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2025年2月 2日 (日)

2025年2月のことば

2025年2月を迎えました。こんにちは
1月29~31日に「教区秋安居」、2月1日に配信法話収録のため「法話を聞く会」に参加。2月4~6日は本山での講習に参加してきます。寒さ厳しい折り、体調を整えながら生活したいものです。皆様もお気をつけて👋

「法話を聞く会」でご法話いただいた先生のお話。
「家内安全、学業成就、商売繁盛等々、お寺や神社にお参りに行く方も多いかと思います。けれど、只今受験シーズンですけれど、合格祈願する場合、受験に合格する人と不合格になる方がいるのは事実です。そうすると、祈願して合格した方は「おかげで」と言えるけれど、不合格となった方は「お参りしたのに」という気持ちになります。合格不合格は、そうなる要素はいろいろありますが、神仏の力は関係ないところですよね。つまり、私たちは自分の願いごととしてお金を出したり手を合わせたりしますが、浄土真宗の教えは、人間の願いが叶う教えではなく、阿弥陀如来の願い(衆生救済)が叶う(成就する)教えなんですね。人間の願いは、平等でない利益を願っているのですが、阿弥陀の願いは「平等の利益」です。すべての生きとし生けるものが救われる教えです。ですから、浄土真宗のお寺では、お守りやお札は売っていません。」
というお話をお聞きしました(上記文章は、私の記憶のままに書いています。先生のお話のママではありません)。
わたしの願いを生きているのではなく、あみだの願いに生きている。
大切なお話をいただきました。南無阿弥陀仏(-人-)

 👹 👹 👹

2025年2月のことば
(寺報版はこちら
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相手を鬼と見る人は
自分もまた鬼である
      曽

自分もまた鬼である
「相手を鬼と見る人は 自分もまた鬼である」
今月のことばを読んで、どのように受け止められるだろうか。
『「相手を鬼と見る」行為をする人は、そんなあなた自身も鬼ですよ』というように、戒めのことばのように受け止める人が多いのではないだろうか。
であるならば、「鬼である」のは「相手を鬼と見る人」限定の話になってしまう。果たしてそうだろうか。今月のことばは、「誰もが皆 鬼である」ということが大前提ではないだろうか。

はて、そもそも「鬼」とは何なのか? 「鬼」というと恐いもの、悪いもの、強いものとしてのイメージがある。反面、人間業とは思えぬ能力や才能、またその能力や才能を持つ人のことを表現する場合にも使う(「鬼才」とか)。ひと言で「鬼」といっても、その意味内容は清濁併せ持っている。
今月のことばの場合は、悪い意味での「鬼」だろう。「自分(あなた)もまた鬼である」と言われたとき、「私は相手ほどひどい人間じゃないですよ!」と否定したり、「そんなことを言わないでください!」と怒ったりする気持ちが芽生えて来るのだから。誉め言葉として受け止められるならば、そんな反応はしないでしょう。

罪は同じ
「実際に殺人を犯した者も、頭の中で誰かを殺したい(あいつさえいなければ)と思った者も、罪は同じである」

お釈迦さまの教えとしてお聞きしています。納得のいかない方もいることでしょう。ですが、自分にとっては、この教えがあってこそ仏教に聞いて行こう!という思いになり、親鸞聖人の教えを聴聞するうえで根っことなっている教えです。「思う」ということは、それ自体が「行為」である。自分は、どれだけの罪を犯していることだろう。

さるべき業縁のもよおせば
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし

親鸞聖人のことばです。お釈迦さまの教えの「罪は同じ」の話は拒否反応を生むことでしょう。ですが、親鸞聖人もまた弟子の唯円との対話において、次のように説かれています。

「聖人の仰せならば、私は背きは致しません」と言う唯円に、聖人は「では、人を千人殺して来なさい。そうすれば、あなたの往生は約束されます」と言います。「そのようなこと、私の器量ではできません」と唯円が返せば、「人を殺さないのは、あなたが善いこころを持っているからではありません。また、決して殺害はしてはいけないことだと思っていても、そうなるべき縁がもよおすならば、殺すということもあるのです」と聖人は仰いました。

「出あう縁によって、何をしでかすかわからない。それが私である」。否定しようのない事実です。では、なぜその事実に目覚めさせるために、「人を千人殺してきなさい」とまで言われたのでしょう。「人の物を千個盗んできなさい」でもかまわなそうですが。
あなたも聖人から「人を千人殺してきなさい」と言われたとします。そのとき、「そのようなことはできません」と口では言いながらも、憎い誰かの顔が浮かばなかったでしょうか。「人を殺してきなさい」という言葉は、私のこころをざわつかせ、自分と向き合うことになります。決して他人事として聞き流すことはできません(「盗み」の譬えでは、こころざわつかず、実際に盗みを犯してしまう人もいるかもしれません)。
教えは、すべて私めがけて説かれています。だからこそ、「人を千人殺してきなさい」という聖人のことばが、現代もなお私のこころをざわつかせます。

「善と善」か「善と悪」か
昨今、「争いは、善と悪との戦いではなく、善と善との戦いである」「悲劇は、善と善とのぶつかり合いで起こる」といった類の法語が目に留まるようになりました。時代を反映してのことかもしれません。
「争い」というと、「善と悪」との対立を思い浮かべます。しかし、争いの当事者は、「自分が正しい」という思いで戦っているわけで、そのような現実に則すると、「争い」とは「善と悪」との対立ではなく、「善と善」との戦いです。私もそのように思い、かつて文章を綴ったこともあります。
しかし、年を重ねて思います。争いは「善と悪」との戦いであると。「善と善」との戦いであると見るのは、客観的見方、俯瞰した見方です。争いの渦中に身を置いたならば、「争い」とは、自分を善、相手を悪に位置付けた「善と悪」との戦いです。当事者の立場に身を置いたならば、自分こそ正しくかわいいのです。そして、相手は殺したいほど憎いのです。
「争い」とは、国と国、組織と組織のものとは限りません。私も含めた日常にあふれています。

無明(むみょう)
「罪は同じ」という話をしましたが、仏教における「罪」とは「無明であること」と説かれます。「無明」とは、明るくないということ。つまり暗いということ。暗闇では何も見えません。仏教では、自分のことが見えていないことを「無明」といいます。
自分のことが見えないと(他人事として聴聞していると)、教え(真理)はわかりません。自分のことが見えないこと(無知)とは、つまり真理に暗いということであり、そのことの罪の深さを説きます。
私は罪は犯さない、犯すはずがないと思いながら生きている。しかし「私」とは、どのような縁がもよおし、その際にどのような振る舞いをしてしまうかもわからない者です。そんな「私」であるにもかかわらず、自分で物事を考え、為しているつもりでいる。まさに「無明」を生きている。他人事として見ることは容易だけれど、自分のこととして見ることはとても難しい。だからこそお釈迦さまは、「無明」なる私に、灯(教え)を照らしてくださっています。
「罪は同じ」ということも、殺人の罪そのものを語っているのではなく、「無明」を彷徨っている、真っ暗闇を歩いていることに目覚めさせるための喚びかけとして聞こえてきます。
南無阿弥陀仏

※曽我量深(1875~1971)真宗大谷派僧侶

 👹 👹 👹

掲示板の人形
今月の人形はオニ、ではなくウサギです。
スカイツリーに行った際、併設のショッピングセンター「東京ソラマチ」で買いました。
かわいかったので、思い切って全5種買いました。

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