西蓮寺掲示板のことば

2020年11月 1日 (日)

2020年11月のことば

2020年も11月を迎えました。
「秋の日は釣瓶落とし」と言いますが、ホント日が暮れるのがあっという間になりました。
夕方5時前、境内の掃除&見回りのため外に出るのですが、外に出たときは「まだ明るいなぁ」と思うのですが、それから数分のうちに辺りが暗くなっていきます。作業が終わらないうちに暗くなってしまいます😲
朝晩は冷えますね。お風邪など召しませんように💛

 ☆ ☆ ☆

2020年11月のことば

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人に会い
人を知りなさい
それは
自分を知る旅だよ
   『ミステリと言う勿(なか)れ』

報恩講(ほうおんこう)

報恩講の季節です。報恩講は、宗祖親鸞聖人のご法要ではありますが、亡き人 親鸞聖人を偲ぶための場ではありません。聖人の教えにふれる場、人と人とが出会う場、教えを通して 自分に出会う場が報恩講です。

例年、西蓮寺では11月5日に報恩講をお勤めしていますが、新型コロナウイルスを鑑み、本年は休止にしました。「報恩講」やそれに先立つ「仏具お磨きの会」など、門徒さんが集う場を休止せざるをえず、あらためて報恩講が勤め続けられてきたことの意味を感じています。

縁起(えんぎ)の道理(どうり)

お釈迦さまは、「縁起の道理」を説かれました。「この世のあらゆる物事は、縁によって生じ、縁によって滅す」と。

人も私も誰もが、縁によって生じ、縁によって人や事柄に出会い、縁によって阿弥陀の浄土へと還って往きます。

縁によってつながる私たちです。お互いに影響し合いながら生きています。人と自分とは、決して分断されているわけではありません。

「人に会い 人を知る」とは、個々の人柄や思想、生まれ育ってきた背景を知るということではなく、「人に会いながら生きている自分」であることを知ることだと思います。

「人に会いながら生きている自分」は、今までに無数の人に会い、育てられてきました。実際に会ったことがある人だけではありません。会わずに一生を終えるであろう人びとと共に生きています。私が口にする食べものを、私が身に着けている衣類を、作っている人がいます。自分を知るということは、多くの人との関係が結ばれながら生きている、そのことを知ることです。

「縁起の道理」を生きている私です。人を知ることは自分を知ることであり、自分を知ることは人を知ることです。

 愚禿釋親鸞(ぐとく しゃく しんらん)

「自分を知る旅」という言葉から、親鸞聖人を想いました。

聖人は自らを「愚禿親鸞」あるいは「愚禿釋親鸞」と名告(なの)りました。
「愚」は「愚か」。
「禿」は「道を求める心もないのに、生きるため食べるために出家した形だけの僧侶」を意味します。
そのような「愚禿」の名告りには、どのような意味(想い)があるのでしょう。

聖人は、念仏の弾圧を受け、遠流に処されます(「承元の法難」)。僧籍をはく奪され、京の都から越後へと流されました。

流罪の地 越後へ渡る際、聖人を乗せた船の船頭に会います。板一枚下は地獄、つまり、日本海の荒波に呑み込まれればたちまちに命を失う仕事を生業(なりわい)としています。
越後の地は、京の都とは比べ物にならないほど寒く、土地は荒れ果て、過酷な自然の猛威にさらされた地でした。そのような地で、懸命に生きる人びととも出会いました。

船頭や越後の人びととの出会いを縁として「この人たちがいなければ、私はいない」という気づきがありました。

聖人は、人間は それぞれの思いはからいで生きるものではなく、縁によって生きるものであることを、遠流に処されることによって実際体験しました。

自身の懸命な修行によってさとりをえようと考えていた独善的な歩みが打ち砕かれ、人と共に生き、阿弥陀と共にある自分であったという気づき、懺悔と讃嘆(反省と感謝)の目覚めが、「愚禿釋親鸞」の名告りとなりました。

不安や混沌(こんとん)

ここ数年、自分の考えや思想のみをより所にし、自分の理解の許容範囲外の人びとを排除する行為が目に余るようになってきました。

悲しみの色合いが濃くなっているように感じます。

つながりを大切にする思いもあれば、少数者・弱者を排除する思いもあります。あたかもそれぞれの人がいるかのように考えてしまいますが、つながりを大切にする者と排除を思想する者、それぞれの人がいるわけではありません。あい反する両方の顔を、誰もが持ち合わせています。

平和を希求しながらも争いが生み出され、排除を思想する者どうしの絆が生まれる。「不安や混沌に覆われた世の中」などと、現代社会の様相をまるで外の景色のように語るけれど、その景色を描いているのは私自身でした。

私の外の景色の、悲しみの色合いが色濃くなってきたのではありません。

私(個)の想いを世界中に表現・拡散しやすくなった世の中にあって、個と個の想いが入り混じりやすくなりました。

その色は、決して心落ち着く穏やかな色ばかりではありません。

そうなるのは、元の個の心根の色が濁っているからではありません。

平和を求める心や、自分が是とする者が集まれば理想的な世界になると想像する心。

その心は、安心を求める心でしょう。

けれど、平和を希求して争いが起こり、理想的な世界を作ろうとして排除が起こる。

個の心根は、決して濁っているわけではない。けれど、個と個が出会って混ざり合えば、必然色は濃く濁ってゆく。

この濁りは、人類通じてのいのちの濁り。

濁りの中にいると、私自身が濁りを作っているということに気づきません。

その気付きを与えてくれるのが、仏教の視座、阿弥陀の眼差し。

阿弥陀の眼差しを、私自身の濁りを知るために、仏法聴聞するのです。

南無阿弥陀仏

 ☆

今月のことばは、田村由美さんが描くミステリー漫画『ミステリと言う勿れ』からの引用です。
主人公の久能整(くのう・ととのう)君は、他人に干渉されることが苦手な大学生。自分のペースで過ごしたいのに、事件に巻き込まれていきます。持ち前の記憶力や観察眼で、目の前で起きている物事の本質を見抜き、事件を解決していきます。
掲示したことばは、整君が大学の先生からかけられたことばです(7巻参照)。誰にでも通じる言葉であると感じました。

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
毎年11月は、親鸞聖人と友だち(朋)
朋が増えてゆきます(^-^)
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2020年10月 1日 (木)

2020年10月のことば

2020年 10月を迎えました。
玄関前にあるキンモクセイが薫り始めました。
10月1日は 中秋の名月(十五夜)🌕 月がきれいです💓
サンマも恋しい時期ですが、高値となったサンマ、今年は何度口にできるでしょうか。

 ☆ ☆ ☆

2020年10月のことば

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我慢は、それほど大変ではない。
大変なのは、やせ我慢。

「我慢」している

新型コロナウイルスと共に過ごしてきた2020年も、早や10月を迎えました。さまざまな制約や制限や要請があるなかを、誰もが過ごしています。生活に「我慢」を強いられています。

そう遠くないうちに、新型コロナウイルスも収束するにちがいないという望みがあるから、「我慢」できているのかもしれません。

とはいえ、「我慢」といえば、このコロナが流行していようといなかろうと、誰もが皆それぞれに「我慢」しながら生きてきたのではないでしょうか。

人と人とが関係を築きながら生きています。すべてが自分の思い通りになるわけではありません。自分の思いを押し留めなければならないときもあります。他者(ひと)への心遣い、気配り目配りも大切です。自分の思いを留めているならば、誰もが皆、コロナ以前からある程度の「我慢」をしながら生きてきたのではないでしょうか。生活は、人生は、「我慢」と共にあります。

思うに、「我慢」は、できるからしているのです。無意識のうちに。「我慢」できているかぎりにおいて、それほど大変なことではありません。

けれど、「やせ我慢」は、意識して「我慢」しているのですから大変です。「我慢」していることを、他者に気づかれないように「我慢」し続ける。心身ともに負荷がかかり、疲れてしまいます。「やせ我慢」は、文字通り身も心も痩せ細っていきます。できることならば、自分の心に嘘をつかないで生きたいものです。それもまた難しく、さらに「やせ我慢」の種となるのですが。

大相撲九月場所が終わりました。正代関、優勝おめでとうございます。

大相撲といえば、「やせ我慢」を信念としてきた力士がいます。今年の一月場所限りで引退した大関豪栄道関です。

引退会見で、豪栄道関は、

「やせ我慢というのが心の中にあって、辛いときや苦しいときに、人にそういうところを見せないようにやってきました」と語っていました。

自分の心と向き合い、他者のことを想いながら「やせ我慢」を貫いてきた。そのようにして身体を張って相撲を取っていたのですね。誰にも気づかれないように尽くしていた「やせ我慢」が、人の心に響いていたのかもしれません。

「やせ我慢」は、大変なことです。

本来の「我慢」とは

さて、ここまで、現代使われる意味(「辛抱」や「忍耐」など)での「我慢」について書いてきました。

けれど、「我慢」の本来の意味は、「辛抱」や「忍耐」ではないんです。

「我慢」とは、「我(私)の慢心」ということです。

「私に執着するあまり湧き出てくる、他者を軽視する心」のことを言います。仏教では、「増上慢」「卑下慢」と教えます。

「増上慢(ぞうじょうまん)」
さとりを得てもいないのに、さとったと言い張る心。
うぬぼれの心。
他者よりも上にいると思い込む心。

「卑下慢(ひげまん)」
他者より劣ることは分かっているのだけれど、それを認められない心。
他者に対して、自分より劣るところを見つけ出し、私はましだと言い訳する心。
あるいは、自分を卑下することによって自分の評価を高めようとする心。

「我慢」は、「他者より上にありたいという欲望」、「他者より下にある自分を、より下に誰かを位置付けることによって自分を高めようとする心」を意味します。現代の、いじめや差別の根っこにある心情を言い表しているかのようです。

「我慢」とは、「増上慢」「卑下慢」の心を持った特定の誰かがいる、という話ではありません。誰もが「増上慢」「卑下慢」の心を持っている、という教えです。私は、「我慢」と共にあります。

「平和」や「平等」を願いながらも、平らで和やかで等しい関係を築くことが難しいのは、私が「増上慢」「卑下慢」を持っているからかもしれません。

とはいえ、「我慢」は、元々持ち合わせているものですから、それほど大変なことではありません。

「我慢」を持ち合わせた人と人とが関係を築きながら生きています。そんな娑婆世界(人間世界)は、とても大変な世界ですが。

さて、「やせ我慢」はどのような状態でしょうか。

元々持ち合わせている「我慢」が「やせ」ているのですから、本来の姿ではないのかもしれません。心身ともに負荷がかかり、疲れてしまいます。

「やせ我慢」は、大変なことです。

本来の意味の「我慢」。

「増上慢」「卑下慢」の意味を教えられると、そんな厄介な心は良くない心だ、無くそう 減らそうと思われるかもしれません。

けれど、修行して無くせるものでも、努力して減らせるものでもありません。私と共にある心なのですから。

「増上慢」と「卑下慢」を持った私です。その気づきが大切です。

「やせ我慢」(「我慢」を「やせ」させようとすること)は大変なことです。つまり、私の否定なのですから。

「増上慢」「卑下慢」あるがゆえに、自分の好みで人をえらび、人を嫌い、人を見捨てます。

そのような心を無くそうとするのではなく、そういう心を持ち合わせた私であるという気づき。

その気づきがあるから、誰もえらぶことなく、誰も嫌うことなく、誰も見捨てることのない はたらきに守られながら生きている私であることを感じられます。

その はたらきを阿弥陀といいます。

阿弥陀如来は、誰もえらばず、きらわず、みすてず、慈悲の心で「我慢」の身の私を抱いています。

南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
ミーアキャットとハムスター🐹の人形です。
なぜそのチョイスなのか わかりませんが(^▽^)

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2020年9月 1日 (火)

2020年9月のことば

2020年9月を迎えました。

7月、東京は、雨が観測されない日が一日だけだったそうです。それだけ雨が降っていたのに、8月の声を聞くと、とたんに雨が降らなくなりました。境内の地面がカラカラになりました。

8月、東京は、気温30℃を超えなかった日が一日だけだったそうです。それだけ暑かったのに、9月の風にふれると、とたんに気温が下がりました。からだを動かすのがとても楽になりました。

気候も、月が替わると変化する気になるのでしょうか。まぁ、そんなことはないわけですが、9月に入って大きな台風が沖縄を襲っています。9月 10月は、台風にも注意が必要です。被害が出ないことを願うばかりです。ご無事でお過ごしください。

☆ ☆ ☆

2020年9月のことば

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今、大切な人の手に「さわる」ことができない。
だからといって、
相手の心に「ふれる」ことまで諦めてはいけない。

 

相手の心に、「ふれよう」とする

若松英輔さんの著書『弱さのちから』(亜紀書房)を読んでいて、こころに留まる文章がありました。

「触(さわ)る」と「触(ふ)れる」、漢字で書くとあまり違いが分からないが、ひらがなにしてみるとその差異が浮かびあがってくる。
「さわる」という言葉は、何かに触覚的に接触することを指す。もちろん、「ふれる」という言葉にもそうした意味はある。だが、その一方で私たちは 「心にふれる」「心の琴線にふれる」ともいう。
「さわる」が接触的なのに対し、「ふれる」には非接触的な語感がある。むしろ、「ふれる」という表現は、「さわる」ことができないものの存在を感じようとする試みを指すようにさえ感じられる。私たちは、人の声にふれる、とさえいうことがある。
今、私たちは、大切な人の手に「さわる」ことができない。しかし、だからといって相手の心に、あるいは魂に「ふれよう」とすることまで諦めてしまったら、この世界は根底から崩れ去るだろう。

今月の掲示板は、若松英輔さんの想いにふれて書き出しました。

新型コロナウイルス感染拡大防止のため、人と人との距離を保つ、ソーシャルディスタンシングが提唱されています。会食や移動が制限され、人が集まる場も設定できません。また、介護施設に入所、病院に入院している身内に、「会いたくても会えないんです」という声も聞きます。

手を握る、頭をなでる、ハグする・・・「さわる」行為は、不安な心を落ち着かせてくれます(もちろん、犯罪行為やセクハラはいけません)。「さわる」ことが制限される世の中は、不安な気持ちがどれだけ増幅させられていることでしょう。
けれど、相手に「さわる」ことが叶わないといっても、相手の心に「ふれる」ことはできます。相手のことを慮る。相手の心を察する。相手の気持ちに寄り添う。そのように「ふれる」ことができるのは、相手がいてくれるから。相手の心に「ふれよう」とすることをとおして、実は、私自身の不安な気持ちを落ち着かせているのかもしれません。

相手の心に「ふれよう」とすることまで諦めてしまったとき、この世界は、根底から崩れ去るだろうと綴られています。ということは、私たちが立っている大地は、この世界は、相手の心に「ふれよう」とすることの積み重ねによって成り立っているということを思います。

〔若松英輔(わかまつ・えいすけ)1968年新潟県生まれ。批評家、随筆家、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。〕

知らない人生を知るということ

この夏、もうひとつ心に留まる文章に出会いました。

あなたの知らないところに
いろいろな人生がある
あなたの人生がかけがえのないように
あなたの知らない人生も
また かけがえがない
人を愛するということは
知らない人生を知るということだ
(灰谷健次郎『ひとりぼっちの動物園』)

私の知らない、いろいろな人生があります。私は、私の人生しか知らないのに(知ったつもりでいるだけなのに)、私の人生を基準・常識にしています。基準に合うものは受け入れ、基準に合わないものは排除する。人を愛するということは、基準に合う者と仲良くすることではありません。人を愛するということは、知らない人生を知るということ。私の知らない、どの人生も、すべてかけがえのないものです。知らない人生を知ろうとすることは、相手の心に「ふれよう」とすること。つまり、人を愛することであると感じられます。

光触かぶるものはみな

とはいえ、人が相手の心に「ふれよう」とすること、愛そうとすることには限界があります。必ず、そこから漏れる誰かを生み出してしまいます。私の人生を基準・常識にした、ものを見る目は、極めて限定的です。

「触」という字を見ていて、親鸞聖人の和讃を思い出しました。

解脱の光輪きわもなし
 光かぶるものはみな
 有無をはなるとのべたまう
 平等覚に帰命せよ
(意訳)
私たちを悩み苦しみから解き放つ光明のはたらきには辺際がありません。この光に触れることができるものは、みな自分の思いを正当化する考えから離れることができるといわれています。平等普遍の智慧をそなえられた阿弥陀如来に帰命しなさい。

「さわる」にしても「ふれる」にしても、自分を主体にして考えてしまいます。私がさわる、私がふれる、と。

けれど、先に書きましたが、相手がいてくれるからこそ、私は相手の手に「さわる」ことができ、相手の心に「ふれる」ことができます。私だけでは「さわる」ことも「ふれる」こともできません。

同様に、私の思いに先立って、阿弥陀如来から慈悲の光明が、すべての衆生(生きとし生けるもの)に向けて解き放たれています。だからこそ、私は、阿弥陀の光明に「ふれる」ことができます。阿弥陀の慈悲の光明は、阿弥陀如来を信じる者、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者だけを対象として解き放たれているのではありません。阿弥陀の眼からすれば、誰もがみな、「かけがえがない」のですから。

私の心に「ふれよう」と願い続ける阿弥陀の慈悲の光明。その光明にふれられながら、私はいます。私の知らない人生を生きる人もまた、阿弥陀の光明にふれられています。南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
秋田の弟が送ってくれた、かわいい人形です。
合掌アニマルというのだそうです(‐人‐)

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2020年8月 1日 (土)

2020年8月のことば

2020年も8月を迎えました。
「令和2年7月豪雨」はじめ、各地の豪雨で被災された皆様にお見舞い申し上げます。
被災地の一日も早い復旧を念じております。また、体調を崩しやすい折り、被災された皆様も、ボランティア活動をされている皆様も、おからだお大事にお過ごしください。

7月、東京で雨が降らなかったのは19日だけと聞きました。7月中に梅雨が明けることもなく、ジメジメした日々を過ごしていました。お座敷の畳にカビが生えないように換気したり、扇風機回したりしていました。
なんて7月が嘘のように、8月1日はとても暑い日を迎えました。洗濯日和でした。
とはいえ、コロナ禍のため喜んでばかりもいられません。母(長崎)も妻(秋田)も、今年の帰省は諦めています。子どもたちも、今年の夏休みはどこにもいけないことを、頭では理解しているのですが、気持ちでは「どこか行きたいなぁ」という雰囲気が出ています。どこか連れて行ってあげられたらなぁ…。
コロナもあり、気温差も激しく、熱中症も気を付けなくてはならない夏🌞 お気をつけてお過ごしください。

 ☆ ☆ ☆

2020年8月のことば

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恩徳あれば 今、ここ、わたしを 生きている

足下をみつめる

7月に入り、新型コロナウイルス感染者が再び増え始めました。これから先の様子も見通せず、不安や恐怖に覆われてしまいます。誰もが、一日も早い収束を望んでいます。

このような状況に身を置き、ふと思ったことがあります。
先が見通せない現実は、ウイルス騒動があろうとなかろうと変わりありません。誰もが、先の見通せないなかを生きてきました。でも、先が見通せないとはいっても、たとえば春に新入生となったり、新しい仕事に就いたりしたとき、希望やワクワク感を抱いているのではないでしょうか(当然、不安もありますが)。だけど、コロナに関しては不安や恐怖などマイナスの局面ばかりが気持ちを覆います。感染症ですから不安や恐怖に覆われるのは当然のことですが。

「ふと思ったことがあります」というのは、誰もが先の見通せないなかを生きてきました、予定通り・希望通りにはいかない未来を迎えながら生きてきました。そのようななかを既に生きてきたうえで、「今、ここに、わたしが生きている」んだなぁということです。

コロナの収束を願うということは、未来に対する願いです。「今すぐに収束を」という願いも、ちょっと先の未来であることに変わりありません。

いのちは、過去を経ての今を生きています。未来のことは分かりません。私たちは、経てきた今を疎かにして、分からぬ未来に重きを置いて、結果、振り回されてはいないでしょうか。

南無阿弥陀仏をとなうれば

外出自粛期間中のある朝、お朝事(朝の読経)で、親鸞聖人の「現世利益和讃」という和讃を読みました。

南無阿弥陀仏をとなうれば
堅牢地祇は尊敬す
かげとかたちとのごとくにて
よるひるつねにまもるなり

(意訳)

南無阿弥陀仏を称え、生きる人を、
大地の底にまします神々は尊び敬い、
影と形となるものとが不離であるのと同様に、
夜も昼も護り続けてくださいます。

傍らで聞いていた若坊守(妻)から、「お念仏は除災招福のためのものではないのに、親鸞聖人はどうして “南無阿弥陀仏をとなうれば” の和讃をたくさん書いてるの?」と質問を受けました(「南無阿弥陀仏をとなうれば」という言葉の入った和讃は10首あります)。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」の響きは、「念仏を称えたならば」、つまり「もし念仏を称えるという条件を満たしたならば」と、条件や仮定の話として聞こえるのではないでしょうか。ですから、南無阿弥陀仏を称えるという条件を満たしてから得られる、念仏のご利益を詠っているかのように聞こえます。でも、そうであるならば、「南無阿弥陀仏をとなえれば」という表記になります。親鸞聖人は「となうれば」と書いています。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」は、条件や仮定としての「ば」ではありません。「~してみて、ふりかえってみれば」とか「~するときは、そのようになっている」という、確定の意味を持つ「ば」なのです。

たとえば、「住めば都」という言葉がありますが、「もし住んでみたならば、都(住みやすいところ)となる」という仮定の話ではありません。「住んでみたら都だった」という確定を表わしています。未来の話ではなく、もう既に住んでいる話なのです。

「南無阿弥陀仏をとなうれば」も、もう既に称えている話なのです。

「私は念仏を称えたことないよ」と言う方もいることでしょう。けれど、阿弥陀如来は、すべての生きとし生けるものに向けて、念仏を与えてくださいました、念仏称えるものを救うと誓われました。実際に念仏称えたものを対象とするということではありません。生きとし生けるものすべてが、既に念仏のなかに、阿弥陀の慈悲のなかにいます。

親鸞聖人の説かれる現世利益とは、「お念仏称えたら、こんないいことがあるよ」ということではありません。「念仏称えるご縁をいただいたこと、そのことがご利益です。すでにご利益をいただいているからこそ、念仏称えることができるのです」ということです。

親鸞聖人は、阿弥陀如来を信じ、ただ念仏申せと説かれましたが、「阿弥陀以外の諸神諸仏は信じるに値しない」と言ったり、私を惑わせる悪鬼を追い払えと言ったりということはありません。それら諸神諸仏、悪鬼もまた、念仏申すご縁をくださった阿弥陀如来に収まるものとみておられました。

さるべき業縁のもよおせば

「ば」について、もうひとつ、親鸞聖人の言葉が思い起こされました。

さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

「そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもしてしまうのがわたしです」という、『歎異抄』(第13章)に書かれている言葉です。

この「もよおせば」も、「もよおしたならば」と、条件や仮定など、未来のことを語っているように聞こえます。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と耳にしたとき、まだいかなる振舞いもなしていない未来のことだと受け止めがちです。しかし、であるならば「さるべき業縁のもよおさば」という表記になります。

さまざまな縁が重なり合って、今、ここに、わたしが生きている。つまり、今に至るまで私は「さるべき業縁のもよお」して、「いかなるふるまいも」してきたのです。未来ではなく、既に、の話です。

親鸞聖人の言葉は、「よりよい未来のためにどうあるべきか」「理想的な未来のために何をすべきか」を説かれているのではありません。既にご恩をいただいて、「今、ここに、わたしが生きている」ことを語っています。ご恩をいただいてある身であること。その目覚めが、南無阿弥陀仏のご利益です。

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(付記)
と、上記の文章を書きました。
けれど、『歎異抄』の西本願寺蔵蓮如上人書写本は「もよおさば」になっています。
より考察が必要かもしれません。

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掲示板の人形
イルカと、クジラと、チンアナゴ (^∀^)
京都水族館に行ったときに、買いました(クジラはダイソーだったかな)。
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2020年7月 1日 (水)

2020年7月のことば

2020年も後半に入りました。
外出自粛期間中、「今日はこれをやった!」と言えることを必ずやろう!と決めて過ごしていました。
仕事、片付け、大工仕事、子どもたちと目いっぱい遊ぶことなど、必ず何かやりながら過ごしていたのですが、さて、振り返ってみるといったい何をやっていたのやら・・・。
明日ということのない教えをいただきながら、「明日があるさ」な生き方をしていることの落ち着かなさよ。

雨もしっかりと降って、じめじめした日が続きます。けれど、この雨が通り過ぎると、暑くなるそうな。おからだお大事にお過ごしください。
南無阿弥陀仏

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2020年7月のことば(以下、寺報「ことば こころのはな」7月号の文章です。)

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仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。
       
蓮如上人(『蓮如上人御一代記聞書』より)

 

蓮如上人の「御文(おふみ…お手紙)」

浄土真宗の宗祖親鸞聖人から数えて第8代目の蓮如上人。上人は、親鸞聖人の教えを人々に伝えるために、250通を超える「御文」を綴られました。有名な「白骨の御文」も、蓮如上人の筆です。

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。されば、いまだ万歳(まんざい)人身(にんじん)をうけたりという事をきかず。一生 すぎやすし。いまにいたりて たれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露(つゆ)よりもしげしといえり。されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり。(後略)

(試訳)さて、私たち人間の無常な生涯をよくよく思いめぐらしてみますと、この世に生まれ、育ち、命尽きるまで、まるで幻のような一生であります。この世に生を受けて一万歳生きた人がいるとは、いまだかつて聞いたことがありません。一生はあっという間に過ぎてゆくものです。いったい誰が、今の私の姿のままで百年の命を保つことができましょうか。私が先に逝くかもしれないし、他の誰かが先に逝くかもしれません。今日終わる命なのか、それとも明日なのか、そういうことも分かりません。大切な人が先に逝ってしまう日も来れば、私が先に旅立つ日も来ます。草花の雫や葉先の露が消えてなくなるよりも、それ以上に人間の生涯は儚いものです。ということは、朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです。(以上)

また、「疫癘(えきれい)の御文」と呼ばれるお手紙も書かれています。

当時このごろ、ことのほかに疫癘とて ひと死去す。これさらに疫癘によりて はじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり。

(試訳)近頃、たいそう多くの人が伝染病にかかって亡くなっております。このことは決して、伝染病によってはじめて死ぬのではありません。人と生まれたときから死ぬということは定まっております。さほど驚くことではありません。(以上)

問われている私

蓮如上人(1415~1499)自身も、延徳4(1492)年、上人78歳のときに疫病の流行を経験しています。病による苦しみだけではなく、現代(いま)の私たちと同様に、限りある食料や物資を奪い合い傷つけあう人間社会の苦しみを目の当たりにしました。

また、1467~1478年の「応仁の乱」の世も生きています。主戦場となり、焼け野原となった京の町の様子も見聞きしたのではないでしょうか。欲望から起こる争いが更なる貪り(むさぼり)や怒りを生み、争いに巻き込まれた人々までもが傷つき、飢え、死んでいく世に身を置かれました。

そのような時代に身を置き、人間の姿を凝視された蓮如上人。ただ単に道理として「朝には夢と希望に満ち溢れていても、夕方には白骨となることもあるいのちを生きているということなのです」とか「人と生まれたときから死ぬということは定まっております」などと言われたわけではありません。

「明日は何をしよう」「コロナが収束したら何をしよう」と考えている私に向かい、「あなたは“今”を生きていますか?」と、上人は問いかけています。

仏法の事は、いそげいそげ

仏法には、明日と申す事、あるまじく候」とは、「お釈迦さまの教えをいただいている身にとって、明日ということはありません」ということです。

仏法には、明日と申す事、あるまじく候。」に続いて「仏法の事は、いそげいそげ。」と上人は説きます。

コロナ禍の渦中、「不要不急の外出は控えるように」と、外出自粛要請が出されました。仏法聴聞の会も、多くのお寺が中止を余儀なくされました。明日とも知れぬいのちを生きているのですから、「仏法聴聞の事は、いそげいそげ」のはずなのに、人の集まる場を開けないという矛盾と葛藤を抱えながらのステイホーム期間でした。

けれど、矛盾と葛藤に覆われるなか、「誰もが“今”を生きている」ということを、ふと思いました。

「きょうともしらず、あすともしらず」のいのちを、誰もが生きています。誰もが、いつ亡くなっても不思議はない いのちを生きているのだけれど、若くして亡くなったり、才能ある方が亡くなったりすると、「まだ早いよ」などと、その人の死を嘆きます。年齢という尺度でいのちを計れば、当然嘆きも出てきます。

けれど、たとえば1秒の長さは誰にとっても同じです。才能ある方の1秒は短くて、無駄に過ごしている人の1秒は長くて・・・などということはありません。誰もが同じ1秒を生きています。

お釈迦さまは、「いのちというのは、吸った息が出るのを待たないほどの長さでしかありません。阿吽(あうん)の呼吸のいのちです」と説かれました。

阿吽の呼吸は、短い時間のように感じますが、いのちの営みが続いてきたことに想いを馳せると、とても永い時間でもあります。

私のいのちのなかに無数のいのちがあり、無数のいのちのなかのほんの一点が私です。「阿吽」は、とても短い時間でありながら、いのちの悠久の流れが内包されています。

そんな途方もない時間や空間を、なんの道案内もなく、私は生きられるでしょうか。いえ、阿弥陀如来の大悲というはたらきに導かれながら、今を生きています。阿吽の一息一息は、南無阿弥陀仏のお念仏。

 ☆ ☆ ☆

掲示板の人形
7月は、スヌーピーとカメとアヒルです(^-^)Dsc_5072

2020年6月 2日 (火)

2020年6月のことば

6月2日(火)東京都内の新型コロナウイルス感染者が30名を超えた。
人の動きが出だすと、感染される方が増えてしまう。
まだまだ気を緩めるときではないのだな、と思う。
皆様もお気をつけてお過ごしください。
掲示板、6月のことばは、この非常事態宣言下でのことを踏まえながら、感じたことを書きました。
他者(ひと)のせいにするのは、簡単。
でも、「自分のせいかもしれない」と思うことは、とても大切な気づきです。
そんなことを思いながら、6月の寺報を書きました。

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2020年6月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」6月号の文章です)

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 温
  
今を忘れないから、(ふる)きを温(たず)ねられる。

温故知新(おんこちしん)

新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から出されていた緊急事態宣言が解除されました。とはいえ、新型コロナウイルスが終息したわけではありません。今後は、ウイルスとの共存を模索しながらの生活となります。

政府の専門家会議からの提言を受けて、政府は新型コロナウイルスを想定した「新しい生活様式」への転換を呼び掛けています。

「新しい生活様式」という言葉を聞いたとき、「温故知新」という故事を思い出しました。
故(ふる)きを温(たず)ねることは、新しきを知ること。
「昔のことから学んで、新しい知識や道理や習慣を見出していくこと」という意味です。

さて、「故きを温ねる」といったとき、どれくらい古いときのことを思い浮かべますか?

新型コロナウイルスの渦中にある今、約100年前に流行したインフルエンザから学ぶことが多くあります。

過去の自然災害の教訓から学ぶべきことも多々あります。
避難の方法や防災の準備が整えられ、ボランティア意識も高まっているのではないでしょうか。

人類の歴史において争いが止んだことはありません。
争いごとに関しては、故きを温ねても、それが教訓として生かされることはないのでしょうか。

「故き」とは、「今」である

「故きを温ねる」というと、時間の離れた昔を思うのではないでしょうか。

けれど、私は思います。「故き」とは、「今」であると。

現代(いま)のコロナ禍における外出自粛期間中の私たちのありかたをたずねること。それが、「故きを温ねること」です。

このコロナ禍に、罹患(りかん)された方、医療従事者やその家族、マスクが店頭にないドラッグストアなどに対する差別やバッシングが起きています。

新型コロナウイルスに罹患して亡くなられた著名人がいます。亡くなられて「残念だ」「悲しい」「コロナウイルスを許さない!」など、逝去を悲しむ声が多数聞こえました。反面、罹患して快復した著名人に対しては、「気が緩んでるからだ」「反省しろ」などという非難を浴びせます。それらを考え合わせると、亡くなられた著名人が、もし快復されていたならば、恐らくバッシングを浴びせていたのではないでしょうか。

新型コロナウイルスと直接関係はないけれど、ある番組に出演されていた方が、ネット上での誹謗中傷を受けて亡くなりました。気に食わない人に嫌悪感を抱くことは、誰にでもあります。今までは家族や友人との会話の中で済ませていた悪口が、このネット社会に、世界中に拡散するようになってしまいました。想像してみてください。たった一人から傷つくことを言われただけでもなかなか立ち直れないのに、それを世界中の不特定多数の人から言われるのです。あなたは平気でいられますか?

このコロナ禍の、ほんの一端、ほんの一側面に過ぎませんが、私たちは今、このようにして過ごしています。

『「故き」とは、「今」である』と言いました。けれど、「今」と言っても、言った瞬間に、その「今」は過去となります。過去とは、時間の離れた昔の出来事ではなく、今の行いです。今の行いをたずねることなく、新しきを知るということはありません。

小笠原登さん

ハンセン病患者の治療に尽力された 小笠原登さんという医師がいます(1888~1970)。小笠原さんは、真宗大谷派の僧侶でもあります。

かつてハンセン病には、「不治の疾患、遺伝病、強烈な感染症」という三つの迷信があり、その迷信のもと、ハンセン病患者の終生・絶対・強制隔離という国の政策が行われました。

らいは治る病気であり、遺伝性はなく、感染力も弱いことは世界の医学界では常識で、隔離の必要性もないことが分かっていました。にもかかわらず、日本は「らい予防法」を廃止することもせず隔離政策を続けました。真宗大谷派もまた、国の政策に従い、隔離が保護であるかのように説く慰問布教という関わり方で、迫害に加担した歴史があります。

その渦中にありながらも、小笠原登氏は、らいは治る病気であるという知見をもって、病気の治療のために患者と向き合い、患者と共に生きる道をたずねられた方でした。

1998年に提訴された「『らい予防法』違憲国家賠償請求訴訟」を受け、2001年に熊本地裁は「国の隔離政策の継続は違憲である」と判断しました。これを受け、当時の小泉純一郎首相は、政府は控訴しないことを表明し、謝罪しました。しかし、それでハンセン病に関する問題が解決したわけではありません。隔離政策が廃止されても、ハンセン病に関する誤解や無知から生じる差別の闇は根深く、本名を名のれない方、故郷に帰れない方は、今も多くいます。ハンセン病元患者だけでなく、その家族もまた、世間から迫害を受けています。

小笠原登さんの言葉です。

現在癩(らい)患者が苦痛としてゐるものは、癩そのものでは無くして、癩の誤解に基づく社会的迫害である。従って救癩事業の急務は、社会の誤解を除いて患者を迫害より脱せしめるにある。
(「癩患者の断種問題」『芝蘭』12号1938年)

病気の苦痛もあるけれど、それ以上に、病気に対する誤解や無知、「自分さえよければいい」という考えが差別を生み、病気以上の苦痛を受けている方々がいます。苦痛を与えている私たちがいます。

小笠原登さんの言葉は、このコロナ禍における私たちの姿をも言い当てています。

今を忘れて、故きを温ねるということはありません。今を見つめることが、故きを温ねるということになります。故きを温ねるからこそ、新しいことを知ることができる。新しい道筋を見出すこととなります。

南無阿弥陀仏

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掲示板の人形

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Dsc00272 寺報作成にあくせくしているとき、娘たちに人形チョイスと撮影を任せています。
今月はパンダと、カピバラです(^▽^) 仲良しです

2020年5月 1日 (金)

2020年5月のことば

2020年5月を迎えました。
心地よい気候です。どこかに出かけたくなります。でも、せいぜい誰もいない公園程度で。
GW中、夏日もあるようです。気温の変化にお気をつけて👋
在宅ワークの時間が増えているにもかかわらず、寺報はいつも通りギリギリです。なんでだろう?

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2020年5月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」5月号の文章です)

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生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしずめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける
          親鸞聖人

 

龍樹和讃

今月は、親鸞聖人の和讃「高僧和讃(龍樹和讃)」を掲示しました。

(試訳)
わたしたちが沈み続け
もがき続けている人生の苦しみは
まるで海のように
広くて深くて果てしない
阿弥陀如来の慈悲のこころは
まるで海に浮かぶ船のよう
もがき続けるわたしたちと共にあり、
かならず浄土へと導いてくださいます

弥陀弘誓のふね

新型コロナウィルスの影響により、今までとは違う日常を強いられ、多くの人が苦しみのなかにいる。
そんな現在の状況に身を置いて、聖人のことばに向き合う。


「生死の苦海」で溺れている私。 私は、「弥陀弘誓のふね」に救出されることによって、人生という荒波を乗り越えられる。

そのように読んでいた。けれど、聖人が言いたかったことは、そういうことではない。
「弥陀弘誓のふね」を大きく揺さぶる「生死の苦海」。その「生死の苦海」こそ、私の姿だった。
「生死の苦海」には、全生命が宿っている。私は、全生命と共にあり、だからこそ感情や行動が大きな波を起こしている。「弥陀弘誓のふね」は、その大波に抗うことなく、大波の揺れに合わせて航行を続けている。
「弥陀弘誓のふね」は、「生死の苦海」とともにある。

ウィルス

人間は、生物は、さまざまなウィルスとの共存によって生きている。ウィルスが生物の生存を脅かすのであれば、それには道理があるはずだ。その道理を見ようとしないで、都合の悪いものを悪者に位置付けて排除しようとするだけならば、人間は、大事なことを見落とす。

人間は、人類優先の発達発展のために未開の地を切り開いてきた。温暖化によって海洋の厚い氷が溶け始めてもいる。特定の地域に留まっていたウィルスや、氷の中に何万年も何千万年も閉じ込められてきたウィルスを、人類は自ら解き放った。

現在の状況は、起こり得ることとして警鐘を鳴らす人や団体もあった。また、今回の新型コロナウィルスが収束しても、10年くらいの周期で別のウィルスが蔓延するだろうとも言われている。

現在の状況を、為政者が「戦争状態」に例えている。「大変な状況にある」ということを言わんとしているのだろうが、為政者が言うことではない。

戦争状態と表現することによって、ウィルスを人類に対する敵と位置付けることになる。
医療現場や各自治体への支援の遅れ、布マスク2枚配布の背後にある不透明さ、国民に対して出し渋る給付金等々、批判を受けても仕方のない状況を自ら作り出している政府にとって、批判の矛先を変える仮想敵が必要となってくる。戦争状態にあると喧伝することで、国民の意識はウィルスに移り、その意識はやがて、休業要請に応じない店やマスクなど欲しい物が販売されていない店へと移る。非難されるべきでない人々が非難を受ける。懸命に生きる者どうしが、傷つけあう。

「戦争状態」にあると錯覚し、ウィルスという敵と戦っているという意識に陶酔し、攻撃の対象ではないものに攻撃を仕掛けている。ウィルス以上の脅威がある。今、人が他者(ひと)を傷つけていることを認識しているだろうか。

収束と終息

一刻も早い「収束」を願うことに変わりはない。けれど、今起きていることは、ウィルスが収まれば終わりという話ではない。

「しゅうそく」には、「収束」と「終息」とがある。

「収束」は、終わりに向かうこと。
だから、新型コロナウィルスの感染者や死亡者の数が減ってきて、医療従事者の負担が減ってきたときに、「収束に向かっています」と言える。

「終息」は、完全に終わること。
だから、新型コロナウィルスが消滅してはじめて「終息しました」と言える。

けれど、コロナウィルスの減少・消滅だけを見て「しゅうそく」を考えると、大事なことを見落とす。

新型コロナウィルスをきっかけに、人が他者を傷つけている現実。仮にウィルスが消滅して「終息」したとする。でもそのとき、本当にコロナウィルスが「終息」したと言えるのか、言っていいのか。

人と人とが傷つけあった傷は、歴史は残ったままだ。罹患者や医療従事者とその家族への差別。物の買い占め・転売。他者をののしる声は、発した人間は忘れても、言われた人の心には深く刻まれている。新型コロナウィルスの脅威ではなく、人間という生物の脅威が、今、強く表出している。

新型コロナウィルスが「収束」する日はきても、今、傷つけあっている人間関係が「収束」とともに修復されることはない。そのようなことを考えると、新型コロナウィルスが「終息」することはない。

生死の苦海

『「弥陀弘誓のふね」に救出される私 』という考えは、「生死の苦海」と私を切り離してしまう。私は「生死の苦海」そのものだった。その自覚によってはじめて、「弥陀弘誓のふね」に気づく。

「弥陀弘誓のふね」は、「生死の苦海」とともにある。
南無阿弥陀仏

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掲示板の人形

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人形チョイスと写真撮影を娘たちに任せて、寺報書きに専念していたら、本堂でこんな写真を撮ってきてくれました。
私の面白みのない写真よりも、全然自由だ \(*^▽^*)/

2020年4月 1日 (水)

2020年4月のことば

2020年4月を迎えました。
本来なら、これからの新しい歩みにワクワクしながら、第一歩を踏み出す季節ですが、
新型コロナウィルスにより先行きの見えぬ不安とともにある門出となってしまいました。
そういえば不思議ですね。新年度・新学期・新入生・新社会人の門出も、先が見えない、先が分からないという意味では、現在の状況と変わらないのに、どちらかといえば前向きな気持ちでいられます(当然、不安な気持ちもありますが)。けれど、現在の状況は、いつかは収束するのかもしれないけれど、不安な気持ちに覆われています。同じ先行きの見えない道を歩むにしても、不安な気持ちの比重によって、ワクワクしたり、気が重くなったり、心持ちは変わるのですね。明るい兆しが見えて、現在の不安な状況が終息しますように。
4月1日、今朝の新聞には、公立学校の先生方の異動が載っていました。娘たちが通う小学校の先生も異動がありました。一言お礼を言いたかったのに言えずにお別れとなってしまった先生もいます。「お世話になりました。ありがとうございます」
新しく赴任される先生もいます。「いろいろと大変な時期ですが、よろしくお願いいたします」
南無阿弥陀仏

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2020年4月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」4月号の文章です)

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人の世にいのちのぬくもりあれ、

人間にいのちの輝きあれ

          藤元正樹

 

ウィルスという鏡

2020年を迎えたころ、新型コロナウィルスに怯える現在の世界状況を誰が想像していただろうか。
未知の病気、新型コロナウィルスの感染拡大。それに伴い、学校の休校、活動の自粛、できうる限りの自宅待機が要請されている現状にある。先の見えない状況に、誰もが不安や恐怖を抱いている。けれど、不安や恐怖が人を突き動かすのか、マスクやアルコール消毒液は店頭から姿を消して久しく、デマが拡散してティッシュペーパーやトイレットペーパーまでもが品薄となり、都知事が会見で活動の自粛を要請すると、途端にスーパーには食糧買い出しの長蛇の列ができた。病気そのものへの不安や恐怖が生活や人生そのものへの不安や恐怖へとつながり、人間のエゴが丸裸となっている。

新型コロナウィルスが発生し、世界各地で感染者が出始めたころは、武漢を、中国を非難する声が上がり、世界のいたる所でアジア系の人が責められる事件が相次いだ。それぞれの国においても、感染者やその家族は責められ、ネット上では感染者の特定までされ、まるで犯人捜しの様相を呈している。どんなに神経を尖らせても感染し得るのがウィルスであり、しかも人類の誰も抗体を持たないウィルスが今現在蔓延している。誰もが皆、感染し得るのに、なぜ感染者に非難を浴びせるのだろうか。

名前を持った一人ひとり

病気は、ふたつのことを表出させている。
ひとつは、不安や恐怖から、人は他者を責め、貶めてしまうこと。
ひとつは、当たり前にあると思っていたものが、実はまったく当たり前のことではなく、有り難いことであったということ。

マスクやティッシュペーパーや食糧が手に入らなくなり、お店に行けば買うことが出来ることがどんなに有り難いことだったか身をもって感じている。けれど、それだけではない。今朝一緒に食事をした人、「早くこの騒動が収まってほしいね」などと挨拶や会話を交わした人、自宅待機のイライラから些細なことで喧嘩をしてしまった人・・・。身近な人が、いとも簡単に亡くなってしまう。この原稿を書いている最中、志村けんさんの訃報が入ってきた。私は「8時だョ!全員集合」世代だけれど、娘たちが「志村どうぶつ園」を楽しみにし、「バカ殿様」の面白さに目覚めて特番を見るようになり、最近あらためて志村けんさんの面白さに触れていただけに、残念で淋しくてならない。

決して、志村けんさんだけを特別視しているわけではない。3月30日現在、世界中で3万3千人を超える方が新型コロナウィルスによって亡くなっている。言葉やデータとしては「3万3千人」と、ひとくくりになってしまうが、そこには名前を持った一人ひとりのいのちがある。その一人ひとりに関係する人たち、涙を流す人たちがいる。被害者は3万3千人ではない。その何倍もの人の胸が今、締め付けられている。

非難されるいのちなどあるだろうか。
虐げられていい いのちなどあるだろうか。
死んで当たり前のいのちなどあるだろうか。

現代社会(わたし)への問いかけ

ここまで書いてきて、津久井やまゆり園を襲撃した植松聖被告のことばが思い起こされた。
「意思疎通のとれない人間は心失者であり、不幸をばらまく存在です」

彼の弁護人が死刑判決に対して控訴していたが、彼自身がその控訴を取り下げた。つまり、彼の死刑が確定した。この国は、やがて彼の死刑を執行するだろう。裁判における彼の言動を報道で知る限り、被害者やその家族に向けて意思疎通(謝罪等)をとる意識はなく、裁判官や弁護人とも意思疎通はとれていなかったものと思われる。多くの人が思っていることだろう。「意思疎通のとれない者は死ぬべきだ」と主張しているその人自身が意思疎通をとれない者だったんだ(死刑は当然だ)と。そのように彼の死刑判決を当然と考えることは、自分と意思疎通をとれない者に対する差別意識、つまり彼と同じ差別意識が私の中にあることの証となってしまう。そのことには気づかないといけない。彼の言動は決して認められるものではないが、彼を否定しても肯定しても、私の中にある正義に対して刃を突き付けるロジック(論理)が、彼の言動には含まれている。現代を生きる人間の闇が露(あらわ)にされている。

ウィルスに感染した方に対して非難を浴びせる行為は、彼と根っこの部分ではつながっている。殺人を犯した者を死刑に処して、それで終わる問題ではない。大きな問いを、彼は現代社会(わたし)に突き付けた。

熱と光

今月の掲示板は、藤元正樹先生(真宗大谷派僧侶 19292000)のことばを掲示した。

1922年(大正11年)3月、西光万吉氏を中心として、部落解放運動団体「全国水平社」が創立された。創立にあたり、「水平社宣言」が採択され、その宣言文の最後に、「人の世に熱あれ、人間(じんかん)に光あれ」とある。そのことばを大切に受け止めて、「人の世にいのちのぬくもりあれ、人間にいのちの輝きあれ」と表現された。

私たちは普段、「いのちは大切だ」「手を取り合うことが大事だ」などと口にしながら、そのことについてより深く考えたことがあるだろうか。ひとたび何か自身に不都合なことがあれば、途端にそんな想いは吹き飛ぶのではないだろうか。自分は他者を傷つけていない、自分は差別をしていない。その思いが他者を傷つけ、その思いが差別を見えなくしてしまっている。

人と人との接点に、ぬくもりが生まれる。関係性を生きているからこそ、困難な人生の中に光明が差し込む。
接点を失ったとき、ぬくもりは冷め、関係性を断ったとき、光明は儚く消え去る。現代(いま)はまさにそんな時代(とき)。

人と人との接点とは、なにも仲のいい者同士が手をつなぎ合うことだけではない。主義主張が違うならば違うままで、どうすれば少しでも良い方向に向かうのか、亡き人から何を学ぼうとするのか、目の前にいる人とはもう会えないかもしれないと思えるのか・・・非難し合うこととは違う、そのような接点の持ち方がある。

本来ならば、ウィルスが蔓延しなくとも考えなければいけないことだけれど、こんなときだからこそ考えたい。
 人の世にいのちのぬくもりあれ、
 人間にいのちの輝きあれ

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掲示板の人形
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3月、久しぶりにカッパ橋に行きました。やはり、買い物客、海外からの観光の方は少なかったです。
掲示板の人形をよく買っていたお店・・・久しく行ってなかったので、「まだあるかなぁ」と思いながら足を運んだのですが、ありました‼
よかった(*^-^*) 桜の木の下で昼寝する猫。かわいかったので買ってきました。
賑わいが戻りますように。

2020年3月 3日 (火)

2020年3月のことば

みなさま こんにちは
新型コロナウィルスの影響で、落ち着かない日々をお過ごしのことと思います。
学校も休校となり、どのように過ごしたらいいのか困ってしまいますよね。
不要不急の外出は避けるようにアナウンスされています。
各種集会が休会を強いられています。状況を考えると仕方ありません。
前回の投稿でも、真宗大谷派の各種集会の休会を載せました。
僧侶仲間と話していたのですが、生活の中で聞法(教えに聞くこと)を、先達は優先的にされてきました。なぜならば、「聞かずにはおれない」「聞法あっての生活」と、生活と聞法が切っても切り離せないものだったからです。そういう意味で聞法は“不要不急”のことではなく、“必要”であり、“今聞かないで いつ聞くんだ‼”ということなのです‼
それほどまでに聞法を、念仏を大切にしてきた方々の姿を思うと、各種法座が休会になること(すること)は、胸の痛む思いです。
ブログでの発信が、少しでも聞法の一端となればいいな。否、聞法と共に生活している方のために発信できれば‼と思います。
この騒動が一刻も早く収まり、平穏が戻りますように。
南無阿弥陀仏

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2020年3月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」の文章です)

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日々を過(す)ごす

日々を過(あやま)

 

 過      吉野 弘

日々を過(す)ごす

日々を過(あやま)

二つは

一つことか

生きることは

そのまま過ちであるかもしれない日々

「いかが、お過ごしですか」と

はがきの初めに書いて

落ちつかない気分になる

「あなたはどんな過ちをしていますか」と

問い合わせでもするようで

 

過(あやま)ちつつ過ごす日々

今月のことばは、詩人の吉野弘さんの詩「過」の一節です。

「すごす」と「あやまつ」。「過」という漢字に、一見関連性のなさそうなふたつの意味が内包されています。生きる、日々を過ごすということは、そのまま過ちであるかもしれない日々。吉野弘さんは、「過」という漢字を見つめて、人間が生きることの背景にある過ちを感じられたのではないでしょうか。

夜、子どもたちの寝顔を見ながら、ふと振り返ります。私は子どもたちとの日々をどのように過ごしているだろうか。過ちの日々を過ごしてはいないだろうか、と。

「過ち(あやまち)」というと、罪を犯すことと思う人もいるのではないでしょうか。すると、「私は罪など犯していない」と、過ちを犯した誰かのこと、つまり他人事として吉野さんの詩やこの寺報を読むことになります。

けれど、実際に罪を犯したならば、罪を犯したという自覚があります(認める認めないの違いはあるけれど)。つまり、私が過ちつつ日々を過ごしているということは、自覚が難しいのです。私が過ちつつ日々を過ごしているなんて誰も思ってもいないでしょうから。

いつか見た光景

今、世界中が新型コロナウィルスの驚異の渦中にあります。日本では、総理大臣から、全国の公立小中高の休校が“要請”され、現場の先生や保護者、誰よりも子どもたちに動揺が広がっています。

ドラッグストアにマスクを見かけなくなって久しいですが、「紙製品がなくなる!」というデマが流布し、ティッシュペーパーやトイレットペーパーまでもが、ドラッグストアの棚から姿を消してしまいました。いつか見た光景だなぁと、振り返ります。

2011年3月11日「東日本大震災」発生。食料品や生活用品、ガソリンなどが手に入りづらくなりました。あの頃も、悲しみに追い打ちをかけるようなデマが飛び交いました。

人間は反省したり、立ち止まって考えたり、軌道修正したりすることが出来る生き物です。ということは、過つたびに反省し、考えて、新たな一歩を踏み出してきたはずです。であるならば、いつも現在(いま)が一番反省修正された最良の瞬間(とき)であるはず…とも思いたいのですが。反省の内容が正しいとも限りませんし、不都合があれば隠したり捻じ曲げたりしますし、同じ過ちを繰り返してしまうのもまた人間です。二度と見ることがありませんようにと願った光景を、人間はまた映し出しています。

過失

東日本大震災発生時、「困ったときはお互いさま」と、日本のみならず世界中の人びとが、被災された方々に救いの手を差しのべられました。
けれど、今回のウィルス騒動は、世界各地で感染者が出ています。世界全体が対策・対応に追われています。そうなると、「困ったときはお互いさま」などと言っていられる状態ではありません。新型コロナウィルスの発生元とされる中国の方に怒りをぶつける様子が、世界のあらゆるところで確認されています。西洋の方から見れば、日本人もまた中国人と同じアジアの人間です。外国で、アジア系の人が差別や暴力を受ける被害も起きています。「ひどいことをするなぁ」「とばっちりだ」と思う人もいるかもしれません。けれど、振り返ってみれば、イスラム過激派によるテロ事件が起きた際、日本人も「イスラムの一部の過激派が起こした事件」という見方よりも、「イスラム教は危険だ」と、イスラム教徒全般に対する差別的な見方をしたのではないでしょうか。そして今もまた、新型コロナウィルスの感染者が確認された都道府県を冷たい目で見てはいないでしょうか。

自分自身が被害に遭ったり、被害に遭うかもしれなかったりというところに身を置くと、気持ちが犯人捜しに向かうのかもしれません。自分の優位性や安全性を確保するために他者を貶めるという過ちを、人間は繰り返してしまいます。

過去

「過ち」は時間とともに薄れてゆきます。「過ち」の事実が消えてしまうということはありませんが、日々を過ごすなかで、あらゆる事柄が上書きされてゆき、古い「過ち」は忘却のかなたに去ってゆきます。だから「過去」というのでしょうか。

けれど、たとえ新しい出来事に上書きされようとも、たとえ楽しい出来事に心奪われようとも、忘れてはいけないことがあります。「生きることは、そのまま過ちであるかもしれない日々」であるということを。

ふと振り返ります。私はこれからのいのちとの日々をどのように過ごしているだろうか。過ちの日々を過ごしてはいないだろうか、と。

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掲示板の人形
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3月、ひな祭りですね。2月、あまりにバタバタと過ごしていたら、ひな人形を飾るのを失念していました。
3月2日、リビングにやっと飾ることができました。
写真の人形は、掲示板用の小さい人形です。お雛様と、かつて奈良公園で買ったシカと、2月に京都に行った際に買った豆シバの人形です。

2020年2月 3日 (月)

2020年2月のことば

2月を迎えました。1月のブログは、掲示板のことばをアップしただけで終わってしまいました。

Windows7のサポートが終了するのに際し、新しい相棒(パソコン)を使い始めたのですが、タッチの感覚になじめず、文章を書くに至りませんでした。とはいえ、いつまでもそんなこと言ってられないので「2020年2月の寺報」を作り始めましたが、文章がまったく書けません(パソコンのせいではなく、自分自身の力として)。珍しく穏やかな時間(締め切りに追われない時間)で、寺報だけに向き合えたのに、完成が2月3日にずれ込んでしまいました。申し訳ありません。
前の相棒とは9年近い付き合いだったので、よくもってくれたなぁと感謝しています。新しい相棒、よろしくお願いいたします。

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2020年2月のことば(以下、西蓮寺寺報「ことば こころのはな」の文章です)

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吉凶は 人によりて 日によらず
             
吉田兼好

今を大切に生きたい

除災招福を願い、日や方角の良し悪しを選ぶ人も多いのではないでしょうか。名前の画数や相性を気にする人もいることでしょう。朝のテレビ番組には占いコーナーが欠かせません。運勢やラッキーアイテムをチェックしてから出かける人もいることでしょう。

葬送の場から帰宅して「清め塩」を身にかけたことがある人もいるのではないでしょうか。穢れを払うつもりのようですが、果たして何が穢れなのでしょうか。先往く方ですか? 葬送の現場ですか? 万難を排してお別れの場にお参りしたのに、帰宅すると穢れと化すとはおかしな話です。ちなみに、浄土真宗では、葬送に際して塩を用いません。死も、先往く方も、葬送の場も穢れではありませんから。

おみくじには「吉」や「凶」などがありますが、神社には「凶」を入れないでほしいという要望があるそうです。要望に応えて「凶」を除いてあるおみくじもあるとか。「吉」とか「凶」を、人間の要望のままに招いたり除いたりできたら楽ですね。

さて、実際に「吉日」とか「凶日」という日があるわけではありません。方角や名前もしかりです。

私は、限りのあるいのちを生きています。また、誰とも代わりのきかない、かけがえのないいのちを生きています。限りのある時間のなかを、唯ひとりの私が生きているにもかかわらず、良い日悪い日と制限を設けて生きるということは、もったいないことです。

吉凶に囚われ、限りのある、誰とも代わることのできないいのちを生きている現実に目を背けながら生きること。そのことが吉凶ではないでしょうか。実際に吉凶なるものがあるわけではなく、人間の側の問題です。

明日とも知れぬいのちだからこそ、今を大切に生きたい。

縁起の道理

お釈迦さまは「縁起の道理」を説かれました。「この世のあらゆるいのちや事柄は、縁によって起こり、縁によって滅す」と。

仏教、お釈迦さまの教えに触れ、「縁起の道理」を学びました。私もまた、縁起の道理のなかを生きています。さまざまな縁が織りなし合うなかに私は生まれ、縁に生き、やがて死の縁を迎えます。いのち生きるものはみな影響し合っています。「いのち生きるもの」とは、今現に生きている人だけを意味するのではなく、先往くいのちも、これから生じるいのちも含めてです。いのち生きるものはみな、代わりのいない、かけがえのないいのちを生きています。

お互いに影響し合っているということは、この世で起こる出来事は、ある特定の人や集団にだけ起こっているわけではありません。
我が身に悲しい出来事があったとき、その出来事に関わる人や物事もあり、悲しみを共有してくれる人もいればほくそ笑んでいる人もいるかもしれません。
我が身に嬉しい出来事があったとき、その出来事に関わる人や物事もあり、共に喜んでくれる人もいれば、やっかみのこころを持つ人もいることでしょう。

「吉」といえる出来事と「凶」といえる出来事が、まったく別の出来事として起こるのではなく、多くの人や事柄と絡み合いながら、嬉しいことと悲しい ことが同じ瞬間(とき)に起きている。私がここにいられるとき、ここにいられない誰かがいる。そういうことを想います。

「縁起の道理」から想わされるように、お釈迦さまの教えは、この世の悲しみを無くす術を説かれたものではありません。いのちあるものは、いつかいのち終えていく。人の為のつもりが、人を傷つけることもある。あらゆる物事は、すべて縁によってつながっている。当然のことのようですが、私たちが目をつぶって生きている現実が説かれています。

なにをかなしまれているのか

親鸞聖人の「正像末和讃」です。

かなしきかなや道俗(どうぞく)の

良時吉日(りょうじ きちにち)えらばしめ

天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ

ト占祭祀(ぼくせん さいし)つとめとす

 

(現代語訳)
今の世を生きる僧侶も世間の人々も、
良い時・吉日を選ぶことに囚われて、
天の神・地の神をあがめながら、
占いや祭祀に努めています。
なんともかなしいことです。

 

いつの世も、人は吉凶禍福に囚われているものです。まだ見ぬ未来、見通せない将来に対しての不安の表われなのかもしれません。
親鸞聖人は、なにを「かなしきかなや」と嘆いておられるのでしょう。
「僧俗共に、吉凶禍福に囚われて、自身の幸福追求や、不安を取り除くために、天の神・地の神へのお願いごとに努めている」。そのことを「かなしきかなや」と嘆いているのでしょうか? でも、それだけではないような気がします。

聖人自身も、師や弟子や家族との出あいや別れ、「南無阿弥陀仏」の念仏との出遇いや被弾圧など、さまざまな喜びや悲しみに遭遇しました。不安や恐怖に襲われることもあったことでしょう。そんなとき、親鸞聖人には念仏がありました。生きていく歩みのなかで、不安や恐怖に立ちすくみそうなときも、聖人は常に念仏を忘れませんでした。念仏は不安を鎮めるための呪文ではありません。私を支える念仏。念仏があるからこそ、縁に生き、吉凶禍福交差する人生を生きていけます。

いついかなるときも私と共にある念仏。すべての人々に念仏に出遇ってほしい。阿弥陀如来は、生きとし生けるものへ念仏を与えてくださっているのだから。教えに触れながら生きてほしい。念仏を称えながら生きてほしい。まだそれが叶わずに苦しんでいる人が大勢いる。そのことに対するかなしみと、教えを伝え得ぬ自身へのかなしみが親鸞聖人にはあったのです。

南無阿弥陀仏

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お店で見つけて、ひとめぼれしました(*^-^*)Dsc_4400

 

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