2024年12月のことば
2024年もいよいよ12月を迎えました。この一ヵ月、なにをして過ごしていこう、やるべきことを済ましていこう!と考えていることと思います。体調崩さぬよう気を付けて、今月を、2024年を乗り越えましょう‼!
詩人・翻訳家・絵本作家等々、多くの肩書きを持つ谷川俊太郎さんが、2024年11月13日に亡くなられました。92歳でした。
私の本棚には谷川さんの詩集やスヌーピーの日本語訳『PEANUTS』が、子どもたちの本棚にも『スイミー』や『もこもこもこ』など絵本が並んでいます。漠然と、まだまだ生きられる方などと思っていましたが、いのちを尽くして往かれました。谷川さんの多くのことばに触れてきました。ありがとうございます。
話は変わりますが、11月のある朝、山門の前を掃除していると、「おはようございます」と声をかけてもらいました。振り返ると地元の中学生でした。登校中、私に「おはようございます」と声をかけてくれたのです。正直、ことばで言い表せないほどの喜びがありました。今日も一日頑張れる! 生きていてよかった! 大袈裟に思われるかもしれませんが、それほど嬉しかったのです。
さて、谷川さんの死と中学生が私にくれた「おはようございます」。私の心を大きく揺さぶり、温かく包み込み、生きるということについて考えさせてくれる事象でした。南無阿弥陀仏
12月の寺報の文章はほぼ書き終えていたのですが、上記のような出来事があって、ゼロから書き直しました。谷川俊太郎さんのオマージュとして散文詩っぽい書き出し(センスありませんが)、「おはようございます」のことばをくれたあなたのことを想いながら書きました。誰も代わる者のいないいのち(わたし)を生き、それでいて孤独ではなく、誰とでもつながっているいのち(あなたとわたし)を生きている。皆があみだと共に。また、11月5日、西蓮寺報恩講の日に還浄されたあなたのことも、忘れません。
ことばは、人を生かしもするし殺しもする。せっかくのことばを どう使いますか。ことばとともにどう生きますか。
⛄ ⛄ ⛄
2024年12月のことば
生きているとばかり思っている私
生かされている私
おはようございます
「おはようございます」
あなたのその一言で
今日も元気をもらった
私を見ていてくれる人がいる
あなたに出会えてよかった
おはようございます
今日も目が覚めた「ありがとう」
いつもとは違う
なにか特別な出来事があったから
「ありがとう」って口にするのではないいつだって常に
目に見えないはたらきがあって
そんなあたりまえのことに
ふと気がついたから
「ありがとう」が出てくるあたりまえのことが
いつも ずっとあることが 有り難い「南無阿弥陀仏」
私の口から出てきた南無阿弥陀仏が
私の耳へと入っていく
私が発した声だけど
私のことを喚んでいる声「あなたのことを救いたい」
「私の名前を喚んで欲しい」
念仏を称えられるのは
阿弥陀さまの願いが私に届いている証
今現に救われている証念仏の声が聞こえてくるのは
私の存在証明
「あなたははここにいていい」
「あなたはひとりじゃない」そんなひとりひとりが
あみだの喚び声で結びついている
ことばは、独(ひと)りでは出てこない
「ことば」は、私独りでは出てこない。
声をかけられたとき、かけられた私だけではなくて、声をかけてくれたあなたがいる。私のことを見つけて、あなたは声をかけてくれた。
声を発したとき、発した私だけでなく、その声を受け止めてくれるあなたがいる。あなたがいたから、私は想いを声にすることができた。
私は独りではない。
生きているとばかり思っている私
「生きている」という思いは、自分の人生を自分の力で歩んでいるものと勘違いさせてしまう。この世の中で自分の思い通りになっていることなんて、なにひとつないのに。無量無数のいのちや事柄が複雑に絡み合い、影響し合い、そしてまたいのちや事柄が誕生する。私を私にしている。
いついかなるときも目に見えないはたらきがはたらいていて、でも、私はそのことに気付いていなくて。そんな目に見えないはたらきにふと気がつくときがある。あたりまえのように「生きている」と思っている私の思いが大きく揺れる。あたりまえであることが、すなわち有り難いことだった。有り難いことが、実はあたりまえのように私にはたらきかけていた。「生きている」 ことは「生かされている」こと。
生かされている私
「生かされている私」という自覚が、親鸞聖人の教えの根っこにはある。聖人は、次の言葉を遺された。
さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいもすべし
(そうなるべき縁がもよおすならば、どのような振る舞いでもしてしまうのが私です)
「もよおせば」の響きに、「これから先にもよおしたならば」と、これから先のこと、まだもよおしていないこととして受け止める人が多い。そのような受け止めから、「親鸞は『いかなるふるまいもすべし』と言うけれど、自分を律する心があれば悪い行いはしない。悪事を働く人は自分を律する心が弱い人です」などという反論・反感・反発が出て来る。
これから先のことと思っているから、「生きている」と思っているから、自分の思いで行いを取捨選択できると、悪事は抑制できると考えてしまう。
これから先のことならば、親鸞聖人は「もよおさば」と言われただろう。けれど「もよおせば」と語られている。
「もよおさば」は、まだもよおしが及んでいない、これから先の話を表す。
「もよおせば」は、もう既に我が身にもよおしが及んでいることを表す。私が 気づいていようがいまいが、いつだって常に目に見えないはたらきがもよおしている。
言葉の意味内容は時代と共に変化し、国や地域によっても違いが生じる。だから、「もよおさば」と「もよおせば」に、私が書いたほどの違いはないのかもしれない。だけど私は思う。
「阿弥陀如来の大慈悲心に包まれながら生まれ、今、ここに至るまでお育てをいただいている私です。南無阿弥陀仏」
親鸞聖人は、ご自身のことを深く内省され、阿弥陀の大慈悲心を感じ、大切に受け止められ、「生かされている私」であることを自覚されたのだと。
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掲示板の人形
12月ですね。毎年恒例となりました、木で作ったサンタ人形を飾っています。西蓮寺掲示板と寺報を楽しみにしてくださっている方が、毎年11月になると「お寺さんにサンタさんって迷惑かもしれないけど」と言って手作りの人形をくださいます。施設で保護されている子どもたちのために、夏場に山に入って木を集め、お家でコツコツとサンタ人形を作られています。今年もいただきました。ありがとうございます。サンタ人形を通して、人形を手にする子どもたちの顔が浮かびます。
サンタ人形と一緒に鳥や雪だるま人形も飾っています。雪だるまや年末が想像しがたい気温の12月1日でした。