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2023年10月

2023年10月 1日 (日)

2023年10月のことば

秋のお彼岸も、暑い日々でした。10月の声を聞き、ようやく楽な気候になってきました。
夏の疲れで、涼しくなってきて体調を壊しやすい時期です。コロナのみならずインフルエンザも流行しています。お気を付けてお過ごしください。
秋彼岸も過ぎ、報恩講シーズンに突入します。わくわくしますね。仏法聴聞の機会が多くなる時期です。仏法聴聞は、私が生まれ生きている相(すがた)をたずねることでもあります。報恩講のお誘いがあったら、ぜひご参拝ください。本山(東本願寺)の報恩講に身を置くこともお勧めです🌟

 🌝 🌝 🌝

2023年10月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら

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人間の要請に応える宗教と
人間そのものを明らかにする宗教との峻別が明瞭にならないと
宗教が曖昧になる
       廣瀬 杲

縁起の道理
「宗教」というと、無病息災・除災招福など災いを取り除き幸福を招くことを期するものと思われてはいないでしょうか。素直な気持ちだと思います。お釈迦さまの出家の動機も、生老病死するいのちへの恐れや不安を抱き、それらの執着を取り除き、世の人びとに平穏をもたらそうと考えたことでした。
ゴータマ・シッダールタ(お釈迦さまがさとりをひらく前の名前)は、身を削る厳しい修行を経て、身を削るだけの修行ではさとりには到達しないこと、苦行は誰もがなし得ることではないことをさとりました。そして、この世のすべての事柄・物事は縁によって起こると、「縁起の道理」を説かれました。いのちを賜ることも、老い、病み、死を迎えることも縁。自分で思い立ち物事をなしてきたつもり、なそうとしているつもりでも、縁のもよおしがあることを説かれました。また、「一切皆苦」とも説かれました。
宗教に触れる出発点は、除災招福や、不安を取り除くことの希求かもしれません。けれど、縁に生きるいのちにとって大切なことは本当に大切なもの、本尊との出遇いです。本尊との出遇いによって、人間そのものが、曖昧に生きている私自身が明らかになってきます。

南無阿弥陀仏
浄土真宗の本尊「南無阿弥陀仏」。
「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀」は、「無量寿」「無量光」を表します。

【無量寿(むりょうじゅ)】
はかり知れない、連綿と続くいのちのつながり。私の誕生を想ってみても、そこには無数のいのちのつながりがあります。例えるならば「縦糸」のようなもの。

【無量光(むりょうこう)】
はかり知れない広がり。私が生きる只今このとき、どれだけのいのちが共に生を尽くしていることでしょう。たとえ直接会うことはなくても、あの人が居るからこそ私がいて、私がいるからこそあの人がいる。例えるならば「横糸」のようなもの。

「無量寿」「無量光」という「縦糸」と「横糸」の交差する一点一点が私であり、あなたです。縦糸と横糸の織りなすいのちの織物の模様こそ、縁に生きている姿であると想像します。私一人の思いで何かをなせるわけではなく、かといって何もできないというわけではなくて…。我が身に起きる出来事は、私ひとりに響いていることではなく、多くの人びとと共に響いている出来事です。私が悲しい思いをしているとき、たとえ周囲にさとられないように繕っていても、私の悲しさに気づいてくれる人がいます。また、私が気づくことだってある。気づいたら、それだけでは終われない。行動に移すということはなくても(行動に移せなくても)、悲しさのなかに身を置く人の存在が、私のなかに刻み込まれます。共鳴しながら共存しています。喜怒哀楽さまざまな出来事は、他者のなかで私の存在証明となっています。そのような、いのちの織物の模様、縁に結ばれてある姿、人間そのものを、お釈迦さまは「一切皆苦」と表現されたのです。

親鸞聖人のつねのおおせ

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり        
(『歎異抄』後序より)

(試訳)阿弥陀如来が、五劫という長い時間をかけて思惟して発起してくださった、生きとし生けるものすべてを救いたいという願い。その願いに込められた阿弥陀如来のおこころをよくよく考えてみると、ひとえに私親鸞一人のためのものであったのだなぁ(試訳以上)

「五劫」とは、長い長い時間を意味します。一辺が40里(約160㎞)の立方体の岩があったとします。そこに、100年に一度、天女が舞い降りてきて羽衣で岩を撫でてゆきます。その摩擦で岩がすり減り無くなってしまっても、それでもまだ「劫」に満ちません。「五劫」とは、その五倍以上の長さということになります。
それほどの時間をかけて阿弥陀如来は思惟されて「生きとし生けるものを救う!!!」という誓願を建てられました。
数えきれないほどの罪業を背負っている人間の救済に踏み切るのにそれだけの時間を要しました、ということではありません。私は思います。阿弥陀如来は、すべての生きとし生けるものの生涯をご覧になったのだと。縦糸と横糸で編まれた織物のすべてを、「一切皆苦」を生きるいのちの姿を見届けたのだと。そのうえで重い腰を上げられたというのではなく、だからこそ救済に立ち上がられたのです。仏教において「時間の長さ」は、「慈悲の深さ」を表してもいます。

 絶望なんかできないんです
阿弥陀如来の眼には、人間そのものの姿がハッキリと映っていたのです。ということは、阿弥陀如来の誓願を説く教えの内容は、人間そのものの姿を明らかにされたものなのです。

親鸞聖人が「親鸞一人がためなりけり」と語られているのは、「大勢の中で私一人だけのことを救ってくれるんだ!」という意味ではなく、「この私自身こそ、阿弥陀如来に五劫もの間思惟させてしまった生き方をしている者なのだ」という、自覚のことばです。

人間が明らかにされるとは絶望すら覚える厳しいことなのかもしれません。けれど、「絶望」というと、廣瀬杲先生(19242011 真宗大谷派僧侶)の教えを思い出します。

「人間ね、絶望できれば楽なんですよ。でも、絶望なんかできないんです。まだ希望を持ち続けているんです」

「一切皆苦」だからといって絶望の人生というわけではありません。私たちは、生きとし生けるものを救うという、阿弥陀如来の誓願に照らし出されています。誓願という光があるからこそ、希望を持ち続けられるのです。
南無阿弥陀仏

 🍡 🍡 🍡

掲示板の人形
秋の訪れ といっても、瞬く間に寒くなっていくのでしょう
日の暮れるのも早くなりました
あれだけ暑かった夏の記憶も薄れ、冬の寒さに身を置きます
秋を感じる人形をいくつか並べました
秋の味覚が楽しみです

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