2023年11月のことば
11月を迎えました。カレンダー、1ヵ月綴りのものは残り2枚、2ヵ月綴りのものだと残り1枚になってしまいました。
11月21日~28日に本山(東本願寺)報恩講が勤まります。大谷派の寺院の多くは10月から12月頃に報恩講が勤まります。西蓮寺では、毎年11月5日に報恩講をお勤めしています。今年は4年ぶりに海法龍先生にご出講いただき、ご法話いただきます。
2023年はいろいろなことがコロナ以前に戻って来た年となりました。しかし、恐ろしいほどにコロナ下の出来事を忘れてしまってもいます。マスクや消毒薬の奪い合いをしたこと、コロナ罹患・発症者が人間ではないかのような目で見たことなど。「そういえばそんなときもあったね」なんて言われると、コロナ“禍”とは、コロナ流行の真っ只中をいうのではなく、過ぎた後の事をいうのかもしれないなぁと思いました。自分のしたことを忘れずに👋
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2023年11月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら)
報恩
一生を尽くしても返せないほど
大きな恩をいただいていることを報(し)る
報恩講(ほうおんこう)
2023年も11月を迎えました。
本山 真宗本廟(東本願寺)では、宗祖親鸞聖人の「法要」である報恩講を毎年11月21日~28日にお勤めしています。
(親鸞聖人のご命日は11月28日です)
聖人よりいただいた仏法聴聞のご縁の場として、真宗門徒は報恩講を大切にお勤めしてきました。
追善(ついぜん)と報恩(ほうおん)
仏教寺院では、先往く方の供養として法要が営まれます。「法要」「法事」とは、こんにち一般的には、「亡くなった人の冥福を祈り、僧侶に読経供養をお願いすること」を言うようです(いくつかの辞典をめくってみましたが、概ねそのようなことが書いてあります)。
現代人の意識・感覚として、「遺された者(生きている者)が、先往く方(亡き人)のために勤めること」が「法要」「法事」であるようです。
このように、遺された者が先往く方のために勤める法要を「追善の法要」と言います。法事を勤める行為を善因とするならば、その結果得られる善果を、法事を施した者ではなく先往く方に向けてもらうことを期して勤めることを「追善」と言います。先往く方のことを想い慕っての供養のようですが、生きている私本位な供養でもあります。
宗派によって教義や慣習に違いがあるので「追善の法要」に異を唱えようというのではありません。「南無阿弥陀仏」をよりどころとする、念仏の教えをいただいている人びとのあいだでも「追善の法要」が当然のこととして行われてきた歴史があるのですから(現代もかもしれませんが)。
平安の昔、念仏の教えをいただいた者の間で誓約を交わしました。誓約の内容は、いのち終えた後に浄土に往生したならば、その者は誓約を交わした仲間を浄土に引きいれると約束したものでした。
仲間の誰かがついにいのち終えんというとき、その人の死に様を見届けました。その際、亡き人が浄土へ往生できなかったと判断された場合、遺された者たちは、浄土に往生できなかった者のために追善の法要を勤めました。
「浄土へ往生できますように。そして、浄土へ往生されたならば、私がいのち終えるときには浄土へ導いてください」との願いを込めて。
このような「追善の法要」が、長きに亘り勤められてきました。さて、なにをもって浄土へ往生したか否かを判断したのでしょう?
鎌倉の時代(とき)を迎えるころ、法然上人が念仏の教えを説かれました。平安の昔から勤められてきた「追善の法要」に対し、法然上人はお弟子さんたちに遺言します。
「自分が亡くなった後、追善の法要など勤めないように。報恩としての法要、念仏が相続していくための仏事を勤めてほしい」と。
法然上人が遺言されたとはいえ、長きに亘り勤められてきた慣習・意識での法要がすぐに変わったわけではありません。法然上人に対し「浄土に往生できなかった」などと判断することはなかったでしょうから、「法然上人!どうか浄土より私を迎え入れてください!」と期する者が大勢いたのではないでしょうか。
法然上人の弟子のなかに、聖覚(せいかく)法印という方がいました。「この方こそ法然上人の教えをきちんと受け止めている方である」と、親鸞聖人が敬いの気持ちをもたれていた兄弟子です。
聖覚法印は、法然上人亡き後の六七日(むなのか)の法要の際に導師を務め、自ら書き記した「法然上人御仏事表白文」を読まれました。その表白に、
倩思教授恩徳
(つらつらきょうじゅのおんどくをおもうに)
実等弥陀悲願者
(まことにみだひがんにひとしきもの)
法然上人からいただいた恩徳は、阿弥陀如来の慈悲心に等しいものであると綴り、
粉骨可報之摧身可謝之
(ほねをこにしてこれをほうずべし、
みをくだいてこれをしゃすべし)
上人からいただいた恩徳の大きさは、「骨を粉にするほどに報じても、身をくだくほどに感謝しても、尽くしきれるものではない」と、いただいたご恩の重さ大きさ大切さを述懐されています。
恩徳讃(おんどくさん)
尊敬する兄弟子 聖覚法印が述懐された「粉骨可報之摧身可謝之」の言葉を受け、親鸞聖人は「恩徳讃」を詠まれたと伝わります。
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
「報恩の法要」を、法然上人も聖覚法印も親鸞聖人も大切にされました。
法要・法事の場では、先往く方からいただいたご恩のことを思い返しますが、法然上人は「私が教えを説いた恩を忘れるな」などと遺言したかったわけではありません。また、聖覚法印や親鸞聖人が受け止めた法然上人からいただいた恩とは、念仏の教えを私にまで届けてくださった一点です。
いただいた恩とは、阿弥陀如来からいただいている大慈悲心。つまり「南無阿弥陀仏」の念仏のことをいいます。
「報恩」を「恩に報(むく)いる」と読んだ場合、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることが、恩に報いる生き方だと思うのです。
また、「報恩」は「恩を報(し)る」とも読めます。いただいている恩を報るためには仏法聴聞が欠かせません。真宗寺院の法要の場では、法話の時間を大切にします。「報恩講」は、仏法聴聞が要です。大きなご恩、お育てをいただいてある私であることを報らせていただきます。
南無阿弥陀仏
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掲示板の人形
報恩講 真宗本廟には多くの人が集まります。その場、人びとの姿・想いに敬意を表し、親鸞聖人とその周りに集う人びとの光景を想像し、小さい人形をたくさん飾りました。
報恩講参詣が楽しみです(今年は21日しかお参りできないのですが)
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