宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会

2007年6月22日 (金)

今、いのちがあなたを生きている⑪(追記)

昨日の文章で、
もっと「命」について泥臭く語ってもいいんじゃないかなって思いました。
と、書きました。
その想いに変わりはないのですが、文章をアップしてから危惧してることがあります。
「“命”について泥臭く語り始めたら細○さんや江○さんみたくなっちゃうんじゃないか?」って。もし命について語ることを、あのように受け取られたらマズイなぁ。あれって、命を語っているようでいて、自己満足・自己安心の法を語ってるだけだから。
 
なんて考えていたら、友人からメールをもらいました。
南無阿弥陀仏イコールいのち。こういう図式を前提にして話をすると、どういうわけか行き詰まります。
何事も道程というものがあり、いのちと聞いて何を思い浮かべるのか?
いのちが現に、どういう問題を提起しているのが今なのか?
というところから出発するべきだと、私も思います。
まず着地点を設定した上で話を進めると、その着地点へたどり着こう たどり着こうとするだけで、問題が掘り下げられることがないように思われます。

「何を思い浮かべるのか?」「何が今問題提起されているのか?」そういうことを いのち から聞き続ける。うん、私が表現したかったことかもしれないです。
私に、本を読むことの楽しさ素晴らしさを教えてくれた友人。さすが、受け止めも表現も的確です。私も、こんなふうに表現できればいいんだけど。
紹介したくて、了解も得ずにアップしてしまいました。ごめんなさい。


答を見つけるための問いではない。
問いそのものが、どんどん どんどん 深まっていく。
うむ、「問い」を「いのち」と言い換えてもいいかも。
そう考えると、テーマの「いのち」を「問い」と読み換えることも出来るなぁ。

2007年6月21日 (木)

今、いのちがあなたを生きている⑩(完)

「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」の聞き書きを9回にわたって書いてきました。
大会の聞き書き自体は、前回の記事で終わりですが、もうひとつ書きたい出来事がありました。

大会が終わって、一緒に聞いていた友人と四谷のVOWZ Bar(坊主バー)に行きました。
オーナーの田口さんが法話をしてくれる、とっても素敵なバーです。
 
お店に入ると、カップルの先客がいました。カウンターで田口オーナーとお話しています。
カップルの、特に女性の方が田口さんに仏教のことをいろいろ質問しています。それに丁寧に応える田口さん。
聞くともなしに聞いていました。
話が進み、田口さんが「私たちが口にしているものにも、いのちがあるんですよ。私たちは、そのいのちをちょうだいしているんです。魚にも…」とまで話したときに、女性が「待って」と田口さんが話すのを止めて、言いました。

「魚のいのちをもらってるとか、そんなこと言い出したら切りがないじゃない。それに、私は魚を獲ってって頼んだわけじゃないし。頼まれてなくても、魚とか獲る人がいて、それがお店に並ぶ。それを食べたい人が買う。それだけのこと。いのちのつながりとか、そんなこと考えていたら、何も食べられないわよ」

というようなことを、一気に話しました。
さて、その話を聞いて、あなたはどう思われますか?

私は、不思議と落ち着いていました。
怒る気も起きなかったし、呆れたわけでもない。そういうことを言う人がいて哀しむわけでもないし、同意するわけでもない。
確かに、そんな考え方をするんだ!! って驚いたことは驚いたのですが、「あぁ、もしかしたら、こういう考え方をする人が多数派なのかもなぁ」って思ったのです。
 
「生き物のいのちをいただいている」
「生き物は大切にしなければいけない」
「いのちは大切にしなければいけない」
そういうことって、生きていくうえでの大前提だと思うのです。誰かに言われるまでもなく、誰もが持っている共通認識。つまり、わざわざ口にするまでもないこと。そういうことだと思っていました。
 
でも、バーで先のような発言を耳にして、「もしかして、この発言が多数派なのかもな」って思ったのです。
言うまでもないと思っていたこと、つまり「生き物のいのちをいただいている」「生き物は大切に」「いのちは大切に」ということって、もっともっと言っていかなければいけないことなんだって、強く感じました。


 
親鸞聖人の750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について僧侶が語るとき、「いのち」を「阿弥陀如来」といただいて語ります。
「阿弥陀如来の慈悲の中を、今、私たちは生かされているのです」というように。
 
在家の方がテーマについて想いを述べられると、「いのち」を「命」と押さえられる方が多いように思います。
「他の生き物の命をちょうだいしている」
「先祖代々の命を受け継いで、今の私が誕生した」というように。
 
「今、いのちがあなたを生きている」
テーマを聞いた人の数だけ想いがあります。
何が正しくて、何が間違っているという話ではありません。
 
ただ、最近テーマについて書かれたものを読むとき、あまりに僧侶の側の想いが「いのち=阿弥陀如来」に固執しているような気がするのです。それ以外は間違い、みたいな。
でもやはり、一般に「いのち」って耳にしたら、「命」を連想すると思うのです。
「他の生き物の命をちょうだいしている」
「先祖代々の命を受け継いで、今の私が誕生した」というように。
もっと「いのち=命」から出発して、テーマについて語ってもいいのではないかと思うのです。


 
「いのち」も「命」も根っこは「阿弥陀如来」。すべてつながっている。
だから、「いのち」が「命」であっても「阿弥陀如来」であっても、伝えたい想いは同じになると思う。
でも、バーでの女性の発言を聞いて、もっと「命」について泥臭く語ってもいいんじゃないかなって思いました。
当たり前のことだからと思い込んで、「命」について語らずに来てしまったのかもしれません。
 
お待ち受け大会に行って、その帰りに、この女性の発言に出会う。私なりに抱いていたテーマ感を、根底から考え直させられました。そうなるように出来ていたのだと思います。

実は、バーでのこの出来事について書きたくて、みんなにも考えてもらいたくて、10回にわたって文章を書いてきました。お付き合いいただいて、ありがとうございます。
それぞれの中で、テーマの意味を考えていただいて、2011年の親鸞聖人の御遠忌を迎えていただけたらと思います。

2007年6月18日 (月)

今、いのちがあなたを生きている⑨

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き

(パネルディスカッションより)
清水さん
お子さんが小さいころの話。
詳しくは忘れてしまったのですが、お子さんが幼稚園で、泣いてるお友達を、ギュッて抱き締めてヨシヨシしてあげたんですって。
それをお家に帰ってきてお話しました。「○○ちゃんが泣いてたから、ダッコ ダッコ ギュッってしてあげたの」って。
それを聞いてたご主人が「俺もしてほしいなぁ」って仰って、清水先生は驚かれたそうです。そういうこと思ってるんだぁっていう驚きと、大人になってもダッコ ダッコ ギュッて してほしい時ってあるわよねぇっていう驚き。
「私がしてあげましょうか?」ってご主人に言ってあげたそうです^^
ダッコ ダッコ ギュッて、大事なことだと思います。安心を与えるものだと思います。
「今、いのちがあなたを生きている」ってこういうことかなって感じます。

会ももうすぐ終わりというところで、清水先生のお話で会場が最後に一気に柔らかい雰囲気になりました。

(ちょっとつぶやき)
「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマ。
その意味は「ダッコ ダッコ ギュッ」
私は、とても感動しました。御遠忌テーマについて、たくさんの方の想いを聞いてきましたが、こころの中でカチッとはまりました。感覚人間なので、スッと入ってきたのだと思います。

テーマについて、文章的におかしいとか、意味が分からないとか、真宗の教えにそぐわないとか言う声も聞くのですが、、そんなところでグチグチ言ってないで、自分の歩みに照らし合わせてみませんか?
それに、意味がどうこうではないと思うのです。
昔、親鸞という法師がいて、その方の滅後750年も経っても 慕う人々が今もいる。亡くなられて750年も経って、個人の法事を勤めますか? 「先祖代々」というような大きな枠で法事を勤めることはあったとしても。

親鸞という人の教えや人柄に出会って、支えられてきた人々がいて、そして今、750回忌をお勤めするご縁をいただいている。そのような いのちの流れの中で、教えに出会った人が生み出したテーマ。考えたのは、テーマ選考委員の方々かもしれないけれど、そのテーマが生まれてきた背景には、人々のつながり、教えの伝統がしっかりとある。
うん、正に「今、いのちがあなたを生きている」。 
 

 
6月2日に開催された「宗祖親鸞聖人750回忌御遠忌 東京教区お待ち受け大会」について、メモしたところを書き出してみました。こういうことをすると、絶対に私見が入ってしまうので、先生方の想いと違う受け止めをしたり、感想を言ってしまっていることと思います。申し訳ありません。

2007年6月15日 (金)

今、いのちがあなたを生きている⑧

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き

(パネルディスカッションより)
芹沢氏
『母という暴力』という本を出版したことがあります。出版社の方には、こんな名前では売れないと反対されましたが。
子どもは、自分を受け止めてもらう“受け止められ体験”を通して、人を信頼することを覚えていきます。
母として子どもに何かしてあげようとするのではなく、受け止め手として子どもの前にいたらいいのではないか、ということを伝えたくて書いた本です。
買ってくれるお母さんがいて、お手紙もいただきました。その中に、次のような声がありました。
「仰っていることは分かりました。でも、私の受け止めて手は誰なんでしょう?」
子育ての不安を感じての声です。子どもの受け止め手になろうとすることは出来るけれど、私(お母さん)を受け止めてくれる人は、誰で、果たしてどこにいるのでしょう。
   
受け止め手になろうと努めることはできるけれど、「この人は受け止めてくれる人だ」って判断するのは、相手です。受け止め手として認めてもらえるかどうかは分かりません。でも、受け止め手であろうとすることは出来ます。
私は、受け止め手として認めてもらえるように努めていきたいのです。

(つぶやき)
海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。
そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある

三好達治さんの「郷愁」という詩の一節を思い出していました。
「海」という漢字の中には「母」がいます。
フランス語の「母(mere)」の中には「海(mer)」があります。発音は、同じ「メール」だそうです。

文字で表現される以前から、洋の東西を問わず、「海」や「母」に受け止められているっていう安心感があるからこそ、それらの言葉が生まれてきた。
大いなるものに包まれているという安心感。誰もが既に包まれている。
淋しいとか、孤独だって想う前に、大いなるものに包まれているという物語を持ってほしい。
いや、淋しさや孤独を感じている今こそ、物語をもてるチャンスなのかもしれない。

2007年6月14日 (木)

今、いのちがあなたを生きている⑦

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き

(パネルディスカッションより)
今、子どもたちの間でままごとが成立しないんですよ。
先ず、父親役になりたい子がいない。
 仕事で家に居ないから、父親のイメージが湧かないんです。
次に、母親役のなり手がいない。
 お母さん、家では怒ってばかりだから、イメージが悪いんです。
で、子どもの役もいない。
 幸せな役に思えないんです。
じゃぁ、何の役が一番人気があると思いますか?
 ペットなんです。
 無条件に可愛がられますし、
 何かをしなければいけない約束事がないからなんです。
 
(ちょっと つぶやき)
ままごとが成立しない理由をひとつひとつ聞いてると、なるほどなぁって頷いてしまうけれど(いいのか?)、つまりは家庭が成立していないってことですよね。
それに、ままごとをしようとしても、みんながペットになりたがる。楽な方楽な方(ペットはペットで大変なこともおありでしょうが)に流れる生き方を、そんな小さい時から身に付けてしまっているのですね。子どもは親(大人)の鏡です。ということは…。
笑い話じゃないですね。

「畜生(ちくしょう)」という地獄の世界があります。
畜生と言っても、牛や豚といった家畜のことではありません。
家畜の姿を想像してみてください。たいして運動もせず、食事は規則的に与えられます。
自分では何もしなくても、欲しいものを欲しいだけ与えられる。そして、そのうち自分の我を通そうとします。いや、通るのが当たり前のことになってしまうのでしょう。
自分の我が通って当たり前ということは、他の存在をまったく無視するということ。
他とのいのちのつながりを生きているにもかかわらず、その他を自分の意のままにしようとする。いのちのつながりを無視する。
そのような生き様を、「畜生」と言います。

「ペットになりたい」
誰からも可愛がられたいと思っているうちは、素直で可愛らしい望みですが、
可愛がられて当たり前なんて思ってしまった瞬間(とき)、ペットから畜生になってしまっていることをお忘れなく。

2007年6月13日 (水)

今、いのちがあなたを生きている⑥

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き

(パネルディスカッションより)
情報化社会と言われていて、情報はたくさんあるように思ってしまうけれど、肝心なことは何も届いていない。

(ちょっと つぶやき)
家庭内の争いが、まるで自分の家だけのことのように思ってしまうように、自分の抱えている問題を、自分の中だけにしまいこんでしまう。
ネット・雑誌・コミュニティ…いろいろなことを教えてくれようとしている媒体はたくさんある。うん、親切なほどに。情報はたくさんあるのかもしれない。だけど、“ある”だけ。

情報…情(こころ)を報(しら)せるもの
情が届いてない、のではなくて、情を届けたいという気持ちがあるだろうか。
これだけ知らせてるんだから、あとはそっちで考えてね。
データを知らせるのが情報ではない、情を報せてこと情報。

情報…情(こころ)に報いるもの
現代の、溢れんばかりの情報を、当たり前のものと思い込んではいないだろうか。
知らせてもらうのは当然の権利。その中から取捨選択。
役に立っても知らんぷり。役に立たなかったら不平不満タラタラ。
情には情で報いましょう。

情報…情と情の交流があって、初めて成り立つんだなぁ。
肝心なものが届かないはずです。

2007年6月12日 (火)

今、いのちがあなたを生きている⑤

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き
    
(パネルディスカッションより)
子殺し 親殺し 争い 対立 不和…
文学に昔からあるテーマです。
それなのに、今の学生はそれを知らない。
物語が若者に届いてない不幸を感じます。
どこの家庭にだって、喧嘩や不和はある。
なのに、「自分のところだけうまくいってない」って思い込んでいる。
孤独を感じている。
どこの家庭にだってあるんです。

(ちょっと つぶやき)
満足できないのは、自分の理想を追い求めるからだと思ってました。
でも、隣の芝生が青く見えることも、満足できない理由なんですよね。
しかも、隣の芝生が本当に青々としているなら、うらやましい限りですが、実際はそんなことあるわけない。どこの芝生も問題を抱えているものなのです。
よく見ると、芝生がめくれているかもしれない。枯れているかもしれない。雑草の方が元気がいいかもしれない。人工芝かもしれない。
とにかく、綺麗に見えても、実際はどこも問題や悩みがあるものです。でも、それを人に話すことは恥ずかしいことだと思ったり、人にばれないように綺麗に繕ったりしてしまう。
そして、自分ひとりで抱えて、孤独を感じ、疲れてしまう。他をうらやんでしまう。
 
清水先生が、ある朝、生徒に向かって、思い切って「今朝家族と喧嘩してバーンって扉を閉めて家を出てきた人どれくらいいる?」ってきいたら、かなりの数の生徒さんがそんな朝を迎えていたそうです。でも、みんなもそうなんだって分かった生徒さんの顔は、いつもの憂鬱そうな朝の顔ではなく、にこやかな顔になったそうです。

「あなたもそうだったの!?」
みんなそんなもんですよ^^

2007年6月11日 (月)

今、いのちがあなたを生きている④

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き
    
(パネルディスカッションより)
親殺しには、子殺しが潜航しています
 
子どもが親を殺す事件。
子どもの凶悪性にのみ、目が行ってしまいます。しかし、子どもが親を殺す背景には、親や周りの大人による子殺しがあります。
今年起きたある事件でも、親を殺した少年は、勉強がよく出来て、親だけでなく地域の人々から期待されていたました。県下一の高校に入学するのですが、その学校には各地から優秀な生徒が入学してきます。今まで一番を取り続けてきた少年ですが、その学校では普通の成績です。今まで一番になることにしか自分の価値を見出せなかった少年は悩み、高校に行かなくなります。
その少年は、「期待通りに生きなくてはいけない」という恐怖を背負っていました。
そして、期待に応えられなくなり、自身の存在価値も見失います。おそらく、親や地域の人々からの見られ方も変わったことでしょう。
子が親を殺す背景には、それより先に子殺しが行われているのです。

(ちょっとつぶやき)
自分勝手な期待が、子を苦しめている。そのことに気付いていない無責任。
 
そういう話を聞くと、「期待してなにが悪い」という人もいる。
期待すること自体は、悪くないでしょう。
でも、期待したなら、どんな状況でも待ってあげること、どんな結果でも受け入れてあげることが、期待するものの責任ではないでしょうか。
期待に応えるべく頑張らない子どもは怠け者、期待に応えられなかった子どもは我が子じゃない、なんて思うのなら、期待なんて最初からしないほうがいい。自分の姿を見ればわかるはず。人の期待に応えることが、どんなに難しいことか。そして、自分にとってどんなに意味のないことか。
 
そういう話を聞くと、「期待しないようにしよう」という人もいる。
期待とは表現しなくても、子どものことを見てますよ・気にしていますよ・大好きですよって、想いを送り続けることを忘れないように。
高価な食器だからって、割ることを恐がって手に持たなかったら、食器にのっている食事も食べられません(お箸を使えばいいとか言わないでね)。
 
そうだ、
パネルディスカッションで伝えたかったことは、期待の仕方についてではなく、親殺しには、子殺しが潜航しているという事実。
実際に子どもを殺してしまっているわけではないけれど、子どもを自分の価値に照らしてしか見られなかったり、子どもを自分の思い通りにしようとすることが、すなわち子どもを殺しているということ。
事件の報道を見て、「恐いわね」「なんて子だろう」「うちは大丈夫」なんて思う人。知らないうちに、子殺しをしてませんか?

2007年6月 9日 (土)

今、いのちがあなたを生きている③

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き
   
<内容>パネルディスカッション
      芹沢 俊介氏(評論家)
      清水 眞沙子氏(青山学院短期大学教授)
      武田 定光氏(真宗大谷派因速寺住職)
 
(芹沢さんのコメントより)
「今、いのちがあなたを生きている」というテーマを聞いて、
①いのちがあなたを生きていることを、あなたは気付いていますか?
②あなたは、いのちを生きようとしていますか?
このふたつの問いかけがあるように感じました。
  
(ちょっと つぶやき)
「いのち」は誰のものでしょう?
  
自分のいのちは自分のものだから、傷つけても、死んでも勝手じゃないかと言う人もいるけれど、自分のものを傷つけたり、壊したり、捨てたりするかな?(今の日本人はするか)
  
自分のものだって言うのなら、それを傷つける前に、生かそう生かそう(活かそう活かそう)と努力しただろうか。
努力して、頑張って、それでもダメでってところまで、いのちを使い切っただろうか。そこまでしてないのに、「自分のものだから何をしてもいい」って言うのは、ご都合主義的だなぁ。

「いのち」はわたしの所有物ではないのです。
   
「誰のものでしょう?」っていう問いかけ自体、「いのち」を所有化してるみたいで嫌ですね。
「いのちを生きてる?」って問われている身なのに。
 
「今、いのちがあなたを生きている」  
テーマに答はありません。でも、問いです。
どういう意味だろう。なにが問われているんだろう。どんな物語だろう。
自問自答してほしいです。これからもずっと。

2007年6月 8日 (金)

今、いのちがあなたを生きている②

6月2日
「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」
聞き書き
   
<内容>パネルディスカッション
      芹沢 俊介氏(評論家)
      清水 眞沙子氏(青山学院短期大学教授)
      武田 定光氏(真宗大谷派因速寺住職)
 
(清水さんのコメントより)
私、「人間は、遺伝子を運ぶ船である」って教えていただいたことがあります。
現代では 子どもを「作る」と表現しますが、「授かる」とか「預かる」んだと思います。
子どもを授かり、そして生まれたところへお返しするんです。
  
(ちょっと つぶやき)
「人間は、遺伝子を運ぶ船である」
物語(ファンタジー)ですね。このような発想、とても好きだし、大事だと思います。
自分が作って、自分の思う通りにして、自分で片付けてしまうものではないんですよ。遺伝子は、子どもは。
 
人類の、いや、生命の始めから今の私にまで運ばれてきた「遺伝子」。
そして、これからも運ばれ続けていく。
「生まれたところへお返しする」
次の「いのち」へバトンタッチする。
大事なお仕事を、この身にいただいているんですね。
   
    
清水先生、「そう考えると、“夫”も授かったのだと思います」と付け加えられて、場内に笑いが起きました。
さて、どんな含みのあった笑いだったのでしょう。

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