何も回収していない話
最近、「伏線の回収」という言葉をよく耳にするようになった。
ドラマやマンガや小説などで、後の展開のために、あらかじめ忍ばせておいたストーリー・事柄・キャラクターやその性格などを「伏線」という。話が進展したとき、かつて隠し味のように仕込んでおいたネタが開花し、「伏線が回収された」と感動を呼ぶ。
見ている(読んでいる)者は、伏線の回収具合によって、見ごたえのあるドラマだ、すごいマンガだ、意表を突かれた小説だなどと評価する。
最近では、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の複線回収具合が凄すぎて、多くの視聴者(もしかしたら出演者も)が感動した。三谷幸喜さんは、そもそも伏線の張り方とその回収が上手い(その最たる作品「笑の大学」が、内野聖陽さんと瀬戸康史さんで再演される! とても楽しみだ)。
さて、「伏線の回収」という言葉をよく耳にするようになったのは、ドラマやマンガや小説などを評価するときに付いて回る言葉となったからだ。きちんと伏線が回収されたり意外な伏線の回収があったりすれば、評価も上がる。それはそれでわかるし、それを考える、作る人は凄いなぁと感嘆・感動・感謝すらする。でも、だからといって伏線が回収されないもの、伏線(と思われる事柄)が放っておかれるものは作品として評価が落ちるものだろうか。
考えてもみれば、作者は「これは、後の為の伏線ですよ」なんて書き添えながら作品を発表しているわけではないのだから、こっちが勝手に「伏線だ」と決め込んでいるだけのこと。ストーリーが進んでいくうちに、「あ、ここでつながってたんだ!」「う、そういうことだったの!」「え、ここで出てくるの!」なんて思いがけない驚きが出てくるから、隠れていた伏線が伏線としてあらわになる。
その驚きを、結果的に味合わせてもらえる喜びが創作物なのに、始めから期待されていては、「伏線」でも「伏線の回収」でもないような気がする。
そもそも、人生なんて回収されない「伏線」だらけ! どうしてそんなに「伏線の回収」を求めるの‼と、ふと思ったのです。伏線が回収されない人の世を生きているからこそ、創作の世界にそれを求める!と言われれば、それもそうなのですけど。
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