2024年5月のことば
2024年5月を迎えました。
4月29日にお勤めした「西蓮寺永代経法要」にお参りされた皆様、ありがとうございます。
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2024年5月のことば
(寺報版はこちら)
生きるということは、
自分の思い通りになることを
生きるというのではありません。
思い通りにならないということが
はっきりとわかることです。
祖父江文宏
小さい人
祖父江文宏さんは生涯をとおして子どもたちを守る活動をされました。子どもたちのことをひとりの人間として尊重し、「小さい人」と呼んでいました。
晩年は間質性肺炎を患いました。酸素吸入器を付けながら子どもたちを守り続けました。今月掲示したことばは、亡くなる2カ月ほど前、肺の85%が機能しないなか、同朋大学の新入生研修会で語られたメッセージのなかの一節です。
祖父江さんは、自身の肺呼吸の終焉を感じるなか、ひとつの気づきがあったと語られています。
自分の生きてきた証を考えたとき、はじめは「私という人間はどう生きてきたんだろうか」「私というのは何だったんだろうか」ということを思った。しかし、それは違った。自己と他とを切り離して考えていたけれど、それは間違いだった。他の人、飼っていた犬、感動を受けた花であったり、山であったり、風景であったり、そういう様々なもの、それらを大きくいのちと言うならば、私はそのいのちの関わりの中の私でしかなかったことに気付きました。私は私一人ではなかった。病状が進み、まさに死んでいこうとしているいま、私は目の前にいるあなた一人に出会うことができました。あなたに出会うことによって祖父江という人間がここに生きている証が得られました。
〔参照『悲しみに身を添わせて』祖父江文宏(東本願寺出版)〕
自分の生きて来た証を考えるとき、他と切り離した「私」を思う。そのことは、誰もが考えることではないでしょうか。けれど、人間であるということは、他と切り離された「私」などいないということです。他があるからこそ私があり、私があるからこそ他がある。他とともにある私でした。
「思い通りにならないということ」とは、自分の意のままにならないということではありません。私は、さまざまないのちの関りの中での私であるのに、いのちを自分の理知分別によって支配しようとしていました。けれど、そうではありませんでした。人間の理知分別を超えた大いなるいのちのなかの私であることがはっきりとわかること。そのことが「思い通りにならないということ」が表わしている内容です。祖父江さんは次のように語っています。
小さい頃から皆さん、「人に迷惑をかけるな」と言われてきたことでしょう。しかし、迷惑をかけない生き方はできません。一番大切なことは、人に迷惑をかけている。その自覚です。
思い通りになるのであれば迷惑をかけない生き方も出来るでしょう。けれど、私たちは迷惑をかけ合いながら生きているのです。「思い通りにならないということがはっきりとわかる」からこそ訴えられることだと思います。
「迷惑をかけたくない」という思いはウソ偽りのない気持ちでしょう。けれど、その言葉を口にするとき、「生きるということ」が見えているでしょうか、感じているでしょうか。迷惑をかけているということがはっきりとわかることが、生きているということではないでしょうか。
肺の機能が失われ、いのちの終焉を感じながら、祖父江さんは生きていかれました。
仏法と鉄砲
「生きるということ」について考えるとき、高光大船さん(1879~1951 真宗大谷派僧侶)の「仏法と鉄砲」の教えが思い出されます。高光さんが、ご門徒の家で勤められる報恩講に出かけ、その家のあんちゃんに声をかけたときのお話です。
(高光)あんちゃんも今日の報恩講に参ってくれるか。ありがとう。
(あん)おらにとって、今日は厄日や。
(高光)なんでや。
(あん)おら今日非番やで、これから映画でも見に行こうかと思っとったら、父ちゃんも母ちゃんも、今日は報恩講さまやで、参ってくれと頼むから、おら仕方なしに居るがや。おらにとって今日は厄日や。
(高光)厄日でもなんでもよい。よう参ってくれた。ところで滅多に会わんのやから、仏法について何か聞いてみんか。
(あん)おら毎朝起きて流しに顔を洗いに出てくると、父ちゃんも母ちゃんもおらの顔を見るなり、仏法聞け、仏法聞けと言う。あの仏法て何や。難しく言われても分からんし、くどくど言われても分からん。一口で仏法て何や。教えて下さんせ。
(高光)仏法は、鉄砲の反対じゃわいの。
(あん)なんや、鉄砲の反対? 鉄砲の反対って何や。
(高光)鉄砲はな、生きとる者をドスーンと殺すのが鉄砲やろが。仏法はな、「死んだ者」を生かすのが仏法や。
(あん)なんじゃ、あの棺桶に入っているのを生かすのが仏法か。
(高光)バカタレ。あれはなきがらや。あれは「死んだ者」じゃないわい。
(あん)そんなら、どんなのを「死んだ者」と言うのや。
(高光)お前さんのようなのを「死んだ者」と言うのや。
(あん)バカにするな。おらは生きとるぞ。
(高光)それは動いとるだけじゃ。生きとるんじゃない。お前さんの商売(国鉄の機関車の運転手)で言えば、機関車に石炭をパクーパクーと放り込んでやると、定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。あれは、動くのであって、生きとるのじゃないわいの。お前さんも三度三度のまんまを口の中へパクーパクーと放り込んでやると、習慣という定められたレールの上をカタコトカタコト走り出す。それは動いてるのであって生きとるんじゃないわいの。
この一言が、あんちゃんの目を覚ましました。この呼びかけのことばに出遇って自分の姿を知三らせてもらい、高光さんについて仏法聴聞の生活を送られました。
〔参照『死すべき身のめざめ』松扉哲雄(法蔵館)〕
「仏法は死んだ者を生かす」。生きているつもりが動いているに過ぎなかった。あんちゃんに限った話ではありません。果たして私は動いているだけなのか、それとも生きていると言えるのか。
南無阿弥陀仏
祖父江文宏(そぶえ・ふみひろ)
1940年 名古屋市に生まれる。
真宗大谷派僧侶
児童養護施設 暁学園施設長
1995年 NPO法人「子どもの虐待防止ネットワーク・あいち」設立、代表となる。
親の離婚・失踪・虐待など様々な理由で家族と一緒に生活できない子どもたちを守り続けた。
2002年6月1日、特発性間質性肺炎のため逝去。62歳。
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