2025年3月のことば
2025年3月を迎えました
陽射しの温もりを感じるスタートとなりましたが、明日(3日)から雨予報で気温も低そうです。境内の地面がカラカラに乾いているので、雨予報はありがたいものです。花粉症の方も、ちょっと安心でしょうか(私も花粉症持ちですが)。
3月1日は、西蓮寺が所属する「東京教区 東京5組」の「同朋会」がありました。会場は持ち回りで、そのお寺の住職か副住職がお話しします。西蓮寺が会場になるのは、コロナ下を挟んで9年ぶりだったそうですが、西蓮寺門徒含め、50名ほどの方にお参りいただきました。東京5組の教化テーマ「いのちの声を聞く」の講題のもと、お話ししました。その後、幾人かの方から感想をいただきました。ありがとうございます。次回「東京5組 同朋会」は、5月17日(土)赤坂の道教寺さまを会場に開催されます(13:30より)。須賀力住職よりご法話をいただきます。申し込み不要です。
3月は春彼岸をお迎えします〔3月17日(月)~23日(日)〕。お参りお待ちしています。
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2025年3月のことば
(寺報版はこちら)
無明とは
何も分からないことではない
すべて分かったつもりになっている心のことです
宮城 顗(みやぎ・しずか)
無明(むみょう)
「無明」とは、明るくない、つまり暗いということ。暗闇では何も見えません。仏教では、自分のことが見えていないことを「無明」といいます。自分のことが見えないと、教え(真理)はわかりません。自分のことが見えないこととは、つまり真理に暗いということであり、そのことの罪の深さを仏教では説きます。
「自分のことは自分がよくわかっている」「他人に、私の気持ちがわかってたまるか」などというセリフを聞くことがあります。けれど思います。自分のことを一番わかっていないのは自分だと。他者(ひと)の方が、私のことをよく見ているな、よくわかっているなと感じることがあるものです。
人間の愚かさ 悲しさ
かつて、西蓮寺掲示板に掲示したことばです。
人間の愚かさは
何に対しても答えを持っているということです
ミラン・クンデラ(作家)
掲示したとき、幾人かの方から「今月の掲示板、間違ってますよ」と声をかけられました。
「愚かさとは、答えを持たないこと」
「賢いからこそ、答えに辿り着ける」
このように考える人にとって、掲示されたことばには、ちょっとした違和感・気持ち悪さを感じられたことでしょう。
経験や学習から培われてきた思想や思考は、私を私たらしめる大切なよりどころです。誰もが、自分なりの「答え」を持って生きているし、自分なりの「答え」を持っていなければ不安に圧し潰されてしまいます。
「答えを持っている」こと自体は、否定されることではありません。ただ、答えを持っているがために他者を傷つけ、他者を貶め、結局は自分自身の身の置き場を失くしている。そのような落とし穴に、誰もがはまっているのではないでしょうか。
「愚かさ」といえば、親鸞聖人は著書『愚禿鈔(ぐとくしょう)』の冒頭に、このように綴られています。
(原文)
賢者の信を聞きて、愚禿が心を顕す。
賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、内は愚にして外は賢なり。(試訳)
賢者である師法然上人の信心を聞思すると、己が身の心があらわになってくる。
師の内面には、こんなにも賢く、深い信心があるにもかかわらず、外見にそのことを誇るような姿をさらすようなことはされない。
愚かなる私の心根は、どんなに修行に努めようとも、名利心が湧き起こる愚かなままであるにもかかわらず、外見は賢い者に見えるように取り繕うことに懸命になっている。
親鸞聖人が『愚禿鈔』に綴られた思いは、法然上人との出遇いによって気付かされたことの告白に違いありません。
燈炬なり 船筏なり 恵日なり
親鸞聖人の和讃です。
(原文)
無明長夜の燈炬(とうこ)なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏(せんばつ)なり
罪障おもしとなげかざれ
親鸞聖人「正像末和讃」(試訳)
阿弥陀如来の慈悲心は、
分かったつもりになりながら、賢い者になったつもりになりながら生きている私にとって、灯(ともしび)のようなものです。
私自身に先を見通す力などありません。だからといって、「私は阿弥陀に救われるに値しない者である」「阿弥陀の救済の眼中にない者である」などと悲しむことはありません。
阿弥陀如来の慈悲心は、
大海のように広く深く際限のない悩み苦しみに溺れながら生きる人間にとって、船や筏(いかだ)のようなものです。
人の世の淋しさ悲しさというものに、この私自身も無関係であるとは言い切れないものです。だからといって、その罪の重さを嘆くことはありません。
すべての生きとし生けるもののために灯となり、船や筏となってくださっている阿弥陀の慈悲心が、今、私に届いています。私の歩む道は、阿弥陀如来と共にあるのですから。
また、親鸞聖人は主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の序を、次の言葉で書き出されています。
(原文)
竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、難思の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度する大船、無碍(むげ)の光明は無明の闇を破する恵日なり。(試訳)
人間の知性では思いはかることができない、生きとし生けるものをどこまでも広く救済しようと誓った阿弥陀の本願は、渡ることが難しい荒海のような苦悩の中を生きる人間を、苦しみを超えた世界へと渡らせる大きな船である。何ものにも妨げられることのない阿弥陀の光明は、真実の智慧がない人間の闇を破る太陽である。
「無明」「愚かさ」「悲しさ」など、気が滅入るようなことを書いてきましたが、親鸞聖人は人間存在の愚かさや悲しみを強調し問題視するために「無明」を取り上げたのではありません。
「無明」であるという事実は、灯に照らされることがなければ気付き得ないことです。法然上人との出遇いによって、阿弥陀如来の光明に照らされている我が身であることを知り、分かったつもり知ったつもりになっていた私であることに気付きました。人間の悲しみと共鳴している阿弥陀の大慈悲心。人間の悲しみあればこその阿弥陀の大悲。無明を照らす大悲あることを、聖人は大切に教え伝えられました。 南無阿弥陀仏
※宮城 顗(1931~2008) 真宗大谷派僧侶
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掲示板の人形
3月、お雛様の人形を飾っています。