2024年3月のことば
2024年3月を迎えました。
暖かい冬であったように思いますが、ここに来て寒さが身に沁みます。花粉症も本格化してきて、声が出せないときもあります。生きてることを実感する今日この頃です(で、今年の夏も「暑さが堪えます」なんて書くことでしょう)。
🐶 🐶 🐶
2024年3月のことば
人生においても、
不安や迷いから抜け出す手がかりは、
ものごとの明るい部分ではなく
陰の中にあるのかもしれない。
茂木綾子
デッサンをうまく描くこつは、
隔月刊の『暮しの手帖』を読んでいて、「あ、なんだかいいなぁ」と感じる茂木綾子さんの随想に出会いました。今月掲示したことばは、その随想からいただきました。下手な要約をするよりも全文をご紹介します。
ベルリンの美大を受験する下の娘が、 デッサンの描き方を教えてほしいといってきた。描いたものを見ると、モチーフの輪郭ばかりを捉えようとしている。デッサンをうまく描くコツは、光ではなく陰だ。モチーフの陰のかたちを注意深く拾いながら、ていねいに黒い線を積み重ねていく。その結果、自然と立体感が浮かび上がってくるので、光の当たる明るい部分はそのまま残しておけばいい。そう説明しながら実際に鉛筆で線を書き加えてあげる。あっという間にそれらしい絵になっていくのを見て、自分でも陰を見つけながらうれしそうに描きはじめた。人生においても、不安や迷いから抜け出す手がかりは、ものごとの明るい部分ではなく陰の中にあるのかもしれない。その後、念願かなって美大でファッションの勉強を続ける娘が、いまも辛抱強く陰を見つめて、自分らしい人生を描いてくれていたらいいなと思う。
『暮しの手帖』第26号(2023年秋号)連載 ふたつの中心 第10回 陰を描く
茂木綾子(北海道生まれ。写真家、映像作家)
陰を拾う
デッサンを描く際、輪郭をハッキリと描いてしまいがちだけれど、実際の事物や生命に、線で描かれるような輪郭などはありません。光の当たる部分と陰があって、その陰影を見て、私たちは事物や生命の姿形を認識しています。明るい方が色が鮮やかに映えるため、そちらにばかり目や意識が行ってしまいますが、姿形をよりハッキリさせているのは、実は陰のおかげなのかもしれません。
「デッサンをうまく描くコツは、光ではなく陰だ。」
このフレーズも含蓄があります。デッサンに限らず、陰のかたちを注意深く拾うということは、物事の本質に近づくことなのかもしれません。
さて、宗教において、その救いや慈悲や加護などを「光」で表現することが多々あります。「光を受けている」「光に包まれている」「光に照らされている」など。「光」に照らされてあるのならば、そこには「陰」も生じているはずです。
宗教において「陰」は、人間の内面の暗さや罪悪性として説かれることが多いように感じます。しかし、その場合、「そういう面もある」と、ほんの一面の事柄として受け止められてしまいます。あるいは、懴悔すべき面、戒めるべき面として説かれ、また、受け止められてしまいます。「光」はポジティブ「陰」はネガティブ、「光」は高貴なもの「陰」は低俗なものであるかのような説かれ方、受け止められ方をしているのではないでしょうか。果たして、「陰」とはそのようなものでしょうか。
陰は、私自身
「陰」が、私の内面の暗さや罪悪性として説かれるだけならば、ほんの一面の事柄、戒めるべき面として捉えることで止まってしまい、自身をより深く見つめるということにまで思い至りません。けれど、「陰」は私そのもの、私自身です。「陰」には、私の一面だけでなく、すべてが映し出されています。内面の暗さや罪悪性だけではなく、明るさや正しさなども「陰」に投影されています。また、私の性格や性分的なところに留まらず、私を私たらしめているすべての縁を「陰」は表しています。「陰」は、ネガティブな面でも戒めるべき面でもありません。
ことばの便宜上、暗さ・明るさ、罪悪性・正しさなどと表現しましたが、ハッキリと線引きできるものでも色分けできるものでもありません。
明るさの背景には悲しみや痛みがあります。暗さを求めるのは明るさに堪えられないしんどさがあるからかもしれません。悪事と感じられる事柄の背景には、そうせざるをえない、そうさせてしまっている、他者(ひと)の善意があります。正しさを誇るとき、その正しさに苦しめられている他者がいます。ひとつひとつの事柄の背景や根っこには、表面に見えるものとはまるで違う一面、無数の縁の結びつきがあります。
そのような「陰」に気づかせてくれるのが「光」です。親鸞聖人自身、「光」によって「陰」を知り、「陰」を見つめることをとおして「光」をより強く感得されました。そのような聖人の教えをいただいている私たちにとって、その「光」とは阿弥陀如来であり、「南無阿弥陀仏」の念仏です。
光によって見い出されるもの
「不安や迷いから抜け出す手がかり」といっても、不安や迷いを無くすための手がかりということではありません。「陰」を見つめることは私自身を知ることとなります。不安や迷いを抱えながら生きる者が私なんだと知ることとなります。
不安や迷いの真っ暗闇の中に身を置いているだけならば、「陰」は生じません。「光」があるからこそ「陰」が浮かび上がってきます。私は今、「陰」に気づき、縁に生きる私であることが見えてきました。「光」が私を照らしているから、私が「光」に照らされているから見えてくるものです。「光」と「陰」は切り離せないもの、 常に共にあるものです。阿弥陀の慈悲の「光」があるからこそ、不安や迷いも抱えている「陰」を知ることができ、「陰」を見つめることをとおして「光」に手が合わさります。
「辛抱強く陰を見つめて、自分らしい 人生を描いて」生きたい。南無阿弥陀仏
😺 😺 😺
掲示板の人形
2月中、弟が、子どもたちのために合掌している犬の人形を贈ってくれました。
かわいかったので、私も買い足し、掲示板に飾ってしまいました(子どもたちがもらったものなのに)
3月は春彼岸があります。一緒に合掌し、「南無阿弥陀仏」称えましょう。南無阿弥陀仏
それから、3月はひな祭りもありますね。お雛様も飾ってあります。2月から3月にかけてバタバタしていたので、ひな祭りのことを忘れていました。
« 真宗大谷派東京教区「定例法話配信シーズン2」はじまりました! | トップページ | 2024年4月のことば »
コメント