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2024年11月 1日 (金)

2024年11月のことば

2024年も11月を迎えました。1ページに2ヵ月分書かれているカレンダーだと、2024年も最後の1枚になってしまいました。
10月になっても暑い日が続きましたが、ようやく秋の雰囲気・冬の寒さを感じるころとなりました。インフル・コロナ・マイコなどが流行っています。体調を崩されませんように。

10月は、多くの訃報に接しました。
ドラえもんの声優であった大山のぶ代さんが9月29日に
「ぐりとぐら」を書かれた中川李枝子さんが10月14日に
俳優の西田敏行さんが10月17日に
「ねないこだれだ」で知られるせなけいこさんが10月23日に亡くなられました。

私にとってのドラえもんの声優さんは、大山のぶ代さん。
私が初めて「欲しい欲しい」と駄々をこねて買ってもらったマンガが「ドラえもん」でした(と、記憶しています)。
なかがわりえこさん と せなけいこさん の絵本にお育てをいただきました。
「ぐりとぐら」「ねないこだれだ」は、私自身が幼いときにも読んでもらっていたし、娘たちにも読んであげました。
西田敏行さんは、これ!と言い切れないほどの作品に出演され、私の記憶の中でもいろいろな西田敏行さんがいます。
でも、印象に残っているはじめは「西遊記」の猪八戒。その後は「池中玄太80キロ」を見ていた記憶があります。
娘たちにとっての西田さんは「ドクターX」。世代を超えて記憶に残る方でした。
今で言う「推し」でしょうか。推しだった方々が亡くなられていく。その訃報に接する機会が増えてきました。当然のことですが、年齢を重ねていくということは、それだけ多くの人や作品と出会っていくことです。ということは、大切な出会いのぶんだけ、別れとの出会いも重ねることとなります。
別れは淋しいことであるけれど、訃報に接することがなければ、日常において大山さんを、なかがわさんを、西田さんを、せなさんを気にしているわけはなく・・・つまり、訃報に接する、死別という別れは、いただいていたものの大きさ大切さかけがえのなさを気づかせてくれるものでもあります。
そんなことを何度も何度も思った10月です。
さようなら ありがとう 南無阿弥陀仏

 🌟 🌟 🌟

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(お)しは 推せるときに 推せ

人生って 人間って
わたしとしては、手を抜いているつもりもサボっているつもりもない。ほんと一生懸命やっている。けれど、他者から見ると、手を抜いているように、サボっているように見えるらしい。上手くやれる人ばかりではないのに。
一生懸命に取り組んでいるのに、うまくいかないときもある。反省は、している。誰かに迷惑をかけようと思っているわけはないし、わたし自身凹みたくなんかないのだから。
人生って、自分の思い通りにならないものなんだ。

人と人とが、ひとつ屋根の下、同じ学校、同じ職場で顔を突き合わせているのだから、気の合う人もいれば、顔を見るのも嫌な人だっていて当たり前。だけど、しんどいのは、誰とでも仲良くなれないことでも、嫌いな人がいることでもない。気が合うと思った人と仲たがいしたときの気まずさ、嫌いな人の優しい一面に触れたときの戸惑い。好きなら好きなままでいられたら、嫌いなら嫌いなままでいられたら、どんなに楽だろう。でもそれは、わたしの、人を見る目が間違っていたわけではなくて、人は何面性も持ち合わせて生きているということ。Aさんのことを、わたしから見た姿とあなたから見た姿とでは、きっと違うのだ。まるで別人であるかのように。わたしの姿だって、見る人によって違うんだろうな。「本当の自分」とか「自分探し」とか言うけれど、どんな自分もわたしなんだよ。
人間って、一面で量れるものではなくて、多面的で混沌としているものなんだ。

アンバランスというバランス
人生は思い通りにならなくて、人間は混沌としている。悩みは尽きないはずだ。
思い通りにならない人生を生きている者どうし、何面性も持ち合わせている者どうしが、この地球上に何十億人と生きている。争いだって起こるはずだ。けれど、よくこの世の中が成り立っているなとも思う。みんなつながりながら影響し合いながら、アンバランスというバランスを保って生きている。アンバランスなバランスが、わたしをわたしにしている。

推しの名は
思い通りにならない人生は、わたしを蝕む。痛みとなり、疲れとなり、苦悩となる。けれど、推しを推すとき、苦悩は、より深くより広くわたしを包み込むものとなる。

親鸞聖人。推しは、苦悩を解決・解消・霧散させる教えを説いたわけではない。解決策を提示するわけでもなく、わたしが悩んでいるという事実を明らかにしてくれるのであった。推し自身も、痛み、疲れ、苦悩の生涯を送ったのだ。けれど、わたしと決定的に違うのは、南無阿弥陀仏と出遇ったこと。
縁に結ばれた無量無数のいのち。それ故に苦悩は生じる。思い通りにならず、格差は自明であり、人と人とが奪い合い傷つけ合い、ときには他者を殺める。と同時に、他者の生活がわたしを生かし、わたしが生きることが他者を生かしめてもいる。
「この人のため」…そう想えるだけで、今、わたしはここにいられる。「事実を見つめよ。見つめ、南無阿弥陀仏と念仏称えよ」。そんな教えに、推し自身が出遇った。そして、生涯念仏に生きられた。悩み苦しみを抱えながら。

推しを、素晴らしい人、より高次の人間として語っているのではない。
推しは、「われら」と口にされた。推しは、誰もが皆、阿弥陀如来に救われていると語られた。漏れる者は誰もいない、と。だから誰もが念仏称えることができる。
推しは、高いところから見下ろして語っているのではない。今、わたしの目の前にいる。同じ大地に立ち、同じ目線で見て、同じ空気を吸っている。誰もが皆、同じ大地に足を付けて立っていることを喜んだ。
推しの喜びに触れると、見えるものも変わる。現実は何も変わっていないけれど。

推しにも推しがいる
推しにも推しがいる。龍樹・天親・曇鸞・道綽・善導・源信・源空。「正信偈」に出て来る、いわゆる七高僧。彼らの言葉(教え)に出会い、彼らの苦悩を見た。苦悩が見えたとき、そこに七人の人間がいた。
七人の言葉のなかに阿弥陀如来を感得された。七人の人間に出遇い、伴走者としての阿弥陀(真実)を見い出された。推し(親鸞)も、推し(七高僧)の言葉に触れ、見えるものが変わったのだ。

痛み、疲れ、苦しさがある人間という生き物の生活の場。推しもまた、同様の生活の場を生きた。生きながら、その痛みや苦しさを、あって当然のものだと落着された。縁に生きているのだから。同伴者としての阿弥陀がいるのだから。そして、自らは「南無阿弥陀仏」と念仏称え、人びとに念仏申せと説かれた。阿弥陀の声が、われら皆に届いているのだから、と。
七高僧のそれぞれもまた、同伴者としての阿弥陀を感得し、南無阿弥陀仏に生きられた。
真実である阿弥陀がある。そのことにお釈迦さまは気づかれ、説かれた。お釈迦さまの教えという縁により、七高僧が誕生した。七高僧がいるから推し(親鸞)がいる。推しがいるから、今、わたしの手が合わさる。わたしの手が合わさっているから、これからのいのちに南無阿弥陀仏は相続されていく。

報恩講(ほうおんこう)
11月28日は親鸞聖人のご命日。
本山である真宗本廟(東本願寺)では、毎年11月21日から28日まで「報恩講」が勤まる。推しのお祭りだ。けれど、報恩講は、親鸞聖人を褒めたたえるイベントではない。わたしにまで届いた教えを、念仏を、あらためて聴聞する法要。わたしのための法要だ。わたしは、報恩講があるから生きていける。この苦しく、淋しく、悲しい世の中を。
報恩講が終わると、あらたな一年が始まる。南無阿弥陀仏

(註)
【推し】とは、人にすすめたいほど気に入っている人や物のこと。俳優、声優、アイドル、マンガのキャラクターなど、対象は幅広い。

(つぶやき)
今月の寺報を書く前、宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』(河出文庫)を読んでました。

 🌟 🌟 🌟

掲示板の人形
11月は、御本山で報恩講が勤まります。西蓮寺の報恩講は毎年11月5日です。
ワクワクの報恩講シーズンです。親鸞聖人と合掌人形を飾っています。南無阿弥陀仏
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(つぶやき)
こんなに大切で、こんなにワクワクする報恩講なのに、西蓮寺報恩講のお申し込みが少ないです。
常日頃の布教活動の怠惰の表われです。大切だ大切だと言っている報恩講に、その魅力や意味を伝えきれていないことを申し訳なく思っています。
でも、ひと言。せっかく親鸞聖人の教えに触れているのに、報恩講にお参りせずに生きるのって勿体ないことですよ。
南無阿弥陀仏

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