「宗祖親鸞聖人750回御遠忌 東京教区お待ち受け大会」の聞き書きを9回にわたって書いてきました。
大会の聞き書き自体は、前回の記事で終わりですが、もうひとつ書きたい出来事がありました。
大会が終わって、一緒に聞いていた友人と四谷のVOWZ Bar(坊主バー)に行きました。
オーナーの田口さんが法話をしてくれる、とっても素敵なバーです。
お店に入ると、カップルの先客がいました。カウンターで田口オーナーとお話しています。
カップルの、特に女性の方が田口さんに仏教のことをいろいろ質問しています。それに丁寧に応える田口さん。
聞くともなしに聞いていました。
話が進み、田口さんが「私たちが口にしているものにも、いのちがあるんですよ。私たちは、そのいのちをちょうだいしているんです。魚にも…」とまで話したときに、女性が「待って」と田口さんが話すのを止めて、言いました。
「魚のいのちをもらってるとか、そんなこと言い出したら切りがないじゃない。それに、私は魚を獲ってって頼んだわけじゃないし。頼まれてなくても、魚とか獲る人がいて、それがお店に並ぶ。それを食べたい人が買う。それだけのこと。いのちのつながりとか、そんなこと考えていたら、何も食べられないわよ」
というようなことを、一気に話しました。
さて、その話を聞いて、あなたはどう思われますか?
私は、不思議と落ち着いていました。
怒る気も起きなかったし、呆れたわけでもない。そういうことを言う人がいて哀しむわけでもないし、同意するわけでもない。
確かに、そんな考え方をするんだ!! って驚いたことは驚いたのですが、「あぁ、もしかしたら、こういう考え方をする人が多数派なのかもなぁ」って思ったのです。
「生き物のいのちをいただいている」
「生き物は大切にしなければいけない」
「いのちは大切にしなければいけない」
そういうことって、生きていくうえでの大前提だと思うのです。誰かに言われるまでもなく、誰もが持っている共通認識。つまり、わざわざ口にするまでもないこと。そういうことだと思っていました。
でも、バーで先のような発言を耳にして、「もしかして、この発言が多数派なのかもな」って思ったのです。
言うまでもないと思っていたこと、つまり「生き物のいのちをいただいている」「生き物は大切に」「いのちは大切に」ということって、もっともっと言っていかなければいけないことなんだって、強く感じました。
☆
親鸞聖人の750回御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」について僧侶が語るとき、「いのち」を「阿弥陀如来」といただいて語ります。
「阿弥陀如来の慈悲の中を、今、私たちは生かされているのです」というように。
在家の方がテーマについて想いを述べられると、「いのち」を「命」と押さえられる方が多いように思います。
「他の生き物の命をちょうだいしている」
「先祖代々の命を受け継いで、今の私が誕生した」というように。
「今、いのちがあなたを生きている」
テーマを聞いた人の数だけ想いがあります。
何が正しくて、何が間違っているという話ではありません。
ただ、最近テーマについて書かれたものを読むとき、あまりに僧侶の側の想いが「いのち=阿弥陀如来」に固執しているような気がするのです。それ以外は間違い、みたいな。
でもやはり、一般に「いのち」って耳にしたら、「命」を連想すると思うのです。
「他の生き物の命をちょうだいしている」
「先祖代々の命を受け継いで、今の私が誕生した」というように。
もっと「いのち=命」から出発して、テーマについて語ってもいいのではないかと思うのです。
☆
「いのち」も「命」も根っこは「阿弥陀如来」。すべてつながっている。
だから、「いのち」が「命」であっても「阿弥陀如来」であっても、伝えたい想いは同じになると思う。
でも、バーでの女性の発言を聞いて、もっと「命」について泥臭く語ってもいいんじゃないかなって思いました。
当たり前のことだからと思い込んで、「命」について語らずに来てしまったのかもしれません。
お待ち受け大会に行って、その帰りに、この女性の発言に出会う。私なりに抱いていたテーマ感を、根底から考え直させられました。そうなるように出来ていたのだと思います。
実は、バーでのこの出来事について書きたくて、みんなにも考えてもらいたくて、10回にわたって文章を書いてきました。お付き合いいただいて、ありがとうございます。
それぞれの中で、テーマの意味を考えていただいて、2011年の親鸞聖人の御遠忌を迎えていただけたらと思います。