西蓮寺掲示板のことば

2017年11月 7日 (火)

2017年11月のことば

皆様いかがお過ごしですか?
寒くなりましたね。今日(11月7日)は立冬ですものね。
風邪予防のため、10月中旬からノドを暖めマスクをしながら就寝していたのですが、10月末、もろくも風邪をひいてしまいました。ひどい風邪でした。
西蓮寺報恩講も近づく中、何も手につかないまま時が過ぎましたが、おかげさまで無事報恩講をお勤めすることができました。南無阿弥陀仏
皆様も、お風邪など召しませんように(と、風邪をひいた私が言うcoldsweats01

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 弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、
 ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり

報恩講
11月28日は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人のご命日です。ご本山 東本願寺では、毎年11月21日~28日に聖人の法要「報恩講(ほうおんこう)」が勤まります。
西蓮寺でも、毎年11月5日に報恩講をお勤めしています。

親鸞聖人のつねのおおせ
今月のことばは、親鸞聖人のことばです。弟子の唯円上人が著されたと 言われる『歎異抄(たんにしょう)』に、親鸞聖人の常の仰せとして記されています。

(『歎異抄』後序より)
聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐そうらいしこと

(副住職試訳)
親鸞聖人が常に仰せになることとして、「阿弥陀如来が、五劫という長い時間をかけてご思案になって発起してくださった「衆生を救いたい」というご本願をよくよく考えてみると、ただひとえに私親鸞一人を救わんがための願いであったのだなぁ。そうであれば、数え切れないほど多くの罪業をそなえた私のことを助けずにはおれないと思い立たれた阿弥陀如来のご本願の、どんなに かたじけないことであろうか。南無阿弥陀仏」とご述懐なさっておられたこと

一人(いちにん)の自覚
「そくばくの業(数え切れないほど 多くの罪業)」をそなえた者。それは、親鸞聖人お一人だけの話ではありません。すべての人間が、いのちあるもののすべてが、数え切れないほど多くの罪業を持って生きています。にもかかわらず阿弥陀如来は生きとし生けるものすべてを「救いたい」と願われました。阿弥陀如来の本願は、生きとし生けるものすべてのためにあります。
ではなぜ、聖人は「弥陀の五劫思惟の願」が「親鸞一人がため」と言われたのでしょうか? 
それは、聖人御自身が「そくばくの業をもちける身」であることを自覚されたからです。いのちあるもの、罪業を抱えながら生涯を歩まねばならないことは自明のことです。ですが、「阿弥陀如来の慈悲の光は、衆生のためにあります」と言ったとき、救われているという歓喜が先に立ち、「そくばくの業」を持っている身であるという自覚が疎かになってしまいます。
聖人は、仏道修行に励めば励むほど、自身の罪業性に落ち込み、涙し、救われるはずがない自身と向き合うこととなります。
そのような時、師法然上人に出遇い、念仏に出遇い、「南無阿弥陀仏」と申す身となりました。「そくばくの業をもちける身」である自覚を通して、そのような私を救おうと願われた阿弥陀如来の光明を感じ、「阿弥陀の慈悲は、このような私一人を救わんがためにあったのです」と、手が合わさりました。
「このような私ですら救われているのですから、私以外のみんなが救われていることは言うまでもありません」という想いが、「親鸞一人がためなりけり」には込められています。

「親鸞一人」の自覚は、真宗のお勤め、聖人が著された「正信偈(しょうしんげ)」にも感じられます。
 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
「阿弥陀如来の大悲は、倦(あ)くことなく、常に私を照らし続けています」と。
「倦くことなく」とは、そくばくの業をもちける私を「あきらめることなく」「見捨てることなく」という意味です。
そして、「常照衆」ではなくて「常照我」と著されています。「みんなを照らしています」ではなく、「私を照らしています」と。大悲に常に私が照らされていますという告白は、生きとし生けるものすべてが阿弥陀の慈悲の光明に包まれていることの確信なのです。

ときの長さは、慈悲の深さ
さて、阿弥陀如来が思惟された 「五劫」とは何でしょう?
「劫(こう)」とは、時の長さを表わします。どれくらいの長さかというと、一辺が40里(160キロメートル弱)の立方体の岩があったとします。そこに、100年に1度、天女が舞い降りてきて、羽衣でその岩を撫でてゆきます。その摩擦で岩が磨り減り、岩が無くなってしまうまでの時間・・・それでもまだ足りないのが「劫」です。「五劫」とは、その五倍の長さです。想像もつかないほど長い時間ということです。
では、「五劫思惟」とは、阿弥陀如来がそんなに長い時間悩みに悩んで、衆生救済に踏み切ったという意味かというと、そうではありません。
すべてのいのちが「そくばくの業」をそなえ、悩み苦しみを抱えながら生きています。その、すべてのいのちの生涯を、いのちを全うする姿を、阿弥陀如来はご覧になられたのです。当然、ただ見るだけではありません。「なんとかしなければ」と思わせる「悲しみ」もあれば、いつまでも争いを続ける人間に対する「怒り」や「あきらめ」もあったことでしょう。しかし、倦くことなく、すべてのいのちの生涯を受けとめたうえで、阿弥陀如来は衆生救済の願いを建てられました。
「五劫」とは「想像もつかないほど長い時間」ですが、人間の思議を超えた、「阿弥陀如来の慈悲の深さ」を表わしています。

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掲示板の人形
ネコの楽団が報恩講を賑やかにしてくれていますnote
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2017年10月 2日 (月)

2017年10月のことば

セミの声が、かすかに聞こえてきます。
キンモクセイの匂いが漂っています。
葉が色づき始めました。
秋が近づいていますね。

秋の夜、静けさが身にしみるのはなぜでしょう?
不思議ですね。

衆議院が解散され、北朝鮮からミサイルが飛ばなくなり、Jアラートとやらも鳴らなくなりました。
静かになりましたね。なぜでしょう?
おかしいですね。

涼しくなってきました。おからだお大事にjapanesetea

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 いのちは
 みんな
 母なる海に還ります
 みんな一緒だから
 淋しくないよ

秋の景色
秋のお彼岸を迎える前、墓地の彼岸花が咲きました。彼岸花は、その名の通りお彼岸に花を咲かせます。「今年は天候不順だね」なんて会話を交わすような年でも、きちんとお彼岸に合わせて花を咲かせていたものでした。
ここ数年、彼岸花の咲く時期が早くなった気がします。律儀な彼岸花の開花時期をも狂わせるような異常気象になってしまったのでしょうか。

一年を通して常のこと
秋を迎え、掃除をしていると「秋は落ち葉が多くて大変ですね」と声をかけられます。しかし、落葉(らくよう)は、一年を通して常のことです。秋だけが大変なわけではありません。
「掃除をされているから、いつもきれいですね」とも声をかけられるのですが、ホウキを手に掃除をしていると、ちょっと複雑な気持ちになります。
落ち葉をすべて掃き集めて取ってしまえば、何も無いという意味では「きれい」です。しかし、葉が、やがて木から離れ、地上に落ちる姿というのは、いのちあるものが、いのち終えて往く姿を表わしています。落ち葉が地上にたまりゆく姿は、果たして汚いのでしょうか? 散らかっているのでしょうか? 掃き掃除をしながら、そんなことを想っています。

先に、落葉は秋だけのことではないと書きました。これから寒い冬を迎えます。「寒くなると、亡くなる方が増えるでしょ?」などとよく聞かれます(確認されているのでしょうか?)。確かに、寒さが厳しくなると、お亡くなりになる方は増える気がします。しかし、人のいのちも、厳冬にのみ去りゆくわけではありません。落葉が秋のことだけではないように、人の死もまた、冬だけの話ではありません。一年を通して常に、阿弥陀さまの元に還って往くいのちがあります。

いのちは長短では計れない
いのちあるものは、やがていのち終えてゆきます。人間だけでなく、あらゆるいのちが。動物だけでなく、植物も同じです。
価値観という眼を持つ人間は、生の長さや短さ、その内容でもって、先往く人の人生を評価してしまいます。
 「あんなに頑張っている人が、若くして亡くなるなんて! 早すぎる死だ」
 「あれだけの功績を残したのだから、あの人の人生は充実していたね」
そんなセリフを耳にするとき、人は、他者(ひと)のことを、どこで見ているのだろう? と、考えてしまいます。

先月の寺報で、8月に亡くなられた田口弘さんのお話を書きました。全盲になりながらも、親鸞聖人の教えに出遇い、聖人の教えを一人でも多くの人に伝えることを大切に願われた僧侶です。56歳で亡くなられました。
 「死ぬには早すぎる」
 「まだやり残したことがあるだろうに」
などという声が聞こえてきました。  田口さんを慕うが故の、こころの底からの声であることは分かるのですが、そのような声に違和感もありました。そんなとき、田口さんと深い親交の あったある住職が、「彼は完全燃焼したんだよ。精一杯生きたんだ」と仰っているということを伝え聞き、ホッとした気持ちになりました。
いのちは、その長短や功績で、遺された者が評価をくだすものではありません。たとえ若くして亡くなっても、たとえ長生きしても、たとえどのような生涯を送ろうとも、終えて往くいのちは、すべてみな「完全燃焼」して「精一杯生きた」いのちなのです。先往く人は、完全燃焼し、精一杯生きた姿を、私に見せてくださっているのです。そこに、 自然に手が合わさりませんか?

物語も終わりに近づき
「終活(しゅうかつ)」ということばが流行り、自分の終焉について考える人が増えたと聞きます。「自分の死後、遺された者に迷惑をかけたくないから、葬儀について決めておきたい」と。それも終活のひとつでしょうが、果たして、何を遺して往くべきでしょうか?
落ち葉が掃き掃除されて、「きれいになりましたね」と喜ばれるような人生を送るのか。落葉した葉であっても、そこにいのちを感じてもらえるような人生を送るのか。
今までの生き方を見直したり、いのちについて考えたり。それこそが「終活」ではないでしょうか。

ネクタイの締め方はね、
9月に入り、長崎に住む伯父を亡くしました。人が亡くなるということは、とても大変なことです。そもそも、  迷惑をかけない死などありません。また、それでいいのです。遺された者の胸に悲喜こもごも想いを抱かせ、先往くいのちは、大きな海(あみだ)へと還っていきます。
9月末、出かける際にネクタイを締めていて、ふと思い出しました。学生の時、伯父にネクタイの締め方を習ったことを。ネクタイなどしたことがない私は、教わった通りに締めてみても、前が長くなったり、後ろが長くなったり・・・前が長くなりすぎて金太郎みたいになったりして。その度に、周りで見ていた伯父と伯母と母が声を出してゲラゲラ笑っていました。あのときのやりとりは面白かったなぁ。
今月のことばは、容体の急変した伯父に急きょ郵送したことばです。ことばが届いた翌日、息を引き取りました。棺に入れてくださったそうです。
いのちはみんな、母なる海に、私を包みこんでくださっている阿弥陀さまの元に還ってゆくからね。私もそのうち還るから。だから淋しくないよ。
南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
リスとフクロウ
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2017年9月 3日 (日)

2017年9月のことば

9月になりました。
暑さは続きますが、朝晩の涼しさや、鈴虫の泣き声・トンボの飛来が、秋の訪れを予感させます。
季節の変わり目は、体調を崩しやすいです。皆様、お気をつけてpaper

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 あらゆる自由は奪われても
 念仏する自由は奪われない

自分の姿を受け入れて生きる
8月半ば 朋友の田口弘さんが阿弥陀さまのもとへ還られました。
7月の終わりに一緒に食事をし、8月の頭に一緒に勉強会に参加していました。「最近続けて会っていたのに、何を話したかなぁ・・・」。諸行無常を口にしながら、目の前にいる人(いのち)との時間を共有しているだろうか? と、振り返っています。

田口弘さん。真宗大谷派僧侶。幼少の頃より弱視で、やがて視力を失います。
弱視ということで、学校ではいじめを受けました。いじめる者たちを見返すために勉強に励み、優秀な高校に入学します。しかし、やがて成績も振るわなくなり、弱視である自分をみじめに思い、自殺を考えることもありました。
そのようなときに、長川一雄先生(真宗大谷派僧侶)と出遇われます。

田口さんが打ち明けます。
「せっかく一流高校に入って、いじめたやつらに勝ったのに、勉強が追いつかなくなった。私はもう自慢できるものがない、寂しい人間です」

長川先生は語りかけます。
「君は差別の意識をすごく持っている。自分は目が不自由で、つらいつらいって言うけれども、目が不自由な人のことをとても強く差別しているんじゃないか。君は目が不自由だということを悪いことだと思い込んでいる。そりゃあ、障害を持っている人は、世の中の競争では不利でしょう。だけど、世間の競争に参加するために君は生きているんじゃない。君が勝とうが負けようが、生きることを願われているんでしょう」
(真宗大谷派宗務所発行 「同朋新聞」2009年3月号より)

「自分の今の姿をちゃんと受け入れて生きるということが浄土真宗の教えなんですよ」と、長川先生に語りかけられ、自分を認めていないのは、自分自身であったことに目覚め、田口さんの聞法生活が始まります。
長川先生の勧めで京都の大谷専修学院に入学し、真宗大谷派僧侶となりました。学院卒業後、北海道の旭川別院で4年間勤めた後、東京に戻り、四谷坊主バーを始められます。お店ではカウンターのはじに座り、おもむろに立ち上がり、法話をされました。悩み事を聞いてもらいにお店を訪ねる方も後を絶ちませんでした。
「私と一緒に仏法を聞いてください。ともに親鸞聖人の教えを聞きましょう」という願いを、田口さんは持ち続けておられました。

私のことも見てくださっていたんだ
田口さんとの思い出話です。
田口さんを含めて仲間数名で食事をしていたときの話。メンバーの中の、独身者のお相手は、どのような女性がお似合いだろう? という話になった際、みんなは当たり障りのないことを言うのですが、田口さんは、個々の性格を驚くほどちゃんと見ていて、「〇〇君には、このような人がいいんじゃないかなぁ」と、誰もがうなる想いを述べられました。もちろん私に対してもです。
ある研修会に参加したときの話。 車で来ていた私に、田口さんから「品川駅まで送ってくれませんか?」と声をかけられ、お乗せしました。助手席に座っている田口さんが、「あ、今、どこそこを走っているね。ここは昔海でねぇ。子どもの時釣りをして遊んだもんだよ」と語り始めたのでビックリしました。もちろん正解です。

聞法の場に行くと、必ずといっていいほど田口さんがいました。田口さんを知る人は、「田口さん、こんにちは」と声をかけます。恥ずかしい話、私は、みんなのように自然に声をかけることがなかなかできませんでした。そんな私のことも、田口さんはちゃんと見てくださっていたのだと思います。車で送っているときに話していて、「田口さんには、私たちに見えていないものが、ちゃんと見えているんだ!」と感じました。

念仏する自由
私たちはよく「自由」を口にしますが、果たして「自由」って何でしょう?
「自分の人生だから、何をしたって自由だろう!」「自分のやりたいようにできなくて不自由だ!」などと言いますが、多くの人々(いのち)と交わりながら生きている私です。私の思いだけがまかり通るはずもなく、私だけが不自由を感じているわけでもありません。
目が見えない不自由さから、他者に対する怒りやねたみを、田口さんは かつて持っていました。しかし、長川先生との出遇いを縁として、他者だけでなく、自分自身をも傷つけながら生きてきたことに気が付きます。
人間とは厄介なものです。自由を奪っていたのは、実は自分自身でした。 自分で自分を認められない。その不自由さは、大きないのちに守られながら生きていることに気付いていないゆえに生じます。

「念仏する自由」とは、「『南無阿弥陀仏』と念仏する自由」という意味ではありません。念仏は、すべての生きとし生けるものを救いたいという阿弥陀如来の願いです。阿弥陀の眼には、すべてのいのちが平等に見えています。私を救いたい、私を守りたいという大きな願い。その御手に包まれながら、今、 私はここに生きている。その温もりを、田口さんは、感じられたのです。
「念仏する自由」とは、私が私のままに生きられる自由。その自由は、誰にも侵されません。誰にも奪われません。阿弥陀さまに守られているのですから。念仏する生活を、田口さんは生涯尽くされました。南無阿弥陀仏

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柿の上で眠るネコ。ガラス細工です。
8月に長崎に行った際、大浦天主堂前の素敵なガラス細工をたくさん売っているお店で買ってきました。
祈りの丘 絵本美術館にも寄りました。
長崎にお出かけの際はぜひ!!

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2017年8月 1日 (火)

2017年8月のことば

8月に入りました。全国的に不安定な天気で、いろいろな地域で豪雨の被害が出ています。
被害に遭われた皆様の生活が、一刻も早く回復されますことを念じます。
とともに、猛暑・酷暑ゆえ、いつどこで天候被害が起こるか分かりません(どこでも起こり得ます)。共に、気をつけましょう。
こういうときこそ、助け合い・支え合いの気持ちでshine

今日のブログ「2017年8月のことば」をアップする前にテレビをつけたら、ちょうどNHK「クローズアップ +(プラス)」の始まるところでした。
タイトルは「“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ」
掲示板8月のことばは、日野原先生のことばからいただきました。
日野原先生の活動や考え方をお慕い申しておりましたが、テレビを見ていて、「あぁ、テレビやネットや本で先生のお人柄のほんのちょっとでも触れていた気でいたけれど、全然だったなぁ」と、恥ずかしい気持ちになりました。

周りの人々への感謝の気持ちを最期まで持ち続け、
いのちは若いときにピークを迎えたら後は下がっていくだけ・・・ではなくて、精神的にはどんどん成熟していくという観点を与えてくださり、
自身の最期を堂々と引き受けられるのではなく、やはり逡巡・葛藤する姿を見せてくださり、死も含めての生を生きるということを体現された日野原先生。
ありがとうございます

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 鳥は飛び方を変えることはできない
 しかし人間はいつからでも生き方を変えられる
                       日野原重明

人間は生き方を変えられる
2017年7月18日、聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが亡くなられました。105歳でした。
子どもたちに平和と命の大切さを伝えるために、全国の小学校で「いのちの授業」を行ないました。
また、日本は75歳以上を「後期高齢者」と呼び、身も心も老いに追いやられてしまうような環境にありますが、「75歳からは第3の人生です」と提唱し、日野原先生が88歳の2000年に「新老人の会」を結成しました。「新老人の会」結成の根幹には、「老いてこそ、創造的に生きられる。新しいことにチャレンジする勇気を持ちたい」という想いが込められています。
2年ほど前、その「新老人の会」の大会で「人間は生き方を変えられる。自分に与えられた時間を他人のために使ってほしい」と講演をされました。

今月のことば「鳥は飛び方を変えることはできない しかし人間はいつからでも生き方を変えられる」は、日野原先生のフェイスブックのカバー写真に掲載されています。
インターネット上の交流サイト「フェイスブック」を、日野原先生は100歳になってから始められたそうです。まさに、「老いてこそ新しいことにチャレンジ」を体現されていました。
「人間は生き方を変えられる」とは、日野原先生の全生涯が発する強いメッセージであると感じます。

日野原先生は、1970年3月31日、58歳の時に「よど号」ハイジャック事件に遭遇します。ハイジャック機に監禁され、死をも覚悟します。無事に解放され、そのときのことを述懐されています。
「あの事件で人生観が変わった。これからは与えられた寿命なのだ。与えられた命を、人のために捧げようと思う。新たな人生をどう生きるかと考えたとき、誰かに恩を受けてその人に恩返しをするのは当たり前だが、むしろ関わりなき人にも私が受けた恵みを返すべきではないかと気付いた」と。

「生き方を変えられる」とは?
「生き方を変えられる」・・・どのようなときに、生き方を変えたいと考えますか?
 物事が上手くいっていないとき? 
 困難な出来事に遭遇したとき?   
 自分自身が嫌いになったとき?
いずれにしても、マイナスの状況をプラスに転じたいときに、生き方を変えたいと考えることが多いのではないでしょうか。でも、そんなときって、マイナスの要因を外に求めてしまうものです。つまり、他者(ひと)のせい。
そうすると、生き方を変えたいとは思っても、私自身を変えようとは思わないわけです。私自身が変わらずに、というか、私自身のことを見つめることなしに生き方を変えたいと願うことは、結局、飛び方を変えられない鳥と同じことではないでしょうか。

淋しいけど楽しい
過日、奥様のご法事をお勤めになられた旦那さんが、お気持ちをお話しくださいました。
「妻に先立たれて淋しいです。淋しいんですけど、とても楽しいんです。周りのみんなに助けられて、ありがたいなぁって感じます。子どもたちをはじめ、いい人たちに巡り会えたなぁって、感謝の気持ちでいっぱいです」
と、手を合わせながら語られました。
「淋しいけど楽しい」・・・一般的感覚では、「淋しい気持ちが強すぎて、楽しい気持ちになんてなれない」かもしれません。けれど、「淋しいけど楽しい」という矛盾して聞こえる感覚が、人間には起こり得ます。「悲しいけど嬉しい」とか、「憎いけど愛おしい」とか。
矛盾した感覚を同時に味わったり、いろいろな感情が入り交じった感覚に襲われたり。そのような感覚にこころが揉まれることを通して、「あぁ、自分で思い描く事柄って、ちっぽけだなぁ。自分で想定している感覚って、たいしたことないなぁ。自分の想いや力を超えた、もっと大きなものに、私は包まれていたんだなぁ」なんて感じることがあるはずです。そんなとき、人生観が変わったり、人生の奥深さを感じたりします。
「生き方を変えられる」とは、そういうことではないかなぁと想います。

よく考えると、「生き方を変えられる」といっても、電車が線路を変更して走るように、人間が人生という線路を変更して生きることなどできません。幾つも選択肢があって、そのつど選びながら生きてきたような気でいますが、そもそも私が生きる道は一本道です。私の人生で、出会う人々、経験する出来事、身に降りかかる困難に変わりはありません。しかし、目の前にいる人に何も感じず通り過ぎるのか、何かを感じながら生きるのかで、同じ道を歩みながらも、内容は大きく変わります。
私が生きてきた道を振り返ると、多くの人々の支えのおかげで生きてきた。その気付きが、周りへの感謝や大きなはたらきへの感動を生み、手が合わさる生活が始まります。そのような変化が、「生き方を変えられる」姿だと、先の旦那さんの話を聞いて思いました。
日野原先生は、ハイジャック事件を契機に「人のために生きる」と誓われました。行動として「人のために生きる」という側面も当然ありますが、それ以前に、「この人のおかげで私がいる」「この出来事のおかげで私が私となった」という感動が、先生の中に湧き起こったのだと思います。

昨年10月4日に出版された著書『僕は頑固な子どもだった』(株式会社ハルメク発行)に先生は語られています。
「最期の時には、ただ、感謝の思いだけを伝えたい」と。

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「金魚すくいをしているクマ を、見ているクジラ」という構図ですhappy01
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2017年7月 2日 (日)

2017年7月のことば

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 ひとり一人が光に照らされている
 だからこそそれぞれの色に輝いている

『茶色の朝』
ここに一冊の本があります。『茶色の朝』という本です。

 『茶色の朝』(大月書店)
  フランク パヴロフ・物語
  ヴィンセント ギャロ・絵
  高橋 哲哉・メッセージ
  藤本 一勇・訳

本の大筋を語ってしまうことになりますが、紹介させていただきます。

登場人物は主に「俺」と「シャルリー」。ふたりは、カフェでたわいのない会話を楽しんでいました。あの話が出るまでは・・・。
シャルリーが告白します。飼い犬のラブラドールを安楽死させたと。理由は、茶色の犬じゃなかったから・・・。
「俺」自身、猫を安楽死させたばかりでした。白に黒のブチの。限度を超えた猫の増えすぎという問題解決のためには仕方がないと、「国の科学者たちの言葉」を信じたのでした。しかし、猫だけでなく犬までも茶色しか認めないと国が言い出したことに驚きを隠せません。
けれど、シャルリーは何事もなかったかのように振る舞っています。きっと彼の対応こそ正しいのだろう。「俺」の方が感傷的になっているにすぎない。

数日後、新聞『街の日常』が廃刊になりました。理由は、茶色の犬しか認めない国に対して、『街の日常』紙は、国をたたき続けたから・・・。
その後、『街の日常』の系列出版社がつぎつぎと裁判にかけられ、そこの書籍は全部、図書館や本屋の棚から強制撤去を命じられました。
街は、徐々に茶色の生活に染まります。そのことに対する違和感はしだいに薄れていきます。

ある日、シャルリーが新しい犬と一緒にあらわれました。鼻の頭からしっぽの先まで茶色の犬と。同じ日、「俺」も新しい猫と一緒でした。茶色の瞳と茶色の毛並みの雄猫と。ふたりで笑い合い、すごく快適で安心した時間を過ごしました。
街の流れに逆らわないでいれば、安心が得られて、面倒にまきこまれることもありません。茶色に守られた安心。それも悪くないなと思いました。

ある日、信じられないことが起こります。シャルリーが自警団に捕まったのです。理由は、“前に”茶色ではなく、黒の犬を飼っていたから・・・。
“前に”飼っていたことで違法になるならば、「俺」も自警団の餌食だ。冷や汗がひとすじ、シャツを濡らします。
『茶色ラジオ』が報じています。
「時期はいつであれ、法律に合わない犬あるいは猫を飼った事実がある場合は、違法となります」と。

「俺」はひと晩中考えた。
「茶色党のやつらが、最初の【ペット特別措置法】を課したときから、警戒すべきだったんだ。いやと言うべきだったんだ。抵抗すべきだったんだ。でも、どうやって? 政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、毎日やらなきゃならないこまごましたことも多い。他の人たちだって、ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?」

だれかがドアをたたいています。こんな朝早くに・・・。 
(あらすじ、以上)

ドンドンドンドンッ!
茶色は、フランスではナチスを連想させる色であり、そのイメージが元になり、今日ではもっと広く、ナチズム、ファシズム、全体主義などと親和性をもつ「極右」の人々を連想させる色になっているそうです。レイシズム(人種差別主義)に基づく排外主義を主張します。
1980年代、ジャン=マリー・ルペン率いる極右政党・国民戦線が支持を集め始めます。1998年の統一地方選挙では国民戦線が躍進し、保守派の中にこの極右政党と協力関係を結ぼうとする動きが出て来ました。そのような時代に、著者であるフランク・パヴロフは、強い抗議の意思表示として『茶色の朝』を出版しました。
(参考、高橋哲哉氏の寄稿より)

現代社会は、国と国との関係を見ても、国内に於ける人間関係を見ても、排他的な雰囲気が漂っています。自分ファーストであるために他を排除し、或いは、他を自分色に染めようとしています。
権力や財力を持つ一部の人間の思惑により、民衆がひとつの色に染められようとしています。そのことに疑問を抱いたり、疑義を呈したりして面倒に巻き込まれることはゴメンとばかりに、民衆の多くも思考を停止させて、大きな流れに乗り、安心を得たつもりになっているかのようです。
思考停止の果てに、おかしい!と気づいたときには手遅れです。そんな状況になっても「俺」は、仕事や日常のこまごまとしたことのせいにして、茶色に染めようとしている大きな流れに抗わなかった自分を弁護するのでしょう。
朝早く、家の玄関のドアをたたく音で起こされないために、私たちにできることは? 私たちは、物事に驚いたり、違和を感じたりする能力を持っています。「これはどういう意味?」「これっておかしくない?」という感性や感覚を失いたくありません。思考停止は、茶色の朝の訪れを意味します。

光に照らされてある私 
個性を色にたとえ、「自分の色を出して!」などと言いますが、実は物体そのものに色はありません。物体が光に照らされて、その反射によって色として認識されるのです。つまり、光に照らされているという事実が、それぞれの色(個性)を持つ私を生みだしています。誰かに、強大な権力に、無理矢理特定の色で染められてしまうような私ではありません!

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掲示板の人形
『茶色の朝』の中に猫が出て来たから、というつもりではありませんが、今月は木製の猫の人形を飾っています。
真ん中の、子猫を抱えた猫は、どこで飼ったかなぁ? 覚えていません。
左右の猫は、一昨年、タイのナイトバザールで買ってきました。また行きたいなぁhappy01
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2017年6月 2日 (金)

2017年6月のことば

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人間の愚かさは
何に対しても答えを持っているということです
ミラン・クンデラ

人間は弱い生き物
人間は、弱い生き物です。
不安定なもの、不確定なこと、原因不明なこと、予測不能の未来などに対して、私のこころを不安や恐怖が覆います。
それゆえ、原因を知りたい、先を知りたい、しっかりしたものが欲しいという衝動に駈られます。
そこで、自分なりの答えを用意します。経験に裏付けられた答えもあることでしょう。希望を込めた答えもあることでしょう。自分なりの答えで身を守り、安心を得、不安を取り除こうとします。
しかし、自分が納得できる、自分に利のある答えでしかありません。普遍性のある答えではありません。

私は正しい 争いの根はここにある
自分なりの答えを持ったものどうしが接すれば衝突が起きます。同じ答えを持った者どうしならば、衝突は起きないんじゃない? と思われるかもしれませんが、同じ答えを持った者の集団と、違う答えを持った者の集団ができ、結局は衝突が起きます。それに、同じ答えを持っていても、衝突は起きるものです。
現代(いま)、世界情勢がかくもきな臭くなっているのは、各国がそれぞれ自分の答えを持ち、自国第一を前面に押し出した姿勢で、対話・交渉・会議に臨んでいるからではないでしょうか。自国優先の妨げとなる答えを持つ国は受け入れられず、自国の答えを否定する国は攻撃の対象になってしまいます。
「答え」とは、その答えを持つ者にとっては「正義」と言い換えられます。「正義」を揺るがす者は、「悪」なのかもしれませんが、それは、私から見れば「悪」なだけで、相手にとっては「正義」です。同様に、他者にとって私は「悪」に見えていることでしょう。私は私の「正義」を掲げているだけなのですが。
争いは、正義と悪の戦いではなく、正義と正義とが引き起こしています。

問いを持つということ
他国の生まれの人を蔑む。性的マイノリティ(社会的少数者)の方に対する無理解・不寛容。自分が、タバコが嫌いだからといって、喫煙者自体を嫌悪する。いかがわしいとされるお店に出入りしていれば、「あの人は信用できない人」と見下す。
自分の答えの範疇からはみ出す他者やマイノリティに対する憎悪感が、激しく噴き出しています。人はなぜ、かくも他者を傷つけるのでしょう。突き詰めれば、誰もが、他者とは代わることのできないいのちを生きています。そういう意味では、人は誰もがマイノリティ。差別される道理のある人なんていません。一人の弱さを隠すために集団を形成し、少数者・弱者を襲う。人は優しいのに、人々になると残酷になってしまいます。

「こういう人は嫌い!苦手!」という自身の感覚のみで他者を見て、識別・差別していては、そこに関係は結ばれません。もしかしたら、自分にとってかけがえのない人であるかもしれないのに。その人のことを知る前に拒否してしまうなんて、もったいないことです。
目の前にいる人に対して、「この人はどういう人だろう?」「どんな考え方をする人だろう?」と関心を持てば、「この人のことをもっと知りたい」と興味が湧いてきます。人と人とが関係を築いていくということは、問いを持つということから始まるのではないでしょうか?
今月のことばに倣うならば、「人間の賢さは、何に対しても問いを持っているということです」と言うことができるのではないでしょうか。

いのちを傷つける答え
 答えなんて そもそも無いのに
 自分なりの
 自分だけの答えで理論武装して
 それで身を守り、他者を傷つけ
 相手を私より下位において
 満足した気になっている。
 でも、それって結局
 取り繕った私で
 私自身をごまかしているだけ。
 「ありのままの自分でいいんだよ」  
 なんて うなづきながら
 うなづけない私がいる。
 差別されている誰かに涙して
 傷つく他者に手を差し伸べる
 そんな優しさを持っているのに、
 誰かを差別して
 他者を傷つけることで
 私を私たらしめようとしている。
 そんなことのための答えなんて
 私はいらない

となりの親鸞
2017年5月2日に開催された「真宗大谷派 東京教区 同朋大会」で、講師の中島岳志先生(東京工業大学教授)が語られた親鸞聖人を感じる眼が優しかったです。

親鸞聖人は、私の横に立って、いつも語りかけてくれる人だと思うんです。 「私は正しい。私に間違いはない」と、正解を、あるいは正しさを所有しようとしたとき、親鸞は「本当にそうなの?」と言ってくる人なんですね。 驕り高ぶって、自力の世界に立ち、 「私は正しい!」と言っている人間に対して、親鸞は厳しい人です。 でも、親鸞は、迷っている人には優しいんです。「私は分からない!」と思っているときに、「私は無力だ!」と思っている人に、親鸞は、「そうだよ、僕もだよ」と言ってくれる人なんです。 「となりの親鸞」は、悩み、もだえ、不安に駆られ、不安感・無力感を持ったときに、優しい手を差し伸べてくれる人。それが親鸞という人の実像ではないのかな、と思います。

※ミラン・クンデラ (1929年4月1日~  88歳)
  チェコ出身でフランスに亡命した作家
  代表作『存在の耐えられない軽さ』

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掲示板の人形
カエルさんと、シンバルを叩く笑顔のピエロさんです。
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2017年5月 1日 (月)

2017年5月のことば

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人間の脳の中には、
絶対に祈りの回路があると思うんです。
                   柳澤 桂子

SWITCHインタビュー
4月22日(土)NHK「SWITCHインタビュー達人達(たち)」を視聴。
福島智さんと柳澤桂子さんの対談でした。
 
NHK HP〈番組内容〉より
障害者を取り巻く問題を当事者として研究する東大教授の福島智。
難病と闘い、思索と執筆を続ける生命科学者の柳澤桂子。
自らの体験を交え「生きるとは何か」を語り合う。

9歳で視力を、18歳で聴力を失った福島。指点字という方法で周りとコミュニケーションをとりながら勉強を続け、バリアフリー研究者となった。一方、柳澤は女性の大学進学がまだ珍しかった時代に米国留学、最先端の遺伝子研究に取り組むが31歳で突然、原因不明の難病に襲われた。以来、 病と闘いながら生命科学について思索をめぐらせている。番組では福島が2日間にわたって柳澤の自宅を訪ね、命と存在をめぐる対話を重ねる。
(以上)

心の真ん中に置いておくべきこと
昨年7月の相模原障害者施設殺傷事件。事件の容疑者は、「障害者は、周りの人間を不幸にする」「施設に入っている障害者のせいで税金が使われる」「障害者がいなくなれば世界は平和になる」などと語っていたと報道されています。この言い分に対し、当時ネット上では「犯人(容疑者)がやったことは許せることではないが、理由は理解できる」旨のコメントが多数見られました。
いつの頃からでしょう、頭の良い人間・仕事の出来る人間・経済生産性のある人間に価値があると、人間を価値の有無で見るようになってしまいました。そのような社会では、障害のある方・年老いて体が動かなくなった方を、生きる意味の無い者という目で見てしまいます。
福島智さんは、そんな社会状況を見つめ、語られます。「この事件は、容疑者の人格だけの問題ではなく、社会全体の価値観の問題です。人間は、すべて同じく生きる意味がある。大切ないのちをいただいている。そのことを子どもたちに伝えなければいけない。社会全体が、最強度の努力で生きることを守らねばならない」と。

いわゆる健常者と言われる者は、障害を持って生きる方を、憐れみの眼で見てしまいます。私にも、そういう想いがありました。しかし、福島さんは言います。
「障害を持って生まれてきてよかったと言う人は、けっこういるんですよ。当人よりも、親がショックを受け、心配します。それは、障害を持っていてもいきいきと生きる者が多くいて、施設も制度もある。その情報量がかなり少ないことに問題があります。本当は幸せに生きられるのに、それを知らない。幸せに生きられるんだよということを、障害を持った方が子どもの時に伝えてあげたい」と。
その話を聞いて、柳澤さんは「頭の片隅に置いておいておかなければいけませんね」と頷き、福島さんは「心の真ん中に置いておくべきことです」と応えます。そのやりとりが印象的でした。

当事者として生きる
福島さんは視力と聴力を失い、そのような身になったからこそ、自分にしか伝えられないことがあると語られます。「障害について、健常者が著わしたものは多々ありますが、障害を持った人(当事者)が書いたものがない。当事者でないと書けないことがある。だから、私も研究をし、発表をしているのです」
柳澤さんも、31歳のときに発病し、やがて寝たきりになります。50年に亘る闘病生活の中で、50冊以上の本を著わされました。「文章を書くことが苦手だった私が、何冊も本を書いてきたのは、好きだったから」と語られています。
おふたりとも、自分だからこそ伝えられることがある、と語られます。当事者として。

自然と手が合わさる
当事者として、身を粉にして思索研究に努め、世の中に伝えていくなかで、人間の力を超えた大いなるもの・自然に対する畏敬の念を感じると語られます。
(福島さん)「私は、目も見えないし、耳も聞こえない。でも、太陽は、その日射しを受けて熱を感じることができます。」
(柳澤さん)「科学で証明できないものは、無いのではなくて、有るのかもしれないし無いのかもしれない。否定してしまってはいけない。私は神を信じていないけれど、いないとは思っていません。
人間の脳の中には、絶対に祈りの回路があると思うんです。
DNAの中に、本能として書き込まれているんです。」

共感し合い、敬い合う
柳澤さんの体調から察するに、あまり時間をかけたインタビューや対談は行なわないのではないでしょうか。でも、窓の外の日の動きを見ていると、かなりの時間を費やしているようでした。 にもかかわらず、柳澤さんも福島さんも、笑顔があふれています。柳澤さんは、血色が良くなっているようにも見えました。
話をしているうちに興味・感心が深まり、共感し合い、敬い合っているかのようでした。
自分を包む大いなる世界・自然に対する畏敬の念と、自分の内側に流れるいのちの歴史への感謝。それら二人の奥底にあるものが通じ合っているように感じられました。
いつ再放送されるか分かりませんが、その節はぜひご試聴(「視聴」の誤りです。申し訳ありません)ください!(番組の宣伝みたいですねcoldsweats01

 bud bud bud

掲示板の人形
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2017年4月 1日 (土)

2017年4月のことば

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勇気と 愛情と 信頼と 希望と、
ちょっとの悲しみがあれば、☆(ほし)ができるよ

「べっぴんさん」
NHK朝の連続テレビ小説「べっぴんさん」の放送が4月1日で終了しました。
主人公すみれは、幼い時に母を亡くします。優しかった母は、四つ葉のクローバーを手に取り、「四つの葉にはそれぞれ意味があるのよ。勇気、愛情、信頼、希望。それがそろったとき、幸せになれるのよ。忘れないでね」と、娘に語ります。
戦後の混乱期、刺繍が好きだったすみれは、子どもたちのために子供服の店(キアリス)を立ち上げます。3人の仲間と共に。お店のシンボルマークは、「四つ葉のクローバー」。4人で仕事を頑張っていこうね、という願いが込められています(子ども用品店「キアリス」のモデル「ファミリア」も、実際に4人の女性によって立ち上げられました)。

ほんこ(報恩講)さん
昨年11月、ご本山 東本願寺の報恩講(宗祖 親鸞聖人のご法要)に参拝したときの話。
子どもたちが楽しめるように、報恩講期間中、東本願寺には子どもテントが設営されています。缶バッチを作ったり、お絵かきや折り紙をしたり、風船やシールや子ども念珠をくれたり、紙芝居を見せてもらったり・・・。娘たちも、子どもテントで過ごす時間を楽しみにしています。「報恩講」とは、この子どもテントのことだと思っているようです(笑)。
子どもテントのスタッフは、真宗大谷派寺院の若人が全国から集まり、子どもたちを大切に受けとめてくれています。
うちの娘たちが子どもテントを訪ねた際、Hさんが相手をしてくれました。
折り紙でキティちゃんやサンタさんを折ってくれたり、缶バッチを作る手伝いをしてくれたりしました。そして、「星を作ってあげるね」と言って黄色い紙テープを取り出しました。紙テープで五角形を形作ります。

五角形の全部の辺を凹ませたら、星の形になるのは想像できますか?
Hさんは、ひとつの辺を凹ませる度に、「勇気と」「愛情と」「信頼と」「希望と」とつぶやきながら四辺を凹ませました。そして、最後の一辺を凹ませるときに、娘の目を見て言いました。「それと、 ちょっとの悲しみがあれば、☆(ほし)ができるよ」と
星を見て、娘は喜んでいました。横でその様子を見ていた私は、Hさんに胸がキュンとしてしまいました。

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悲しみというスパイス
「☆(ほし)」は、「四つ葉のクローバー」の話と重ね合わせると、「幸せ」を象徴しているのかもしれません。
勇気と愛情と信頼と希望と、それだけで「幸せ」の条件が揃っているように感じますが、そこに「ちょっとの悲しみ」というスパイスを・・・。
ドラマでは、「キアリス」を経営していく上で4人が直面する困難な問題が、それほど大きくは描かれなかったように感じました。しかし、4人の前には大きな壁が立ちはだかったことでしょう。その困難や悲しみを共有し、乗り越えたからこそ、4人の関係はいつまでも続いたのだと想像することが出来ます。

悲しみなんていらない?
悲しみをもたらす事柄はつらくて、起きてほしくなんてありません。けれど、人間は喜怒哀楽という感情を持って生きています。人生におけるあらゆる事柄にこころ動かされ、あるときは喜び、あるときは怒り、あるときは哀しみ(悲しみ)、あるときは楽しむ(満足する)。
こころが動くおかげで、私が嬉しいときに、一緒に喜んでくれる人がいることの喜びをも感じられます。私が喜べる背景には、悲しんでいる誰かがいるかもしれないということを気遣うことができます。悲しみの気持ちを持っているからこそ、他者(ひと)の悲しみも感じることが出来ます。
喜怒哀楽という感情は、生きていることの証。悲しみが感じられない私に、他者(ひと)の悲しみを感じることができるでしょうか?
悲しみを感じることなく生きるということは、孤独を生きるということ。悲しみをもたらす事柄はつらいことだけれど、悲しみを感じられる私は、となりに誰かがいてくれることを感じることもできる。だからこそ、勇気も、愛情も、信頼も、希望も感じられる。悲しみが、すべてを結びつけてくれました! 

大悲(だいひ)
こころにポッカリと穴が空いたとき、こころがフラフラして、ひとりでは立てないとき。穴を埋めてくれる何かが、支えとなってくれる何かが、本当に無いのであれば、私のこころは悲しみに押しつぶされてしまうことでしょう。けれど、目に見えない何かが、こころの穴を埋めてくれています。感触はないけれど、 フラフラな私を支えてくれているはたらきがあります。そのはたらきを、阿弥陀といいます。
阿弥陀は、生きている者の悲しみを、我がこととして受けとめ、共に呻(うめ)き、共に悲しんでいます。だからこそ、私のことを救いたいと願いを起こされました。悲しみのこころで私を包んでいます。

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掲示板の人形
親鸞さんとみんなでお花見
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2017年3月 1日 (水)

2017年3月のことば

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きみとぼくの間に
たんぽぽを咲かせよう

(『きみとぼくの間に』作詞・作曲 柚梨太郎)

次女が通う幼稚園の「ひなまつり会」。園児たちの合唱がありました。幼稚園の園歌と、『きみとぼくの間に』という曲を歌ってくれました。ホール全体に響き渡る元気いっぱいの歌声でした。一生懸命に歌う姿が素敵でした。幼稚園のみんな、ありがとうございます。

人と人とが仲良しでいるためには、間に入る何かが必要です。美しい花や絵や景色を見ると、話が弾みます。食事やお酒があれば、一人で食べるよりももっと美味しくなります。目標や夢や希望が同じなら、たとえ水と油な性格どうしの者でも、相手を認め合うことが出来ます。一人ならサッサと諦めてしまうことでも、子どものためなら共に手を取り合ってがんばれます。病気や怪我で困っている人がいたら、私の中に眠っている優しさが引き起こされて、周りのみんなと協力し合えます。
きみとぼくだけだったら、手を取り合うことはないかもしれない。でも、間を取り持つ何かのおかげで、相手を認め合い、笑顔という花が咲きます。きみとぼくとのつながりから、世界のみんなへと、つながりは広がっていきます。

それなのに、「自分の方が優れている」「自分の方が頑張っているんだから、より良い結果に恵まれて当然」なんて想いが湧いて出て、目の前にいる人を敬うことが出来ません。間を取り持ってくれている何かにケチを付けてしまう始末です。誰であろうとも、どこの人であろうとも、人と人とは出会えるし分かり合えるはずなのに、私自身がそれを許しません。
「誰とでも仲良く」「他者(ひと)を敬いましょう」「みんな同じ人間です」「みんな大切ないのちです」などということを言うと、「現実味がない」「平和ボケしている」「本当にそんなこと言えるのか!」などと揶揄される悲しい時代になってしまいました。でも、子どもたちは、周りにいるみんなを友だちとして受け入れ、誰とでも遊びます。一緒に大きな声で歌えます。大人が端から出来ないと決めつけている物事を、子どもたちはすんなりとやってみせてくれています。子どもたちは、教育してあげる対象ではありません。子どもたちの姿から、大人は学ぶことがたくさんたくさんあります。


きみとぼくの間に (作詞・作曲 柚 梨太郎)

きみとぼくの間に
たんぽぽを咲かせよう
わた毛 吹き飛ばし
だけど たんぽぽだけじゃ
ちょっぴりさみしいから 
もうひとつ咲かせよう
ひまわりの花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に
ひまわりを咲かせよう
おひさまの下で
だけど ひまわりだけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
コスモスの花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に 
コスモスを咲かせよう
おひさまの下で
だけど コスモスだけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
ほほえみの花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に
ほほえみを咲かせよう
おひさまの下で
だけど ほほえみだけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
愛の花が 咲き乱れて
世界中をつつむよ


きみとぼくの間に
愛の花咲かせよう
おひさまの下で
でも 愛の花だけじゃ
ちょっぴりさみしいから
もうひとつ咲かせよう
もうひとつ咲かせよう

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掲示板の人形
3月ですね。お雛祭りの人形です。
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2017年2月 1日 (水)

2017年2月のことば

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人を人とすることによって、自分も人になる
                         安田理深

成人するということ
1月には成人式があります。20歳を迎えた若人が、成人としての歩みを始めます。「成人式」・・・「人と成る式」には、どのような願いが込められていることでしょう?
「人」は、「人間」という言い方もあります。「人間」の「間」には、「関係性を生きている」という意味があります。目の前の人を、人として敬い、人として接し、人として関係を築きながら生きていく。関係性を大切にしながら生きることが「人と成る」ということではないでしょうか。

停滞した水は腐る
アメリカのトランプ新大統領は、関係性を生きているという認識が薄弱のようです。アメリカに不利益を及ぼす(と、考えている)難民・不法移民の入国を拒否する、壁を作る。そのことは、より多くの難民を生み出し、アメリカへの憎悪を増幅し、結果としてアメリカへの不利益が生じることとなります。
水が、停滞すると腐ってしまうように、人の動きを規制するということは、腐敗につながりはしないでしょうか。

物事を、違う角度で見てみる
難民・不法移民の問題は、その人々自身に問題があるわけではなく、経済格差の拡大に原因があります。特定の国や特定の人のみが潤い、生活もままならない人が増えています。
1月15日、貧困撲滅に取り組む 「オックスファム」という国際NGOは、世界で最も裕福な8人が保有する資産が、世界の人口のうち経済的に恵まれない下から半分にあたる約36億人が保有する資産とほぼ同じだとする報告書を発表しました。
トランプ大統領は「再びアメリカを偉大にする」と豪語しているのですから、経済の発展を目指すことでしょう。富の集中がより加速し、難民を生み出すこととなります。

人が人であることの本質
「人のために泣ける人。人の痛みがわかる人。人に共感できる人。これが、人が人であることの本質だ」と語った人がいます。アダム・スミスです。アダム・スミスは、近代経済学の父とも言われています。哲学者としても有名な方ですが、経済に精通した方がこのように語られていることが興味深いです。経済(お金)を見ながら、その奥底に「人」を見ておられたのですね。
人のために泣けず、人の痛みが分からず、人に共感できない人が経済の舵取りを任されたとしたら、果たしてどうなることでしょう?

トランプ大統領だけではなく
昨年7月に起きた相模原障害者施設殺傷事件を覚えていますか? 事件の容疑者は、「重度障害者の安楽死が認められていないから、私が殺した。重度障害者は、家族を不幸にする。不幸を減らすために、自分がやった」と、理由を語っていると聞きます。恐ろしい理由ですが、当時ネット上では「人を殺すことは良くないことだけど、容疑者が言っていることは分かる」という声も聞こえ、驚きを感じました。
昨年の「保育園落ちた日本死ね!」という叫びをきっかけとして、国は重い腰を上げ、待機児童問題に取り組み、保育士の給料を上げることを考え始めました。その件に対して、「なぜ特定の職種に対して国がお金を出すのか?」という声を聞きます。あるいは、刑務所で服役者に税金を使うことに納得がいかないと憤る人、生活保護を受けている人たちに対して「甘えるな」という声を浴びせる人もいます。公共の福祉に税金が使われることは当然のことだと思うのですが、障害を持つ人・法を犯した人・なんらかの事情で保護を受けなければならない人に対して、私たちの目線は厳しい。まるで「自分はそうはならない」 つもりでいるかのように。
自分の頑張りが、自分に返ってくると実感しづらい現代。税金が、自分より頑張っていないと見える人に使われることが許せない気持ちが湧いてくるのでしょう。自分の頑張りが認めてもらえない社会は、つらく切なく、やる気を失います。しかし、その想いが爆発して、他者の存在が認められなくなり、他者への攻撃性として表われることは、よりつらく悲しいことです。
トランプ大統領を非難することは簡単ですが、果たして私は「人のために泣ける人。人の痛みがわかる人。人に共感できる人。」でしょうか。

鬼の正体は?
2月には節分があります。「鬼は外、福は内」が決まり文句ですが、果たして鬼は、どこにいるのでしょう?
今月のことばの主、安田理深先生(真宗大谷派僧侶)に、「自分を狂わせ迷わせる敵は内にある」ということばがあります。
自分を迷わせる敵を想いながら「鬼は外」と言うのでしょうが、その敵は、外にいるのではなく、内にいる。つまり自分自身です。人を人と見られない自分は、人の顔をした鬼のようです。
自分が人と成るには、人を人として敬うこと。相手を人と感じられるからこそ、自分も人として存在できます。

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掲示板の人形
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