という尺度でいのちを計れば、当然嘆きも出てきます。

けれど、たとえば1秒の長さは誰にとっても同じです。才能ある方の1秒は短くて、無駄に過ごしている人の1秒は長くて・・・などということはありません。誰もが同じ1秒を生きています。

お釈迦さまは、「いのちというのは、吸った息が出るのを待たないほどの長さでしかありません。阿吽(あうん)の呼吸のいのちです」と説かれました。

阿吽の呼吸は、短い時間のように感じますが、いのちの営みが続いてきたことに想いを馳せると、とても永い時間でもあります。

私のいのちのなかに無数のいのちがあり、無数のいのちのなかのほんの一点が私です。「阿吽」は、とても短い時間でありながら、いのちの悠久の流れが内包されています。

そんな途方もない時間や空間を、なんの道案内もなく、私は生きられるでしょうか。いえ、阿弥陀如来の大悲というはたらきに導かれながら、今を生きています。阿吽の一息一息は、南無阿弥陀仏のお念仏。

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
7月は、スヌーピーとカメとアヒルです(^-^)Dsc_5072

2020年6月 2日 (火)

2020年6月のことば

6月2日(火)東京都内の新型コロナウイルス感染者が30名を超えた。
人の動きが出だすと、感染される方が増えてしまう。
まだまだ気を緩めるときではないのだな、と思う。
皆様もお気をつけてお過ごしください。
掲示板、6月のことばは、この非常事態宣言下でのことを踏まえながら、感じたことを書きました。
他者(ひと)のせいにするのは、簡単。
でも、「自分のせいかもしれない」と思うことは、とても大切な気づきです。
そんなことを思いながら、6月の寺報を書きました。

 ☆ ☆ ☆

2020年6月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」6月号の文章です)

Dsc_4926

 温
  
今を忘れないから、(ふる)きを温(たず)ねられる。

温故知新(おんこちしん)

新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から出されていた緊急事態宣言が解除されました。とはいえ、新型コロナウイルスが終息したわけではありません。今後は、ウイルスとの共存を模索しながらの生活となります。

政府の専門家会議からの提言を受けて、政府は新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」への転換を呼び掛けています。

「新しい生活様式」という言葉を聞いたとき、「温故知新」という故事を思い出しました。
故(ふる)きを温(たず)ねることは、新しきを知ること。
「昔のことから学んで、新しい知識や道理や習慣を見出していくこと」という意味です。

さて、「故きを温ねる」といったとき、どれくらい古いときのことを思い浮かべますか?

新型コロナウイルスの渦中にある今、約100年前に流行したインフルエンザから学ぶことが多くあります。

過去の自然災害の教訓から学ぶべきことも多々あります。
避難の方法や防災の準備が整えられ、ボランティア意識も高まっているのではないでしょうか。

人類の歴史において争いが止んだことはありません。
争いごとに関しては、故きを温ねても、それが教訓として生かされることはないのでしょうか。

「故き」とは、「今」である

「故きを温ねる」というと、時間の離れた昔を思うのではないでしょうか。

けれど、私は思います。「故き」とは、「今」であると。

現代(いま)のコロナ禍における外出自粛期間中の私たちのありかたをたずねること。それが、「故きを温ねること」です。

このコロナ禍に、罹患(りかん)された方、医療従事者やその家族、マスクが店頭にないドラッグストアなどに対する差別やバッシングが起きています。

新型コロナウイルスに罹患して亡くなられた著名人がいます。亡くなられて「残念だ」「悲しい」「コロナウイルスを許さない!」など、逝去を悲しむ声が多数聞こえました。反面、罹患して快復した著名人に対しては、「気が緩んでるからだ」「反省しろ」などという非難を浴びせます。それらを考え合わせると、亡くなられた著名人が、もし快復されていたならば、恐らくバッシングを浴びせていたのではないでしょうか。

新型コロナウイルスと直接関係はないけれど、ある番組に出演されていた方が、ネット上での誹謗中傷を受けて亡くなりました。気に食わない人に嫌悪感を抱くことは、誰にでもあります。今までは家族や友人との会話の中で済ませていた悪口が、このネット社会に、世界中に拡散するようになってしまいました。想像してみてください。たった一人から傷つくことを言われただけでもなかなか立ち直れないのに、それを世界中の不特定多数の人から言われるのです。あなたは平気でいられますか?

このコロナ禍の、ほんの一端、ほんの一側面に過ぎませんが、私たちは今、このようにして過ごしています。

『「故き」とは、「今」である』と言いました。けれど、「今」と言っても、言った瞬間に、その「今」は過去となります。過去とは、時間の離れた昔の出来事ではなく、今の行いです。今の行いをたずねることなく、新しきを知るということはありません。

小笠原登さん

ハンセン病患者の治療に尽力された 小笠原登さんという医師がいます(1888~1970)。小笠原さんは、真宗大谷派の僧侶でもあります。

かつてハンセン病には、「不治の疾患、遺伝病、強烈な感染症」という三つの迷信があり、その迷信のもと、ハンセン病患者の終生・絶対・強制隔離という国の政策が行われました。

らいは治る病気であり、遺伝性はなく、感染力も弱いことは世界の医学界では常識で、隔離の必要性もないことが分かっていました。にもかかわらず、日本は「らい予防法」を廃止することもせず隔離政策を続けました。真宗大谷派もまた、国の政策に従い、隔離が保護であるかのように説く慰問布教という関わり方で、迫害に加担した歴史があります。

その渦中にありながらも、小笠原登氏は、らいは治る病気であるという知見をもって、病気の治療のために患者と向き合い、患者と共に生きる道をたずねられた方でした。

1998年に提訴された「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を受け、2001年に熊本地裁は「国の隔離政策の継続は違憲である」と判断しました。これを受け、当時の小泉純一郎首相は、政府は控訴しないことを表明し、謝罪しました。しかし、それでハンセン病に関する問題が解決したわけではありません。隔離政策が廃止されても、ハンセン病に関する誤解や無知から生じる差別の闇は根深く、本名を名のれない方、故郷に帰れない方は、今も多くいます。ハンセン病元患者だけでなく、その家族もまた、世間から迫害を受けています。

小笠原登さんの言葉です。

現在癩(らい)患者が苦痛としてゐるものは、癩そのものでは無くして、癩の誤解に基づく社会的迫害である。従って救癩事業の急務は、社会の誤解を除いて患者を迫害より脱せしめるにある。
(「癩患者の断種問題」『芝蘭』12号1938年)

病気の苦痛もあるけれど、それ以上に、病気に対する誤解や無知、「自分さえよければいい」という考えが差別を生み、病気以上の苦痛を受けている方々がいます。苦痛を与えている私たちがいます。

小笠原登さんの言葉は、このコロナ禍における私たちの姿をも言い当てています。

今を忘れて、故きを温ねるということはありません。今を見つめることが、故きを温ねるということになります。故きを温ねるからこそ、新しいことを知ることができる。新しい道筋を見出すこととなります。

南無阿弥陀仏

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形

Dsc00234

Dsc00272 寺報作成にあくせくしているとき、娘たちに人形チョイスと撮影を任せています。
今月はパンダと、カピバラです(^▽^) 仲良しです

2020年5月 1日 (金)

2020年5月のことば

2020年5月を迎えました。
心地よい気候です。どこかに出かけたくなります。でも、せいぜい誰もいない公園程度で。
GW中、夏日もあるようです。気温の変化にお気をつけて👋
在宅ワークの時間が増えているにもかかわらず、寺報はいつも通りギリギリです。なんでだろう?

 ☆ ☆ ☆

2020年5月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」5月号の文章です)

Dsc_48290

生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける
          親鸞聖人

 

龍樹和讃

今月は、親鸞聖人の和讃「高僧和讃(龍樹和讃)」を掲示しました。

(試訳)
わたしたちが沈み続け
もがき続けている人生の苦しみは
まるで海のように
広くて深くて果てしない
阿弥陀如来の慈悲のこころは
まるで海に浮かぶ船のよう
もがき続けるわたしたちと共にあり、
かならず浄土へと導いてくださいます

弥陀弘誓のふね

新型コロナウィルスの影響により、今までとは違う日常を強いられ、多くの人が苦しみのなかにいる。
そんな現在の状況に身を置いて、聖人のことばに向き合う。


「生死の苦海」で溺れている私。 私は、「弥陀弘誓のふね」に救出されることによって、人生という荒波を乗り越えられる。

そのように読んでいた。けれど、聖人が言いたかったことは、そういうことではない。
「弥陀弘誓のふね」を大きく揺さぶる「生死の苦海」。その「生死の苦海」こそ、私の姿だった。
「生死の苦海」には、全生命が宿っている。私は、全生命と共にあり、だからこそ感情や行動が大きな波を起こしている。「弥陀弘誓のふね」は、その大波に抗うことなく、大波の揺れに合わせて航行を続けている。
「弥陀弘誓のふね」は、「生死の苦海」とともにある。

ウィルス

人間は、生物は、さまざまなウィルスとの共存によって生きている。ウィルスが生物の生存を脅かすのであれば、それには道理があるはずだ。その道理を見ようとしないで、都合の悪いものを悪者に位置付けて排除しようとするだけならば、人間は、大事なことを見落とす。

人間は、人類優先の発達発展のために未開の地を切り開いてきた。温暖化によって海洋の厚い氷が溶け始めてもいる。特定の地域に留まっていたウィルスや、氷の中に何万年も何千万年も閉じ込められてきたウィルスを、人類は自ら解き放った。

現在の状況は、起こり得ることとして警鐘を鳴らす人や団体もあった。また、今回の新型コロナウィルスが収束しても、10年くらいの周期で別のウィルスが蔓延するだろうとも言われている。

現在の状況を、為政者が「戦争状態」に例えている。「大変な状況にある」ということを言わんとしているのだろうが、為政者が言うことではない。

戦争状態と表現することによって、ウィルスを人類に対する敵と位置付けることになる。
医療現場や各自治体への支援の遅れ、布マスク2枚配布の背後にある不透明さ、国民に対して出し渋る給付金等々、批判を受けても仕方のない状況を自ら作り出している政府にとって、批判の矛先を変える仮想敵が必要となってくる。戦争状態にあると喧伝することで、国民の意識はウィルスに移り、その意識はやがて、休業要請に応じない店やマスクなど欲しい物が販売されていない店へと移る。非難されるべきでない人々が非難を受ける。懸命に生きる者どうしが、傷つけあう。

「戦争状態」にあると錯覚し、ウィルスという敵と戦っているという意識に陶酔し、攻撃の対象ではないものに攻撃を仕掛けている。ウィルス以上の脅威がある。今、人が他者(ひと)を傷つけていることを認識しているだろうか。

収束と終息

一刻も早い「収束」を願うことに変わりはない。けれど、今起きていることは、ウィルスが収まれば終わりという話ではない。

「しゅうそく」には、「収束」と「終息」とがある。

「収束」は、終わりに向かうこと。
だから、新型コロナウィルスの感染者や死亡者の数が減ってきて、医療従事者の負担が減ってきたときに、「収束に向かっています」と言える。

「終息」は、完全に終わること。
だから、新型コロナウィルスが消滅してはじめて「終息しました」と言える。

けれど、コロナウィルスの減少・消滅だけを見て「しゅうそく」を考えると、大事なことを見落とす。

新型コロナウィルスをきっかけに、人が他者を傷つけている現実。仮にウィルスが消滅して「終息」したとする。でもそのとき、本当にコロナウィルスが「終息」したと言えるのか、言っていいのか。

人と人とが傷つけあった傷は、歴史は残ったままだ。罹患者や医療従事者とその家族への差別。物の買い占め・転売。他者をののしる声は、発した人間は忘れても、言われた人の心には深く刻まれている。新型コロナウィルスの脅威ではなく、人間という生物の脅威が、今、強く表出している。

新型コロナウィルスが「収束」する日はきても、今、傷つけあっている人間関係が「収束」とともに修復されることはない。そのようなことを考えると、新型コロナウィルスが「終息」することはない。

生死の苦海

『「弥陀弘誓のふね」に救出される私 』という考えは、「生死の苦海」と私を切り離してしまう。私は「生死の苦海」そのものだった。その自覚によってはじめて、「弥陀弘誓のふね」に気づく。

「弥陀弘誓のふね」は、「生死の苦海」とともにある。
南無阿弥陀仏

☆ ☆ ☆

掲示板の人形

Dsc00150

Dsc00168

人形チョイスと写真撮影を娘たちに任せて、寺報書きに専念していたら、本堂でこんな写真を撮ってきてくれました。
私の面白みのない写真よりも、全然自由だ \(*^▽^*)/

より以前の記事一覧

フォト
2021年2月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28            
無料ブログはココログ