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2024年2月

2024年2月15日 (木)

真宗大谷派東京教区「定例法話配信シーズン2」はじまりました!

真宗大谷派東京教区では、慶讃法要事業として「定例法話配信」を行っています。

シーズン1は、2022年8月から2023年8月まで、東京教区内50名の方からご法話をいただきました。

コロナ下、人と人との集まりの場を持てない時期、ご法話の灯を絶やしてはならない!という思いで、法話配信を行うことを決めました。

練馬にあります「真宗会館」に、法話者とスタッフ数名のみが集まり、法話の収録・配信を行いました。

やがて、人の集まれる場が再開し始め、シーズン1の形式での時期は過ぎたと判断しました。

今は、各寺院・各組・教区での聞法の場が戻ってきました。

聞法の現場を大切にしつつ、配信も行えないか。

そんなことを話し合っているうちに、お寺での法話会に出かけて行って、その場での法話を収録・配信させてもらうことに辿り着きました。

2024年2月15日 「定例法話配信シーズン2」の配信が始まります!

4月1日が親鸞聖人の誕生日

4月15日が立教開宗の日であることにちなみ、

毎月1日と15日の2回、午後6時に配信スタートいたします。

ぜひご聴聞ください。

ちなみに、第2回(3月1日配信)は私(西蓮寺副住職)の法話です。

また、第3回 第4回配信の収録会場は、西蓮寺聞法会(2024年1月10日に収録しました)です。

お楽しみに👋

2024年2月 5日 (月)

2024年2月のことば

2024年2月を迎えました。
能登半島地震発生からひと月が経ちました。被災地で身をもって活動されている方々、被災地とは離れた所で日々の生活の中で出来ることを実行に移している方々いらっしゃいます。何もできない苛立ちや焦りを感じている方もいることでしょう。すべては縁であり良い悪いの話ではありません。いろいろ書いていますが、私自身が悶々としているのでしょうね。
そんな中、1月の法話の折に私は「何ができるのか、何をしたらいいのかわからない状況にあって、僧侶として法話を続けること、教えを説き続けることが今できることだと思います」旨、話しました。
1月27・28日、真宗大谷派東京教区報恩講が勤まり、小川一乗先生よりご法話をいただきました。法話中先生は「能登は真宗の篤い地域です。親鸞聖人の教えに生きられたご門徒がたくさんいらっしゃいます。私は信じています。北陸の被災された方々は必ず立ち上がると」旨、語られました。「あぁそうだなぁ、先生にはかなわないなぁ(競っているわけではないけど)」と感じ入りました。教えに生きる人びとの姿を教えていただいた気がします。先生も私も胸のなかにある思いは一緒だと思うのですが、表に出てくることばの重さの違いを感じました。自分の思いや表現の浅さを真宗会館講堂の席で感じながらの聴聞でした。南無阿弥陀仏

2月に入って体調を崩し臥せっていました。ようやく体が動くようになりました。2月の寺報アップが遅くなってしまいました。申し訳ありません。おからだお大事に👋

 🐇 🐇 🐇

2024年2月のことば

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悲しいことに
善いことをしていると思うだけで
口が大きくなってひとを吞み込んでしまう
                平野 修

同じ現実を前にして
2024年1月1日、能登をはじめ北陸の地を大きな揺れが襲いました。被災された方々のために何かできることはないかと、多くの人びとが思い巡らしています。何をしたらいいのか、何ができるのか、今はじっと待つしかないのか…正解のない問題を与えられているかのようです。
このようなもどかしい時間のなかにいると、イライラから他者(ひと)を攻める方に気持ちが行ってしまいます。

余震も続くなか、責任ある地位の方が被災地を視察すれば「あなたが動けば大勢を引き連れて行くことになる。現場に迷惑をかけるだけだ」と叱責され、視察が遅ければ「無責任だ」と叩かれる。

炊き出しに出向けば「現地の状況もわかっていないのに、まだ早すぎる」と言われ、出足が遅いと「お腹を空かせて待っている人たちがいるのに」と言われる。

交通網の危険性が報じられているなか、情報収集に時間をかけていると「実際に行かなければわからない!」と尻を叩かれ、行けば行ったで「状況もわからぬなかで行っても、自身が身動き取れなくなって現地の方々に迷惑をかけてしまう」と怒られる。

新年会を催せば「不謹慎だ」と叱られ、控えれば「被災していない者は、経済を回すことが大事だ」などと理屈を言われる。

「それじゃ、いったいどうしたらいいのさ!」などと叫び出したくもなる・・・けれど、そういえば、同じ気温の中に身を置いていても「暑い」と言う人もいれば「寒い」と言う人もいる。同じボリュームで音楽を聴いていても「うるさい」と言う人もいれば「いい音楽だ」と言う人もいる。同じ光を浴びていても「まぶしい」と言う人もいれば「あったかいね」と言う人もいる。同じ現実を前にして、人と人とはまるで違う思いを抱く。同じ行為でも、自分がなすときは善行であり許される行為、他者が行なえば偽善であり許しがたい行為となりさえする。
叫び出すまでもなく、他者を呑み込みながら生きている世界を生きる私でした。

「これから」は「これまで」という今
復興に向けた「これから」を、多くの人びとが気にかけていることに違いはない。でも、「これから」のことは誰にもわからない。だからこそ不安にもなるし、迷うし、イライラもする。やがて他者にケチをつけ、ののしり、呑み込んでしまう。向いている方向は同じでも、食い違いが生じるフシギ。
「これから」にばかり目が向くけれど、「これまで」があっての今であることを忘れてはいないだろうか。

当たり前の有り難さ
大学箱根駅伝。1月2日、往路優勝を果たした青山学院大学の原晋監督は記者会見で語りました。

「一年間、このために頑張ってきた。学生にありがとうと言いたい。昨日の能登震災で開催できるか分からないなか、多くの被災に遭われている方がいるなか、箱根駅伝ができることに感謝している。魂の込もった頑張りだった」

「これから」どうなるかわからないなか、「これまで」のことが思い返されて出てきた実感のこもった言葉でした。
「これまで」が思い返される中で見えて来る「これから」があります。

大相撲初場所が行われました。大きな被害を受けた石川県穴水町出身の遠藤関は場所前のインタビューで語りました。

「いつものように元気な相撲を取って勇気づけられれば」

「いつものように」が、とても大切なこととして響いてきました。「いつものように」という言葉が出て来るのは、今までいただいてきた縁(応援・協力・支え)を実感しての言葉ではないでしょうか。

今、私があること。その事実がどれだけ有り難いことであったか。今まで当たり前のこととしてきた事柄が、いかに私を私たらしめていたことか。一人の存在の背景に、ひとつの出来事の舞台裏に、どれだけ多くの人びと(いのち)とのつながりがあることか。

「これから」を暗中模索するなか見えてくるのは「これまで」のこと。

「これまで」が見えたときに「これから」への確かな歩みが始まります。南無阿弥陀仏
(寺報の文章、以上)

平野 修(ひらの・おさむ)
1943~1995/石川県生まれ/真宗大谷派僧侶 
今月のことばの出典は不明ですが、かつて金沢の大谷派寺院を訪ねた際、本堂に掲示されていたものをメモしてきました。
(付記)
平野修さんは、住職(父)の、大谷大学での同級生でした。52歳で還浄されました。父と先生の関係を知らなかった私は、外出中に聞いてきた先生の訃報を、帰宅して(私からすると)“情報”として父に話しました。「平野修先生が亡くなられたらしいよ」と。すると、住職はとてもショックを受けていました。友の死ですから当然のことです。学生時代、常に大きなカバンを抱え数冊の本を持ち歩き、とても実直な方であったと、住職(父)は思い出話を聞かせてくれました。
ひとりの人の死を、“情報”として聞く・受け止める・語るのと、“事実”として聞く・受け止める・語るのでは、同じ現実であっても大きな違い(隔たり)があります。その“違い”自体は、関係性や縁によって生じることですから、良い悪いの話ではありません。しかし、起きている現実を“情報”として見聞きするのか、“事実”として見聞きするのか。その姿勢で、受け止め方や生き方は変わってくると思います。
そのようなことを、現在(いま)、思い返しながら実感しています。
24歳の時に平野先生の訃報に触れた私も、いつのまにか先生のその歳になっていました。これまでの生き方を振り返り、これからを想います
南無阿弥陀仏

 🐇 🐇 🐇

掲示板の人形
ウサギの人形を並べました。掲示板を眺める女の子が「〇色の子が好き!」と指さしていました。
掲示板の人形を楽しみにしてくれる方々もいます。その反応が嬉しいです。
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