西蓮寺掲示板のことば

2008年5月 1日 (木)

2008年5月のことば

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  生きていてたのしいと思うことのひとつ
   それは人間が人間に逢って
    人間について話をするときです
               相田みつを

 
聞いてくれる人がいるから
 話すことができる。
話してくれる人がいるから
 聞くことができる。
 
自分の正義の主張
自分の都合の押し付け
愚痴を零す
他人(ひと)の評価・悪口
それも「人間について話をするとき」かもしれないけれど、そのような話は、他人を傷つけ、自分をも否定していることを忘れてはいけない。それに、そのような話をしているとき、聞いている人は誰もいない。
しかし、そのような話をすることが好きなのも人間。たしかに、楽しいことかもしれない。けれど、自分の正義を主張し、自分の都合ばかりを押しつけていると、そのしわ寄せは、自分に来ます。愚痴を零し、他人の悪口を言い、誰かを見下していると、その矛先は、いつしか自分に向いている。
正義の主張・都合の押し付け・愚痴・中傷・批判。それらをやめることはできない。その楽しさに身を任せ、いつしか足元すくわれる。たとえその瞬間は楽しくても、他者から自分に対する憎しみや、自身の孤独しか生み出さない。気付いたとき、独りになっていることでしょう。
語り合うことが大事だと言うけれど、それもまた難しい。話せば話すほど分かり合えなくなることもある。平行線をたどることもある。誤解が生じることもある。

このように書いていると、話をすることが恐くもなってしまいます。で、相田さんのことばを読み返す。
 「人間が人間に逢って」
大事なことを見落としていました。人間に逢わずに、人間について話すことはできません。
自分が関わる集まりの中で、正義の主張・都合の押し付けをすることもあります。仲間に対し、愚痴を零すこともあります。そこにいない人の悪口を言うことだってあります。
でもそれらは、人間に出逢っているからこそできることです。出逢い、話すこと。つまりそれは、日々の生活です。日々の生活そのものが、生きていてたのしいこと。たのしくないって? さて、どうしてでしょう。
「あう」を、「会う」ではなく「逢う」と書いていますね。「逢う」とは、愛しい人・大切な人に「逢う」ということ。愛しい人・大切な人といっても、誰か特定の人を指しているのではありません。すべての人々を愛しく、大切に想っているからこそ、「逢う」と表現されているのですね。「逢う」の感覚。先ずはそれが、「たのしい」ことの第一歩ではないでしょうか。
 
人生において、私ができることは限られています。私が経験し、身に付け、感じたことは、とてもとてもわずかなことです。でも、その感じたことを、人に話すことを通して、感動は何倍にも膨らみます。知らなかったことを知らされます。今までとは違うものの見方を教えられます。
同じ年齢、同じ学校、同じ職業、同じ環境にいる人と話をすることは大切です。しかし、そこでグループが形成され、殻に閉じこもり、あたかも普遍的な意見を語り合っているつもりで、まったく独善的な考え方に陥ってしまうことがあるものです。
年齢・性別の隔てなく、様々な環境に身を置いたものが、自分の感得したことを語り合う。当然、同じ境遇に身を置くものどうしが語り合うよりも、考え方の相違や納得できないことはあると思います。しかし、他人の話に耳を傾け、聞き、自分の中で反芻してみる。なるほどと思えることもあれば、やっぱり納得できないこともあることでしょう。でも、そこには聞くという姿勢が生まれます。
人間が人間に逢って、人間について話をする。語り合い、それを共感できて、自分の肥やしとなれば、それは素晴らしいこと。でも、共感できないこともあることでしょう。
だからといって、はじめから聞く耳を持たないのは、自ら孤独への扉を開くようなもの。
話すことがたのしいのは、不平不満を言ったりしてストレスを発散するからではありません。
話すことがたのしいのは、私の話を聞いてくれる人がいるからです。その、耳を澄まして聞いてくれるあなたは、私を受け止めてくれている。その安心感があるから、私は話すことができます。また、あなたが話してくれるから、私も聞くことができる。本当に話が成り立つというのは、そこに、手をつなぎ合う関係があるから。だからたのしい。
 
   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
西蓮寺門前の掲示板に、月替わりで人形を飾っています。5月の人形は鯉のぼりを見上げる子どもの人形と、坊守が長崎に帰った際に買った有田焼の絵皿です。
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2008年4月 1日 (火)

2008年4月のことば

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  朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて
   夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり
          蓮如上人 「白骨の御文(おふみ)」

   
「御文」とは親鸞聖人から数えて8代目の蓮如上人が書かれたお手紙のことです。
蓮如上人の頃、民衆は戦乱や飢饉に苦しめられ、生きる希望を失っていました。そのような時代に蓮如上人は、親鸞聖人の「南無阿弥陀仏と念仏申せば、阿弥陀如来が救ってくださいます」という教えをよりどころとして生きられました。親鸞聖人の教えを伝えるために、蓮如上人はたくさんのお手紙を書かれました。その数は250通を超えます。「白骨の御文」は、そのうちの一通です。
お父さまを亡くされたご門徒から、「白骨の御文」の現代語訳が欲しいと背中を押され、試みに訳しました。先ずはそちらをお読みいただきたく思います。
  
朝には希望に満ちた笑顔を見せていても、夕べにはいのち尽きて帰らぬ人となる。その日は、今日かもしれないし、明日かもしれない。誰が先に往くのか、それも分からない。老いも若いも関係なく、その日はやってくる。このようないのちを、私は生きている。
「白骨の御文」には、人間の無常な姿が痛切なまでに書かれています。「白骨の御文」を読み、なにを想われますか?
限りあるいのちを生きている。だからこそ懸命に生きたいし、人との出会いを大切にしたい。そのように想っていました。しかし、最近違うことを想っています。
 
   ❀ ❀ ❀
 
今年1月、あるご住職が亡くなりました。まだ50代、現役の住職で、教団内だけでなく地域のいろいろなお役目に就かれていました。私も共に仕事をさせていただき、お世話になっていました。
ご住職の訃報が入り、もっと何かできたのではないかと、遅すぎる後悔をしました。
 
   ❀ ❀ ❀
  
先の春彼岸、ご主人のお墓参りにみえた奥さまとお話する機会がありました。
「主人は、副住職のことが大好きでした。副住職とは気が合うらしくて、お寺に行ってお話しするのを楽しみにしていました」
そのように想っていただいて、嬉しかったです。とともに、ご主人とキチンと向き合っていただろうかと、自分に問いました。
 
   ❀ ❀ ❀
 
 もっと語り合いたかった。
 もっと一緒に呑みたかった。
 もっと同じ時間を過ごしたかった。
 もっと何かできたのではないだろうか。
 
関係が近ければ近いほど、人の死は、後悔や自責の波が押し寄せてきます。しかし、仮に亡き人の生前にもっと語り合い、もっと呑み、何かためになることが出来たとして、これでよかったと納得できるものではありません。納得できたとしても一時的なものであり、自己満足にすぎません。それに、納得してしまってはいけません。
 
三帰依文(おしえのことば)に、次のようにあります。
 
  人身(にんじん)受け難し、いますでに受く
  仏法聞き難し、いますでに聞く

 
人として生を受けるということは、有り得ないほど稀なことなのです。にもかかわらず、今、人として生を受け、私がいます。人として生まれるだけでも稀なことなのに、さらにその生において仏法を聞く縁に出会うとは、難中の難なのです。
人生に意味を見出すことが流行っているようです。「なぜ生きるのか」「どのように生きるべきか」
自分を変えるために仏法を求める人がいます。「仏法聞いて清い人間になりたい」「こころの平安を求めたい」
しかし、自分でどうにかしようというのは、傲慢であり、勘違いなのではないでしょうか。いのちは、私の思いでどうにかできるものではないし、どうにかなるものでもありません。
人として生を受けた。仏法聞く縁をいただいた。何億もの人間がいる中で、あなたに会えた。その事実が、私となっています。有り得ない出来事が、私となって生きています。自分でなんとかしようとするのは、まだ何かを求めているのです。しかし、何も求める必要の無いいのちが、私となって生きているのです。
亡きご住職、亡きご門徒に対し、もっと話しておけばと後悔をし、恥ずかしくない生き方をしなければと思っていました。 しかし、根本を見失っていました。
そのご住職に、そのご門徒に会えた。そこに何の不足があるのでしょう。それ以上なにが必要なのでしょう。出会いが、私となっている。出会えたところに満足がありました。
 
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
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西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
4月の人形は、ちりめんで出来たサクラとウサギの吊り下げ人形です。
桜のガラス細工も置いてあります。
今年は桜の開花が早かったですね。ブログを書いている只今(4月1日)、外は強風です。建物がミシミシいってます。この風で散ってしまうかもしれませんね。もう少し楽しみたかったなぁ。
 
 散る桜 残る桜も 散る桜

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2008年3月 3日 (月)

2008年3月のことば

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 楽(らく)を求めて苦しみに陥る
 苦しみを生きる中で 楽しみに出遇う

   
苦と楽はワンセット
苦があり、苦に耐え忍び、その果てに楽があると思っていませんか? 
楽があり、その楽に甘んじていると苦に陥ると思っていませんか?
  
苦と楽はワンセット、
私が楽な思いをしているとき、どこかで誰かが、苦しい思いをしています。誰かの苦の上に、私の楽は成り立っています。
  
苦と楽はワンセット
私の人生のみにおいて、苦楽がワンセットなのではない。私が楽なときに、誰かが苦しんでいる。または、私の苦しみのうえに成り立っている楽を、誰かが享受しているかもしれない。
それは、関係を生きているから。だからこそ、苦楽はワンセット。人と人との関係の中で苦楽が生ずる。哀しい事実だけど、だからこそ温かい。誰もが経験している事実だから。
 
本当に哀しいことは、楽な思いをしているとも感じないこと。まだまだ不満ですか? もっともっと欲しいですか? すでに満たされているのに。
苦しみを脱して、楽を手に入れようとしても、その楽は長続きしません。楽が楽でなくなるという意味ではなく、楽を手に入れても、そのことを楽と感じなくなる私がいるのですから。
楽を求めるこころが、余計に苦しみを生み出すということもある。
関係の中を生きている。そのために、苦もあれば楽もある。苦から楽に逃れたい気持ちが起こるのも当然のこと。しかし、楽もまた苦しいのです。
  
楽な生活がしたいと望む。
望み通りの楽な生活を手に入れたとして、果たしてその生活に満足できるでしょうか?
  
楽になりたい 楽になりたい…
いざ楽になったら、どのように生活したらいいのか分からなくなった。今までは子どもがいて、仕事もあった。子育てや仕事の忙しさから解放される日を待っていたのに、いざその日が来ると途方に暮れる。
「やはり私がいないと」と言っては、昔の自分を引きずり、やがてみんなに嫌われる。
  
楽になった 楽になった…
日常を離れ、いざ旅に出たものの、のんびりなんてしていられない。携帯・パソコンに縛られ、旅行に来たのにゲーム三昧。お土産買うのに一生懸命。さて、何しに来たのでしょう。
  
苦から逃れるために、楽を求めて仏法を求めても、そのような聞き方では間に合わないのです。
日常から離れて、静かなところに身を置いて、楽な状態で仏法を学ぼうとしても、それでは身に響かないのです。
日常の中に身をおいて、仏法に聞いていく。生活の中にいながら、おしえに触れていく。
つらく、悲しく、苦しい人生を、楽に転じるのではない。
つらく、悲しく、苦しい人生に変わりはないけれど、苦しみを苦しみのままに生きる中で、その中でしか味わえない楽しみがある。そのことは、仏法にふれていないと気付けない。
「関係を生きているから」と書きました。私ひとりで苦しみを処理しようとしても、とてもできません。ひとりでは淋しいのです。でも、一緒に泣いてくれる人がいるのです。だからこそ、なんとか立ち上がれる。仏法で説かれている内容は、そういう人の歴史です。苦しみながらも、生を全身で受けて生きた人々が、私に先立っているのです。
つらく、悲しく、苦しい人生を生きる衆生を、仏法の灯は照らしているのです。灯に照らされていると感じたとき、うれしいのです。楽しいのです。
仏法にふれた私の歩みが、後の人を導きます。
 
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
3月の人形はお内裏様とお雛様です。長崎(坊守の故郷)に行ったときに、グラバー園近くのお店で買いました。
でも、ひな祭りは3月3日ですね。3日で人形を差し替えてしまうのもかわいそうなので、3月いっぱい飾っておきます。2月から飾っておけばよかったですね。

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2008年2月 2日 (土)

2008年2月のことば

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   涙とともにパンを食べたものでなければ、
      人生の味はわからない。
  ゲーテ
 
涙味のパン…どのような味がするのだろう?
と、問うている時点で、涙とともにパンを食べていないことを告白しているようなもの。
パンを食べるとは、生きるということ。生きるといっても、ただパクパク食べているだけでは、生きているとはいえない。それは、動いているだけのこと。涙は、生きているからこそ流れるもの。動いているだけでは、雫さえこぼれない。涙こぼれる人生こそ、生きていることの証。
流れる涙を、隠してはいけない。

    
涙の海に人は溺れ、
涙でこころ洗われる。
涙なしの人生はありえない。
 
涙のきっかけとなった  
 悲しい出来事 苦しい出来事
悲しみも 苦しみも
 なければいいのにと思うけれど、
悲しみや 苦しみが
 あったからこそ 今の私がいる。
 
悲しくて流す涙
 悔しくて流す涙
  怒りに震えて流す涙もあれば、
安堵して流す涙
 嬉しくて流す涙
  感動にこころ響いて流す涙もある
涙の味はさまざま
 
でも、
それぞれの涙の味が
それぞれ独立しているのではない。
嬉しさの味を知るからこそ
 悲しみの涙はしょっぱく、
悲しみの味を知るからこそ
 嬉しさの涙はあたたかくもあり、
          そして、切ない。

甘い味付けには、
 塩味が欠かせない。
つかれた こころとからだには、
 やさしいあまさがしみわたる。
どんなに美味しいものでも、
 食べ続ければ飽きてしまう。
自分の希望通りのものばかりでは、
 新しい味に出会えない。
食べず嫌いでは、
 本当の良さを感じることもない。
 
味を知ることは、
 人生を知ること。
味覚が豊かになるということは、
 人生が豊かになるということ。
 
嬉しさの涙ばかり流していては、
 それが嬉しさとは気付かなくなる。
 ひとの悲しみがわからなくなる。

悲しみの涙を流してばかりでは、
 目の前にある
 ひとが、道が、光が見えない。
 
涙のしょっぱさに耐え 我慢すれば、
そのしょっぱさが、
 消えると思ってはないだろうか。
 甘くなると思ってはないだろうか。
涙のしょっぱさは、
 いつまでも変わらない。
年を経るとともに、
経験を積むとともに、
 涙のしょっぱさを より強く感じる。
しょっぱさの濃度は同じでも、
 私の感覚が増してくる。
今まで感じなかった涙の味を、
 こころ突き刺すほどに感じる。
 
涙のしょっぱさは、
 いつまでも変わらない。
 
哀しいことは、
 しょっぱさに慣れてしまうこと。
 しょっぱさを忘れてしまうこと。
 
もう涙も流れないほど泣いたのに、
 あふれる涙は尽きない。
それは、
 涙の味を忘れないため。
  
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
      

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西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
2月の人形は石で出来たパンダとフクロウです。
大久保石材様よりちょうだい致しました。
ありがとうございます。

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2008年1月 1日 (火)

2008年1月のことば

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明けましておめでとうございます
穏やかな良いお年をお迎えのことと思います。
今年は十二支の最初の子年。また初心にかえって聞法にいそしみたいと思っています。
その昔、浄土真宗には「妙好人(みょうこうにん)」と言われる人がいました。理屈を抜きにして、心からお念仏を喜ばれた人のことを言います。
浄土真宗の教えは学問・知識ではなく、生活です。朝に礼拝、夕に感謝の思いでお内仏に向かって手を合わせ、お念仏を称えましょう。
本年もよろしくお願いいたします。
                西蓮寺住職 釈謙弌
 
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
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    あたりまえのことって
     ありがたいことの積み重ね

 
「ありがとう」
感謝の気持ちは、口に出さなくては伝わりません。感謝していることくらい伝わっているだろうと、思っているのは自分だけ。
「ありがとう」のひと言で、どれだけ周りが変わることだろう。社会が変わることだろう。私自身が変わることだろう。
でも、感謝の気持ちがあるだけでも嬉しい。感謝の気持ちを持たない人もいる。「あたりまえ」のことに、感謝の気持ちもいらないだろう、と。
「あたりまえ」が「あたりまえ」であるために、どれだけの出来事が触れ合い、重なり、響きあっていることでしょう。私の日常の中で…。
朝起きて、顔を洗い、服に着替え、朝食をとり、交通機関が目的地に連れて行ってくれて、勉強や仕事をし、人に会い、人と話し、人と笑い、人と泣き、人と別れ、帰る家がある。栄養を与えてくれる食料があり、お風呂の水は天の恵み、横になる大地があり、体を休めるために日は沈み、体を目覚めさせるために日は昇る。そばにいるあなた。生きている私。
私が私であるために、どれだけの縁が触れ合い、重なり、響きあっていることでしょう。
 
「あたりまえ」のことにしていることって、本当に「あたりまえ」なのだろうか。
 
口にする食事は、どうして食べることができるのだろう。食事を作る人がいるから。食物を作る人がいるから。人に食べられる生き物がいるから。
着ている服は、どうして着ることができるのだろう。服を買うお金を稼ぐ人がいるから。服を作る人がいるから。原材料となる生き物がいるから。
食事を作る気持ちになれるのは、自分が食べるためだけではないでしょう。食べてくれる誰かがいるから。「面倒臭い」と怠けるのか、「この人のために」と励むのか。いや、「この人」がいてくれるおかげで嬉しいんだ。楽しいんだ。
働いて稼ぐ気持ちになれるのは、自分一人のためだけではないでしょう。養うべき誰かがいるから。「稼いでいるのは私だ」と思い上がって生きるのか、「この人のために」と思って頑張るのか。いや、「この人」がいてくれるおかげで、私は頑張れるんだ。生きていけるんだ。
 
つらいことや悲しいことが続く日常に、ポッと良いことがあったとき、「ありがたい」って言うけれど、「ありがたい」って、そういうことなのだろうか。感謝って、ポッと良いことがあったときに、ポッとするものなのだろうか。
 
私の好きなことばです。
幸せだから感謝するのではない
感謝しているから幸せなのです

 
「あたりまえ」と思っていることは、実は「ありがたい」ことの積み重ね。なにか良いことがあって「ありがたい」のではない。日々の生活そのものが、常に「ありがたい」こと。良いことも、そして悪いことも。私の身に起こることは、私にとってきっと必要なこと。いや、私の身に起こるのではない。起こった出来事が私となる。
  
  
  今日も一つ
  悲しいことがあった
  今日もまた一つ
  うれしいことがあった

 
  笑ったり 泣いたり
  望んだり あきらめたり
  にくんだり 愛したり
  ・・・・・・・・
  そして これらの一つ一つを
  柔らかく包んでくれた
  数え切れないほど沢山の
  平凡なことがあった
         星野 富弘

   
     ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
掲示板のお人形
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西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。1月の人形は今年の干支のネズミです。
写真左手より、2匹のダルマのようなネズミは田崎由紀子様より、3匹のネズミ(石で出来てます)は大久保石材様よりちょうだい致しました。ありがとうございます。
右手の写真、吊り鶴は、京都に行った際に買ってきました。嵐山の「ちりめん細工館」というお店です。フラッと立ち寄ったのですが、かわいい人形が沢山飾ってありました。
今月の掲示板は賑やかです^^
掲示板に飾ってある人形を楽しみにしてくださる方もいらっしゃいます。私自身楽しみながら飾っています。
 
本年もよろしくお願いします。

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2007年12月 1日 (土)

2007年12月のことば

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愚かなる 身こそなかなか うれしけれ
  弥陀の誓いに あうと思えば
                  良寛

 
最澄 「愚が中の極愚」
源信 「予(よ)が如き頑魯(がんろ:頑固で愚かの意)の者」
法然 「愚痴の法然坊」
親鸞 「愚禿(ぐとく)親鸞」
良寛 「大愚(だいぐ)」
 
ここに挙げました僧侶方、一度はお名前をお聞きになったことがあると思います。
皆、ご自身のことを「愚」と評されたり、名告(の)られたりしています。
 
「愚」を名告る
では、「愚」を名告るとはどういうことなのでしょう。自身を省みて言われたのだとか、謙遜して言われたのだと解説されていますが、そのような説明だけでは、とても足りません。
「愚」とは、「愚かなる身」とは、果たしてどういう人のことなのか。果たして誰のことなのか。そのことを問うとき、自分というものを外して考えてしまいます。自分は「愚」ではない、と。
また、親鸞聖人は、「悪人こそ救われる」という「悪人正機(悪人成仏)」と言われる教えを説かれました。「悪人」とは何か?ということを考えるとき、「愚」と同じように、自分を外して考えてしまいます。自分は「悪人」ではない、と。
仏法は、私を映し出す鏡です。決して、幸せの道を教えてくれたり、苦悩を取り払う方法を教えてくれるものではありません。自分自身が、今ある姿を見つめることから人生は始まります。仏法は、そのきっかけを与えてくれます。そして、新しい歩みを始めたとき、私の歩みに先立って、仏の教えが、すでに私のよりどころとなっていたことに気づかされます。
仏法は、私を映し出す鏡。自分のことを外に置いて仏法聴聞しても、なにも見えません。なにも聞こえません。なにも開かれません。

あるがまま
11月、親しくしていただいている友人のお父様が亡くなられました。
容態が悪くなり、一度落ち着いたときに、友人はお父様に尋ねられました。
「このまま死ぬかと思ったよ。死んじゃったらどうするんだよ」
お父様は小さな声で答えられたそうです。
あるがままだよ
 
お父様のお通夜の晩、私は用事があり、お参りができない予定でした。しかし、都合がつき、お通夜が終わってからだいぶ時間も過ぎていましたが、お寺に着きました。お寺に入ると、受付の方が本堂に案内してくださいました。初めてお会いする友人のお父さん。厳かなお顔でした。
お父様とのご挨拶を済ませ、お座敷で友人に会うことができました。時間に遅れてしまい申し訳ありませんでしたが、おかげでゆっくりと話すことができました。そこで、先のお話を聞かせていただいたのです。
 
人生、誰もが自分の思い通りにしようとしながら生きているのではないでしょうか。「あるがまま」に生きられないのが私なのです。もがくのです。さからうのです。抵抗するのです。しかし、苦しいのは、思い通りにならない人生に苦しんでいるのではないのです。思い通りにしようとする私の心が、私を苦しめているのです。やがて誰にも訪れる「死」に逆らえないように、この世のありとあらゆることは、自分でどうにかしてきたつもりでいるけれど、なにひとつ自分ではどうしようもできないのです。
 
あるがままだよ
友人のお父様は、このことばを、私に身をもって伝えてくださいました。ありがとうございます。
  
良寛さんは、1828年11月12日、三条地震で被災し、同じ地震で被害を受けた友人に手紙を送っています。
 
  災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。
  死ぬ時節には死ぬがよく候。
  これはこれ災難をのがるる妙法にて候。

 
まさに「あるがまま」のお姿です。「あるがまま」とは、苦しみをなくす術ではありません。つらいことをつらいと感じない境地でもありません。「あるがまま」に泣き、笑い、怒り、喜び、哀しみ、楽しむことができる。それは、弥陀の慈悲に包まれているからこそ。
「愚」とは、弥陀の慈悲の温もりに触れた人の、よろこびの名告りなのだと思います。
 
 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
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西蓮寺門前の掲示板に月替わりで人形を飾っています。
12月の人形はヒヨコとネコです。赤と白の、クリスマス仕様の襟巻や帽子をしています。

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2007年11月 1日 (木)

2007年11月のことば

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 如来に信ぜられ
  如来に敬せられ
   如来に愛せらる
 かくて我等は
  如来を信ずるを得る

               曽我 量深
  
 「はい」

呼ばれてもいないのに、返事をするということはない。「はい」と返事をするのは、呼ばれたから。先に、私を呼ぶ声がするから。
  
 「おかあさん」
 
子どもが母を呼ぶのは、実は、母を呼んでいるのではないのかもしれない。母が子を慕(おも)う気持ちが子どもに届いているから、それを受けて子どもは「おかあさん」と、呼んでいるのではないだろうか。
子どもが母を呼ぶ声は、母からの慕いを受けた返事。その返事には、なんの要求も、なんの取り引きも、なんの条件付けもない。
  
 「なむあみだぶつ」
  
お念仏を称えるのは、私の思いによるのではない。望みが叶うために、不安解消のために、亡き人の供養のために称えるのが念仏ではない。
私のことを信じ、敬い、愛している想いがある。その想いの主が、阿弥陀如来。  その想いに包まれて、今、わたしが生きている。だからこそ、「なむあみだぶつ」と  念仏申す声が、私のからだから溢れてくる。
   
   ☆ ☆ ☆

人は、生まれながらにして苦悩を抱いています。人間は苦悩する才能を持った生き物です。
「苦悩」と言っても、望みをかなえたい、不安を無くしたい、災いを除きたいというような個人的欲望に振り回されることではありません。

 どこから来て、どこへ行くのか。
 どこからが生で、どこからが死なのか。
 どうして生まれ、なぜ生きているのか。

「生死の現実」という苦悩を抱えて生きている私。その広くて深い生死の苦悩の海をさまよい、漂い、沈みながら生きている私。そんな私が、どうして溺れることなくこの身を生きていけるのでしょう。

阿弥陀如来は、苦悩を生きる衆生を信じ、敬い、愛しています。

信じる。敬う。愛する。
誰もが一度くらいは、誰かを信じ、敬い、愛したことがあるはずです。しかし、その想いは続かない。相手の裏切りにより、儚くも信・敬・愛は崩れ去ってしまう。
「相手の裏切り」…さて、果たしてそうなのでしょうか。信じ、敬い、愛した想いは、なぜ続かないのでしょうか。それは、私のこころのせいに他ならない。
相手の、たったひとつの気に食わぬ行いで、私の信・敬・愛は、いとも簡単に崩れ去る。
信じたのなら、どこまでも信じてこそ、信。ここまでは許すけれど、これ以上は許さないと、線引きをするような信は、信ではない。始めから信じていなかったということ。敬も、愛も同じです。
線引きし、取り引きし、条件付けをした信・敬・愛。そんなのは、信・敬・愛とは言いません。相手のせいではない。私のこころが、信・敬・愛を持っていなかっただけのこと。始めからないのだから、続くはずもない。
人を信じられない者が、人から信じられるだろうか。人を敬えない者が、人から敬われるだろうか。人を愛せない者が、人から愛されるだろうか。本来は有り得ないこと。つまり、孤独。
このように孤独な私につねに寄り添い、人を信じられぬ私を信じてくださる温もり。その温もりが阿弥陀如来。阿弥陀如来は、衆生を信じ、敬い、愛する。崩れ去ることのない想い。私は阿弥陀如来から信じられ、敬われ、愛されている。
私が、苦悩の海に溺れずにいられるのは、阿弥陀如来の想いに包まれているから。
おかげさまで、私の口から出るはずのないお念仏の声が出て来ます。
  
 「なむあみだぶつ」
 
如来のみもとより生まれ、如来のみもとに還るいのち。お念仏は、子が、母を呼ぶ声に似ています。

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2007年10月 1日 (月)

2007年10月のことば

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     私を助ける阿弥陀さまがいるのではない
     私が助かる法を阿弥陀さまというのです
           安田 理深

    
   
☆縁によって生まれる☆

一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり。
                      (『歎異抄』第5章)
「生きとし生けるものはみな、いつの世にか、父母であり、兄弟であったに違いない」
   
父と母が出会い、私が生まれる。父と母には、それぞれに両親がいて、その両親にも父と母がいる。代々さかのぼり、誰か  ひとり欠けたとしても、私は存在しない。
   
私が生まれることも縁
私のいのちが尽きることも縁
 
   
☆縁を生きる☆
 
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし
                      (『歎異抄』第13章)
「人間とは、そうせざるを得ない状況に 身を置かれたら、どのようなふるまいでもするものです」
   
「あれをした」
「これはしなかった」
すべて自分の選びのように思っているけれど、「成したこと」も「成さなかったこと」もすべては縁。
成したのは縁による。「縁によるといっても、いけないことは避けられるはず」と、自分の選びのように主張する。成さずに済んだのは、自分が拒否したからではなく、成さないで済む縁に出会っているから。
  
  
☆縁に遇う(あう)☆
  
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

           (「正像末和讃」)
「阿弥陀如来のご恩に出会った者、諸々の師の教えを受けた者は、ねてもさめても へだてなく念仏申さずにはおれないはずです」
 
阿弥陀如来の慈悲のおこころ。私に仏法を伝えてくださった諸師のご恩。恩を受けて生きている私。縁の表われが恩。恩に包まれ、今の私がある。ご縁とはご恩でした。
 
縁・縁・縁。縁について、何度も書いてきました。何度も考えてきました。何度も味わってきました。
けれど、
 「私」を縁の中心に置いていました。
 「私」を頂点に縁を思い描いていました。
 「私」を縁の主役にしていました。
 
縁と縁とが出会い、さらに縁が生じる。
砂の数ほどの縁の中で、ある縁とある縁が出会い、次の縁が生まれる。
星の数ほどのいのちがある中で、いのちといのちが出会い、次のいのちが生まれる。
 
不思議だと思いませんか? 
 縁は破綻しないのですね。
不思議だと思いませんか?
 縁からはみ出る者はいないのですね。
不思議だと思いませんか? 
 個としてのいのちは終わっても、縁の中では誰も死なない。
 はるか昔から、これから先まで、いのちは生き続けるのですね。
 
「私」は、縁と縁とが織り成す模様の中の、ほんの一部分にすぎない。とてもとてもちっぽけな存在。縁の中を生かされている。決して中心ではないし、頂点でもないし、主役でもない。しかし、私一人欠けただけで、縁と縁とが織り成す模様はまったく別のものになる。
縁には不思議があふれている。縁は、私の想いを超えている。不思議なるもの、想いを超えたもの、それが「阿弥陀さま」。
 
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
               (『歎異抄』後序)
「阿弥陀さまが、五劫という長い間ご思案になって発起してくださった本願をよくよく考えてみると、ただひとえに、親鸞ひとりのためのものだったのだなぁ」
  
縁と縁でつながっている。つまり、「一人」のすくいは、みんなのすくい。「すでに助かっているのです」。親鸞聖人の告白が、今、私に響いています。南無阿弥陀仏。
 
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
 
今月のお人形
Dscf0814
10月の人形はお地蔵さんです。 お地蔵さんって、みんなニコニコしていますよね。見ている私も、こころがホッとします。

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2007年9月 1日 (土)

2007年9月のことば

   Dscf0749
     生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし
     ひさしくしずめるわれらをば
     弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ
     のせてかならずわたしける

          親鸞聖人「龍樹和讃」
   
  
生死をはじめとする迷いや苦しみは
まるで海のように際限がありません
その苦しみの海に、
常に沈み、常に没している私たちを
阿弥陀如来の本願の船だけが
乗せて
必ず安楽浄土へ渡してくださいます

       ☆ ☆ ☆
 
荒れる闇黒の大海原は私を包み込む。その闇黒から必死で逃れようとする私。
逃れようとする私に、波は容赦なく襲いかかる。波に打たれ、海原に沈みゆく私。どんなに沈んでも底がない。いったいどこまで沈むのだろう。いったいどれだけ深いのだろう。深さは、底に着いたときに感じるのではなく、その只中にあって感じるものなのかもしれない。
苦しい。海上に出ようと、急いで浮かび上がる。沈んでは浮かび、漂い。そしてまた沈み、また浮かび…。
    
漂っていると、晴れ間が見えるときもある。「あぁ、やっと明るくなった」。波ひとつ立たない穏やかな海。海と一体となり、この身をまかせる。いつまでもこのままでいられたら…。しかし、やがて波が立ちはじめ、辺りは暗くなっていく。海がまた漆黒の闇へと変わる。
 
漂っていると、目の前に浮き輪が流れてきた。慌ててしがみつく。「あぁ、助かった」。このまま浮き輪に身をまかせ、いつまでも浮かんでいたい。しかし、浮き輪の空気は徐々に抜けていく。空気が抜け切ったとき、私はまた闇黒の海原に放り出された。
 
漂っていると、小島を見つけた。「今度こそ助かった」。陸にあがり、大地を踏みしめる。今度こそ、安住の地を見つけた。いつまでも、この小島で生きていこう。しかし、小島は徐々に浸食していた。小島は徐々に削られていく。安住の地と思った小島も、いつまでもあるものではなかった。浸食が進み、私はまた大海原に投げ出された。
   
目の前の楽は、儚く消えてしまう。いつまでも続くものではない。しかし、続かないのは、実は私の満足心だった。思いがけない晴れ間に、浮き輪に、小島に、私は安心を得た。それなのに、いつしか物足りなさを感じていた。晴れ間が当たり前なんだ。浮き輪よりも良いものがあるはずだ。小島よりも良いところがあるはずだ、と。
  
荒れる闇黒の大海原の正体は、この私であった。波が収まることもあるだろう。暖かな日が射すこともあるだろう。浮き輪や小島、頼りとするものが見つかることもあるだろう。しかし、そこに満足できない私は、また荒れた大海原に自ら飛び込む。
 
荒れる海原を漂っていると、ある日、何かが私に当たった。「今度はなんだろう?」
正体は木片だった。どこから流れてきたのだろう。見渡す限り何もない。この大海原で、小さな木片が私に当たる不思議。
こんな小さな木片に身を任せたところで、沈んでしまいそうだ。なんの頼りにもならぬと、気にも留めない私。
その木片こそ、私を救うために流れてきたのだった。頼りにならぬものと放ってしまう私。その私を、木片は見捨てない。
あなたを救いたい。木片は、この私に届いた阿弥陀如来の願い。阿弥陀の願いは、決して人を選ばない。決して人を嫌わない。決して人を見捨てない。
闇黒の海原で、その願いが見えなくなってしまっている私。木片は、私を彼の岸に必ず渡してくれる。一生を共にしてくれる法(教え)。
  
木片を手に入れても、闇黒の大海原は、闇黒の大海原のまま。弥陀の願いに救われて、この闇黒の大海原が、波ひとつなく澄み渡り、快晴の海に変わるのではない。
「弥陀弘誓のふね」とは、すべての衆生が乗れる堅固な豪華客船ではない。私一人つかまるのがやっとの木片。しかし、沈まない。しかし、枯れない。しかし、私を見捨てない。必ず私を浄土へ導く。
闇黒の大海原で、木片につかまる私。木片に身を任せる決心をしたとき、目の前に、彼岸(阿弥陀如来)が見えてくる。
「南無阿弥陀仏」
       
☆ 
   
Dscf0743
掲示板、9月の人形は、月に座って見つめあうウサギです。
2007年は9月25日が中秋の名月 (十五夜)だそうです。

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2007年8月 1日 (水)

2007年8月のことば

  Dscf0675
   人間は
    苦悩する才能を持った生き物です

 
誰もが悩みを抱えながら生きている。しかし、私の悩みとは、
  「自分の思い通りにならない」
  「欲しいものが手に入らない」
  「得たものを失うことが恐い」
  「物事うまくいきますように」
  「失敗したくない」
  「生きたくない」
  「死にたくない」
など、欲望に根ざした悩み。自分で作り出し、自分で振り回されている。
「苦悩する才能」とは、自分で自分を振り回している、欲望に根ざした悩みとは違います。
   
お釈迦さまは教えてくださいました。人間は縁によって生きる存在である、と。
父と母が出会い、私が生まれる。父と母には、それぞれに両親がいて、その両親にも父と母がいる。代々さかのぼり、誰かひとり欠けたとしても、私は存在しません。
私見ですが、私が生まれるためには、父と母、そして私自身の「生まれたい!」という強い願いがなければ、この世に生まれ出ることはできないと思っています。そう、なぜ私が生まれてこられたのか。私自身が強く願ったからなのです。
私が生まれる事実を考えただけでも、数多くの縁があったことを思い知らされます。そのうえ、数え切れないほどの縁のおかげで、今、私がここにいます。
人格・思想を作るために、どれだけ多くの人々の影響を受けたことでしょう。
この肉体を形成・維持するために、どれだけ多くの生き物のいのちをちょうだいしていることでしょう。
生活するために、どれだけの人の努力のおかげで、今の生活が成り立っていることでしょう。
   
親鸞聖人は言われました。
  さるべき業縁のもよおせば、
  いかなるふるまいもすべし

        (『歎異抄』第13章)
人間とは、そうせざるを得ない状況に身を置かれたら、何をしでかしてしまうか分からない存在である。人の物を盗み、人を傷つけ、殺してしまうこともある、と。
聖人のことばを聞いて、「いや、たとえどんな状況になっても、私はそんなことはしない」と言う人もいます。しかし、「する」とか「しない」ということが問題なのではありません。
聖人が言いたかったことは、「出会う縁によっては、なにをしでかしてしまうか分からないのが人間です」ということではなく、「私は、縁によって生かされています」ということだと思います。私の身の事実を、これほどまでに厳しいことばで伝えようとされたのです。
 
欲望に根ざした悩みに振り回されている私。しかし、その悩みは、私側から見た一側面に過ぎません。たとえ私にとってはひとつの出来事にすぎなくても、縁が縁を生み、多くの人々に縁が生じています。
  
私の成功の背後には、数多くの犠牲がある。私の失敗により、成功する者もいる。
私との出会いにより救われる者もいれば、同時に、傷ついている者もいる。万人に対していい顔はできない。
私の願いが叶うとき、悲しみの涙を流す者がいる。生きとし生ける者すべての願いが叶うことはない。
私がここにいるために、ここにいられない誰かがいる。
生まれ、生きるものにとって、死もまた必然。死を厭い嫌うが、先行く人が耕した土壌があるからこそ、今、私がその大地を踏みしめられる。その大地を耕す仕事を、放棄していいのだろうか。
いのちとは、オギャアと生まれてから息が止まるときまでのことなのか。受精により生じるのだから、私のいのちは、はるか昔から受け継がれてきたもの。そして、たとえ我が身は滅んでも、いのちは連綿と続く。始まりもなければ、終わりもない。
  
縁を生きる私。喜びとともに必ず悲しみがある。縁に生き、縁に死すのが人間。そこに、存在に根ざした苦悩がある。
縁を生きているからこそ、苦悩の才能が開花するのです。
 
☆ 
  
Dscf0671
掲示板、8月の人形は、ゴーヤに座っているシーサーです。
昨年沖縄に行ったときに、目が合って、思わず買ってしまいました。

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2007年7月 1日 (日)

2007年7月のことば

  Dscf0460
  私を傷つけるのが人なら、
   私を支えるのも人
  私が傷つけるのが人なら、
   私が支えるのも人

共命鳥(ぐみょうちょう)をご存知ですか?
共命鳥は、胴体はひとつで頭がふたつ。共命鳥の容姿はとても美しく、誰もがほめたたえるほどです。

ひとつの胴体に頭がふたつある共命鳥は、容姿の美しさとは反対に、いつも喧嘩ばかりです。
「お前の容姿が気に入らない」
「お前さえいなければ、私だけがほめたたえられるはずなのに」
「お前さえいなければ、この美しさは私だけのものなのに」
お互い、相手が邪魔で仕方ありません。
   
「邪魔なあいつを殺してしまおう」
ある日、一方の鳥が決断し、もう一方の鳥の食事に毒を盛ります。そうとは知らない鳥は、毒入りの食事を食べてしまいます。鳥は苦しみ、死んでしまいました。
さて、頭はふたつと言っても胴体はひとつです。結局、毒を盛った方の鳥も苦しみ、死んでしまいました。
 
  ☆
  
共命鳥は、どこにいるのでしょうか? なにを伝えようとしているのでしょうか?
ひとつの胴体にふたつの頭。共命鳥は、場を同じくする仲間と共に生きている私の姿を表わしています。
親子・夫婦・兄弟・家族・学校・会社・地域…私の身の回りを見渡しても、かなりの数の共命鳥がいます。頭の数も、どんどん増えていきます。
地球だって共命鳥。地球温暖化が騒がれているけれど、「自分さえよければいい」の結果が、「自分を苦しめる」ことだと、やっと気が付いてきたようです。
たとえその規模は違っても、場を同じくするということは、そこには同じ根っこを生きる仲間がいるということ。誰もが、あらゆる生き物が、根っこでつながって生きています。誰かが傷つけば、その傷は私をも傷つけます。
  
 「あいつさえいなければ」
 「仲よしが集まれば、喧嘩もしないだろう」
 排除の思想と仲良しの思想
 相反する思想のようだけど
 どちらも結果は同じ
 めぐりめぐって自分を傷つける

     
        
私の中にも共命鳥はいます。
なにかあったとき、自問自答することはありませんか? 自分の中で、天使と悪魔が格闘することはありませんか?
つらいことと楽なこと。つらい道を選んだ方が、後々自分のためになると思っていても、目の前の楽に手を伸ばしてしまう。
  
 私の中に、ふたりの私。
 自分に厳しい私と、自分に甘い私。
 ふたりは、いつも喧嘩ばかり。
 だけど勝つのは、いつも自分に甘い私。
 その行く末は、
  さて、どうなることでしょう?
  
  
    
共命鳥。私と、もう一方の頭は阿弥陀さまかもしれない。
「生きよ 生きよ」と、常に呼びかける阿弥陀さま。しかし、その声が聞こえない私。常に呼びかけられているのに、常に迷い、常に淋しく生きている。

 私が私を生きないで、
 誰が私を生きるのか。
 阿弥陀さまの呼び声に、
 「南無阿弥陀仏」と応えるとき、
 私の眼前に、私を生かす道が現われる。
 
   
  ☆
   
共命鳥を譬えに、共に生きることの窮屈さ、大変さ、つらさを書き連ねましたが、反面、「私はひとりでは生きていない」事実を感じることもできます。
ふたつの頭のそれぞれが、もう一方の想いを必死で感じようとするとき、お互いを生かしあう「共に」の関係が生まれます。
 
   
Dscf0462
今月の人形は、石でできたカメの親子です。
大久保石材様よりいただきました。ありがとうございます。

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2007年6月 1日 (金)

2007年6月のことば

Dscf0341
  天命に安んじて 人事を尽くす
                    清沢 満之

「人事を尽くして天命を待つ」という方が耳なじみのことと思います。
「私が出来ることは、すべてやりつくしました。私に出来ることはもうありません。後は天にお任せします」
そのように言うしかない状況なのかもしれません。その悲しみ苦しみは、他人には分かりません。まさに天命を待つしかない心情・状況なのでしょう。
しかし、天命を待つと言いながら、そこに安心できない、良い結果を求めてしまう私の想いがあります。これだけ頑張ったのだから、これだけ耐えたのだから、これだけ苦しんだのだから報われて当然だ、と。
そのような想いを抱くことがいけないのではない。もう出来ることはやり尽したのに、それでも安心が得られない。それでは、人事を尽くすことの、生きることの意味が見えなくなってしまいます。
 
真宗は他力の教えです。阿弥陀如来の救いに任せて、私はただ南無阿弥陀仏と口にすればいい。ただ念仏、それだけのこと。だけど、たったそれだけのことが出来ない。任せられない。信じられない。念仏できないのです。
努力しなければ結果が付いてこないとお考えの方は、「他力はダメだ。自力でなければ」と言う。
真宗では「他力」を強調するあまり、「自力はダメだ。他力でなければ」と考えがちです。考えがちですが、任せるも信じるも念仏称えるも結局は自力。どうすれば他力の信心を得られるのかと疑問を持ちます。
信じることに他力と自力があるわけではありません。任せることに他力と自力があるわけではありません。念仏に他力と自力があるわけではありません。
私がすることはすべて自力。どんなに 信じても、どんなに任せても、たとえ心が清浄でも、たとえ動機が純粋でも、自力は自力。
しかし、それら自力とともに他力が存在しているのです。
  
他力と自力は、イコールなのだと思います。同質という意味ではなく、他力があるから自力があり、自力があるから他力があるという意味で。どちらかだけでは成立しません。
イメージしてください。振り子が、右・左・右・左・・・と振れています。その振り幅は、右も左も同じ大きさです。どちらかが大きくて、どちらかが小さい振り子は存在しません。
他力と自力は、互いに手を差し延べあい、手をつなぎ、同じ力で引き合っています。そのような意味で、他力と自力はイコールなのです。
つまり、私が成すことはすべて自力でも、そこには他力がある。私が生きているということは、既にそこに阿弥陀如来の救いのはたらきがある。
今、阿弥陀如来の救いの中を、私は生きている。だからこそ、人事を尽くせる。
生きている事実とは、阿弥陀如来。阿弥陀如来の手の中に包まれて生きている私。それ以上、どのような安らぎ・安心・安住があることでしょう。だからこそ、私は人事を尽くせる。
自力と他力とは、相反するものではない。自力を捨て、他力に身をゆだねるのではない。他力があるから、自力を生きられる。自力があるから、他力を感じられる。だからこそ、「天命に安んじて 人事を尽くす」ことができるのです。
 

 
清沢満之(1863~1903)
真宗大谷派僧侶
明治期の宗教哲学者
西洋哲学を学び、親鸞聖人の教えを近代の言葉で表現されました。
6月6日がご命日です。
  
Dscf0333
(付記)
掲示板に飾ってある6月の人形は、カエルさん2匹とオタマジャクシ君です。なぜかオタマジャクシの方がデカイです。ちなみに、名前を「タマオさん」と申します。
今月の人形は、渡部 美晴様より頂戴致しました。ありがとうございます。

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2007年5月 1日 (火)

2007年5月のことば

  Dscf0262_1
  絵心(えごころ)がなくても絵は描けるけれど
  物語(ファンタジー)がなければ人生は描けない

宗教に幸せを求める人が多いようだけれど、宗教は幸せなんか与えてはくれない。だけど、物語を与えてくれる。
「無宗教です」「無信心です」と言う人がいる。宗教を信じていなくても、生きていくことはできるでしょう。そう、絵心がなくても絵が描けるように。でも、やはり描きたいものがなければ、絵を描くのも嫌々になってしまう。絵を上手に描く必要はないけれど、楽しく描きたい。人生だって、上手に生きる必要はないけれど、楽しく生きたい。
楽しく生きるとは、欲望が満たされるという意味ではない。それって、虚しくないですか? たとえその瞬間は楽しくても。
宗教を、私の都合に合わせて求めてしまう。悩みを解消してほしい。欲望を満たしてほしい。答を与えてほしい。
ほしいほしいほしい…求めたとおりのものが得られなかったら、ポイッ。仮に得られたとしても、お役ごめんでポイッ。
宗教の方が、私の人生に寄り添っているのに、私は捨ててしまう。そんな自分勝手な私なのに、宗教は、教えは、私を捨てない。

南無阿弥陀仏とお念仏称えれば阿弥陀仏の国に生まれられる。

お釈迦さまは母マヤ夫人の右脇から生まれ、七歩歩き、「天上天下唯我独尊」と言った。

今の境遇に耐えて頑張れば、次の世では良い所に生まれ変わることができる。

イザナキ・イザナミが、日本列島を形成する島々を生み出した。

聖母マリアの処女懐胎。
キリストの復活伝説。

これらはすべて物語です。何も信じない人にとっては、鼻で笑ってしまう話でしょう。しかし、これらの物語によって、人間はより鮮やかな人生を描いてきました。鼻で笑えることですか? 物語を持たずに生きていることの方が、鼻で笑われてしまうことではないですか?

私にとっての物語(ファンタジー)
毎月発行しているこの寺報「よくことばが見つかるね」「よく毎月書けるね」「よく続けられるね」と、よく言われます。自分でもそう思いますが、寺報を書くときには、阿弥陀さんが後押ししてくれるんです。「さ、書こうか♪」って。
    
このような会話をしたことがあります。
「副住職、阿弥陀さんってなに?」
「私が生きているということです」
「それが阿弥陀さんですか」
「そうです、阿弥陀さんです」
「それが阿弥陀さんなら、死んだ人は阿弥陀さんから見捨てられたことになるん じゃないですか」
「どうして亡くなられた方を、生きていることと切り離して考えるのですか?  生があっての死、死があっての生。亡き人も、今を生きているじゃないですか。私のこころに。それに、阿弥陀さんは誰も見捨てません」
「分からないなぁ…」
   
「阿弥陀さんは私が生きていることだ」って感得したとき、私の中に阿弥陀さんが生まれました。いや、すでに私の人生に阿弥陀さんがいたのです。だからこそ阿弥陀如来を感じられた。いつも一緒。つまり、生きていることそのことが阿弥陀さんなのです。
生が終わり死があるのではなく、生の延長に死がある。阿弥陀さんはいつまでも私とともにあり続けるのです。寺報は、その物語の表われです。
  
共感してもらえなくてもいいんです。物語は、人の数だけあるのだから。
物語の中身は、幸せばかりではない。けれど、物語は物語として成り立っている。だからこそ、自分のスピードで一歩一歩歩むことができる。だからこそ安心して生きていける。だからこそ人生が鮮やかになる。
楽しく生きるとは、物語を生きること。物語は、人が考え出すのではない。すでに物語の中を人は生きている。そのことに気付かせてくれるのが宗教。日々のひとつひとつの出来事に意味があることを教えてくれる。
   
Dscf0264 Dscf0263
(付記)
西蓮寺門前にある掲示板。その掲示板に、月替わりで人形を飾っています。
5月は、可愛い鯉のぼりと柏餅の人形を飾っています。
田崎 由紀子様より今月のお人形をちょうだい致しました。ありがとうございます。

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2007年4月 1日 (日)

2007年4月のことば

  Dscf0244
    死に支度
       いたせいたせと
          桜かな

            小林 一茶

桜以外にも、姿美しい花は数多くあるのに、桜はどうしてこんなにも人々のこころを魅了するのでしょう。
花開くまでが待ち遠しく、一輪一輪の蕾が花開けば、その美しさが集まって、私を包み込む。咲いたかと思えば、春の風雨とともに、潔く舞い散る。風に舞い散る花びらも美しい。この儚さに、人は、桜と人生を重ね合わせる。

散る桜 残る桜も 散る桜
             良寛
良寛さんの辞世の句と言われています。 散らずに残っている桜も、やがては散ってしまいます。いのちあるもの、いつか必ずいのち尽きる。諸行無常を詠んでいます。
「死に支度」と掲示してあって、どのように感じられましたか?「死ぬための支度」と受け止めた人は、嫌な気分がしたことでしょう。
諸行無常とは、うつろいゆくこと。うつろいゆくいのちを、どのように生きるのか。 「死に支度」とは、「あなた、どのように生きますか?」という問いかけなのです。

あすありと思う心のあだ桜
夜半に嵐のふかぬものかは

               親鸞
親鸞聖人が詠まれたと言い伝えられています。聖人9歳のとき、得度(出家)のため京都青蓮院を訪ねます。青蓮院の慈円和尚は言います。
「出家の意思は見上げたものです。しかし、9歳で出家はまだ早い。もう数年経って、気持ちに変わりがなければ、そのときに出家しても遅くはないであろう」
そのときに聖人は先の句を詠まれました。
「今は美しく咲き誇っている桜も、この夜半に嵐が吹いてしまえば、瞬く間に散ってしまいます(明日があると思っていては、人生を無駄にしてしまいます)」と。
聖人の想いを受け止めた慈円和尚は、その日のうちに得度式を執り行いました。
「明日がある」「まだ早い」「いつでも出来る」。そのように思って、きちんと物事を成したことはありますか? いつの間にか時間が過ぎてしまったこと、時間の余裕があるときにやっておけばよかったと後悔したことはありませんか?
日々の生活、忙しさに流されています。しかし、「忙しい」とは、何もしていないことの裏返し。今、なにか私に残っていますか?
忙しさの中、仏法に聴聞しましょう。仏さまのお話に耳を傾ける。そして仏法聴聞の仲間と、人生をともに歩む。

今年は暖冬だったため、桜の開花が例年より早まると予想されていました。しかし、開花はほぼ例年通りでした。
早まると予想された開花がなぜ遅れたのか。桜は、暖かさのみによって開花するのではありません。咲く前に厳しい寒さが必要なのです。厳しい寒さがあるからこそ、そこに開花という目覚めがあるのです。
仏法聴聞もそうです。「いい話だった」「分かりやすい話だった」「面白い話だった」なんてものではないのです。仏法は、私を映し出す鏡。見たくないのです。つらいのです。厳しいのです。出来ることなら、ふれられたくないところを突いてくるのです。でも、突かれることによって、この私が目覚めるのです。
桜が寒さによって咲くように、私も仏法によって目覚めるのです。
仏法聴聞しなくても、生活はできます。しかし、仏法聴聞すれば、生きることができるのです。
桜が人のこころを打つのは、美しさと儚さのためだけではありません。厳しい寒さを経た、目覚めの姿だからなのです。
誰にでも哀しさ・つらさ・悩み・苦しみがあります。そして、そこから逃げようとしてしまいます。なかったことにしようとしてしまいます。
逃げてもいい。なかったことにしようとしてもかまわない。でも、苦しみも含めて私なのです。仏法は、苦しみを消してくれるのではありません。私の歩みを、すべて照らし出してくださるのです。
私の歩みが照らし出されることがない人生は、誰も見向きもしない名もなき花のようなもの。仏法聴聞し、桜のように人生に花開く。
「死に支度」とは、「仏法聴聞」ということ。
 
Dscf0245 Dscf0246

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2007年3月 1日 (木)

2007年3月のことば

 Pict0188_2
     三月の風と
     四月のにわか雨とが
     五月の花をもたらす

          イギリスの諺
  
からだ突き刺す風
こころ湿らす雨
たとえ私の人生に立ちはだかっても
風と雨とが花をもたらす
風と雨がなければ
花は咲かない

こんなはずじゃないのに
どうして分かってくれないんだ
たとえ私の歩みがとまっても
つらい想いは生きる力に変わる
つらい想いがなければ
私はどこまで思い上がることだろう

追い風
慈悲の雨
一人で生きていると思っていても
知らぬところで支えられている
支えがなければ
私はなにひとつできやしない

風雨に耐えることがなかったならば
花が色鮮やかに咲くことはない
風や雨がない人生に
いのち輝く瞬(と)間(き)はない
快晴ばかりでは
身もこころも枯れてしまう
   
   
いのち終えるとき
思い巡らすわが人生
たとえ心残りがあっても
後の人はあなたを慕(おも)う
私が生きた証(あかし)は
後の人が見出す

大切な人との別離(わかれ)
亡き人を慕い 流す涙
哀しみに押しつぶされて
こころに刻まれる亡き人の面影
先行く人が作った道すじ
咲き往く人の道すじを 私は訪(とぶら)う
 
死は 誰にでも訪れる
 死から
 先の人を慕い
 後の人を導くことがなかったならば
 人の死は 私の死
 生きながらに死んでいる私

 死が
 先の人を慕い
 後の人を導くからこそ
 人の死は 私を生かす
 人生に花を咲かせる

どんな花を咲かせているんだろう
どんな花が咲くんだろう
   

 
March winds and April showers bring forth May flowers

(付記)
3月14日、西蓮寺聞法会がありました。
その席で、門徒のおばあちゃんが
「副住職、今月のことば好きだわぁ。でも、詩も素敵ねぇ。よく見つけてきたわねぇ」
「あの…自作なんです」
「えぇっっっっっ Σ( ̄ロ ̄lll) 」
そんなに驚かなくても^^;

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2007年2月 1日 (木)

2007年2月のことば

  Dscf0203
       経(きょう)は経(けい)なり
       経(きょう)は鏡(かがみ)なり

 
今月のことばは、善導大師(ぜんどうだいし)が、『観経疏(かんぎょうしょ)』という著作で示してくださったことばです。別々の箇所に出てくるのですが、ふたつ並べて、簡潔に表わさせていただきました。
善導大師(中国・613~681)は、親鸞聖人(日本・1173~1262)にとって大事な先生です。生きた時代も国も違い、実際にお会いしたことはありませんが、善導大師が遺されたことばを通して、親鸞聖人は善導大師に直接に出遇われたのです。
 

  
経(きょう)といふは経(けい)なり。
 
善導大師は、お釈迦さまの教え(経)を、人生における「経(けい)」であると教えてくださっています。
「経(けい)」とは「縦糸」のことです。経は、人生における縦糸である。さて、どういうことでしょう。
織物は、縦糸と横糸から成ります。先ず、縦糸がしっかり正しく張ってあって、そこに横糸を通していきます。織物の表面に表われるのは、横糸でデザインされた模様部分でしかありませんが、その奥に縦糸があるからこそ、織物は彩り鮮やかに出来上がるのです。
私の人生にも、お釈迦さまの教えという縦糸が、しっかり正しく張られているのです。教えという縦糸に支えられているからこそ、日々の生活という横糸を通すことができる。だからこそ、人生という織物を完成させることができるのです。
日々の生活、楽しいこと・幸せなことがあれば、苦しいこと・つらいこともあります。横糸の色が美しいときもあれば、汚れてしまうときもあるでしょう。でも、たとえ横糸がどのような状態であろうとも、縦糸は、しっかりと横糸を受け止めてくれます。
一生をかけて作り出す織物は人それぞれ違います。ひとつとして同じものはありません。さぁ、私の人生という織物。どのような模様が出来上がることでしょう。
 

 
経教(きょう)はこれを喩(たと)うるに、鏡のごとし。
 
もうひとつ、善導大師は、お釈迦さまの教え(経教)を鏡に喩えられています。
経は、私を映し出す鏡です。美しい面もあるのかもしれませんが、恐らく私のこころの醜い面・汚れた面・見たくない面ばかりを映し出してくれるのでしょう。
 
こんなことを言われたことがあります。
「お釈迦さんがいた頃と今とでは、あまりに環境が違いすぎる。教えが時代に追いついてないですね」
さて、そうでしょうか?
人間を取り巻く環境は、お釈迦さまが教えを説かれたころとは比べ物にならないほど変化したのかもしれません。経は時代遅れだと見下したり、知識として経を学んでいたのでは、教えから学ぶことはなにもないことでしょう。だからといって、教えが時代に追いついていないのではありません。
  
日常鏡を見るとき、自分の良い面しか見ません。あるいは、良く見えるように体裁を整えます。そのような見方で鏡(経)を見て、そこに映った自分の姿を見ても、私の本当の姿は見えません。
鏡は、私の姿を映し出すと共に、光を集めて私を照らし出してもくれます。「鏡」の喩えは、光に照らされている私であるということを表現されているのではないでしょうか。
経は、私の姿を照らし続けてきました。人々は、照らし出される自分の姿を見続けてきたのです。いつの世も、人を照らし出してきたのです。だから仏教は古びることがありません。しかし、いつの日からか、私の曇った目で経を見るようになってしまいました。経が古臭く、時代遅れで、役立たずに見えてしまうはずです。
私を映す鏡として経を見たとしても、所詮見ているのは私の目。教えが時代に追いついていないようにも思えてしまうはずです。しかし、私を照らし出す鏡として経をいただくことができたなら、今の私を、私自身が受け容れられることでしょう。鏡に映る私のこころは、汚れ濁ったものです。自分を知らされます。だけど、汚れた私を知らされるにもかかわらず、恥ずかしく感じるのではなく、生きる力となるのです。汚れ濁った私を、私のままに救いたいと願う阿弥陀如来の光を私に照射しているのですから。
 
お釈迦さまの教えは、遠いインドの国で遥か2500年前に説かれた、異国の昔話ではありません。
私が生まれる以前から私という人間を見抜き、常に私に先立って、今まさに私の歩く道を照らしているのですから。
 
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2007年1月 1日 (月)

2007年1月のことば

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       如来の本願は、
       風のように身に添い、
       地下水の如くに流れ続ける

                    平野 修

今、このように文章を書けることを、ありがたく思っています。ずっと続けていることは、いつのまにか当たり前になってしまいます。しかも、「自分が」書いているつもりになっているから感謝の気持ちも起きません。