2023年8月のことば
厳しい暑さが続きます。ご無事でいらっしゃいますか。
7月中、暑さは感じながらも、「これくらいなら大丈夫」と、境内の掃除をしていました。からだは動いたので、法務のないときは、掃き掃除・拭き掃除・剪定作業・枯れた墓地花の回収等々、楽しくしていました。ら、7月末、突然からだが動かなくなりました。いや、しんどかったです。からだもしんどかったけど、この8月号の寺報もできてなかったので、完成させたいでもできないの焦りがありました。
動ける!と思っても、からだに熱や疲れが蓄積されているのでしょうね。とりあえず今は落ち着いて、無事寺報もできたし、ホッとしているところですが、また同じことを繰り返しかねないので、8月はからだを労わりながら仕事をしたいと思います。
あなたもお気をつけて👋 楽しい夏にしましょう♪
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2023年8月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら)
無明(むみょう)長夜(じょうや)の燈炬(とうこ)なり
智眼(ちげん)くらしとかなしむな
親鸞聖人
無明長夜の燈炬なり
今月のことばは、親鸞聖人が書かれた「正像末和讃(しょうぞうまつわさん)」のうちのひとつ。その前半部分です。全文を紹介します。
無明長夜の燈炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海(しょうじ だいかい)の船筏(せんばつ)なり
罪障(ざいしょう)おもしとなげかざれ
親鸞聖人「正像末和讃」(試訳)
阿弥陀如来の慈悲心は、
煩悩に覆われて先の見えない暗闇を、悲しみを生きている私にとって灯(ともしび)のようなものです。
私自身に周囲を見渡す、先を見通す力がなく、私は阿弥陀に救われるに値しない者だ、如来の救済の眼中にない者だなどと悲しむことはありません。
阿弥陀如来の慈悲心は、
大海のように広く深く際限のない悩み苦しみを生きる人間にとって、船や筏(いかだ)のようなものです。
人の世の淋しさ悲しさというものに、この私自身も無関係であるとは言い切れないものです。しかし、その罪の重さを嘆くことはありません。
すべての生きとし生けるもののために灯となり、船や筏となってくださっている阿弥陀の慈悲心です。私の歩む道は、阿弥陀如来と共にあるのですから。
念仏を称えると、どうなるの?
「念仏を称えると、どうなるの?」という質問をいただくことがあります。その質問は、「称えた結果、何を得られるの?(どのような救いがあるの?)」という問いかけ、つまり、これから先のことを念仏に期待してのことでしょう。
私は思います。親鸞聖人の教えは「これから先」のことを説かれているのではなく、「今あること」を明らかにしてくださっているのだと。
法蔵菩薩(ほうぞう・ぼさつ)の物語
法然上人や親鸞聖人が大切にされた『仏説無量寿経』では、釈尊が弟子の阿難尊者に「法蔵菩薩」について語られています。
遠い遠い昔、世自在王仏という仏がおられました。世自在王仏の教えを聴聞し、喜びの心を持たれた国王がいました。そして、「私も世自在王仏のように、世の人びとを悩みや苦しみから救いたい」と誓いを起こすようになりました。国王は、国を棄(す)て、王位を捨てて、世自在王仏のもとで修行者となり、「法蔵菩薩」と名告(なの)られました。
法蔵菩薩は、五劫という永い時間をかけて思惟し、浄土を実現するための四十八の願を立てられました。そして、「私の願い立てた浄土に、すべての生きとし生けるものが往生できないのであれば、私は仏とは成らない」と誓われたのです。
阿難尊者は釈尊に尋ねます。「法蔵菩薩は、仏に成られたのでしょうか? それとも、まだ仏とは成っていないのでしょうか?」
釈尊は答えます。「もうすでに仏に成っています。いま現に、西方の安楽 浄土におられます」と。
法蔵菩薩のときに立てられた四十八の願が成就し、阿弥陀仏(如来)と成られているのです。もし法蔵菩薩の願いが成就していないのであれば、「法蔵菩薩」が「阿弥陀仏」に成るということはわかりようがありません。ということは、今私たちが手を合わせるときに向き合う御本尊阿弥陀如来も、名号・絵像・木像の形をとりようがありません。つまり、よりどころのない人生を、人は歩むしかなかったのです。けれど、今、私たちは御本尊に向かい手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と念仏申す生活をしています。今、私があるということは、法蔵菩薩の願いが成就している、今現に救われていることの証です。
「念仏を称えると、どうなるの?」という問いかけは、「助けてほしい」「救ってほしい」という願いの叫び声です。今、私が抱えている淋しさが、悲しさが、苦しさが無くなってほしい‼ 私もそう思うことはあります。親鸞聖人もそのように思うことはあったでしょう。けれど、その思いに埋め尽くされたこころが、無明長夜を作り出し、生死大海に溺れる私となっているのです。聖人は、そのことに気付いたのです。聖人は、阿弥陀如来の慈悲心が、悩み苦しみを無くしてくれるとは言いません。灯によって明るくなっても、暗闇のなかにいる事実に変わりありません。船筏に乗っていても、迷いの大海はそのままです。というより、大海があるからこそ船筏は浮かびます(悩み苦しみ、淋しさ悲しさの自覚があるからこそ、阿弥陀の慈悲心がハッキリします)。
私が「今あること」が明らかになったとき、阿弥陀と共にある私がハッキリします。聖人の「かなしむな」「なげかざれ」の呼びかけは、「しなくていい」と言っているのではなく、かなしむ私、なげく私と共に阿弥陀があることを教え伝えています。聖人がそのように呼びかけることができたのは、聖人自身がかなしみ、なげいた経験があり、その経験を通して念仏に出遇ったからです。
「南無阿弥陀仏」と手が合わさるときに感じる温もりは、独りではないことの証です。南無阿弥陀仏
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