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2025年1月 1日 (水)

2025年1月のことば

明けましておめでとうございます
本年もよろしく御願い申し上げます
昨今、挨拶の「こんにちは」や感謝の「ありがとう」の言葉を耳にすることが減ったように感じます。
「こんにちは」「ありがとう」 この一言で気持ちが救われるということがあります。本当に大切な言葉です。
今年は「こんにちは」「ありがとう」を忘れないように日々を過ごしたいと思います。
ありがとうの 想いを忘れて生きることのかなしさ
南無阿弥陀仏
2025年新春 西蓮寺住職

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2025年1月のことば
(寺報版はこちら

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悪性(あくしょう)さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善(しゅぜん)雑毒(ぞうどく)なるゆえに
虚仮(こけ)行(ぎょう)とぞなづけたる
               親鸞聖人

忘れない
2025年1月1日を迎えました。「令和6年能登半島地震」から一年が経ちました。また、昨年9月には、能登を豪雨が襲いました。震災と豪雨、大きな災害に見舞われました。あらためて、被災された方々にお見舞いを申し上げます。
被災していない者にとっては、過去の出来事かもしれませんが、被災された方々にとっては現在進行形です。穏やかな日々の訪れを願ってやみません。
今年は、第二次世界大戦の終戦から80年目の年です。戦争を体験された方が減り、他者を力でねじ伏せようとする考え方が世に蔓延しつつあります。人が人を殺める行為は休むことなく続いています。
昨年のノーベル平和賞は「日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)」が選ばれました。被爆者の立場から被爆体験を伝え、核兵器廃絶を訴え続けています。語り続けることと聞き続けること、つまり忘れないことが、周囲の人びと、これからを生きる人びとへと広がっていきます。
「忘れない」ことも支援のひとつです。しかし、私たちは忘れる生き物です。ほんの数年前の新型コロナウイルス流行下での私たちのありようを、果たしてどれだけ覚えていることでしょう。コロナ罹患者・ 発症者、医療従事者への差別。マスクや消毒液、食料品の奪い合い。未知のウイルス、先の見えない日々への恐怖心や焦燥感。 2025年を迎え、コロナ以前の状況に戻ったかのように暮らす私たちは、コロナ禍のありようを忘れてしまってはいないでしょうか。

こころは蛇蝎のごとくなり
親鸞聖人は数多くの「和讃(わさん)」を綴られました。今月のことばは、そのうちの一首です。
「和讃」とは、仏や菩薩、祖師方の恩徳をほめたたえるため、七五調の形式で表現された讃歌です。

【原文】
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに
虚仮の行とぞなづけたる
      親鸞聖人「愚禿悲歎述懐和讃

【試訳】
私には尽きることのない悪性があります。
貪り(むさぼり)・瞋り(いかり)・邪(よこしま)・偽り(いつわり)など、
それらのこころが止むことはありません。
心がけで正せるものなどではありません。
わたしのこころは、毒蛇やサソリのように猛毒を持っています。
たとえ世のため人のためを思ってなしている行為であっても、「私はこれだけの善行を積んでいる」という名利心が入り混じっています。
正しいことをなしているようでも、悪性を持つ私のなすことは、本当に正しいこととは言い切れないものです。
本当に正しいことをなしているのであれば、「私はこれだけのことをやっている」「これだけのことをやったのだから報われてしかるべきだ」「これだけのことをやっているのに誰も誉めてくれない」などと思い悩む必要などないのですから。

「和讃」は仏や菩薩の恩徳をほめたたえるものと書きましたが、この和讃は 「愚禿悲歎述懐和讃」と呼ばれ、聖人自身のありようを赤裸々に書き記した内容となっています。聖人は、自身を「愚禿鸞 (ぐとくらん)」と名告(なの)られました。「愚」は、愚か者。「禿」は、道を求めるこころもないのに、生きるため食べるために出家した形だけの僧侶を意味した言葉です。つまり、自身のことを「愚かで格好ばかりの坊主である親鸞」と告白しているのです。そんな愚禿である自身を悲歎し述懐された和讃なのです。このような和讃を綴るには、自分を見つめる厳しい眼が必要であり、その眼を、親鸞聖人は阿弥陀如来より賜った(回向された)ものであるといただかれています。

神仏を拝むとき、少しでも清い身であろう、徳を積もうと考えます。そのような思考にあるとき、たとえ自己反省をすることはあっても、「反省して、これから気を付けます」「反省したから、今までのことはなかったことに」と、反省を善い行いにすり替え、自己を振り返ることはありません。そのような態度は、拝むという機会を私に与えてくださったはたらきに対して、そのはたらきを無にする態度です。聖人の教えに出あった者にとっては、手を合わせる、「南無阿弥陀仏」と念仏を称える、聞法をすることは、阿弥陀如来からの賜りものであり、自身のありようを知る縁をいただいていることなのです。教えを聞いて、念仏称えて、今よりましな人間になるのではありません。聖人は自身の姿を綴られていますが、そのことは自身の愚かさを知り、反省したことの表明ではありません。阿弥陀を疑い、阿弥陀から逃げている私をも、阿弥陀如来は慈悲の心で包んでいる。その真実を知ったのです。私「愚禿鸞」が阿弥陀の救いの中にあるのだから、誰もが阿弥陀如来に救われているという述懐なのです。        南無阿弥陀仏

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掲示板の人形
今年はヘビ年ですね。ヘビの人形を飾っています。
ここ数年、12月に東本願寺での仕事が入り京都に行っています。新幹線の構内に人形を売っているお店があるので、毎年そのお店で干支人形を買って帰ります。
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