2023年9月のことば
1923年9月1日11:58 「関東大震災」発生
死者・行方不明者は推定で10万5,000人。
本日2023年9月1日「関東大震災」から100年を迎える。
科学・医療・文明等々は進化・発展を遂げても、災害を受けた際の脆弱さや人間の弱さはいつの世も変わらない。
亡き人びとがいたからこその道を私たちは現代(いま)歩んでいる。南無阿弥陀仏
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2023年9月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら)
もし、親、祖先の合わせた手がなかったならば、
どうして私の手が合わされましょうか。
正親含英(おおぎ・がんえい)
手を合わせる想い
2023年も秋彼岸を迎えるころとなりました。お彼岸には、多くの方がお墓参りにみえます。
無数の縁をいただいて人として生を受け、数えきれないほどの人と出会いました。出会いがあれば別れもあります。特に死別はつらく淋しいものです。親、祖先、子ども、友人、お世話になった方・・・先往く人のことを想いながら手を合わせられることと思います。
もし、なかったならば、
さて、私の思いはからいで物事をなしているという感覚が身に沁みついていますから、手を合わせるということも、私が先往く人のことを想うからできていることだと思いがちです。先往く人のことを想う気持ちあるからこそ手を合わせられる、と。けれど、私の手が合わさるためには、それに先立つ大きなはたらきがあるのです。
正親含英先生(1895~1969 真宗大谷派僧侶)は、このように語られています。
もし、親、祖先の合わせた手がなかったならば、どうして私の手が合わされましょうか。
先立った人の念仏がなかったならば、私どもの口からどうして念仏の声が もれ出ることがありましょうか。
『浄土真宗』(法蔵館)
手を合わせることも、「南無阿弥陀仏」と念仏の声がもれ出ることも、親、祖先、先立った人の姿があるからこそ、私へと伝わっているのです。
回向(えこう)
「回向」という言葉があります。一般的に、「私のなしたことを亡き人に差し向けること」と理解されています。
今はもういない「あなた」が、生きていたならば成し得ていたはずの善い行いを、のこされた「わたし」が代わりに行います(たとえば、僧侶に読経・法事を頼むこと、施しや寄付行為をすること、公共の場を掃除をすること…)。その善い行いによって得られる善い果を、「わたし」ではなく「あなた」へと向けてください。
このような気持ちで行う行為を「回向する」と、こんにち使われています。あらためて文字で書かれると、なんだか横柄だな、マウント取ってるみたいだな、そんな気持ちはないんだけどな・・・などと思われるのではないでしょうか。
「回向」とは、文字通り「回ってくる」ということ。この「わたし」に向かって。つまり、手を合わせることも、お念仏申すことも「回向」されたもの、たまわったものなのです。仏と成られた先往く人から。先往く人は諸仏となられ、「わたし」に手を合わせる縁を、念仏申す縁を、 教えに出会う縁を回(めぐ)り向けてくださいました。
このように言うと、「いやいや、親は、祖先は、先往く人は、それほど信心深い人ではありませんでした。宗教に関心のある人ではありませんでした。人として決して誉められた人ではありませんでした」などと不審に思われる方もいるかもしれません。
肝心な話です。生前の行いや生き方によって仏になれたりなれなかったりするわけではありません。親鸞聖人は説かれます。衆生(生きとし生けるもの)は、阿弥陀如来の慈悲のこころに摂(おさ)め取られて阿弥陀と一味となる、と。
私はイメージします。
地球上の広々とした海に、無数の波が表われ出ます。波として表われては海へと戻り、表われては海へと戻りします。生きとし生けるものも、それぞれの姿形で表れ出でて、個のいのち終えるときに大きな「いのち」へと還ります。
波には、海岸で人びとの足元をくすぐるさざ波もあれば、あらゆるいのちや建造物を飲み込む津波もあります。人もまた、人びとのこころに感動を与える生き方をする人もいれば、いのちを奪う、傷つける人もいます。さざ波も津波も「波」ならば、人を元気づける生き方をする人も殺める生き方をする人も「人」です。
(以上、私のイメージ世界です)
「わたし」が手を合わせているときに思い出している「あなた」の姿は、在りし日の姿のまま浄土で暮らしてはいませんか? でも、大切な「あなた」が在りし日の姿のままであるならば、憎い奴もまた在りし日の姿のままなのではないでしょうか。いのちは、在りし日の姿のままで浄土にいるわけではありません。大きないのち、阿弥陀へと還って一味となります。そして、「南無阿弥陀仏」となって「わたし」へと還ってきているのです。
世々生々の父母兄弟なり
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、 いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みな もって世々生々の父母兄弟なり。
(『歎異抄』第五条)
親鸞聖人は語られます。「私親鸞は、父母の供養のためというつもりで、一返たりとも念仏を称えたことは、いまだ ありません。その故は、一切の生きとし生けるものは、みなもって生まれかわり生きかわりします。そのいのちの縁からすると、いつの世にか父母兄弟の関係であったに違いないわけですから」と。
念仏を、親の、祖先の供養のために「わたし」がなすものと思っている限り、「わたし」へと続いているいのちの元をたずねるということはありません。供養をしているという、自己満足の念仏になってしまいます。「あなた」「わたし」と、いのちを別々のものとして考えていたけれど、いのちの元をたずねてみると、実はつながりをもった一味でした! 広大な海へと戻る波のように、「あなた」も「わたし」も、阿弥陀と一味のいのちです。一味である、つながっているからこそ、先往く人の合わせた手が、念仏が、私へと伝わってきています。私の手が合わさるのも、私の口から念仏の声が出るのも、先往く人を縁として阿弥陀よりたまわったものでした。南無阿弥陀仏
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掲示板の人形
ウサギの人形をいくつか。
本年2023年の「十五夜」は9月29日(金)だそうです。
その頃には暑さやわらいでいるといいですね。