昨日のブログで、折々の楽しみ、四季の変化を見つけながら過ごしたいものですねと綴りました。
ところが・・・
気象庁は、鳥や虫の鳴き声の鳴き始めや植物の生育状況を観測して、気象状況の推移の把握をしてきました。
「生物季節観測」といい、70年続いてきたものだそうです。
その「生物季節観測」を、気象庁は動物の観測を年内で取りやめると発表しました。
今までは、植物34種類41項目、動物23種類24項目を観測してきましたが、来年からは「植物6種類9項目のみ」になるそうです。
その理由は、対象となる鳥や虫を見つけること自体が困難になったため。
その原因は、都市化が進んだこと、温暖化が進んだことが挙げられます。
東京においては、ウグイスの初鳴きを2000年3月以降、ヒグラシの初鳴きをを2001年8月以降、観測できてないそうです。
そういわれれば、ウグイスやヒグラシの鳴き声って、あまり聞かなくなりました。
鳴いてはいますが、観測地においては皆無に近いのでしょうね。
夏の終わりにヒグラシの鳴き声を聞くと切なくなってきたものですが、今夏はそんなに聞こえなかったなぁと感じていました。
動植物から季節の移ろいを教えられてきました。
その動植物の生育や数に変化があれば、当然季節を感じるきっかけも減っていきます。
また、二十四節季という暦もありますが、その暦も、暦と現実に乖離があることを、多くの人が感じていることと思います。
立春・立夏・立秋・立冬についてブログでふれてきたこともありますが、書いていることは「立〇とは思えない気候ですね」ということが多い気がします。
季節の移ろいを感じられることの有り難さを思いますし、
その季節の移ろいに急激な変化が起きていることの危機感も忘れてはいけないと思います。
地球の動きにおいて、季節の移ろい・気候の変動は、自然に起こり得るものですが、人為的変化は、地球をはじめ地球上のすべての生き物に負荷を与えています。
四季を感じるがごとく、危機を感じなければいけない。
「生物季節観測」が取りやめられるということは、日本ののどかな習慣が終わるということのみならず、地球規模の問題・課題です。
2020年11月5日(木)☀
西蓮寺報恩講を謹んでお勤めさせていただきました。
コロナも落ち着いている雰囲気ではありますが、門徒さんに移動を強いるわけにはいかないと思い、本年は門徒さんには「報恩講の休会」をお伝えし、住職はじめ寺の者だけで報恩講のお勤めをさせていただきました。
参拝者がいらっしゃらないとはいえ、報恩講は例年の通りお勤めしなければいけません。
報恩講の荘厳(飾りつけ)をし、幕を張り、報恩講の看板を掲げました。
動くと汗ばむような陽気、あぁ、今日、門徒さんも集まる報恩講だったら、素敵な一日だなぁと思いました。
(当然、晴れには晴れの、雨には雨のよさがあります)
娘たちには学校を早退してもらい、一緒に報恩講をお勤めしました。
私も、小4で得度をしてからは、報恩講の日には早退をしていました。
報恩講の雰囲気を、からだで感じてきたことを思い返しています。
その場に身を置くという事実は、話で聞く何倍もの緊張感・臨場感・身を置くことの意義を感じます。
得度をしている長女には、報恩講のお勤めにおいて、念仏和讃2重の1と2の発声をしてもらいました。
この10日ほど練習しましたが、今日(本番)、一番素晴らしい声が出てきました。
門徒さんがいないとはいえ、報恩講をお勤めしている緊張感・臨場感・報恩講の大切さを感じているようでした。
お疲れさまでした。よくがんばったね(^-^)
隣で声を聞いていた私(パパ)は、心底嬉しかったです。
ありがとう
娘たちの協力もあって、報恩講をお勤めすることが叶いました。
来年は、門徒さんと一緒に報恩講をお迎えすることができたらいいなと、切に願うばかりです(‐人‐)
南無阿弥陀仏
2020年11月3日(火)文化の日
今日、学校はお休み。報恩講を前にした 仏具磨きを、娘たちにも手伝ってもらいました。
普段の「おみがきの会」は、平日に行っていますが、今年は門徒さんに呼びかけず、学校お休みの日に合わせて家族のみで行いました。
娘は、生まれたばかりの頃、座布団に寝かせられたまま おみがきの会に身を置いていたことはありますが、実際に自分でおみがきをするのは、そういえば初めて。
ただ磨くだけでも、けっこう重労働。次女は疲れていました。
「おみがきの会」とは言っても、仏具磨きだけでは終わらず、椅子・窓・柱・障子などの掃除もします。それから内陣の荘厳(お飾り)も報恩講仕様にしました。
家族6人で2時間近くかけてお磨き&本堂の掃除&荘厳をしました。
きれいに整いました(^-^)
いつもは門徒さんに呼び掛けて手伝ってもらっていますが、今年は門徒さんの助力はなし。
いつも助けられているんだなぁということを、あらためて感じました。
南無阿弥陀仏
磨きおわった仏具
住職と一緒に 水引 を張っています
報恩講に向けて
2020年7月4日(土)
例年ならば、7月の第1土・日曜日は「西蓮寺新盆法要」。
けれど本年は、コロナ感染拡大防止の観点から中止。
寺の人間のみで新盆法要をお勤めさせていただきました。
ご本尊(阿弥陀さま)の前でお勤めして、
今年新盆を迎えられる方々の法名前に移動して、亡くなられた皆さんの法名の前でお勤めして、ご遺族の皆様に代わってお焼香させていただきました。
法名を前にし、ひとり一人とのお顔とお付き合いを思い返していました。
それぞれの関係を結んできましたが、誰一人欠けても、今の私はいません。
ありがとうございます。
今夏「新盆法要」を迎えられるご遺族には、「新盆法要は行いませんが、7月4日(土)午前11時より お勤めを致しますので、時間はいつでもかまわないので、お内仏(お仏壇)の前で手を合わせてください。」のお手紙を差し上げていました。
今朝、ご遺族のうちのお一人から、「私も、午前11時にお参りさせていただきます。よろしくお願い致します」とお電話をいただきました。
昼過ぎ、「今日は月命日だから」と、お墓参りに見えた方がいました。
「ようこそお参りくださいました。ちょうどよかった、本堂の法名軸の前でお焼香して行って!」とお誘いしたら、嬉しそうにお焼香をされていました。
人と人とのつながりは、「死んだら終わり」と言う人もいるけれど、「いや、亡くなったって続くんだよ。それが人間関係だよ」と、電話をくださった方、お墓参りにみえた方から、教わりました。
南無阿弥陀仏
2020年4月29日 西蓮寺永代経法要をお迎えしました。
史上初の無参拝法要です。
住職・坊守・副住職・准坊守・衆徒ふたり、寺をお預かりしている6人で、お勤めをさせていただきました(‐人‐)
永代経法要は無参拝で行いましたが、法要の為にお送りいただいたご懇志を尊前にお供えし、お勤めさせていただきました。
例年、西蓮寺永代経法要の法話は、私 副住職が勤めています。お仲間のお寺の永代経法要のご法話もご依頼を受けていましたが、そちらのお寺も、門徒さんに呼びかけての永代経法要は中止となりました。永代経法要の場でのお話の機会はなくなりましたが、当ブログにてお話をさせていただきます。
講題 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)
悲
「悲」という漢字は、「心を両手で引き裂く姿」を象(かたど)っていると聞きました。
悲しみは、私の目の前を真っ暗にします。まさに胸が引き裂かれる思いがします。
「誰かこの悲しみを分かって!」と叫びたくなる反面、「私のこの悲しみが分かってたまるか!」とも思います。悲しみは、私をひとりの世界に閉じ込めて孤独にします。喜びは、多くの人と共有することができるのに、なぜ悲しみは私をひとりぼっちにするのでしょう。
でも、本当にひとりぼっちになってしまうのであれば、胸を引き裂かれるほどの痛みをともなう悲しみに耐えられるでしょうか。悲しみを抱えながらも、なんとか生きてきました。そこには、私を生かすはたらき、生かそうとするはたらきがあるのではないでしょうか。
悲しまれている私
悲しみの中にいると、自分自身のことを「悲しんでいる私」としてしか見られません。
浄土真宗のお勤め「正信偈」に「大悲無倦常照我」とあります。
「阿弥陀如来の大悲は、倦(あ)くことなく、常に私を照らしています」と、親鸞聖人は仰っています。
「倦く」とは、物事を成し遂げることができずに嫌になることです。「悲しんでいる私」は、「何をやってもダメだ」「どれだけ頑張っても報われない」と、すぐに倦いてします。けれど、阿弥陀如来は私を見捨てません。私が阿弥陀に気づこうが気づくまいが、念仏申そうが申すまいが、阿弥陀如来は倦くことなく私のことを照らしています(包み込んでいます)。
「悲しんでいる私」は、阿弥陀如来から「悲しまれている私」でもありました。
小慈小悲もなき身にて
小慈小悲(しょうじしょうひ)もなき身にて
有情利益(うじょうりやく)はおもふまじ
如来の願船(がんせん)いまさずは
苦海(くかい)をいかでかわたるべき
(親鸞聖人「正像末和讃」)
悲しみのなかにいるのならば、悲しんでいる他者(ひと)への思いやりが芽生えてもよさそうだけれど、それができません。
悲しんでいる私は、恵まれた他者、実は恵まれたように見えるだけなのですが、その恵まれた他者を嫉(ねた)みます。
私は、「悲しみが和らぎました」と語る他者に対して嫌悪感を抱き、「その程度の悲しみだったんだね」と蔑(さげす)んだりもします。
同じような境遇に置かれ、同じような悲しみのなかにいる他者に対してさえも、「私の悲しみの方が大きい」と悲しさ比べをしてしまいます。
今、私は、こんなにも悲しんでいる。それなのに、いつの日かその悲しみや悲しんでいたこと自体を忘れてしまう・・・。
悲しみそのもののつらさもあるけれど、悲しみのなかで他者を嫉(ねた)み、蔑(さげす)み、悲しさ比べをし、悲しんでいたことさえも忘れてしまう。そのことこそが悲しい。
悲しいけれど、それらはみんな私の姿です。
けれど、悲しみのなか、私が本当にひとりぼっちになってゆくならば、私のそんな姿に気づくことはありません。私の姿に気づくことができたのは、私を映し出す教えに出あえたから。私を照らす阿弥陀如来に出あえたから。
阿弥陀如来は、嫉むことなく、蔑むことなく、比較することなく、やがて私のことなど忘れることもなく、私を救うために共に悲しんでいます。阿弥陀の悲しみ、慈悲なくして、どうしてこの悲しみの海を渡ることができるでしょうか。
ひとりぼっちの世界に閉じこもって悲しんでいる私は、私のことを倦くことなく悲しみ続けている阿弥陀の大慈大悲に出あい、我が身を知ることができました。悲しみをなくすことに懸命だったけれど、悲しみも含めた私を、阿弥陀は見てくれていました。
「悲しまれている私」の自覚は、阿弥陀如来の感得でもありました。
南無阿弥陀仏
今日は暖かく、いい天気ですね。朝、掃除をしていたら、汗ばんでくるほどでした。牡丹の花が目いっぱい咲いています。
昨日は、片づけておきたい仕事に目途がついたので、ちょっと嬉しくて夕食時にビールを呑みました(350㎖ 一缶だけだけど)。
このコロナ騒動の中、コロナにもインフルにも罹らず、風邪もひかず、幸い元気に過ごさせていただいています。と、思っていましたが、ビールを呑んだ後にからだ中に湿疹ができ、右手は急にカサついてヒビだらけになってしまいました。湿疹は寝るまでに落ち着き、手はニベアを塗ったらなんとか落ち着きました。元気だと思っていても、からだは正直。実は心身の負担を受けとめていてくれていたのですね。それが、ちょっとアルコールを呑んで、負担がかかったのかもしれません。
「不安ではあるけれど元気に過ごさせていただいています」と思っている方も、自分では気づかないながら、からだには負担がかかっているのかもしれません。どうぞお気を付けください。
一昨日の風雨☔、昨日の強風🌀が明けて、今日は久しぶりの快晴☀
境内の掃除のため外へ出ると、いろいろな花が咲いていました。
芍薬(しゃくやく…咲き始めました。いつもより早いかな)
躑躅(つつじ…赤 白 ピンクが混ざっています)
親鸞聖人像…の後ろに生えている綿毛のような花はなんだろう?
外出自粛して自宅にいても、季節はちゃんと移ろうています。
ときの流れのなかにいることを教えられます。
南無阿弥陀仏
というわけで、11月22日~24日、家族で真宗本廟報恩講へ参拝してきました。
今年の報恩講は暖かかったです。娘たちは半袖で過ごしていました。
とはいえ、21日は寒かったそうで、日によって寒暖差が激しいのがつらいところです。報恩講を支えてくださっている皆様、お風邪など召しませんように。
23日、「子ども報恩講のつどい」に参拝(東京教区からは、うちの家族だけでした)。
子どもと保護者とスタッフを合わせて200名を越える参拝者。
阿弥陀堂と御影堂でお参り。子どもたちの正信偈の声が響き渡りました。
和敬堂の食堂でお昼ご飯。次女は、「子ども報恩講」の昼食のカレーライスが大好きで、大人盛りで2杯分のカレーを食べました(夕食もしっかり食べました)。
食事の後は、同朋会館でつどいの時間。楠信生先生のおはなし・光善寺念仏一座さんの音楽紙芝居。最後は200人超の集合写真撮影。
今年で8回目の「子ども報恩講のつどい」
そのうち5回目の参加。娘たちも楽しみにしているようです。
お堂に入るとき出るときはみんな頭礼をし、「正信偈」をお勤め。
泣く子もいるし、じっとしていない子もいるし、じゃれている子たちもいる。そんなカオス状態が、「真宗大谷派 子ども報恩講のつどい」の醍醐味だと感じます。素晴らしい空間です。この場も、親鸞聖人や南無阿弥陀仏の念仏をよりどころとしてきた方々が作ってくださいました。後に続いていくことでしょう。
来年もお参りできますことを(‐人‐)
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