2024年8月のことば
8月です。お暑うございます。ご無事でいらっしゃいますか。お気を付けてお過ごしください。
西蓮寺の掲示板は毎月1日に張り替え、寺報も1日に発行しています。
が、ここ2,3年、月末に寺報が完成することはなく、印刷入稿は月が変わってからになっていました。
家庭用プリンターでプリントアウトしているので1日に寺報自体はあるのですが、気持ちとしては印刷されたものをお渡ししたいです。
月内に完成させたい。その気持ちは毎月ありつつも、毎月書けずにきました。
で、7月末、やっと月内に入稿できました。ホッと一息。
すると、月末にやらなければならない作業がサクサク進みました。
あぁ、寺報を月内に完成させると、こんなに楽なんだ!と思い知りました(20数年、ちゃんと完成させてきたのですが…)。
で、今月末も早めに9月号を完成させたいのですが、さてどうなるか。
9月1日に京都でのご法話を頼まれているので、完成・入稿して京都入りしたいです。
😺 😺 😺
(寺報版はこちら)
居場所を奪われる
そういう世界を地獄という
竹中智秀
居場所の喪失
地獄は、いろいろな表現で描かれているけれど、現代社会に引き当てるならば「居場所を奪われている世界」と形容できるのではないだろうか。
「現代とはいかなる時代か」を考えた時、「居場所を喪失している時代ではないか」と問いかけてくれた仲間がいる。
「居場所の喪失」…家族がいて、住む 場所があって、通う学校や職場があって、任されている務めがあって、家族や友人や仲間がいて・・・私が実体として身を置く場所自体は、ある。あるけれど、「ここは私のいるべき場所なのだろうか」「私は何をするために生まれてきたのだろうか」など、精神的な意味での「居場所の喪失」感を多くの人が抱いているのが、現代という時代ではないだろうか。
地獄と極楽
40℃に迫ろうかという猛暑酷暑、ご無事でお過ごしですか。
報道番組の街頭インタビューで、ご婦人が「この暑さ、地獄ですね」と応えていた。共感する方も多いと思いますが、ちょっと面白いことを想いました。
温泉宿に旅に出て、温泉につかったときに「極楽極楽♪」というのはお決まりのセリフ。私たちがつかる温泉の温度は、40℃前後です。
「地獄ですね」と表現された暑さも40℃ほど。同じ40℃程度の温度でも、空間的暑さ(気温)は「地獄」と感じ、温泉は「極楽」に感じる。もしかしたら、「地獄」も「極楽」も環境や状況や境遇は実は同じなのではないか。同じなんだけど、そこにいる人によって「地獄」にもなるし「極楽」にもなる。感覚的表現なので比べるような話ではありませんが、そんなことを想いました。
「極楽極楽♪」な温泉だって、「ずっと入っていなさい!」と言われれば地獄だし、穏やかに温度を上げられてしまえば、ゆで上がってしまう(気づかぬうちにつらい状況に追い詰められてしまう)こともある。
灼熱の地獄に感じるこの夏の暑さだって、もしかしたら慣れて極楽になるときがくるのかもしれません(それはないか)。
長い箸
「地獄」も「極楽」も環境や状況や境遇は同じなのではないかという気付きから、「長い箸」という寓話を思い出しました。
地獄と極楽、両方を見学に出かけた人がいました(寓話ですから)。
先ずは地獄の食卓を見学。地獄だから、大した食べ物もないのだろうと思ったら、食卓には御馳走が並んでいました。にもかかわらず、人びとは空腹でやせ衰え、他者の食べ物を奪おうと殺気立った空気が張り詰めていました。
なぜ御馳走がありながらやせ衰えているのか。ふと見ると、ひとり一人の手元には1mほどのお箸がありました。その長い箸を使い、地獄の人びとは自分で自分の口に運ぼうとして叶わず、他者が箸でつまんだ食べ物を叩き落としています。皆がそういうことをしているので、当然食べ物は口に入りません。殺気立ってくるし、やせ衰えてゆくはずです。
さて、次に極楽に行くと、地獄と全く同じ食卓が用意されていました。そこに集う人びとの顔はとても柔和でふくよかでした。同様に1mほどのお箸が用意されています。極楽の人びとは長い箸を使って、目の前の方の口に食べ物を運んであげます。いただいた方は「ありがとうございます。お返しに何を食べたいですか?」と尋ね、お箸でつまんで食べさせてくれます。皆がそういうことをしているので、顔つきは柔和になり、お腹も満たされてゆきます。
寓話ですから、受け止め方は人それぞれです。
私は、この寓話は、自分本位な人は地獄に堕ち、他者を思い遣る気持ちのある人は極楽に到る…といった因果応報的な話ではないと考えます。
たとえ恵まれた環境であっても、自分本位な思いで生きればそこは地獄にしか感じられないし、他者の存在を認めていれば極楽(身を落ち着かせられる居場所)となる。この寓話から、私はそのようなことを考えます。
はて
今月は、真宗大谷派僧侶の竹中智秀先生(1932~2006)のことばとして伝わる法語を掲示しました。
居場所を奪われる
そういう世界を地獄という
このような法語を前にすると、自分の立場を「居場所を奪われる」方に置きがちです。すると、「私の居場所を奪う憎い奴がいる。だから私の人生は地獄と化している」という受けとめに陥ってしまいます。
法語は、私の思いや立場をひっくり返して受け止めることも大切です。
阿弥陀如来の衆生救済の慈悲心。すべての生きとし生けるものを救いたいという願いは、ひとり一人の身に注がれています。そのことを表現して「いま、ここ、わたし」と教え説くことがあります。
「いま、ここ、わたし」・・・只今、この状況に身を置いている、この私にこそ、阿弥陀如来の慈悲のこころが届いている、と。
なにか善良な特別なことをしたから、心を清らかに保ったから、他者(ひと)のためを思って物事をなしたから・・・その結果として救いを得る、災いの無い生活が訪れるというのではありません。
縁によって生まれ滅するいのち。いま、ここに、わたしが誕生する(居る)ということは、ここに誕生し得ない(居られない)誰かも共に生じることでもあります。居場所をいただいている私でもあり、居場所を奪っている私でもあります。
「だからこの世は地獄だ」などと言おうとしているのではありません。いま、ここに、わたしが居るということは、無数のいのちが共にあることを表してもいます。つまり、数限りないいのちがあってのわたしであり、そのすべてのいのちを救うと誓い願われた阿弥陀如来もそこには見えてきます。
親鸞聖人の教えは、阿弥陀如来の大慈悲心と、人間のもつ悲しみを説いています。
教えをいただき、自分のことだけでなく、他者と共に、阿弥陀と共にあるわたしであると気づいたとき、地獄と表現されるこの娑婆世界も、極楽浄土として生きていけます。
南無阿弥陀仏
🍧 🍧 🍧
掲示板の人形
8月の掲示板は賑やかです。
平和祈念像(長崎の骨董屋で買いました)と合掌する動物人形
シーサー(沖縄で買いました。色合いに一目ぼれしました)
ヤクルトスワローズのユニフォームを着たリラックマとすみっコぐらし(神宮球場で買いました)
« 2024年7月のことば | トップページ | 2024年9月のことば »
こんばんは。いつも素敵なブログをありがとうございます。こちらのブログが楽しみで必ず目を通しています。暑い日が続いてますがいかがお過ごしでしょうか?
もう何年もかつさんのお言葉に助けられています。いつもありがとうございます。
まだまだ暑い日が続きますのでお身体に気をつけて。来月も楽しみにしております。
投稿: K | 2024年8月16日 (金) 21:29
☆Kさんへ
お久しぶりです。コメントありがとうございます。
ブログをお読みいただき感謝です。
只今ブログは不定期に投稿しています。コロナ下中は、思い立って毎日綴っていたときもありましたが、現在は月頭に掲示板の文章を載せているだけの状態です。それでも楽しみにしていただき、コメントいただき、とても嬉しいです。
コロナ下中に、ブログで長年書き貯めたテキストを整理してHPも作りました(ご存知かもしれませんが)。お時間ありましたら、そちらもご覧ください。
https://sairenji.tokyo/
厳しい暑さですね。暑いというより灼ける感じです。Kさんもお気をつけてお過ごしください。
西蓮寺副住職 白山勝久拝
投稿: かつ | 2024年8月17日 (土) 15:02