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2023年5月29日 (月)

何が、いつが変わり目だったのだろう

かつて聴聞した内容を確認するため、20年ほど前の聞法ノートを読み返している。
ノートと記憶との間に違いがあることがわかった。記憶は、自分の中で、良く言えば熟成されていくけれど、悪く言えば自分勝手な内容にすり替わっている。今回は後者だった。確認してよかった。
20年ほど前のノートを読み返していると、法話の先生方に「阿弥陀を信じているこころ」「阿弥陀と対話している姿」があることが伝わってくる。現代は阿弥陀を信じるか否か、阿弥陀はいるか否か、念仏称えてどうなるのかということが問題となり、それら問題に対応・対処していく内容が法話となっている。現代的理知に応えられるものが良くて、応えられない(応えてくれない)ものはダメと烙印を押される。先生の評価も、そういうところで見られてしまう。
ところが、20年ほど前のノートを読み返していると、法話者は阿弥陀をよりどころとしている。足元がしっかりしている。(なんだか誤解を受けそうな書き方になっている。信じているから真の先生で、足元がしっかりしていないのはまだまだな先生と言っているのではない)
語る方も聞く方も、“すでにして阿弥陀とある私”が根っこにあるように感じる。これから信心を得るために聞法するのが現代ならば、以前は聞法の場にいるということが既に(信心を得ているとは言わないけれど)阿弥陀におさめとられているという感覚・感得があったのではないだろうか。
ノートをめくっていて、そのノートを書いていた場の雰囲気を思い出し、上記のようなことを思い出した。
空気が変わったのかもしれない。

(追記)
ノートを読み進めていたら、和田稠先生のことばが目に留まった(下記引用文)。
20年前と現代(いま)との違いを上に書いたけれど、既に20年前の時点で、和田先生には(恐らく多くの先生方には)真宗を真宗でなくしてしまっている倫理観・現代社会の価値観といったものが気になっていたことが表現されている。つまり、そのような状況のまま(もしかしたら、より悪化して)、こんにちを迎えている。

真宗の教えが、信心沙汰していたのが、いつの間にか是非・善悪の倫理の問題にすりかわっている。言葉の解釈、倫理的整合性の有無で真宗を見るから、真宗に出遇えない。真宗に学ぶのではなく、真宗を時代に合わせようとしている。真宗門徒が真宗を明らかにするのではない。真宗から真宗門徒が問われるはずだ。

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