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2023年2月

2023年2月28日 (火)

キラーん☆

旅客機の座席に使われているバックルを再利用したバックを背負っている人を見かけ、「それ、飛行機のバックルじゃありません⁉」と、思わず声をかけてしまった。
「わかります!? つい、欲しくなっちゃって、買っちゃいました。」
「わかります! 私もいいなぁと思いました。」
「共感してくれる人がいて嬉しいです。誰も気にかけてくれなくて。」
「いや、すぐわかりましたよ!」
「でも、良いお値段なんですよね。カバンくらいしか手が出ないけど、いろいろな物が売ってますよね」
「えぇ、たしかに良いお値段ですよね。」
なんて話で盛り上がった。共感してくれる人がいる、共感できる事柄があるって、嬉しいことなんだなぁと身をもって感じた。

帰宅して、ネットで旅客機グッズを検索してみた。
うん、良いお値段でした。

2023年2月27日 (月)

近視眼的

【近視眼的(きんしがんてき)】大局を見通せず、物の見方・考え方が目先のことだけにとらわれているさま。

食事をしていて、「そういえば“近視眼的”って、近視の人にしてみれば、いい気分ではないよね。」という話になった。なんて会話をしていた4人(当然、私含む)、みんなメガネだった。
遠くは見えず近くは見えているのだから「近視眼的」とはよく表現したものだと思う。それでも、目先が見えているだけでもまだ良いのかも。大局も、先のことも、目先のことも見通し悪く、自分の掌中のことばかり考えがちな人が多いから。
とはいえ、人間は基本 近視眼的だよななんてことも思う、老眼が進行してきた今日このごろ。

2023年2月26日 (日)

全然インスタントじゃなかった!

毎日同じインスタントコーヒー(粉)を、同じカップに、同じスプーンで量り、ほぼ同じ分量のお湯を注いでいるのに、どうしてこうも味が(味わいが)違うのだろう。
同じスプーンで量っていても、ほんのちょっと分量(粉の数)が違うだけで、こうも味が変わるものなのか。
お湯の温度だろうか。沸かしてすぐのお湯を入れる時もあれば、保温ポットのお湯を注ぐ時もある。あぁ、温度の影響は大きいか。
もしかしたら、カップの温度も影響しているのかも。ということは、気温や天気によっても適した分量や温度は変わるだろう。
けれど、私の体調や気分こそ、大きく影響しているのかもしれない。仕事を終えて待ちわびて飲むコーヒーと惰性で飲むコーヒーでは、当然味わいも違う。体調が良い時と悪い時でも美味しさは変わる。
いろいろな条件が重なり合って、コーヒーを飲めているんだなぁ。そりゃ、味も(味わいも)違うはずだ。多謝。

2023年2月25日 (土)

時間をかければ、時間をかけても。言葉を尽くせば、言葉を尽くしても。

落合恵子さん主宰の「クレヨンハウス」。昨年暮れ、表参道から吉祥寺にお引越しされた。表参道店も何度か足を運び、吉祥寺(近所)に移って来た喜びを胸に既に数回訪ねた。
落合さんの意向もあり、お引越しは急に決まり、期日も迫っていた。吉祥寺店に行くと、店内はまだ雑然としていた。探している商品の場所をスタッフに尋ねても、スタッフさん自身が把握しきれていない。てんやわんやが伝わってきた。
クレヨンハウスの通信に、落合さんが書かれているが、時間のない中での引っ越しだったゆえ、スタッフからは「もっと時間が欲しかった」「急がなくてもいいのでは」といった声も上がったという。そのことに、ちょっとイラっとしたそうな。時間があれば、丁寧に、キチンと、満足した引っ越しができるのか。否、決まった時間のなかだからこそ動けることがある。決断してよかったと、落合さんは綴られている。
確かに、時間があれば良いものができる、良い仕事が出来る・・・なんてことはない。いつまでも先延ばしにしてしまい、結局締め切り直前にやっつけ仕事で片づけた経験は、誰しもあるのではないだろうか。「時間をかければいいものができる」は、ある意味幻想か、或いは儚い夢のようなものかもしれない。

別の、自身の話。
会議の場において、趣旨や意図を語る際、個人的には丁寧に言葉を尽くして説明しているつもりだ。けれど、語っている自分自身、しつこい感じも気づいている。要点をズバッと言えばいいのはわかっているのだけれど、なぜかしつこくなってしまう。「あ、これさっき言ったことと重なるな」なんて思いながら話しているときもある。
つまり、言葉を重ねれば伝わるかと言えば、そんなことないという話。

時間をかければ、かけただけのものができるのか。
言葉を尽くせば、尽くしただけの思いが伝わるのか。
否。
限られた時間の中で、出来る限りのことをなすことしかできない。
言いたいことが自分の中で明確になっていれば、表現もスマートになるだろう(だからといって、伝わるかどうかはわからないけど)。表現がしつこくなるのは、自分の中で明確化されていないから。
反比例の関係のようだなんてことを、ふと想う。

あ、しつこい文章になってしまった。

2023年2月24日 (金)

「、」(読点)

私の文章には「、」(読点)が多いということに気付く。“気づく”と言っても、前々から思っていたことだけれど。
文章を書いてプリントしたものを置いておくと、妻が真っ赤に添削をしてくれる。やはり「、」の多くが消えている。文章が好きで読み続けてきた人と、読書を遠ざけてきた人の違いだろう。本を読むことも文章を書くことも苦手だったため、私の文章には味わいというものが欠けている。同じ本(文章)を読んでいても、見えている世界は違うのだろう。
とはいえ、「、」(読点)の付し方は、人によって違う。同じ文章を前にして、「、」を付してくださいと言われたら、何通りもの付し方があることだろう。「、」の付け方によって強調されるものが違ってくるし、文章にリズムや味わいが生まれても来る。

 阿弥陀の慈悲に包まれていまここわたしが存在する。
 阿弥陀の慈悲に包まれて、いま・ここ・わたしが存在する。
 阿弥陀の慈悲に包まれて、いま、ここ、わたしが存在する。
 阿弥陀の慈悲に包まれて、いま、ここ、わたし、が存在する。

その人が何を経験し、何を思い、何を信じ、何を大事にしているか。「、」を付す場所によって、そんなことも見えてくるのかもしれない。
いつ「。」(句点)が付されるかわからぬ人生なのだから、いつでもどこでも「、」を付しながら生きていこうか。リズムが悪い文章(人生)だって、いいじゃないか。

2023年2月23日 (木)

ラトビアの十得

ラトビア人にとっての大切なことをうかがったところ、教えてくれたのが十得だった。それを、私なりに解釈したものが、トイレの壁に貼ってあるのだ。
「常に、正しい行いをしましょう。隣の人と仲良くしましょう。自らの知識や能力を社会のために惜しみなく指し出しましょう。まじめに楽しく働きましょう。それぞれの役割を果たしましょう。向上心を忘れずに、自らを洗練させましょう。家族や隣人、故郷、自然などの衣食住のすべてに感謝しましょう。どんな状況におちいっても朗らかに明るく受けとめましょう。ケチケチせず、気前よくふるまいましょう。相手の立場に立って寄り添いながら生きていきましょう。」
ラトビアに伝わる教えでは、規制するのではなく、~~しましょう、と呼びかける。人間の、本来持って生まれた正しさというものを信じている点とても素敵だと思う。
〔『針と糸』小川 糸(毎日文庫)〕

 

昨日の投稿で、「公園の禁止看板」について書いた。
あれもダメ、これもダメ…どうやら日本人は、他者(ひと)に規制させるのが好きらしい。
小川糸さんのエッセイに、ラトビアの人びとに伝わる「ラトビアの十得」について書かれた文章がある。上記引用した文章を読むだけでも、やわらかさが伝わってくる。
「~~しましょう」の呼びかけが、すべてが良いわけではないし、危うい表現となる場合もあるけれど、ラトビアの人びとにおいては、自然や他者に対する敬意が根っこにあるから、この十得が当然のように身についているのだと感じる。日本でこのマネをしようとすると、「我慢しましょう」「~~するのはやめましょう」みたいな文言になりそうだ。表現を変えたところで、やはり抑圧的な姿勢が滲み出てしまう。他者を信じる、敬うということが苦手なのかもしれない。もっとも、昨今の広域強盗事件のニュースを見聞きしていれば身構えてしまうという気持ちもわかるけど。

2023年2月22日 (水)

がんじがらめ

2023年2月20日(月)の「東京新聞」朝刊に、「注文の多い公園 楽しめますか」というタイトルで記事が書かれていた。禁止看板が開園6年で24枚にまで増えた公園が取り上げられている。
行政の側からすれば「まずは苦情に応えることが優先。素早く対応できるし、看板を理由に注意しやすい」というのは正直な気持ちだろうし、目に見える形で対応しなければならないのは、理解はできる。でも、公園の近くに住む人が「苦情を言ってきた人に対して『ちゃんと対応しましたよ』という区のポーズでしょ。看板を立てて、どれだけの効果があるのか」と語られている。それももっともだと思う。禁止看板の効果って、果たしてどれほどあることか。看板があれば注意しやすいというのは、確かにあるけれど。
それにしても、やはり“苦情”がきっかけなんだなぁ。確かに、夜中に騒がれれば苦情も言いたくなるが、ボール遊びをしている子どもを叱っている人を見ると、叱らなくてもいいのにと思う。
そういえば、さんざん家の窓ガラスを割られている神成(かみなり)さんは、ジャイアンやのび太たちを怒りはするけど、恐らく行政に苦情は言ってないんだろうな。公園(空地)に禁止看板がないもの。神成さんは直接注意しているから、第三者に苦情を言う必要がないのかもしれない。
苦情は、直接言うのは勇気のいるもの。どんな仕返しをされるかわからない世の中だし。しかし、苦情を、単に現状報告として日頃のトーンで伝えればいいけれど、第三者に対して怒りをぶつける人がいる。苦情でもありながら、それ以上に憂さ晴らしでもあるのだろう。そのような人が多いから、目に見える形での対処、つまり看板を立てる・張り紙を貼るということになってしまうのだろう。

確かに、禁止看板は多い。けど、たまにおかしな看板に遭遇する。
「禁止事項」が羅列してある看板に、
 ・ボール遊び
 ・犬の散歩
 ・飲食・飲酒
 ・花火
 ・バイクの乗り入れ
などと書かれてある。
で、たまに見かけるのが
 ・禁煙
「タバコを吸ってはいけない、ポイ捨てしてはいけない」と言いたいのはわかるけど、「禁止事項」の一覧に「・禁煙」と書いてしまったら、禁煙が禁止だから喫煙になってしまうのではないか! 子どもたちにタバコを吸えというのか? 
なんて、ひとり突っ込みをしたことが、一度や二度ではない。この間違いはたまに目にするので、気にして見てみてください。

「最近の子どもは、家でゲームばかりして、外で遊ばなくなった」なんてセリフを聞くことがあるけど、「禁止看板」ばかりの公園で遊びたい気持ちになるだろうか。
あれはダメこれはダメなんて書かれた居酒屋でお酒呑んでて美味しいだろうか。

2023年2月21日 (火)

便利になったようで、不便なことってあるよね

最近ハイヤー・タクシーに嫌われている。
昨年末、ちょっと遠方への葬儀の折、ご遺族の方がハイヤーを手配してくれた。ハイヤーの会社より電話があり、お寺と葬儀場の住所・開式日時の確認があり、「それでは、○日の○時○分にお迎えに参ります」と、ハイヤーの会社から言われた。
当日、時間になってもハイヤーが来ないので連絡すると「予定に入っていない」という。とりあえずハイヤーの会社がタクシーを手配してくれたが、開式10分前の到着。そこから打ち合わせたり着替えたりするので、つまりは間に合ってはいない。その日の夕刻になって、ハイヤーの会社の人が来て、「メモ帳が書類の中に紛れていた(お寺の勘違いではなかった)」とお詫びをしていった。メモ帳って、予約内容をシステムに打ち込んでいるんじゃないんだ。ホワイトボードにメモ帳が貼り付けられている映像が浮かんだ。
なんてことがあった数日後、法務のためタクシーを配車し、待つ。数分後、配車された車が私の前を過ぎ去っていった。誰かを乗せて。タクシー会社に電話して確認してもらうと、配車されたタクシーの運転手さんが、違うお客さんを乗せて行ってしまったとの返事。新たに手配してくれたタクシーが到着したのは30分後(その間、「空車」のタクシーも通らなかった)。今度もギリギリに到着。凹んだ。
そんなことが続いたので、只今タクシーの配車恐怖症気味。さて、どうする?

 🚕

なんて文章を書いて保存していた。
昨日、ご法話の先生という立場で接待を受けた。お話しの会場のお寺の前で流しのタクシーを待ったが、なかなか来ない。以前は、しょっちゅう通っていたところなのに、驚くほど来ない。
私が「バスで行きましょう」といい、バス停で待っているときに、やっとタクシーが通りかかった。
乗せていただいて、運転手さんと話すと「スマホでの配車アプリでタクシーを呼ぶ人が増えて、タクシーの動線が以前とは変わった」旨、話してくれた。どのように変わったのかはわからないが、無駄の少ない動きができるようになったのだろう。
さて、アプリを入れておいたほうがいいかなぁ。

2023年2月20日 (月)

お役目に、上も下もありません

喫茶店で昼食中、隣の席に伯母(叔母)と甥っ子と思われる二人が座られる。聞くともなしに聞こえてくる会話。
「お仕事で、お役目をもらったそうじゃない。すごいわぁ」
「いや、お役目っていっても、下っ端の使いっぱだから…」
「なに言ってんの、お役目に上も下もないのよ。お役目は、みんなで一緒に勤める(努める)ものなんだから、上下(うえした)関係なく、大切なお仕事よ」
素敵なおばさまだなぁと思いながら、コーヒーを口にする。午後の仕事に向けて、英気を養わせてもらった気がしました。ありがとうございます(--

2023年2月19日 (日)

演じる

今朝(2023219日)の「ボクらの時代」(フジテレビ)は、阿川佐和子さんと鈴木亮平さんと宮沢氷魚さん。
鈴木亮平さんは、大河ドラマ「西郷どん」で西郷隆盛を演じ、宮沢氷魚さんは朝ドラ「ちむどんどん」に出演。大河ドラマも朝ドラも撮影は長丁場。鈴木さんも宮沢さんも、スタジオに入っている時間が長かったり、現実の季節とは違う季節の中に身を置いて演じたり、季節感・時代感・時間の感覚が現実とはズレてしまうということをお話しされていた。
鈴木さんは西郷隆盛を演じていたので、スタジオを出て現代という現実世界に戻ると「これが、俺(西郷)が作ろうとした世界なのか!?」と叫んだと、笑いながら話されていた。宮沢さんは、収録が続くと季節感が失われるし、家に帰ると生きている物が自分だけなので、植物を買ってきて季節がわかるように、生命の息遣いが感じられるようにした、とお話しされていた。また、阿川さんのお話しを引き出す話術や空間づくりの美しさも垣間見えました。

文章、ここで終わるとコタツ記事みたいで嫌だな。
「ボクらの時代」を見ていて、演じることの大変さもさることながら、それに伴う問題や苦悩を耳にし、あらためて大変なお仕事だなぁと感嘆・感謝・感動。だからこそ、人の心を打つのだろう。
「演じる」ということばを聞くと、声明(しょうみょう:お経を読誦すること)の先生から教えられたことを思い出す。「お経を読むときは、坊さんは演者です。演じているつもりでお勤めしてください。演じているということを忘れないでください」と。
決して、お芝居をしなさいと言っているのではない。お経を読むときはお釈迦さま、「正信偈」は親鸞聖人、「御文」は蓮如上人が、教えを説いている様子や風景を思い描き、目の前の人に教えをお伝えしていることを意識して声明しなさい! ということと受け止めている。

とはいえ、人間だもの。体調の悪い日もあれば、声の出の悪い日もあれば、顔のむくむ日もあれば、気持ちの乗らない日もあるだろう。それでも演じ続けている俳優さんはすごい。ましてや、朝ドラや大河ドラマなどの長丁場は、カメラの回っていない時も気持ちの休まるときはないんじゃないかとお察しします。ありがとうございます。

2023年2月18日 (土)

二面性 いや、すべてが“本性”

「二面性」という言葉がある。
「表向きは人当たり良く、明るかったり優しかったり可愛かったり振る舞いながら、人がいなくなったり一人になったときに“本性”がでる。」と、「二面性」を説明しようとすると、このような文章になるだろうか。
本性を“”でくくったのは、いわゆるウラとされる方の顔を“本性”と表現されるので強調してみたのだけれど、いや、人当たり良く振る舞っている方の顔だって、実は“本性”なのではないだろうか。そんなことを思ったので、“”でくくって、ちょっと考えてみたい。
そもそも、「二面性」というけれど、自分に無いものは出せないわけで、私の発しているもののすべてが、たとえ優しかろうが怖かろうが、かわいかろうが腹黒かろうが、それは表とウラなのではなく、一面だと思う。見ている方が、どこから見ているか、どこを見ないようにしているか。ということもあるのではないだろうか。
少し話は変わるけれど、長い付き合いをしている者の一方がもう一方のことを、「あいつは、あんなじゃなかったのに」「あいつは、あんなやつだとは思わなかった」「昔は、あんなに良い人だったのに」などと愚痴ることがあるけれど・・・平たく言うと、結婚して一緒に住んでいる夫婦の愚痴としてよく聞くセリフ。
「妻は、昔は優しかったのに…」と愚痴る友人に対して、「それって、優しくない人にしちゃったのは、あなたなんじゃないかなぁ」と、所ジョージさんが言ったとか。あぁ、それってあるなぁと、感動・反省・懴悔した一言である。
「二面性」なんて、他者(ひと)に対して言うけれど、すべてその人の持つ“本性”であり、昔と変わった面があるとすれば、それはその他者自身の性格の変遷の話ではなくて、変えてしまった、変わらせてしまった私を抜かしてはいけない話。
性格は、ひとりで形成しているものではない。人と人、人と事柄のなかで形成されていくのが“本性”なんだなぁ。

2023年2月17日 (金)

惑える星

ある朝、お朝事で「正信偈」をお勤めしていて、「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」のことばが出てきたとき、ふと考えた。「惑」は「まどう」という意味だけれど、そういえば天体の“惑星”は、なにゆえ「惑いの星」と書くのだろう? 何か惑い迷っているのだろうか。いや、軌道に沿って惑い迷いなく進んでいるではないか!などと思った。
調べると、地動説の前、天動説で天体が語られていた昔、地球上から見る天体は、現代(いま)でいう「惑星」ばかりでなく太陽や月もまた「惑星」惑う星と呼ばれていたらしい。日に日に移動してしまい、定位置にいないから、惑いの星、「惑星」と命名されたらしい。
「惑星」の英語「planet(プラネット)」の語源であるギリシャ語の「プラネテス」には、「さまよう者」「放浪者」という意味があるとのこと。「惑星」は、そもそも惑える星として見られていたんだ。「惑星」という呼び名の根源を知り、なんだか身近な存在になった気がした。反面、「惑える者」に「惑える星」と名付けられて、惑星も迷惑していることだろう、とも思った。ごめんなさい。

(補足)
「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」
「染染(わくぜん)の凡夫(ぼんぶ)、信心を発っすれば、
生死(しょうじ)即 涅槃(ねはん)なりと証知(しょうち)せしむ。」
…曇鸞大師の教えをいただいた親鸞聖人が、「迷い続けている惑染の凡夫に、本願による信心が起こるならば、迷いのままに往生させていただくことが、はっきりと思い知らされる」と示されているのです。
(【参照】古田和弘先生「正信偈の教え」より)

2023年2月16日 (木)

チャンスがきたときに つかめる自分であれ

NHKで放送中の「大奥」。「大奥」で、8代将軍徳川吉宗を演じる冨永愛さん。冨永さんのモットーは「チャンスがきたときに つかめる自分であれ」と聞く。時代劇に出たい想いを抱いていた。けれど、そのチャンスは来ない。冨永さんの想いを伝え聞いた制作陣がオファーし、今回の吉宗役となった。
冨永さんは、いつ時代劇のオファーが来ても応えられるように、乗馬や殺陣の鍛錬もしていたという。そのことを知ったスタッフは、当初は予定になかった乗馬のシーンも加えたという。
チャンスは、来るかもしれないし、来ないかもしれない。けれど、来る来ないが問題ではないのかもしれない。
「チャンスがきたときに つかめる自分で」あることは、準備や鍛錬をしておくこと。準備や鍛錬が出来るということは、自分の姿を知っているということ。
本来は、目を背けたいところがあったり、自分にはないものを望んだりしてしまう。けれど、自分自身に向き合うから、何をやりたいか、何ができるか、何が足りないか、何をすればいいか・・・が、見えてくる。そのとき、自分のすべきことも見えてくる。やみくもに「チャンスがきたときに つかめる自分で」あろうとしているのではなく、自分のことを知っているということなのだと感じた。

冨永愛さんのモットーを聞いたとき、『ハチミツとクローバー』の真山のセリフを思い出していた。

 もし好きな女に何かあった時さ
 「何も考えないでしばらく休め」って言えるくらいは
 なんかさ
 (金を)持ってたいんだよね

自分のことを知っているから出てくるセリフなのだと思う。
あ、客観性か!

2023年2月15日 (水)

客観性

コロナ禍、ほとんど外出しなかった頃、当然買い物もしなかった。
昨年の10月頃だったか、地元商店街に買い物に行った際、突然自分の身なりが客観的に見えてしまった。
スマホケースはボロボロ、ショルダーバックの角の皮部分ははげ、財布は縫い目がほつれ、靴は踵に穴が開いていた。
コロナ前から使い続けていたものが、気が付けば劣化していた。みんな使い心地がよかったので気にせず使っていたが、客観的に見えてしまったとき、とても気になってしまった。
スマホは、そもそも画面が割れていたので(そっちこそ問題か)、買い替えと同時にケースも替えた。財布は、同じものをネットで探したが、既に販売終了。仕方なく、似たようなものを購入し使っているが、まだ手に馴染まない。靴も、近辺のお店を探してもお気に入りが見つからなかったので、同じメーカーのものをネットで購入(洋服や靴など、実際に着用して買ってきたものをネットで買うようになるなんて…と、デジタル難民の私は古臭いことを思いながらポチッとした)。最後まで手に入らなかったのがショルダーバッグ。近辺でお気に入りに出逢えず、茨城、山梨、京都、滋賀、仕事で出かけた先々で空いた時間に物色。それでも購入に至らず、最近になってやっと購入。妻曰く、「それ、女性ものよ」Σ(・ω・)!
でもまぁ、なんとかリニューアル。出かけないということは、自分自身も滞ってしまうんだなと実感した出来事。

2023年2月14日 (火)

言葉の重さ奥行き

昨日、お仕事で真宗会館へ行くと、お朝事をしていた(9時過ぎ)。
職員をされている方の感話があり、拝聴させていただきました。
滋賀のお寺さんで、今は東京練馬の真宗会館に勤められている。自坊の報恩講に帰った際、「報恩講のためによく戻ってきてくれたね。東京での勤めが終わったら、お寺に戻ってきてね」と、ご門徒のおばあちゃんから声をかけられたお話しでした。

一般的な、お寺に生まれた者あるあるとして、「お寺の後継ぎ」として決めつけられる悩みがある。自分は他にやりたいことがあるのに、寺を継がなければならない。自分で決断する前に、周囲から「後継ぎ」扱いされる。という苦悩を持つ者は多い。
「一般的な」と書いたのは、感話の、おばあちゃんの話とは区別をしたかったから。感話をされている方も、そういう悩みを抱えた時期はあったかもしれない。でも、今はそこを通り越して、「戻ってきてね」と言ってくれるご門徒のおばあちゃんへの想いに満ちていたし、おばあちゃん自身もお寺と、お寺のご子息を大切に想う気持ちから、報恩講のために戻って来てくれたことが嬉しくて、これからもよろしくね、という想いが、仕草や言葉から溢れていたのだと、感話を聞いていて伝わってきた。
「お寺に戻ってきてね」…同じセリフであっても、言葉と共にある想いというものがある。何の気なしに言った言葉、思いっきりの期待(つまり自分の都合)を込めた言葉、あなたへの尊敬の念を込めた言葉、感謝の言葉。同じセリフであっても、相手を傷つけることもあれば、相手に届くものもある。相手をトラウマに陥れることもあれば、相手の生涯を支えることもある。
感話から、感話者への敬意と愛情の籠った「お寺に戻ってきてね」という言葉だったのだと伝わって来た。ひとつの言葉の重さ奥行きを感じるお話しでした。南無阿弥陀仏

2023年2月13日 (月)

息が合うだけに、息継ぎまで重なってしまう

住職とふたりで法務を勤める際、読経の息継ぎが重ならないように努めている〔声明(お経)の稽古でも、「息継ぎが重ならないように心がけましょう」と指導されます〕。
ふたり息継ぎが重なると、ピタッと勤行が途切れてしまうから(もしかしたら、ピタッと途切れるものだから、聞いている方からすると「そういうものなんだ」と思われるかもしれない)。
西蓮寺では、ご法事は可能な限り住職(父)と副住職(私)ふたりでお勤めをしている。住職が初めに息継ぎをしたタイミングから、私がずらして息継ぎをすれば、だいたい重ならない。あるいは、通夜葬儀で、住職が私より前に座っているような場合は、住職のほっぺたや喉元を見ながら、息継ぎのタイミングを計り、重ならないように努めている。
のだけれど…先日、「仏説阿弥陀経」読誦中、4回も息継ぎが重なってしまった。四半世紀ほど一緒に勤めてきて、恐らく初めてのことだと思う。重なり始めると、息継ぎの場所が一緒になってしまい、タイミングをずらすことができなかった(というか、私も住職もずらさなきゃと思い、かえって重なっていたような)。4回も重なると、途切れ、途切れの読経になってしまった印象が残った。途切れている時間は1秒にも満たないのだけれど、聞いている方は空白を感じたことと思う。本堂から離れた所で読経を耳にしている妻からも、「今日は、何回も途切れたね!」と言われた。よっぽど珍しかったのだろう。
そんなことがあったので、あらためて読経中の息継ぎには注意をしています。というお話。

2023年2月12日 (日)

記憶、あるいは記憶違い

人の記憶は曖昧だ。
朧気になることはあっても、実際にあったことしたことくらいは、しっかり記憶されるものと思っていた。
しかし、年を重ねるにしたがって、実際にあったことなのか、そのとき頭の中で考えたことだったのか、こうなればよかったと希望したことなのか、かつての事実と思考と希望が入り混じり、実際に起こっていないことでも、“私”のなかでは事実として刷り込まれている。そんなことを感じることがある。
実際に起こったことであっても、いつ誰かと何かをなした、いつ誰かと話をした、といったその“いつ”や“誰か”が、実際と記憶ではすり替わっていることも多々ある。「こないだ話したじゃん!」「え、そんな話聞いてないよ」という会話の経験はないだろうか。
しかし、自分の中だけで済む話なら、自分の中で凹むか考えるかすればいいけれど、他者(ひと)が絡むと厄介だし、怖い。
かつての、あるひとつの出来事。私のなかでは、これこれこういう理由があって、こういうことをして、こういうことを感じた。他者のなかでは、それそれそんな事情があって、そんなことをしなくて、こんなことを思った。なんて、まったく違う事情・理由・感情で、ひとつの出来事に直面していると(ひとつの出来事を、関わる者同士で構築していると)、あるとき、同じ事柄について語っているのに、まったく違う事柄として表現されてくることがある。笑い話で済んだり、「あぁ、あのとき、そんなこと考えてたの! どうりで意見が合わないはずだ。」なんて、今になって分かり合えたりすればいいけれど、多くの場合、記憶も感情も乖離したままだ。そんなこと、気付かないまま、知らないままが普通なので、日常の生活に支障をきたすことはないけれど、もし乖離している、誤解し合っているということが明らかになったとき、なんてことなかった記憶が、大きな傷とともに記憶されることにもなる。
なんてことを、辻村深月さんの「パッとしない子(講談社文庫『噛み合わない会話と、ある過去について』所収)を読みながら思った。
私は、小学校・中学校・高校の同窓生との付き合いはないので、乖離の現実を身をもって感じることはそれほどないけれど、同窓会やふとした再会で、気にも留めてなかった事実を知り、ぞっとしたことがある人もいるのではないだろうか。

2023年2月11日 (土)

お仕事ご一緒したみなさま、お疲れさまでした

昨日(2023210日)、正午過ぎからの雪予報が、朝からチラチラ降り始める。
午後からの外の仕事場へは車で行くつもりだった。けれど、午前11時の段階で積もり始めている。窓の外を眺めながらどうしようか逡巡していると、「このくらいの雪なら大丈夫。出発の予定時間のころには積もっちゃうから、今のうちに行っちゃいなさい‼」と、秋田県出身の妻の声に押され、車で出発。雪の舞うなか、車を進める。
仕事場に着くと「白山さん、もう来たんですか!!」って。時計を見ると、お仕事スタートの2時間前。まぁ、早いけど、無事着きました。
そこからふたつ仕事を務め終えると午後830分。窓の外を眺めると、雪から雨に変わっていた。車に積もっていた雪も、ほとんど流れている。
「夕方から雨に変わる予報だから、今、車で行っちゃえば、帰りも車で帰ってこられるよ」という妻の予報(予言?)は、天気予報とピタリとはまり、無事に車で帰ってこられた。
翌朝、日が昇るにつれて、雪もどんどんとけていく。毎度、雪国の方には申し訳のない狂騒曲でした。

2023年2月10日 (金)

障子

障子の張り替えをしてもらっている。
お座敷の障子を、すべてを一気に張り替えるわけにはいかないので、月曜日に外して作業場へ持って行き、金曜日に持ってきてくれる。
本日 金曜日、朝から雪が降っている。けれど、張り替えた障子を持ってきてくれた。雨雪に濡らすわけにはいかないので、一枚一枚大きなビニールをかぶせてある。
張り替えた障子を、そのままはめ込めるのかといえば、そうではない。力づくではめ込もうと思えばできるけれど、職人さんはカンナで少しずつ削りながら、微調整をしている。
数年前、玄関の襖の建て付けが悪くなり、出入りの工務店に見てもらうと、「柱や梁の改修が必要」だという。大がかりな作業だ。けれど、今回障子を張り替えてもらっている業者に相談したら、襖の微調整だけで直してしまった! 職人さんの腕の凄さを実感!
今回も、障子の木枠はきれいに洗われ、障子紙が美しく張られている。見ていてうっとりする。薄いカンナくずの向こうに、何年にもわたって腕を磨いてこられた足跡が見えてくる。

2023年2月 9日 (木)

西蓮寺聞法会(2023年2月)

今年1月から再開した「西蓮寺聞法会」。昨日(2023年2月8日)、2月の会を開催。ご聴聞にお参りいただいた皆様、ありがとうございます。
1月は、思いつくままにお話しを重ねたため、核となるところがなかったと反省。
コロナ以前同様、ご本山から出版されている「真宗の生活」を手掛かりにお話しをさせていただくことにしました(アナウンスしていないのに、皆様「真宗の生活」をお持ちになっていて感謝・感動)。
昨日は、「2「コロナ」の時代を生きる(井上尚実先生)」を読んでからのお話し(2023年版「真宗の生活」をお持ちの方は、お読みください)。

【現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)】生きているうちに、将来は必ず仏となるべき身に定まること。

について、親鸞聖人の著わされたものに尋ねながら、「現生正定聚」についてお話ししました。

「浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来と申すこともあるべし」
【「御消息集(善性本)」(親鸞聖人の御手紙)(『真宗聖典』591頁)より】

ちょうど、今月の掲示板のことば(有情の邪見熾盛にて叢林棘刺のごとくなり)とも重なるなぁと思いながら、お話いたしました(-人-)

2023年2月 8日 (水)

おつかれーーーーす

最近(でもないのかもしれない)、おやじギャグ的なことや「ちょっと言ってることわかんないんですけど」的なことを言うことが増えた、らしい。
妻から「おやじ化してるよ」と言われる。子どもも頷いている。
開き直れば「もう50過ぎてますから」ってだけの話だけれど、ここに来て「おやじ化しているよ」と言われると、ちょっと我が身を振り返ってみたりする。
でも、気付く。男なんだから、おやじ化しても問題はないだろう。
妻に「私がギャル化してたらおかしいけど、おやじ化してるのは当然のことじゃない?」と言うと、「おやじ化って言うのは、老化によって “これは言ってはいけない” “言うのはここまでにしておこう” というタガが外れて、余計なことを言ってしまうことなんだって。だから退化よね。ギャル化は、進化よ! ギャルは凄いんだから!」とのこと。
余計なことを言ってしまう…そっか、だから「おじさん構文」は余計なこと付け加えて、ダラダラと長くなるんだな。妙に納得した話。LINE、長くてすみません。

2023年2月 7日 (火)

いとおかし

洗剤や柔軟剤に付いているにおいが苦手だ(桃アレルギーを持っている者にとって、あのフローラルな香りは、においに反応して呼吸が苦しくなる時がある)。
昨日、通りですれ違った青年から、かなり高濃度のにおいを感じ、思わず「くさっ!!」と叫んでしまった(洗剤や柔軟剤のにおいを漂わせている人を非難しているわけではありません。ただ、ほんと苦手なだけなのです。悪しからず)。
叫んだ瞬間、「くさっ(草)」って、現代(いま)では「おかしい」「おもしろい」って意味でもあるんだよなぁ。「くさっ」って叫びは、聞く人によっては「あぁ、おかしい」「おもしろい」「笑える」(^^)と捉えられるから、私が何か面白いことがあって叫んだ(叫ぶほど面白いことがあった)んだとも思われるわけだ!…なんてことを想った。
学生時代(関西の大学)、一回生の春の話。友人(私と同じ東京都出身)は、いくつもの部活を見学に回った。すると、ある部活で先輩から「そんなに見学に回ったの! えらいねぇ」と言われたとのこと。友人は私に向かって「部活巡りをしていたら褒められちゃった」と話し出すので、「それは、大変だね、疲れたね、しんどいねってことを言おうとしてるんだよ」と教えてあげた。友人から笑みは消えていた。
「くさっ」と叫んだ瞬間、そんな昔のことも思い出していた。いろいろと懐かしくて草

2023年2月 6日 (月)

自然のことわり

他者(ひと)を好きになる、愛する、尊敬する、大切にするなどという行為や感情は、自分で起こそうと思って起きるものではなく、自然に湧いて出てくる生命活動の醍醐味ではないだろうか。教えられるものでも、教えてできるものでもない。生命として自然に生ずる事柄に対して、好き嫌い、納得できる出来ないなどの感情で統制しようとする傲慢臭が世に漂っている。
「他者(ひと)を好きになるって、異性を好きになる人もいれば同姓を好きになる人だっている。人を好きになるつもりがなくても、そういう人と出逢えば、好きという感情が芽生えてくる。教えられてそう思うのではなく、自然に湧いて来るものじゃないかなぁ…」と、某首相秘書官のニュースを見ながらつぶやくと、妻が「それがね、学校の保健の教科書に“思春期になると、異性に関心を持ち”って書かれていたんだよ」と教えてくれた。
学校教育で、関心の対象が“異性”に限定された教育(刷り込み)がなされていたとは。
「多様性を認めよう」といったフレーズを見聞きするようになった。「同性婚を認めると社会が変化してしまう」と、当然のことのように答弁する国の責任者がいる。個人の性の志向、同性どうしの恋愛や結婚を認めよう(認められない)と、あたかも“これから”のことのように議論しているきらいがある。けれど、“これから”の話しをする前に、“これまで”に性的少数者などと位置付けられている人びとがいて、そういう人びともいてくれるなかで、人間はこれまで生きて来たという事実・現実を忘れてはならない。
元秘書官は、「(性的少数者を)見るのも嫌だなと思うことがある」と言ったそうだけれど、それは、見えないだけ、見てこようとしなかっただけの話。また、見えなかったのは、そういう発言をする人(それが当然と思う人)が多数を占めているなかで、個人の想いを塞いできた、塞がれてきたから。秘書官もまた国の行方に関わる仕事をしている方なのだから、“これから”を、自分の理想通りにしようとするのではなく、“これまで”(今も含めて)を見てほしい。

「さるべき業縁のもよおせば」…親鸞聖人の教えを読んでいると、“これから”のことだけではなく“これまで”のこと(私が私ならしめている事実)を見なさいと仰られていることが聞こえてくる。
自分が認める認めないを言う以前に、自分自身が認められている存在でした。
お念仏もまた、自然に湧いて来るもの。阿弥陀に認められているがゆえに、誰もがみな「南無阿弥陀仏」とお念仏できる。

(「さるべき業縁のもよおせば」補足)
さるべき業縁のもよおせば
「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」と綴られている『歎異抄』第13条の続きには、
さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という聖人のことばが出てきます。
「そうあるべき縁がもよおしたならば、いかなるふるまい、どのようなふるまいでもしてしまう私なのです」という意味です。
「もよおせば」の響きが、これから先に起こる事柄として受け止められがちです。
しかし、これから先のこととして聖人のことばを受け止めると、私はまだしていない、してはいけないことはしない、悪いふるまいをしてしまうのは自制心のない人間だからなどと、反論・反抗の気持ちへとつながっていきます。
聖人が、これから先の出来事、未来の事柄として説かれたのであれば、「さるべき業縁のもよおば」と言われているはずです。けれど、聖人は「もよおば」と説かれます。このことは、もう既に我が身にもよおしていることを意味しています。つまり、今に至るまで触れ合い、響き合い、影響し合ってきた無数の縁のもよおしによって私があるということを「しるべし」と強く訴えているのです。因果応報を説かれたわけではなく、「諦めろ」「受け容れろ」と諭しているわけでもありません。
こんにちに至るまで生きてきて、「いつも、私が、思考・判断・決断してきた」かのように思っていますが、果たしてそうなのでしょうか。わずかな塵ほどの罪も、事柄も、私がなそうとしてできることではありません。「昔からの因縁が、今、私に届いている」。つらいことも、悲しいことも、厳しいこともあります。さまざまな縁の織りなすなかに、私が私としています。その自覚あるとき、阿弥陀の光明に包まれてある私であることに手が合わさります。気付けば、南無阿弥陀仏と共にある私でした。もう既に我が身にもよおしている事実を、親鸞聖人から教えていただきました。
南無阿弥陀仏

2023年2月 5日 (日)

不可能なことが、我が身に可能となった不思議

「〇〇のなせる業(わざ)」と書く場合、「わざ」は「業」と書く。「技」ではなく「業」なのだなと、あらためて感じる(驚く)。技術・テクニックとして意図的に物事をなそうとするのではなく、自然になさしめられることだから「業」なのだろう。
「業」は、仏教では「ごう」と読む。その人に昔々からそなわっている事柄を意味する。決して「背負うべきもの」ではなく、「多くの縁の積み重ねによって成っているもの」、つまり「私」を意味する(と、いただいている)。〔(参考)20231月のことば〕
そういえば、刀鍛冶師のことを「業師(わざし)」と言ったり、名刀のことを「業物(わざもの)」と言ったりする(「鬼滅の刃」や「ワンピース」を好きな方は、ピンと来たのではないだろうか)。単に技術・テクニックの長けた人・物のことを言うのなら、「技師」「技物」でもいいのかもしれない。しかし、「業師」「業物」と表現されているのは、人から人へ、技術のみならず思いや願いや魂が受け継がれてきていることを意味しているのではないだろうか。なんてことを「なせる業」ということばを見ていて思った(「わざ」に「業」という字を当てた人は、仏教の素養があったのかもしれない)。
そういえば、「至難の業」と言う場合も「業」だ。自分一人の力ではどうにもならないことをも意味しているのだろう。難しさではなく、不可能性を表しているのかもしれない。

2023年2月 4日 (土)

青春って密だから

子どもがバレーボール部の部活から帰って来た。今日(土曜日)は午後だったけれど、明日(日曜日)は715集合とのこと。子どもたちも大変だけれど、部活顧問も大変だ。ちゃんと休めているのだろうか。
「たいへんだなぁ、疲れませんように」なんて呟いたら(人に話しているつもりはない)、妻が「大丈夫大丈夫、子どもたちも先生も好きでやっているから」って。
(顧問の先生は、先生自身バレーボールが大好きで、楽しそうに顧問をされている。最近問題になっている、先生が部活顧問をすることによる過重労働の気はなさそうで、その辺は安心している)。

(私)「そっか、部活って楽しいんだね。それならよかった。」
(妻)「私は、部活を3つ掛け持ちしていたし、習い事もしていたから。勉強は、往復の電車の中でしっかりやってました」v(^^)
部活経験のない私には、まったくわからない世界だ(厳密にいうと、部活経験がないわけではなく、中学でも高校でもさっさと退部した。人間関係の問題と協調性のなさからなせる業だった。でも、他者のせいにしているつもりはなく、私自身の問題なのも、よくわかっている)。
そんなに楽しく部活をやっていた妻をうらやましく思うし、子どもが楽しそうに部活の報告をしてくれるのは微笑ましい。それにしても、部活をやっていると、スケジュールも密だね。

2023年2月 3日 (金)

有情の邪見熾盛にて叢林棘刺のごとくなり

「掲示板、2月の言葉は難しいですね」と、23日にして幾人かの人に声をかけられた。

有情の邪見熾盛にて
叢林棘刺のごとくなり

たしかに難しい。
有情(うじょう)・・・衆生(しゅじょう)に同じ。衆生も、一般的には使わないか。「感情を持った生き物」「人間」のこと。
邪見(じゃけん)・・・こちらも一般的には使わないかもしれないが、「邪(よこしまな)見(ものの見方)」を意味する。
熾盛(しじょう)・・・も普段使うことはないけれど、「火が燃え盛るのと同様に、勢いのすさまじい様」を意味する。
叢林(そうりん)・・・「木々が林立している様子」「荒れ果てた林」
棘刺(こくし)・・・棘(いばら)や枳殻(からたち)など、鋭い棘(とげ)のある木。ちなみに、枳殻(からたち)は「きこく」とも読む。東本願寺飛び地境内「枳殻邸(きこくてい)」は、周囲に枳殻が植えてあったことから、この名が付いたとのこと。

今月掲示したことばは、文字の意味を読み解くだけでも(仏教の知識がなくても)、「人間の邪見(「邪なものの見方」に限らず、「私たちの考えることは」と捉えることも肝要かもしれない)は、燃え盛る炎のように勢いがすさまじい。まるでトゲトゲいっぱいの木々のようなもので、触る者みな傷つける(それどころかトゲを持つ自分自身をも傷付けている)。」と書かれていることが読み取れる。

難しいことに変わりはない。けれど「難しいから掲示しない」「やさしいことばを掲示する」という忖度は嫌なので、大切だ、大事だといただいたことばを掲示している。

リンク「西蓮寺掲示板のことば」2023年2月のことば

2023年2月 2日 (木)

何も回収していない話

最近、「伏線の回収」という言葉をよく耳にするようになった。
ドラマやマンガや小説などで、後の展開のために、あらかじめ忍ばせておいたストーリー・事柄・キャラクターやその性格などを「伏線」という。話が進展したとき、かつて隠し味のように仕込んでおいたネタが開花し、「伏線が回収された」と感動を呼ぶ。
見ている(読んでいる)者は、伏線の回収具合によって、見ごたえのあるドラマだ、すごいマンガだ、意表を突かれた小説だなどと評価する。
最近では、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の複線回収具合が凄すぎて、多くの視聴者(もしかしたら出演者も)が感動した。三谷幸喜さんは、そもそも伏線の張り方とその回収が上手い(その最たる作品「笑の大学」が、内野聖陽さんと瀬戸康史さんで再演される! とても楽しみだ)。
さて、「伏線の回収」という言葉をよく耳にするようになったのは、ドラマやマンガや小説などを評価するときに付いて回る言葉となったからだ。きちんと伏線が回収されたり意外な伏線の回収があったりすれば、評価も上がる。それはそれでわかるし、それを考える、作る人は凄いなぁと感嘆・感動・感謝すらする。でも、だからといって伏線が回収されないもの、伏線(と思われる事柄)が放っておかれるものは作品として評価が落ちるものだろうか。
考えてもみれば、作者は「これは、後の為の伏線ですよ」なんて書き添えながら作品を発表しているわけではないのだから、こっちが勝手に「伏線だ」と決め込んでいるだけのこと。ストーリーが進んでいくうちに、「あ、ここでつながってたんだ!」「う、そういうことだったの!」「え、ここで出てくるの!」なんて思いがけない驚きが出てくるから、隠れていた伏線が伏線としてあらわになる。
その驚きを、結果的に味合わせてもらえる喜びが創作物なのに、始めから期待されていては、「伏線」でも「伏線の回収」でもないような気がする。
そもそも、人生なんて回収されない「伏線」だらけ! どうしてそんなに「伏線の回収」を求めるの‼と、ふと思ったのです。伏線が回収されない人の世を生きているからこそ、創作の世界にそれを求める!と言われれば、それもそうなのですけど。

2023年2月 1日 (水)

2023年2月のことば

2月です。年末年始の喧騒が嘘のように元の日常を過ごしています。年末年始は、どうしてああも慌ただしいのでしょう。って、そうしているのは自分なのですが。さて、“元の日常”といっても、何が“元”なのかわかりませんが、いろいろなものに追われながら過ごしています。そう考えると、年末年始に限った話でもなく、慌ただしい日々を生きているのですね。南無阿弥陀仏

 🍓 🍓 🍓

2023年2月のことば
(寺報版はこちら)(YouTube法話はこちらPxl_20230201_014054151

有情(うじょう)の邪見(じゃけん)熾盛(しじょう)にて
叢林棘刺(そうりんこくし)のごとくなり
            親鸞聖人「正像末和讃」より

恩師
昨年10月、大谷大学在学時のゼミ担任であった江上浄信先生が浄土に還られました。
江上先生は、住職(父)在学時は寮監を勤められ、私の在学時には教授として教鞭に立っていました。親子二代に亘り、お世話になりました。先生、ありがとうございます。
決して名の知れた先生ではありませんでした。「白山さんは、大谷大学ではどなたのゼミだったのですか?」と尋ねられ、「江上浄信先生です」と答えても、先生のことを知る人はほとんどいませんでした。とはいえ、私は先生の元で学べたことを誇りに思っています。
高名な先生の大人数のゼミよりも、少人数のゼミで静かに学びたい気持ちがあり、江上ゼミの門を叩きました。ゼミ生どうし顔と名前がわかる環境下で、親鸞聖人の教えに学びました。

再会
世の中にFacebookなるツールが広まった際、江上ゼミの同期3人が結びつきました。ネットで会話を重ねるうちに、「先生のお寺に行こう!」という話になり、福岡県にある先生のお寺にお邪魔しました。先生と教え子3人、一泊二日の日程で懐かしい時間を過ごしました。2013年6月の話です。大学卒業から20年ほどの月日が経っていました。
以来、手紙のやり取りは重ねていましたが、直接お会いしたのは、そのときが最後となりました。

叢林(そうりん)
先生がお亡くなりになり、ご子息よりお手紙をいただきました。先生の法名は「叢林院釋浄信」。先生は生前、親鸞聖人の「正像末和讃」にある「叢林」という字を使ってほしいと願われていたそうです。
「叢林」とは、「荒れ果てた林」を意味します。先生には、「こんなに心の荒んだ自分にも、木々に鳥が集まるように、寄り添ってくださる方々が居られる」という想いがあったとのことです。
お手紙を読み、2013年に再会した時の、先生の嬉しそうな顔を思い出しました。

正像末和讃
さて、先生が自身の姿を重ねられた「叢林」ということばは、親鸞聖人の「正像末和讃」に次のように出てきます。

(うじょう)の邪見(じゃけん)熾盛(しじょう)にて
 叢(そうりんこくし)のごとくなり
 念仏の信者を疑謗(ぎほう)して
 破(はえしんどく)さかりなり
          親鸞聖人「正像末和讃」

(試訳)
人間の邪(よこしま)な思想見解は、燃えあがる炎のように盛んで、まるで生い茂った棘(いばら)や枳殻(からたち)のようである。
煩悩燃え盛る性分は、念仏の教えを信じる者を疑い謗る。そして、破り、滅ぼし、怒りでもって念仏申す者を苦しめる。

 

全文を掲示すると「叢林」の味わいが薄れてしまうように感じ、先の2行のみ掲示しました。
人間の邪な物の考え方は、トゲトゲした樹木のようである。そのトゲは、触る者だけでなく、実は自身をも傷つけている。

「念仏の教えを信じない者が、信じる者を誹謗中傷して傷つける」と読めますが、「念仏の教えを信じている者自身も、念仏を疑い、信じ切ることができない」と吐露しているようにも受け取れます。
そのような邪な身である私にまでも、阿弥陀の慈悲の光明は届いていると、聖人は教えているかのようです。

『歎異抄(たんにしょう)』第二条
大学のゼミでは『歎異抄』を手掛かりとして、親鸞聖人の思想・教学を学びました。江上ゼミで特徴的だったのは、他のゼミは『歎異抄』の師訓編(第一条~第十条)の講義がサクサクと進むなか、三回生の一ヵ年をかけて『歎異抄』第二条の学びに費やしたことです。

『歎異抄』第二条より
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。

(試訳)
私親鸞においては、「南無阿弥陀仏」と念仏申して、阿弥陀如来にたすけられると、よきひと法然上人の教えをいただき、ただ信じるほかに、念仏を申す道理や理由などありません。


人間は、誰もが皆、邪な心を持っています。トゲトゲを無くして、阿弥陀に救われるに相応しい者となりましょう!というのではありません。教えを聞くことをとおして、自分にトゲある身であることを知り、トゲある身であるからこそ、阿弥陀の救いの対象であることを感じ得ます。教えをいただき、念仏申してきた人びとの姿を信じ、私もまた念仏申す身となる。「叢林」なる江上先生もまた、私に念仏を伝えてくださったよきひとです。
南無阿弥陀仏

 🍓 🍓 🍓

掲示板の人形
今月の人形は、クマのぬいぐるみです。
京都駅新幹線乗り場の構内で買いました。
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