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2023年5月

2023年5月31日 (水)

インプット アウトプット

今年の元日から、毎日ブログを書いている。以前は教えに則したこと関連したことを書かねばと思っていたけれど、そのために筆が止まってしまったのが昨年。なので、自分の日常や所感を、「文字数400字程度 費やす時間10分ほど」というルール(必ずしもルールの限りではない)で綴ってみようと思った。
とりあえず5月まで書いてきたけれど、最近また書き方を忘れてしまった。どうしてだろう?と思い返してみるに、インプットの量が減ったからだと思った。昨年暮れから4月頃まで、意識して本を読んでいた。本を読むことは得意ではないので、長い小説ではなくエッセイ集を好んで読んだ。それでも、脳が、書こうと思う気持ちが奮い立つのか、苦労なく文章を書いていた。で、最近。書けないなぁと思っていたけど、本も読んでいなかった。インプットがないと、アウトプットもなくなるんだなぁということを実感している。
また手元にある本を読んでみたけれど、あ、やはり脳が刺激されている(気がする)。アウトプットするためには、インプットが大事なんだなぁ。

2023年5月30日 (火)

どうだったっけ?

准坊守(妻)が研修会に出かけたため、私が塾に出かける娘の夕飯を用意した。
娘が早めの食事をしている間に、妻帰宅。娘と妻と私と、3人で会話をし、塾に行く時間になったので娘を送る。
私はいったん帰って、それから食事。そして、娘を迎えに行く時間になったので、また出かける。
塾のお勉強も終わり、出て来た娘と合流して帰宅。
帰宅途中、ふと思い、娘に尋ねる。
「ママが帰ってきてから会ったっけ?」
「うん 会ってお話ししたよ」
と言われて、その光景を思い出す。
あぁ、そうだ そうだ、しっかり会話をしたではないか!
なんか、最近こんなど忘れが増えている気がする。

2023年5月29日 (月)

何が、いつが変わり目だったのだろう

かつて聴聞した内容を確認するため、20年ほど前の聞法ノートを読み返している。
ノートと記憶との間に違いがあることがわかった。記憶は、自分の中で、良く言えば熟成されていくけれど、悪く言えば自分勝手な内容にすり替わっている。今回は後者だった。確認してよかった。
20年ほど前のノートを読み返していると、法話の先生方に「阿弥陀を信じているこころ」「阿弥陀と対話している姿」があることが伝わってくる。現代は阿弥陀を信じるか否か、阿弥陀はいるか否か、念仏称えてどうなるのかということが問題となり、それら問題に対応・対処していく内容が法話となっている。現代的理知に応えられるものが良くて、応えられない(応えてくれない)ものはダメと烙印を押される。先生の評価も、そういうところで見られてしまう。
ところが、20年ほど前のノートを読み返していると、法話者は阿弥陀をよりどころとしている。足元がしっかりしている。(なんだか誤解を受けそうな書き方になっている。信じているから真の先生で、足元がしっかりしていないのはまだまだな先生と言っているのではない)
語る方も聞く方も、“すでにして阿弥陀とある私”が根っこにあるように感じる。これから信心を得るために聞法するのが現代ならば、以前は聞法の場にいるということが既に(信心を得ているとは言わないけれど)阿弥陀におさめとられているという感覚・感得があったのではないだろうか。
ノートをめくっていて、そのノートを書いていた場の雰囲気を思い出し、上記のようなことを思い出した。
空気が変わったのかもしれない。

(追記)
ノートを読み進めていたら、和田稠先生のことばが目に留まった(下記引用文)。
20年前と現代(いま)との違いを上に書いたけれど、既に20年前の時点で、和田先生には(恐らく多くの先生方には)真宗を真宗でなくしてしまっている倫理観・現代社会の価値観といったものが気になっていたことが表現されている。つまり、そのような状況のまま(もしかしたら、より悪化して)、こんにちを迎えている。

真宗の教えが、信心沙汰していたのが、いつの間にか是非・善悪の倫理の問題にすりかわっている。言葉の解釈、倫理的整合性の有無で真宗を見るから、真宗に出遇えない。真宗に学ぶのではなく、真宗を時代に合わせようとしている。真宗門徒が真宗を明らかにするのではない。真宗から真宗門徒が問われるはずだ。

2023年5月28日 (日)

AI生成記事が危惧されているけれど、結局は人間の問題なんだな

プロ野球の記事をよく読むせいか、プロ野球ネタの記事がピックアップされてくる。5月半ばくらいまではジャイアンツの、というか原監督の選手起用や采配に関する非難・批判が目立っていた(というか、非難・批判されるような事例があって記事を書いているのではなくて、原批判先にありきの記事)。
5月も終わろうとするこの時期。燕が失速すると、高津監督批判の記事が散見されるようになってきた。リーグ2連覇して、名監督だ! 名将だ! 野村監督の後継だ! なんて持ち上げていたのに。かたや原監督は、ジャイアンツが若手とベテランのかみ合わせがよくなってきて勝ちが目立ち始めてきたら、今までのような記事は減って来た(書いても賛同を得なくなったのだろう)。そういえば、一時期貯金を10積み上げてセ・リーグ首位に立っていたベイスターズの三浦監督の批判記事も増えてきた。
勝ったら持ち上げられて負けたらこき下ろされては勝負の世界で仕方のないことだけれど、執筆者の好き嫌い(あるいは、読んでもらうために書いている批判)で物を書かれたら、たまったものではないと思う。
そんな世界で役目を果たしている人に頭が下がる想いです(-人-)

2023年5月27日 (土)

負けが込んでも、否、勝てないときだからこその応援

2023年5月27日(土)カープとの試合に敗れたスワローズは、5月にして早くも自力優勝の可能性が消えてしまったとのこと。
昨年の手堅い試合運びがまったく見られず、投打の噛み合わなさが如実に表れている。負けるつもりで試合に出ている選手などいないのだから、成績が振るわないのは仕方のないことだけれど、体調不良を訴える選手が多いのは気がかり。
WBCに出場した選手も、疲労を引きづっている方が多い印象。大舞台に立つと、その反動も来るもの。そういう意味では、大谷選手や吉田選手はすごいなぁ。
これから暑さも厳しくなってくるし、より気を付けてプレーしてください。
近々神宮球場に応援に行きます。妻曰く、「あなたが神宮球場に行ったときのスワローズの勝率低いから、行かない方がいいんじゃない?」なのですが。

2023年5月26日 (金)

今日のティータイム

朝5時に起きて出かけて、ミッションコンプリート。8時半頃、地元に戻ってきて喫茶店でモーニング。
店内は空いていて、端っこの席へ。ホッと一息、ゆっくり朝食をいただこうとしたとき、ご夫婦が入店。全体的に席が空いているなか、私の隣のテーブルへ。しかも、なんだか私睨まれている。おそらく、この夫婦にとってのお決まりの席だったのかもしれない。
旦那は席の事は気にしていないのか、お連れ合いにいろいろとしゃべりかけている。けれど、お連れ合いは返事もしないし、わざわざ私に背を向ける形で座っている。もっとも、私の気のせいかもしれないのだけれど、なんだか気まずい空気の中でのモーニング。私が他の席に移動すればよかったのかな。
とはいえ、美味しいモーニングをいただいてきました。ごちそうさまでした。
帰ったらゆっくりできるかなと思っていたら、メチャクチャ忙しかった。
今日はこんな日。

2023年5月25日 (木)

単に語る友だちがいないという話なのかもしれないけれど

最近、テレビ番組でタレントさんが暴露話をするのが流行っているのだろうか。「〇〇先輩にいじめられた」「後輩の〇〇は挨拶をしない」等々を書いたコタツ記事をよく目にする(ということは、私がそういう類の記事を読んでいるということの表れなのだろう。そんなつもりはないので、ちょっと凹む)。
テレビで暴露するほかに、自身のSNSに書かれる方もいるようで、今までは自分の中に閉じ込めていたものをオープンにする世の中になったんだなぁと感じる。
その良し悪しを書こうとしているのではない。
このオープンな風潮に乗って、“私”も暴露話を表現した場合のことを考えた。“私”に同調してくれる人、同様に悲しんでくれる人はいるだろう。けれど、物事って関わった人間の数だけ事実がある。嘘を言っているわけではなくその人なりの事実を語っても、それぞれが語る事実がぴったりと重なることはない。
テレビやSNSで暴露話をできるような人は、どちらかというと多くの人びとに信じてもらえる賛同してもらえる人であり、暴露される側の人は、たいてい「あの人ならやりかねないよねぁ」などと受け入れられてしまう(その人の何を知っているわけでもないのに)。
物事には二面性多面性があり、本当の面と嘘の面があって…というわけではないから難しい。“私”の事実も、誰かにとっては信じられるもの、誰かにとっては信じられないもの。誰かにとっては事実、誰かにとっては嘘。
自分の中に閉じ込めておくよりも表出した方が良い事柄はたくさんあるけれど、暴露話のように語られる事柄は聞き流した方が精神衛生上良いような気がする。
そんな話を流布するつもりはないので、私は暴露話はしない。そんなネタもないけれど。

2023年5月24日 (水)

今日、寒かった

昨日の雨天が一転して快晴の今日。
寺の前を道行く人の格好も清々しい。
半袖の人も、シャツ一枚の人も目立つ。
ところが、私の体温が上がらない。
朝食を摂っても上がらない。
なんだかひんやりとする。
午後は研修会のため外出。
ワイシャツを着るも、やっぱり寒い。
春物の薄いセーターを着て、出かけようと思うも、まだ寒い。
夏用のジャケットを羽織って、とりあえずこれでいいか、と出かけた。
電車に乗ると、夏の格好の人とまだ寒さを引きづっている格好の人と、二分されているように見えた。
半袖の人を見ると、自分の格好が暑苦しくも見えるし、
重ね着している人の格好を見ると安心した。
出先で昼食を摂って、なんとなく体温が落ち着いてきた。
とりあえず、着ているものはそのままに会場へ。
会場でジャケットとセーターを脱いで、で、間衣(かんえ:お坊さんの黒い衣)を着てちょうどよかった(^∀^)
着るものに困る時期
気温の上下、天候の変化が激しい時期
お気をつけて👋

2023年5月23日 (火)

初事(しょじ)

以前読んだことがある小説を再読。
「え、こういうストーリーだったっけ? こんな登場人物いたっけ?」と思いながら読み返す。
人の、いえ自分の記憶は、なんていい加減なものだろう。
ご法話がアーカイブで残り、いつでも聴聞できる時代。
何度か聞き返すご法話があるのだけれど、それもまた聞くたびに感じるところが違う。
「え、そういうお話ししてたっけ?」
「あれ、ここのところ、前は感動したけど、今回はそれほどではないなぁ」
「こんな心動かすお話しをされてたのに、どうして覚えてないんだろう」
前は、何を聞いていたのだろう…。
自分でもビックリするけれど、いいかげんに聞いていたわけではなく、聞く時の心情・状況・体力などによって、聞き方聞こえ方は変わってくるもの。
ここが響いて来るってことは、今自分の置かれている状況が、精神状態がそういうことに響くような状態だということだろう。
何度聞いても、初の事。
お念仏も何度称えても、そのひとたび一度が初の事。
いつも初めての事。

2023年5月22日 (月)

言葉が泣いている

昨日、ことば遣いの美しさ(生き方の丁寧さ)の思いを書いた。
昨晩寝る前に『暮しの手帖』(2023年 4-5月号)を読んでいたら、ライターである武田砂鉄さんの連載「今日拾った言葉たち」に、次の言葉が紹介されていた。

言葉が泣いているっていう気がします
本当はもっとケアしてもらいたいのに
(大西寿男 校正者 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」(2023.1.13放送)より)

武田砂鉄さんは綴る

雑誌や書籍などに記された文字をチェックする校正者。世の中に溢れている言葉は、この人たちのおかげで乱れずに済んでいる。様々な辞書や資料にあたり、時には文章に対して改善策を提示する。決して派手ではないが、言葉の在り方を守り抜く仕事である。多くの作家が信頼を寄せる校正者が、今は言葉が泣いている、と言った。正確性に欠ける、勢い任せの言葉が無責任に飛び交っているという。言葉が、消耗品のように痛めつけられているのではないか。

文章や言葉の乱れは日々感じている。コタツ記事や憶測記事や根拠のない発言や妄想の域を出ない主張、端から相手を傷つけることを目的として書かれた文章、そのような文章は、必然言葉も乱れて来るし、美しくない。
私も、文章で表現することが多い。常に乱れることなくことばを使っているか、美しいことば遣いかというと、それもまた怪しい。気を付けなければという思いもある。けれど、ことばが乱れているときは、必ず生活が乱れている、こころがトゲトゲしている。その生活を、生き方を見直さなければ。つまり、自分自身を見つめ直すことが肝要。
言葉が泣いている。泣いている言葉をつかうときは、その発信者・発言者自身が泣いているときだろうから。

2023年5月21日 (日)

ことばに、丁寧に生きている姿が表われる

5月21日(日)他寺永代経法要に出講
お寺の総代さんの挨拶を聞かせていただくなかで、慶讃法要を機にお座敷の机をローテーブルから椅子に座るタイプのハイテーブルに変えたことの報告があった。「お座敷のテーブルを整えましたので・・・」と仰ったとき、「整えました」の響きが美しいなと思った。
また、あたらしい役員さんの紹介もあり、その方が「お寺のお役目のお話しをいただき、喜んでお受けいたしました。よろしくお願いいたします。」と挨拶されていた。「喜んで」の響きがまた有り難い響きだなと感じた。聞いていて嬉しくなった。
「整えました」「喜んで」…お話しを聞いているなか、フッと響いて来る、こころに沁み込んでくる ことば があることを久しぶりに実感。しかもおふたり続けて。このことば遣いが美しいのではなくて、このようなことばが自然に出て来る生き方が美しい(丁寧)のだと感じた。
ご法話に出かけた身であるけれど、ことばの大切さをいただいて帰ってきました。嬉しい。
南無阿弥陀仏

2023年5月20日 (土)

運動会

娘の通う中学校の運動会
ご法事の合間に見学に駆けつける。
生徒たちが仲良く元気よく、学年を超えてグループを形成しているので、全体が一体となった感じがする。
最期のダンスを見終えて、感動👏
中学校の運動会って、こんなだったっけ?と思い返す。
そっか、自分のときは、学校以外の競技場を会場としていたから、保護者の見学が少なかったのか。
400mグランドある競技場だったから、全体競技よりも個人種目が主だった競技だったのか。
それは雰囲気も違うなぁ。
楽しい運動会でした
ありがとう(^-^)

2023年5月19日 (金)

一味の味わい

おとといの聞法会にて
今月の寺報に、親鸞聖人の和讃をふたつ紹介しています。

名号不思議海水
 逆法(ぎゃくほう)の死骸(しがい)もとどまらず
 衆(しゅあく)の万川(ばんせん)帰しぬれば
 功徳のうしおに一味なり

十方無碍光(じんじっぽうむげこう)の
 大悲大願海水
 煩悩衆流(しゅりゅう)帰しぬれば
 智慧のうしおに一味なり

ふたつの和讃の主意を汲み取ると、このような意味になります。
「どんなに濁った川であっても、海に流れ出れば、清浄なる海とひとつとなります。同様に、阿弥陀如来を信じず、教えを謗(そし)り、煩悩で濁りきっている私であっても、衆生(すべての生きとし生けるもの)を救いたいと願う、海のように広く深い阿弥陀如来の慈悲のこころに摂(おさ)め取られ、阿弥陀と一味となります。」

“阿弥陀と一味である私”が表現されています。
今月の「言の葉カード(仏教の教えについて)」(真宗会館発行)に「真理の一言は悪業を転じて善業となす(親鸞聖人『教行信証』)」とあり、その解説文でも“一味”について書かれていました。

煩悩や罪に悩まされる人間の救いについて、それぞれ味を異にする川の水が本願の海に入ると一味海水に転じる、あるいは煩悩の氷が解けて功徳の水となるという本願の不思議な力について述べられたお言葉です。

お念仏申して阿弥陀と一味となるのではなく、既に阿弥陀と一味である(共にある)という親鸞聖人の気づきであると思います。
わたしも、あなたも、あみだと一味です。
南無阿弥陀仏

2023年5月18日 (木)

人生を終えるにあたって最期の一言は何だろう

昨日の聞法会は、『真宗の生活』(東本願寺出版発行)を拝読。
12個の文章が掲載されているので、5月だから5番目の文章「人生を終えるにあたって最期の一言は何だろう」(二階堂行壽氏)の教えを元にお話しをしました。

きっと亡き方は、最期に「南無阿弥陀仏」という言葉とともに、いのちを終えていかれたに違いないと、私たち浄土真宗にご縁をいただいた者は考えてきたと思うのです。

亡き方の最期の一言が、実際に「南無阿弥陀仏」であったか否かという話でありません。
思いはかってばかりいる私が、思いはからいを超えたいのちを生きている事実に出会う。それが「南無阿弥陀仏」。「南無阿弥陀仏」と共に生きるということは、仏法聴聞の生活を送るということ。亡き方は、仏法聴聞の人生、「いのちの事実」を感得しながら生きて往かれました。そのような生活(人生活動)を送られた方の、最期の一言が「南無阿弥陀仏」というお念仏で表現されるものであると思います。

2023年5月17日 (水)

帰敬式

2023年5月17日(水)西蓮寺聞法会
聞法会に先立ち、聞法会に長く通われている方の帰敬式を執行しました。
「いつか帰敬式を」と思い続けておられたとのこと。聞法会も2020~2022は休会していたため、やっと思いが成就されました。
ひとり一人の思いを知ると、3年間聞法会を休会していたということは、とても大変な遠回りをしていたことに気付く。
おめでとうございます。これからも一緒に聴聞して参りましょう。
南無阿弥陀仏

(帰敬式法座)
東京教区では、昨年から今年にかけて「帰敬式法座」(全4回)を実施し、今泉温資先生よりご法話をいただきました。
アーカイブで聴聞できます。ぜひご聴聞ください。
すでに受式された方は、帰敬式を受式することの意味をあらためて受け止めていただけると思います。
まだ受式されていない方、“帰敬式”って何?と思われた方もぜひご聴聞ください。今泉先生自身、親鸞聖人の教えとの出遇いを喜ばれている先生です。教えに出会う、お念仏に出会うことの意味を確かめられることと思います。

2023年5月16日 (火)

無事の背景

お寺の横を通る高速道路の集中工事が続いている。
音も振動もあり、明るく照らされているのだけれど、夜間も雨中も工事に努めてくださっていることを思うと頭が下がります。
不備による事故があると、整備・点検をしていなからだ!などと非難されるけれど、事故なく道路を走行できる状況を誉められることはない。
何事かあったとき、鬼の首を取ったように騒ぎ立てるけれど、
何事もないとき、誰も誉めない 気づかない 何も言わない 感じない。
何事もないように努めてくださっている方々が、その人たちが流している汗水が、その人たちを支える家族や仲間がいるということを、忘れてはいけない。
けれど、逆に考えると、誰も何も言わない、感じない状況というのは、何事もない状況(事故のない状況)であるということ。
そう考えると、何も言わない感じない状況が続くということは、実はとても安全・平和・平穏な状況にいるということ。
何事かあったときに、人を傷つけるかのごとく叩く方向ではなく、何事もないように努めている人がいたおかげなんだという気付きに体温を感じる。

2023年5月15日 (月)

インドを想う

昨日、法務を終え、テレビを付けると、お笑いコンビ「笑い飯」の哲夫さんがインドを訪ねているシーンが映りました。
仏教に造詣の深い哲夫さんですから、インドは何度も訪ねていらっしゃるのかと思ったら、初訪問とのこと。感動されている様子が伝わってきました。
番組では、シッダールタ(後のブッダ)が成道の地(悟りの境地に達した)ブッダガヤと近くのスジャータ村、布教の地 霊鷲山のあるラジギールの映像が流れていた。
懐かしいのだけれど、私が訪ねたときとだいぶ雰囲気が変わっていました。
ブッダガヤのマハーボディ寺院内にある釈尊座像はきらびやかな像になっていて、柵も立てられ、少し離れたところから眺めるようになっていました。私が1回目に訪ねたときは銅像だったかと。像の前に柵もなく、像の直ぐ前で拝むことができました。2回目に訪ねたときは、釈尊座像の後ろに電飾が後光のようにピカピカ光っていました。
そのときガイドさんに聞いた話では、仏教の四大聖地(八大聖地)と言われるところを、日本のブッディス(というか観光客)が訪ねてくるようになり、観光資源として整備を始めたのだそうです。日本人の感覚だと、古いものは手を加えずに古いまま朽ちるまま、ありのままの姿で遺そうと努めますが、アジアの方々(という言い方も広いですが)は、手を加えて遺そうとするそうです。そのため、釈尊像は煌びやかになっていくし、形を変えていってしまいます。そういえば、カンボジアのアンコールワットを訪ねたときも、石のズレたところを色の違うセメントで補修してあったり、銃撃によって凹んだところをセメントで埋めてあったりしました。
また、ラジギールの映像では、一人乗りのリフトが映っていました。はじめ、「ここはどこだろう?」と思いましたが、釈尊が説法をされた座が映り、霊鷲山であることがわかりました。「え、あんなリフトなかったはず💦」と思いました。このリフトも、観光客用に整備(建設)されたのでしょうか(もし、私が行った当時からあったのでしたら、私が気づかなかっただけです。すみません)。
長旅も疲れるようになり、もうインドに行くこともないだろうと思っていましたが、番組を見ていて懐かしく感じました。また行きたいなぁと、ちょっと思いました。
南無阿弥陀仏

2023年5月14日 (日)

知らない土地

中学校の修学旅行が迫っている。班別行動のルート作成に苦戦している。自分の住んでいる地域以外の交通や土地勘・距離感なんて持っていなくて当然だから、なかなか難しいよね。
娘の修学旅行先は京都だけれど、私は京都の地理や距離感が頭に入っているので、なまじアドバイスをしてしまうと、まったく参考にならなかったりするので極力黙っている。昨今の京都のバス事情を知っていると「それくらいなら歩いた方が早いよ」なんて言ってしまいそうで。それは、ルートを分かっていることと、歩くのが苦にならない人のお話。学生時代、京都駅↔北大路駅間を歩いたり、京都市内を自転車でグルグル回ったりしていたのが懐かしい。
土地勘のないところでは、私も、大阪のお寺で法話を頼まれたときにワンメーターで行けちゃうところでタクシーを頼ったり、長野で法話を頼まれたときは、なまじ時間があったものだから駅の周りをウロウロしていたら駅に戻れなくなったりなんてことがあった。
今は、修学旅行の班別行動なんて当たり前だから、子どもたちは知らない土地で頑張ってるなぁと尊敬してしまう。そういうのに長けてる子もいて惚れ惚れとしてしまう。
そういえば、京都で、迷子になった修学旅行生に遭遇したことがある。あるバス停で「〇〇へ行きたいんですけど」と声をかけられた際、横に居たご婦人が、「あ、そこなら一緒に行ってあげるわ。私暇だから連れて行ってあげる。」といって、修学旅行生たちとそのルートのバス停の方へ向かった。ご婦人の楽しそうな顔と、修学旅行生たちの安心した顔が忘れられない。
全国の修学旅行生の皆さん、安全で楽しい旅行・班別行動になりますように。良い思い出になりますように(私の中で修学旅行は中高共に黒歴史なので。それも今にして思えば楽しい思い出か)。

2023年5月13日 (土)

ことばは、語る者をとおして伝わっていく

今月の寺報(お寺の新聞)をお渡しした方が、「今月のことばは読み人知らずですが、永く親しまれてきた、大切にされてきたことばですねぇ」と、しみじみとお話しくださいました。

今月の寺報(掲示板のことば)は、

 亡き人を案ずる私が 亡き人から案ぜられている

私のメモ帳にも、初期の頃に書いてある。私自身、こころに触れたことばだったのだろう。
先月、来月(2023年5月)の掲示板にどのようなことばを掲げようかなぁと考えているとき、慶讃法要の法話配信を聴聞した。その際、ご講師がこのことばについて語られていた。ご門徒の感話に応答して。法話配信を見ながら、大切なことだなぁとあらためて感じた。
掲示することばは、短い文言である。その短いことばからひとり一人が受け止め考えることが大切である。けれど、ことばの意味や味わいを、掲示した者が表現することも大切な勤めであると思う。
そういう意味で、慶讃法要法話のご講師が(ことばを掲示したわけではないけれど)「亡き人を案ずる私が 亡き人から案ぜられている」の味わいを語られている姿を見て、お話を聞いて、慶讃法要の法話の時間がとても大切なものとして参拝者・聴聞者・視聴者に届いたに違いない!とこころ揺さぶられました。
アーカイブが残ってないのが残念です。

2023年5月12日 (金)

老いを生きる

BGMを聞きながらの作業、テレビがついているなかでの会話、喫茶店や居酒屋など他の人たちの声が聞こえる中での会話などが苦手になってきた。夜中の事務作業の精度も事務量も落ちてきた。もちろん老眼はすすんでいる。50歳を過ぎて、心身共に変化が顕著になってきた。
そんな話を妻にしたら、「そうね、年、とったよね。短気になったわけではないけど、今までの丸さが少し無くなってきたものね」と言われた。
自分でも思い当たるところがあったので、つまり本当のことだったのでよりショックだった。
なんてやりとりがあった後、仕事で出かけた。
今日は、定例法話配信の収録立ち合い。3人の僧侶にご法話をいただきました。ライブで聴聞させていただける役得。収録の説明をする際、自分の姿もモニターに映る。見るともなく、自分の姿が目に入る。「誰、このおっさん⁉」と思った。自分なのはわかっている。ひどい疲れた顔をしている。そりゃぁ、妻から「年、とったよね」と言われるはずだ。
着実に丁寧に堅実に生きているということを学んだ一日。南無阿弥陀仏

2023年5月11日 (木)

ご無事を念じています

2023年5月11日AM4:16頃 千葉県県南部で震度5強の地震。東京23区も震度3を記録。
就寝中だったけれど、家族全員目を覚ます。とりあえずテレビをつけるも、すぐに就寝。
大きな被害は報道されていないけれど、被災・被害のないことを願うばかりです。とはいえ、今日は日本各地で地震が観測された。
気温の変化もあり、ここ数日、気温は高いのに体が冷えている。
朝方目を覚ましたことと体温の低下で、今日は(ここ数日は)、なんかしっくりこない。
いつもと同じ作業・仕事・お勤めをしていても、はかどらない・気持ちが入らない・声が出ない。
まぁ、こんな日もあるかな。ということで、寝ます。おやすみなさい👋

2023年5月10日 (水)

憧れの人

2023年5月10日 のっぽさん(高見のっぽさん)の逝去が発表された。
昨年9月10日に心不全で亡くなられた。のっぽさんの「周囲を騒がせたくないので、私の死んだあと、しばらくは伏せておいて欲しい」という希望を汲んで発表せず、89歳の誕生日にあたる今日、公表に至ったとのこと。

私にとっての憧れの人でした。
図画工作のすきな少年にとって、テレビで見るのっぽさんとゴン太君は最高のコンビ。「できるかな」を見ては同じものを作り、のっぽさんのセロテープの使い方が好きで、ゴン太君の口の動きに笑った。
「できるかな」終了後も、NHK(教育テレビ)の番組出演者にダンスなどを指導されている姿をテレビで見て、子ども心に「のっぽさんは影で活躍してるんだ」と嬉しかった。
「みんなのうた」の「グラスホッパー物語」は、おしゃべりしないキャラだった のっぽさんが活き活きと踊り歌いしている姿に驚いたし、楽しくもあった。
学生時代、学園祭にも来てくれた。けれど、当時学園祭実行委員会事務局長を務めていた私は、主に警備係からの情報収集・指示出しのために委員会BOX(部屋)に詰めておらねばならず、のっぽさんにお会いすることは叶わなかった。でも、「今、大学に来てくれているんだ♪」と思うだけで満足だった。
「僕は風のようにいなくなるからね」が口癖だったとのこと。ほんと、風のように気付かぬうちにいなくなってしまった。でも、風は、私が気に留めていないだけで、吹いているもの。風のようにいなくなり、風のように私の周りで吹いている。いなくはなるけど、なくなるわけではない。
のっぽさん、ありがとう(^-^)

2023年5月 9日 (火)

人間だもの

プロの坊さんとして葬儀の場で涙を流すことはしてはいけない!しないでおこう!と決意しているのだけれど、50歳を超えたあたりから 決意が守られないことが増えてきた。年を重ねて涙もろくなった…という程度の話ではなくて。
寺に戻って30年。30年もお付き合いしている人が亡くなると、やはり淋しい。
子どもの頃からお世話になっている門徒さんもいるわけで、その方々とは50年前後のお付き合いになる。もう親戚・家族のような存在だ。門徒さんを分け隔てしているわけは当然ないけれど、先往く方のお姿を見て自然とポロポロ零れてくることがある。
葬儀社さんが「ご住職、祭壇の御仕度はこれでよろしいですか?」と声をかけてきたときに、私がポロポロしているものだから、葬儀社さんにビックリされたことがある。
うん、プロだって泣いていいじゃないか!と、最近では言い訳している。人間だもの。読経中は絶対泣かないけれど(あ、泣いたことあった💦)。
南無阿弥陀仏

2023年5月 8日 (月)

生きる

 生きる         可瑚真弓

この指の先から見えない力が染み出ている

字を書くとき
絵を描くとき
電話の数字をたどって押すとき
心が
細い透明なテグスのように
心の外へ力を染み出す

だから

字を書き
絵を描き
電話はつながり
わたしがここにいることを
わたしはもう一度知るのだし
わたしがここにいることが
そうしてだれかに伝わっていく

だから

あしただって生きていく
あさってだって生きてみる

見えない力が染み出る先に
しあさってがあり
またいく日もがあり
指の先から力に染まった
日めくりが
また新しい日を開いていくから

だからいっしょに
生きていってみようじゃないか
もう一つ日を訪ねてみないか

 📖 📖 📖

小学校、音読の宿題。
担任の先生が毎週違う文章を用意してくださっている。
「生きる」いい詩だなぁと思いながら、子どもの音読を聞く。

「心が/細い透明なテグスのように/心の外へ力を染み出す」
心が、心の外へ染み出て来る。
お寺の新聞やブログのタイトルを「ことば こころのはな」にしたのも、「こころが染み出してことばとなって表現されている。ことばは、その人のこころが表出したもの」といった想いがあったから。
子どもの音読もまた、「こころ」が「ことば」という音となって表われ出たもの。
やっぱり、もう一つ日を訪ねてみたくなる

2023年5月 7日 (日)

空き缶

資源ごみの分別をしているとき、ふと思い出すことがある。
小学校低学年時、習い事で会話を交わすようになった子(他の小学校)がいた。
「樸、工作が好きなんだ。今、アルミ缶を使っていろいろ作ってるんだ」とその子は言った。
「え、僕も工作好きなんだ。アルミ缶使うんだったら、僕も集めておいてあげるね」と、私は応えた。
その日から、ジュースを飲んでアルミ缶が空になっては口をつける部分は洗って、キチンとすすいで、乾かして集めておいた。
数週間後、20本ほどだったか空きアルミ缶がたまったので、習い事の際に持って行った。
「ありがとう!」
その子はとても喜んでくれた。おそらく本心だと思う。その子が喜んでくれて、私も嬉しかった。工作好きな者として、このアルミ缶は、きっと何かに創造される(生まれ変わるんだ)と思った。
でも、年齢を重ねてふと思う。あのアルミ缶は邪魔だったのではなかろうか。少なくとも保護者にとっては。
ただそのときのことを思い出すことがあるってだけの話です。教義的になにかを言おうとしたわけではなく。

2023年5月 6日 (土)

分かりやすくしようとして、分かりにくくなっている現実

慶讃法要に参拝された方から、ご報告のメールをいただきました。ありがとうございます。
慶讃法要でのご法話を聴聞されて「“度(ど)す”という言葉が出てきたのだけれど、意味が分からないので調べました」旨、メールに書かれていました。私なりに「度す」の意味を書いてご返信しました。
その後、ブログを見直していたら、かつて「度す」ということについて綴っていたので(自分でも忘れていました)、文章を少しあらためて再掲します。

 ☕ ☕ ☕

「三帰依文」に「この身 今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。」とあります。
「人と生まれ、仏法聴聞のご縁をいただき、今聞くことがなければ、いつ聞くことがあるだろうか(いいえ、聞くことはない)」という意味になります。
「聞くこと」と書きましたが、「三帰依文」の「度せずんば」「度せん」の「度」とは「救われる」という意味があります。
ですから、直訳すれば「今救われるということがなければ、いつ救われるだろうか(いいえ、救われることはありません)」ということになりますが、「救われる」と言ってしまうと、「悟りの境地に入ること」「悩み苦しみがなくなること」など現実問題からの回避が目的となってしまいかねません。それでは仏法聴聞が、現実の悩み苦しみを無くすための手段や悟りの境地に入ることを目的としてしまうことになってしまいます。
生涯仏法聴聞 そのことがいかに難しく、いかに尊いことか。
「三帰依文」を拝読するということは、その時点で仏法聴聞の場に身をおいているわけですから、「これから聴聞して、楽な気持ちになるぞ! 人生のスキルアップするぞ!」なんてことを目的とする必要がありません。すでに弥陀の大悲(救い)のなかにいるのですから。

さて、「度す」が「救い」を意味するのは、「度す」ということが対岸、つまり弥陀の浄土へ“渡す”ということだからです。
「度」に「さんずい」を付けて「渡」。「渡す」と表現されれば、「この娑婆世界(此岸)から弥陀の浄土(彼岸)へ渡してもらう」と、イメージしやすいと思います。
「この身 今生において渡してもらわずんば、」の方が、分かりやすいかな?
しかし、「度」には そもそも「渡」という意味があるのです。
「度」は「わたる」ことを意味するので、わざわざ「さんずい」を付けて「渡」と表記する必要がなかったのです。
けれど、意味の厳密性というか分かりやすさを求めて、時代を経る中で、川や海を「度(わたる)」ことを「渡る」と表記するようになりました。
確かに、「さんずい」がつくことによって「渡る」イメージも想像できます。
けれど、分かりやすさを追求すると、人間は想像力や連想力を失ってしまいます。かつて、「度」という漢字を見ただけで「渡す」ということも、そこから派生して「救い」ということもイメージされたわけです。それがいつしか「渡」となり、そうすると、川や海を「渡る」イメージはし易くなりましたが、「救い」はイメージしにくくなってしまいました。
物事分かりやすくしようとして、かえって分かりにくくなっているのが現代だと感じます。

2023年5月 5日 (金)

子どものつどい in 東本願寺

2023年5月5日(金) 東本願寺では、「子どものつどい in 東本願寺」が開催されます。

東本願寺に行く予定だったのですが、用事ができたため断念。
YouTubeでライブ配信されるそうなので、その視聴を楽しみにしています。

午前の部(10:00~11:00)
子どものつどいin東本願寺(午前の部) - YouTube

午後の部(12:30~16:00)
子どものつどいin東本願寺(午後の部) - YouTube

2023年5月 4日 (木)

幸 辛

「辛さに一を足すと幸せになる」といった法語を見ることがある。
おそらく「人生辛いこともあるけれど、そこを乗り越えた先には幸せが待ってるよ」ということを表しているのだと思う。そういうこともあるなぁと思う反面、辛さの先に幸せがあるのか?とも思う。
「人間、幸せになるために生まれて来た」といった言い回しを、最近よく見聞きする。いや、以前から巷に漂っているのだけれど、最近私自身が気にしているのだろう。
ある宗教家から「浄土真宗は人間を地獄に堕とす教えだ。私の信じる宗教は人を幸せにする。だから、今すぐ真宗を捨てて〇〇宗に帰依せよ」というお手紙をいただいた。お心遣い、ありがとうございます。
その手紙を読んで、「はて、宗教は、人間を幸せにするための教えなのだろうか?」と思った、考えた。
「そりゃそうでしょ!」「そうじゃなければ、なんなの?」と思った方もいると思う。けれど思う。幸せになることが目的で宗教を求めると裏切られるよ、と。私たちが生きる世界は、そもそも娑婆世界。地獄に堕ちるというけれど、その地獄を作り出し、既にその世界に生きているのが、私たち自身。そのことの意味を見つめ、考え、たずねさせてくれるのが、宗教(少なくとも浄土真宗)。
たとえ自分の望み通りになったとしても、更に悩みを深め、更に次の欲望が湧いてくるのが私ではないのか。幸せ!と思ったものを掴んでも、そこで満足できない地獄を生きているのに。
ある宗教家の手紙には、「なぜ人とうまくつきあっていけないのか」ということを問うているが、このような文章を書いて送っていては、人とうまくつきあっていけないでしょう・・・と思った。自分のことを振り返ることもなく説かれる幸せって果たして何だろう、果たしてどんなんだろう。
幸せだなぁと感じること、味わう瞬間(とき)は、誰でもあると思う。幸せはたくさん感じたいし、できるだけ長い時間浴していたいというのが人情だ。でも思う。幸せを感じられるのは、辛い時間を経ているから、経験をしているから、自分も辛さを作り出している一員(一因)だということを知っているから。親鸞聖人自身が、そのような自分のことを語っているから、私たちにも伝わってくるものがある、頷ける。
辛さの先に幸せがあるのではなくて、幸せと辛さは共にある、幸せの中に辛さもある。「幸せの中には辛さが含まれている」という法語ならば、私の姿をよくよく考えさせてくれるものだと思う。ある宗教家さん、せっかくお手紙いただいたのにすみません。私は真宗に、親鸞聖人の教えに、お念仏に生きます。自分のことを振り返りながら。南無阿弥陀仏

(蛇足)
漢字の「幸」の部首は「干(かん)」、「辛」の部首は「辛(しん・からい)」。
つまり、似ている漢字だけれど、まったく関連もつながりもない漢字。
漢字の成り立ちから言えば、「辛さに一を足すと幸せになる」も「幸せの中には辛さが含まれている」も、根拠のないこじつけに過ぎない。
けれど、辛さと幸せの関連・関係を、自分の人生を通して味わった方から出て来た(出て来るような)言葉であることに違いはない。そのことは、大切にいただきたい。

2023年5月 3日 (水)

何かを選ぶことは、何かを巣捨てること

NHK朝ドラ「らんまん」昨日(2023年5月2日)の放送で(「らんまん」ネタを続けるつもりはなかったのだけど)、警察に捕まった万太郎(神木隆之介)を助けるために、祖母のタキ(松坂慶子)は警察署へ向かう。
釈放された万太郎は、出会った人びとのことを想い表情が曇っている。何かを察したタキは万太郎に諭す。
「人は全てを持つことはできない。何かを選ぶことは何かを捨てることじゃ。」と。

私には、このように聞こえた。
「あなたにできることは、出会った人びとのことをどうにかしてあげようとすることではなく、あなたの生きる道をまっすぐに進むことです。」と。

2023年5月 2日 (火)

正信偈

NHK朝ドラ「らんまん」昨日(202351日)の放送で、孫の万太郎(神木隆之介)の安否を心配する祖母タキ(松坂慶子)が、書き物をするシーンが。
日中、万太郎のことを放っておくように言い放つタキだったが、万太郎を心配する気持ちは皆と同じだったであろう。夜、皆が寝静まったころ、ひとり筆を走らせている。
そのシーンを見ながら妻が「『正信偈』だ!」と声を挙げた。うん、確かに『正信偈』の文言を綴っている。
私は、暗い部屋で明かりもついていないので、月明かりだけで字が書けるかなぁ・・・などと心配していた。見るところ感じるところは、人それぞれ違うものである。

2023年5月 1日 (月)

2023年5月のことば

5月に入りました。
晴天で、木々も瑞々しく輝いています。NHK朝ドラ「らんまん」では、植物学の父と言われる牧野富太郎の生涯が描かれています。ひとつひとつの草を見つめる視線が、なんとも温かいです。
御本山(東本願寺)では、慶讃法要期間が終わりました。法要としては結願(終了)しましたが、聖人の教え、南無阿弥陀仏のお念仏に触れていくのは生涯とおしてのお仕事です。仏法聴聞の生活を大切にしたいと思います。「種から芽が出て花が咲き、花は枯れても種が残り、また花を咲かすように。」

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2023年5月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちら

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亡き人を案ずる私が
亡き人から案ぜられている

永代に亘(わた)って
去る4月29日、「西蓮寺永代経法要」をお勤めしました。4年ぶりに、本堂にお集まりいただいての法要でした。
「永代経法要」とは、永代に亘ってお釈迦さまの教え(経)が続いていくことを願ってお勤めされる法要です。というのが一般的な説明ですが、有限ないのちを生きている人間が「永代」を願うというのも無理のある話です。思うに、人間が願って永代に続けるのではなく、欲多く、いかり・はらだち・そねみ・ねたむこころが臨終の間際まで止むことのない人間がいるかぎり、お釈迦さまの教えは、弥陀の慈悲心は、終わることなく永代に続いていきます。

私の想いに先立って
現代では、亡き人の供養のために仏教があると思われているのかもしれません。けれど、そもそもお釈迦さまの教えとは、生きている私が、生きている間に聞き続けていくものです。仏教に出会う縁は、亡き人を縁とすることが多いですから、仏法聴聞と亡き人の供養が、いつの頃からか結びついていったのかもしれません。
法要の折、亡き人を想い、手を合わせます。しかし、私が物事をなすためには、それに先立ってなされている物事があります。私が誰かのことを想うためには、私の想いに先立って私のことを想っているはたらきがあります。私に先立つ願いや想いがあるからこそ、私は物事をなすことができ、大切な人のことを想うことができるのです。
亡き人のことを案ずることができるのも、私に先立って私のことを案じているはたらきがあるからです。

如来と一味なり
とはいっても、亡き人が在りし日の姿のまま、私の記憶のまま、あの世で元気にして私のことを想っている様子を思い描いては、ただのノスタルジー(思い出話・私を安心させるための話)に留まってしまいます。
月のことばを聞いて、親鸞聖人の「曇鸞和讃」を想います。

名号(みょうごう)不思議(ふしぎ)の海水(かいしい)
 逆法(ぎゃくほう)の死骸(しがい)もとどまらず
 衆(しゅあく)の万川(ばんせん)帰(き)しぬれば
 功徳(くどく)のうしおに一味(いちみ)なり

十方無碍光(じんじっぽうむげこう)の
 大悲大願(だいひだいがん)の海水(かいしい)
 煩悩(ぼんのう)の衆流(しゅりゅう)帰(き)しぬれば
 智慧(ちえ)のうしおに一味(いちみ)なり

ふたつの和讃の主意を汲み取ると、このような意味になります。
「どんなに濁った川であっても、海に流れ出れば、清浄なる海とひとつとなります。同様に、阿弥陀如来を信じず、教えを謗(そし)り、煩悩で濁りきっている私であっても、衆生(すべての生きとし生けるもの) を救いたいと願う、海のように広く深い阿弥陀如来の慈悲のこころに 摂(おさ)め取られ、阿弥陀と一味となります。」

ふたつの和讃に「一味」と出てきます。「一味」ということは、すべてが溶け合い混ざり合って阿弥陀と共なるひとつのいのちとなるということです。それは、死んで後の話ではなく、今現に、という話です。有限な私と無限の阿弥陀が一味となっているという和讃です。
亡き人が、在りし日の姿のまま、あの世で私のことを案じているのではなく、亡き人も、私も、阿弥陀と一味である。であるからこそ、「南無阿弥陀仏」という阿弥陀の呼び声が聞こえてくるのです。

慶讃テーマ その願い
去る3月と4月、東本願寺では「宗祖親鸞聖人 御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」が勤められました。
慶讃法要を機縁として「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味を たずねていこう」というテーマが掲げられました。慶讃テーマには、このような願いが込められています。

私は、この地、この時に生を受けている。
このことを精いっぱい尽して生きたい。
悩み、苦しみは私に押し寄せてくる。
でもそれは「生きること」をも奪うものではない。

私の心の奥底にある「生きたい」という声に耳を澄まそう。
その時、私に届けられている声に 気づく。
それは私を呼ぶ声、
南無阿弥陀仏。

仏の名(みな)を呼ぶことは、
仏の呼び声を聞くこと。
その呼び声の響きの中で、
人と生まれたことの意味を仏にたずねていこう。

私に先立って生きた人たちと、
同じ今を生きる人たちと、
これから生まれてくる人たちと、
そのこと一つを ともにたずねていこう。

種から芽が出て花が咲き、
花は枯れても種が残り
また花を咲かすように。

先往く人と今を生きる人とこれからのいのちと、それらは個々別々に分断されているわけではありません。「種から芽が出て花が咲き、花は枯れても種が残り、また花を咲かすように」永代に途切れることなく続いています。阿弥陀と一味なのですから。
南無阿弥陀仏

 🌺 🌺 🌺

掲示板の人形
5月、子どもの日、賑やかで楽しそうな雰囲気にしようと思い、家の中に並べている人形(置き物)を目につくままに手に取りました。
真ん中の埴輪と左の水色の動物(?)は、子どもが学校で作って来たものです。
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