2024年10月のことば
2024年10月を迎えました。
9月に発生した豪雨により被災された皆様にお見舞い申し上げます。
私も長崎にて水害を経験しているので、雨が降っているときの恐怖心と、雨がやんだ後の景色・におい・生活は記憶に強く残っています。特に、大雨の被害に遭いながら、雨がやんだ後は思うように水を使えない生活になってしまう矛盾(というのかな)を目の当たりにしました。
山から大量に流れてくる水を汲み取りながら生活しました。町内の銭湯の親父さんが「近所の人にお風呂に入ってホッとしてもらいたい!」と言って、すぐに銭湯の環境を整えて営業を再開してくれました。大勢の人とギュウギュウになりながら湯船につかったことを覚えています。
不便な生活を送られていることと想います。体調を崩されませんように。
また、真宗大谷派の仲間も、被災地支援に向かっています。ご無事を念じております。
集中豪雨は異常気象によるものですが、10月に入っても暑さが続いています。
このブログを始めた頃、「どんなに天候が不順でも、彼岸花はちゃんと秋彼岸中に咲くから不思議です」という内容の投稿をした記憶があります。
秋彼岸前に暑い日が続いても、寒い日が続いても、彼岸花は見計らったかのように秋彼岸中に咲いていました。ほんと、不思議に思ったものです。けれど、ここ数年の猛暑は、そんな彼岸花の生命アンテナをも狂わせているようです。9月のお彼岸前、ほんの一瞬気温が下がったころに咲き始めた彼岸花もあれば、この10月に入って咲き始めた彼岸花もあります。あれだけキチンと彼岸中に咲いていた彼岸花の咲く時期がズレていることに、個人的には脅威を感じています。とはいえ、彼岸花は美しいです。
10月に入っても暑いですが、やはり8月の暑さとは違います。
8月は、朝お墓参りにみえた方の墓地花が、夕方には水分を失いカラカラになっていました。
9月の秋彼岸の頃から、暑いとはいっても、墓地花は長持ちするようになりました(とはいっても、3日ほどですが)。
「いつまでも暑いですね」と言ってはいても、季節は確実に移ろいでいます。
寒くなれば、また暑さを求めることでしょう。
体調管理の難しい時代(とき)を迎えていますが、あなたのご無事を念じています。
南無阿弥陀仏
😺 😺 😺
2024年10月のことば
(寺報版はこちら)
われ正しと思ったとき
すでに
われ正しという傲慢がそこに出ている
お見舞い申し上げます
石川県 能登地方での大雨による被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。
震災からの復興もままならないなかでの豪雨災害。被災された方々の心中をお察しするに余りあります。西蓮寺としても継続した支援をさせていただきます。
自然への畏敬の念を忘れてはいないか
2024年の夏は、猛暑と共に豪雨にも悩まされました。交通機関の計画運休もたびたび計画・実施されました。
進路予想もままならなかった台風10号。8月下旬あたりは台風情報に振り回されたのではないでしょうか。とはいえ、新幹線や飛行機の計画運休は、大切な決断であると思います。ここ数年で計画運休の理解も進み、計画・実施の発表が受け容れられるようになりました。
ですが、やはり計画運休に異を唱える方もいるわけで、「JRは計画運休を簡単にやりすぎだ」「計画運休の時間の幅が広すぎる。もっと天候情報を精査して、時間を限った運休にすべきだ」と語るコメンテーターもいました。動かないよりは動いた方がいいのは乗客だけでなく運行会社にとっても当然のことで、運休したくてしているわけではありません。自然現象をも掌握できると考える驕りが滲み出たコメントです。
思いを巡らすに、今夏のような異常気象は、原因はいろいろ挙げられていますが、私たちの経済活動によるものも原因の 一端ではあるわけです。私たちが、より良い暮らし、経済成長を求めてきた結果、 この猛暑を、豪雨を、運休をもたらしていることを想うならば、先ずあらためるべき見つめるべきは、運行会社の運休システムではなく、私たちの生き方考え方ではないでしょうか。
他者に求めることは多く、自己を問うことは少ない「私」です。
形作られれている「私」
9月18日 中国の日本人学校前で男児児童が刺殺される事件が起きました。その子のこと、またご両親のことを想うと胸が締め付けられるばかりです。南無阿弥陀仏
9月18日は「柳条湖事件」(りゅうじょうこじけん…満洲事変の発端となる鉄道爆破事件)が起こった日で、反日感情が高まりやすい日とされています。そのような日に起きた事件であるため、反日感情を持った容疑者が日本人を襲ったと記す記事もありました。容疑者の意図はわかりません。ただ、このような事件が起こるたび、「〇〇の国の奴らは…」といった、国民のすべてを十把一絡げに捉えた批判を耳にします。その批判は、反日感情と表現されている感情と同質のものではないでしょうか。平和や、差別のない世の中の希求を口にしながら「〇〇の国の奴らは…」といった発言をする人は、けっこういます。
思いを巡らすに、「私」の考え方・思想・行為などは、私自身が今まで経験してきたことだけが影響しているわけではなく、私以前からの歴史も影響しています。助けられた、優しくされたという記憶や歴史も受け継がれていますが、人権を蹂躙された苦しみもまた消えることはありません。
「した歴史」は薄れて消えてしまいがちですが、「された歴史」は胸に刻まれます。
人類の歴史上、争いの止んだ時期はないと言われます。「私」の歩みは、争いの歴史の延長線上にあると言えます。只今、このときも、この地球上のどこかで、人が人を殺めている、いのちをいのちと思わぬ行為が繰り返されている。争いの止むことを願うばかりですが、たとえ争いが止んだとしても、争いによって生じた傷や怨みや悲しみは「私」のこころにいつまでも刻み込まれていきます。
人類の持つ闇は深く暗い。けれど、人が人を傷つけることに悲しみの感情を持つ人は、より多くいます。事件のあった現場に献花に訪れる方々もいます。亡き人を弔い手を合わせる人びとがいる。その歴史・歩み・想いもまた、「私」を形作っています。
傲慢な「私」が生きている
「われ正しと思ったとき すでにわれ正しという傲慢がそこに出ている」のだけれど、思いを巡らすに、「私」が口に出すこと、態度で示すこと、それらはすべて、間違ったことをしている意識はないし(ある人もいるかもしれないけれど)、逆に「正しいことをしている」などということもその都度考えているわけではない。正しさの傲慢というよりも、私が生きている事実そのものが傲慢なのかもしれません。傲慢な「私」が生きている。
毎月寺報を綴り続けているのは、「親鸞聖人の教えを伝えたい」という一心だけれど、綴りながら思っていることがあります。この行為は、親鸞聖人の名を借りて白山勝久という傲慢をかましている行為であると。だから、親鸞聖人の教えに帰ることを肝に銘じています。
面々の御はからいなり
聖人は流罪で京都から越後に流された後、越後と関東の地で念仏の教えを説き広められ、晩年は京都に帰られました。
親鸞聖人が京都に帰られて後、関東の地では、聖人の教えが歪められ、教えを聞いてきた人びとの中に不安や焦りが広まりました。関東の門弟たちは決死の覚悟で、京都に居る聖人の元を訪ねました。
聖人は、師である法然上人からいただいた教えと、念仏を称えるところに阿弥陀如来がいてくださることを説き聞かせます。そして最後に語ります。
念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり
(『歎異抄』第2章)
「念仏の教えを信じようとも、また、捨てようとも、あなたがたひとり一人がお決めになることです」と。
命がけで京都まで訪ねてきた方々に、「あなたがお決めなさい」というのは、求められていることに答えていないかのように映るかもしれません。けれど、答えは訪ねて来られたひとり一人の身であり想いのなかにすでに出ています。「ひとり一人の人生という歩みに背景や歴史があり、あなたを形作っています。いま、あなたは南無阿弥陀仏と念仏を称えています。だから大丈夫。阿弥陀如来と共なるあなたに敬意を表します。南無阿弥陀仏」
そう仰っているように聞こえてきます。
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